1 天草

【米】張 魯【米】

久々にスレ立ててみよう!

五斗米道の首謀者・張魯に関する文献を調べてました。一説には仏教の走りと言われたり、黄布賊の発祥もこれだとかいう説もあり…しかもこの宗教を立ち上げたのは彼ではなく父親だとか…。

さぁ、皆さんはこの人物をどう評価しますか?
(PC)
2 くわぁまん
アホだーら教の教祖…
(SH900i/FOMA)
3 ストラップ
通説では張天師は、

初代(開祖);張陵(張道陵)
二代目;張衝
三代目;張魯
四代目;張盛(魯の三男)

と続いています。
尚六十三代目の張恩薄は、国民党と共産党の内戦の際、台湾に逃れております(共産党は信仰を認めない為)。
(F2102V/FOMA)
4 天草
張魯は三代目だったのか!?しかも63代って…(汗)もしかしたらまだ続いてたりして。。。

しかし、光栄系三国志ゲームの中の張魯はなぜか良いパラをしてますよね。魅力が高いのは理解できるとしても、知力なんかが結構高かったり、妙な特殊能力を持ってたり(笑)
(PC)
5 独眼龍李克用
ゲームでパラが高いのは、長年信徒を統率していたことと、曹操に降伏するときの対処の仕方が評価されたんでしょう。

そういえば、五斗米道に入信するには五斗の米納めなければいけないといいますが、実際は違うんでしょうかね?貧民が、五斗の米持っていけないと思うんですが…
(P900i/FOMA)
6 天草
単位に疎い私は一斗がどれくらいの量なのか分かりません(汗)
誰か教えて!!
(PC)
7 ストラップ
2リットル無い位です。

五斗≒9リットル

というところでしょうか。
(F2102V/FOMA)
8 天草
9リットルくらいなら、まだ大丈夫ですね。
いくら不作でもそれくらいはいけるでしょう。
しかし、五斗を毎年?それとも一回だけ?
(PC)
9 独眼龍李克用
どうなんでしょうかね〜?五斗の米は最初だけだと思いますが。ただ、税に準ずるものがあったんじゃないかな。他の所より徴収がやさしかっただけで、信者からいくらかは糧食を取り立てていたと思います。

辞書を見たら五斗米について書いてあったんですが、ごくわずかな給料とか禄という意味だそうです。もしかしたら、少しでもいいから米を納めるということなのかもしれませんね。
(P900i/FOMA)
10 大伴
現在のこの宗教の名は「正一教」。老子思想を受け継ぐ、宗教結社です。

魯の時代に国家と呼べる組織を一度作り、そして滅びました。そして四代目の盛が、江西省貴渓県にて復興させ、今日迄続くのです。
(F2102V/FOMA)
11 天草
やっぱりまだやってたのか?(汗)

今朝、張魯を含めた数人の武将を辞典にアップしましたが(更新状況参照)張魯の弟の張衛って、なかなかの武将だったみたいですよ。エンホといい、彼らって…。
(PC)
12 ユウキ
張衛ってなかなかだったんですか知らなかったですでも張衛って降伏に反対して陽平関で抵抗したんですよねでも結局戦わないで降伏したらしいですよね夜に鹿千頭が陣で暴れ回ったり突然敵軍と遭遇してびびって降伏したって読んだような間違ってたらすいません
(P900i/FOMA)
13 くわまん
張魯配下の将軍は楊氏の者がほとんどだけどなんでだろぅ?
(SH900i/FOMA)
14 天草
ユウキ殿>大鹿の大群に関しては、少し調べて、結局辞典の方には載せませんでした。それには理由があるんです。

大鹿の群れが現れ(数千頭)張衛軍は胆を冷やしたとあるのは、張魯伝だけで、武帝記などでは、そのような記述が一切ありません。それどころか、先鋒の高スを伏兵として山中に潜ませた…と書かれています。しかし実際に彼らが道に迷って敵を壊滅させたと言うのは、後に董昭らが書いた上奏文にこのことが記されてる為です。
そこで『孫氏』では大鹿の群れ自体は山中に潜んだ、伏兵に驚いて出現した。曹操軍の先鋒が迷い込んだのは事実だ、と解釈しています。私もこの説を取り入れ、あえて偶然に過ぎない大鹿の大軍は説明文の入れませんでした。

くわぁまん殿>確かにそうですね。一族そろって入信した地元の豪族か名士じゃないかな?中には同一人物では…?というような、武将もいるみたいです。
(PC)
15 ユウキ
そうなんですか天草さんは凄いっすね伝によって違うんですね
(P900i/FOMA)
16 たかひろ
今でも漢中では米が振る舞われます。
(F2102V/FOMA)
17 エミ
張魯は良いイメージを持っていました。というのも五斗米道は、反朝廷を掲げ、ただ暴れたい者も引き入れ膨れ上がった太平道と違い、貧民の病気を無料で看る、畑仕事を手伝う等の奉仕活動を代々行ってきて、漢中に勢力を伸ばした宗教だから。三代目張魯は、群雄割拠の時代に一時期野心を夢見たが、漢中を曹操に掌握されて後、鎮南将軍に任ぜられてからは、再び奉仕活動に精を出し、四代目にも野心を持たぬよう諭したそうです。奉仕に対し、五斗の米(県令の年棒)を払えぬ者には、後に他の人に奉仕で返すように言った(ボランティア)。
(D503iS)
18 エミ
しかしこれらを何で読んだか思い出せません(-_-;)だから、怪しい記憶です。間違っていたらごめんなさい。それから、1.8リットルは一升で、一斗は18リットルだそうです。五斗→一年で考えると薄給ですね。確か劉備も一時期県令だったような…?
(D503iS)
19 くわぁまん
えー、ゴホン…、僭越ながら、単位について。


周〜前漢
斗=1.94g
新・後漢
斗=1.981g

斗=2.023g

です。o(^-^)o

ちなみに…

斤は、
周〜全漢
256c
新・後漢
222.73c

222.73c

…です。つまり関羽の長刀は魏の単位で言いますと、82斤=18263.86cという事です。
(SH900i/FOMA)
20 ストラップ
そうだった。恥ずかしい。

四斗樽とかって使いますものね(汗)
(F2102V/FOMA)
21 くわぁまん
連スレごめん…

五斗は訳10gだあねぇー

また、丈の単位も、 周〜前漢
2.25b
新・後漢
2.304b

2.412b、という事で張飛の1丈8尺の蛇鉾は…魏の単位で計算すると…?へへへへ…434.16a
げ…!?長すぎ
(SH900i/FOMA)
22 独眼龍李克用
おお〜、私も調べたのにくわぁまんさんに持っていかれたぁ〜(T_T)
なので、ついでに言うと、一斗が約18リットルなのは日本です。

後、五斗米には県令の俸給という意味もあります。少ない給料という意味で、五斗米という言葉が用いられたのかもしれません。
こっちは曖昧な知識ですけどね/(-_-)ボリボリ
(P900i/FOMA)
23 ストラップ
では、あってたのかな?
(F2102V/FOMA)
24 エミ
ごめんなさい、日本と違うんですか。それでは10リットル…えー、少ないですね! きっと当時は、米の価値が今よりも高かったんでしょうね、年給と考えると…。小説に、太守や司隷校尉は二千石と書いてあります。これはどれくらいになるのでしょうか? ルビはセキとあります。これもコクと違うのでしょうか? コクは十斗らしいですが…
(D503iS)
25 天草
張魯は確かに宗教家として、良い人物だったんでしょうね。降伏の仕方が綺麗だったので、後にそういう評価になったのかな?エンホ様様ですな。
(PC)
26 くわぁまん
1石は10斗ですよ。
昔の単位を調べると一つ穴が出てきました。赤兎馬は一日千里を走る馬と伝説になってますが、当時の一里は400b強ですから…

千里とすれば400`ちょっとかな?

距離的に言うとどうなんだろう…
(SH900i/FOMA)
27
馬の話なので参加。

無理でしょう!イイトコ100キロくらいかな?カラ馬で。
(W11K/au)
28 くわぁまん
フルマラソン、42.195`は約1時間30分で完走ですから、その十倍、13時間か…。

馬なら可能じゃないかなぁ…?
(SH900i/FOMA)
29 しす
>くわぁまん殿
そりゃ無茶ですよ。
車で公道を時速60キロで走って7時間ですよ。
一流レベルの競輪選手がトップスピードで6時間。
F1だと予選+本戦の距離を上回る。
と例えがかなり解りにくいけど
無茶ですよ。
って言うか計算間違ってまっせ。
フルマラソンは1時間じゃなくて2時間半、その10倍だから25時間ですよ。
(PC)
30 くわぁまん
カッカッカッ…。

ごめ〜ん。間違ったと?
(SH900i/FOMA)
31 天草
パソコン使用不可だから、調べられないけど(汗)確か、馬超絡みで張魯ってひどいことしてなかったかな?
ふと思い出したんですが…。
(N900i/FOMA)
32 エロハシ
自分家にリンク貼っててもめったに来ないという体たらく(´Д`)シンダガエエナ…。

張魯は、劉焉配下時代に張脩(?)を殺して独立したみたいな感じだったんで、あんま好きじゃないですね(-_-;)
ちなみに正一教は現在64代目みたいですよ♪
(P900i/FOMA)
33 通行人A
もしかして、ストラップ氏と大伴さんは同一人物ですか?


六十四代目は、張源先ですね。
(F2102V/FOMA)
34 天草
おぉ!!

通行人A殿!良い所に気が付きましたね!知る人ぞ知るストラップ殿と大伴殿は…(笑)
(PC)
35 大伴
>>33
良いところに気づきましたね(笑)
>>25
南鄭からの退却の際、倉庫の宝物(文化財)を焼却しなかった為、曹操が使者を送って称えたというエピソードですね。

今知ったのですが、陰陽師の石田千尋(tvでお馴染みの拝み屋。悪霊に浸かれた振りをするエキストラなど、真剣そのもの。かなり笑えて私は大好きです)は、五斗米道の流れらしいですよ!
(PC)
36 漢森
ちょっと話は戻りますが


伝統的に中国官僚の給与は無し、あっても雀の涙程度だったそうです
もっとも、税制、刑法上の免責特権があって、立場を利用しての横領や賄賂による蓄財は、ある程度までは合法だったみたいですね
(P900i/FOMA)
37 天草
あげ
(N900i/FOMA)
38 ストラップ
注に引く「典略」中の熹平年間に起こった妖術を使う賊の一人で有る、関中の張脩とは、一体何者なんでしょうか?
裴松之が「『典略』が誤っているのでなければ、伝写された際のまちがいであろう」と言う様に、やはり二代目である衡の書き間違いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
39 ストラップ
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50202663.html
を見て思い出したのですが、
「後漢書劉焉袁術呂布列伝第六十五」

「沛人張魯、母有恣色、兼挾鬼道、往来焉家」

「劉焉のお家を往来した」
は、張魯の母と劉焉が特殊関係人の間柄であったという意味ですよね?「恣色」は「色事をほしいままにした」という意味でしょうから。
(PC)
40 赤龍
『三国志集解』に引用される『後漢書』の該当箇所は「恣色」ではなく「姿色」と書かれています。どちらも形が似ており、どちらかが誤写の可能性が考えられます。
版本の問題までは私には判別できませんが、「有姿色」だと「美人だった」くらいの意味であり、『三国志』の「有少容」つまり「ずっと若々しい姿をしていた」に近い意味になるので、私は「姿色」の方が妥当なんじゃないかなあ、とさしたる根拠もなく思ってます。
(PC)
41 ストラップ
>>40
「蜀書 劉二牧伝第一」ですね。確かに「有少容」とありますね。我々が言うところの「姥桜」の様なものでしょうか。

勘違いして「魏書 二公孫陶四張伝第八」見てて思ったのですが、やはり>>38の張脩気になりますね。
(PC)
42 ストラップ
「後漢書 霊帝紀」で李賢が
「劉艾紀曰「時巴郡巫人張脩療病、愈者雇以米五斗、号為「五斗米師」」」
と引いてる「劉艾紀」は、「献帝記」「隋志」の「劉芳」について書かれた書物でしょうか?
詳しい方ありますか?
(PC)
43 赤龍
張脩の件はほんと謎ですよね。
私もよくわかんないんで、ブログのほうでもわざと詳しくは触れずにごまかしました(笑)
裴松之の張脩=張衡という説はあまり支持されてないようです。私もちょっと無理があると思います。それに、もし裴松之説を採ると、張魯は父親を殺して五斗米道をのっとったことになりますよね。そんなことする必要があったのでしょうか?
(PC)
44 赤龍
私も、やはり張衡と張脩は別人だと思います。ただ、そうすると「五斗米道」の創始者は張脩であり、張魯はそれをのっとったということになりますよね。
裴松之はここが納得いかなかったから張脩=張衡の誤写としたのでしょう。
しかし、私は考えられないことでは無いと思います。
例えば、張陵以来の教えが二派にわかれ、教団の組織的なものを作り出し反乱を起こしたのが張脩の一派。それを正統を自負する張魯がのっとって一つにまとめたとか。
または、張脩は黄巾なんかの影響を受けて五斗米道をつくり、張魯はその組織をのっとり、それに祖父以来の自分たちの教えをのせて、おのれの教団としてしまったとか。
私もまだ色々考えてる段階なので、いい加減な仮説にすぎませんが。
(PC)
45 寿君
>>41
 陳舜臣の「秘本三国志」でも、蜀書の言葉を引用して張魯の母は少容にしてますね。
 なんかあの作品内では、劉焉が一方的に恋慕していた設定になってましたね。それを少容が五斗米道の為に利用と言う筋書きでした。
(P901iS/FOMA)
46 赤龍
>>45
あの小説だと、諸葛亮も少容を慕っており、当初は天下三分の一角にしようとまで考えてたという、裏の主人公的重要人物でしたね。
宗教と異民族に注目したとこが、あの小説の凄いとこですよね。
(PC)
47 ストラップ
>>43
僕も「魯遂襲脩殺之」の一文が気になっていました。
アマチュア三国志小説家のeiさんも、>>44と同様の意見の様で、

「あくまで推論ですが、『張脩』は張陵の子か一族、或いは弟子ではないでしょうか?
張陵より生まれ出た道術は、張衡にも、『張脩』にも受け継がれた…
『張脩』は、自分が道術を修めた際に、周りがお礼として五斗の米を差し出していた事に目をつけ、自らの教えを[五斗米道]と名付けて、民衆の教えに対する感覚的な距離を縮め、多くの信者の獲得に成功する。これが光和年間。
一方、張衡の死後に引き継いだ息子(?)張魯は、先細りする自分の勢力を気にしつつも、祖父が打ち立てた教えを地道に守っているつもりだった。」

と言われています。

僕自身は張魯の一派が張脩の結社の乗っ取り、後年遡って張道陵を始祖として、三代目の張天師としたのではないかと考えていました。
(PC)
48 巫俊
張魯の上庸のあたりへの影響力はその後の孟達と私兵数万と言われた豪族集団の関係に関わってくるらしいですね。史書には米道と上庸の関係は明示されることが無いので曲者なんですが。上庸は春秋時代の庸国で割と開発は古く潜在的な人口規模も多いはず。三国志ではただの北伐路としてしか語られないので、地域としての漢川は重要です。襄陽や南陽は上庸と他地域を結ぶ結接点でもあるのです。
(PC)
49 ストラップ
>>40
やはり僕は「往来」の2字が気になります。「美しかった」という意味で書かれていても、直後にこう続くのは、特殊関係人だった事を匂わせる為であるように思えてなりません。
(F2102V/FOMA)
50
はじめまして。美しく若々しかったので比護を受けていたぐらいの考えではないでしょうか?
独立したあたり野心家と言えるかと思います。

話は変わりますが閻圃の子孫は出世してるみたいですね、その中でも唐代の閻立本は歴代帝王図鑑と言う画集を出した有名な政治家兼画家で、歴史関係の書籍に掲載されている皇帝の肖像画はこの作品からの転載だそうです。
(W56T/au)
51 魏延
>>31
おそらく既に解決されていると思いますが、張ロが馬超に対して行った酷い仕打ちについて。
張ロがソウ操に敗れた時に彼の元にいた馬超のメカケのトウ氏と息子の馬秋はソウ操に捕らえられました。トウ氏はエンホに与えられ、馬秋は張ロに引き渡されたのですが張ロは自分の手で馬秋を殺したそうです。(三国志馬超伝の注「典略」より)
(812SH/SB)
52 萌黄
馬超って強かったらしいですね
西涼で活躍してた馬騰の息子ですよね?
あれってどうやって殺められたんでしたっけ?
(P903i/FOMA)
53 バンビ
出先なので手元に正史三国志はないので曖昧ですが、馬超は車騎将軍か何かに任命された翌年に死んでるとだけ書かれていたと記憶にあるので死因は確か書かれていなかったはずです。
多分47くらいだったかな?
なので老衰か恐らく病死ではないかと。
(W54T/au)
54 魏延
そういや張ロは馬超を都購祭酒に任じていましたね。詳しい役目はわかりませんが文字の意味からして軍事方面の役職だと思います。
(812SH/SB)