1 土方

黄忠について

初めまして、今までROM専門でしたがキリ番踏んだので1つお題を…

私は演義は読みましたが正史はまったく知りません
そこで私の好きな黄忠について詳しく教えてください、宜しくお願いします
(N2701/FOMA)
2 天草
土方さん、初めまして!
これからはこの機会に積極参加をお待ちしてます!

さて、先ずは正史の黄忠について、辞典から引用します。
黄忠1
黄忠2

実は彼が活躍した当時、老人だったという記述はないように記憶してますが、いかがでしょうか?
(PC)
3 大伴
土方さんはじめまして。図書館のキリ番を踏まれたのですね。以後も宜しくお願いします。

黄忠の事は、219年に、関羽が費詩に「老兵ごときと一緒では」と、官爵が同列である事を不満だと述べますし、年老いていたのでしょう。この時劉備の年は五十九ですから、関羽も良い年の筈。劉備と同じ年なら関羽も老兵呼ばわりはせぬでしょうから、黄忠がそれよりは年上だった事が想像されます。
(F2102V/FOMA)
4 天草
60近い人から老兵呼ばわり…(汗)
やっぱり老人だったんですね。一体いくつだったんどろ?
(PC)
5 大伴
黄忠については驚く程記述が少ないんですよ。蜀書にちらちらと出てくるだけで、その伝にも裴松之の注が一字も無い。孔明も後将軍にする際「名声と人望は無いが、実績がある。だから張飛と馬超は納得するが、関羽は喜ばないだろう(意訳)」と述べています。つまり名声が無い人だった訳です。若い時、大した活躍は出来なかったのでしょう。

尚、一時期どうやら曹操の軍にいた様なのですが……どうもはっきりしません。
(F2102V/FOMA)
6 天草
大伴さん>それは気になりますね。ソースは何ですか?
(PC)
7 大伴
<黄忠伝>です。

黄忠は劉表に仕え、長沙にいた様です。曹操が荊州を手に入れると、長沙太守韓玄の統率下に入ったそうです。
しかしこの時、長沙自体が曹操の支配下にあったか否かが疑問なのです。
しかもこの同年、どうやら劉備の配下になっている。その経緯は全く語られていません。

記述が何とも妖しいのですよ。通俗演義で韓玄は劉表の配下ですが、文脈的には曹操の配下ともとれる様な……
(F2102V/FOMA)
8 土方
天草さん、大伴さん、ありがとうございます

そうですか黄忠の記述はほとんど無いんですかしかも名声も無いとは…
演義では大活躍だったのに
(N2701/FOMA)
9 黄漢升
土方殿、はじめまして\(^O^)/私が黄漢升です(爆)さて、黄忠ですが老兵呼ばわりされていますが、どうやら劉備や関羽とかと年はそんなに離れてないらしいのです!そして今、正史をを調べてびっくり!(*_*)息子が居たみたいです、名は黄叙、早くに無くなったみたいですけど。
(N900i/FOMA)
10 天草
さりげなく黄叙を辞典に追加しました。なぜか蜀にです(汗)
と、言っても一行しか記載のない人物なので、殆んど推測ですが。。。
(PC)
11 大伴
黄忠伝の、黄忠を将軍に任じる曹公という人物はやはり、曹操軍の人物を指さねばおかしいですよね?やはり曹操の軍にいたのでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)
12 天草
>>11
大伴さん、間違いないですね。曹操が荊州を占領した時みたいですね。
それ以前は劉表の甥の劉磐とともに長沙を守っていたようです。
黄忠が曹操の配下にいた、というよりは、この時一時的に将軍の官位をもらい、長沙の太守(韓玄)を新たに黄忠の上に置いたようです。
(PC)
13 赤龍
蜀書で曹公とあれば、まず曹操の事を指してます。荊州が曹操に降ったため、他の劉表配下と同様、黄忠もそのまま曹操に従う事になったんだと思います。
(J-SA05)
14 大伴
やはり曹操でしたか。

しかし次のセンテンスでは既に劉備に従っていますし、記述があまりにも少な過ぎますね。彼自身やはり若年の頃は名声の無い人だった為、陳寿の時代にはもう、記録に残ってなかったのかも知れませんね。

私は、戯志才の記録の少なさも同様の事だと推測しています。
(F2102V/FOMA)
15 赤龍
島原の乱で取り上げられたので、こちらでも蒸し返して見ましょう。
私は天草さんと違い、韓玄は中央から派遣されたと推測しています。例の四太守の内、唯一素性のわかる金旋、彼は京兆の出身で、中央で議郎、中郎将となり、武陵太守に任じられたとあります。これより、他の3人も朝臣の中から太守として派遣されたのでは、という推測ができます。中央から派遣された太守(韓玄)の補佐を、現地を守ってきた黄忠に任せるという形ではないでしょうか。
(PC)
16 赤龍
一応、漢代の太守の任命には、本籍地回避の原則もありますから、韓玄が長沙出身という可能性は低いでしょうね。
で、曹操が派遣した太守の下につき、曹操から将軍職を任命されたということは、実質曹操に臣従したとみてよいのでは?漢の臣に任じる=実質自分の臣にできるのが、天子を奉戴し丞相となった曹操の強みでしょうね。
(PC)
17 天草
なるほど。
>>16の漢代の太守の任命には、本籍地回避の原則もありますから…と言うのは初耳でした。

私が韓玄を地元に人間ではないか?と書いたのは、韓玄が金旋と違い、殺されたという記載がなかったから、あくまで推測の話しでした。

漢の臣=曹操の臣という考え方なら、劉備も孫堅も一度は位をもらってますから、それに当てはまる事ができます。
あえて、曹操の臣ではないという考え方を書いたのは、そこからです。
しかし曹操の臣下=曹操が命じた戦に従軍した、あるいは曹操が配置した太守の元で働いたという定義にするなら、それでも確かに黄忠は一旦曹操軍の一員となったという事になりますが…。
(PC)
18 赤龍
そこら辺、どこまでが曹操に臣従したととるか、難しいですね。漢の臣=曹操の臣というのは、ちょっと極端ですが、全てがそうだというわけではなく、そういう扱いができるのがメリットだなと。ただ、荊州降伏時、劉ソウ、カイ越、韓嵩等は、皆曹操から漢の官職を与えられた形ですが、一般には曹操に臣従したとみなしますよね。だったら同じ経緯をたどった黄忠も本心はどうあれ曹操に一時的に従ったと見るべきではないかと思います。長沙は曹操の勢力範囲となり、その守将の一人となったわけですし。
(PC)
19 赤龍
関羽も、曹操ではなく漢の朝廷に降るといっても、実質一時的に曹操に従った(曹操の臣というのがいいすぎでも)ことになりますよね。
本籍地回避の原則というのは、地元というのは勝手が分かって治めやすいと感じられますが、反面それにより現地の有力者との不正、癒着も起こりやすいというような点から、公正な行政を行うために定められたようです。
(PC)
20 無問題
ふ〜ん…、南郡ヘッポコ四太守って金センしか素性が分かってないんですね。南郡攻略戦じたいあまり詳しく記載されてないですもんね。演技ではすごいやられっぷりを披露してくれたのに…(笑)
(W21K/au)
21 天草
>>20
南郡ヘッポコ四太守って…(笑)
なんだか湾岸署のあの三人衆みたい(爆)

黄忠はイリョウの戦いに従軍してましたっけ?どこかに記載はないですか?あれ?その頃はもういないんでしたっけ?(汗)
(PC)
22 無問題
天草さん・かなりいいたとえですね(笑)彼等の気持いいぐらいのやられっぷりなかなか好きでしたけどね(笑)確か、その黄忠の話は演技だったと思います。黄忠は漢中争奪戦の後後将軍に任命された後にぽっくり逝っちゃいます。せめて、演技ぐらい長生きしてたらな〜…。
(W21K/au)
>>21
四太守をスリーアミーゴスに例えるのは面白いですねw
話は逸れるけど「踊る大捜査線」ってドラマはなにげに軍隊色の強いドラマですよね。
本店と所轄の確執なんかある意味、孔明あるいは揚儀と魏延の確執。
そして黄忠は和久さんってことでw

って脱線失礼しました。
(PC)
24 ストラップ
>>>189-57
黄忠や魏延が評価されたのは、ここ(益州侵略>>>332)で、なのだと思います。
又、評価をしていた、というよりも、評価する為に、という人事にも思えます。

侵攻よりも、本拠地の統治と防衛を、劉備(のブレーン)は重視したのでは無いでしょうか?
(F2102V/FOMA)