1 飛
謎多き韓遂
天草さんスレ「三国志の謎」でこの人を出させて頂きました!
んで彼のことについて、また新たに知ることがあればいいな♪と思いスレ立てました!
韓遂のすべての情報、又はこんな人だったのでは?というのも是非、お聞きしたいです!
んで彼のことについて、また新たに知ることがあればいいな♪と思いスレ立てました!
韓遂のすべての情報、又はこんな人だったのでは?というのも是非、お聞きしたいです!
(W11K/au)
2 天草
韓遂
人生の全てを反乱に捧げた人物ですね。まさに意味不明(笑)
現代で言うテロリストグループ?でもしっかりとした基盤も持ってたし、民衆や異民族からの支持もあったんですよね。
なにが彼を『反乱』に走らせたのでしょうか?
人生の全てを反乱に捧げた人物ですね。まさに意味不明(笑)
現代で言うテロリストグループ?でもしっかりとした基盤も持ってたし、民衆や異民族からの支持もあったんですよね。
なにが彼を『反乱』に走らせたのでしょうか?
(PC)
3 ユウキ
やっぱなにげにカリスマ性があったんでしょうねカンスイってソウソウと親交があったんですよねソウソウは能力のない奴は馬鹿にして付き合ったりしなそうな印象があるんですけど…って事はなかなかの人物だったのでは
(P900i/FOMA)
4 しす
七不思議のスレにも書きましたが、まず名前が資料によってまちまち。
それと気になるのは、それまで40年もの間平穏な生活を送っていたであろう人物に、その後70余で死ぬまで30余年に渡る叛乱の人生に走らせたのは何だったのか?
あとやはりしたたかだなぁ…と思うのは、常に自分は実力的にはトップなのに、誰かを総大将に担いでるところ。
しかも都合が悪くなると、そいつらを殺してたり見捨てたりで、自分はのうのうと生き残る。
普通ならとっとと殺されてもおかしくないのに、結局当時異例としかいいようのない長寿を誇っている。
まさに謎に満ちた波乱の人生としか言い様のない人物…。
それと気になるのは、それまで40年もの間平穏な生活を送っていたであろう人物に、その後70余で死ぬまで30余年に渡る叛乱の人生に走らせたのは何だったのか?
あとやはりしたたかだなぁ…と思うのは、常に自分は実力的にはトップなのに、誰かを総大将に担いでるところ。
しかも都合が悪くなると、そいつらを殺してたり見捨てたりで、自分はのうのうと生き残る。
普通ならとっとと殺されてもおかしくないのに、結局当時異例としかいいようのない長寿を誇っている。
まさに謎に満ちた波乱の人生としか言い様のない人物…。
(PC)
6 天草
後漢書董卓伝・馬超伝より
馬騰と韓遂は涼州に帰還すると、韓遂と義兄弟の契りを結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった
韓遂は馬騰に攻撃されて敗走したが、軍勢を糾合して反撃し、馬騰の妻子を殺した
とあります。
実は彼らを和解させたのは意外な人物でした。
魏書・鍾ヨウ伝によると
曹操は山東で戦争を行っていたが、関中の混乱を憂慮し、鍾ヨウを司隷校尉に任じて関中諸将を監督させた。鍾ヨウは長安に赴任すると馬騰・韓遂に手紙を送り、利害を説いて子息を人質に出させた。
知らなかったので、あげておきます。
馬騰と韓遂は涼州に帰還すると、韓遂と義兄弟の契りを結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった
韓遂は馬騰に攻撃されて敗走したが、軍勢を糾合して反撃し、馬騰の妻子を殺した
とあります。
実は彼らを和解させたのは意外な人物でした。
魏書・鍾ヨウ伝によると
曹操は山東で戦争を行っていたが、関中の混乱を憂慮し、鍾ヨウを司隷校尉に任じて関中諸将を監督させた。鍾ヨウは長安に赴任すると馬騰・韓遂に手紙を送り、利害を説いて子息を人質に出させた。
知らなかったので、あげておきます。
(PC)
10 天草
歳を取ってからは、ある程度噂みたいなものが一人歩きして、反逆者たちの生きるカリスマになってたのではないでしょうか?
異民族たちは曹魏からの重圧に耐える為に、韓遂のカリスマをあてにした…みたいな。
異民族たちは曹魏からの重圧に耐える為に、韓遂のカリスマをあてにした…みたいな。
(PC)
11 飛
韓遂にかぎらずなんですが…この方は実在してたのでしょうか?
昔々のことなので疑い出したらキリないですが。
途中から別人だったりして。馬騰と不仲の後、また手を組んだりしたあたりとか。
昔々のことなので疑い出したらキリないですが。
途中から別人だったりして。馬騰と不仲の後、また手を組んだりしたあたりとか。
(W11K/au)
15 天草
武帝記によれば、彼は元々漢の役人だったみたいで、しかもかなりの名声があった事が書かれてますね。
あの大将軍・何進もかねてより彼の名声を聞いていたので、特別に彼と会見したとあります。韓遂は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出たと。これが恐らく最初の反抗だったんじゃないかな?
後漢書の霊帝紀と董卓伝によれば、最初に漢に反旗を翻したのは中平元年(一八四)十一月だとありますね。
ちなみにこの時、『韓遂』と改名したみたいで、それ以前は『韓約』という本名だったみたい…字も文約なのに…続けて読むと漫才コンビの名前みたいだ(笑)
あの大将軍・何進もかねてより彼の名声を聞いていたので、特別に彼と会見したとあります。韓遂は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出たと。これが恐らく最初の反抗だったんじゃないかな?
後漢書の霊帝紀と董卓伝によれば、最初に漢に反旗を翻したのは中平元年(一八四)十一月だとありますね。
ちなみにこの時、『韓遂』と改名したみたいで、それ以前は『韓約』という本名だったみたい…字も文約なのに…続けて読むと漫才コンビの名前みたいだ(笑)
(PC)
17 赤龍
私もしすさんと同じ意見です。あくまでひとつの推測ですが、「韓文約」という記述が脱字により「韓約」と書かれ、後の一部の書であたかも約が名のようにとられてしまった。『献帝春秋』の著者(もしくは著者が参考にした書)は「韓遂」「韓約」という二種類の表記を改名のためと考え、反乱事件の際の改名と説明を加えた。
あくまで一仮説ですが。
あくまで一仮説ですが。
(J-SA05)
20 えいじ
字についてですが、唐の時代の武将で郭子儀(かくしぎ、姓が郭で名が子儀)という人がいます。この人の字は名と同じ子儀です。三国時代より五百年くらい後の人なので、参考にすべきかは解りませんが、諱と字に共通の字を使っている人として例に挙げておきます。南北朝時代にもそんな人がいたような?
(P900iV/FOMA)
21 赤龍
韓遂の名について、正史本文、典略等は一貫して韓遂と記述。一方魏略等では、反乱後(改名説なら改名後の時期)もずっと韓約と記述。そして、両者とも改名に関しては記述なし。これが改名説への疑問の一つです。『献帝春秋』はこれら二系統の記述を整合するために改名説をとったのではと私は推測しました。献帝春秋は裴松之からも厳しい批判を受ける、内容に問題のある書で、改名の話は注にも採用されなかったことも改名説を疑う一因です。
(J-SA05)
22 赤龍
さて、反乱を起こした理由ですが、史書には明言されてませんね。
韓遂は金城郡の名士で、中央に召され官についたこともある等を考えると、現地の有力豪族の一人と思われます。すると、反乱の原因も、漢の支配、具体的には朝廷より派遣された地方官との軋轢なんかがあったのではとも考えられます。三十年間常に反乱を続けたわけでは無く、しばしば中央の懐柔を受け従っている時期もあるのも興味深いですね。
韓遂は金城郡の名士で、中央に召され官についたこともある等を考えると、現地の有力豪族の一人と思われます。すると、反乱の原因も、漢の支配、具体的には朝廷より派遣された地方官との軋轢なんかがあったのではとも考えられます。三十年間常に反乱を続けたわけでは無く、しばしば中央の懐柔を受け従っている時期もあるのも興味深いですね。
(J-SA05)
24 天草
演義で有名な『離間の計』の名場面は、ほぼあのまま魏書・武帝記に残されてますので、その時点で知己だった事は間違いないでしょう。
恐らくは何進の招きで洛陽に入った頃の知り合いかな?
しかし実はよく読むと、張既伝では閻行という人物を使って、韓遂は逆に曹操にも同じ様な計を使ってさりげなく成功させてるんですよね。
恐らくは何進の招きで洛陽に入った頃の知り合いかな?
しかし実はよく読むと、張既伝では閻行という人物を使って、韓遂は逆に曹操にも同じ様な計を使ってさりげなく成功させてるんですよね。
(PC)
28 天草
事の発端はここです。
建安十四年(210年)、韓遂が閻行を使者に立てて曹操のもとに行かせると、曹操は閻行を手厚く遇した。閻行は帰国して曹操の命令書を伝えた。
「文約に謝す。卿がはじめ挙兵したのは追い詰められたからだということを、我はつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国政をお助けしようぞ」。
閻行はついでに言った。
「閻行もまた将軍にお仕えして参りましたが、挙兵以来三十年余りになり、民衆も兵卒も疲弊して領土も狭くなっております。速やかにご自身から(曹操に)お味方なさいませ。以前、ギョウに参りましたとき、老父を京師に参詣させたいと自己申告いたしましたが、まことに将軍もまた一子を派遣して赤心をお示しなされませ」
韓遂は言った。
「まず数年くらい様子を見てみよう!」
のちに韓遂は我が子を派遣し、閻行の父母とともに東へ行かせた《張既伝》
建安十四年(210年)、韓遂が閻行を使者に立てて曹操のもとに行かせると、曹操は閻行を手厚く遇した。閻行は帰国して曹操の命令書を伝えた。
「文約に謝す。卿がはじめ挙兵したのは追い詰められたからだということを、我はつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国政をお助けしようぞ」。
閻行はついでに言った。
「閻行もまた将軍にお仕えして参りましたが、挙兵以来三十年余りになり、民衆も兵卒も疲弊して領土も狭くなっております。速やかにご自身から(曹操に)お味方なさいませ。以前、ギョウに参りましたとき、老父を京師に参詣させたいと自己申告いたしましたが、まことに将軍もまた一子を派遣して赤心をお示しなされませ」
韓遂は言った。
「まず数年くらい様子を見てみよう!」
のちに韓遂は我が子を派遣し、閻行の父母とともに東へ行かせた《張既伝》
(PC)
29 天草
そして…
韓遂は華陰から敗走して湟中に帰ってきた。(離間の計の後ですね)
韓遂は(人質に出した息子が殺されて)閻行の父だけが生きていると聞き、一緒に殺害されれば彼の心を固めることができるだろうと思い、むりやり幼い女を閻行に嫁がせた。閻行が拒みきれなかったので曹操は彼を疑った。
ちょうどそのとき韓遂は閻行を派遣して西平郡を支配させていたが、夜中、閻行はその部曲を率いて韓遂を攻撃した。閻行は陥落させることができず、家族を引き連れて曹操に参詣した《張既伝》。
しかしこの後また散々の曹操にやられちゃいます(汗)
韓遂は華陰から敗走して湟中に帰ってきた。(離間の計の後ですね)
韓遂は(人質に出した息子が殺されて)閻行の父だけが生きていると聞き、一緒に殺害されれば彼の心を固めることができるだろうと思い、むりやり幼い女を閻行に嫁がせた。閻行が拒みきれなかったので曹操は彼を疑った。
ちょうどそのとき韓遂は閻行を派遣して西平郡を支配させていたが、夜中、閻行はその部曲を率いて韓遂を攻撃した。閻行は陥落させることができず、家族を引き連れて曹操に参詣した《張既伝》。
しかしこの後また散々の曹操にやられちゃいます(汗)
(PC)
30 無問題
天草さんありがとうございました。ふ〜ん…、そうですか〜。その閻行という人物、若かれし日の馬超を半殺しにした人物ですよね。彼は曹操に下るべきだと思っていたんですね。う〜ん…、ということは彼の軍勢は一枚岩ではなかったと言うことですかね?
(W21K/au)
31 赤龍
韓遂と閻行の件、全体的に見ればむしろ曹操の離間の計が成功したと見るべきでは?
中央の干渉を極力排し、独自の勢力を維持しようとする韓遂と、積極的に中央の支配を受け入れそのもとで身分を保証してもらおうとする閻行。という意見の相違でしょうか?両者の地位・出自の差も気になります。これは韓遂に限らずいろんな勢力で見られる問題ですね。
中央の干渉を極力排し、独自の勢力を維持しようとする韓遂と、積極的に中央の支配を受け入れそのもとで身分を保証してもらおうとする閻行。という意見の相違でしょうか?両者の地位・出自の差も気になります。これは韓遂に限らずいろんな勢力で見られる問題ですね。
(J-SA05)
33 孫(みらう)
韓遂 字は文約 もとは韓約という名だった(董卓伝より)
韓約は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出た(曹操)
いいやつだったんですよ若い時は
涼州が韓約・辺允に千戸侯の懸賞をかけたので、韓約は韓遂、辺允は辺章と変名した(霊帝紀)
罠にはめられたくさいですよ
韓約から、朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ている。もし大軍が東進してきたら我は救援してやれないぞ(董卓伝
結構な大口も余裕ですね
韓遂は鎮西将軍に任じられて金城に帰還(馬超伝
まあかなりの上位ですねこれは
韓遂は軍勢を失い、羌族の部落をつたって西平の郭憲に身を寄せた・・・・「人が追い詰められて我を頼りにして来たのに、どうしてそれを危難に陥れられようか?」(王脩伝
部族に大人気のご様子
韓遂は羌族・胡族一万騎余りを率いて(曹操
ちゃっかりしています
韓遂軍を大破し、その旌麾を奪い取り、略陽に引き返して興国を包囲した。氐王千万は馬超のもとへ逃走し、残党は降服した、》。韓遂はそのまま西平まで逃走した(夏侯淵
どこまでも負けません
、韓遂は羌族の部落に逃げ込んで病死し、秋には劉璋が益州を失い、二十年秋には、漢中の張魯が曹操に降ったのであった(周羣伝
何だかんだで部族に逃げ込めるってのは支持が厚かったからですよね
韓約は宦官どもを誅殺せよと説得したが、何進が聞き入れなかったので帰国を願い出た(曹操)
いいやつだったんですよ若い時は
涼州が韓約・辺允に千戸侯の懸賞をかけたので、韓約は韓遂、辺允は辺章と変名した(霊帝紀)
罠にはめられたくさいですよ
韓約から、朝廷には必ず遷都させるようにとの手紙が来ている。もし大軍が東進してきたら我は救援してやれないぞ(董卓伝
結構な大口も余裕ですね
韓遂は鎮西将軍に任じられて金城に帰還(馬超伝
まあかなりの上位ですねこれは
韓遂は軍勢を失い、羌族の部落をつたって西平の郭憲に身を寄せた・・・・「人が追い詰められて我を頼りにして来たのに、どうしてそれを危難に陥れられようか?」(王脩伝
部族に大人気のご様子
韓遂は羌族・胡族一万騎余りを率いて(曹操
ちゃっかりしています
韓遂軍を大破し、その旌麾を奪い取り、略陽に引き返して興国を包囲した。氐王千万は馬超のもとへ逃走し、残党は降服した、》。韓遂はそのまま西平まで逃走した(夏侯淵
どこまでも負けません
、韓遂は羌族の部落に逃げ込んで病死し、秋には劉璋が益州を失い、二十年秋には、漢中の張魯が曹操に降ったのであった(周羣伝
何だかんだで部族に逃げ込めるってのは支持が厚かったからですよね
(PC)