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【No.1129 Res.4】 蟇の血と大正期の日本におけるSM小説 1 鈴木♂ すっかり秋の長雨シーズンに入ってしまい週間天気予報にも雪ダルマのマークが 見えるようになった晩秋の新潟県内なのですが、このサイトを御覧の皆様方も 如何お過ごしの事でしょうか?。
鈴木♂は今週の始めから風邪を引いてしまい寒気やクシャミ、鼻水が止まらず、頭が ぼ〜っとしてしまってなかなか大変でした (ー_ー;)。 今はもうかなり良くなったのですがこれから寒くなるシーズンなので、このサイトを御覧の 皆様方もどうか御自愛下さい。
2 鈴木♂ 前回にもちょっと書きましたが今秋から月刊コミックビームでマンガ版の連載が始まった 田中貢太郎の「蟇の血(がまのち)」なのですが、鈴木♂が青空文庫でこれを初めて読んだ ときの感想は、これって一種のSM小説じゃないのか?という事でした。
青空文庫 蟇の血 田中貢太郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000154/files/1615_7919.html (PC)
調べてみるとこの小説が載っている田中貢太郎の怪談小説集「黒雨集」が大阪毎日新聞社から 刊行されたのが関東大震災直後の大正12年(1923年)の事であって、人間の心理には 加虐性向=サディズム、被虐性向=マゾヒズムがあると発見&分類したクラフト=エビング男爵の 「変態性欲ノ心理」日本語版が出版されたのが大正2年(1913年)9月の事です。 そして谷崎潤一郎がマゾヒズム小説「饒太郎」を出したのが大正3年(1914年)の事ですから 「蟇の血」が出た大正12年頃にはもうSMというものの概念が日本でも普通にあったという事 なんじゃないのかなと思います。
3 鈴木♂ 尤も自分はやがて五十に手のとどく年で、女の方はまだ十八、親子ほども年が違う上に、 商売が宗匠ですから若い弟子たちも毎日出這入りする。お葉が浮わついた奴で誰にも彼にも 色目をつかうのですから、どうもこれは円く行かないわけです。といって、お葉は暇を取って 立ち去るでもなく、やはり其月の妾のような形で全二年も腰をすえているうちに、其月の焼餅が だんだん激しくなって来て、時によると随分手あらい折檻をすることもある。
ひどい時には女を素っ裸にして、麻縄で手足を引っくくって、女中部屋に半日くらい転がして 置いたこともあるそうです。しかし近所の手前もあるので、そんな折檻も至極静かにする。 女の方もどんな目に逢っても、決して声をたてるようなことはなく、不思議に歯を食いしばって 我慢をしていたそうです。それで主人の方でも逐い出さず、女の方でも逃げ出さず、不断は ひどく睦まじく暮らしていたと云います。
青空文庫 半七捕物帳 冬の金魚 岡本綺堂 からの抜粋
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1297_15013.html (PC)
これは岡本綺堂の半七捕物帳・冬の金魚なのですがこれが書かれたのが大正13年(1924年) の事ですから、やはりこれを見ても当時の日本には既にSMというものの概念があったという 事みたいです。 そしてそれはこれと同じ大正13年(1924年)に出された江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」では 非常にはっきりと書かれています。
青空文庫 D坂の殺人事件 江戸川乱歩
http://www.aozora.gr.jp/cards/001779/files/56650_58209.html (PC)
4 鈴木♂ 田中貢太郎や岡本綺堂は大正期に敢えてぼんやりとSMというのものを書きましたが、 谷崎潤一郎や江戸川乱歩はそれをはっきりと書いたという事ですね。 そしてクラフト=エビングの「変態性欲ノ心理」日本語版が発売されて以来、大正期の 小説家の一部には変態ブームが起こってしまい谷崎潤一郎がそれの最先端だったみたいです。
既に谷崎は中学の頃にクラフト・エビングを読んでいたというのです。(しかも、おそらく 原書で!)そのような話が「饒太郎」という作品に書かれています。 おそらくこの主人公は谷崎自身のことでしょう。 大学生である主人公饒太郎はクラフト・エビングの本を読んで、自分と同じマゾヒズムの 煩悩にとらわれた多くの天才者のあることを知り、自分がマゾヒズムの芸術家として 立つより他ないと決意するのです。
谷崎潤一郎と映画の関係と「変態ブーム」
http://www.tanizaki-sakuhin.info/cinema/ (PC)
「変態性欲ノ心理」(Psychopathia Sexualis)って原書は初版だけがドイツ語で 二版以降はラテン語で出版されてますから中学生の谷崎が読めたのかどうか分かりませんが 谷崎がこの本に強い影響を受けていたのは確かな事みたいです。 なお何で初版がドイツ語でそれ以降はラテン語だったのかというと初版が出版されたときに 一般人がエロ本代わりにこの本を買ってしまうので二版以降はラテン語で出版された という訳ですね (ー_ー;) 。
5 鈴木♂ 日本では書店で売られる雑誌にSM小説を書いたというだけで悪くすると逮捕されるという時代が 昭和30年代くらいまで続き、戦前は勿論の事もっと厳しかったのでSMとか変態性欲の事を はっきりとは書けませんでしたが、上記にも書いた通り大正期にはSMというものの概念が 既に日本にもあったという事みたいです。
岡本綺堂はどうか分かりませんが田中貢太郎は伊藤晴雨とも交際があったみたいです。 しかし画家であり舞台美術家&舞台評論家でもあった伊藤晴雨の事を同時代の岡本綺堂が 知らないはずもなく、どこかで交際があったのかもしれませんね。
なお半七捕物帳には同性愛者の事もたまに書かれていて毒婦大阪屋花鳥なんて女性同性愛者 であって、捕まった牢屋内でも倒錯的な同性愛行為をしていたとはっきり書いてあります。 半七捕物帳でひたすら江戸時代というものを再現しようとしていたと思っていた岡本綺堂 なのですが、大正期の時代の流れにもちょっとだけ沿っていたのかもしれません。
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