1 小龍

陶謙について

初めまして。皆さんの詳しい発言をいつも楽しくロムっていました(;^_^A今回初めて投稿します
徐州の陶謙は劉備に州を譲った人で有名ですよね?配下にも立派な人間がいました。しかし、曹操の父を暗殺したりしてる様ですが、良い人間なんでしょうか?どう思います?
(N900i/FOMA)
2 大伴ゴジョウ
通俗演義は蜀贔屓ですから、劉玄徳に徐州を譲る、安東将軍陶謙は、善玉の扱いですね。しかし事実は違った様です。例えば州の名士趙イクは、実直であった為に、疎まれていますし、又、陶謙は下ヒのケッ宣と共に略奪を働いた後、ケッ宣の兵を己の傘下に組み入れる為、彼を殺しています。

まぁ劉玄徳と親しい人は善人、敵対する人は悪人……という構造は、物語を単純化する為には仕方の無い事ですからまぁだから通俗演義は、単純に楽しめるし、物足りなくもあるのですがね。
(F2102V/FOMA)
3 小龍
やはりそうですか(;^_^A
私も大伴さんと同意見です。
では曹操の父暗殺事件に関しても、陶謙が本当にからんでると思いますか?
(N900i/FOMA)
4 大伴
まぁ曹嵩は陶謙の部下が殺した、と三国志にありますし、恐らく殺したのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
5 天草
陶謙の部下が殺したとして、陶謙はには何の利益があったんでしょうか?
実は誰かの陰謀だったとか…だったら、凄いね!
(PC)
6 たかひろ
む!何気に曹操と安直に言うのも捻りがないので、実は陳宮の自作自演で。
(F2102V/FOMA)
7 大伴
天草さんの言われる様に、記述をそのままに信用しない態度というのは必要やも知れませんね。

例えば、米西戦争の発端は、キューバ湾停泊中のアメリカ国籍の商船、メリー号の爆発です。セオドア・ルーズベルト政府はこれを、スペイン政府による爆破として、キューバの独立運動に参入。独立以後、プラット修正条項によって、キューバへの自国介入を認めさせました。これが後に、キューバのアメリカ嫌い→共産国化へと繋がっていきます。
さて、ここで大事な事は、恐らくはただの爆発事故であった物を、スペインの工作とする事によって、アメリカが開戦の口実を作ったとみられるところです。現在の歴史書には、スペインが爆破したと書いてはありますが、それは有力な説ではありませんね。
(F2102V/FOMA)
8 天草
大伴さん
相変わらず独特の持論を例に出されましたね。

では、観点を変えて、誰かの陰謀だったとしたら、誰ならつじつまがあうと思いますか?

陶謙と曹操が争ってくれたら、喜ぶ人物…。
(PC)
9 たかひろ
エンショウ。しかし、その時は仲良しだったのは通説やから術か…陳宮か…むっ…俺だ(;゚Д゚)
(F2102V/FOMA)
10 大伴
まぁ当時曹操は勝ち目の薄い戦争ばかりを(己の意志で)やって(勝って)いますが……曹操が口実としたと考えるのは、少々無理がありそうですね。
(F2102V/FOMA)
11 天草
案外、曹操側じゃなくて、陶謙を排除したい人物だったりして…つまり、陶謙亡き後に徐州を収めた人物…だったら、凄くないですか?
(PC)
12 たかひろ
わーかった!徐州の豪族!!!あそこは清国時代まで豪族が統治を嫌ってたから…
(F2102V/FOMA)
13 大伴
天草さんのその説は(厳密な根拠云々は、この際問題にせず)面白いですね。着想が独自的です。煮詰めれば一本、短篇になりますよ。天草さん如何?書いてみては?

ただ実際の可能性となると、少々難しいでしょうね。
(F2102V/FOMA)
14 天草
即レスサンキュ!

大伴殿>いや、それは大伴さんにお願いしたいくらいです。ここで小説をアップさせますか?
(PC)
15 大伴
煮詰める作業が大変そうですねぇ。自分に都合の良い資料もできるだけ集めたいですし(汗)

しかし、虚録シリーズとかって良いかもしれませんね。
(F2102V/FOMA)
16 天草
魔法のアイランドの機能なら、一頁400字、最大500頁の『BOOK機能』が用意できます。
やって頂けるなら用意しますよ。
(PC)
17 たかひろ
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=jinkennet&P=0&SPA=20
こんなかんじ(笑)

あっ歴史群像小説コンクール応募しす〜。

管亥か南北朝か迷ってます。
(F2102V/FOMA)
18 小龍
おお私が立てたスレッドがこんなに盛り上がってくれてたとは!
大伴さん、天草さんありがとうございます。天草さんの劉備暗殺論、確かにおもしろいですね。私も大伴さんの小説読んでみたいですね(*^_^*)
(N900i/FOMA)
19 大伴
小龍さんのたてられた、このスレットは面白かったですね。個人的に感謝していますよ。小龍さん以後も宜しくお願いしますね。無論、天草さんによる展開にも。流石は館長です。

通俗演義では、云々の様な人物ですが、事実は……?という様な議題は以後、面白くなる可能性が出てきましたね。

小説に関しては……前向きに検討してみます(汗)
(F2102V/FOMA)
20 大伴
このスレッド、今読み返すとなかなかに面白いですね。図書館の企画もこのスレッドが発端の様ですし。

陶謙は、漢の司空張温に、参軍事として厚遇されていました。が、宴会の際、酒を注いで回れと命じられたのを不服に思い、張温を罵倒し退席しました。張温は許しましたが、陶謙は謝らなかったといいます。どうやら陶謙は、プライドが高く、協調性に欠けた人物の様です。
陳寿の陶謙評は「もとより論評に値しない」ですから、大した人物ではなかったのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
21 天草
何!?このスレが図書館の発端だったのか(笑)
今更ですが…。

陳寿の陶謙評って、そんなのだったんだ。。。
彼も韓遂に負けず劣らず、謎の人物ですな。
(PC)
22 大伴
陳寿の評は、ちくま学芸文庫版「二公孫陶四張伝」から少し引用してみましょう。

評にいう。公孫サンは易京を保守したまま、なすこともなく全滅を待っていた。公孫度は残虐で節度が無く、公孫淵は父祖の業をうけつぎながら凶悪さを発揮し、ただ一族を破滅させただけであった。陶謙は惑乱して憂死し、張楊は臣下に寝首をかかれた。みな州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもであり、実際論評に値しない。(後略)

酷評ですね(笑)

范ヨウの「後漢書/劉虞公孫サン陶謙列伝第六十三」は私は未読ですが、どのような評価なのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
23 大伴
別スレッドに書いたとおり、麋竺は金持ちだったんで重用されたんじゃないかと私は思うのですが……皆さんの陶謙評はどうですか?
(F2102V/FOMA)
24 赤龍
後漢書の陶謙評「徐方殲耗、實謙為梗」です。「梗」どう訳しましょう?
(J-SA05)
25 赤龍
ちなみに、私は曹嵩殺させたの陶謙と思ってます。袁紹派の曹操と、袁術・公孫サン派の陶謙は、この事件以前から対立関係にあったと考えられます。さらに後漢書応劭伝に、曹操にしばしば攻撃されてたのを恨んで、曹嵩を殺した、という記述があります。この記述には色々問題もありますが…
(J-SA05)
26 大伴
難しいですね。

「徐州は滅び乱れた。実に謙は梗だ」

かな?

梗には「強い」や「正しい」という良い意味の他に、「憂い、病」という悪い意味など、沢山意味がありますね。「デク人形」という意味も。どれを選択すべきでしょう?ご教授下さい。
(F2102V/FOMA)
27 天草
面白いですね!!
たった一文字の解釈の違いで、彼の人格が変わってくるのか。

後に劉備の配下になる人物が多いのは、侠の気持ちの強い人物が多かったと読めば、やはり悪い人間ではなかったのかな?

でも単純に、徐州大虐殺で曹操を恨み、敵対する劉備について行った…というのが本当のとこなのかな?
(PC)
28 大伴
曹操の戦闘を一つ復元しましたので紹介します。

(陶謙伝より)
初平四年(193)、太祖は陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、彭城まで行って、大会戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は万単位にのぼり泗水はこのために流れがせきとめられた。


陶謙の軍は敗走していますが、死体は河にあります。陶謙の兵は、河に向かって敗走したのでしょうか?本来地の利がある筈の守備側が、この様な不利な布陣をするとは思えません。恐らくは、河を挟んで対峙したものと思います。
それで、何らかの理由から、陶謙軍は渡河作戦にでました。しびれを切らしたのか、曹操軍が擬似撤退(逃げるふり)を始めたのかも知れません。しかし渡河作戦は、攻撃側が圧倒的に不利です。移動しながら弓が使い辛い事を考えれば当然でしょう。
渡河に失敗して敗走するところを、さらにやられた。これがこの野戦の概要だと思います。
(F2102V/FOMA)
29 大伴
陶謙側が好んで河を挟んだとすれば、それは長期戦、持久戦を狙ったからに違いありません。渡河攻撃の不利を知っているからこそ、こうしたのでしょう。
なのに河を渡っている。
これを曹操はどうやって河に誘い込んだのでしょうか?

皆で想像してみませんか?
(F2102V/FOMA)
30 赤龍
単に死体が川に捨てられたのかもしれませんよ。彭城は泗水、荻水が合流する地ですから。
(J-SA05)
31 大伴
確かに「万単位」は大袈裟としても、千人の死体の処理でも大変ですからね。可能性はありますね。

しかし敗走側の徐州軍にも、進攻側の曹操軍にも、やはり捨てる余裕がその時あったとは思えません。特に曹操軍には食料が無く、時間を使いたくは無かったでしょうから。

河に死体を捨てたとしたら、曹操撤退後では無いでしょうか?しかしそれでは文脈的に、おかしい気もします(撤退が後に書かれているから)。可能性はあっても、私は低い気がしますね。
(F2102V/FOMA)
32
初投稿ですm(__)m
長期戦は援軍があって成り立つものしかし彼があてにしていたほどの援軍がこないことがわかったそれならば独力でもってこれを討つプライドは高いみたいですしそんな思考になってもおかしくないはず
(N504iS)
33 大伴
私は、曹操軍の食料不足を知り、持久戦に持ち込んだのでは無いかと考えています。

徐州には、田楷など青州から援軍が駆け付けた筈ですよ。
(F2102V/FOMA)
34
はい♪それは存じてます
かりに長期戦に持ち込むことに成功したとして、
徐州の治安に問題ありの場合 徐州も兵糧不足と仮定するとどうでしょう?学校からなので推測の域をでませんまた、知識不足はご容赦を
(N504iS)
35 大伴
セオリーとして、
徐州も長期戦での疲弊が大きいとするならば、この手法はとらぬと思いますよ。

陶謙は、曹操にわざわざ無用の喧嘩を売っている訳ですし、蓄えがそれなりにあったのでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
36
言われてみればそのとうりですね(;)そこまで考えてなかったでふ(爆)
末端の暴発や第三者くらいですねぇ私にはその程度くらいしか思い浮かばないですねぇ
(N504iS)
37 天草
結局、皆さんは、曹操の父を殺したのは本当に陶謙だというお考えでしょうか?

それならば>>35の意見も分かりますが…。
(PC)
38 大伴
いやいや(笑)

>>35は、長期戦を計画したならば、徐州に蓄えが無い筈は無いという意味です。

曹操の徐州侵攻自体は、かなり杜撰なプランで、二回も行っている様です。エン州が治まらぬ内に無理を承知で攻撃した感がありますから、私は事実の可能性が高いと見ます。陶謙を悪役にする為の作られたエピソード、という見方は、それで曹操の虐殺が正当化される訳ではありませんからね。

ちなみに……
曹操は死体を泗水に投げ込んでますね(汗)
渡河作戦は無かったかも(滝汗)
(F2102V/FOMA)
39
なるほど(^^♪
(N504iS)
40 大伴
私は……

陶謙軍は、曹操軍の物資や糧食の少ないのを知り、長期戦を計画

曹操はこれを逆手に取り、夜間に擬似撤退を開始

曹操軍の内情を知る陶謙軍はこれを信用

曹操軍の逆襲。渡河中の陶謙軍を叩いた


という流れを考えてみました。根拠は、曹操を後退戦のエキスパートだと定義しているからです。
(F2102V/FOMA)
41 ストラップ
>>40
領民の死体を捨てた、と考えるのが一般的の様ですね。戦闘があったというのは僕だけかな?

曹操と陶謙の決戦場となった彭城は、項羽の本拠地だったところですよね?
(PC)
42 バイン
久々です。
このスレ面白いですね♪
確かに彭城は項羽の本拠ですね!
さて、自分は泗水に投げ込まれたのは領民だと思います。曹パパを殺したのは史書では陶謙の部下としか書いてませんねぇ…orz
しかし、このスレのおかげで演義では1回で終わる陶謙との戦闘が実は2回あることを知れました。
1度目は兵糧不足、2度目は呂布によって曹操は撤退してますよね?
そこから考えたのは、呂布(袁術)との密約があったのではないかと考えてみました。当時の徐州は潤ってましたから曹操を引き寄せ、足止めするには十分だったし、呂布がエン州を盗れば袁術、呂布、陶謙と曹操を挟撃出来ますし。


追記…腹黒い陶謙と気が合ってた劉備って…(笑)
(W21T/au)
43 ストラップ
今日、「呂範伝」みていたのですが、呂範は陶謙に拷問された過去があるみたいですね。
「孫策伝」にも、孫策を陶謙が忌み嫌っていた為に引っ越した、とあるみたいです。

やはりこの人はあまり誉められる様な人では無かったのではないでしょうかねぇ。
(PC)
44 伯影
曹操の父を殺したのは陶ケン配下の元黄巾賊というのをみたことがありますが?
(PENCK/au)
45 無問題
確か呉書では彼が死んだときに張昭は哀悼の意を示したとあったような…。普通は自分を牢にぶちこんだ人間の死を惜しむなんて事はやらないはずですがね…。
(W32SA/au)
46 給恵新
横山三国志では彼を殺したのは、元黄巾族張豈?とかいう人だったと思います。彼は行き先がなく陶謙の下にいただけだったらしいです。
出世した曹操が曹嵩(父)を故郷から自分のところに来てもらい、一緒に住もうとしたんです。その行くときに陶謙の領地を通ったらしいです。陶謙は曹操と仲良くするために曹嵩を迎えて宴会をしたらしいです。その後、曹嵩にたくさんの宝物をあげて、さらに護衛として張豈をつけた。そうしたらその金銀に目をくらました張豈が、曹嵩を殺害し、金銀を奪って逃げたそうです。
(PC)
47 ストラップ
>>24
後漢書岩波版和訳を見てきました。>>22と殆ど変らぬ意味とみて良さそうですね。
(PC)
48 赤龍
後日読み直すと「徐方殲耗、實謙為梗」は「徐州が乱れたのは、まことに陶謙が「梗」なせいである」という文章。「梗」はマイナスの評価の意であるはずですね。
どんな感じに訳してました?
(PC)
>>48
数日待って下さいね。

訳自体は赤龍さんのものと同じ状態だったと記憶しますが、注にその意味が書かれていました。
(F2102V/FOMA)
50 ストラップ
>>47-48

注で「陶謙が禍根である」と書いてありました。
訳分自体は「梗」のままです。
(F2102V/FOMA)
51 赤龍
わざわざ調べていただいてありがとうございます。
私の訳も誤訳じゃなさそうで一安心。
(PC)
52 ストラップ
この人陶謙は、二つの正史で散々な評価みたいですね。
やはり、三国志演義が伝える様な立派な人物では無い様ですね。
(F2102V/FOMA)
53 ストラップ
>>50
今日は「吉川忠夫訓注」が手元にちゃんとありますので正確に。

徐方の殲き耗つること、実に謙ぞ梗を為す。

注:徐州の地域が殲滅状態となったのは、陶謙こそがその禍根。
(F2102V/FOMA)
54 ストラップ
http://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=106
の続きですが、「楊李テキ応霍エン徐列伝第三十八」では、
「徐州牧の陶謙は、素より嵩の子の操の……」
とあるのに対し、「宦者列伝第六十八」は、
「徐州刺史陶謙の殺す所と為る」
と、陶謙の官職が異なりますね。
「劉虞公孫サン陶謙列伝第六十三」では、
「徐州の黄巾起るに会って、謙を以て徐州刺史と為す(--中略--)謙は毎に使を遣わして間行して西京に奉貢せしむ。詔して遷して徐州牧と為し(--中略--)時に謙の別将、陰平を守りしが、士卒は嵩の財宝を利とし、遂に襲いて之を殺す」
とありますから、徐州牧が正しい様ですが‥‥‥しかしこの記述は曹嵩殺害の積極性で、「列伝第三十八」や「列伝第六十八」と食い違いますね(汗)

陶謙に関するブログ記事
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/25231706.html
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/25354238.html
(PC)
55 削除済
56 巫俊(ふしゅん)
陶謙は丹楊人ですが、「丹陽の賊周生、馬勉」というのが後漢の外戚梁氏の統治時代に暴れていたみたいで、 陶謙の本籍地はもともと荒っぽいところみたいですね。
『三国志』的には丹陽兵は曹操の募兵した兵でもある訳ですし。
(PC)
57 巫俊(ふしゅん)
>>56
は『後漢書』の天文志からです。「其 六 年, 大 将 軍 商 薨 . 九 江 、 丹 陽 賊 周 生 、 馬 勉 等 起 兵 攻 没 郡 県 . 梁 氏 又 專 権 於 天 廷 中 .」とあり、六年というのは順帝の永和六年という意味じゃないんですかね。

『晋書』陶回伝には、丹楊の人陶回の祖父の陶基は呉の交州刺史であったとあります。
陶謙と本籍地が同じ陶氏であることから、遠縁や近縁、或いは昔同じ共同体に属していた一族であると思われます。
(PC)
58 赤龍
>>57
大将軍梁商の死は永和六年(141)ですが、周生らの反乱は建興元年(144)のことです(『後漢書』順帝紀参照)
また、この反乱の詳細については、列伝第二十八トウ武列伝にも見られます。結構大規模な反乱だったようですね。
この時期は羌の反乱が著名ですが、江南〜交州あたりも相当反乱が頻発しています。
(PC)
59 赤龍
陶基は、『三国志』にも名が残らず、具体的な事跡は不明ですが、その子陶コウも同じく呉で交州刺史(牧?)となり、呉末期の交州方面の反乱鎮圧に活躍しています。『晋書』にも巻五十七に伝が立てられてますね。
それによると、丹陽郡陵人出身。陶謙は『後漢書』注では丹陽郡丹陽の人。丹陽と陵人は、どれくらいの距離があったのでしょうか?
(PC)
60 巫俊(ふしゅん)
>>59
中央研究院の『晋書』ですか?
陵人ではなくて、某陵の人であると書いてあるのだと思いますが。
私のPCの環境では中央研究院(台湾)の『晋書』の当該箇所は「・」で表示されています。(つまりPCの環境で文字が表示できない)
「陶 {王黄} 字 世 英 , 丹 楊  陵 人 也 .」
(PC)
61 巫俊(ふしゅん)
むじん書院「三国志人名事典」の陶コウの項では秣陵になっていました。

ttp://mujins.chicappa.jp/mujins/sanguo/jin.html#Tou-Kou
(PC)
62 巫俊(ふしゅん)
>>59
h\ttp://WWW.sinomaps.コム/non-cgi/usr/39/39_86_12.jpg
ttp://WWW.sinomaps.コム/non-cgi/usr/39/39_93_11.jpg
上、後漢揚州地図。下、西晋揚州地図。

『晋書』地理志の注によると、
「太 康 三 年(282) , 分 秣 陵 北 為 建 業β , 改 「 業 」 為 「 業β 」 .」
晋は282年に秣陵県の北を分けて建業β県としたとあり、各史書の言う秣陵県の中心(県城)が具体的にどこを指しているかは若干問題があると思います。
『中国歴史地図集』を見て勘案すれば、丹陽県城と秣陵県城のあいだの距離は25km程度ですが、地図集はこの『晋書』地理志の注をもとに秣陵城を25キロ程度の位置と定めていると思われ、丹陽県城と建業β県城のあいだの距離は45km程度です。
数字は巫俊が定規をPCの画面にあててみただけなので概数だと思ってください。
注と地図集の通りであれば、秣陵県城は南側の内陸に、建業β県城は長江沿いの北側にあったということになりまして、丹陽県城もまた長江沿いではなく内陸にあります。
(PC)
63 巫俊(ふしゅん)
という訳で陶謙にしろ陶基、陶コウにしろ、その郷里の県城は内陸にあったということになります。
長江に沿った邑よりも山地の山越の住処にずっと近い場所ということになりますね。
といっても陶氏の郷里が村であれば県城の外のどこかにあるのでしょうし、あと内陸といってもコーエーの三国志から想像するような「隣の都市」ほどの長い距離がある訳ではありません。
日本の地方の市町村より少し大きい規模が三国時代の県ですから。

ところで孫権は後漢の丹陽郡のもっとも南の別水系の盆地を割いて新都郡と変えましたが、晋が呉を併せてからは新安郡と改めています。
諸葛カクが山越を征討して万を超える捕虜を得たところです。
平呉の地の安寧を記念しての改名だと思われますが、中国史では後期倭寇(海洋商人)の頭目である王直の出身地が明代の新安であり、新安は南海貿易に出資する商人の本拠地になっていました。
種子島に鉄砲を伝来させたのは王直であるという説もあり、東アジアの歴史の中で重要な人が王直です。
そして倭寇の経済的母体になっているのが新安盆地の商人という訳でして、日本の歴史とも大きく関わる地名が司馬炎の時代に改名された新安という名前という訳ですね。
三国時代の前後に改名された地名が後世の歴史に影響を与えることはしばしばあることなので、注意されてみても宜しいかと思います。

>>62
\は書き損じです。WWWやコムは半角英数に直してください。それぞれ『中国歴史地図集』よりです。
正確な地理を知ることこそが三国志の理解を深めると思います。
(PC)
64 赤龍
ありゃま、ひどいボケをやらかしました(苦笑)
だから、私はパソコンから史料みるの苦手なんだ……、『晋書』陶コウ伝のコピーを探す手間をめんどくさがったせいで…

『中国歴史地図集』は手元にあるんで、確認しなおしますね。そりゃ「陵人」探してもみつからないよ…
(PC)
65 削除済
66 削除済
67 公孫祐
質問です。

陶謙が徐州「刺史」に任命されたのは、中平5年(188)で、「牧」に昇格したのは、初平4年(193)で合ってますか?

刺史就任に関して、陶謙伝等に年号が記されていなかったので、気になって気になって…(-o-;)

徐州黄巾賊の蜂起がこの年なんで、たぶんそうだとは思うのですが…。
(W53SA/au)
68 寿君
「陶謙字恭祖、丹陽人也。少為諸生、仕州郡、四遷為車騎將軍張温司馬、西討邊章。會徐州黄巾起、以謙為徐州刺史、撃黄巾、大破走之、境内晏然。」
「後漢書」の陶謙伝にはこうあります。たぶん公孫祐さんの言う通りではないでしょうか?。
徐州牧は董卓に付け届けして、安東将軍と共に頂いてますね。
さすがは中々抜け目のないおっさんですな。

で?公孫サンの命で発干に陶謙が駐屯してますが、2ちゃんROMってたら、「地域的にありえないのでは」って意見があり「同姓同名の別人」って話がありました。

でも、タンが本拠で、青州には田楷がいるから、進出できない事はない。
でも、陶謙の場合、曹操を攻撃するなら、沛方面から進撃した方がいい気もしますし、公孫サンとしても、そうしてくれた方が良かろうし、その場合は他の武将を発干に駐屯させるべきな気はしますが…。
(P905i/FOMA)
69 公孫祐
〉寿君さん

ありがとうございます。
小説の資料として知りたかったもので…。
後漢書の記述も併せていただき、感謝です。
(W53SA/au)
70 清岡美津夫
こんにちわ。横から補足、失礼いたします。
『後漢書』本紀によると張温が車騎将軍なのは中平二年八月から中平三年二月あたりまでなので、『後漢書』陶謙伝の記述と合わせて考えると、「陶謙が徐州「刺史」に任命されたのは、中平5年(188)」と考えるのは厳しいような気がしますね。
(PC)
71 公孫祐
〉清岡美津夫さん

補足ありがとうございます。
ということは、中平5年以前になりますか…。
調べれば調べるほどややこしくなりますね(汗)
(W53SA/au)