1 天草

官渡の戦い

いよいよ実録シリーズの新シリーズをスタートさせました。今回は今までみたいな早い更改は出来ないですが、頑張ります!

さて内容は私自身も楽しみにしていた官渡の戦いです。そこでこの戦いについて、語り合いましょう。
(PC)
2 天草
まずは今回アップした『献帝擁護』についてですが、この事に大きな意味はあったのでしょうか?また、なぜ曹操だけが献帝擁護に成功したのでしょうか?
(PC)
3 たかひろ
参考までに俺がいた研究所の見解は明確に『地の利』と『天子奉戴の意志』が天子奉戴の成功だとしてましたよ。
(F2102V/FOMA)
4 大伴ゴジョウ
先ずは先走らず、天草さんの実録シリーズを待つ事としましょうよ。
その後ゆっくりとね。
(F2102V/FOMA)
5 天草
地の利?

う〜ん…あの位置で曹操に地の利があったのでしょうか?

官渡の布陣のことかな?
(PC)
6 たかひろ
さぁ?それが学者さん達の意見だよ。
俺は洛陽、長安、許、カントと随行したが軍学や地理学なぞチンプンカンプンなんでサッパリ(笑)
(F2102V/FOMA)
7 大伴宿禰ゴジョウ
実録シリーズ、面白くなってきましたね。三国志一番の見せ場。
霹靂車は、攻城、防城戦の手法を、野戦に応用したという、エポックメイキングな出来事です。現在のフィールドアーティラリーのハシリですね。
(F2102V/FOMA)
8 小龍
確かにおもしろいですね!私も楽しみで仕方ありません。チョウコウの降伏の場面は出てくるのかな?
文醜も関羽にやられたのかと思い込んでました。本当は違うんですね。
(N900i/FOMA)
9 天草
皆さんが楽しみにしてくれれば、こちらもやりがいがあります!
今日も一章を入れておきました!私も今回は今まで以上に面白いです!
(PC)
10 大伴ゴジョウ
ついに沮授が……。

三国志という歴史が、一時の栄光と、敗れ去る者とのドラマである事を、再認識させられますね。
盛者必衰、万物流転、 栄枯盛衰……生者必滅会者定離は浮世の習ひにて候也……日中すれば則ち移り、月満つれば則ち欠け、物盛んなれば則ち衰うは、天の常数為り……
(F2102V/FOMA)
11 天草
明日はもう一人の英雄が逝く予定です。

大伴殿>誰の言葉ですか?
(PC)
12 大伴
三国志関係ありませんよ。

平家物語。
(F2102V/FOMA)
13 大伴
今日は田豊が……
(F2102V/FOMA)
14 天草
ついに明日で完結予定です。今回は本当に楽しかったなぁ。。。
(PC)
15 たかひろ
よみました!面白かった!むーしかし、小説家志望の物書きとしては文章ありきで読んでしまう。わるいくせ(笑)

Upはパソですか?俺、小説Upするのに携帯ですから、かなりキツいなぁ。
(F2102V/FOMA)
16 小龍
ゲームや漫画のイメージが強いので、田豊などは老人のイメージで、チョウコウなどは若いイメージがありますが、実際この戦いのときはいくつくらいだったんでしょうね?
(N900i/FOMA)
17 天草
ついに完結させました(涙)
実録シリーズはかなり疲れますので、しばらくはお休みします。なにせ、順番的にも、次はあの戦いとあの戦いが待ってますからね。

意見・感想お待ちしてます。
(PC)
18
天草さん、お疲れさまでしたm(__)m
確かに文章力ありますよね。活字嫌いな私でも、引き込まれましたよ(^O^)/
それにしてもカクカの言葉…鳥肌が立ちました!
(N900i/FOMA)
19 大伴ゴジョウ
最終回には郭嘉が……(涙)


天草さんの構成力ある文章も手伝って、面白く読みました。次は三顧の礼あたりでしょうか?


公孫サンのスレッドでも書きましたが、三国志、実は生年の不明な人物は多いのです。公孫サンも不明ですし、関羽、張飛、趙雲、呂布、董卓……といった、通俗演義のメインキャラクターですらそうですから。
没年不詳の人々も、多く存在します。劉璋、陳登、張魯、戯志才、許チョ、賈ク、李典、文聘、劉ヨウ、曹真、郭昭、といった、三国志を少しでも知っている人にはおなじみの人々ですら、そうなのです。これらの人々の死亡時期は、ある程度までしか絞り込む事ができません。
(F2102V/FOMA)
20 たかひろ
専用スレたてまひょか?しかし、このような伝記感覚はたのしいですね。
俺は九月の歴史群像大賞に応募しようと追い込みなんで触発されます。
(F2102V/FOMA)
21 天草
歴史群像大賞!
凄いですね!大伴さんも是非どうですか?詳細はどこかに書いてあるのかな?検索してみよ!
(PC)
22 たかひろ
公募マガジンに乗ってますよ!
(F2102V/FOMA)
23 天草
たかひろ殿>情報感謝!!

袁紹軍の敗因は、いくつか数えられると思いますが、まずは開戦前の騒動から…。天子奉戴は間違いなく曹操に遅れを取ったわけですが、沮授・田豊という名参謀に大反対されながらも、南下を決行した事。果たしてこれは本当に失敗だったのでしょうか?兵数・国力…全てを取っても優っていた袁紹軍が挙兵をためらわなければ、いけない理由は本当にあったのでしょうか?

実録シリーズをまだ読んでない方はTOPページよりどうぞ!ロムされてるだけの方も是非、発言下さい!
(PC)
24 大伴ゴジョウ
官渡の戦いにおいて曹操は、まぁ先ず負けるという戦いに挑んでいますよね。郭嘉が唱えた、曹操に有利な条件など、圧倒的な戦力差(物資の量や補給路の整備等の条件も加味すれば相当な差でしょう)の前では些細な事ばかりです。十回やって一回勝てるかの戦いだと感じます。曹操は他の戦でもそうですが、相手のミス、ドジ、ヘマに助けられ、多くの勝利を納めています。
しかしそれは、曹操の思い切りの良さが生んだ、勝機であったのだと、私は思いますね。あの時期に戦わねば、袁紹はより強大になっていた蓋然性は高く、そうなっては己の負けは明らかです。曹操はだから、わずかでも勝ち目のある時に動き、そして、その積極性、能動的行動が、勝ちを納めるに至ったのでしょうね。その攻めの姿勢こそが、相手の失敗を呼び寄せたのだろうと思考します。あの時期に賭けにでれた事。これこそが曹操の強さであり、勝因だと考えますね。
(F2102V/FOMA)
25
曹操に負けてもらいたかったね。
(TT21/TU-KA)
26 大伴
私にはそういう希望はありませんが……又面白かったやも知れませんね。歴史が大きく動いた一戦であった事には、間違いありませんから。
たとえば劉備という人は、どうしたでしょうか?袁紹の配下のままでしょうか?得意の裏切りでしょうか?その袁紹の息子達は、もっと大きな規模で争ったでしょうか?より大きな動乱により、大きな災いをもたらしたでしょうか?諸葛亮という人は、誰かに見出だされる事が出来て、歴史の表舞台に立つ事になったでしょうか?それとも名も無き人として、埋もれたままだったでしょうか?

こう考えると、歴史という物が流れであり、個人でそれを留めたり、早くしたりする事が出来ないにも拘わらず、それを作り出しているのは、個人の仕事の集まりである、という事が感じられますね。列伝を持っている人一人が欠けても、今の歴史があったか否かという問題には、疑問符を打たねばならぬでしょうね。
(F2102V/FOMA)
27 天草
袁紹陣営から見たら、どうだったんでしょう?

逆に私は沮授・田豊が言う様な消極論より、むしろあの時機に戦を仕掛ける事は正解だった様に思えます。劉備・劉表・孫策・張シュウと敵に囲まれてた曹操を討つには絶好のチャンスだったのではないでしょうか?

それだけに曹操自身が劉備討伐の為に陣営を離れた際、攻撃しなかったのは、やはり悔やまれるような気がしてなりません。
(PC)
28 天草
もう一回あげとこ
(PC)
29 大伴
軍事というのは難しいもので、慎重で無かったが為に失敗する事と、慎重であったが為にチャンスを逃し、失敗するケースがありますよね。無論限られた情報と時間の中での決断が、事をより一層難しくします。
後世の我々の視点から見れば、思い切った行動に出た曹操に対し、袁昭は慎重過ぎましたね。しかし私としては、袁昭を無能というよりも、曹操の積極性、能動的行動の方を、どちらかと言えば評価したいですね。
(F2102V/FOMA)
30 天草
赤壁は置いといて、この戦で袁紹が負けたのは、やっぱり解せないんですよね。

チャンスはたくさんあったのに、袁紹はそれを生かせなかった。一方曹操は少ないチャンスを確実にモノにしたってとこなんですかね。
(PC)
31 くわぁまん
オヒサでゃんす

これは、某、光栄が出していた投稿雑誌にあちしが投稿したネタでゃんす。

官渡戦で烏ソウを攻められた袁紹が思わず叫んだ言葉。
『うっそー』

あちしはこのネタでテレホンカード貰いゃした。
(SH900i/FOMA)
32 天草
くわぁまん殿>そんな雑誌があるんですか?気になるなぁ(笑)
(PC)
33 小龍
官渡の戦後処理で、袁紹軍と内通してた武将の文書まで見つけた曹操は、咎めるどころか…っていう場面がありますよね。
このあたりがさすがは曹操だと思いませんか?袁紹なら間違いなく死刑ですよね。劉備でも許さないんじゃないかな?
気になるのは、実際にどんな武将が裏切ろうとしていたのかってとこですよね?意外にもあんな人が!なんて記録が残されてたら、面白かったのに。
(N900i/FOMA)
34 大伴
曹操は人材マニアな上に、損得の計算が上手いですから。

すでに勝利した今は、許す事の方が得だと考えたのでしょうし、事実、そういう気持ちが理解出来たのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
35 大伴
天草さんの作品、「堕 落」における、烏巣への物資輸送の計画は、面白いアイデアでしたね。

一応関連上げしておきます。
(F2102V/FOMA)
36 天草
再度検証!

曹操は官渡で袁紹と対峙した時に、あろうことか劉備討伐のために一旦軍を抜けてます。もちろん少ない兵力をそちらにも分けていたでしょう。
参照

なぜ危険を冒してまで曹操は劉備を追ったのでしょうか?

また袁紹はなぜこの好機を活かさなかったのでしょうか?

参照
(PC)
37 大伴
多分戦略の教範ならば、袁昭の勝ちとなる模範的回答例でしょう。

曹操は寡兵で物資に乏しいだけで無く、敵前渡河をせねばならないのです。通常渡河作戦は敵方の三倍の戦力が必要とされています。

どう考えても、曹操の勝ちは0に感じられます。何故この様な戦闘を起こしたとはまるで秘密ですよ。
(F2102V/FOMA)
38 大伴
申し訳ない。↑寝むりながら打ってたので、途中から夢の話になってます。酷いですね……(瀧汗)

何故この様な戦略を考えたのか。そこはまったく理解出来ません。まともにやれば曹操は負けている筈ですから。

↑後半はこの文章に差し替えでお願いします(汗)

曹操が袁昭より優れた十の利点なども、本当に有利な条件ならば、ワザワザあえて言う必要の無い事柄ですよね?ああいう事(味方の勝っている部分)を十も言っているという事自体が、苦しい実情を表現していると思われます。
(F2102V/FOMA)
39 ユウキ
でも放っておいたらもっと勝つ確立は無くなりますよね今やらなければどちらにせよやられるって感じたんじゃないんですかね?でも無謀話は変わりますけどソウソウとエンショウが戦わずにいて、いつのまにかリュウビがショクにいて、ソンケンが確固たる地盤を固めていて4国で争ったらどうなるんだろいつもゲームだとそうなるんですよ大体ソウソウが総攻撃受けてやられます
(P900i/FOMA)
40 天草
>>39
ユウキさん、笑いました!
確かにそういう形になりますよね(笑)

歴史にifは考えにくいですが、結局内から壊れていたのではないでしょうか?
官渡で袁紹が勝利していたら、本当に笑ったのは孫策・孫権ではなかったかな?と思いますね。

案外劉表かも?
(PC)
41 ユウキ
ifの話ですいませんでも袁紹が残っていれば孫権は袁紹と同盟して曹操が動けない内にケイシュウを取れてたんじゃないですかねショクまではわからないですけど周ユはショク取る気あったみたいですし袁術との関係もありますけど孫権なら外交に関しては得になればなんでもありですからねまぁ劉備のショク入りはかなりというかほぼ無理ですねそしたら呉はもっと人気があったそしたら孫堅がヒーローで孫策が英雄で孫権が明君みたいな劉備なんかより全然孫堅とか孫策の方がやってる事立派ですからね話をずらしてしまってすいません
(P900i/FOMA)
42 天草
曹操は…

@袁紹は焦って攻めてこないだろう。
A劉表は北上するような度胸はないだろう。
B孫策の命は長くないだろう。

以上の予想の上で官渡に対峙したわけです。(Bはカクカの意見)

そこに確固たる証拠があるわけでもなく、あくまでも推測である事を考えると、ある意味凄いギャンブラーですよね!

また国も持たない劉備に対して、異常なほどの執着心を見せるのは、何故でしょうか?
(PC)
43 ユウキ
そうですね1の事なんですが郭嘉は袁紹と面識があってある程度の信憑性がありそうです10の勝因の話とかほとんど鍵は郭嘉が握ってたのかもしれないですねそれでも確実ではないですが劉備に関しては、関羽や張飛を恐れたわけじゃないだろうし曹操はこの世の英雄は君と私だけだって言ってるんですよねそしたらやっぱカリスマ性があったんですかねそれともコンプレックス劉備も人相見の先生に見てもらってたら曹操と劉備の違いがもっとわかったかもしれないですよね
(P900i/FOMA)
44
逆にエンショウは、曹操を知っていたから攻めなかったのでは、許都には青州兵もいましたし、漢の正規軍もいたでしょうから、大兵法家相手にはかなりロスはあるが、じっくり相手の弱体化を狙ったほうが良いと考えたのではないでしょうか。

曹操はつまりそれすら打ちやぶったということで
(F900i/FOMA)
45 ずわい
読みを賭けと言ってしまうのはちょっと違うような気もします。
カクカはエンショウに勝てる理由を色々あげているようですし。
北上にあたって、その他の君主については曹操はそんなに気にしてなかったのでは?
戦においても大義名分が重んじられた当時ですから、天子を擁している曹操に刄を向けるのは朝敵にみなされる行為。
あくまで予想ですが。
劉備への嫉妬はやはり漢室の末裔に対してのものだと思われます。後々厄介になりそうですしね。
しかし劉ショウも劉表も大した人物ではなかったのでノーマーク、劉焉が生きてたなら別かもしれませんが。
(N900i/FOMA)
46 ユウキ
弱体化を待ったって言うのなんですけど官トの戦いの時誰かが(忘れちゃいましたすいません)即戦を支持しました、対照的に田豊や沮受は持久戦を支持しましたでも袁紹は即戦を選びましたよね実際に戦闘になった場合となってない場合では状況が違うと思いますが弱体化まで袁紹は考えてたんでしょうかあくまで僕の考えですが
(P900i/FOMA)
47 大伴
ずわいさんはじめまして。以後も宜しく。

実は劉備が漢室再興を主張しはじめるのは孔明との草廬対以後ですから、私は曹操が恐れたのは、漢云々では無い気がしますね。

やはり曹操が官渡での決戦に踏み切ったのは、あの時期の方が未だ勝算が高いと踏んだからでしょうかね。

官渡での大勝を考えれば、赤壁の大敗は小さな問題にさえ感じられる位です。
(F2102V/FOMA)
48 天草
確かに大伴さんの言うとおり、赤壁の負けなんて小さく思えるほど、官渡の勝利は曹操にとって大きいですよね。

袁将軍の中で、誰が開戦を主張したのか?誰が持久戦を主張したのか?…このあたりは、『実録シリーズ』の官渡の戦いを参考にしてくださいね★

実録・官渡の戦い
(PC)
49 大伴
さてこちらでも「苟イク無能説」のキャンペーンを。
先ずは、
>>24
>>29-30
>>37-38
で、官渡の戦いの概要を確認下さい。

(以下苟イク伝より)
さて、この様な戦いであったにも関わらず、「勝つことは難しい」と評価した孔融に対し、勝つと断言しています。後世の目から見ても勝ちは薄い様に思えるのに、この時点で確信している事こそが、軍事に疎い事を示している様に思います。孔融は「難しい」という表現をしています。これは冷静な判断であり、状況分析が出来ない苟イクとは大きな違いです。

又曹操には、食料が無くても退くなと言っています。結果上手くいきましたが、これは補給の重要性を知らないが故の発言では無いでしょうか?


彼は「才能のある者は弱くても強くなり、不適当な人物は強くても弱る」などとも発言していますし、上記二点と合わせて考えるならば、精神論で戦争に勝てると思っている類いの人間では無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
50 大伴
>>>163-8
について。163-9から一部、私の意見をコピー&ペースとします。

官渡での戦力差に関しては、裴松之自身も懐疑的ですね。しかしそれは誇張されているだけで、曹操側の不利は変わらぬと思います。又、局地的な不利であっても、一点が破られれば、集中展開を許したでしょう。ここで勝ちを主張する苟イクを、軍事に明るいと評価して良いものでしょうか?
(F2102V/FOMA)
51 赤龍
孔融の意見は誰でも思う、一般的な意見。対して荀イクは、敵の内情を分析し、こちらの勝機を示したもの。どちらが優れているかは明白です。しかも袁紹と対峙してる最中に、味方の不利を言いふらされては士気にもかかわります。論破し、人心を鎮める必要もあります。これも荀イクを無能とする根拠にはならず、むしろ評価すべき点と考えます。
(J-SA05)
52 赤龍
退却しようといい曹操への返答も、ここは耐えるべき時と判断し、弱気になっている曹操を励ましたもの。補給の必要も分からないほど馬鹿じゃないでしょう。もし官渡を退けば、敵は一気に都へ迫り、戦況はさらに不利になったかもしれません。これも、適切な判断としてよいと思います。
(J-SA05)
53 大伴
>>49-51
劣勢である時に勝機を見出だす時、先ず最初にすべき事は、我が方の劣勢を知る事です。負けているにも関わらず、大丈夫だと考える事は、敵を侮る事であり、負けに通じます。
無論、一兵卒に対する態度であるならば、モラールを高める為に安心感を与える事が大切です。が、孔融はそういう立場では無く、状況認識をしっかりと持つべき立場の人間です。
この時点ではまるで勝ちは見えていません。せいぜい付け込む隙があるという程度。孔融の様な見方で、勝つ為のこまやかな配慮を検討すべきです。
つまり状況把握ができていなかったか、鼓舞する相手を間違えているかです。いづれにしても、彼は軍事に疎かったと言えるのでは無いでしょうか?


>>52
現場の要求をつきはねて無理をさせ、全滅した戦いは数多くあります。確かにここで引けば総崩れになった可能性は否定できません。死守すべき要地だったのでしょう。しかし、>>>15-25に示した様に、曹操は退却戦のエキスパートです。
たまたまここが決壊しなかったというだけで、もしここが崩れていたら、後退の方がまだましだったでしょう。ここを引くか留まるかは、高度な判断です。
苟イクが、本当に戦地の戦闘力差を計算して撤退を支持しなかったか否かは、甚だ疑問です。
(F2102V/FOMA)
54 大伴
>>52
訂正

無くても本文に支障はありませんが、曹操の後退の説明は
>>>72-25
の誤りです。
(F2102V/FOMA)
55 赤龍
戦況が劣勢であることは、言うまでもなく両者含め誰もが認識していた事。孔融の言は、それにただ脅え、動揺する人々を代表するものにすぎず、一方荀イクの言は、劣勢の中にも敵の弱点を探し、勝機を探るもの。そして、孔融一人でなく、動揺する朝廷の人々に向け、混乱を静めるための言葉でしょう。どちらがより冷静で、適切であるかは明白ではないでしょうか?
(J-SA05)
56 赤龍
補足。『後漢書』荀イク伝、同様の箇所で、「袁紹の軍は大変強大で、議論する人達(つまり朝廷の人達)は皆恐ろしく思っていた。少府孔融はイクに言った〜(以下『三国志』と同様)」孔融の発言の背景をより明確にする史料です。
(J-SA05)
57 大伴
ではこの時の苟イクの発言内容を個々にみてみましょう。

「兵は多いが軍法が未整理」
これは問題ありません。事実苟攸はこれを利用し、文醜の陣形を乱しています。

田豊、許攸、審配、逢紀の性格的欠陥を述べる
これは問題です。確かに敵の指揮を担う者の気質を知る事は重要ですが、敵の性格的欠陥を則勝ちに結び付ける事は大変危険です。特に内通すらしていない者が「必ず裏切る」というのは楽観が過ぎます。勝利の根拠とするには甚だ疑問です。許攸の家族が罪を犯すという前提も、あやふやです。又、今ある情報の確かさに疑いを持っていない事にも危険があります。敵の人事を全て知っているという傲慢が感じられます。

「顔良と文醜は、簡単に生け捕りにできる」
苟イク伝に、「苟イクの予想したとおりになった」と続きますが、簡単だったでしょうか?


ここで話されている内容は、ほとんどが軍事的根拠に欠けるか乏しい事ばかりです。無論孔融相手に勝利の秘策を披露する必要はありませんが、声高に勝利を唱えるならば、もう少し具体的な根拠を唱えるべきなのでは無いでしょうか?


彼はどこを見てもそうなのですが、全く具体的な事は述べません。
(F2102V/FOMA)
58 大伴
例えば苟攸は、輸送部隊を囮に文醜の陣形を乱す事を提案します。官渡での戦闘ではありませんが、郭嘉は単干を攻撃する際に補給部隊を伴わない快速の軽騎兵で急襲する策を提案しますし、賈クは多くの策を李カクや張繍に授けています。
では、苟イクはどうでしょう?彼にはそういうエピソードは一つもありません。

食料が尽きかけた時はどうでしょうか?戦力差を計算して撤退を指示しなかったのか否かも疑問ですが、その後のアドバイスは間が抜けています。
「今こそ奇策を用いる好機。時期を失うな」
現場にいない物がチャンスか否かを判断したのは、戦略的判断と大目にみても、「奇策を用いる」というアドバイスには何の意味もありません。そんな手が本当にあるのならば、具体的に教えるべきです。彼は自分では、全く方法が考えられもしないくせに、現場に「奇策」を要求しています。


彼には軍事的才能が欠落していた為、この様な間抜けなアドバイスしかできなかったのではないでしょうか?
(F2102V/FOMA)
59 赤龍
荀イクの言は、孔融の言と対にして考えなければいけません。孔融が袁紹陣営の人材を列挙したから、荀イクは彼等の問題点を挙げていった。論破の方法としては間違っていません。
(J-SA05)
60 赤龍
どうも大伴さんは、戦場での軍事の視点に偏重して論を進めている傾向があります。荀イクの果たした役割を見ると、戦場に同行し戦術を授ける軍師でなく、大局的な指針を授ける参謀的な役割を果たしてます。荀イクの示した戦略に沿い、曹操は強大になっています。その役割の彼を、戦場の現場の軍師の視点から非難するのは的外れではないでしょうか?
(J-SA05)
61 赤龍
つまり、具体的な戦術を示してないという意見ですが、それは現場の郭嘉や賈クが考えること。そうした分野では彼等の方が秀でていたでしょう。しかし、その面だけに偏った評価をし、荀イクを無能だとするのはどうでしょうか?
(J-SA05)
62 大伴
苟イクは、多くの軍事的発言をしていますが、私はそれが彼の軍事的素養に裏打ちされたものかどうかを疑っています。


「民政家として、官吏として有能であった」
褒め讃えるだけの三国志の記述からは、ここを切り崩す事は不可能です。
故に、私は軍事的才能の欠如を指摘する事によって、彼の万能性を取り除きたいと思います。

この話(軍事的資質云々)は以後
>>>163
で。(続く時に「>>>13-62より」と貼って下さい)
(F2102V/FOMA)
63 大伴
確かに孔融への答えは、孔融が褒めたものを褒めた順に否定する手法が取られています。一般的な場合には効果的かも知れません。

が。
強い相手と戦争する時に、あの様な内容を聞かされて、真に勝てると納得できる人は少ないと思いますよ。勝てるという事を示すにはやはり、具体的な内容で、プレゼンテーションをすべきだと思います。
(F2102V/FOMA)
64 赤龍
具体的な戦略、戦術なんてものは衆前でぺらぺらとしゃべるものではないと思いますよ。どこで敵に漏れるかわかりませんし。そうした戦略は曹操と語ればよく、現場の戦術は現場の軍師が臨機応変に考えればいいことですし。
(J-SA05)
65 赤龍
そもそも、この記事は、孔融の一般論的な発言を、荀イクの敵将の分析が論破したこと、並びに両者の見識の差を示した記事と捉えてよいと思われますから、孔融の言に対応する反論だけ記載されて当然の箇所だと思います。
(J-SA05)
66 大伴
私も>>57に書いた様に、秘策を披露する必要は無いと思います。

が、この反論が大きく説得力を欠くのも事実。この程度の反論しか出来ない事が又、彼の知識の薄い事を露呈させているのでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
67 赤龍
私は言うべき事はだいたい言って、大伴さんと視点、評価がわかれ膠着状態といったとこでしょうか?ずっと私と大伴さんの討論になってるんで、他の方の意見もお聞きしたいです。
(J-SA05)
68 赤龍
ちょっと話ずれますが、荀イクの発言中の許攸の裏切りの予測、予知能力か?というくらい、経過から結果まで、きれいに的中してますよね。あの一節だけ、やけに具体的ですし。あの箇所、陳寿もしくは彼が参考にした記録の著者が、荀イクの発言をまとめる際により、後の結果を踏まえて少々誇張して記述したのでは?と推測してます。
(J-SA05)
69 大伴
そうですよね。
私もあの予言はおかしいと思います。

開戦前にあの様な発言をした事をあげて、苟イクを責めましたが、あの部分は苟イクの有能を誇張する為に後世の人によって付加された部分では無いかとも疑います。
(F2102V/FOMA)
70 大伴
官渡の戦いの時、袁尚は何をしてたのですか?
二人の兄と叔父はそれぞれ一州をまかされていた様ですが
(F2102V/FOMA)
71 天草
袁尚はずっと袁紹のそばに置かれていたんじゃなかったかな?となると従軍してたんじゃないでしょうか?

んで、袁紹には官渡の時に、まだ小さい子供がいたことになってると思うのですが…。

曹操が劉備討伐の為に戦場を一旦離れてしまった時、田豊はこの機を逃さず、攻めるように進言しましたが、何故か袁紹は子供の病気を理由にこれを拒絶してます。

この時の袁紹の行動は全く不可解ですが、本当に息子の病気がその理由だったのでしょうか?
(PC)
72 しす
お蔵入り寸前サルベージage
(PC)
73 天草
一旦ageま〜す(タモリ風)
(PC)
74 天草
>>>42-27
普通に考えれば、そうなのですが、袁紹と既に退治した状態で、兵を割くだけではなく、さらに指揮官自らわざわざそこを離れて向かうにはリスクが大きすぎると思うんです。

そこに不自然さを感じませんか?

だからと言って何か他の仮説がある訳でもないのですが…。

袁紹は絶対にまだ仕掛けてこない…という絶対的な自信があったのか?
そもそも袁紹はまだ出兵していなかったのではないか?

そんな考えはいかがでしょう?
(PC)
75 しす
顔良、文醜はスレ立てしないでも、ここで充分じゃないですか?age
(PC)
76 巫俊(ふしゅん)
顔良、文醜については「官渡の戦い」スレがあるということになっています。
顔良、文醜は正史には立伝されておらず、義兄弟であるというのも創作だと思われます。
(PC)
77 袁家熱愛
そうなんですよね。本当にいたかどうかも分からず、さらにやられ方もあっさりしてて、猛将とは思えません。
(912SH/SB)
78 袁家熱愛
てゆうか、官渡について述べますが、袁紹が敗れた大因は袁紹の采配力の無さもそうなのですが、それより、兵糧拠点:烏巣陥落に繋がった、配下許攸の裏切りだと思うのですが、みなさん、いかがですか?
(912SH/SB)
79 巫俊(ふしゅん)
>>78
先ほどから袁氏関連のお話を窺っていますと、おっしゃられる中に正史ではなく演義に由来することを取り上げられ、そのことで憤っておられる場面もあるように見えました。
袁家熱愛さんのおっしゃる不満は正史(歴史)に向けるべき性格のものではなく、活劇を重んじるストーリーの世界で不満をこぼすべき、つまり袁氏陣営にも熱い人間活劇を入れろ!つくれ!ということにあると思います。

歴史とはストーリーとは性格を異にするもので、もっと冷たくあるものです。
(PC)
80 袁家熱愛
はい。そうですね。歴史ってそうです。確かに本当の、正史は分かりません。自分は、演義と正史が混同してるのだと思います。今度は冷たい正史も、よく知りたいなぁと。

まぁ、ただいくら創作」が入ってる(相当な)とはいえ、様々な人間達が輝いてる演義(他書も含め)と、リアルな正史の混同が、三国志が好きになるゆえんかと。 ただ、「大好き」の次に来るのが、正史を知ることであるのは知っています。
(912SH/SB)
81 千秋姫
っていうか、劉備って曹操から逃げて、袁紹のところに逃げてきて(我ながら図々しい(笑))官渡の戦いに参加する訳ですけど、たしか…文醜と一緒に黄河を渡って、くらいしか知らないのですけど…。
未熟な私に、劉備が官渡で何をしたのか教えてください!
(>_<)
(812SHs/SB)
82 袁家熱愛
官渡で、袁紹は、烏巣急襲の際に郭図の策によって援軍を取りやめ、敵本陣を張コウ、高覧に強襲させましたよね?本陣を守っていたのは曹洪のみでしたか?忘れてしまったのですが、もし曹洪のみであれば、張コウ・高覧のタッグで陥落させられたのではと思うのですが。
(912SH/SB)
83 寿君
うーん、これは厄介な話だなぁ

確かに、曹操は主力を率いて烏巣を奇襲。ならば、兵力が低下している官渡を逆にこの機に落としてやると言う作戦は間違いではないとも言えます。
ですが、これは単純に張コウと高覧対曹洪だから勝てたのではと言う図式は成り立ちません。しかも、官渡は城塞であり、曹洪以下留守部隊が例え最悪数千であろうと激しく防戦すれば、そう易々と落ちるものではないと思います。
しかも堅守している間に、烏巣は焼き払われて兵站が失われた情報が入れば、曹操軍の士気はいよいよ上がり、曹操帰還まで奮闘するでしょう。逆に兵站を失ったと言う情報が袁紹軍全体に及ぼす心理的影響は小とは言えません。
ただ、しかし夷陵のスレでも他の方とお話させてもらいましたが、戦争とは「計画通りに進む」物ではありません。
ただ、戦争で最も大事なのは兵站です。が、敢えてそれを捨てて裏を掻こうと言うのも間違いではないと思います。(かなり好意的な観点ですが・笑)

諏訪さんがおっしゃっていて、私も同意させられたのですが、「戦争は何が起こるか判らないから怖い」のです。
そう思い通りに行くなら、曹操は赤壁で負けなかったし、孫権は合肥を抜いただろうし、劉備は夷陵で勝ったでしょうしね。
(P905i/FOMA)
84 寿君
>>83
ああ、考えながら書いたから、所々変な文になっちまってやすね。I'm sorrym(__)m

休憩時間に書くからこうなるんだ…(苦笑)
(P905i/FOMA)
85 袁家熱愛
休憩時間を削ってまでの御解答、本当に感謝です! 武将の問題ではなく、軍自体の士気の問題なのですね。 官渡とゆう堅固な城塞に加え、指揮しているのが曹操自ら激励を与えたであろう、曹洪ですから(笑)確かに、勝てないかもしれません。

となると、淳于瓊の待つ、烏巣へ援軍をしなかった時点で、袁紹の敗北はほぼ決定されていたのですね(笑)
(912SH/SB)
86 朱家
『後漢書』ですが、張コウ、高覧は攻撃していて、下す事が出来てません。

官渡を仕掛けたのは、曹操だと思いますよ(公孫賛との最終局面で背後を動く)。まあ、どっちが先かは不毛だけど、少なくとも、演義のような感じではないです。
鳥巣の件で、袁紹は一時撤退し、反乱があるけど、曹操はそれを助けていない(おそらく、その力がない)、依然として、国境付近で袁紹が狙ってますし、曹操は守勢の感じがします。倉亭で勝った、との記述はあるが、具体的な記述は皆無で、かなり疑わしいと思います。
つまり、鳥巣の件は、状況を一変させるほどではないと思うのです。一般的には、許攸の裏切りですけど、私は「袁紹が病にならなければ」です。周瑜が…などと意味合いは同じ。

あと、袁紹が死ぬまでの約一年、三国志全体でも、史料がほとんどありません。もしかすると、曹操側に都合の悪い「何か」(袁紹絡み含む)が、あったのかもしれません。
もう一つ、摩擦が生じるかもしれませんが、袁紹を離れた筍イクが、意地になってる感じもします。

なんか、袁紹を擁護してるみたいで嫌(笑)
(PC)
87 朱家
失礼、書き忘れです。
袁紹の誤算は、自身も言ってるように、張コウ、高覧が陥落させれかった事で、鳥巣ではないと思います。
(W32K/au)
88 寿君
>>86
これは、
「官渡戦で曹操は勝ったけど、これでミリタリーバランスが崩れたのではなく、以前として両者は拮抗、袁紹が死んだ為に、袁家は分裂して、そこに曹操がつけこんだ」
と言う事ですね?。

それで官渡戦の敗因は、烏巣襲撃ではなく、官渡を落とせなかった事と言う事ですね?。

じゃあ、袁紹軍は官渡を落とせなかったから撤退したと言う事ですか?。
反撃されて壊走した訳ではないのでしょうか?。
(P905i/FOMA)
89 寿君
>>88
何やら、刺々しくてくどい文調になっております。
単に疑問に思った点を書いてるだけなので、気を悪くなさらないでください。
m(__)m
(P905i/FOMA)
90 朱家
何を気にされてるのか分かりませんが、大丈夫ですよ。

『後漢書』中心ですが。
張コウらには、結構な兵を預けてた(勝負所ですし)と考えますし、鳥巣と、彼等の降伏で総崩れは仕方ないですが、曹操は、僅か八百で、ショウ義渠の陣に入った袁紹を追撃せず、許に帰還しています。
袁紹が生きてると知って、兵が集結し、ギョウにも帰還せず、曹操も軍を動かし、史書的には睨めっこ。倉亭で勝ったとあるが(唯一勝った局地戦だけ残った可能性がある)、袁紹は、まだ帰還しない(笑)

問題は、その後の空白の一年。ギョウとは言わないものの、国境付近の争いすら記述がありません。
戦いがあったのなら、曹操は勝ってないし、『後漢書』だと、袁紹帰還後、南征しようとした曹操を、筍イクが袁紹関連で止めています。それほどの余力があっても、袁紹との差が大きいのか、単純に、もう袁紹とは戦いたくないのか、どっちだろう?後者であれば、分裂云々はあまり関係ないと思います。

推測ですが、ギョウに帰還せず、軍を立て直した袁紹、処遇の問題もあるが、許に帰還した曹操、この時点の国力、実力差かなと考えてます。
(PC)
91 寿君
あっ、ちょい安堵しました。

今、宮城谷さんの三国志の同じ部分を読んでたのですが、官渡直後、黄河南岸まで到達した曹操の動静が不明とおっしゃられてて、推測で「曹操軍も無傷ではないから、許に一旦引き揚げたのだろう」と片付けてますね。
あっ、荀イクの進言もあります。
宮城谷さんは「曹操>袁紹」でガッチガチなんですが(笑)、それでも倉亭勝利後の解釈が実に苦しい(笑)。
全部が全部「兵糧さえあったら、袁紹なんか今すぐにでも」みたいな表現になってます。
たぶん、資料を当たった時に、相当苦慮なさったんでしょうね。
(P905i/FOMA)
92 袁家熱愛
拮抗していた空白の時間。なぜ記述がないのでしょうか?ここが分かれば、さらに袁紹対曹操の決着の仕方が明白になると思うのですが…。
でも、袁紹が死去した理由って負けるはずがないと確信していた戦に敗北を喫してしまったショックからきたものじゃなかったでしょうか?そうすると、官渡で敗れた後も依然戦えた、という袁紹陣営の状況と矛盾しませんか?
(912SH/SB)
93 朱家
>>91
ありゃ?改めて調べましたが、その後の状況から、妥当だとは思いますが、確実な「許に帰還した」との記述はないんですね。失礼しました。いつの間にか、記述があると思い込んでました。怖い怖い(笑)
倉亭は、参戦した将も不明、戦果も不明、四月に勝って、許へ帰還が九月、その間も不明、その後も不明、かなり疑わしい(笑)、ちょっと前まで南征する余裕があったはずなのに…

>>92
拮抗してるか分からないですし、記述がないのは、本当に何もなかったのか、曹操が負けた歴史が消されたのか、あとは火事、盗難とかですかね。それを個人の主観、もしくは常識的に判断するしかないのが、歴史なんです。
私の場合、上記の倉亭で、実は負けてるかも、袁紹と戦いたくないかも、などと推測する訳です。

袁紹の死も、ショックで病になる、もしくは死ぬ(心臓発作以外)、現代でも因果関係は証明されておらず、「病で死んだ」以外は、歴史的に意味を持たないのです。
(PC)
94 袁家熱愛
なるほど…。朱家さん、ご教授ありがとうございます。
現存する記録と想像で、歴史を構成するしかないのですね。
でもやはり…実に知りたい!まぁ、無理なんですが(笑)
(912SH/SB)
95 寿君
>>93
倉亭の次は、曹操は汝南の劉備を掃討したように記載されてますね。ただ、倉亭の次とは確定できません。『先主伝』でも「袁紹を撃破した後〜」とあるだけですし。
ほんで、202年正月はショウに里帰りしてます。
許→汝南→ショウですから、豫州の鎮定なんでしょう。
5月に袁紹の死。ここまでは曹操の目は北を向いてない事は確かです。

袁紹に付け入る隙がまだ無かったのか、曹操に付け入る余裕が無かったのか、はっきりは言えなさそうです。
(P905i/FOMA)
96 寿君
追記
すいません、確かに倉亭勝利から、許帰還までの間隔がありますね。
ここで宮城谷氏は、「来るべき北進に備えて渡河点確保」としてますが、曹操は引き上げる訳です。
さすがに記録がないからか、「兵糧不足だから侵攻不可能、倉亭確保でよしとする」と、かなり「曹操に良い解釈」してます。

ただ、「倉亭を一時奪取はしたが、維持できずに撤退した(最終的には失敗)」と言う推測もできるので、どちらとも私には言えません。
まあ、大変興味をそそられる期間ではあります。

いや、袁紹は別にして、曹操の事も考えた場合です。
(P905i/FOMA)
97 寿君
「官渡の戦い」で、袁紹軍は土山の上の高い櫓から曹操軍めがけて一斉射撃。
これに対して、櫓を破壊する為に、曹操は劉曄の進言で、後に「霹靂車」と呼ばれる発石車を作るのですが、宮城谷さんは「中国戦史上最初の砲」と言ってますが、発石車の運用って、これが初めてでしたっけ?。
確か、これ以前にも使用例があるような記憶があるのですが…。ホントに不確実この上ない記憶ですが…。
(P905i/FOMA)
98 朱家
劉備討伐は、南征の伏線と考えています。鳥巣前に袁紹を離れてるはずだから、十月だとして、翌年九月まで、曹操が送った蔡陽と戦ってるとは思えないし、野放しも考えにくいと思います。ショウ駐屯は、一般論である「錦を飾る」を採用してますね。

とりあえず年表を…
@200−十一月、袁紹敗走。
A200−冬、袁紹、ショウ義渠の陣に入る。曹操、許に帰還?
B201−春、曹操、南征を止められ、黄河に向かう。
C201−四月、曹操、倉亭で勝利。
D201−夏、袁紹帰還。
E201−九月、曹操帰還。
F202−正月、曹操、ショウに駐屯。
G202−五月、袁紹死去。
A〜Bの間で劉備討伐?

?は推測を含む。こんな感じでしょうかね。あとは反乱とかで、ほぼ記述全てでも、こんなもんだと思います。
(PC)
99 巫俊(ふしゅん)
『後漢書』の列伝に、墨 子 曰 : 「 備 城 者 積 石 百 枚 , 重 十 鈞 已 上 者 . 」
とあるみたいですけど。
十鈞は60kg以上ありますよね。
(PC)
100 巫俊(ふしゅん)
『墨子』の注釈書に、

説 文 ■ 部 云 「 旗 , 建 大 木 , 置 石 其 上 , 発 以 機 , 以 槌 敵 . 」

■と旗は表示されない字です。旗は代用しました。
「旗」は右下が其ではなく会の旧字体です。

とあります。『説文』は宮城谷が『三国志』の一巻の前半で登場させた漢字の起源を説いた字典ですから、曹操が生まれるずっと前に書かれている訳です。
(PC)