1 エミ

夏候惇

実は勉強家で陣中でも常に講師を招いていた…というのを最近知りました。彼が十代の時、恩師を侮辱した男を殺して地元に居られなくなり、曹繰の下に逃げ来たというのは、正史ではどのように書かれているのですか?
(D503iS)
2 天草
夏候惇1
夏候惇2

若い頃の事件に関しては、『カッとして…』
くらいしか記述がないと思います。

豪の人間だったのでしょうけど、ゲームのイメージとは少し違い、勉強家で質素で余分なお金があると人々に分け与えていた、とあります。
曹操はそんな彼を最前線の隊長というよりも、信頼できる側近中の側近として、誰よりも厚遇していた。そんな感じですね。

正史と演義のギャップの象徴的な人物ですよね。
(PC)
3 ユウキ
曹操は夏侯惇に魏の官爵を与えなかったが夏侯惇が無理に願ってやっと前将軍にしてもらったってのは有名な話ですよね
(P900i/FOMA)
4 天草
実はその話しは美談ではなく、曹操への反抗とも取れませんか?

漢への忠誠を貫きたかった夏侯惇は魏国を認めたくなかった…考えすぎ?
(PC)
5 ユウキ
んでも夏侯惇から願いでてるって事は魏への忠誠なんじゃないでしょうかでも色んな見方もありますよね実際軍事的才能では夏侯淵の方が上なのかな
(P900i/FOMA)
6 天草
無双ファン・演義ファンの方には申し訳なけないけど、間違いなく夏侯淵の方がはるかに上だと思われます(汗)

子供の出来も違いますよね。
(PC)
7 エミ
天草さん、ありがとうございます! では、正史でも今までイメージしていた夏候惇像とまるっきり違うわけでもないのですね。ギと漢…というよりも、特別扱いがいやだったのではないでしょうか? 曹繰のお気に入りの扱いを受けていても、あくまでも自分は曹繰の部下であることをはっきりさせたかった…ある意味反抗?
(D503iS)
8 ユウキ
んじゃ夏侯惇はショクでいう縻竺みたいな感じなんですかねでも縻竺は軍を統率した事ないか夏侯惇の子供は夏侯楙ですね
(P900i/FOMA)
9 しす
私は夏侯惇と言うと、秀吉に対する弟の秀長みたいなポジションなのかなぁ?という気がします。
特にこれといった特技があるわけでもなく。
かと言って欠陥もなく、それでいて軍中にあって欠けてはこまるような存在。
映画「七人の侍」で言えば七カ次みたいな…ってどんな例えだそれは(自爆)
(PC)
10 天草
重臣である事には間違いないし、部下にも上司にも慕われていた人物である事も事実なのでしょうね。

では、なぜ演義の夏侯惇はあそこまで人物自体に脚色されたのでしょうか?皆さんはどう思います?
(PC)
11 ユウキ
夏侯淵とのバランスを取るため片方優秀で片方イマイチってのを避けたんじゃ
(P900i/FOMA)
12 しす
まず考えられるのがイメージが先行したパターン。
隻眼の将(名誉の負傷)→陣頭指揮が多い→猛将
第二に演出上の問題。
夏侯惇と言えば曹操軍の事実上副将格。
言うなればライバルキャラの腹心が戦下手では格好がつかない。
特に彼は孔明初陣の犠牲者であるのである程度強くしなければならなかった。
「夏侯惇だったから、何とか防げた」ではダメ。
「寡兵にも関わらず、しかもあの夏侯惇を破った」ことにしないと孔明の箔がつきませんからねぇ。

という気がするんですけど、どないでしょ?
(PC)
13 天草
確かに隻眼の将というのは、キャラ的には戦国の時代にぴったりの猛将のイメージですもんね。

孔明の最初のヤラレ役という意見もなるほど!と思いました。

曹仁や曹真も良将だったのに、キャラが薄かったかな?
(PC)
14 大伴
そう言えば夏侯惇って、河積止めて堤作ったり、将兵を率いて田植えさせたりしていますよね?
なかなかに行政を行う事に向いていたのかも知れません。

戦下手の劉備の策にまで嵌まってますし(李典に助けられる)、戦争は得意という程では無かったかも知れませんね。
呂布に補給物資奪われて、韓浩に助けてもらったりもしていますし……
(F2102V/FOMA)
15 天草
大伴さん>彼ほど、脚色されている武将も珍しいですよね。

演義でも強烈な印象で書かれてるのに、やはり日本ではゲーム(コーエー)の影響が大きいのかもしれません。
(PC)
16 しす
そういえばコーエーのゲームでは最初は武力一辺倒な能力値でしたが、5辺りから急に政治力上がりましたよね。
当時正史のことよく知らなかったから、惇兄に内政やらせながらも不思議に思ってました。
(PC)
17 関羽
コーエーのゲームは徐々に徐々に能力が変化しますからね!日々見方が変わってるって証拠ですね!
(W11H/au)
18 天草
age
(PC)
19 天草
朝は懐かしくてただageただけでしたが、改めて惇兄を検証!

私も初めて正史をかじった時には彼のイメージのギャップに驚いたものです。
コーエー三国志をご存じの方なら、皆さんそうでしょう。
改めて彼はどんな武将だったと思いますか?
軍を率いる統率力はあったのでしょうか?そもそも武人だったのでしょうか?
(N900i/FOMA)
20 無問題
射抜かれた目を食らい獅子奮戦した演技のイメージが強かったので正史を知るまで猛将というイメージが強かったですね。しかし、実際彼は色々となんでもこなしてますよね。韓浩・典韋を推挙し、前のスレでどなたかがおっしゃったとおり、灌漑事業や農業にせいを出してますよね。学問もわざわざ陣中に自分の学問の師を招いて勉強してます。自分は彼は以外となんでもこなすオールラウンドプレイヤーなのではないかと思ってます。でも、なんでもこなすあまり特筆すべきてんが分かりずらくなってしまったのだと思います。本業の軍事の方も敗けが多いですもんね
(W21K/au)
21 ストラップ
>>19
実はゲームを知らぬので。
世間ではどんなイメージなのですか?ゲームが作ったイメージとの差を教えて下さい。

僕のイメージでは、キャプテンパナカが近いかなぁ……目が。
(D505iS)
22 朱家
光栄の三国志は演義のとおり関羽=惇、張飛=淵ですね。しかし最近の惇の能力はかなり下がり気味で、政治力だけ上がってます。ちなみに淵は上がり気味です。基本的に演義主体ですが、最近は正史も多く取り入れようとしてるため、能力値に無理が生じてきてる感じがします。
(A1304T/au)
23 無問題
]ではとうとう魅力が90以下になってしまいました。昔の作品に比べたら武力は凄まじく下がる一方です。その反面魅力や政治が上がってますよね
(W21K/au)
24 天草
>>23の90以下に落ちてるっていうのは魅力じゃなくて武力の間違いかな?

コーエーのゲームなら、もう正史は無視して演義だけに固執してもらいたいんですけどね。
逆に中途半端になるのがちょと…やっぱりd兄はゲームでは武勇の人でしょ?
激しくスレ違いすいません(汗)

淵と比べても、大した実績を残しているわけでもないのに、魏書の中でも最上位に名前を連ねていますよね。
あの順番に意味があるのかどうかは分かりませんが、その可能性は強いですから、同巻でも曹仁や曹コ洪と言った同族の面々よりも上ですから、当時の名声もかなり高かった事が予想できますよね。
(PC)
25 ストラップ
夏侯惇は後漢書呂布伝の注で、

魏 志 曰 : 「 夏 侯 惇 字 元 讓 , 沛 國 譙 人 . 年 二 十 四 , 就 師 學 , 人 有 辱 其 師 者 , 惇 殺 之 . 後 從 征 呂 布 , 為 流 矢 傷 左 目 . 領 陳 留 、 濟 陰 太 守 , 加 建 武 將 軍 . 太 祖 常 同 輿 載 , 特 見 親 重 , 出 入 臥 內 , 諸 將 莫 之 比 . 」
と、三国志を引用してちょっぴり出てきます。高順にやられる役で。
(PC)
26 天草
改めて考えれば…三国志演義の惇もそんなに武勇で活躍してるわけじゃないんじゃないかな?

むしろ孔明なんかのヤラレ役じゃなかった?
脚色されたのはやっぱりコーエーの影響が大なのかな?しかも日本だけっぽい?
(N900i/FOMA)
27 しす
演義でも惇兄って彼が総大将で軍を率いて…っていうシーンは例の孔明初陣のシーンくらいですね。
大抵は曹操に従って…てのが多いようです。
なので演義での彼の用兵に関しては評価は難しいかも。
ただ個人的な武勇に関しては、徐栄や袁術配下の橋ズイを斬り、高順を敗走させてますからまずまずの戦果ではないでしょうか。
でも曹豹と引き分けてんだよなぁ。
しかも孔明初陣で大黒星をつけた後は意外にも出番ほとんどないし。
(PC)
28 朱家
質問板より上げ。
(A1304T/au)
29 風隼
えーと当然ですがー徐栄や喬ズイを討ち取ったことについてなんですけど喬ズイについては演義限定なんで正史には出て来ませんさぁーらに!徐栄を討ち取ったという事は正史には書いてありません。孔明の初陣なんかは演義にしかありません。それと三國無双だと気性が少々荒くなっていますが実際は清廉潔白、私財を溜め込むことなく余った分は、まわりの人々に分け与え足りなくなったら役所に支給してもらい、治水工事←(?)続く
(SH700i/FOMA)
30 風隼
のさいには、軍の将校らを率いて自らも土木工事に参加していたそうです。あまりというかほとんど戦場には出ていません。主に本拠地や重要な都市の守りを任されていたようです。あ、ついでに目に矢が当たった事についても正史だと数行でさらりとかだづけられています。自分の目を食べたとか目を抜いたあと矢を射った曹性を討ち取ったなんてこともなかったようです。実際はただの流れ矢のようです。あと目を失ったあと→続く
(SH700i/FOMA)
31 風隼
淵との区別のために盲夏侯と呼ばれるハメになってしまい、本人はとてもその呼ばれ方を嫌い鏡を見るたびに腹を立てて地面に叩きつけていたそうです。正史での姿はとても地味ですが、人間としてとても出来ていたと思います。
(SH700i/FOMA)
32 しす
>風隼さん
はじめまして
>>27での私が書いた夏侯惇の武勇は飽くまで>>26からの流れで演義での彼の武勇を抜き出して書いただけですので、「演義しか知らぬ不心得者」と思わず仲良くしてくださいw
ちなみに土木工事の件に関しては既にこのスレでも>>14で語られていますし、他の件も人物辞典に記されていますから、今後はそういった部分も確認していただければと思います。

あ、あと絵文字の類は機種依存文字なので使用は控えてください。
よろしくお願いします。
(PC)
33 天草
ふと思ったのですが…惇に限らず、淵・曹仁・曹洪…曹操とごく近い立場にいた縁者(従兄弟など)の方達は親戚でもあり、上司(上位役職)でもある曹操の事をどう呼んでいたのでしょうか?

無双では、惇兄ぃだけは「孟徳」なんて呼んでましたがwいくら何でもそれはないですよね?
やはり立場上、いくら縁者と言えども他の将と同じ様に姓+役職などで呼んでいたのでしょうか?
(N900i/FOMA)
34 ストラップ
「奥様同伴でパーティーに出席下さい」
という招待は、当時非常識だった様ですが、曹丕の真似をして、夏侯惇もこんな企画だけは立てた様です。計吏の衛シンに「末世の俗」と反対され中止しましたが、曹丕と同じ様に、変人に憧れる様な人だったのかも知れませんね。
(PC)
35 しす
この人、呂布の部下に人質にされ、危うく殺されかけてますよね。
演義の猛将のイメージがどんどん遠ざかっていく…。
その一方で、演義の悪役のイメージも遠ざかっていくので愛おしく感じたりもしますがw
そういえば14歳の時に師匠の仇討ちをしたことも演義でのイメージに一役かっているのでしょうね。
(PC)
36
蒼天を読み返してちょっと気になったのでageます(/--)/
惇にぃはたしか演義と正史では戦歴などがまったく違う人物の一人だったような…、王双みたいに?猛将と言うよりは文官よりの人だと…、すいませんよくわかりませんが正史での活躍がなかったような気がします。でも、蒼天の惇にぃはかっこいい♪"笑
(EZ)
37
>>36
王双が文官よりって言ってるわけではないです↓
(EZ)
38 アンチョビ
初めましてアンチョビです30を読んで気になったのですがあの時代の流れ矢は隊列や陣型を組んだ弓、弩兵が一斉に矢を射ることだと思うのですが・・・
(N900i/FOMA)
39 すし
当然ですよ。それ以外に何があるって言うのですか?
(SH901iC/FOMA)
40 天草
>>36
このスレの>>2-35を読んでいただければ、大まかな彼の事は分かると思いますよ。
ただし演義やゲームなどの彼のファンはちょっとした覚悟が必要です(笑)

>>38
流れ矢に関しては、確か初心者板に赤龍サン達が素晴らしい説明をしていました。
見てみて下さい。

>>39
その発言は誰に対してのものでしょうか?
討論になっているのでしょうか?
自分がそう言われた時の事も考えて発言をお願いします。
文字だけの世界ですから、もう一度注意事項をよく確認の上、参加をお願いします。
(PC)
41 ストラップ
>>38
問題になっているのは、巻九魏書九諸夏侯曹伝第九夏侯惇伝の
「太祖自徐州還、惇従征呂布、為流矢所中」
の箇所ですね。これについては
http://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=43
の赤龍さんの書き込みを参考にされて良いと思います。

昨今、夏侯惇から猛将のイメージが損なわれようとしていますが、このエピソードは「前線にはいた」という取り方をして良いと思います。
>>1にある様に、若い頃殺人を犯し、「由是以烈気聞」と、気性が荒い事が伝わっています。
>>>142-7-10のエピソードも、程好く猛将(笑)
(PC)
42
>
>>40
天草さんどうもです(^-^ゞ私はちょっと演義よりの方なのでこのスレを見ていてショックでしたね"笑、疑問なんですがなぜそのように功績がなくても曹操に重用されていたのでしょうか???ただの幼馴染みってだけなのかな?
(EZ)
43 ストラップ
>>42
軍功ばかりが功績では無いからでしょう。

人の才を愛した曹操ですから、流石に功績の無い人を重用する筈がありません。
一因として。揺籃期から軍を支えていた夏侯惇ですから、曹操が深く信頼していたのかも知れませんね。
(PC)
44 すし
すみません。超ムカつくことがあって当たってしまいました(>_<)
(SH901iC/FOMA)
45
>>43
さすがにそうですよね"笑、戦歴以外の功績にはなにがあったのでしょうか???そこら辺正史に詳しくないので↓
(EZ)
46 ピエール
そういえば彼の息子には夏侯楙以外には聞きませんね。
淵には恵や覇とかいっぱい(すぎる)息子や子孫の名前を聞きますが・・・・
後、彼の没年はいつごろなんでしょうか?教えてくださいm(_ _)m
(W21SA/au)
47 アンチョビ
38のアンチョビですがそれだと夏侯惇の片目だけに流れ矢があたるのは不自然だと思うのですが・・・
(N900i/FOMA)
48 バイン
惇の長男が夏侯充、次男が夏侯楙ですかね…長男が自信ない(汗)多分継いだのが充なんでこの人が長男かと…。
名前はわからないんですが、子は全部で7人いますね。これは娘(いるのかな?)合わせて7人なのかな?それとも男only…?


死去は220年。曹操死後の数か月後です。
(W21T/au)
49 バイン
連カキ失礼m(_ _)m

今まで隻眼になった経緯に少しカッコイーなんて思ってましたけど、冷静に思えば顔面に矢が刺さって生きてただけでもそうとうなラッキーマンですね(笑)
(W21T/au)
50
>>47
普通に考えてみてください、戦場で一つも傷がついたことの無い将はいるのでしょうか???いくら張飛だろうと、張遼だろうと矢の一本や二本は刺さってしまうはずだと思いませんか?そりゃ猛将だって傷ぐらいいくらでもあったはず。夏候惇も目にも刺さっていたろうし、肩にも足にも刺さってしまっていたのかもしれない。目に刺さってしまえば目は見えなくなってしまうし、いちA肩に刺さったの腕に刺さったのと記述してたらどれだけ膨大な数の歴史書になってしまうか…。あまりわかりきったことは書き込まない方がよいのでは?これは私自身が常識だと思って書き込みをしていますがこのようなわかりきった書き込みでいちA文句をつけられるようなら、考えるべきだと思います。長文大変失礼いたしました。書き込みの内容に不適際があると思われます。その場合は削除をお願いします。
(EZ)
51 ピエール
バインさんありがとうございました。220年ということは曹操が亡くなってから、すぐに死んでるくらいですかね?

劉さん>>
少し言い過ぎではないでしょうかね?
それに夏侯惇だって対呂布戦の前線ですから兜も着けてりゃ防具だって着けてるでしょう。その状態で手足ならまだしも目に矢が当たるというのは確率的にそんなに高いものではないと思います。
1700年以上前の書物ですから嘘か真かもわからない。それに歴史は日々変わっていくものです。いろんな面から見て議論してくのがこのサイトの良いところじゃないですか。
ガキがでしゃばって申し訳ありませんでした(>_<)
(W21SA/au)
52 アンチョビ
私が言いたいのは敵が射った矢が一本だけ顔に飛んでくるのがありえないとおもっていることです。さらに現在でも弓道がありあれはスポーツなのに弓の強さ(張力)が17キロを超えると頭蓋骨でさえ貫通するといわれてるので戦いの弓は鎧を着ていても貫通するだろうしこの時代は医療も発達、進歩してないので流れ矢があたると考えると死はまぬがれないと思います。傷一つしたことないのは日本ですけど本田忠勝がいます。
(N900i/FOMA)
53 ストラップ
>>52
いまいち解らないのですが、夏侯惇が隻眼である事に疑問を感じてあるのかな?つまり、三国志の記述自体を。

矢が脳に達しなかった理由は、角度の問題で片付く問題だと思いますよ。
(PC)
54 バイン
その流れ矢から身を守るためにどの武将も重たい青銅や皮の鎧・兜を身に着けているのでしょう?
青銅を貫通する矢もすごいですし、戦での弓を射る距離はかなりあるので威力も落ちるのでは?
(W21T/au)
55 アンチョビ
私が気にしていたのは風隼さんの30で「実際はただの流れ矢」というところです
(N900i/FOMA)
56 削除済
57 バイン
予想ですが、

その時は曹性軍は城壁から撃っている

曹性は惇目掛けて射た↓
惇に命中!惇ピンチ!曹性は当然相手大将にダメージを与えたので、追い払うため討って出る

曹性残念返り討ち!


こんな流れなら、史書には流れ矢と書かれてもおかしくはないかと♪
(W21T/au)
58 ストラップ
>>55
>>30の内容は、>>41に書いた内容で良いと思います。>>41の参照先を見て下さい。

>>57
曹性が射たというのは後の創作ですよ。それに「流矢」にかんしては本邦の「流れ矢」とは別の言葉というのは同じ様に>>41が参照している赤龍さんの書き込みを参照下さい。
(PC)
59
>>51
どのよな将でも傷はあると>>50で説明したつもりですが?

>>52
それは現在の話しであって、昔の人間や使っていた道具はまだお粗末な物であり正確な物ではないと思われます。さらに人間は今の私達みたいに足が長く手の感覚がハッキリしている人になるまでには何千年とかかります。そりゃ力があったり今の人間に近い人もいたでしょう。ですがまずそれは少数人であって多くの人はまだ小さくアジアの人間だったはずだと思います。さらにもう1つ、スレで質問を投げ掛けるならストラップさんのように前にかかれていたことをしっかり見ることが必要だと思われます。はっきり言ってこんなことで私が退くつもりはありません。普通に考えいくら素人でも例えわからなくても前スレを見ればわかること。
>>50に続き大変失礼なことを書き込みしております。
(EZ)
60 すし
≫劉さん
肩の傷はよくあることだけど、目の傷は確率的に難しいことだからと、目の傷は外見的にもその人的にも、後の影響が大きいから書いてあるんじゃないですか?
(SH901iC/FOMA)
61
>>60
それを一生懸命説明>>42>>52>>55にしているつもりなんですが、わかってくれない人がいるんです↓私の説明不足なんですが(≧д≦)
(EZ)
62 天草
アンチョビサン》初めまして♪よろしくお願いしますm(__)m

さてまずアンチョビサンの意見ですが、私も>>53の意見同様、結局アンチョビサンが何を訴えているのかが分かりません(;^_^A
片目を失った事自体を嘘だと言われてるのか?流矢で失ったということを怪しんでいるのか?
ただ惇伝にはその事がはっきり書かれてますから、議論ならば、
「〜こういうわけで、この記述はおかしい」
という意見がないと理解しにくいですよね?

あと、劉サン。
アンチョビサンの意見を振り返ると、特に劉サンの意見に何か文句を言ってる様には見えませんが…(・・;)
まぁせっかくの討論ですから、熱くなるのは構いませんが、誰にも意見があるわけですから、まずはその意見を聞き、尊重した上で異論があるなら反論をお願いしますm(__)m

最後に…
>>56
どんな素晴らしい意見であろうとも、匿名の書き込みを許可する事はできません。
ルールは守って、悪質な書き込みと同等の処置を取らなければ、治安を守る事はできないからです。
即、私から削除させて頂きますので、ご理解をm(__)m
しかし、楽しい掲示板を求め、良くして欲しいという意見は大変ありがたく、真摯に受けとめ、今後の運営の参考にさせて頂きます♪
(N900i/FOMA)
63 天草
惇兄ぃの話題に戻しますが、彼が張魯戦の際、道に迷って敵陣の真っ只中に入り込み、慌てた敵は混乱して壊滅…って話し、聞いた事ありません?

蒼天航路にはこのエピソード、取り上げられてましたよね?
これも先日から記述を探してるんですが、見つかりません。

誰かソースの分かる方はいますか?
(N900i/FOMA)
64 赤龍
>>63
私もその話、蒼天航路読んで初めて知って、惇兄の伝を調べても無いし、ちょっと悩んだ覚えがあります(笑)
この話は、張魯伝の注に引かれる『魏名臣奏』の董昭の上奏文に見られます。
これによると、敵軍が壊滅したという報告を劉ヨウ等が夏侯惇に報告しましたが、惇はそれを信じなかったとか。予想外の戦果に惇本人もびっくりだったようですね。
(PC)
65 天草
張魯伝の注だったのか…(^_^;)
どこかで見覚えがあったのですが、モヤッとがスッキリしました(笑)

蒼天のこの場面、かなり笑えますよね?
私は名場面の一つだと思ってます♪
(W31SA/au)
66
>>62
やはり迷惑かけてしまいましたね↓失礼いたしました(≧д≦)
(EZ)
67 ストラップ
伏波将軍とは、一体どういう仕事の将軍なのですか?光武帝の時代、馬援も任命されている様ですが。
(PC)
68 元歎
ただの雑号将軍じゃないでしょうか? ただ、馬援が任命されたことがあるため、一定の権威があったとか…。魏では夏侯惇死後も、夏侯惇のことを大将軍になったにも関わらず伏波将軍と呼んでますからね…。

コピペですが、馬援の略歴です。
馬援(前14〜49)
  字は文淵。諡は忠成侯。扶風郡茂陵の人。十二歳のとき孤児となる。はじめ郡の督郵となった。罪囚を勝手に処分したため、北地に逃げて牧畜を営んだ。王莽の末年、召されて新成大尹に任ぜられた。王莽が死ぬと、隴西に難を避けていたが、隗囂に見出されて、綏徳将軍に任ぜられて仕えた。蜀の公孫述を「井の中の蛙」と喝破し、隗囂に光武帝に帰順するよう勧めた。隗囂はいちど光武帝に帰順しながら、再び叛いた。馬援は光武帝に助言して、隗囂は攻め滅ぼされた。太中大夫となり、次いで隴西太守に任ぜられた。羌族を討って、武威太守に遷った。虎賁中郎将に上り、五銖銭の復活を上奏して、施行された。伏波将軍に任ぜられ、交趾(ベトナム)の徴側・徴弐姉妹の叛乱を平定した。このため新息侯に封ぜられた。六十歳を過ぎて、武陵五渓の叛乱を平定するための従軍を志願したため、光武帝に「矍鑠たるかな、この翁」と言われた。しかし、この作戦の陣中で病没した。馬援に恨みを持っていた梁松が報告を改竄して罪に陥れたため、死後爵位を剥奪された。のち、冤は晴らされ葬られた。『銅馬相法』。
(PC)
69 ストラップ
今月号の文藝春秋で、陳登も伏波将軍になっていますね☆
(F2102V/FOMA)
70 ストラップ
「及敢執劫大将軍‥‥‥寧能以一将軍之故‥‥‥」
と、「魏書九 諸夏侯曹伝」の韓浩の科白に見られますが、「一将軍」はわかるとして、「大将軍」は夏侯惇の事なのでしょうか?ちくま訳でもそのまま「大将軍を捕らえ‥‥‥」と翻訳されていますが。
(PC)
71 赤龍
『集解』の該当箇所を見ましたが、やはり当時折衝校尉の夏侯惇を「大将軍」とよぶのはおかしい。「大」の字は誤りでないか?という意見が紹介されています。
後に大将軍になっているので、そこら辺混同されちゃったのかな?

>>67
いまさらですが、伏波将軍。初めて置かれたのは、漢の武帝の南越征伐の時、路博徳が任命された際の事のようです。かなり由緒ある将軍号のようですね。
馬援も交阯討伐の際に任ぜられているように、もともと南方(ベトナム方面)を征伐する将軍に与えられるものだったのではないかと思われます。海路を進むため「波を伏せる」という意でしょうか?
(PC)
72 ストラップ
>>71
いつもご教授、感謝します。
夏侯惇ですが、初平元年に司馬に任じられ、白馬に駐屯させ、折衝校尉にして東郡太守にしたとありますね。これがほぼ同時に行われたのかどうか、良くわからないですが(東郡太守になるのは、初平三年以降?)。
ここで疑問なのですが、やはりこの当時(初平四年)の夏侯惇は、将軍だったのでしょうか?

というのも、校尉は将軍より下位だと考えていたからです。「魏書 第七」の張バクの反乱について書かれた箇所に、陳宮を「将軍」とした記述があります。
曹操の第一の配下である夏侯惇が、陳宮より下位であったとは考えて難いですし、既に折衝校尉より昇進していたのでは……と考えてしまいます。
どうなんでしょうか?
(F2102V/FOMA)
73 赤龍
もし陳宮が、地元の有力者でエン州の統治に重要な人物とか、社会的地位が高い人物だったりしたら、政治的配慮で夏侯惇の上に置かれる可能性もあると思います。
しかし、呂布伝の原文を見ると「太祖将陳宮」とあり、将軍とは書いてありません。ほんとうに将軍位だったか疑問です。素直に「太祖配下の将」くらいに理解するべきではないかと思います。
そもそも、曹操自身が当時奮武将軍・エン州牧にすぎません。そうそう自分の部下を将軍クラスに任命できないと思います。実際主要な部下で将軍位についた人は他にもなかったと思います。夏侯惇も折衝校尉で、陳宮も将軍にはなってないとするのが妥当ではないでしょうか?
(PC)
74 ストラップ
>>73
この時夏侯惇は「東郡太守」と考えて良いのですよね?
「東郡太守」には、将軍位相当で無くてもokなのでしょうか?曹操自身、東郡太守の時は奮武将軍という将軍だった様ですが。
(PC)
75 赤龍
>>74
たしかにちくまの和訳の巻末の太守の説明に「太守はすべて将軍の名号を加える」とありますけど、後漢時代もそう断定していいのでしょうか?将軍でない太守もごろごろいるような。『後漢書』百官志にもそんなこと書いてないですし。軍事色の強い三国時代のことなんじゃないかなと思ったりもします。
そもそも、勝手に曹操が任命した太守でしょうし、校尉クラスでも問題なかったんじゃないでしょうか?
韓浩の台詞以外に、夏侯惇が将軍位についてたという記録も無く、伝を信じて折衝校尉で、後に建武将軍に任じられたとき初めて将軍職についたととる方が無難だと思います。
(PC)
76 ストラップ
そうですね。

董卓が死んだ時、後の大司馬である李カクでさえも校尉ですから、案外にも将軍というのは、そうそうなれるものではなかったのかも知れません。
官渡の戦いの際、曹操が関羽に贈ったのも将軍では無かったですよね?

我々が考える程には、将軍というのは多くはなさそうですね。
(F2102V/FOMA)
77 ストラップ
>>73-76
>>76で李カクが董卓配下時代に校尉であったと書きましたが、校尉である李カクを「将」と書いている箇所を見つけました。「後漢書 卷七十二 董卓列伝第六十二」です。

「卓遣将李カク詣堅求和、堅拒絶不受、進軍大谷((董)卓は将の李カクを遣かわし(孫)堅に詣りて和を求めしむるも、堅は拒絶して受けず、軍を大谷に進む)」
(PC)
78 天草
話を端折って申し訳ないですが、彼が片目を失っていた事は間違いないのでしょうが、ゲームに出て来る様に格好いい眼帯をしていたとは思えませんよね?

もしや、何もせずに晒していたのでしょうか?
(N900i/FOMA)
79 ストラップ
>>78
目というのは、脳との繋がりが太いですから、穴が空いていたならば、何らかの方法で隠していたと思います。又、箭は常識的に考えれば、鼻側から進入して、外に逃げる様な格好で進入したのだと思いますよ。真っ直ぐに突き立っていれば、先ず脳まで達するでしょうから。

>>>388-6
「((黄初)元年、夏四月)庚午、大将軍夏侯惇薨」
ちなみにちくま訳では「庚午」の部分に「二十五日」と括弧で入っています。
(PC)
80 天草
>>79
それは予想外の答えですね。
鼻側から進入…っていうのがちょっと想像志しづらいですけど、もしそうなら、当時の医術ですから、目だけでなく、かなり傷が残って変形していた可能性もありますね。
(PC)
81 ストラップ
>>80
書き方悪かったかなぁ。
要は斜めに刺さっただろうという事です。兜の形状によっては、左外側から顔の前に向かって……という事も考えられますが。
(F2102V/FOMA)
82 ストラップ
>>79-81
側頭葉程度の損傷ならば、あっても生きていられる様ですが、夏侯惇に(記憶が無くなる、ものが覚えられない、簡単な計算ができない、急に凶暴化する、などの)脳機能障害があった様な様子は見られませんし、矢は脳をそれたと考えるのが妥当だと思います。
(F2102V/FOMA)
83 天草
>>81-82
面白い話ですね。
目に突き刺さったという話だけでは、想像も付きませんでしたが、もしかすると目だけではなく、顔面の他の部位にも裂傷の後が残っていた可能性大という事になりますね♪
(PC)
84 崇英
蒸し返しの様で気が引けますが、探求心には勝てません。

夏侯惇が左目を負傷する際の記述を
『流矢が中った(さらに)左目を負傷した』と
読むのは無理があると云うものでしょうか?
(PC)
85 ストラップ
>>84
>>41にも引用した部分ですね。
>>25にも引用しています様に、「後漢書」の該当部分の原文は、
「後従征呂布、為流矢傷左目」
なので、流矢の為に左目を負傷した事は間違いないと思います。
又、>>>189-8にある様に、流矢はフライヤーの事ではありませんから、
「勢いの弱い矢で、目だけを傷つけた」
という可能性も極めて低いと思いますよ。
(F2102V/FOMA)
86 崇英
うぅむ、矢張りヒネクれが過ぎましたか。
流矢については、何カ所かに説明がありますね。
そのいずれもが「生易しいものではない」と云う印象を与えてくれます。

『後漢書』の記述からならば、
「真正面からの命中ではなく抉る程度の深さで擦った」
と受け取ることは可能と見受けました。
(PC)
87 ストラップ
>>63-65
丹念に見たら、博物館の人名辞典にもこれに関する記述がありますねぇ。

http://ip.tosp.co.jp/Jisyo/TosiJ100.asp?I=359ta&P=0&SPA=2&SSL=&K=&Nid=6387437&C=100&Ud=6387460&MD=
(F2102V/FOMA)
88 ストラップ
>>75
「張楽于張徐伝第十七」に
「于禁は鮑信麾下の将軍である王朗配下の都伯であった」
とあります。済北国の相である鮑信にも将軍の配下がいますから、エン州牧である曹操の配下に多少将軍がいても不思議はなさそうですがどうでしょうか?
(PC)
89 天草
4/25は夏侯惇の命日だったそうです

ソースは清岡サンのブログ『三国志ニュース』
http://cte.main.jp/news/blog.cgi?id=okakiyo&time=1145956758

ってな訳でage
(PC)
90 ストラップ
>>89
それは>>79にも一度書いていますよ。
(PC)
正史に記述がある訳では無いのですが、
私が思うに夏候惇は、
猛将だったと思います。しかし片目を失ってからは、イマイチ遠近感が
掴めず、敢えて
後方勤務に徹した。
そして不得意な分野にも、果敢にチャレンジしましたが、目立った功績は残せなかった。
実は悲運の武将ですが、彼の努力が後世、
形を変えて残ったのではないでしょうか?
(PENCK/au)
92 天草
>>91
私は逆に記述通りの弱々な惇兄ぃであって欲しいと思ってます。
あのギャップこそ、歴史と物語、民衆が語り継いできた歴史を感じますし、何より、大した成果は上げてないけど、将兵や民衆の心を掴んで大出世した惇兄ぃに魅力を感じます♪

とりあえず、図書館大伴新作記念age(笑)
(N902i/FOMA)
93 ヒロサトル
失礼ですが正史にも、
夏候惇が弱々しいとの
記述はありません。
因みに私の意見は、
夏候惇の若い頃の行状と、片目を失った頃から、前線に出ていないことを考え合わせた推論です。
(PENCK/au)
94 ストラップ
>>93

一度>>>142-7-10>>63-64を読み直してみては如何でしょうか?

あと、変な改行は読みづらいので、直した方が良い癖ですよ。
(F2102V/FOMA)
95 巫俊(ふしゅん)
>隻眼
それじゃ独眼流(伊達)正宗が..^^
(PC)
96 巫俊(ふしゅん)
夏候惇は初期のころから太守を歴任していまして、行政能力に秀でていたようです。
(PC)
97 張洋
皆様はじめまして(^^)
少し話題になっていた事ですが、眼の事で疑問が残ったので書き込みさせていただきます。
矢を受けて隻眼になったとの事ですが、まず疑問があるのはその後の状態です。
矢を射られたほどの傷ならばまず眼球を残す事はできないでしょう。(眼球に大きな傷があれば炎症・腐敗で他にも影響してしまうため。もしそのままであれば間違いなく脳に達します)
そして、眼球を摘出していたとしたら何か代わりの物(現在なら義眼)を入れておかなければ骨や筋肉が変形してしまい、かなり無惨な顔になってしまいます。
夏候敦はどうしていたのでしょうか?やはり眼帯なるもので眼の部分を隠していた?それともそんな姿など気にしなかった?そもそも当時は眼に対する医療技術はあったのでしょうか?
私的な疑問で申し訳ありません。
そして、内容が微妙なのでこの場にふさわしくないようでしたらお手数ですが削除お願いいたします(^^;
(F882iES/FOMA)