1 天草
三国志の中の謎
趙雲スレで、彼の年令についての様々な推測が盛り上がりましたが、まだまだ三国志の中には謎がたくたん残されてます。
ここではそんな三国志の中の謎について、究明して調査・討論していきましょう!
ここではそんな三国志の中の謎について、究明して調査・討論していきましょう!
(N900i/FOMA)
3 たかひろ
@赤壁はあったのかなかったのか!
現地に行ったときに思いました。
A孫権は漢民族か?
容貌から洋妾の子やもしれませんなぁ。
B何故あそこまで兵を動員できたのか!
などなど
現地に行ったときに思いました。
A孫権は漢民族か?
容貌から洋妾の子やもしれませんなぁ。
B何故あそこまで兵を動員できたのか!
などなど
(F2102V/FOMA)
4 天草
たかひろ殿》さっそく書き込みありがとうございます!
私が提唱する最初の謎は曹操の父親の暗殺に関してです。本当に陶謙配下の仕業でしょうか?だとしたら、陶謙本人の目論みでしょうか?そうでないとしたら、他に当時の曹操を恨む人物はいたのでしょうか?
皆さんの意見、待ってます!
私が提唱する最初の謎は曹操の父親の暗殺に関してです。本当に陶謙配下の仕業でしょうか?だとしたら、陶謙本人の目論みでしょうか?そうでないとしたら、他に当時の曹操を恨む人物はいたのでしょうか?
皆さんの意見、待ってます!
(N900i/FOMA)
5 しす
1 甄皇后はなぜ死を賜ったのか?
2 曹操がなぜ青州黄巾軍を傘下に入れることができたのか?
3 董卓はなぜ劉協を擁立したのか?
4 荀イクの死のなぞ
5 「趙雲に次ぐ」存在なのに全く解らない陳到とは?
6 呉懿?呉壱?どっち?
7 邪馬台国はいずこ?
というわけで私的三国志七不思議。
2 曹操がなぜ青州黄巾軍を傘下に入れることができたのか?
3 董卓はなぜ劉協を擁立したのか?
4 荀イクの死のなぞ
5 「趙雲に次ぐ」存在なのに全く解らない陳到とは?
6 呉懿?呉壱?どっち?
7 邪馬台国はいずこ?
というわけで私的三国志七不思議。
(PC)
8 独眼龍李克用
>>3の@は、私見ですが無い可能性が高いのではないかと。曹操が船の上にいて(いなかったか?)、火計をくらって逃げきれるのだろうか?そもそも、戦ってるのかが不明ですよね。Aは、確証無しですが漢民族ではあるかと思います。異民族の血をひいている可能性も、否定はできませんが。Bは、無理矢理でしょうかね(笑)兵士になると、何か特典が有ったのかな?それ位しか思い浮かばない。
>>4は、曹操の親を殺すメリットが、いまいちわからないんですよ。結局、誰が得をしたのだろう?金目の物を持っていった、奴等かな(・_・?)
>>5は、答えきれないです(爆)
>>6は、言ったもん勝ちですよ(笑)
>>4は、曹操の親を殺すメリットが、いまいちわからないんですよ。結局、誰が得をしたのだろう?金目の物を持っていった、奴等かな(・_・?)
>>5は、答えきれないです(爆)
>>6は、言ったもん勝ちですよ(笑)
(P900i/FOMA)
10 天草
黄殿》確かに武帝紀の注にはそう、書かれてます。しかし呉書には一家を送っていたのが陶謙で、その兵を引率していた陶謙配下の張ガイが彼らの馬車(金品でしょうね?)を奪って逃げたと書かれてます。曹操はその責任を陶謙に取らせたと。
(N900i/FOMA)
12 くわぁまん
曹操にダメージを与えるなら何も親父を殺さずとも人質にした方が利になると思う…。
ここで、謎を解く鍵は張ガイは何処に逃げたかと言う事が謎解きのヒントになると思う…。
張ガイは淮南に逃げた…。つまり袁術を頼ったので有る。とすれば、袁術の差し金か?
ここで、謎を解く鍵は張ガイは何処に逃げたかと言う事が謎解きのヒントになると思う…。
張ガイは淮南に逃げた…。つまり袁術を頼ったので有る。とすれば、袁術の差し金か?
(SH900i/FOMA)
14 天草
このスレの議題に明確な答えは出ないでしょうが、くわぁまん殿の案は面白いですよね。
曹操もあの時点ではまだ袁術を敵にまわすわけにはいかなかった…だから、陶謙に怒りの矛先を…なんて話しなら、つじつまが合いますよね。
第一、張ガイを引き受けるのは、そう思われても構わないという袁術の強気の戦術も見られますしね。
曹操もあの時点ではまだ袁術を敵にまわすわけにはいかなかった…だから、陶謙に怒りの矛先を…なんて話しなら、つじつまが合いますよね。
第一、張ガイを引き受けるのは、そう思われても構わないという袁術の強気の戦術も見られますしね。
(N900i/FOMA)
16 しす
>諸葛蘭殿
その話は知っていますが、それは可能性の一つにすぎません。
私も詳しいわけではありませんが、陳寿は必ずしも懿、昭、師、炎といった忌み名を避けて表記していたわけではないようです。
なので本名が「壱」であり、通鑑などの「懿」が誤記である可能性も否定はできないのではないでしょうか。
その話は知っていますが、それは可能性の一つにすぎません。
私も詳しいわけではありませんが、陳寿は必ずしも懿、昭、師、炎といった忌み名を避けて表記していたわけではないようです。
なので本名が「壱」であり、通鑑などの「懿」が誤記である可能性も否定はできないのではないでしょうか。
(PC)
17 黄漢升
官渡の戦いでの許攸の裏切りも、謎ですよね!いくら策が用いられないからって、風前の灯の曹操陣営に行きますか?結果的に烏巣の攻撃は成功しますが・・、皆さんは、どう思いますか?
(N900i/FOMA)
18 天草
烏巣にそれほど大量の軍事物資が置いてあって、それを奪う事で勝負が一気に決まるという確信があったんでしょうね。
官渡の戦いは謎だらけですね。例えば、曹操本人が一時陣を離れて劉備討伐に向かった時になぜ袁紹は攻めなかったのか?
官渡の戦いは謎だらけですね。例えば、曹操本人が一時陣を離れて劉備討伐に向かった時になぜ袁紹は攻めなかったのか?
(N900i/FOMA)
21 ユウキ
それは後世の人間が馬超を美化しただけでは案外リョフみたいだったり韓遂との仲間割れとか張魯の援軍に行ったのにリュウビについたり猪武者なんじゃ無謀妻子も目の前で殺されてませんでしたっけ
(P900i/FOMA)
26 しす
中国に限らず「頭頂部を晒す」ということは最大の恥辱でした。
正史三国志の著者、陳寿の父親は街亭の戦いの際に連座してコン刑(頭頂部の毛を剃る)刑罰を受けてますが、このコン刑、刑罰としては相当重い部類に入るそうです。
なので意図的に剃髪する人などいるはずもなく、また老化によるハゲも何らかの形で隠そうとしたんじゃないでしょうか。
正史三国志の著者、陳寿の父親は街亭の戦いの際に連座してコン刑(頭頂部の毛を剃る)刑罰を受けてますが、このコン刑、刑罰としては相当重い部類に入るそうです。
なので意図的に剃髪する人などいるはずもなく、また老化によるハゲも何らかの形で隠そうとしたんじゃないでしょうか。
(PC)
36 しす
たかひろ殿の言うてる『カ』は「戈」ですね。
携帯だと厳しいかな?
戦車戦が主流だった頃の武器で、騎馬戦が主流になりつつあった三国の時代は完全に時代遅れの産物…。
無双やってる人なら月英の武器と言えば解りやすいでしょうか。
ただし投げて使う武器ではありません(爆)
携帯だと厳しいかな?
戦車戦が主流だった頃の武器で、騎馬戦が主流になりつつあった三国の時代は完全に時代遅れの産物…。
無双やってる人なら月英の武器と言えば解りやすいでしょうか。
ただし投げて使う武器ではありません(爆)
(PC)
37 たかひろ
携帯、口惜しや…
そんな戟+カ=戟カが誕生なわけねん!
ほかにも、三国時代には見当たらぬ、鉄鞭、飛爪、岳雲に似た武器、狼牙棒も(主にゲームに)登場しますが無いはずですね。
大斧は日用品なんかを使ってそうですが。
そんな戟+カ=戟カが誕生なわけねん!
ほかにも、三国時代には見当たらぬ、鉄鞭、飛爪、岳雲に似た武器、狼牙棒も(主にゲームに)登場しますが無いはずですね。
大斧は日用品なんかを使ってそうですが。
(F2102V/FOMA)
41 しす
関羽が曹操からもらった髯袋ってどんなもんだったんでしょ?
コミック等では全く描かれていません。
それどころか本場の連環画ですら、関羽がそれを身に着けている描写がない。
どんなもんなんだろう?
コミック等では全く描かれていません。
それどころか本場の連環画ですら、関羽がそれを身に着けている描写がない。
どんなもんなんだろう?
(PC)
45 赤龍
たしか、演義の話だったと思います。
以前髯のばしてた友人がいましたが(勿論関羽ほどではない)、食事の時とか、ピザのチーズや、納豆の糸がからまって、わりと難儀してました。そんな時にもつけてたのかなと?
以前髯のばしてた友人がいましたが(勿論関羽ほどではない)、食事の時とか、ピザのチーズや、納豆の糸がからまって、わりと難儀してました。そんな時にもつけてたのかなと?
(J-SA05)
46 エロハシ
他トピに書きましたが、俺は中坊の時髭生やしてました☆ 勿論関羽ほどではない、ですが(笑)、10センチちょいはあったと思います! で、制服は学蘭なんですが、ホックの付け根部分に挟まって、痛かったような記憶がありますね!
天草さん>正史か演義かは定かではないですが、献帝と話してる時に、髭袋が〜みたいに話した。と、横山三国志初版のお楽しみコーナーみたいのに書いてありましたよ!
天草さん>正史か演義かは定かではないですが、献帝と話してる時に、髭袋が〜みたいに話した。と、横山三国志初版のお楽しみコーナーみたいのに書いてありましたよ!
(P900i/FOMA)
47 しす
>天草殿
髯袋は演義の話しですね。
なぜか関羽が曹操の許にいた時にだけ登場し、その後は登場してないので大したアイテムではないと思われます(爆)
曹操が関羽にその長い髯について尋ねた時に「冬になると髯が何本も抜け落ちるので冬には袋で包んで切れないようにしてる」と答えたので、曹操が関羽に錦の髯袋をプレゼントします。
「灰色の脳細胞」を持つ某名探偵さんが寝るときにつけるの髭カバーと似て非なるものでしょうか(爆爆)
んでエロハシ殿の言うとおり帝に謁見した時に帝から髯袋について聞かれたので、それを取ったら「まぁ見事な髯が」というわけで美髯公とあだ名されることに。
どうでもいいけどそんな格好で登庁し、しかも帝に謁見する関羽もどうかと思いますが。
あと記憶が確かなら、周倉と出会った時にも髯袋してたような気がします。
そしてそれ以後登場した記憶なし。
髯袋は演義の話しですね。
なぜか関羽が曹操の許にいた時にだけ登場し、その後は登場してないので大したアイテムではないと思われます(爆)
曹操が関羽にその長い髯について尋ねた時に「冬になると髯が何本も抜け落ちるので冬には袋で包んで切れないようにしてる」と答えたので、曹操が関羽に錦の髯袋をプレゼントします。
「灰色の脳細胞」を持つ某名探偵さんが寝るときにつけるの髭カバーと似て非なるものでしょうか(爆爆)
んでエロハシ殿の言うとおり帝に謁見した時に帝から髯袋について聞かれたので、それを取ったら「まぁ見事な髯が」というわけで美髯公とあだ名されることに。
どうでもいいけどそんな格好で登庁し、しかも帝に謁見する関羽もどうかと思いますが。
あと記憶が確かなら、周倉と出会った時にも髯袋してたような気がします。
そしてそれ以後登場した記憶なし。
(PC)
48 天草
これはウケ狙いの演出なのか?ってくらい笑えますよね(爆)
んで記述を探しましたが、さらに爆笑!
曹操に髭がどれぐらいあるのか尋ねられると、関羽は「およそ五、六百本はございましょうか。毎年秋になると三本五本と抜けますので、冬は紗の袋で切れぬように包んでおります」と答えた。そこで曹操は関羽に髭袋を送ったという。翌日の朝見で漢の献帝がその髭袋について下問した。袋をはずすと髭が下腹にとどくほどだったので「美髯公」とあだ名された。
髯が五〜六百本って…少なっ!(笑)しかも毎日2〜3本抜けてるとは…そりゃ保護らなきゃね。
献帝がわざわざ訪ねるって事は別に万人に当たり前の必須アイテムってわけじゃないんだろうし、【袋をはずすと髭が…】ってとこを見ると、小さく丸めるか折りたたむようにして収めてたんでしょうね。
いやいや、三国志でこんなに笑えるとは…(爆)
んで記述を探しましたが、さらに爆笑!
曹操に髭がどれぐらいあるのか尋ねられると、関羽は「およそ五、六百本はございましょうか。毎年秋になると三本五本と抜けますので、冬は紗の袋で切れぬように包んでおります」と答えた。そこで曹操は関羽に髭袋を送ったという。翌日の朝見で漢の献帝がその髭袋について下問した。袋をはずすと髭が下腹にとどくほどだったので「美髯公」とあだ名された。
髯が五〜六百本って…少なっ!(笑)しかも毎日2〜3本抜けてるとは…そりゃ保護らなきゃね。
献帝がわざわざ訪ねるって事は別に万人に当たり前の必須アイテムってわけじゃないんだろうし、【袋をはずすと髭が…】ってとこを見ると、小さく丸めるか折りたたむようにして収めてたんでしょうね。
いやいや、三国志でこんなに笑えるとは…(爆)
(PC)
山賊イメージなのかなって気がしますが。
それと今大伴さんと赤龍さんが素晴らしい討論をしてるみたいなので、また色んなスレから大伴さんが証拠として挙げているようなので、しばらく下げ進行でどうでしょうか??
それと今大伴さんと赤龍さんが素晴らしい討論をしてるみたいなので、また色んなスレから大伴さんが証拠として挙げているようなので、しばらく下げ進行でどうでしょうか??
(P900i/FOMA)
54 しす
周倉の兜は連環画で出来上がったイメージですね。
馬超や馬岱などもそうですが連環画の絵はコーエーのゲームにかなり影響を与えてるようです。
水滸伝の林冲も周倉と似たような兜かぶってますが、これも連環画のイメージ。
ただ兜の素材はさすがに絵だけでは解らなですね。
ちなみに本当にテンガロンハットの形した兜というのも実在したようです。
もちろんアメリカのお話ですが。
馬超や馬岱などもそうですが連環画の絵はコーエーのゲームにかなり影響を与えてるようです。
水滸伝の林冲も周倉と似たような兜かぶってますが、これも連環画のイメージ。
ただ兜の素材はさすがに絵だけでは解らなですね。
ちなみに本当にテンガロンハットの形した兜というのも実在したようです。
もちろんアメリカのお話ですが。
(PC)
56 しす
周倉のアレは麦藁帽でないことは確かでしょw
だって麦藁帽じゃ頭に矢でも当たろうものなら即アボーンですから。
大伴殿の言う竹編ヘルムは見た目的にはソレっぽいですよね。
兀突骨が率いてた籐甲兵のヘルムも構造的には竹編ヘルムと似たようなものでしょう。
ちなみに籐編とか竹編のヘルムは現在でも重慶辺りに行けば入手できるみたいです。
もちろん戦闘用ではなく交通用のものですが。
ただこの手の防具は軽くて強くて通気性がいいのが利点ですが、それゆえに湿度の高い南方の防具なので周倉が被っているのはおかしいかも。
ただ絵師がそこまで考えてるとも思えませんが(爆)
だって麦藁帽じゃ頭に矢でも当たろうものなら即アボーンですから。
大伴殿の言う竹編ヘルムは見た目的にはソレっぽいですよね。
兀突骨が率いてた籐甲兵のヘルムも構造的には竹編ヘルムと似たようなものでしょう。
ちなみに籐編とか竹編のヘルムは現在でも重慶辺りに行けば入手できるみたいです。
もちろん戦闘用ではなく交通用のものですが。
ただこの手の防具は軽くて強くて通気性がいいのが利点ですが、それゆえに湿度の高い南方の防具なので周倉が被っているのはおかしいかも。
ただ絵師がそこまで考えてるとも思えませんが(爆)
(PC)
58 大伴
私が不思議なのは蜜帝様の愛称で知られる袁術です。
蜜帝様は、韓セン、楊奉を仲間にした呂布に大敗します。にも関わらず、呂布が頼ろうとする程には戦力を保有している。なのに翌年病死すると、跡形も無くその影響が消えてしまいます。
私には蜜帝様の晩年には不思議な事ばかりです。
どなたか解説お願いします。
蜜帝様は、韓セン、楊奉を仲間にした呂布に大敗します。にも関わらず、呂布が頼ろうとする程には戦力を保有している。なのに翌年病死すると、跡形も無くその影響が消えてしまいます。
私には蜜帝様の晩年には不思議な事ばかりです。
どなたか解説お願いします。
(F2102V/FOMA)
59 天草
雷薄と陳蘭が立て篭もってますが、滅亡寸前の裏切りですから、大半はここから→曹操軍へ、というのが流れではと考えますがいかが?
確かに袁術関係は謎が多いですよね。専用スレをどなたかいかがですか?
確かに袁術関係は謎が多いですよね。専用スレをどなたかいかがですか?
(PC)
61 赤龍
呂布に敗北→曹操に敗北→曹操と対立した呂布と結ぶも救援できず(その力も無かったか?)→陳蘭、雷博裏切り→本拠を捨て青州へ向かう途中死。というように着実に崩壊していってます。残存勢力は、袁術の一族は部下の劉勲に身を寄せ、劉勲敗北後は孫策に保護されてます。楊弘、張勲達は孫策に帰順しようとするものの、劉勲の捕虜に、といった感じ です。袁術死後四散し、各周辺勢力へ吸収といったとこでしょうか。
(J-SA05)
62 赤龍
袁術死後の楊州、劉馥伝にも記述があります。曹操が袁術討伐に派遣した厳象が、袁術の死によりそのまま刺史に任命。しかし翌年孫策側の李術によって殺害。長江、淮河一帯は陳蘭、雷緒らの勢力があるも、劉馥によって安定。長江以南は劉勲等を破った孫策の勢力下に入る。という状況のようです。
(J-SA05)
63 大伴
なるほど。ありがとうございました。
一気に壊滅せずに、じわじわと落ちぶれていくところが、わかりづらいのですよね(笑)
赤龍さんの説明は、◯◯伝よりと、ソースも明示してあるので助かります。
一気に壊滅せずに、じわじわと落ちぶれていくところが、わかりづらいのですよね(笑)
赤龍さんの説明は、◯◯伝よりと、ソースも明示してあるので助かります。
(F2102V/FOMA)
64 しす
>>51-57で語られてる周倉のヘルムですが、周倉の古い絵らしきもの発見しました
コレを見る限りではかなり古くから定着してたということでしょうか。
http://al.kutikomi.net/chinkyu/5/?nu=3
ところでなぜか上部に印刷用のグレースケールが見えてる…
コレを見る限りではかなり古くから定着してたということでしょうか。
http://al.kutikomi.net/chinkyu/5/?nu=3
ところでなぜか上部に印刷用のグレースケールが見えてる…
(PC)
69 ずわい
うわ、このスレ面白い!
髯袋を手に入れた!
魅力-7
さて、自分の疑問は孟獲(漢字あってる?)です。
演義の話は嘘くさいですが、当時は身分等は全て勅使で決まってたわけですよね?しかし、活躍するのは三国時代ですから、なんか疑問で夜しか眠れません。
髯袋を手に入れた!
魅力-7
さて、自分の疑問は孟獲(漢字あってる?)です。
演義の話は嘘くさいですが、当時は身分等は全て勅使で決まってたわけですよね?しかし、活躍するのは三国時代ですから、なんか疑問で夜しか眠れません。
(N900i/FOMA)
70 天草
>>69ずわいサン、こんにちわ!よろしくお願いします♪
彼(孟獲で正解ですよ)の名前の殆んどは華陽国志の中に出てきます。
彼は後に蜀漢の官吏になっていること、諸葛亮伝の注において「蛮民からも慕われていた…」とわざわざ書かれていることなどから、彼が異民族ではなく、漢の人間である事は間違いないと思われます。
演義で南中平定線が大きく取り上げられてるのは、諸葛亮の故事と大活躍を大袈裟に表現したかったんでしょうね。
演義の南蛮のメンバーは濃くて嫌いな人はいないと思いますが(笑)
彼(孟獲で正解ですよ)の名前の殆んどは華陽国志の中に出てきます。
彼は後に蜀漢の官吏になっていること、諸葛亮伝の注において「蛮民からも慕われていた…」とわざわざ書かれていることなどから、彼が異民族ではなく、漢の人間である事は間違いないと思われます。
演義で南中平定線が大きく取り上げられてるのは、諸葛亮の故事と大活躍を大袈裟に表現したかったんでしょうね。
演義の南蛮のメンバーは濃くて嫌いな人はいないと思いますが(笑)
(PC)
71 赤龍
孟獲、正史では漢人か蛮人か明言されてませんね。元々西南夷の地だったのを漢の郡国に組み込んだ地。その現地の人となると区別するのが難しいですね。蛮人が吸収され漢民族となる。また蛮人とわかる高定が漢人風の姓名を持つ。馬騰のように混血もあり。漢人の可能性が高い、程度しかいえないのではないかと思います。
(J-SA05)
72 赤龍
なお、演義では南蛮王孟獲が反乱の首領格ですが、演義で部下扱いの壅ガイが実際の反乱の中心人物のようです。壅ガイの死後、孟獲が反乱の中心となったようです。また、南征で南蛮が心服し以後反乱が起きなかったというのも嘘。その後もしばしば反乱が起きてます。
(J-SA05)
74 天草
>>73
ずわいサン>諸葛亮の南征後の彼らは…
住民のうち女子供・老人は、土地の豪族の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏に配属された。諸葛亮は彼らのなかから優れた者を選び、建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰を孟獲とともに官吏に登用した。のちに孟獲は御史中丞にまで昇った《華陽国志・諸葛亮伝》
とあります。
これを見て思い出しましたが、いろんな人間が官吏に登用されてるなら、猛獲が絶対に漢人っていう保証はないのかな?
ずわいサン>諸葛亮の南征後の彼らは…
住民のうち女子供・老人は、土地の豪族の焦・雍・婁・爨・孟・量・毛・李氏に配属された。諸葛亮は彼らのなかから優れた者を選び、建寧郡の爨習、朱提郡の孟琰を孟獲とともに官吏に登用した。のちに孟獲は御史中丞にまで昇った《華陽国志・諸葛亮伝》
とあります。
これを見て思い出しましたが、いろんな人間が官吏に登用されてるなら、猛獲が絶対に漢人っていう保証はないのかな?
(PC)
77 三三
別スレのことを調べてて見つけたものがあります
張飛が書画に通じていたっと
美女画が得意だそうで、涿州(タクシュウ)の鼓楼にある『女媧娘々補天図』や戻樹村の万仏閣の壁画は張飛の描いたものだといわれてるとか
あと
曹操は黄帝の血を引いてるとか
黄帝の子孫に陸安がいて、曹姓に改名し、曹家は周の時代に保護され国を与えられていて、楚に攻められたときに曹家は散り散りになって、その中で沛に住み着いた人物がいて、その子孫が曹参とか
あと
魏には高柔という人物がいるそうです。最高位は三公ですが、魏で唯一三公すべてを歴任したそうです。
着任期間は18年と1ヶ月。司空に就いたのは70余歳らしいのですが、それ以外なにもわかりません
張飛が書画に通じていたっと
美女画が得意だそうで、涿州(タクシュウ)の鼓楼にある『女媧娘々補天図』や戻樹村の万仏閣の壁画は張飛の描いたものだといわれてるとか
あと
曹操は黄帝の血を引いてるとか
黄帝の子孫に陸安がいて、曹姓に改名し、曹家は周の時代に保護され国を与えられていて、楚に攻められたときに曹家は散り散りになって、その中で沛に住み着いた人物がいて、その子孫が曹参とか
あと
魏には高柔という人物がいるそうです。最高位は三公ですが、魏で唯一三公すべてを歴任したそうです。
着任期間は18年と1ヶ月。司空に就いたのは70余歳らしいのですが、それ以外なにもわかりません
(PC)
81 赤龍
正史注『魏書』に見える曹氏の先祖、中山靖王の末裔の方以上に眉唾ですよね(笑)曹参は沛の身分の低い役人。たいそうな系図があったとは思えません。魏建国の後、はやくとも曹参が漢の重臣になって以後つくられたものでしょうね。訳注でも「全ての王朝・天子は黄帝を先祖とすると記されるのが普通である」と書かれてますし。
(J-SA05)
86 三三
知らないことばかりで皆様の博学には頭下がります
気になる人物がいるのですが・・・
諸葛瑾・歩騭が流刑地から呼び戻して手柄をさせようとしてたいう周胤
黄皓とそりが合わず巴東太守に左遷され蜀滅亡後に真価を発揮したと言われる羅憲(字は令則)、司馬懿の三男伷(字は子将)同母弟亮
ってどんな人なんでしょう?
あと
何晏に「後生恐るべし」と言われ「老子」や「易」の注釈など書き司馬懿のクーデター後免職となりその年に病にかかり病死・・・
司馬炎が彼の死を残念がっていたというから有能だったのでしょうが・・・
気になる人物がいるのですが・・・
諸葛瑾・歩騭が流刑地から呼び戻して手柄をさせようとしてたいう周胤
黄皓とそりが合わず巴東太守に左遷され蜀滅亡後に真価を発揮したと言われる羅憲(字は令則)、司馬懿の三男伷(字は子将)同母弟亮
ってどんな人なんでしょう?
あと
何晏に「後生恐るべし」と言われ「老子」や「易」の注釈など書き司馬懿のクーデター後免職となりその年に病にかかり病死・・・
司馬炎が彼の死を残念がっていたというから有能だったのでしょうが・・・
(PC)
89 赤龍
しすさんの言われる諸葛一族の問題、高島俊男さんの著作の中で見られるものですね。私も興味深い説だと思いました。ただ、兄弟さらに同世代間の名で同じ部首を共有するという例は、三国時代はまだそれほど多くないように思えます。劉理と劉セン(劉禅の太子)兄弟のように叔父・甥の間では同じ部首を共有する例もあります(親子は未確認)あくまで一つの可能性として、慎重に考察すべきでしょう。
(J-SA05)
90 しす
>赤龍殿
おおおお!たぶんそれだ!
何かの本で読んだ記憶はあったんですが書名を思い出せなくて!
なるほど叔父、甥で例があったのは初めて知りました。
恐らくこれは時代によって解釈が違うでしょうから、三国時代の例で他にそういった例がないかどうかなど含めて考察の余地ありですね。
これはなかなか面白い気がしてきた。
おおおお!たぶんそれだ!
何かの本で読んだ記憶はあったんですが書名を思い出せなくて!
なるほど叔父、甥で例があったのは初めて知りました。
恐らくこれは時代によって解釈が違うでしょうから、三国時代の例で他にそういった例がないかどうかなど含めて考察の余地ありですね。
これはなかなか面白い気がしてきた。
(PC)
91 赤龍
ちなみに書名は『三国志人物縦横談』(大修館書店)その文庫版『三国志きらめく群像』(ちくま文庫)もしくは『真三国志』一〜三(学研)ではないでしょうか?どちらもお薦めの良書です。私もこの二冊からは多大な影響を受けました。
(J-SA05)
93 赤龍
さて、さっそく親子で同じ部首を共有する例を発見。曹操の子曹拠。共に手偏ですね。さらに孫リン(糸+林)とその父孫綽。共に糸偏。この時代はまだ親子で同じ部首を共有することも充分ありえることと言えるのではないでしょうか?一方調べる過程で、兄弟で同じ部首を共有する例はほとんど見つからず。まだ、法則性として強くは根付いていないと思われます。非兄弟説の根拠に疑問がでてきましたね。
(J-SA05)
96 赤龍
劉禅の子は、七子の内上の四人(『蜀世譜』では七子も含め五人)が王偏がついていますね。私も母の違いも考えましたが、それぞれの生母は確認できず、劉キ、劉ソウのように異母兄弟で共通している例もあり。何よりこうした法則の定着する後世では、母の違いどころか、一族同世代で共有しています。やはり、この法則が当時まだ強く定着してなかったためではないかと考えます。
(J-SA05)
99 赤龍
馬王堆漢墓の遺体なんかが有名ですね。ミイラのように遺体に手を加えて保存したのでなく、埋葬の環境によるものです。槨室が木炭と白粘で囲まれ腐敗せず、地中深く埋葬したため一定の温度・湿度が保たれたとか。また、過去盗掘に合わなかったというのも重要です。
(J-SA05)