1 大伴

合肥の戦いについて

教えて下さい。

建安二十年乙未の年の八月。孫権軍十万に対するは、僅かに七千の曹操軍。
しかし包囲したものの疫病の為に孫権軍は撤退を開始。曹操軍は橋を落として敵の退路を遮断すると、八百名を率いた張遼が逍遥津にて急襲し、大勝を納めた。

↑これであっていますか?
(F2102V/FOMA)
2 大伴
先ずは、孫権軍の参加者を教えて下さい。現在私が把握しているのは、

孫権
陳武
賀斉
宋謙
徐盛
潘璋
凌統
甘寧
呂蒙
蒋欽

これだけです。又曹操軍も、
李楽張の三将と、合肥護軍の薛悌しか知りません(汗)
(F2102V/FOMA)
3 天草
少し長くなりますが、調べましたので、解説します。
まずは合肥に曹操軍が陣を、濡須に孫権軍が陣を張った事を念頭に置いて…

@209年…曹操合肥に陣を敷く。
A212年冬〜213年…曹操が濡須を攻める。
B214年…孫権,皖城を攻撃。
C215年…孫権,合肥を攻撃。
D216年〜217年…曹操,濡須を攻撃。

と、長年に渡って両軍は激突してます。
一般にいう『合肥の戦い』とは、恐らく『遼来々』のCを指すのだと思います。


孫権軍の武将ですが、上記の他に周泰(濡須駐屯)・魯粛(B皖城攻略の参謀)・韓当(Cの侵攻で従軍)、後は谷利(こくり)という謎の人物(孫権の慰め役か?)の従軍も残されてますね。
(PC)
4 大伴
次回の実録シリーズは是非これで(笑)
(F2102V/FOMA)
5 天草
そうなるかも知れませんね(笑)
(PC)
6 範千
コーエーの三国志Xを久しぶりに楽しんでいたところ、
李典について、詳しく知りたくなり、こちらにお邪魔しました。
ゲームでの李典についての解説は
『旗揚げの頃からの歴戦の勇士。学問好きで冷静かつ慎重な性格。同僚の暴走を度々抑えた。張遼、楽進とともに合肥を守備した』
と、ありました。

ここでいう、『歴戦の勇士』の『歴戦』とは?
『同僚の暴走を度々抑えた』の『度々』とは?
どのような、ものなのでしょうか?(どのような、記述があるのでしょうか?)

このゲーム、昔は演義色の濃いものでしたが、現在では時代を反映してか!?正史もかなり加味されていると思われます。

どうか、皆さん、御教授よろしくお願いいたします。
m(__)m
(P2102V/FOMA)
7 ストラップ
>>6
概要は
http://ip.tosp.co.jp/Jisyo/TosiJ100.asp?I=359gi&P=0&SPA=2&SSL=&K=李典&Nid=&C=0&Ud=5871932&MD=
に譲るとして。

李典は従兄弟の李整の兵をその死後に受け継いだ様です。李整は、曹操が呂布からエン州を奪還した後に死去したようですから、興平二年頃に軍事に関わる様になったのではないでしょうか?
元来軍事を好ます、読書が好きだった様で、曹操は初め、民政家として用いたとあります。

李典が夏侯惇の暴走を抑えようとした話は残っています。
建安八年、劉表軍にいた劉備が北上して葉を攻めた際、そこを防いだのが夏侯惇と李典でした。劉備が陣を焼き払い退くと、李典が「必ず奇兵がいる(賊無故退、疑必有伏。南道狹窄、草木深、不可追也)」という諌めを聞かず、夏侯惇は追撃をしました。結局夏侯惇は伏撃にあいますが、李典の救援で助かったのです。

張遼の武勇ばかりが強調されますが、合肥の戦いに於いても、李典は重要な役割を担っていると僕は考えます。「私」よりも「公」を重要視すると李典が明言した事が、張遼の活躍に繋がった訳ですから。
(PC)
9 赤龍
李典は、辞典にもあるように享年36の若さで没。彼の伝に見える最期の活躍は215年の合肥の戦い。文帝即位時には確実に死んでいることから215〜220の範囲に死んだことになります(もっと絞り込める方お願いします)。
仮に215年、合肥の戦の年内に死んだとしても、生年は180年。曹操旗揚げの際はまだ10歳。ちょっと演義の設定は無茶ですね。
正史では、従父李乾が初平年間(190〜193)に軍勢をつれ曹操に従うとありますが、李典はその軍中にいた若者に過ぎないでしょう。李典の活躍はストラップさんのいわれるように、李整の死後軍をついでからと思われます。
(PC)
10 赤龍
李整の最後の活躍は、エン州の奪還の際(195)ですが、李整はそれから次第に出世し、青州刺史にまでなったと書かれてますから、もう数年は生きていた可能性が高いように思えます。
そして、李典の名が見える最初の活躍は、ようやく官渡の戦い。李典が軍を継いだのは196〜199あたりなのでは?と思います。それでもようやく十代後半程度。
主な活躍は官渡あたり以後になる、若手の武将だったのではと思います。
夏侯惇が諫言を無視したのも「若僧めがえらそうに」てな気持ちがあったのかもしれないですね(笑)
(PC)
11 範千
ストラップさん、赤龍さん、御教授有難うございます。
大変楽しく拝見させていただきました。
m(__)m

このスレの議題自体も延びれば面白そうですね〜。
(^O^)
何故、孫軍はかなりの将が名を連ねているのに対し、
曹軍は李楽張の三将+α(ルビが無いと自分には読めないです(T_T))位しか将の記述が無い!?のでしょうか?
(P2102V/FOMA)
12 ストラップ
>>11
薛悌は「せつてい」の読みで良いと思います。
この人は美味しい場面でチョコチョコ名前見る人ですよ。元は劉岱の官吏だった様で、曹操が兗州牧となった時に従った様です。
陳宮造反の際は、夏侯惇・程イクと三名で相談して、三城死守を取り決めています。
曹操が官渡に於いて袁紹を破ると、その抜群の政務手腕を認められ、長史に取り立てられたそうです。
(PC)
13 バンビ
質問をお答えしてなかったので。
満寵ですが、曹操の晩年に曹仁の参謀となっているのと、曹丕の代には新野の守備をしていて始めの方は荊州にいます。
曹叡の代に征東将軍として合肥の守備にまわされます。
うる覚えですが234年に合肥新城で呉軍を破ったはずです。
文若さんの言われる合肥の戦いでは参加してないと思われます。
(W54T/au)
14 バンビ
薛悌については、曹操が張楽李のB名に孫権が攻めて来たら開封するようにという書面を渡しに合肥まで行っています。
恐らく、薛悌は城にいただけと思われます。


補足などあると思うので皆様お願いします。
長文&連スレ失礼m(_ _)m
(W54T/au)
15 文若
バンビさん

ほんとありがとうございます。
(D903iTV/FOMA)
16 バンビ
いえいえ。
自分で答えれる事ならいくらでも答えますよ♪
(W54T/au)
17 諏訪
>>14
私は、護軍の薛悌はかなり重要な役割だったのではないかと考えています。
そもそも護軍とは何か、ということですが、時代や国によって違いがあり、まだよくわからないところがあるのですが、とりあえず曹操軍の護軍について見ていきます。

「建安十四年(二〇九)、夏侯淵を行領軍に任命した。太祖は孫権征伐から帰還すると、夏侯淵に諸将を指揮させ、廬江郡の反乱者雷緒を攻撃させた。雷緒が撃ち破られると、また行征西護軍に任じ、徐晃を指揮させ、太原郡の賊徒を攻撃させた。
(中略)
十七年(二一二)、太祖はギョウに帰還すると、夏侯淵を行護軍将軍に任じ、朱霊・路招らを指揮させて長安に駐屯させた。」
(夏侯淵伝)

「太祖は荊州を征討するとき、趙儼に章陵太守を兼任させ、都督護軍に官を移して、于禁・張遼・張コウ・朱霊・李典・路招・馮楷の七軍を統括させた。(中略)太祖はもと韓遂・馬超ら配下の兵五千余人を〔漢中から〕外へ移動させ、平難将軍殷署らにとりしきらせ、趙儼に関中護軍として諸軍全部の指揮をとらせた。」
(趙儼伝)

これらの記述によると、護軍や領軍と呼ばれる官に就いた人物が諸将を指揮しています。
>>>28-1で、張遼・李典・楽進の三人に上下の区別がないことから指揮系統の不備が指摘されていますが、護軍の薛悌が指揮官だったと考えれば納得できます。
また、曹操の命令書を薛悌が持っていたということも重要な点であるように思えます。
曹操の意を伝える、それはつまり、曹操の権威を背景にして薛悌が曹操の代理者的存在であった、ということではないでしょうか。
(W51S/au)
18 バンビ
さすが諏訪さん!
自分の勉強不足が丸分かりですね(汗)
だが敢えて反論。
薛悌が名ばかりのトップだと考えています。
政治家だと自分は考えているので指揮するとまではいかないんじゃないかと思います。
自分は訳しか見ていないので本当はちょっと違うのかもしれませんが曹操の書面に張李は討って出る、楽進は薛悌を守って出るなと書いてあったのであまり司令官として権利的なものがなかったのではと思いました。

趙?って誰なんですか?
お恥ずかしいですが、全く知りませんでした(泣)
(W54T/au)
19 皇澪桜
>>18
私も知らなかったのでちょっと調べてみました。正史ちくま訳より
趙ゲン(漢字出ません。申し訳ないです)字を伯然。潁川群陽テキ県の人。
荊州に乱を避け、杜襲(トシュウ)・繁欽(バキン)と財産を共通にし、一つ家として共にくらした。
建安二年(197)27歳の時に太祖のもとに赴いた。太祖は趙ゲンを朗陵の長にとりたてた。
県には勢力をかさにきるものが多くいて、遠慮する相手もなく思い通りふるまっていて、趙ゲンはそのうち一番ひどい者を逮捕して取り調べると、すべて死刑に該当した。趙ゲンは彼らを投獄した後群役所に上申して釈放してやった。
それ以後、権威・恩愛ともに明らかになったとあります。
李通・荀イクとの綿・絹の徴収についての手紙のやりとり等をみると、政に長けた人物のようです。
正始四年(243)に老齢と病気を理由に帰還を要請し、召し帰されてヒョウ騎将軍となり、司空に昇進した。逝去し、穆公(ボクコウ)とおくりなされました。
こんな感じでよろしいでしょうか?
私レベルではこの程度が精一杯です…。
申し訳ないですm(__)m
(W52CA/au)
20 バンビ
いやぁ自分じゃあ趙ゲンを調べる事すら出来ませんよぉ(笑)
でも、結構凄い人物なのに超マイナーですよね!笑
まぁ趙ゲンの話しは自分で振ったにも関わらず申し訳ないんですが置いといて(笑)

このB人は官位では誰が@番高い位に就いていたんですかね?
(W54T/au)
21 皇澪桜
>>20
張・楽・李三人の伝を見てみましたが、その時の官位の記載は見つけられませんでした。
曹操の命令書の内容を見る限り、誰が指揮をとるという訳でもなさそうなので位的には何とも言えませんが、曹操の中では同列として扱っているように感じます。
張遼はこの後、征東将軍に、楽進は1200戸に加増、李典は300戸に加増されてます。
これだけ見ると張遼・楽進の方が大分格上に感じますが、これまでの功績や仕えた年数など、色々とありますからね…
私にはハイレベルな問題で…フォローお願いしますm(__)m
関連スレ(?)
役職 >>>221
(W52CA/au)
22 皇澪桜
アンカーミスm(__)m

役職… >>>201でした。
(W52CA/au)
23 皇澪桜
張遼は文帝即位時に千戸加増されて、2600戸になってますので、合肥戦後の頃は1600戸≧かな…?
う〜ん…やっぱり良く分からない(汗)
ご教授願いますm(__)m
(W52CA/au)
24 朱家
東郡の人と言えば、なんといっても程イク、陳宮でしょうが、薛悌も外せない。
身分の低い人で、曹操が東郡太守の時、目立った働きがあったのか、州従事となる大抜擢、程イクとともに呂布を防ぎ、22才という、有り得ないとも思える若さで太守となります。そこから長史、護軍、魏郡太守、中領軍、尚書令までなる人です。古参といえる重鎮で、立伝どころか、記述も少ないですが、軽視できる存在ではないでしょう。

そもそも、7千の兵を城に残し、決死隊を募って敵に突っ込んでますし、敵と矛を交えるのは張遼ですが、諏訪さんが>>15で言われているように、曹操の代理として、諸将の指揮権を担ってたと考えるのが妥当かなと思います。
(PC)
25 バンビ
軍事にもそこそこ才があるのですね!
やはりそうですか(笑)
(W54T/au)
26 諏訪
>>18
>>>540-3で少し述べましたが、当時軍人の地位は低くみられていました。
政治家だから指揮しないのではなく、むしろ政治家などの文官が軍人の上位に立って指揮することは、わりと普通に行われていたことです。
司馬懿や諸葛亮だって、もともとは政治家です。

>>19
趙儼の説明、ありがとうございます。
「儼」の区点コードは4923です。
(W51S/au)
27 諏訪
>>21
206〜207年頃に、張遼は盪寇将軍、楽進は折衝将軍、李典は破虜将軍になっています。
その後合肥の戦いまで三者とも官位の記述がありませんから、そのままと考えていいでしょう。
また、張遼と楽進は仮節になっています。
爵位は張遼が都亭侯、楽進が広昌亭侯、李典が都亭侯です。
楽進は500戸加増されて1200戸になっていますからその前は700戸、李典は100戸加増されて300戸になっているのでその前は200戸ですね。
張遼は>>23で皇澪桜さんが述べられているように、文帝が帝位に即いたときに1000戸加増されて2600戸になっていますが、それ以前に都郷侯に昇進していて、このときの加増数が不明なので、215年の時点での戸数はわかりません。

まとめると、215年の合肥の戦いの時点では

張遼 盪寇将軍・仮節・都亭侯(?戸)
楽進 折衝将軍・仮節・広昌亭侯(700戸)
李典 破虜将軍・都亭侯(200戸)
(W51S/au)
28 バンビ
昔なんかは太僕とかそんな感じの役職の人でも軍を率いてたんですよね(汗)
すっかり忘れてました(笑)
(W54T/au)
29 皇澪桜
>>26-27
区点コード・官位の説明感謝です。
この場合、戦略的指揮を取っていたのがセツ悌で現場指揮も兼ねていた…。
ところで三人の序列としては結局どうなんでしょう?
同列として良いのでしょうか…?
(W52CA/au)
30 諏訪
>>29
三人とも雑号将軍ですから、基本的には同格と考えていいと思います。
(W51S/au)
31 朱家
楽進の年齢が分からないけど、張遼と同世代か少し上かな、李典は張遼より、最低でも12才は若いですね。
張遼は降将、楽進は最古参の武人、李典は豪族で、しかも若い、同列でしょうから、仲は悪そうだ(笑)


曹操と劉備らは、官位が違うので、比較でもないし、意味はないですが、検索してみました。
李典の破虜は、董卓、行破虜が孫堅、鮑信。楽進の折衝は、他に甘寧のみ、張遼の盪寇は、かなり検索にかかる。ちょっと古いが、劉巴の父劉祥、周慎、趙融、三国だと、関羽、程普、張コウなど、まだまだ有名どこがいます。
強烈?なのは、光武帝がいる破虜、古いのは王莽時代に見える折衝将軍、三国だと、盪寇将軍がもの凄い面子だけど、後漢末期から見える新しい号ですかね。
(PC)
32 皇澪桜
>>30-31
ご教授感謝ですm(__)m

蒼天ですら合肥戦にセツ悌出ませんね…。
ここの常連さんで正史準拠のゲーム作ったらもの凄く素晴らしいものが出来そうですね(^O^)
ただゲームバランス取れなくなって魏の一人勝ちになりそうですが。
張・楽・李の息子達の活躍はどの程度でしたっけ?
また上記三人以外で活躍した人って誰がいるのでしょうか?
(W52CA/au)
33 バンビ
確かにここの方達でゲーム作って欲しい(笑)
本題に戻って、張遼の子張虎は確か偏将軍になった筈です。自分はその後は分かりませんでした。楽進の子楽(糸+林)は諸葛誕の反乱時に殺されています。
李典の息子李禎が後を継いで文帝時に百戸加贈されてます。
李典の一子(名前不明)には関内侯の爵位と百戸を賜っています。
(W54T/au)
34 バンビ
そーいえば、張虎は蜀侵攻時に鐘会に斬られてますよね。
(W54T/au)
35 皇澪桜
>>33
ご教授感謝ですm(__)m
私の知識はほとんど演義準拠のものから仕入れたものばかりで、正史を買って読んでるものの、まだまだで…
(W52CA/au)
36 赤龍
多分それは、許チョの子の許儀のことじゃないでしょうか?蜀侵攻の際に、桟道の整備の不手際で鐘会に斬られたという。
(PC)
37 バンビ
そうでした!笑
なんか、自分でも書いて変だと思ったんですよね(笑)
赤龍さんありがとうございますm(_ _)m
(W54T/au)