1 ヤスシ

三国時代の文化・文学

三国時代から約2000年。乱世の世にあって沢山の文化、文学が生まれました。
曹操の残した詩や屯田制などは知っておりますが、まだまだあると思います。
今に伝え聞く事のできる三国時代の生んだ功績を教えて下さい。
(W11H/au)
2 天草
私もこの手の話題はあまり書けないんですが…

建安七子に代表される、建安文学ですかね?
どんな文学なのかは…調べてみます。
(PC)
3
後漢の文学の主流は賦にあって詩にはなかった。後漢の賦は司馬相如・楊雄によって完成された前漢の賦(辞賦)の継承で両者に内容形式に変化は認められない。

しかし建安時代にとって賦より重視すべき前代の文学遺産が定型的な五言詩と非定型的な楽府の二つの様式である。五言詩では「古詩十九首」楽府では曹操の「カイロ行」「コウ里行」が有名であるが、この時代の作品はさまざまな試みをなされ四言や六言も作られている七言は、曹ヒが開祖と言われる

建安時代き対する評語もしくは形容としては「(小康)慨」「風骨」「気骨」
(F900i/FOMA)
4 天草
C殿>初めまして!また、凄い知識をお持ちのようで。。。改めてヨロシクお願いします!

曹丕と曹植の文学的評価はどうなのでしょうか?両者とも評価できるものだと思いますが…。
(PC)
5
月並ではありますが

曹植は、いうまでもなく建安の代表であり魏晋南北朝を通し第一人者の名を欲しいままにしていする。後年、謝霊運は「天下の才を一石とすると陳王(曹植)は、その八斗を占める」と評した


曹ヒは、詩では曹植に及ばないものの文にひいで「典論」という文学論を著している。そこから、むしろ評論家として優れていたといえるでしょう
(F900i/FOMA)
6 大伴
魏の三曹は、それぞれ作風が違いますよ。私がイメージするところは、


曹操→常に若々しい、軍人的、気概がある、素朴

曹丕→実験的

曹植→技巧的、哀切、悲哀


というところでしょうか。特に曹植の詩の一節、「一将巧為万骨枯」などは、世の無常を表現する為に、今でも良く使われますね。

この頃の詩は未だ、四言詩が主流だった様です(曹操の詩は基本的に四言)。曹丕の仕事は、奇数言(五言と七言)の詩を、形式として確立させた、という事にある様ですね。
(F2102V/FOMA)
7 ヤスシ
曹操、曹植は、李白、杜甫が出現するまで詩聖とまで言われていたと聞きますからね。
読んだ事はありませんが…(自爆)
(W11H/au)
8
曹操の詩は基本的にはストレートな表現ですよね
短歌行などがよい例だと思います

対して曹植は、壮大な表現が多いのも特徴ですね、あとメタが多いのもありますね。ただしこれらは、曹ヒが太子になったあたりからですね「野田黄雀行」が好例ですね

三国志時代の詩の本としては
「NHK漢詩紀行(三)」が価格も手頃です。
孔明の「出師の表」も入ってます
(F900i/FOMA)
9 天草
この手の話題は全く分かりませんので(汗)なかなか話題に加われませんが、やっぱり彼らは凄いんですね。
(PC)
10 大伴
曹操の詩には心打つ物がありますよ。私は好きですね。曹操の代表詩の「短歌行」、冒頭だけ書いてみましょうか(横書き。漢字は、當→当、等、常用に変換)。

対酒当歌
人生幾何
譬如朝霧
去日苦多

慨当以慷
憂思難忘
何以解憂
唯有杜康

……
(大伴意訳:酒の前では歌おう。人生は幾年あるのか。譬えるならば朝霧の様だ。去ぎし日には苦しみが多い。それを考えれば憤る。憂う思いは忘れ難く、何を以て憂いを解くべきか。唯飲酒が有るだけだ。)
この後、才能のある若者を欲する気持ちや、「月明星稀」と、月(強力な人)が輝き星(群雄)が勢いを無くす様を描きます。

皆さんにも是非読んで欲しいですね。漢詩が読めなくても感動的です。5〜8句の韻は我々にも解り易いですね。
(F2102V/FOMA)
11
訳は、本に寄って多少違うんですよね。
人生幾何の部分でも人生は短いだけの訳本もありますしね
自分の好きな訳の訳本を探すのもまた趣ありますよね

わたしのお勧めは曹植の「白馬篇」ですね張遼をうたったとも言われていますし曹彰をうたったとも言います

ちなみに、蒼天航路32巻の曹植が壁に詩を書いてるシーンで間違いがあるの知ってました?
あとで補足したようなコマもありましたが
(F900i/FOMA)
12 大伴
私の手元にある訳では「人生幾何ぞ」は、「人の寿命は一体どれほどあるのだ」とスタンダードな訳となっていますね。

確かに「白馬篇」は人の武勇を題材にした五言詩ですから、ここに来る人には好まれるかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
13 赤龍
私も曹操の詩は好きです。技巧とかわからなくても、スケールの大きさが伝わってきます。あの曹操が書いたのか?て思うような繊細な面も見えたり。
(J-SA05)
14
文学でいえば
この時代で忘れてはならないのが何アンですね


漢の時代を代表する論語の注釈をつけています
(F900i/FOMA)
15 大伴
最近は漢詩のエキスパートと言えばCさん、という風になってきましたね。

いろんなお勧めの詩を教えて下さいね。
(F2102V/FOMA)
16 大伴
詩作の優れる事を
「子建八斗」
と言いますが、
子建って、曹植の事だったのね……
(F2102V/FOMA)
17
確か、謝霊運(字はうろ覚えです)が、天下の才を1石とすれば曹植の才は、その八斗と言ってますから、それが元ネタなんでしょうね
(F900i/FOMA)
18 赤龍
謝霊運、南朝宋の詩人。江左第一といわれた文人です。井上祐美子さんの小説『柳絮』は東晋代の謝氏、王氏(謝安、王義之等)が扱われていて、面白いですよ。霊運も最後にちょっと出てきます。
(J-SA05)
19 大伴
天下の詩文の才すべて一石あるとすれば、そのうちの八斗を子建一人で有す

と言ったそうですね(笑)
(F2102V/FOMA)
20 大伴
関羽が馬良と碁を打ちながら矢傷の治療を受ける話は良く聞きますが、当時は現在の十九路盤では無く、十七路盤で、置石制だったようですね。
三国志では他に碁を打つエピソードってありますか?

確か碁は、少なくとも三世紀には登場していますから、後漢時代にあってもおかしくは無いですよね。
(PC)
21 赤龍
私の思い付く範囲でも、記憶力抜群の王粲が、バラバラになった碁石を盤に並べ直した話が正史にあります。『博物志』には山子道、王九真、郭凱らは囲碁が上手だったが、曹操もそれに匹敵したとあります。
(J-SA05)
22 大伴
曹操の一番の魅力は、その万能性ですね。当時の文化を語る時、その名の出ない事が珍しい。
(D505iS)
23 ストラップ
魏延は角の生えた夢を見て、これを夢判断の専門家、趙直に相談しています。趙直は他にも、蒋エンや何祗も判断しています。

これは後付けでしょうかね?それとも本当に盛んだったのかな?
(F2102V/FOMA)
24 赤龍
他にも、方技伝には、夢占いを得意とした周宣も見られますし、占いの類の一種として当時普通に存在してたと思いますよ。
(PC)
25 元歎
リアルの話で申し訳ないですが、僕は高校の芸術で書道をとっています。それで先日、鐘ヨウが書いた『薦季直表』というのを臨書していて思ったのですが、書家としての名が残っている人物って三国時代にいますか? 文化とか全然ダメで…f^_^;スレとは少しずれるかもしれませんが、誰か教えてくださいm(__)m

ちなみに、『薦季直表』は、最後に書かれている官職名が史書の記述と異なり、偽作の疑いもあるようです。しかし、書としては優れた作品として認められている…とかなんとか書いてあったような(うろ覚え)。
(PC)
26 元歎
>>>156-14>>>156-20でも話が出てたんですね(汗) でも、鐘ヨウの作品ってこれだけなんでしょうか…?
(PC)
27 ストラップ
唐の時代の兵書だったと記憶していますが、トンコウ残巻占雲記書の存在からも、兵陰陽に類するものは三国志の時代にも普通にありそうですね(後付けというのは又別の意味だったのですが)。

さて、話はかわりますが(本題の質問です)、当時の楽器はどの様なものがあったのでしょう? 我々が古い中国の楽器としてたまに耳にする「筑」などはこの時代でしょうか?
単刀付会の際、魯粛が楽団に「羽」の音を演奏させなかった為関羽が怒ったとか、平話にはありましたが、そのオーケストラはどんな編成だったのでしょうかね。
(F2102V/FOMA)
28 巫俊(ふしゅん)
>>27
「筑」は『後漢書』礼儀志、大葬に「筑一つ」とありますね。
(PC)
29 黒耀竜
 漢代の楽器について『漢代の文物』によれば、打楽器が鐘・鉦・鼓・磬など13種類、弦楽器が瑟・琴・筑・枇と杷など9種類(枇杷をひとつとして8種類)、管楽器が羌笛・簫・塤(土笛・オカリナ)など15種類も挙げられています。ほかにも楽器と言うより雑技の道具として、蹋鼓(足踏みの太鼓)があります。

 演奏の形式には合奏(歌唱も含む)と独奏があり、多くは4〜5人の奏者が席に座って演奏していますが、鐘・鉦・鼓・磬などは場所をとるので離れたところにひとりで演奏しています。また、歌手や簫の奏者はグループを構成しており、楽団の中での比率は高かったようです。すべての楽器がいちどに使われるのではなく、演目によって組み合わせを変えていたと考えられています。

 画像に残る奏者は男性ばかりで歌手は女性のようですが、「中腰の姿勢で腿に琴を立てかけ、身体を揺らしながら演奏する女性」の画像・「縦笛を吹く女性」の陶傭も発見されており、楊阜伝に(曹洪のからみで)鼓を打つ女性が出てきますので、女性の奏者も意外に多かったようです。さらに余談ですが、楽団には酒も振舞われていたようです。

 参考文献は『漢代の文物』・『中国古代の生活史』です。あとは方技伝のトキ(違)の逸話などで見当をつけました。
 文字化けがないことを祈っております。
(PC)
30 巫俊(ふしゅん)
ところで、私が「筑一つ」とだけ言って、黒耀竜さんに詳しい解説をして頂くこの感じ、なんか凄いデジャブを感じるんです(^^;

よくあるパターンとかそういうことじゃなくて、私が昔も「筑一つ」と答えていてそれを自分自身忘れているという気分がしてきます。
(PC)
31 ストラップ
資料提示してもらいましたし、自分であとは調べてみます。
お二人ともありがとうございました。

>>27
トンコウに残ってた兵書の名は「占雲気書」の誤りです。すいませんでした。
(F2102V/FOMA)
32 皇澪桜
お久しぶりです。覚えてらっしゃる方いますでしょうか…(汗)勉強不足を恥じROMってました。
先日ふと疑問に感じた事があるのですが、当時(後漢)は儒教がかなり浸透してましたよね?
曹魏は儒教に対して批判的だったような感じがしますが蜀呉はどうだったのでしょうか?
ご教授の程宜しくお願い致しますm(__)m
(W52CA/au)
33 清龍
最高の時代や!!!!!
(PC)
34 ストラップ
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で「縹」の項目を見た際、

>後漢時代の辞典によると「縹」は「漂」(薄青色)と同義であるとある。

と書かれていたのですが、「後漢時代の辞典」というのは何でしょうか? 心当たりの有る方はありますか?
単純に、「後漢時代の(事柄を解説した、現代に発行された)辞典」という意味なのでしょうか?
(PC)
35 Barbal
 wikiの辞典が何を指しているかはわかりませんが、『釋名』に「釋綵帛: 縹,猶漂漂,淺青色也」と書いてあるようです。おそらくこれのことかと思います。
(PC)
36 ストラップ
>>35
ありがとうございました。
(PC)