1 天草

天下三分の計

言わずと知れた、孔明の最初の献策です。

天下三分の計(概略)

この策について語りましょう!
(PC)
2 天草
私は孔明自身の天下三分の計は三分して終わりだったのでは?と考えてます。

それとも中華統一の始まりの為の策だったのでしょうか?

皆さんはどう思います?
(PC)
3 ユウキ
やはり孔明は三分にする所までしか考えてなかったような…
もしくは実際実現してから事の困難さに気ずいた為、牽制の為ショクの存在意味を示すため北伐をやったのでは?
(P900i/FOMA)
4 しす
私は孔明の目的は中原制覇ではなく、中原から切り離された独立政権を作り出すための布石だと考えています。
かつて四川に黄河文明とは別の文明があったように、蜀は独立政権を構築するのに最適な地ですし。
ただ北伐に関しては最初から考えていた構想ではないかと思います。
劉備のうちたてた「蜀漢」という国は征服王朝であり、国を維持するためには「漢室復興」という大義名分を掲げ、内なる不満を外に向ける必要があったのではないかと。
そのためには国力を圧迫しない程度の外征が必要だった…とは言えないでしょうか。
ま、飽くまで私個人の妄想の域を出ませんけど。
(PC)
5 天草
しす殿>私も同じ考えです!

別スレで話した通り、孔明が北伐→魏侵攻を考えたのは、やはり劉備が死んだ後だろうと思ってます。
恐らく、劉備に後を託された孔明は、忠義の精神で無理だと承知しながらも…みたいな感じではないでしょうか?
孔明的には、『蜀漢』という独自政権が打ち立てれば、それで良かった。それで終わりだったはずなのに…そこにドラマを感じます。
(PC)
6 大伴
荊益二方向から北を攻める……と書いてありますから、三分はその為の準備段階だったと思いますよ。

ただ、孫権と同盟する、とも述べています。


複雑な要素が絡み合っていますね。
(F2102V/FOMA)
7 天草
荊益二方向から北を攻める…というのは
@荊州・益州が二州とも自分達の領土であると言う前提
A同族への配慮に重い腰を上げないだろうと言う推測から、孔明が劉備の尻を叩く文句

という案はどうでしょう?これは考えすぎかな?(苦笑)

蜀は天下の要害ですから、独立して守る事はできても、そこだけで魏や呉と対等に戦場で渡り合おうと、あの政治家・諸葛亮が考えるとはどうしても思えないんですが、いかがでしょうか?
(PC)
8 ユウキ
益州を本拠にしたのはやはり守りやすいからでしょう守は益州で攻は荊州

僕は孔明という人物は劉備が死んだ時点で能力半減だと思います
劉備が孔明との関係を聞かれて『魚が水を得たようなもの』って言ってますしかし本当の意味で水を得たのは孔明では?
劉備は大きな野心持っていながら反対にソウソウやソンサクのように戦がうまいわけではなく、将来の展望が見えてない感があります
対する孔明は野心というものはほとんど無かったのでは?
つまり孔明の足りないものを劉備が持っていて、劉備に足りないものを孔明がもっていた。大義名分は漢室再興実際は劉備の野心を満足させる為
人を成功へ導くのはうまかったが自ら切り開いていく力はなかったような
ソウソウや劉備みたいな泥くささは感じられない…
(P900i/FOMA)
9 ユウキ
↑自ら切り開く力がなかったと言うよりその気がなかった
劉備の個人的な魅力に惚れた?から漢室再興を大義名分にしてこの人に天下をとって欲しいと思っていた?というかショクの武将達はほとんどそんな感じだったのではだから劉備が死んだ時点でショクは死んだも同然オレは劉備さんに天下とって欲しかったんだ劉禅さんは一応息子さんだし孔明さんも立派な人だから一応頑張ってみっかくらいにしか思ってなかったんじゃそれに益州の武将達はその意識が薄いと思います
ショク=『漢室再興を大義名文に劉備さんを応援』で成り立っていたのが劉備が死んで天下三分の計は半ば終了気味であったのではこれは僕の勝手な妄想です
(P900i/FOMA)
10 ユウキ
ちなみにリュウショウが同族だから躊躇というより大義名文がない戦いに躊躇したんだと思います
三連続投稿すみません
(P900i/FOMA)
11 天草
劉備と最初に会った時に天下三分の計を語った…というのが大方の見方ですが、この時孔明は、国を持たない劉備に他の二国と同等の国力を保つ為の策を与えたのではないでしょうか?

しかし劉備には三分した後の大きな野望があり、共に行動するうちに徐々に彼の人となりに惹かれていく孔明。。。そして彼が亡くなったあと、その意志を継ぐ事を心に誓った…こんな感じではないかと私は予想してます。
(PC)
12 エイ
こちらにお邪魔するのは久々ですね☆

『天下三分の計』については、統一の為の策と思います。
というより、そう信じたいです(笑)

三分の状態が完成形か否か?と云う疑問が生じる原因は
『献策自体は統一に向けたもので、孔明自身は益・荊の統治を自己の役目と考えた』
と云うのは如何でしょうか?

演義の中の諸葛孔明の初陣の配置はその縮図として見ると、個人的には面白かったりするのですが……。
(PC)
13 エイ
蛇足ながら、諸葛孔明が劉玄徳に益・荊を支配することで獲得させようとしたのは
『基盤となる要害の地』と
もう一つ『強力な軍隊を維持できる生産力』
だったのではないかと考えます。

それは、領土の広さ云々ではなく『河北の混乱により流入した人口』です。

天下三分の献策が行われた頃は、最も河北と益・荊の人口の差がなかったのではないでしょうか?
(PC)
14 ユウキ
後漢時代で1番人口が多かったのは益州の1525257戸だったようですねそして2番目が荊州で1399394戸ですつまり人口の点からは天下三分の計は妥当だったと言えますね
(P900i/FOMA)
15 ユウキ
↑河北の混乱以前から人口は多かったみたいですただ中原の混乱から荊州に人材が流れたのは間違いなさそうですね
(P900i/FOMA)
16 ユウキ
ちなみに後漢での益州と荊州を足した人口は中国全体の約31.5%らしいです
(P900i/FOMA)
17 天草
ん?
ユウキ殿>その情報はソースは何でしょうか?
私は人口などに疎いのですが…何となく蜀が一番過疎だと思い込んでました。
違うんでしょうか?
(PC)
18 ユウキ
うんと前なんかの本で読んだのをなんかに役立つかなぁと思って携帯に入れといたんですよ確かじゃなくてすんません僕携帯に気になったもの何でもメモしちゃうんで…
ただ人口が多かったのは間違いないはずです!
(P900i/FOMA)
19 ユウキ
ちなみにさっきのは後漢の140年の統計です
(P900i/FOMA)
20 赤龍
おそらくユウキさんのあげておられる数字は、『後漢書』の郡国志のものと思われます。私もざっと計算しましたが、荊益二州で全体の三割程度になりました。前漢から後漢の人口の増加も、荊・益・揚の三州にはきわだったものがあります。
(J-SA05)
21 天草
へぇ〜!!!

ユウキ殿・赤龍殿>勉強になりました!
蜀の人口は捨てたもんじゃなかったんですね。
(PC)
22 ユウキ
赤龍さん助っ人ありがとうございますm(__)m
後はまたまた携帯のメモからなんですが…後漢140年時に益州、荊州に次ぐ州は予州だったようですが西晋の時代には中国全体の一割に満たない数字まで激減したようですつまり後漢からの戦乱が一番激しかったのは予州のようですスレ違い
(P900i/FOMA)
23 ユウキ
ちなみに益州は西晋の時代には4位まで落ちてるようです。つまり益州は相当疲弊してたんじゃないでしょうか??やはり天下を目指していたなら荊州は必須だったようです三分までなら益州の要害頼みでなんとかって所でしょうか…
(P900i/FOMA)
24 燃燈
いやしかし、もとより劉備が国さえあれば魏と呉にかまえる気があったのでは?その為の三分の計は天下統一のためにあると思います。
(W21SA/au)
25 無問題
呉と同盟するつもりなら、荊州(南郡)の取り方がかなり強引ですよね?しかも、益州をとったあと借用した時の条件を踏み潰そうとしてます。追い討ちをかけるように関羽の暴走…。そこらへんは孔明もまずいと思わなかったんでしょうかね?
(W21K/au)
26 天草
おぉ!!
良いスレが上がってきましたね。
>>24
燃燈サン、初めまして。
これからもよろしくお願いしますね♪

私も劉備は最初から野心満々だったと思います。
しかし、諸葛亮は違ったんじゃないか?というのが天草流天下三分の計論です。

話しが戻って、もう一度この案を説明しますと…

諸葛亮の天下三分の計は荊州を含めた蜀の地を基盤にして、魏・呉と並ぶ国を作り安定させる。これで終わりだったのではないか?という事です。
その後の度重なる遠征は劉備への忠義心から劉備の死後、考えが変わったのではないでしょうか?
(PC)
27 燃燈
初対面の挨拶が遅れてすいません、以後よろしくお願いします`確かにそうともとれますね…。どこか違う板で討論してましたが孔明は劉備を踏み台にしてでも天下に名を轟かせようという野心があったのでは?と私個人は思っています。なので三分の計が終着点ではないように思えますが皆さんはいかがでしょう?
(W21SA/au)
28 赤龍
益州から、関中方面への侵攻がいかに苦労するかは諸葛亮の北伐を見れば分かります。呉との関係がこじれても荊州の要地南郡の領有だけは譲らなかったということは、やはり中原進出という大目標があったからじゃないかと思います。安定だけを考えるなら、荊州問題であそこまでもめる必要があったのかという疑問も感じます。
(PC)
29 天草
私の見解では、荊州を諸葛亮が欲したのは、力の均衡の問題ではなかったかと思っています。

つまり現代版で言うと(もう現代ではありませんがw)冷戦状態を続けるために核兵器を保有し続けるのと同じで、魏・呉と対等の力(領土・兵力など)を所持する必要があったのではないか?と言う事です。

いかがです?
(PC)
30 燃燈
荊州=核保有説はかなりおもしろい見方だと思います。ただ保有ではなく孔明の外交+バンバン打ち込む方が蜀にとっては有利では…?
(W21SA/au)
31 無問題
非常に興味深い説ですね。確かに益州だけでは少々きついですね。関羽がうまく荊州をおさめていればよかったんですけど…。彼は中間管理職の人々にかなり厳しいですもんね。荊州を奪い取られたのは彼の責任でしょう。でも、彼以外に適任者がいないですもんね…。蜀は最盛期でありながら巍や呉よりも人材が少ないことがわかりますね。
(W21K/au)
32 門弟
荊州は劉表から譲り受けた場所ですから正当な後継者は孫権、劉宗ではなく劉備だと主張していました。その思考を突き通すために荊州は最低限必要な場所だったんじゃないんですかねぇ…兵力とかは…あまりないんじゃないですか?曹操が攻め込んで来た時は逃げてしまいましたし…あれは曹操の兵力がデカすぎたのかな(笑)
(W21T/au)
33 龍(ロン)
天草殿の意見に同感です。

荊州は重要拠点であり魏や呉に対抗するために必要な地。

まず対魏で考えると…
☆荊州からは洛陽、許昌をうかがえ、また漢中から長安をうかがう。

☆次に対呉。
長江を利用すれば呉への進軍は容易となる(簡単に呉を滅ぼせるの意ではなく攻め入り易い)
逆に呉は上流へ攻めることになるので如何に水軍が優秀でも苦戦するのでは?

☆また荊州にはかなりの人々が中原から流れており人口が多く兵も維持できる。

おそらくこれが最初のコンセプトかと。

関羽に荊州を任せたのはネームバリューもあるのかな。

実務的には趙雲に軍師をつけるのが私なりに良いと思うのですが。

スレ違いですが…
趙雲は進軍よりも守りに長ける武将と思っていますので。
(W22H/au)
34 ぺろ
>>33ですが対呉戦線において侵略上有利になるためではなく、外交上有利に立つために荊州は必要不可欠だったと俺は思いますね!あと趙雲ですが、彼が外交、政略において優れていたという事例がないのでむしろ関羽より不適性だったと思います、あえて順位をつけるなら1孔明2関羽3ギ延かなと俺は思いますね、あくまで私見ですが。
(W21H/au)
35 元歎
>>33で言っている対呉戦線というのは、魏を滅ぼした後のことですか?
>>34関羽が趙雲より適任であったというのは大賛成♪(また、この二人の優劣ですね・笑) ただ、一位が諸葛亮というのは…。彼はあくまで補佐役だと思います。関羽が魏を攻めて、諸葛亮が呉を宥める。これが当初の予定だったんでしょうね(諸葛亮じゃなく、ホウ統かもしれない)。

天下三分の計。僕は、三顧の礼のとき諸葛亮は天下を統一するための国家戦略を話したのだと思います(仮に天下統一の計として…。単純ですけど・笑)。目標は天下統一であったけれども、結果的に、三分されたまま劉備も諸葛亮も世を去ってしまいます。つまり、諸葛亮が提示した天下統一の計は実現することができませんでした。しかし、歴史家が諸葛亮の偉大さを伝えるのに、成功しなかった天下統一の計を書いても仕方がない。そこで、あたかも天下三分の計が提示されたように見せかけ、しかもそれは実際に成功したんだ、というような感じで諸葛亮の株を上げようとしたのだと考えます。僕がこう考えるのは、天下が三分された状態で終わっても劉備とっては何の意味もないということと、馬超・張魯・劉璋・劉表(荊州劉氏)・士燮といるのに、なぜ三分なのか(特に馬超の存在。士燮は考えない方が良いかもしれない)、ということです。
うーん、ひねくれた見方かもしれません。ちなみに、今この考えにたどり着いたばっかですf^_^; もう一度、考え直してみないといけませんね^^
(PC)
36 ぺろ
元歎さんの意見が正確ですね!
孔明はやはりショウカのごとく内務官として後方支援するのがあっていたのかな?
正史だと劉備が死ぬまではほとんど後方支援担当だったみたいだし。
(PC)
37 赤龍
>>35
蜀志諸葛亮伝の、所謂「天下三分の計」の諸葛亮の言、最終目標は天下を統一し漢室を復興させることだと書かれてますよ。荊州・益州を得ることは、あくまでその戦略の過程の説明。
これを、実は「天下三分」自体が目的だったと推測してるのが、天草さんの説。
(PC)
38 赤龍
馬超の事が書かれてないのは、当時劉備がいたのは荊州。曹操と孫権とどう対するかが当面の問題であり、関中方面の諸豪族の問題まで触れる必要もなかったのでは。
ちなみに、諸葛亮の発言の中に「天下三分」なんて言葉はありません。あくまで、孫権と結び、曹操と対抗するという基本方針を示しているだけです。それを後世、三国時代の状況をふまえ「天下三分の計」と呼んでいるだけです。
(PC)
39 天草
>>37
私の説を覚えてくれててありがたいです。
新しい方も増えてますので。天草流天下三分の計をおさらい。

諸葛亮は立場上、天下を統一することを劉備に訴えますが、実のところ蜀を制し蜀漢を立ち上げた時点、つまり天下が三つに分かれた時点で彼の構想は終わりだったのではないか?と思っているのです。

いくら益州という地を一州取ったところで、魏・呉との差は埋めがたく、本気でそこから天下を統一するには相当なタイミング(魏・呉共に何らかのアクシデント)がないと難しかったのではないでしょうか?

諸葛亮が北伐を起こしたのは、劉備の死後ですが、これは劉備の遺言に従ってのもの。
すなわち、劉備死後はこの考えが変わり、遺言に従って自らの命を投げ打ってでも天下統一を自らの手で…という風ではなかったのかな?…と考えてます。
(PC)
40 くわぁまん
天草サンお久です。(笑)
と、ある意味劉禅が賢君だったなら孔明は北伐を行わなかったかもですね…。

チョット話がそれますが、自分昔、孔明の北伐はシルクロード確保説を考えていました。国力、生産力の劣る蜀を潤すには貿易を多用するしか手段は無く、それの手始めが南蛮侵攻だったのだと…。

あ、南蛮方面にもシルクロードがあったのかなぁ?

生産力が乏しい旧日本軍が貿易により他国とも戦えるほど強国になった様に…とね。(汗)
(F901iC/FOMA)
41 せぐ吉
お邪魔します☆
お話、レベルの高い内容で驚きの連続です。

天下三分についてなのですが、漢中王宣言の為って解釈はまずいでしょうか?

曹操が天下のほとんどを収めた段階で、劉備の切れる強力なカードとして「漢中王宣言」があった。
隆中での対話の段階で、諸葛亮は劉備にあなたには「漢中王宣言」という札があります。そのカードを切る為の条件は、益州、漢中を押さえることです。もし、運よくこのカードさえ切れれば、反曹の気運は爆発すると共に、その象徴としての劉備様の声望は一気に高まることでしょう。こう説明したのではないでしょうか?

新野にいた段階での劉備の目標は、あくまでも曹操と負けない戦争をするだけの力を身につけること。
地政学的な意図ももちろんなのですが、「安定した曹操政権」の幻想をぶち壊しにする。このことの意味は大きいと思います。

その為の天下三分。
やや強引でしょうか?
(PC)
42 くわぁまん
ちと疑問に思った事…

天下三分の計を語ったのは劉備が劉表の居候だったとき…。

後に益州を手中に入れるとして、まだ漢中には張魯率いる五斗米道軍団、西涼には馬超率いる旗本八旗隊が健在だった訳で、フィクションのところはあるけれど下手をすれば四分の計になったかもですね…。

ただ、後世の政治では鼎、つまり改革側の鷹派、保守側の鳩派、その中間である中立派の三派が政略上の理想とされている…。単なる偶然かなぁ?
(F901iC/FOMA)
43
初めまして。 私の考えは統一のための布石に三分計が必要だっと思ってます。裸同然の劉備が漢復興のための強い意志があったからこそ孔明が力を貸し当代きっての武将(張飛、関羽‥等)が心酔し生死を共にできたと思ってます。劉備を天下人にさせて上げたい!と言うより劉備自身がそれを強く望んでいて漢復興の強い信念に皆が引かれて行った結果だと思ってます。
(P900iV/FOMA)
44
連カキお許しを‥ 孔明の北伐は、劉備の遺志と言うより確固たる勝算があったのでは…。 情報網は当然あったと思いますが、中国全土の情報がどのぐらいの正確性なのか、自国の国力、兵力で充分勝てるとの判断だったのでは。北伐に対しての新兵器などの準備もあり、撤退した後の戦略、戦術が記されてませんし(もしかしたら記録があるのかな)。長年の国政、軍備強化で孔明は勝てるとの判断だったと思ってます。
(P900iV/FOMA)
45 天草
涼さん>初めまして♪
よろしくお願いします。

まず>>43に関してですが、漢室復興という名目なら、蜀という地で、統一してませんが果たしています。
この姿こそ、諸葛亮が思い描いた最終形なのではないでしょうか?
どんな形であろうが、漢の復興という大義名分があれば、劉備を帝位に就け、一つの国が作れる…とうわけです。

>>44に関しては確かに微妙です。
諸葛亮の北伐がどこまで本気だったのか?
本当に魏を一気に滅ぼそうとしていたとは、さすがに考えにくく、古都長安を落とすのが当時の目的だったのではないでしょうか?
蜀漢と魏の力の差は我々が小説やゲームで思い描いている様な、小さな差ではなかったと私は考えてます。
(PC)
46 ストラップ
「天下三分の計」に関しては、>>>333-12-16も参照下さい。
(PC)
47 はくふ
天草さん>あまりにもしっくりくる表現をされていたので、パクらせて下さいね(笑)。
小説やゲームの様に…劉備は考えていたのかも知れません。反対に孔明は真逆のスーパーリアリスト。あの時点で劉備による中原制圧は不可能と考えてたように思います。
私が考える孔明の天下三分の計は、わりと切なく泥臭く、呉に仕官しても兄のように外様的な出世しかできず、魏に行っても尚更出世の見込みが無い。自分の才能を存分に活かすにはこの血筋を頼りに生きる不思議な中年に賭けるしかない!ってな感じで思いついた、「魏、呉じゃない新しい王朝建設」だと思います。
つまり、ショク漢建国の時点で孔明の思惑は達成されたと。後の北伐については他の方と同じく、征服王朝であるから、、もしくは相変わらず夢を見たまま死んだ劉備の後を継いだ故の、形式的な行動かと。
しかし、流れ者の劉備をあそこまで導いたのは本当に凄いですね。
(P900iV/FOMA)
48 通りすがり
ショクの北伐は中央に対する宣伝ではないでしょうか?中華の大地は広大です。中原から見れば益州は地の果てみたいなものです。働き掛け無ければ旧朝廷や民衆に忘れ去られてしまいます。それを避ける為にしていたのではないでしょうか?
(GzOne/au)
49 削除済
50 通りすがり
天下三分の計って周喩の天下二分に対抗する為に考えられたのではないてしたっけ?まあ良いです。益州を得た時点で孔明の構想は崩れていたと思います。理由呉との関係、ホウ統・徐庶といった謀略や前線を任せられる軍師の不足、魏とショク呉の人口差等です。呉とは荊州の国境問題で同盟していたとは言え緊張関係にあります。孔明は内政官外交官であり軍事はそれ程優れてはいないと思います。ホウ統・徐庶と言う優れた謀略家、前線指揮官を失ったためやむを得ず軍事も担当したのではないでしょうか?これがショクの人材不足を生み出す温床になったと思います。後漢後期の動乱により中華の人口は激減してますしかしいち早く安定した魏はその分だけ回復してますし、荊益の動乱等から安定している魏に逃げ込む民衆もいるわけですから人口は大幅に回復していたと思います呉にしても山越や魏ショクとの戦いで流出した民衆はいたでしょう。妄想ですが孔明はこれらを見て魏討伐は不可と判断、漢朝の存続はなったので劉協や中原の民衆に北伐してショク漢の存在を示すのがやっとと考えたのではないでしょうか?
長々と失礼。
(GzOne/au)
51 天草
>>48ー50
素晴らしい意見だとは思うのですが、まずはしっかりとしたハンドルネームを決めて、参加をお願いしますm(__)m

貴殿に悪気がない事は分かりますが、悪意に満ちた匿名の書き込みがあった場合の対処に困りますので、今回は警告とし、次回からは投稿内容に限らず、削除いたします。

匿名性の高い掲示板での最低限のマナーですから、何らかの名前を付けても、問題はないはずです。
もう一度注意事項をお読みの上、参加頂きます様、ご協力をお願いしますm(__)m
(N900i/FOMA)
52 通りすがり@夏候斎
ども失礼m(_ _)mしました。申し訳ないです。
(GzOne/au)
53 天草
>>52
夏侯斎サン、ご理解感謝☆
改めてよろしくお願いしますm(__)m

さて本題に戻りますが、>>50の天下三分の計が周瑜の二分の計に対抗しつ云々…というのは少し違う気がします。

当時諸葛亮や周瑜が問いていた説をその取り巻き以外の人物が知り得た可能性は低いかと。
当然、後世こうして各国の記述がまとめて見られるから、彼らの策が比較できる訳で、特に一介の平民の暮らしだった諸葛亮の耳に周瑜の策が分かっていたとは思えませんよね。

人材不足の意見には激しく同意です。
軍事的にも政治的にも明らかに優秀な人材がいません。

ただ益州を取った時点で…という意見に対しては、少し違います。
彼らにはそこしかなかったのではないでしょうか?
広大で自然の要害に守られ、歴史上の意味もある益州なら、他二勢力に劣らず建国できると。
国力に関してはやはり荊州を取られたのが痛かったかな?
(W31SA/au)
54 かなた
初めまして。皆さんの高度な意見に自分の勉強不足を感じずにはいられませんが…僕も意見してみたくなったので暫しお付き合いください。僕としては天草さん同様、孔明の構想は三国の形をつくり、そこで終りだった様に思えます。しかし劉禅が愚かであったために孔明は危機感を持ったのだと思います。劉璋は劉備という将に国を奪われています。劉禅の姿が、かつての劉璋と重なったのではないでしょうか。更に猛獲という勢力に孔明の危機感は増し、蜀の力を宣伝するために魏を攻撃した。僕は孔明自信はあまり好戦的ではなかったのでは、と思っています。姜維を北伐のシンボルとして、自らは内政に力をいれたかったのでは。
(W21K/au)
55 夏候斎
たしかに孔明は民同然の生活をおくってましたが、ある程度の情報は知り得たのでは無いでしょうか?呉には兄が仕えてましたし魏にも一族の者が仕えてましたから手紙なりなんなりで大まかな事は知り得たのでは?
益州の件は私の間違えです。たしかにあの頃は益州しか彼等にはありませんでしたね。官途直後ならば華北で割拠する事も出来たのでしょうが…。
やっぱり孔明は益州で割拠する事までしか考えてなかったのでしょうかね?
(GzOne/au)
56 崇英
こんばんわ。
かなた殿、夏候斎殿、初めまして☆

私が考えますに、蜀の力を
宣伝する為の北伐ならば、
それは勝つ必要がないわけで(もちろん負けを目的にするわけにはいきませんが…)、
相たる者の出陣ではなく、将の派遣で事が足りると考えます。
(PC)
57 崇英
最近は、天草館長の『天下三分こそ完成形』論が大きく育っていますね。
私にそう見えているだけでしょうか?^_^A

劉備が亡くなると、魏の王景興、華子魚、陳長文らが、
諸葛孔明に宛てて従属を要求する書面を送ったとあります。
これは、蜀漢の力を自国より下に見た行動に他なりませんが、
一方で、出征して切り従える事が億劫で、しかも成功しても旨味が少ないと考えたとも取れないでしょうか?
(PC)
58 飛燕
初めまして、夏侯斎さん、かなたさん♪
そして、崇英さん。曹操についての討論ではお気を悪くされたかと思います。遅くなり、場所違いでもありますが、謝りますm(__)m
さて、本題ですが、僕としても崇英さんの意見に賛同します。本来、文官である彼が戦の総指揮官を務めるわけですから、彼の、"何としても戦に勝ちたい""何としても蜀を強くしたい"という彼の気持ちの強さがうかがえると思います。
あと、彼は益州をとることだけが目的だったというのも少し違うような…。とったその後も考えてた気がします。荊と益の2方面から北上して曹を攻める。結局、失敗しましたが、荊の関羽軍だけで、曹軍を苦戦させました。あながち、夢物語では無かったかもしれません。ただ、関羽の戦死が彼のその後の計算を狂わせたのかもしれません。
(F900iC/FOMA)
>飛燕殿
とんでもありません。
不意に現れ、突然に間を空けるのは私の悪い癖です。
確かに中途半端な処で、私の言が切れてますね。
私のおかしな対応で、気に病まれたならば
こちらこそ謝します。申し訳ありませんでした。

ちなみに当方は、一寸の蟠りもございません。


さて、このスレの話題に戻りますが、
遥か以前に『流入した人口〜云々』と発言しましたが、
これも舌足らずだった事に気づき、些か補足をば……
『流入した人口』は、争乱や飢饉を避けて益・荊に
移動したもので、
中には曹孟徳が北を押さえた以降に戻った動きもあると思うのです。
実際、荀公逹なんかも荊州まで南下したことがありますし。
また、そうでなくとも、河北や中原が曹孟徳の支配下で
本来の回復力を取り戻せば、やがて水を開けられることも
無い話ではないと、併せて思うのです。
であれば、益州を押さえて完結とするのは、些か次代に繋がらないと考える次第であります。
(PC)
60 天草
>>54-59
まずはかなたサン、よろしくお願いします♪

さて、私の考える三分の計へこれだけの反応があるのは嬉しい限りです。

皆さんが思われている『天草的天下三分の計』に少し訂正点があります。

私の説をおさらいをしておきます。

●諸葛亮は天下を三分させ、国家を安定させること…つまり国家間の力の均衡による半永久的な安定を狙っていた。
●劉備を皇帝にする事で、漢の再興と独自の大義を貫こうとした。

こんな感じです。

しかし劉備は漢による統一を狙いました。
そこで漢(劉備)への忠誠を誓った諸葛亮は、半永久的な漢の安定を捨て、勝負に出た。

こう考えてます。

特に一回目と最後の北伐は、本気に洛陽・許・ギョウを目指した進軍であったと思ってます。

少し天草説を取り違えてられるかも知れないので、一応皆さんに確認です♪

引き続き意見を待ってます。
(PC)
61 天草
>>>180で天下三分の計について語りましたが、スレ違いですから、こちらをageておきます。

ちなみに天草的天下三分の計は先ほどブログに書いてみました。

もし良かったら皆さんの意見も聞かせて下さい☆
(PC)
62 天草
黒耀竜さんのブログコメントを受けて、レスします。

まず、蜀を取ることが当たり前の作戦だと語っておられますが…その通りだと思います(笑)その証拠に周瑜もそれを狙っていたわけですから。

しかし、周瑜らの考えと違うのは、蜀を取って、天下を狙うのではなく、蜀を取って安泰を狙うと思っていたのでは?という前提で、私自身が考えているから、天下三分の計の方が優れていると思っているんです。

荊州を落とした時点での修正ですが、これは考えても良かったかもしれませんね。
蜀という天下の要塞を抱えて、守るだけなら…という意識があったのかもしれません。

とにかく私の思う天下三分の計の大前提は、天下を三つに分けて統一を狙うのではなく、天下を三つに分けて自分達の国の安泰を築くというものです。
この点で、他の人物が考えた入蜀後のシナリオ・天下統一のシナリオとは一線を画していると思っているのです。
(PC)
63 赤龍
天草さんの誘導に従いまして、黒耀竜さんのブログコメント
「そもそも天下三分の計なんて存在しなかったのではないか」

これは、いわゆる「隆中対」と呼ばれる、三顧の礼で諸葛亮を招いた劉備に対して、諸葛亮が「天下三分の計」を語った演義、正史通じての名シーン。これを創作とする説でしょうか?(違ってたらすみません)
>>35で元歎さんも実はそれに近いことに触れられていますね。
これを言うと、ほんと身も蓋も無い話になってしまうので、私も紹介をためらうというか、内心認めたくないというか(笑)
長くなりますので次に続く。
(PC)
64 赤龍
これは、私が度々ここで紹介してる高島俊男さんの『三国志きらめく群像』に書かれていた説です。

まず第一に、諸葛亮の発言はうまく行き過ぎている。あまりにも、諸葛亮の策通りに事態が推移している。
第二に、この会話「人ばらいをして」行なわれたとされている。その二人だけの密談を、誰がこうも鮮明に記録したのか?
以上の点から、中国の史書の特色をふまえ「その後のなりゆきを見たものが、あたかも諸葛亮が事前にそれを見通していたように話をこしらえたものである」とされています。
そして、『史治通鑑』の司馬光の「孔子は『文が質に勝れば即ち史』と言っている。すべて史を為る者が人の言を記すのは、以て之を文する(飾り立てる)ところ有るにきまっているのである」という、第一級の史家の証言も紹介されています。

勿論、この説もほんとに創作か?では誰が作ったか?証明のしようの無いものですが。

私は、たとえ「隆中対」での一連の会話が無かったとしても、荊州、ついで益州を得るという大まかな戦略自体は諸葛亮に有ったと思っています。それは繰り返すように、基本的な発想は諸葛亮一人の奇策ではなく、多くの人が必然的に行き着くものにすぎないと考えてるからです。
(PC)
65 元歎
赤龍さんの紹介と似てますが、僕の考えを書きます。(>>35はもう忘れてください(笑))

劉備が諸葛亮を迎えた、いわゆる三顧の礼のあった207年、荊州は北からの曹操の脅威にさらされています。そんな状況で「荊州・益州を支配し…このようになれば漢は復興…」というのは非現実的です。この時の諸葛亮の進言の内容としては、むしろ魏略のような差し迫った問題の対策(戸籍に関する軍備強化)の方がしっくりきます。
たとえこのとき諸葛亮の胸に天下三分があったとしても、それを話して劉備の評価は得られないでしょう。
だとすれば、天下三分の計を説いた時期は、益州奪取の可能性が出てくる周瑜の死後というのが適当だと思います。周瑜の死までは別の国家戦略があったんじゃないかと。


天下三分の計の構成が周瑜死後だとすれば、現実味を帯びた計であり明確な目標を与えてくれるものです。
しかし通説通り、三顧の礼の時だとすれば、非現実的で状況を理解していない計となり、現実的な天下二分の計の方が優れていると思います。いや、優れているというより、より真っ当な計画と言った方が良いですね。
(上段のように、周瑜死後に天下三分を提示したと考えれば、優劣等比較はできません。要は、天下三分を提示した時期によって評価が変わると思います)
(PC)
66 元歎
僕は、関羽敗死・荊州失陥から夷陵の戦いまでは別の国家戦略があったと思っています。荊州を回復し漢中興を成功させるための戦略です。
ただ、その戦略構成から破綻までが早すぎるため、夷陵の戦いは劉備の怒りに任せた侵攻であると後世には映ってるんだと思います。たぶん、それには趙雲伝の影響もあるでしょう。しかし、その戦略の核となる夷陵戦に反対したという記述は趙雲のみですから、諸葛亮も承認していた戦・戦略だったと思います。
従来、趙雲の諌止は、趙雲の戦略眼を評価することにつながっていますが、僕は、国家戦略を理解していないこと、武人的思考方法が表に出たものと捉えてます。


北伐に関して。
赤龍さんと同じく『三国志 きらめく群像』を要約すると、

北伐の目的はふたつあるだろう。一つは、国家の存在理由を実体化して見せることである。国名は「漢」なのだから、フリでも都・洛陽を取り戻そうとしないといけないからだ。もうひとつは、北辺の不安の解消である。いずれ魏が攻めてくるであろう北を抑えるためだ。……長安を取る気はない。まして魏を討つ気はない。そんなことは到底不可能だから――。

僕も基本的にはこの考えと同じで、加えて人口の問題もあると考えています。諸葛亮伝に「諸葛亮は西県の千余家を移住させ漢中に帰り」という記述があり、目的の一つとしてもいいほど蜀は人口に苦しんでいたと思います。移住させたという記述は(多分)これのみですが、他は魏に阻止された、途中で兵糧が尽きたと考えれば矛盾はありません。
(PC)
67 天草
皆さん、それぞれの天下三分の計に関する考えを持っているんですね。非常に興味深く拝見しました。

>>63-64
黒耀竜さんも仰られてましたが、確かに天下三分の計自体を疑うのは、ある意味面白いですよね。
ただ、他にも多くの戦略に関する記述が残されていますし、多くの大事な戦術というのは、一部の重臣のみにしか語られていなかったことだと思いますので、天下三分の計だけを二人だけの密談だから怪しいというのは、どうだろう?と思います。元歎さんが言うように時期の問題はあるのかもしれませんが、やっぱり現実にあったのだろうと個人的には信じたいですねw

あと、出師の表に天下三分の計を説いた…というくだりは出てこないみたいですね。これに期待したのですが…。この時に劉備が世の中の情勢を問うたというのは出てますから、この時に後世に残る大戦略が説かれたと信じます。


>>65-66

天下三分の計があの時点でなかったならば、無理をして荊州を保持する理由があるでしょうか?曹操・孫権に挟まれた大変な立地条件ですから、何かの理由があったのだろうと思います。

北伐に関しては賛成です。
私も本気で魏を攻略する気などなかったと思います。
本気だとしても無謀なだけなんでしょうけど…。
(PC)
68 黒耀竜
 いまだ考えがまとめられないのでたいしたことは書けませんが・・・。

 天草さんの説を拝読して、いささか疑問を感じましたので、うかがいます。

 まず、諸葛亮はつねに自らを管仲・楽毅に擬していた、『梁父吟』を歌っていた、というエピソードがありますが、このことから私は
「諸葛亮は、“凡君を補佐して大業を為さしめた補佐役”に強く憧れ、自分もそうありたいと願っていた」
のだと考えます。つまり、良くも悪くも野心家で自信家だったわけです。・・・あくまで推測ですが。
 しかも、当時の彼はまだ20代で、それなりの意欲と無鉄砲さがあったはずですが。
 そんなビ・アンビシャスな彼が、はたして一地方の独立国家を作るくらいで満足できたのでしょうか?

 次に、陳寿『三国志』(ちくま訳ですが)では劉備は「天下についての方策」を尋ねたのに対して、俗に言う「天下三分の計」を開陳しています。もし、本心では三分止まりしか考えていないのに、リップサービスで天下取りを口にしたのなら、いくぶん悪辣に感じられます。
 さらに、劉備の遺志を尊重して本意でない北伐を行い、しかも本心では勝てないと思いながら繰り返していたというのでは、ずいぶん中途半端な気さえします。

 わたしは正直、諸葛亮のことはあまり高い評価はしておりませんが、良くも悪くも自分の考えには貫こうとするタイプだと思っておりますので、俗に言う「天下三分の計」は天下統一のための計だった、と考えるほうが無理がないと思います。

 まとまらない文章で、失礼しました。やはり、わたしは議論には向いていませんね。
(PC)
69 朱家
どこかに書いた気が…「孔明は管仲、楽毅に本気でなろうとした人」これが私の前提です。安定ではなれません。
かといって、天下統一も、蜀と呉が同じペースでの領土拡大が絶対条件だけど、孔明は、楽毅がいる前提ですから(笑)
突飛かもしれませんが、天下三分の計は、管仲、楽毅になるための手段、蜀奪取後の事は、天下三分の基本概念があるので、魏に代わって大国となり、魏呉連合の想定まで、との考えですね。

>>65
孔明は、荊州を劉表から奪う意思があるか、と言った後に、益州の話をしてますし、劉ソウを攻撃して奪えとも言ってます。拒否されて、ズッコケたでしょうが(笑)
甘寧、魯粛も荊州を前提としており、国がないとはいえ、内部の劉備と軍事行動、劉備優位とも思うし、荊州保持可能との見解なら、非現実的ではないと思います。
『魏略』『九州春秋』は、仮にその通りでも、内政方針だし、状況を打開できるものでもないし、やらないよりは…程度に感じます。徴兵よりも、それを鍛えるほうが大変で、時間も掛かりますし。むしろ、書生の扱いをした、劉備の興味を引くためだと思いますが、この時点の劉備は、どんな人であれ、書生扱いはしないと思うんですよね。
(PC)
70 朱家
ついでに>>66
孔明は「魏と戦うには、益州、荊州、呉との同盟が必要」と言ってるのに、趙雲は「荊州は必要ない」と言ってるのと同じだから、軍さえ強ければ戦えると考える、武人的思考を前提として、国家戦略を理解した発言だと思います。
まあ、劉備が荊州を奪っても追撃するようなら、間違いなく趙雲が正論だけど、そこまで馬鹿じゃないと思うし、仮に馬鹿でも、孔明が命を張って、止めたと思いますしね。
むしろ、孔明が本気で魏と戦う気があるなら、無理してでも荊州奪回したと思います。奪回する前に、呉との同盟を選択した時点で、正しい間違いではなく、蜀を守る事を優先したと考えてます。
(PC)
71 アラジン
まあ 最終的に諸葛亮の天下三分はまちがってはいないようです
(W42SA/au)
72 元歎
返信が遅くなってすいません。これからもちょっと遅れそうですが^^;

>>69-70
ちょっと朱家さんの文章を消化しきれないのですが、荊州を保持できると劉備らが考えていたとしたら、曹操の来襲を知って逃げるはずがありません。樊を捨てて逃げたのは、今の状況では荊州を維持できないという考えの表れであり、劉jのいる襄陽を素通りしたということは、奪えてもやはり維持できぬとの考えでしょう。
(奪うといっても、困難だと思いますが)

あと、魏略の記事に関して、「天下三分の計」と「軍備強化策」を比べて、時宜にかなってるのは後者の方だというだけで、僕は三顧の礼はあったと思ってます。出師の表を重視してるので。まぁ、演義みたいな三顧とは思いませんが^^;


僕が>>66で言った「趙雲が理解していない」国家戦略というのは、天下三分じゃなくて荊州失陥から夷陵戦までの国家戦略のことです…。孫呉の荊州を攻めることから始まる戦略。>>70の第一文を見ると、勘違いさせてしまったようで(汗)
(この戦略があったというのは、ただ僕の考えですが)

>>66の趙雲関連部分をちょっと言い換えます。
中原へ出るには荊州が不可欠ということを趙雲は理解していなかったのだろうと思います。加えて、曹操(曹魏)だけを敵と思い定めていた(※)から、東征に反対したのだと。

※ この、一度決めたことをまず変えない、というのを「武人的思考」と表現したのですが、今思えば良くない表現でした。熟慮しての発言じゃないことを強調しようと思ってのことでしたが…すいません。
(PC)
73 朱家
遅レスすいません。

孔明にしろ、魯粛、周瑜にしろ、国家戦略(方向性)の根本は同じです。
孔明が配下になったのは、曹操が鳥丸討伐中と思われ、圧力はなく、その後の圧力、周瑜の江陵奪取、それぞれ修正を迫られますが、あくまでも天下三分の一部である、荊州奪取という局地的な戦略の修正であって、国家戦略(方向性)は変化しません。国家戦略の変更は、劉備死後、荊州を諦めた時点でしょう。

劉備が逃げたのは、劉ソウが降伏したからで、曹操は侵攻体制を解いており、精鋭のみで劉備を追撃してますので、襄陽を取れば、曹操はそのまま攻撃できず、軍の立て直しを迫られます。
結果的に、魯粛はすでに荊州に向かってますし、孔明が考えるように、襄陽奪取が容易であるなら、維持できる、できないではなく、勝つか負けるかの赤壁のような、戦う体制にはなると思います。
(PC)
74 削除済
75 元歎
曹操が北にいても圧力はありますよ。その前に夏侯惇・于禁が攻めてきてますから。これは撃退しましたが、次またいつ攻められるかわからず、そのため劉表は劉備を新野に駐屯させていますし。

赤壁以前において、荊州保持はもちろん奪取も難しいと思います。蔡瑁・蒯越らが劉備に協力するとは思えないし、有力な内応者がいるわけでもありません。兵の多寡も歴然としてますし。状況が全然違いますが、益州奪取には内応者がいても3年かかっていますしね。

赤壁〜周瑜死去において、孫権との同盟と江陵奪取は基本的に両立しません。どちらも「天下三分の計」の柱だと思うのですが。また、益州奪取も周瑜健在ならば無理でしょう。僕が「天下三分の計」構築が周瑜死後と考える主な理由です。
(PC)
76 朱家
夏侯惇らの攻撃は、曹操が鳥丸へ向かうまでと思われ、討伐中に、そんな挑発をしたら、本気で許襲撃されかねないし、劉備を信頼してないとはいえ、救援しますし、曹操がいない(動けない)軍は、劉表とは戦えません。むしろ、国境の曹操軍のほうが、守る事で精一杯だと思います。

孔明らの戦略は、曹操と戦うためで、それを変更すると、曹操と戦わない、倒す気がないとなります。
曹操と戦う事と比べたら、荊州、益州奪取は極めて容易だし、江東、荊州、益州の連合は必需で、曹操と戦える、別の戦略は存在しないと思います。
楽毅に擬してるなら(楽毅伝を読めば)、あの程度は考えつくし、約6年も劉備を見てきて、昭王にしようと思ってるのに、その手段(曹操と戦う)を伝えないとは考えにくいです。

劉備は、軍を動かさなければ大丈夫ですから、周瑜に、えげつない妨害をする気がします(笑)
しかし、周瑜は意図的に抑えようとしてますし、公安の知所を置く挑戦的な態度から、ありとあらゆる妨害を想定してると思いますが…さすがの劉備(孔明)も、益州を取られると、心が折れるか?
(PC)
77 巫俊(ふしゅん)
>>76 朱家さん

>>75 元歎さん
>赤壁以前において、荊州保持はもちろん奪取も難しいと思います。

荊州という言葉を使用する際、建て前上牧伯が指揮権を有する荊州のすべての郡県を指しての「荊州」か、
州内の主要な幾つかの拠点ないし劉表が治所を置いていた襄陽を指しての「荊州」か、
明示されて議論されたりすると、言葉の行き違いも無くなると思いますよ。

「荊州保持」と元歎さんはおっしゃいますが、荊州の郡県には親劉備の官吏がいたことは確実で、襄陽城内にどの程度いたかは分かりませんが、曹操侵攻という未曾有の混乱をまえにしたこの時期、主戦派の官吏・群集を糾合すれば襄陽城奪取くらいはできると、少なくとも諸葛亮は考えていたということは容易に想像されます。

朱家さんの「荊州、益州奪取は極めて容易」というご意見についても、荊州、益州の郡県の隅々まで奪取することを考えれば、現実的には孫権や曹操といった大きな障害が待っていることですし、

元歎さんの「荊州保持」「荊州を保持」といった荊州に関する元歎さんの意見と、
朱家さんの「荊州、益州奪取は極めて容易」といったご意見は、荊州支配という言葉の定義面の問題、つまり実質的に荊州の郡県のうちどこまでを完全支配していれば荊州を保持しているという定義を満たすことができるか、という点で噛み合っていない、もしくは互いに用語の定義の差異を深く考えていないことに原因があると推察しました。


(PC)
78 朱家
若干、方向性が変になってますが、私は「天下三分は周瑜死後」に反論してるだけです。

魯粛が孫権に会った頃の呉は、周瑜、陸遜どころか、孫権自らも内部鎮圧に動いており、もはや反乱レベルではなく、陸遜は「山越を平定しない限り、北方への戦略は困難」と言ってます。
魯粛は「今のうちに荊州を取れ」と言っており、曹操と戦う戦略ですが、呉内部から見たら、なかなか的外れな発言です。
孔明も同じく、少なくとも劉備には、曹操を倒す、戦う気があるので、その唯一の手段(方向性)を伝えただけで、仮に、荊州奪取が極めて困難だったとしても、唯一の手段なのですから、「発言してない」根拠にはならないでしょう。
元歎さんの根拠だと、魯粛、甘寧の発言もなかった事になります。まあ、江東、荊州、益州の連合が唯一なのかは、実際のところ分かりませんが…

周瑜が、孔明や魯粛のように外の人間であれば、同じような事を発言したと思いますね。
(PC)
79 巫俊(ふしゅん)
当初「天下三分の計」論争には関心を払っていませんでした。
諸葛亮伝などは虚実がないまぜですから、考えることを放棄していたとも言えます。

私が思ったのは、元歎さんや朱家さん、他の人たちとで戦略的な状況の分析、判断が明確に異なっているということ、かつその点については明確にして議論されてはいないこと、この二点です。
元歎さんは、むじん書院のむじんさんや三国志討論会の人たちから、「天下三分の計」前後の年代の流動的な戦略的状況や思考方法を教わっているので、正史の記述を疑ってかかっているのですが、的確な説明をする機会に恵まれていないようなので、代わりに指摘できることを指摘してみます。
その上で、元歎さんの説を再考すれば、朱家さんの考えている説とそう遠くは無い結論に至るだろうと思いますよ。
(PC)
80 巫俊(ふしゅん)
先に朱家さんの説明に、私が知らないことが書いてあるので質問させてください。私が勉強不足で知らないだけだろうと思いますけど、聞いた方が分かりやすくなるのですっきりすると思いますから。

>>78
>元歎さんの根拠だと、魯粛、甘寧の発言もなかった事になります。

これはどこの発言を指して言っておられるのでしょうか?ここを明確にすると、元歎さんの根拠にしている部分もはっきりします。

>>76
>夏侯惇らの攻撃は、曹操が鳥丸へ向かうまでと思われ、討伐中に、そんな挑発をしたら、本気で許襲撃されかねないし、劉備を信頼してないとはいえ、救援しますし、曹操がいない(動けない)軍は、劉表とは戦えません。むしろ、国境の曹操軍のほうが、守る事で精一杯だと思います。

これについては異論を容易できます。曹操が鳥丸へ向かうか、反転して荊州辺境に侵入してくるか、判断するのは曹操側であって劉備側は予測の段階だからです。
曹操が遠征して鳥丸を攻略すると見せかけて、反転して劉備を挑発してくることも十分有り得るからです。
(PC)
81 巫俊(ふしゅん)
元歎さんの「天下三分は周瑜死後」説ですが、この説は江陵県に南郡太守周瑜が駐留していたことに立脚しています。
私は諸葛亮の「天下三分の計」構想は赤壁の戦い以前からあったと考えていますが、構想が現実的な状況に変わった段階は、周瑜の死後に魯粛が江陵から陸口に撤退し、同じく程普が南郡から江夏に撤退してからです。
江陵が孫権領から劉備領に変わった詳しい状況判断と「荊州貸与説」については孫呉考察サイトの「呉書見聞」の孫ぽこさんと、漢籍考察サイトの「むじん書院」のむじんさんが既に詳しく研究されていることです。

周瑜の死以前においては、「天下三分の計」を成立させる余地を得ませんから、構想もしくは、「天下三分の計」の前段階であると言えます。

元歎さんは戦略的状況と構想の開始時期を混同して書いてあるきらいがあるのですが、構想と構想の現実化は明確に異なる事象です。
また構想であるからといって諸葛亮が劉備に話していないという考えは根拠を得ません。
構想の前段階であるからといって、構想の実現に向けて策を弄しない訳でも無く、前段階であるからには状況の変化に応じて構想を変えることも常に有り得ることです。

元歎さんは、状況の流動的な変化に応じて戦略も小刻みに変化する、と言っています。
これは正しい判断です。しかし問題もあります。

「戦略」は近代用語です。近代における例を挙げると、第一次世界大戦は極めて計画的なドイツ帝国の戦争です。第一次世界大戦は兵站整備が未熟な後進国であるロシア帝国が大軍を終結させる前に、先んじてドイツ帝国軍が大軍をフランス共和国に侵攻させ、フランス共和国軍を撃破したところで、侵入してきたロシア帝国軍を撃破する、というドイツ帝国の軍部の構想に従い、ロシア帝国が戦争の用意をはじめた時点で自動的に開戦しました。これをシュリーフェン・プランと呼び、先制攻撃を要旨とするドイツ帝国の戦略的戦術構想が戦争の開始年月日を決定しました。
(PC)
82 巫俊(ふしゅん)
このような例は、近代に特有の戦略理論でありまして、前近代における諸葛亮の「天下三分の計」と称されるものはもっと大雑把で、状況に応じて変わりやすいものでしょう。
ここで重要なことは、戦略理論と現実的な行動決定には大きな開きがあることです。
前近代の戦争習慣では、戦略思想が及ぼす影響が大きく、戦略思想に忠実に作戦を遂行することは現代の大国の常識ですが、前近代においてはそうではないということを理解できるかどうかが問題です。

三国時代において、戦略的行動決定は構想に毛がはえたものに過ぎず、先ほどから強調してきた戦略的思考で三国志を読むべきという指摘を否定することになるのですが、「天下三分の計」に代表される三国志の戦略構想は戦略的状況が流動的に変化することに対応して、非常に大雑把なもの、そのときどきに都合よく解釈を変えられる戦略構想になっていると考えるべきです。
繰り返しますが、当時の人が戦略という言葉を使用していた訳ではありません。
ただ、戦略的状況の流動的変化とそれへの対策は戦国時代に完成しています。

諸葛亮の尊敬したとされる楽毅は古代的な意味での戦略家であることを失念することはできません。

以上、理解しにくい人は無理に理解しようとせず、諸葛亮の「天下三分の計」は劉備の方途の概略を示したものであって、実際にはその局面、局面に対応した対策が講じられていたということを提起するのが元歎さんの局面戦略説です。
(PC)
83 巫俊(ふしゅん)
>>82
4行目付近、
× 前近代の戦争習慣
○ 近代の戦争習慣
(PC)
84 巫俊(ふしゅん)
そして局面戦略なるものが存在するかということですが、どうでしょうか?
存在するといえば存在しているかもしれませんが、戦略と呼べるようなはっきりしたものでは無いのではないか、むしろ劉備自身やその部下たちが局面に流されている、例えば「激昂すれば反対者を牢獄にぶちこんで出陣する」といった具合の現代的な感覚からするとデタラメな行動が「策」として当時は評価されていたと思います。

ですが、「天下三分の計」を考えるときに、こうした局面の流動性、「策」を考えないでは片手落ちと言うほかないでしょう。
隆中対と称される諸葛亮伝の記述は、このこと細かな「策」を検討しないことには、例えば天草さんが大前提と言っておられる

>>62
>天下を三つに分けて統一を狙うのではなく、天下を三つに分けて自分達の国の安泰を築くというものです。

は反論をやんわりと退けるだけの根拠は得られないと思います。
「天下三分の計」は諸葛亮が胸中に秘める術策のうち、結果的に成功したものを抜き出して記録したものと考えるべきです。
「天下三分の計」とシナリオの異なる諸葛亮の別策については、それを言ったか言わないかは史料に現れてこない性格のものです。
ただ、局面、局面の術策を見れば、その一端をうかがうことはできる、そう考えていいはずです。

当初からあったとされる「天下三分の計」に沿って劉備陣営は動いていたか、それを考えれば「天下三分の計」構想の当否も結論が付くでしょう。
(PC)
85 朱家
戦いが始まれば、曹操は、劉表に対して受け身となります。

元歎さんは、周瑜のように、すぐにでも実行できるものをまっとうとし、孔明の発言は「まっとうでないから、発言もしてない」と言われてるよう感じました。
魯粛も、発言から赤壁まで(6年ぐらい?)、魯粛のいう荊州(制水権の確立)を取れてないので、孔明と同じ分類でしょう。(甘寧は微妙かな?)

要は単純に「孔明がいつ発言したか?」で、周瑜死後の発言とするのは根拠がなく、この点に関して反論してました。
巫俊さんの言われる、元歎さんの意図も理解した上で書いてましたが、「天下三分は、劉備に会った頃から具現化できた」と、私が主張してると伝わってしまい、そんな事は言ってないという意味を込めて、レスしてましたが、説明が下手なせいで、泥沼にはまってたようです。巫俊さん、お手数をおかけしました。
(PC)
86 朱家
ちょっと、説明不足だったので…
私は、最初に荊州保持可能と書きましたが、これは、劉備の内情を良く知らず、聞いた話によって、悪く言えば、孔明が勝手に判断した事で、外から見る景色と、内から見る景色は違うとの事です。
これが、まずかったんでしょうね。
(PC)
87 元歎
>>85
すいません、僕が天下三分「構築」とか「発言」「進言」と言ったのが悪いですね。国家戦略を決める上で、「天下三分」構想の発言・議論自体は度々されていたと思います。要は、「天下三分」を国家戦略とし実行に移すのは周瑜死後じゃないか、ということです。周瑜を暗殺等で排して天下三分を目指せる状況を無理やり作ろうとするのは危険すぎますしね。

ただ、もう一度考え直します。
(PC)
88 張洋
皆様初めまして。
とても深い内容に驚くばかりです。こんな場に私のような初心者が参加していいものか迷うところですが、私の天下三分の計」の妄想を書きたいと思います(恐らく否定される事は明確ですが・・)
私は「天下三分の計」は実在したと思います。そして、北伐も天下統一する上での事だったものと考えてます。
諸葛亮は曹操に個人的な嫌悪を抱いていた(完全に妄想)。理由は「呉と結び、魏を討つ」みたいな言葉。そして実際に後も呉には直接は攻めてない事(諸葛亮の意向で)。そのため魏(曹操)を討伐するための「天下三分の計」であったと考えます。
そして劉備と出会って話していく中で考えた事、劉備を利用しての天下統一。それに必要な国力・兵力。そこで、その時点で一番奪取できる可能性のあった蜀と閨秀(漢復興の大義を裏付けて)。
こんな事を劉備が現れたことで考えだしたっていうのが私の妄想です(苦笑)
それから、幾度と予想外な事態(閨秀継承・周喩の存在・関羽の性格・劉備の呉への恨み、他)は突如思い浮かんだ「天下三分の計」&「天下統一」の盲点だった。
続く
(F882iES/FOMA)
89 張洋
それでも「天下三分の計」は完成して、後は「天下統一」だけですが、魏との兵力の差は明らか(当初は「天下三分の計」がなった時点で、ここまで軍事力の差がある事まで見抜けなかった)。
しかし、(私の妄想では)曹操を討ちたい気持ちを抑えられずに無謀な挑戦(行ける所まで行ってみようみたいな)をしたのではないでしょうか。
結局は諸葛亮の野心とか野望みたいに考えてしまっている私です(苦笑)。ほんとに初心者である私の勝手な見解です。
文章が下手なので分かりづらかったら申し訳ありません(汗)
あと漢字の誤りなどもあると思いますが、お許しください(実は私は盲目なので漢字変換が困難なんです。泣)
では、妄想・乱文を失礼いたしましたm(__)m
(F882iES/FOMA)
90 長生
皆様お初です(^O^)

私は諸葛亮という人は政治家だったと思うんですね。

自分の国家理念を実現するために、政治的なライバルになりうる人士の多い中原よりも劉備に賭けたと思うし、三分の計は後付け話の可能性もあるけど、荊州は劉表、益州は劉璋が治めていて、その地勢的な利点と反曹の立場の亡命者である劉備を担ぐことで劉氏による漢朝復興のイメージというかプランは劉備臣従の時点であったと思いますよ。

あとゲームなんかの影響で固定観念になってるけど、当時の中国はあんなにきちんと境界があったわけじゃない。益州なんて中原中央から見たら半分外国ですよね。
ですから南方や西方の異民族の力を利用すると言うのは、普通はタブーというか、漢民族にとっては武帝以前の漢朝が卑屈な外交関係を強いられたこともあって両刃の剣なわけだけど、益州に建国するなら全く自然な政策 で、諸葛亮にとっては充分に中原に対抗できる勢力を形勢しうるという目算があったように思います。

また諸葛亮を得た劉備の飛躍が皮肉にも形式的には続いていた漢朝の威信を曹操が弱めて行く口実にもなった側面を忘れるべきじゃない。韓玄とか赤壁以降も荊南を統治してた連中って一応漢朝からの勅をもらって正当に支配してた連中なんですからね。もちろん益州の劉璋もそうだし。

で漢中王即位も勅もないまま自称して漢朝には事後報告でしょ。君側の奸(漢朝を私物化している曹操)を打倒するってのが劉備の大義名分でしょうけど、彼もかなり政治的に都合よく立ち回ってるわけですよ。献帝が劉備に好意を持っていたかどうかは実際微妙だと思いますよ。

これはそれまでの行き当たりばったりのイメージの強い劉備とは明らかに違う。諸葛亮プロデュースの再デビューが当たっちゃったって感じじゃないですかね(笑)

おっと未熟者が長々すみませんf^_^;
(V905SH)
91
皆様はじめまして

他の方の意見と重複するかもしれませんが、私なりの解釈を書かせていただくと。

「天下三分の計」というのは、三県分立をなした時、それぞれ三ヶ国が国家を形成して統治すればいいでしょと、至極簡単な自解釈をしています。

戦乱の世をこれにて終わらせ、同盟及び不可侵を結び、自国の安定、民が犠牲にならない世の中作りをしていくことを、孔明は思ったのではないかと感じますね。

あくまで、自解釈です^^;
長文 駄文失礼しました<(_ _)>
(PC)
92 圭破龍文
皆様初めまして。広島県在住の姓は圭、名は破、字を龍文と申します。初投稿がこれほどレベルの高い討論スレというのは無謀かもしれませんが、一諸葛亮ファンとして意見を述べさせてください。
僕は、孔明の「天下三分の計」は実在し、それは当初から統一を目指すものだった、と考えています。天草さんの意見とは、失礼ながら正反対です。 一つの反論としては、孔明がリアリストであったとするならば、(僕は、孔明は政治家としてある程度のリアリストであったと思っているのですが)天草さんの言われるのとは逆方向に志向が変化すると思うのです。つまり、荊洲四郡の確保から蜀侵攻、漢中奪取までは統一を目指していて、関羽の死と荊州の失陥、それに続く夷陵の大敗によって荊州確保が絶望的になった時点で、益州のみによる独立政権を志向するという変化になるのでははないか、と思います。
 北伐というのは、やはり「天下三分の計」がもともと統一を志向していて、現実には実現は厳しくなったけれども、諦めることなく果敢に行った諸葛亮生涯の賭けではなかったか、と僕は思っています。思いたい、と言った方がいいでしょうか(笑)
(PC)
93 圭破龍文
もう一つ反論するとすれば、孔明の戦略が荊・益二州による独立が最終目的であったとすれば、漢中奪取の後の関羽の荊州侵攻と劉備の本軍による長安侵攻の説明がつかないのではないか、ということです。天草さんは、関羽の荊州侵攻は関羽の独断の行動と思っておられますか?(実際そういう説もあるのですが) 北方謙三先生の『三国志』では、このときの”北伐”は、孟達・士仁・糜芳の裏切りと孫権の「裏切り」(いろいろ資料や文献を読むと、孫権の行動を裏切りと言い切るのは難しいので、あえて括弧書きです。)がなければ、成功していた、と書いてあります。僕もそう思います。
 関羽がハン城を抜いていれば、呼応勢力を結集して宛まで進出するのは難しくなく、そこまで関羽軍が出てきていれば劉備本軍が長安を攻略できたはずで、そうなれば涼州は一気に劉備、というよりはこのころまだ生きている馬超のもとに帰順したはずです。
 うまくすれば、洛陽、許昌まで席巻できたかもしれません。もちろん、これはすべてがうまく行った場合の話ですが、そこまで曹魏を追い詰め、一気に蜀と魏の差を詰める可能性を、孔明の戦略は秘めていたのだ、と思います。
 夷陵大敗後の孔明の戦略には、僕自身もかなりの無理を感じます。やはり「荊州がない」という一点が、その原因ではないかと思います。
 第一次北伐では、この点を解消するため孟達を再び寝返らそうと工作してますが、これは司馬懿の”速攻”で潰されてますね。その後の北伐は、漢中からの一方面作戦、しかも補給の困難な秦嶺山脈越えの作戦を余儀なくされているため、かなり絶望的なものになっています。
 しかし、その絶望的な作戦を五度も続けたというのは、統一への情熱がなくてはできないことではないでしょうか。いきなり長文&駄文しかも連ガキで失礼しました。
(PC)
94 巫俊(ふしゅん)
>>91の孫さんのご意見は根拠を示すのがむつかしいでしょう。
それであっても、孫さんが一歩お引きになって「あくまで自解釈」とおっしゃっているように、諸葛亮にそのような思想があって欲しいと思う立場は私も同意するところです。

私は昔から諸葛亮が好きでした。ですが、正史を勉強するにつれ実在した諸葛亮はそのような類の人間ではないと私の頭は冷酷にも告げるようになりました。
諸葛亮の在世中から、諸葛亮の計画によって天下三分しいっときの平和をつくる、という願望は存在していたかもしれません。いえ、どの程度の規模の願望であったかの解釈は分かれると思いますが、願望は存在したと判断できると思います。

もちろん、圭破龍文さんのおっしゃるように天下三分は諸葛亮の伝を読んでみれば、すぐに統一を志向した策であることは明白であると思います。
統一が現実的でない場合の鼎立維持をも志向した策である為に混同しやすいんですよね。
これは圭破龍文さんがおっしゃりたかったことじゃないかと思います。
(PC)
95 巫俊(ふしゅん)
世界の分割統治によって「戦乱の世をこれにて終わらせ、同盟及び不可侵を結び、自国の安定、民が犠牲にならない世の中作りをしていく」というこの考え、
諸葛亮がこれを考えていたという根拠があやしいのに関わらず、この種の思想を諸葛亮のものと信じて疑わない人が出てくるのは、私たちの世代の社会や世界に対する願望なのでしょうね。
だから、3世紀の前半における政治思想の実態とかは考えないで、自分の気持ちに共感できる人を見つけたつもりで諸葛亮愛になってるんでしょうね。愛とは盲目とは言ったものです。自戒をこめて。
楊威利(ヤンウェンリー)と諸葛亮は全然似てない、これが私の結論です。そういえば楊も天下三分論者だった。「同盟及び不可侵を結び、自国の安定、民が犠牲にならない世の中作りをしていく」のは諸葛じゃなくて楊。
楊を知らない人は聞き流してください。
(PC)
96 しす
>>93の圭破龍文さんの天草さんの説への反論ですが、一応説明はつけられると思いますよ。
もし仮に諸葛亮の「天下三分の計」が荊、益州の二つで完結していたとして…。
蜀は一応「漢朝復興」を大義名分として掲げています。
つまり諸葛亮の頭の中で完結していたとしても、「ここで終わり」と宣言するわけにはいかない。
つまり蜀という国の存在意義を示すために一進一退の軍事行動を続ける必要があったとも考えられます。
特に益州人にしてみれば蜀は劉備という外部勢力によって立てられた征服王朝ですし、内なる不満を外に向けるためにも仮想敵国が必要だったという考え方もできるのではないでしょうか?

ま、私の考えとしては完結だとは思ってませんが、荊州失陥の時点で「統一」から「維持」への方針転換があり、北伐も上記の理由と国家維持のための国土拡充を狙ったんじゃないかと単純に考えています。
(PC)
97 赤龍
ついでに、こちらも関連しそうな良スレとして参考にあげときますね
(PC)
98 叶兄弟
今回はこちらにお邪魔させて頂いて、このビッグタイトルに挑戦してみます!(レベル・低) >>2 天草さんの問題提起まで遡りますが、私も孔明はとりあえず天下三分までの考えではなかったか?と思います。漫画からの引用で申し訳ないのですが「蒼天航路」の一節で孔明の舎弟(?)みたいな二人が劉備に「孔明は天下を分けることで天下を増やせと言ったのだ」という台詞に妙に納得させられました。劉備スレでの寿君さんのレスで勉強させて頂いたのですが元々風来坊的な劉備に天下統一より先ず自分の国を持つという意識付けをさせたかったのでは?北伐に関しては劉備という強力な求心力を亡くしてから国内で主に益州派・荊州派・譜代派との派閥間統制が困難になって戦略的に「打倒魏」というスローガンをもとに外に求心力を持たせたのではないかと…戦術的には勝つ為より負けない戦いに徹し「攻撃は最大の防御」のギリギリラインを狙ってたのではないでしょいか。攻戦よりも守戦(兵站改革や退却準備)で抜群の手腕を見せたのもこの辺りからくるのかもしれません。これでは「天下三分」どころか「国内三分」ですけどね…
(SO903i/FOMA)
99 叶兄弟
北伐に関しては>>96 しすさんとほぼ同意見です。すいませんおもいっきり「かぶせ」で…
(SO903i/FOMA)
100 趙雲
天下三分の計については、劉備が孔明に出会ったのが48歳だったことを考えると、劉備の代で統一ができるとまでは孔明も考えてはいないと思います。ですから、おっしゃる通り、あくまで天下取りの最終トーナメントを指南したに過ぎないかと思います。もしかしたらこの時点で孔明は、魏のジュンイクが提唱した、二虎競食の計を既にビジョンとして捕らえていた可能性は高いです。北伐に関しては、5度目の五丈原は孔明が自分の死を予期して、最後の賭けをしたのではないでしょうか?劉禅のことを考えると、最後のチャンスと感じたのかも知れません。持論ですが(笑)
(811T/SB)