1 くわぁまん

同郷人…

出身地による派閥と言うのが有るようにおみうけします。皆様は如何お考えですか?
(SH900i/FOMA)
2 天草
まさにあるでしょうね!
以前、派閥スレにあった通り、荀イクの派閥は確かエイ川の出身者だったですよね。
この辺は大伴殿が詳しかったかな?
(PC)
3 くわぁまん
司馬懿がカン丘倹を討伐したとき世論は同郷人を殺したことに世論がだいぶ騒いだらしいです。
(SH900i/FOMA)
4 大伴
呂布が河内の張楊を頼った際も、同郷である事を訴え、庇護してもらっていますね。

頴川グループについては別スレッドで書きましたし、今回は控えますね。
(F2102V/FOMA)
5 天草
同郷って結構大事だったんでしょうね。面識はないけど、同郷だから…っていうような記述って結構見ますもんね。

しかし…頴川って漢字出るんだ…(汗)
(PC)
6 しす
現在のように情報網が発達してない当時としては地縁というのは本当に大事だったようです。
確かコーエーの本で三国志の人物を出身地別にわけて性格分析等をしてる本があったんだけど、どこかへいってしまった。
捨ててはいないから探してみます。
(PC)
7 くわぁまん
やば、朝寝ぼけてたんで文章メチャメチャ…

呂布陣営で謀叛が起きた時、知将高順は反乱兵がみな河内訛りだったのににきずき河内出身のカク萌が首謀者だと判断し的確に処理した…                       これは、当時呂布陣営には呂布の出身地并州勢とその他の勢と確執がありその他の軍勢の謀叛であります。
(SH900i/FOMA)
8 天草
くわぁまん殿>それ面白いですね!高順って本当に隠れた名将ですよね!
(PC)
9 大伴
話は変わりますが、私はシンタリティ(その地域の人に共通する性格)というのはあると思います。「肥後もっこす」だとかは良く使いますね(無論、これをステレオタイプに論じるのは危険)。国民性、県民性という言い方は良く使われます。

さて、ここに徐州琅邪郡の出身者の一部をあげてみましょう。

諸葛亮(風伯を使役)
諸葛瑾(息子の恪は白沢図を読む)
徐盛(偽の城で魏軍を欺く)
諸葛誕(腹心の部下呉綱の四百年前の先祖が、生きている様な姿で発掘される)
華佗(出身では無いが遊学。天才医師)
葛洪(神仙になる為の方を記す)
干吉(仙人)
左慈(仙人)
葛玄(左慈の弟子)

無論徐盛のエピソード以外は真実では無いでしょうし、後付けも多い事でしょう。しかしこの地域は特にオカルティックな印象を人々に与える様な、そんな人物が多かったのでは無いでしょうか。
(F2102V/FOMA)
10
私は県民性などは、端から否定してますが、その地方地方のある程度の理想像があるのではと思います「もっこす」もその類いかとその地方でのし上がるための支持を得るためには理想像に近くなければならないとかで
(F900i/FOMA)
11 天草
正確云々は分かりませんが、私は『同郷意識』みたいなものが当時は強かったのではないかと。
今で言うところの、学校の先輩・後輩みたいな…。
(PC)
12 大伴
ホウ統伝によると、司馬徽は頴川の出身です。当時の荊州には、予州出身者を中心とした(司馬徽の)グループがあり、孔明はそこに所属していたのでは無いでしょうか?

若い頃の孔明の友人は四名挙げられていますが、石韜、徐庶は頴川出身、孟建は汝南の出身です(つまり三名は予州出身)。催州平だけが博陵の出身とあります。まぁ、尹黙や李セン(共に梓潼出身)、ホウ統(襄陽出身)も恐らく同じグループでしょうから、良くて半分が予州出身者という程度なのでしょうが……
(F2102V/FOMA)
13 大伴
訂正
李センでは無く、その父、李仁ですね。
他にも向朗、韓嵩がグループの一員だった様です。
(F2102V/FOMA)
14 赤龍
当時の人間関係を考える上で大事な事は「血縁、地縁、学縁」三つの関係であると、中国史の先生に繰り返し教えられました。地縁関係も重要ですが、諸葛亮、司馬徽ら荊州の名士・学者のグループは学縁関係の方にも注目すべきだと私は考えます。
(J-SA05)
15 赤龍
話がさかのぼりますが、大伴さんが指摘した、徐州の人物のオカルト的な面、面白い着眼点と思います。というのは、このあたり、山東半島を中心としたかつての斉一帯は、神仙思想が古くから流行した地域です。有名な始皇帝の時代の方士徐福も、この地方の出身です。
(J-SA05)
16 大伴
秦の徐福もあの辺りの出身だったとは。やはりそういう風土だったのかも知れませんね。


ぱらぱらと本をめくっていたのですが、予州出身の荊州の名士を又みつけました。しつこい様ですが、やはり学術グループを形成する背景に、予州出身者のグループが下地としてあった可能性を捨てきれません。
私が今回知ったのは、和洽(汝南)、趙ゲン(頴川)、杜襲(頴川)の三名です。
特に杜襲は、温カイ伝の注によると、孔明に孟建への伝言を頼まれていますから、孔明ともそれなりの面識があったのでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
17 赤龍
そもそも後漢時代、豫州は多くの人材を輩出した地域であり、名士層の数自体も多かったはず。そして漢末の荒廃も最も激しかった土地ですから、避難する人も多かったでしょう。地理的に豫州から避難するなら荊州か揚州が妥当です。豫州出身者が目立つのは、こういった理由からも説明できると思います。
(J-SA05)
18 赤龍
さらに、豫州といっても、潁川と汝南が名士の二大グループを形成していましたが、大伴さんの調べたものを見ると、荊州には潁川人の方が多い。一方揚州方面に避難した人を見ると、汝南人が多く、潁川はほとんど見られない。これも、地図を見れば説明できそうですが、同郷意識も影響しているかもしれませんね(先に避難した同郷人を頼るとか)。
(J-SA05)
19 大伴
そういえば毛カイ(エン州陳留出身)も、始めは荊州に逃れようとしていましたね。非難場所とされるポピュラーな地域だったのかも知れません。


赤龍さんの話を見て、蛇頭の事を思い出しました。蛇頭に頼った密航をする人は、出身者が作る華僑組織が少ない地方の人ばかりとか。先に移住した、頼るべき組織を知らない人々が、蛇頭を使って新たなネットワークを構築している様です。まぁうろ覚えなので、今度しっかり調べておきます。
(F2102V/FOMA)
20 赤龍
荊州は中原の戦乱があまり波及せず、劉表も避難した名士保護の姿勢をとり、劉表自身も天下に知られた清流派名士。避難先には最適な地の一つですから。他に益州・揚州・交州・遼東が主な避難先です。これらで、豫・エン・司隷から一番近いのは荊州になりますね。
(J-SA05)
21 大伴
趙ゲン伝に

「そのむかし、趙ゲンは同郡出身の辛ピ、陳羣、杜襲と並んで名を知られ、辛陳杜趙と称されたといわれる。」

とありました。同郷人スレッドにご報告致します(笑)
(F2102V/FOMA)
22 大伴
探してみると、同郷人は案外にいて、似た様なイメージを持つ事がありますね。趙雲と張燕なんか、何となく似たイメージではありませんか?

さて>>150で話題になった北海派閥。他にはどんな人々が考えられますか?袁紹に仕えていた王脩とか?
(D505iS)
23 大伴
申し訳無い。上記>>>150です。孫乾について書かれた部分参照。
(D505iS)
24 しす
こーいうスレって意外と大事だよage
(PC)
25 ストラップ
赤龍さんが>>>287-14で言われている内容は、シンタリティの問題とも係わると思いますので、こちらで引用しておきます。
(F2102V/FOMA)
26 ストラップ
王允-呂布ライン。
呂布は北の五原郡、王允は南の太原郡。随分離れてはいますが、同じ并州人という事もあって、クーデターを計画した様な気がします。
(PC)
27 ストラップ
同郷というのは違うかもしれませんが‥‥‥曹操と魏書諸夏侯曹伝第九に登場する人々は、先祖代々譙県に住んでいたみたいですね。

「太祖武皇帝、沛国譙人也(中略)漢相国参之後」
「夏侯惇字元讓、沛国譙人、夏侯嬰之後也」
(PC)
28 ストラップ
>>27
そういえば、>>>33-17もそうですね。

>>27は携帯端末から見ると文字化けしていますが、「国」と「人」に挟まれている部分は共に「ショウ」です。
(PC)
29 赤龍
>>>95-42で名前の出た伊籍。彼は劉表と同郷で若くから劉表に従ってたとあります。おそらく荊州以前からの側近と思われます。
蔡瑁、カイ越、韓嵩ら荊州の地元豪族グループにつかなかったのも、そこら辺に一因があるかもしれないですね。
(PC)
30 狄仁傑
皆さんご存知かとは思いますが
中国では『郷党』と言って同郷の者同士で我々には信じ難い連帯を持つようです。
この現代にすら上海などの大都会へ行くと『四川会館』等の他地方出身者の為の互助組織の建物があります。
言わんや交通・通信の未発達な三国時代は郷党はもっと強く作用したと思われます。
今ですら北京・四川・広東等同じ中国語でもいくつかの系統があり、他地方出身者との会話にはかなり苦労する様ですから当時は他の郷党≒異国人と言っても過言で無いかも知れません。
余談ですが私の友人が西安に留学した折りにずっと『福建省から来た』と嘘を付いてたそうですが最後までバレなかったそうです。
(W31SA/au)
31 ストラップ
>>>366-20
そういえば北海も>>18と並んで、インテリ系人物の代表的出身地ですね。
学問に力を入れた土地柄なんでしょうかね?
(F2102V/FOMA)
32 ストラップ
>>4
「卿とは州里なり」
の印象から、同郷であるのみというイメージですが、魏書第八に
「ヘイ州で採用され、武猛従事となった。丁原は張楊に軍を統率させ〜」
とあるので、呂布と張楊はもっと親しい間柄であった可能性もありますね。
(F2102V/FOMA)