2 天草
劉備は呉書に書かれているように、本当に後方待機をしていたのでしょうか?
確かに蜀書のどの伝を見ても、この戦で活躍した武将やその詳細は見られません。
しかし、同盟軍やら劉・孫軍やら…そんな書き方をされてるのも事実。
う〜ん。。。どうかな?
確かに蜀書のどの伝を見ても、この戦で活躍した武将やその詳細は見られません。
しかし、同盟軍やら劉・孫軍やら…そんな書き方をされてるのも事実。
う〜ん。。。どうかな?
(PC)
4 たかひろ
赤壁には調査に行きました。現在の赤壁。
@赤壁は二つある
A水位が低い
B川幅が小さい
これが現在の赤壁ですが、まぁ何分1800年前ですから地殻変動はあったでしょう。ただ、この水質は特殊で夏期には火を通しても魚に当たるそうです。
@赤壁は二つある
A水位が低い
B川幅が小さい
これが現在の赤壁ですが、まぁ何分1800年前ですから地殻変動はあったでしょう。ただ、この水質は特殊で夏期には火を通しても魚に当たるそうです。
(F2102V/FOMA)
6 ユウキ
赤壁っていう地名は周揄の火計によって激しく炎上し火の海になったその光景からその場所は赤壁って名前が付いたんじゃなかったっけ間違ってたらすいませんでも名前の通りなら戦いはあったでしょう
ただ赤壁の戦いで死んだ武将って誰がいますか?大敗にもかかわらずあまり誰を失ったとかの話は聞きませんよね
チョウシュウとの戦いで典韋や曹昂死んでますが、チョウシュウとの戦いより確実に規模の大きい戦闘のはず…
もしかしたら大敗と言うより被害がほとんどないうちに撤退したのかもしれないですね
ただ赤壁の戦いで死んだ武将って誰がいますか?大敗にもかかわらずあまり誰を失ったとかの話は聞きませんよね
チョウシュウとの戦いで典韋や曹昂死んでますが、チョウシュウとの戦いより確実に規模の大きい戦闘のはず…
もしかしたら大敗と言うより被害がほとんどないうちに撤退したのかもしれないですね
(P900i/FOMA)
7 たかひろ
中国は事実じゃない史跡を作るんですよ?【ここが梁山泊】とか。
俺は現在の赤壁とされた所で戦があったのかという疑問です。
確かなる証拠はないですが、赤壁の名の由来からでは【赤壁】の真実を読みとくのは些か困難ですね。
呉としてみれば、魏を水上でかんぷなきまで叩きのめしたことは、絶好のプロパガンダになると思いませんか?
俺は現在の赤壁とされた所で戦があったのかという疑問です。
確かなる証拠はないですが、赤壁の名の由来からでは【赤壁】の真実を読みとくのは些か困難ですね。
呉としてみれば、魏を水上でかんぷなきまで叩きのめしたことは、絶好のプロパガンダになると思いませんか?
(F2102V/FOMA)
8 ユウキ
確かに呉にとっては最高のプロパガンダになるでしょうねただ叩きのめす程の戦いがそこで行なわれたかの疑問ですよね
戦いと言っても官渡の戦いや街亭の戦い、夷稜の戦いみたいな激戦もあれば、五丈原のような睨み合い、などもあるし、官渡の戦いでも長期間睨み合った末の勝利ですよね
そこに大軍が押し寄せたり国の運命を決めるような出来事があった場合〜の戦いとつく訳で、散々に打ち破らなくても呉にとって国の脅威を避けた『出来事』それこそが赤壁の戦いとして残されてるのでは
逆に『赤壁の戦い』ではなく『赤壁での攻めぎあい』として記録されてればあまり記述がないのもうなずけるとおもうんですが
つまり打ち破ったというより撤退だったと思うんですが…あくまで一考えですが…
戦いと言っても官渡の戦いや街亭の戦い、夷稜の戦いみたいな激戦もあれば、五丈原のような睨み合い、などもあるし、官渡の戦いでも長期間睨み合った末の勝利ですよね
そこに大軍が押し寄せたり国の運命を決めるような出来事があった場合〜の戦いとつく訳で、散々に打ち破らなくても呉にとって国の脅威を避けた『出来事』それこそが赤壁の戦いとして残されてるのでは
逆に『赤壁の戦い』ではなく『赤壁での攻めぎあい』として記録されてればあまり記述がないのもうなずけるとおもうんですが
つまり打ち破ったというより撤退だったと思うんですが…あくまで一考えですが…
(P900i/FOMA)
11 赤龍
たしか現在赤壁古戦場とされる場所は五ヶ所あり、有名な蘇ショクが詩を読んだ赤壁は、間違った赤壁のひとつだったとか。今仕事場なんで詳しくは確認できませんが…
私も赤壁ではそれほど大規模な戦闘は起きてないとする説を支持してます。
私も赤壁ではそれほど大規模な戦闘は起きてないとする説を支持してます。
(J-SA05)
12 たかひろ
>>10赤壁前後の混沌を考えて想像の羽根を広げれば、不思議でもないです。
>>11厳密に言うと9箇所です。しかし、その大半は商業目的であり、史実的価値は4〜3箇所って所でしょうか。
俺も小競り合いくらいと思う。まぁ想像ではあるが(笑)
>>11厳密に言うと9箇所です。しかし、その大半は商業目的であり、史実的価値は4〜3箇所って所でしょうか。
俺も小競り合いくらいと思う。まぁ想像ではあるが(笑)
(F2102V/FOMA)
13 天草
やはり赤壁の話題は盛り上がりますな!
ユウキ殿がおっしゃる通り、赤壁で大規模な戦闘が行われたにしては、その戦で死んだ有名武将がいないことは不思議です。
しかし、無かったのならば、曹操が撤退した意味や、呉書・蜀書(諸葛亮伝)の記述が根底から疑われる事になりますので、それもどうかと。
正史というのは、歴史書ですが、やはり魏を正統として書かれてるはずですから、わざわざ周喩を持ち上げる伝を捏造するとも思えないんですよね。
私は、戦は確かにあった…という前提の下に書いてますので、悪しからず。
さて問題は規模の問題ですよね。曹操が何万人を動員したのかという記述はなかったと記憶してます。
孫権への脅迫文には80万とありましたが、これはハッタリでしょう。
意外と、赤壁に来た兵は全て荊州の元劉表の兵だったのかもしれませんね。
ユウキ殿がおっしゃる通り、赤壁で大規模な戦闘が行われたにしては、その戦で死んだ有名武将がいないことは不思議です。
しかし、無かったのならば、曹操が撤退した意味や、呉書・蜀書(諸葛亮伝)の記述が根底から疑われる事になりますので、それもどうかと。
正史というのは、歴史書ですが、やはり魏を正統として書かれてるはずですから、わざわざ周喩を持ち上げる伝を捏造するとも思えないんですよね。
私は、戦は確かにあった…という前提の下に書いてますので、悪しからず。
さて問題は規模の問題ですよね。曹操が何万人を動員したのかという記述はなかったと記憶してます。
孫権への脅迫文には80万とありましたが、これはハッタリでしょう。
意外と、赤壁に来た兵は全て荊州の元劉表の兵だったのかもしれませんね。
(PC)
15 たかひろ
本当に『このような』と言ったのでしょうか?そんな一字一句伝えてるとは思いません(-_-)
しかし、歴史っちゅーもんは疑えば疑うほど面白い。多面的であるし。
うすら覚えですが、赤壁の敗戦の後にガッピらへんに出兵してませんでしたっけ?
しかし、歴史っちゅーもんは疑えば疑うほど面白い。多面的であるし。
うすら覚えですが、赤壁の敗戦の後にガッピらへんに出兵してませんでしたっけ?
(F2102V/FOMA)
16 たかひろ
大事な事を書くの忘れてた。ガイドしてくれた李先生が赤壁に向かうバスの中で言ったんです(正確ではない)。
李『君達、なんで赤壁の戦いが有名か知ってる?』
ある生徒『三国志クライマックスだから?』
李『違います。三国志クライマックスは官渡。赤壁が何故有名かというと、僕は三国志史上で一番の謎だからと思うんだ』
へー。と思いました。
李『君達、なんで赤壁の戦いが有名か知ってる?』
ある生徒『三国志クライマックスだから?』
李『違います。三国志クライマックスは官渡。赤壁が何故有名かというと、僕は三国志史上で一番の謎だからと思うんだ』
へー。と思いました。
(F2102V/FOMA)
17 ユウキ
でも正史に載っているコメントだったはず。それを疑ったら孔明の『法正が生きていたら』もカクの後継者問題の時の問答も疑わなければいけなくなりますよ正しく伝わっていなかったとしても、火の無いところに煙は立たずって言いますし。このようなとは言ってなくても後悔したのは間違いないはず
(P900i/FOMA)
18 たかひろ
疑ってますよ。基本、正史も権力者贔屓なので。史実であって真実ではないと思う。
後悔したのは間違いないというのは、置いといて、そのコメントから大敗北を想像するのはソースとして弱いと思いますが。
と、想像の羽根を広げるのは歴史の楽しみだから否定はしません。俺もそうだし
後悔したのは間違いないというのは、置いといて、そのコメントから大敗北を想像するのはソースとして弱いと思いますが。
と、想像の羽根を広げるのは歴史の楽しみだから否定はしません。俺もそうだし
(F2102V/FOMA)
20 たかひろ
こんがらかってきた(笑)
皆さん、ズバッと自らの赤壁論を出しませんか?答えは天草さんの実録で!みたいな(笑)
俺は【小規模戦闘+アルファーのアクシデンド】で撤退説。
皆さん、ズバッと自らの赤壁論を出しませんか?答えは天草さんの実録で!みたいな(笑)
俺は【小規模戦闘+アルファーのアクシデンド】で撤退説。
(F2102V/FOMA)
24 赤龍
郭嘉の件ですが、郭嘉伝から引用しますと
後太祖荊州を征し還り、巴丘において疾疫に遇い、船を焼く、歎きて曰く「郭奉孝在れば、孤此に至らしめざる」と
ここでの「このような事」とは、疫病にあい、船を焼いて帰ったことを指し、戦闘での敗北は指していないと考えるべきです。
後太祖荊州を征し還り、巴丘において疾疫に遇い、船を焼く、歎きて曰く「郭奉孝在れば、孤此に至らしめざる」と
ここでの「このような事」とは、疫病にあい、船を焼いて帰ったことを指し、戦闘での敗北は指していないと考えるべきです。
(J-SA05)
28 赤龍
天草さん、すいません。文章のニュアンスが問題になってたようなので、なるべく原文に近い形にと思って。
たかひろさん。正史では正確な時期さえはっきりしませんが、冬、九月〜十二月(旧暦です)の間になります。
たかひろさん。正史では正確な時期さえはっきりしませんが、冬、九月〜十二月(旧暦です)の間になります。
(J-SA05)
29 たかひろ
旧暦なら冬になりますが、九月ならギリかな?冬だったらあそこは時々雪積もる。んで昔は現在より寒いから、12〜2月は雪でしょうなぁ。軍事行動は農閉期がセオリーだから、あくまで脳内推測だが10〜11月後半かも。
(F2102V/FOMA)
32 たろう
いきなりですんません。あげの意味もこめて。
もし小規模戦闘だったらなぜそんな数だけで攻めたのか?曹軍は玄徳軍を警戒しいた。玄徳と大国呉との同盟。度重なる遠征。水戦不利。疫病問題。その他…。これだけの不安要素がありながらなぜ?賈クは荊州平定時にこの戦にたしか反対してました。彼はどうしていたんでしょうか?賈クがいなくても曹操自身または程イクがそれぐらい見抜いているはずじゃないでしょうか?
曹操は三回だけ肉親の死で天才戦略家としての判断を狂わせるという説を聞きました。トウケンにより父兄弟を殺されたとき復讐のため大量殺戮で親友張バクの離反。
漢中で淵が斬られたとき曹操は山岳の多い地形で確実に不利な騎馬戦を挑み劉ビに惨敗。
そして曹操を超える才能を持っていた曹冲13才の時病気で死んだこと。←これが赤壁の原因だと言われてますがなぜその矛先を呉に…?でもなんか関係あるのかな?
もし小規模戦闘だったらなぜそんな数だけで攻めたのか?曹軍は玄徳軍を警戒しいた。玄徳と大国呉との同盟。度重なる遠征。水戦不利。疫病問題。その他…。これだけの不安要素がありながらなぜ?賈クは荊州平定時にこの戦にたしか反対してました。彼はどうしていたんでしょうか?賈クがいなくても曹操自身または程イクがそれぐらい見抜いているはずじゃないでしょうか?
曹操は三回だけ肉親の死で天才戦略家としての判断を狂わせるという説を聞きました。トウケンにより父兄弟を殺されたとき復讐のため大量殺戮で親友張バクの離反。
漢中で淵が斬られたとき曹操は山岳の多い地形で確実に不利な騎馬戦を挑み劉ビに惨敗。
そして曹操を超える才能を持っていた曹冲13才の時病気で死んだこと。←これが赤壁の原因だと言われてますがなぜその矛先を呉に…?でもなんか関係あるのかな?
(W21SA/au)
33 天草
私は、疫病で死んだ兵がもともとの曹操軍であって、大敗した時には帰順したばかりの荊州の兵だったのではないかと考えてます。それならば、魏の兵力に大局的なダメージが出なかったことや、残った曹仁の軍にあまり兵力を裂かなかった事が説明できます。
しかし…赤壁で戦死した武将が誰一人いない、というのはまったく説明できませんが…ちなみに私は、大規模戦があったと信じている派です(笑)
しかし…赤壁で戦死した武将が誰一人いない、というのはまったく説明できませんが…ちなみに私は、大規模戦があったと信じている派です(笑)
(PC)
34 たろう
でも大規模ならなぜ曹軍は負けたのか?大規模なら陸兵もかなりいます。あくまでも推測ですが船団が燃え東南の風に乗り陸の陣営に飛び火したといいますがそんなに簡単に陸に燃えうつるとは思えません。陸にも何十万の兵がいますから…周ユは壊滅が目的ではなく軍船もしくわ闘艦だけ焼けば曹軍に兵がいくらあっても水上戦はむりだと考え撤退させることをかんがえたのでは?陸上戦ではさすがに数万だけでは勝てませんからね!このままだとお互い硬直状態曹操が続くので陸の陣を焼き撤退したのでは?これなら大規模戦闘も考えれます。
荊州に兵を残せなかったのは残したが荊州の兵は心から屈服していたわけではないので自分の国から曹操を追い出すため玄徳軍、呉軍にくだっていったのでは?
荊州に兵を残せなかったのは残したが荊州の兵は心から屈服していたわけではないので自分の国から曹操を追い出すため玄徳軍、呉軍にくだっていったのでは?
(W21SA/au)
35 大伴
追い出す為に下るとは、本末転倒では?
曹操の軍は、孫権が降伏すると思ってか、烏林でのんびりと陣を構えますが、それは休息の意味もあったかも知れませんね。
武帝紀に引く山陽公裁記には、華容道に兵を置いていなかった劉備と孔明を、曹操が馬鹿にする記述がありますよね?何故か馬鹿にされるのは孫権ではありません。つまり、劉備は敗走する曹操を追撃する役目だったのでは無いでしょうか?無論、山陽公裁記は裴松之が批判する、疑わしい記述ばかりの書物の様ですが、このエピソードを信じると、劉備の役割が納得いきます。
劉備は先主伝の注に引く江表伝によると、赤壁から遠く離れた樊口で怯えています。しかし裴松之が孫盛の言葉を用いて否定する様に、これは信用できません。孫権を開戦に踏み切らせた以上、孫権だけに戦わせる訳にはいかず、もし孫権が勝っても負けても、劉備の政治的立場は良くなりません。共に戦ったと見る方が良いと思います。
劉備は鼻から北岸にいて、火災が発生したところを突いたのでは無いでしょうか?
無論、疑わしいとされる山陽公裁記の記述のみに頼った推測ですから、飽くまでも可能性の段階ですが……
曹操の軍は、孫権が降伏すると思ってか、烏林でのんびりと陣を構えますが、それは休息の意味もあったかも知れませんね。
武帝紀に引く山陽公裁記には、華容道に兵を置いていなかった劉備と孔明を、曹操が馬鹿にする記述がありますよね?何故か馬鹿にされるのは孫権ではありません。つまり、劉備は敗走する曹操を追撃する役目だったのでは無いでしょうか?無論、山陽公裁記は裴松之が批判する、疑わしい記述ばかりの書物の様ですが、このエピソードを信じると、劉備の役割が納得いきます。
劉備は先主伝の注に引く江表伝によると、赤壁から遠く離れた樊口で怯えています。しかし裴松之が孫盛の言葉を用いて否定する様に、これは信用できません。孫権を開戦に踏み切らせた以上、孫権だけに戦わせる訳にはいかず、もし孫権が勝っても負けても、劉備の政治的立場は良くなりません。共に戦ったと見る方が良いと思います。
劉備は鼻から北岸にいて、火災が発生したところを突いたのでは無いでしょうか?
無論、疑わしいとされる山陽公裁記の記述のみに頼った推測ですから、飽くまでも可能性の段階ですが……
(F2102V/FOMA)
37 大伴
>>34の前半部分は面白いと思いますね。船を失った為に断念とは、理由の一つになりそうです。
ちなみに、ここで曹操が立ち直れ無い程の大負けしなかった事が、後に劉備にとって結果上手く働いた様にも思えます。孫権はこの後合肥を攻めるのですが、ここで大敗します。その為、劉備は荊州を抑える事が出来ましたからね。
ちなみに、ここで曹操が立ち直れ無い程の大負けしなかった事が、後に劉備にとって結果上手く働いた様にも思えます。孫権はこの後合肥を攻めるのですが、ここで大敗します。その為、劉備は荊州を抑える事が出来ましたからね。
(F2102V/FOMA)
38 くわびん
二十万という大兵はいわば、元袁紹、劉表配下も加えた混成部隊。一枚岩では有りません。曹操直属の配下は数万と言ったところでしょう。
袁紹配下は遠く遠征して来た訳で、帰郷心が出ていたはず…。
袁紹配下は遠く遠征して来た訳で、帰郷心が出ていたはず…。
(SH900i/FOMA)
39 たろう
最近知ったんですが孫権はさらに徐州まで攻めてそこでも惨敗。さらに荊州、合肥攻め。無謀なのか?でもここまで攻めるという事は赤壁で曹軍は相当なダメージを受けたのか?この戦は兵よりも将個人の名前の方がよく聞かれますし。
(W21SA/au)
40 天草
私は逆に孫権のほうが無謀だった気がしますね。
敵(曹操軍)は少数といえども、歴戦の勇者ばかりでした。
曹操は、江陵には曹仁・合肥には蒋済・徐州には陳登を配置してました。
さらに守備側有利であることも考えれば、どこか一箇所に絞って、侵攻したほうが良かったのでは?と思ってます。
特に、徐州には張昭が指揮を取ってるらしいですからね(汗)
参照
実録・赤壁の乱・赤壁後日談
私もこの戦における劉備軍の動きの記述は怪しいと思ってます。何より孫権が荊州という要所を無償で貸したなんてのは、おかしいですよね。やはりここでの活躍が劉備の立場を良くした…と考えるのが自然ですよね。
敵(曹操軍)は少数といえども、歴戦の勇者ばかりでした。
曹操は、江陵には曹仁・合肥には蒋済・徐州には陳登を配置してました。
さらに守備側有利であることも考えれば、どこか一箇所に絞って、侵攻したほうが良かったのでは?と思ってます。
特に、徐州には張昭が指揮を取ってるらしいですからね(汗)
参照
実録・赤壁の乱・赤壁後日談
私もこの戦における劉備軍の動きの記述は怪しいと思ってます。何より孫権が荊州という要所を無償で貸したなんてのは、おかしいですよね。やはりここでの活躍が劉備の立場を良くした…と考えるのが自然ですよね。
(PC)
42 しす
>たろうさん
「魏略」に見える濡須の戦いでの孫権がモデルだと思います。
それによると…
孫権が大船に乗って偵察に来ると、曹操は弓・弩を射かけさせた。矢がその船に突き刺さり、船は片方だけが重くなって傾いたため、船を廻らせ別の面で矢を受け、刺さった矢が平均して船が安定したので自軍へ引き上げた…とあります。
「魏略」に見える濡須の戦いでの孫権がモデルだと思います。
それによると…
孫権が大船に乗って偵察に来ると、曹操は弓・弩を射かけさせた。矢がその船に突き刺さり、船は片方だけが重くなって傾いたため、船を廻らせ別の面で矢を受け、刺さった矢が平均して船が安定したので自軍へ引き上げた…とあります。
(PC)
43 天草
たろう殿>それは全く逆ですが、孫権がやった事に酷似しているといわれてます。
魚カンの『魏略』によれば、孫権は大船に乗って曹操軍の視察に出ました。それに気づいた曹操はあらん限りの弓と弩をむやみやたらに浴びせた。その為、突き刺さった矢の重さで船が傾き、転覆しそうになった。孫権はその時、船を反転させ、反対側にも平均になるだけの矢を受け、船が安定したのを見計らって退却した…
こんな感じです。
魚カンの『魏略』によれば、孫権は大船に乗って曹操軍の視察に出ました。それに気づいた曹操はあらん限りの弓と弩をむやみやたらに浴びせた。その為、突き刺さった矢の重さで船が傾き、転覆しそうになった。孫権はその時、船を反転させ、反対側にも平均になるだけの矢を受け、船が安定したのを見計らって退却した…
こんな感じです。
(PC)
44 たろう
やっぱり諸葛亮は関係ないんですね。
全く関係ないんですが空城の計も諸葛亮がやったものと聞いたんですが趙雲がやったとかそれ以前の対呉のとき文聘が使った計であるとか…なんかみんな諸葛亮に塗り変えられてますょね…
全く関係ないんですが空城の計も諸葛亮がやったものと聞いたんですが趙雲がやったとかそれ以前の対呉のとき文聘が使った計であるとか…なんかみんな諸葛亮に塗り変えられてますょね…
(W21SA/au)
46 大伴
最近私は、曹操が孫子解説のオーソリティだという事に納得する事が多いのです。例えば、「帰る師をとどめる勿れ、囲む師は必ずかく、窮寇には迫る勿れ(軍争篇)」などは、壷関の戦い(206)に応用されていませんか?「善く戦う者は之を勢いに求めて人に責めず、故に能く人を択びて勢いに任じる(兵勢篇)」とか(笑)
さて赤壁なのですが、曹操はぐずぐずとしている印象を受けます。疲れていた、疫病の影響など、理由は沢山考えられますが、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」という理由も考えられますね。事実孫権達は降伏するつもりだった様ですから。
さて赤壁なのですが、曹操はぐずぐずとしている印象を受けます。疲れていた、疫病の影響など、理由は沢山考えられますが、「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」という理由も考えられますね。事実孫権達は降伏するつもりだった様ですから。
(F2102V/FOMA)
51 天草
見ましたよ。
恐らくここでたろうサンや単福サンに教えてもらわなければ、気が付かなかったと思います(汗)
【その時歴史が動いた】で今週と来週の二週やるらしいです。
登場人物が劉備・関羽・張飛・諸葛亮・孫権のみなのは残念でした。
ただ、演義の場面では、小説であるという事、創作かもしれないという事をちゃんと説明してましたので良かったですが、肝心な『その時』を東南の風を吹かせた日にしたのはどうかと(笑)
一気に劉備が死ぬところまで今週はいきましたので、来週のその時は『五丈原』かな?
皆さんはみましたか?
恐らくここでたろうサンや単福サンに教えてもらわなければ、気が付かなかったと思います(汗)
【その時歴史が動いた】で今週と来週の二週やるらしいです。
登場人物が劉備・関羽・張飛・諸葛亮・孫権のみなのは残念でした。
ただ、演義の場面では、小説であるという事、創作かもしれないという事をちゃんと説明してましたので良かったですが、肝心な『その時』を東南の風を吹かせた日にしたのはどうかと(笑)
一気に劉備が死ぬところまで今週はいきましたので、来週のその時は『五丈原』かな?
皆さんはみましたか?
(PC)
53 たろう
見ましたけど演ギばっかでたいした事やってなかったような気がします…たしかに「その時」が風吹いたってのはちょっと…
このサイトの方が勉強になります(笑)強いて面白いものといえば諸葛亮が祈祷した祭壇あったこと…
このサイトの方が勉強になります(笑)強いて面白いものといえば諸葛亮が祈祷した祭壇あったこと…
(W21SA/au)
55 ストラップ
薄学を告白する様で恥ずかしいのですが、先日、通俗演義における赤壁の決戦にモデルがある事を識りました。1363年の朱元ショウと陳友諒の会戦がそれだそうです。
詳しい方、解説お願いします。
詳しい方、解説お願いします。
(F2102V/FOMA)
56 李
>>55
私も、明には詳しくないので、簡単にしか説明できませんが、それはハ(番+β)陽湖の戦いですね。
朱元璋が、陳友諒を火攻めにして勝っています。
この時、朱元璋の参謀は劉基。諸葛亮に比せられる人ですが、こちらの方が軍略は上。むしろ、張良に近いです。
私も、明には詳しくないので、簡単にしか説明できませんが、それはハ(番+β)陽湖の戦いですね。
朱元璋が、陳友諒を火攻めにして勝っています。
この時、朱元璋の参謀は劉基。諸葛亮に比せられる人ですが、こちらの方が軍略は上。むしろ、張良に近いです。
(P900i/FOMA)
57 ストラップ
鎖に繋がれた大型船舶の船団を、小船の集団が火攻めにするという基本構造が先ず似ていますね。
陳友諒は、策謀によって配下の趙普勝が裏切ったと勘違いし、殺しています。これも水軍大都督のサイボウをころす過程に似ている気がします。
僕自身も、大方の識者が指摘するように、この一戦が通俗演義の「赤壁の戦い」のモデルとして先ず間違いない様な気はします。
陳友諒は、策謀によって配下の趙普勝が裏切ったと勘違いし、殺しています。これも水軍大都督のサイボウをころす過程に似ている気がします。
僕自身も、大方の識者が指摘するように、この一戦が通俗演義の「赤壁の戦い」のモデルとして先ず間違いない様な気はします。
(F2102V/FOMA)
58 くわぁまん
アッシ、ちょっと気がつきました…。
劉表の息子劉キの手兵は江夏で徴兵したのですがその大半は元黄祖の配下です…。
呉にとって黄祖は仇だったので幾度となく戦が起き住民は度々強制移住を強要されました…。
地元住民は相当呉に恨みを持っていたでしょうね…
赤壁の戦いは劉、孫連合軍に曹軍は負けましたが、劉軍の約半数は劉キの兵、つまり元黄祖の配下や住民等な訳ですから劉、孫の連合軍はかなり危険な組み合わせだったのによく勝てたと思います。
下手をすれば孫軍の背後を元黄祖軍が襲う、寝首を掻かれる可能性もあったんですよね。
劉表の息子劉キの手兵は江夏で徴兵したのですがその大半は元黄祖の配下です…。
呉にとって黄祖は仇だったので幾度となく戦が起き住民は度々強制移住を強要されました…。
地元住民は相当呉に恨みを持っていたでしょうね…
赤壁の戦いは劉、孫連合軍に曹軍は負けましたが、劉軍の約半数は劉キの兵、つまり元黄祖の配下や住民等な訳ですから劉、孫の連合軍はかなり危険な組み合わせだったのによく勝てたと思います。
下手をすれば孫軍の背後を元黄祖軍が襲う、寝首を掻かれる可能性もあったんですよね。
(F901iC/FOMA)
59 失礼します
話しを折るようですが…
確か赤壁の戦いは架空の話しではなかったでしょうか…
理由は大きく3つほど当時の情勢と非科学的な部分があったとか。1、当時孫が劉と共に戦をするメリットがゼロだった。2、諸葛亮が祈祷により起こした追い風。3、は忘れました…こんな感じだったような気がするのですが。黄蓋の偽投降、曹操が水上戦を仕掛けるメリットもないとか曹操は当時南に戦を仕掛ける余裕はなかった等いろいろと言われてたと思います。赤壁の戦いが好きな人は気にしないで下さい。
確か赤壁の戦いは架空の話しではなかったでしょうか…
理由は大きく3つほど当時の情勢と非科学的な部分があったとか。1、当時孫が劉と共に戦をするメリットがゼロだった。2、諸葛亮が祈祷により起こした追い風。3、は忘れました…こんな感じだったような気がするのですが。黄蓋の偽投降、曹操が水上戦を仕掛けるメリットもないとか曹操は当時南に戦を仕掛ける余裕はなかった等いろいろと言われてたと思います。赤壁の戦いが好きな人は気にしないで下さい。
(W11H/au)
60 天草
>>59
まず最初に…なぜ匿名なのかが理解できません。
こんなに素晴らしい発言をされてるのに匿名であるというだけで発言の価値が下がります。ハンドルネームをつけても何も発言に困るような内容ではないと思いますので、もう一度良く注意事項を読んで参加頂くように協力をお願いします。
本題ですが…赤壁の戦いが架空の話なのか?というと、真実ですと言わざるを得ません。
戦があった事自体は武帝記・先主伝・諸葛亮伝・孫権伝など…数多くの資料に残されてますから間違いないでしょう。
ただ>>59で言われてるように諸葛亮の祈祷などは間違いなく創作でしょう。
ただ問題になるのは、後世に残されているような大規模な戦闘が行われたのか?という事です。
これについては諸説ありますので、まだ分かりません。
ちなみに私はあったと信じたい派です(笑)
良かったら皆さんもこのスレの>>1-59の全てを見直してみて下さい。この事についてはかなり議論されてますので、面白いですよ。
まず最初に…なぜ匿名なのかが理解できません。
こんなに素晴らしい発言をされてるのに匿名であるというだけで発言の価値が下がります。ハンドルネームをつけても何も発言に困るような内容ではないと思いますので、もう一度良く注意事項を読んで参加頂くように協力をお願いします。
本題ですが…赤壁の戦いが架空の話なのか?というと、真実ですと言わざるを得ません。
戦があった事自体は武帝記・先主伝・諸葛亮伝・孫権伝など…数多くの資料に残されてますから間違いないでしょう。
ただ>>59で言われてるように諸葛亮の祈祷などは間違いなく創作でしょう。
ただ問題になるのは、後世に残されているような大規模な戦闘が行われたのか?という事です。
これについては諸説ありますので、まだ分かりません。
ちなみに私はあったと信じたい派です(笑)
良かったら皆さんもこのスレの>>1-59の全てを見直してみて下さい。この事についてはかなり議論されてますので、面白いですよ。
(PC)
61 狄仁傑
多分どなたも覚えておられないかと思いますが、久しぶりに帰って来ました。
赤壁戦役は
@孫呉側が長期戦に持ち込み
A曹魏陣営に疫病が発生し深刻な被害に自主撤退
B複数回赤壁戦役があった
C現在の赤壁とは違う場所で戦われたようだ
Dその現地では崖に『赤壁』とド派手な赤い大きな文字が彫られている(でもC)
以上が現代の中国側の概説書に載っていたのを見た覚えがあります。
赤壁戦役は
@孫呉側が長期戦に持ち込み
A曹魏陣営に疫病が発生し深刻な被害に自主撤退
B複数回赤壁戦役があった
C現在の赤壁とは違う場所で戦われたようだ
Dその現地では崖に『赤壁』とド派手な赤い大きな文字が彫られている(でもC)
以上が現代の中国側の概説書に載っていたのを見た覚えがあります。
(W31SA/au)
62 天草
>>61
本当にお久しぶりですね!覚えてますよ♪
赤壁の場所ですが、現地が観光客の誘致のためか?「こここそが赤壁だ!」と言ってる場所が何箇所もあり、実際にどこが赤壁なのか、もうはっきりとは分からないようです(汗)
一番観光スポットとして有名なのは、>>61で書かれてる赤壁の文字が彫られた絶壁のある場所ですが、この文字も周瑜が剣で書いた字だなんて言ってるらしいから、眉唾もの(てか絶対嘘)ですよね(苦笑)
見た事のない方のために写真をUpしておきますね。携帯から見れますように…。
赤壁古戦場
本当にお久しぶりですね!覚えてますよ♪
赤壁の場所ですが、現地が観光客の誘致のためか?「こここそが赤壁だ!」と言ってる場所が何箇所もあり、実際にどこが赤壁なのか、もうはっきりとは分からないようです(汗)
一番観光スポットとして有名なのは、>>61で書かれてる赤壁の文字が彫られた絶壁のある場所ですが、この文字も周瑜が剣で書いた字だなんて言ってるらしいから、眉唾もの(てか絶対嘘)ですよね(苦笑)
見た事のない方のために写真をUpしておきますね。携帯から見れますように…。
赤壁古戦場
(PC)
63 狄仁傑
>>62
天草サンお久しぶりです!博物館が拡張されてここも新しくなったんですね♪
さて本題ですが>>59の諸葛亮の祈梼について、確か柴田練三郎の三国志演義では
孔明は戦役時、赤壁付近の天候の変化を統計学的な見地から把握しており一時的に風向きが変化する事を察知して、自軍鼓舞と孫軍に対する示威の為に敢えて一芝居打った、と解釈されています。
なるほどな、と思ったものです。
天草サンお久しぶりです!博物館が拡張されてここも新しくなったんですね♪
さて本題ですが>>59の諸葛亮の祈梼について、確か柴田練三郎の三国志演義では
孔明は戦役時、赤壁付近の天候の変化を統計学的な見地から把握しており一時的に風向きが変化する事を察知して、自軍鼓舞と孫軍に対する示威の為に敢えて一芝居打った、と解釈されています。
なるほどな、と思ったものです。
(W31SA/au)
64 ムササビ
赤壁の謎は蒼天航路で述べられているように、時間的つじつまが合わないこと、当時の劉備には兵団と領地があまりないため孫には同盟のメリットがないことがあると思う。また、曹軍は水陸合わせて十五万〜二十万ほどだと思うが(官渡のときの曹軍+荊州兵)、水兵は荊州兵だけの筈(曹軍には造船技術がなく荊州の技術者は制服者に非協力的)で、水軍兵力は互角くらいだったのになぜ戦をはじめたのか??だれか私の疑問を解決してください。手厳しくてもかまいません。
(F900iT/FOMA)
65 嵐
はじめまして、です。おじゃましますm(__)m。
諸葛亮の祈祷についてですが、以前、某公共放送の『その時』シリーズで三国志の特集があった時に、公明は地元の漁師の人に聞いて、暖かい日が続いた時に火計に有利な風が吹くことを知っていた。と、言っていたと思います。放送の内容自体が演義を基本に構成されていたので、信憑性に少し疑問は有りますが。
諸葛亮の祈祷についてですが、以前、某公共放送の『その時』シリーズで三国志の特集があった時に、公明は地元の漁師の人に聞いて、暖かい日が続いた時に火計に有利な風が吹くことを知っていた。と、言っていたと思います。放送の内容自体が演義を基本に構成されていたので、信憑性に少し疑問は有りますが。
(P901i/FOMA)
66 天草
ムササビサン・嵐サン>お初です☆以後よろしくお願いします♪
>>64
蒼天航路は見てません(見たい。。)ので詳しい事は分かりませんが…
○時間的つじつま→詳しく説明をお願いします。
○劉備との盟のメリット→これは元々荊州が落とされる前に魯粛の進言によって孫権が決断したもので、劉備が荊州の新体制を作ったら協力してやっていこうと言うものでした。残念ながら魯粛が劉備に会ったのは長坂で追われた後だった…という訳ですから、状況が前後しただけで、十分孫権にもメリットはあったのだと思います(呉書・魯粛伝)
○水軍兵力など…この問題だけは微妙です。
なぜなら前述の通り、赤壁の戦には詳しい事が何一つ残されてないので、曹軍・孫軍・劉軍、どの兵力もあくまでも推測に過ぎませんから…。
ただ、荊州出兵の前、烏丸討伐からギョウに帰還した曹操は広大な人工池を作り、水軍を鍛えたという事が残されてます(武帝記)から、最初から狙いは長江以南にあったという事も十分に考えられます。
>>64
蒼天航路は見てません(見たい。。)ので詳しい事は分かりませんが…
○時間的つじつま→詳しく説明をお願いします。
○劉備との盟のメリット→これは元々荊州が落とされる前に魯粛の進言によって孫権が決断したもので、劉備が荊州の新体制を作ったら協力してやっていこうと言うものでした。残念ながら魯粛が劉備に会ったのは長坂で追われた後だった…という訳ですから、状況が前後しただけで、十分孫権にもメリットはあったのだと思います(呉書・魯粛伝)
○水軍兵力など…この問題だけは微妙です。
なぜなら前述の通り、赤壁の戦には詳しい事が何一つ残されてないので、曹軍・孫軍・劉軍、どの兵力もあくまでも推測に過ぎませんから…。
ただ、荊州出兵の前、烏丸討伐からギョウに帰還した曹操は広大な人工池を作り、水軍を鍛えたという事が残されてます(武帝記)から、最初から狙いは長江以南にあったという事も十分に考えられます。
(PC)
67 天草
>>65
あの番組は私も見ましたが、祈祷のシーンがあったのは逆に残念でした(笑)
風の件に関しては周瑜伝のでにも出てきますが、それが諸葛亮が祈祷したお陰で…というのはあくまでも三国志演義でのお話です。
色んなスレで話してますが、今でも中国の人は日本人以上に『三国志演義こそ(歴史としての)真実』と信じて疑いません。
そういう考え方が生んだ一つの説なのでしょうね。
確かこのスレの始めのほうにこの時期の風について話されてる方がいたと思いますよ。
あの番組は私も見ましたが、祈祷のシーンがあったのは逆に残念でした(笑)
風の件に関しては周瑜伝のでにも出てきますが、それが諸葛亮が祈祷したお陰で…というのはあくまでも三国志演義でのお話です。
色んなスレで話してますが、今でも中国の人は日本人以上に『三国志演義こそ(歴史としての)真実』と信じて疑いません。
そういう考え方が生んだ一つの説なのでしょうね。
確かこのスレの始めのほうにこの時期の風について話されてる方がいたと思いますよ。
(PC)
68 ムササビ
蒼天航路ですが肝心の二十二巻が我が家で失踪中でして、見つけ次第カキコミします。兵力ですが、皆様は官渡やその前後からの推察ではどのくらいだと思われますか??できたら皆で討論して統一見解みたいのをだしませんか??
(F900iT/FOMA)
69 朱家
ムササビさん、お初ですね。よろしくです。おそらく勘違いされてるかと…官渡は200年で赤壁は208年です。官渡時の兵力を考察する必要はないですよ。蒼天航路を読んだ事はないですが、時期的なとこは、鳥桓討伐から赤壁までの期間が短い事ぐらいでしょうかね。しかし華北を統一しての国力を考えると不思議ではないと思います。人口池を作って訓練しておいて、軍船が足りないとは考えにくいです。陸兵を軍船に乗せれば水軍ですから、質は低いでしょうが、はるかに多い水軍を所有してたと思いますよ。
(A1304T/au)
70 ムササビ
うまく伝わらなかった(自分の表現が拙かった)みたいで(^_^;…官渡〜赤壁の八年のあいだを推察するってことなんです。官渡などには兵力の信頼できる数字があるから、そこから八年の間の兵力の推移を皆で討論しようってことなんです。…でも軍船の件は皆様がいうように人工湖の練兵があるから足りないってことはなさそですね。
(F900iT/FOMA)
71 天草
私は戦力については>>66で書いた通り、微妙な問題だと思ってます。
確かに人工池を作り、訓練していたと書きましたが、それはあくまでも曹操に南征の構えが当初からあった事を説明したかっただけで(;^_^Aこれで、船が十分にあったと推測するのは難しい気がします。
その理由は搬送です!
果たして当時の戦艦は搬送していたのでしょうか?
何百・何千隻(歴史通りなら)という大きな戦艦を搬送するのには無理がある気がしますよね?
となると、荊州の船を利用したと考えるなら、黄祖と孫軍が何度も起こした戦と同規模のものだったのかも…という事も考えられますよね?
確かに人工池を作り、訓練していたと書きましたが、それはあくまでも曹操に南征の構えが当初からあった事を説明したかっただけで(;^_^Aこれで、船が十分にあったと推測するのは難しい気がします。
その理由は搬送です!
果たして当時の戦艦は搬送していたのでしょうか?
何百・何千隻(歴史通りなら)という大きな戦艦を搬送するのには無理がある気がしますよね?
となると、荊州の船を利用したと考えるなら、黄祖と孫軍が何度も起こした戦と同規模のものだったのかも…という事も考えられますよね?
(N900i/FOMA)
72 狄仁傑
嵐さん>某公共放送と柴錬のソースは同じようですね。とは言え諸葛亮の祈祷があったと仮定するなら、今の所その説が一番理にかなっていると思います。
ムササビさん>私は赤壁戦役は大河を挟んだ対峙戦と考えていますので、戦船の数が曹軍の兵力全てを艦載出来ないほど少なかったとしても驚きません。
むしろ、北岸に陸兵を並べた示威行動で孫呉を外交的に服従させる事こそが赤壁戦役の主眼だったと思います。
ムササビさん>私は赤壁戦役は大河を挟んだ対峙戦と考えていますので、戦船の数が曹軍の兵力全てを艦載出来ないほど少なかったとしても驚きません。
むしろ、北岸に陸兵を並べた示威行動で孫呉を外交的に服従させる事こそが赤壁戦役の主眼だったと思います。
(W31SA/au)
73 朱家
官渡での吸収、勝利の称号、袁兄弟の吸収と華北統一、30万は動員できるでしょう。軍事の基本は兵力ではなく兵糧ですから、半分も連れてないと思いますよ。
それまでの曹操なら、公瑾など無視して、柴桑を攻めたはずですけどね。まあ攻めようとして撃退されたみたいですが、力攻めするか、諦めるなら江陵に引くのが彼なんですけどね。驕ってたか?ぐらいしか説明がつかない。驕ってないとすれば、武帝紀と周ユ伝注の曹操の書簡が正しいとなる。
私は小規模派ですけどね。
それまでの曹操なら、公瑾など無視して、柴桑を攻めたはずですけどね。まあ攻めようとして撃退されたみたいですが、力攻めするか、諦めるなら江陵に引くのが彼なんですけどね。驕ってたか?ぐらいしか説明がつかない。驕ってないとすれば、武帝紀と周ユ伝注の曹操の書簡が正しいとなる。
私は小規模派ですけどね。
(A1304T/au)
74 ストラップ
呉書にあるいくつかの列伝(呂蒙伝、程普伝、甘寧伝、凌統伝)を読むと、曹操が烏林で局地戦に負けたという記述がありますし、周瑜伝には「初一交戦、公軍敗退」とありますが‥‥‥武帝紀には、
「公至赤壁、與備戦、不利」
と、劉備と戦って不利になったと書かれています。孫権に関しては「乃走」と、逃げた事が記されており、曹操は劉備に負けたのだという書き方の様に感じます。
僕は>>35に書いた様に、劉備の仕事は、追われてくる曹操を伏撃、追撃する事だと考えていたのですが、意外にも本戦に関与している可能性がありますね。
「公至赤壁、與備戦、不利」
と、劉備と戦って不利になったと書かれています。孫権に関しては「乃走」と、逃げた事が記されており、曹操は劉備に負けたのだという書き方の様に感じます。
僕は>>35に書いた様に、劉備の仕事は、追われてくる曹操を伏撃、追撃する事だと考えていたのですが、意外にも本戦に関与している可能性がありますね。
(PC)
76 ★
赤壁の戦いですか絶対オレは小規模だったと思います。伝にのってるから戦いはあったって思うけど、そんなんなかったら戦い自体なかったって思いますもん《笑゛時期や地形を見ても不利だし、兵が曹軍の方が多いからっていっても曹操が呉をこの条件で攻めるのはカナ〜リ疑問デス。オレは降伏を決めずに迷ってた孫権に脅す為に兵を配置していて…で、まぁ〜結局戦争したけど、軍を配置してたトコで疫病発生→あえなく撤退 みたいな?笑゛
↑小競り合いはあったと思います↑
↑小競り合いはあったと思います↑
(W32SA/au)
77 寿君
李通のスレッドにもカキコしたんですが、劉備は追撃した時、関羽に命じて北道を断ち切らせ、曹仁の退路を立ったと李通伝にあります。
赤壁で曹操は火攻めに遭ってから撤退し、これを劉備・周瑜が追撃したとします。この時に関羽が北道を断ち切ったんだとすれば、曹操は襄陽に帰るのは難しそうなんですが、これより先に江陵に曹仁を残し、引き上げてるとしたら、曹操は難渋する華容道を一体どれぐらい素早く撤退したんでしょうか?。
こう見ると、★さんの疫病発生→撤退開始ってのも、判る気がするんですが、火攻め受けてからだと…劉備の追撃から逃れられないのではないかと…。
赤壁で曹操は火攻めに遭ってから撤退し、これを劉備・周瑜が追撃したとします。この時に関羽が北道を断ち切ったんだとすれば、曹操は襄陽に帰るのは難しそうなんですが、これより先に江陵に曹仁を残し、引き上げてるとしたら、曹操は難渋する華容道を一体どれぐらい素早く撤退したんでしょうか?。
こう見ると、★さんの疫病発生→撤退開始ってのも、判る気がするんですが、火攻め受けてからだと…劉備の追撃から逃れられないのではないかと…。
(P901iS/FOMA)
78 寿君
すいません。間違えました。劉備が関羽を北に配置したのは、江陵を包囲した時でした…。(ちくまの3巻244ページ参照)
でも、それでも曹操の北への脱出が早いですね。いくら傷病兵を踏み台にしてぬかるみの道を騎兵で抜けたとしても…。
でも、それでも曹操の北への脱出が早いですね。いくら傷病兵を踏み台にしてぬかるみの道を騎兵で抜けたとしても…。
(P901iS/FOMA)
80 天草
一年以上前に書いたものをそのままコピペしたわけですが、少し考えが変わった部分もあり、しかしそれはそれで面白いと感じたので、訂正なしで掲載しました。
改めて、皆さんそれぞれの赤壁論を聞きたいですね♪
まさに三国志の七不思議の一つ!
『赤壁で大規模な戦は本当にあったのか?』
改めて、皆さんそれぞれの赤壁論を聞きたいですね♪
まさに三国志の七不思議の一つ!
『赤壁で大規模な戦は本当にあったのか?』
(PC)
81 晏隆
妄想なんですが赤壁の戦いは大きく分けて2つの理由から起こったんじゃないかと思います。
曹操は最初から戦う気は無く、孫権に降ってもらうつもりだった。これが1つ。もう1つは自分の妄想なんですが、もし戦になった場合は不穏な気配のある荊州兵を赤壁で処分するための戦だったんじゃないかと…
そして荊州で力を持つ蔡瑁をも呉の策略を利用し、謀反人として葬ったんじゃないかと…
曹操は最初から戦う気は無く、孫権に降ってもらうつもりだった。これが1つ。もう1つは自分の妄想なんですが、もし戦になった場合は不穏な気配のある荊州兵を赤壁で処分するための戦だったんじゃないかと…
そして荊州で力を持つ蔡瑁をも呉の策略を利用し、謀反人として葬ったんじゃないかと…
(EZ)
82 晏隆
連書き失礼します。
ということで自分は赤壁は大戦だったと思います。しかし曹軍の精鋭は無傷に近く、ダメージを与えたと勘違いした孫家を撃退してしまうのも計算の内だったのではないかと…
妄想のし過ぎですよね。長文失礼しました。(汗)
ということで自分は赤壁は大戦だったと思います。しかし曹軍の精鋭は無傷に近く、ダメージを与えたと勘違いした孫家を撃退してしまうのも計算の内だったのではないかと…
妄想のし過ぎですよね。長文失礼しました。(汗)
(EZ)
83 天草
>>81ー82
初めましてm(__)m
実際に被害にあったのは荊州兵だという意見は、私の赤壁論と同じです♪
水上戦に少しでも慣れていた、荊州兵を曹操が前線に出した可能性は大だと思っています。
荊州兵に不穏な気配が…というのは何がソースでしょうか?
質問板にも書きましたが、そもそも、この戦は曹操が孫権領を狙って始まったのではなく、劉備を追って南下した延長の戦だった可能性もありますよね?
赤壁役自体、曹操軍対劉備軍の戦であったという説を唱える方はいないかな?
初めましてm(__)m
実際に被害にあったのは荊州兵だという意見は、私の赤壁論と同じです♪
水上戦に少しでも慣れていた、荊州兵を曹操が前線に出した可能性は大だと思っています。
荊州兵に不穏な気配が…というのは何がソースでしょうか?
質問板にも書きましたが、そもそも、この戦は曹操が孫権領を狙って始まったのではなく、劉備を追って南下した延長の戦だった可能性もありますよね?
赤壁役自体、曹操軍対劉備軍の戦であったという説を唱える方はいないかな?
(N902i/FOMA)
84 寿君
小牧長久手の秀吉対信雄の構図が、曹操対劉備の構図に似てる気がします。
信雄に援軍出した家康と劉備に援軍出した孫権が同じ立場だった事です。
実際、どちらの戦いの連合軍側で主要な働きを見せたのが援軍ってのも似てます。
「劉備は曹操の主筋じゃないぞ」とか「秀吉と信雄みたいに講和はしないぞ」とか言う小さい突っ込みはなしで。
だから、曹操と戦う劉備に孫権が援助したんじゃないですか?。赤壁戦前の程イクの意見なんか見ると、明らかにそういうニュアンスで見通し語ってるみたいですし。
信雄に援軍出した家康と劉備に援軍出した孫権が同じ立場だった事です。
実際、どちらの戦いの連合軍側で主要な働きを見せたのが援軍ってのも似てます。
「劉備は曹操の主筋じゃないぞ」とか「秀吉と信雄みたいに講和はしないぞ」とか言う小さい突っ込みはなしで。
だから、曹操と戦う劉備に孫権が援助したんじゃないですか?。赤壁戦前の程イクの意見なんか見ると、明らかにそういうニュアンスで見通し語ってるみたいですし。
(P901iS/FOMA)
85 晏隆
>>81の中に書いた、荊州兵の不穏の気配ってのはまったくの推測です。(資料を読んだことがないので)(x_x;) ただなぜそう推測したかというと、劉宗は青州刺史に任じられていますよね?
このために劉宗に忠誠を誓っている兵や劉宗の下で甘い汁をすおうとしていた蔡一族などの豪族達は不満があったのでは?と思ったんです。
このために劉宗に忠誠を誓っている兵や劉宗の下で甘い汁をすおうとしていた蔡一族などの豪族達は不満があったのでは?と思ったんです。
(EZ)
86 天草
う〜ん…
>>85
蔡冒らが劉ソウに忠誠を…というのはちょっと違う気がします。
彼らは自分達の立場を上げるために劉ソウを推し、自分達の保身のために曹操への帰順を促したのではないでしょうか?
もっとも甥ですから、忠誠と言えば、ある意味忠誠なのでしょうが。
>>85
蔡冒らが劉ソウに忠誠を…というのはちょっと違う気がします。
彼らは自分達の立場を上げるために劉ソウを推し、自分達の保身のために曹操への帰順を促したのではないでしょうか?
もっとも甥ですから、忠誠と言えば、ある意味忠誠なのでしょうが。
(N902i/FOMA)
87 礼文
劉キの兵が元々黄祖の兵だったことに関連してなんですが、劉備は「自分の兵が呉と連携するのを難しく感じている」という口実(実際はそんなことはない)で一緒に布陣しなかったというのはどうでしょうか?
曹操軍の強さを体験している劉備は数万の兵を普通に布陣させてもとても止められるとは思えず、自分の得意なゲリラ戦で魏軍を覚乱させその隙を呉についてもらう形に持ち込みたかった。周瑜にしてみれば「うちの兵が後ろからそちらを狙ってます」と言われたようなものだからそんな奴らと組みたくはない。それなら首尾よく劉備が曹操軍を覚乱させてもよし、仮に死んでも荊州よこせと言われなくなるからそれもまたよしということで納得。
曹操軍の強さを体験している劉備は数万の兵を普通に布陣させてもとても止められるとは思えず、自分の得意なゲリラ戦で魏軍を覚乱させその隙を呉についてもらう形に持ち込みたかった。周瑜にしてみれば「うちの兵が後ろからそちらを狙ってます」と言われたようなものだからそんな奴らと組みたくはない。それなら首尾よく劉備が曹操軍を覚乱させてもよし、仮に死んでも荊州よこせと言われなくなるからそれもまたよしということで納得。
(EZ)
88 礼文
続き
前述の理由で劉備は赤壁で呉軍が対峙している間に別のところで散発的にゲリラ戦をしかける。曹操軍が鳥林で敗北というのもその一つ。
曹操はもともと劉備を追って南下してきたわけだから、第一目標である劉備のために主力を後退させ、荊州水軍は呉に圧力をかけるためにそのまま配置。劉備をどうにかしたあと再度降伏を勧告する構えをとる。
思惑どおり、後方の戦力が充実してきたため劉備軍沈静化。しかし同時に火計によって荊州水軍は壊滅。主力はほとんど被害はなかったけど、水軍を焼かれた以上呉に降伏を迫るのは無理。疫病が蔓延している状態でどっかで息を潜める劉備軍と、追撃してくるであろう呉軍を同時に相手をするのは被害が大きいと判断して曹操軍撤退。連合軍は追撃に移行するも主力は後方にいたので特にダメージはなし。
という妄想でした。駄文で長文、失礼しました。
前述の理由で劉備は赤壁で呉軍が対峙している間に別のところで散発的にゲリラ戦をしかける。曹操軍が鳥林で敗北というのもその一つ。
曹操はもともと劉備を追って南下してきたわけだから、第一目標である劉備のために主力を後退させ、荊州水軍は呉に圧力をかけるためにそのまま配置。劉備をどうにかしたあと再度降伏を勧告する構えをとる。
思惑どおり、後方の戦力が充実してきたため劉備軍沈静化。しかし同時に火計によって荊州水軍は壊滅。主力はほとんど被害はなかったけど、水軍を焼かれた以上呉に降伏を迫るのは無理。疫病が蔓延している状態でどっかで息を潜める劉備軍と、追撃してくるであろう呉軍を同時に相手をするのは被害が大きいと判断して曹操軍撤退。連合軍は追撃に移行するも主力は後方にいたので特にダメージはなし。
という妄想でした。駄文で長文、失礼しました。
(EZ)
89 天草
赤壁がもともとどういう狙いが発端の戦だったのか?も、これらを考える上で大事な事ですよね?
例えば礼文サンは、劉備を追って曹操軍が南下…という考えなのでしょうが、本当に劉備を追うために南下してきたのでしょうか?
荊州を手中に収めたかったからではないでしょうか?
そこまで、あっさり手に入ったから、長江以南も狙おうという考えに繋がったのでは?
と、こんな考えもありますよね?
もしそうだったら、やはりこれは曹操対孫権ということになります。
皆さんはいかがでしょうか?
例えば礼文サンは、劉備を追って曹操軍が南下…という考えなのでしょうが、本当に劉備を追うために南下してきたのでしょうか?
荊州を手中に収めたかったからではないでしょうか?
そこまで、あっさり手に入ったから、長江以南も狙おうという考えに繋がったのでは?
と、こんな考えもありますよね?
もしそうだったら、やはりこれは曹操対孫権ということになります。
皆さんはいかがでしょうか?
(PC)
90 礼文
自分で言っといてなんですが、私は劉備にそこまでの価値を見出せないんですよね(汗)
実際は、曹操は荊州のよく潤った土地と優秀な人材が欲しかった。荊州を手に入れたら目立つ勢力が他に孫権と劉璋しかいない。せっかく劉備追って南にきたしそのまま孫権降伏させておこう。
という流れだと思っています。
ただ、>>88の劉備追って…の部分はともかく、劉備をどうにかすることで呉の降伏論勢力が強くなることを期待するのはありえそうな気がします。
実際は、曹操は荊州のよく潤った土地と優秀な人材が欲しかった。荊州を手に入れたら目立つ勢力が他に孫権と劉璋しかいない。せっかく劉備追って南にきたしそのまま孫権降伏させておこう。
という流れだと思っています。
ただ、>>88の劉備追って…の部分はともかく、劉備をどうにかすることで呉の降伏論勢力が強くなることを期待するのはありえそうな気がします。
(EZ)
91 晏隆
>>86より
考えてみたら蔡瑁達は誰が主であろうと関係ないですよね。
質問なんですが劉備は赤壁の時は後方覚乱をしていたんですか?
それだけで孫権は土地貸したのかな〜と少し疑問に思います。
討論場なのに質問してすいません。m(__)m
考えてみたら蔡瑁達は誰が主であろうと関係ないですよね。
質問なんですが劉備は赤壁の時は後方覚乱をしていたんですか?
それだけで孫権は土地貸したのかな〜と少し疑問に思います。
討論場なのに質問してすいません。m(__)m
(EZ)
92 司馬散人
曹操は最低でも長江北岸は確保するつもりだったと思います。特に江陵は蜀攻略の拠点にもなりますから。
ただ、赤壁の役の後に江陵を曹仁に任せて、慌てた様に北走した理由が気になります。
もしかして、朝廷がかなり動揺してたのでしょうか?
関連して、孫権のあの強気の攻勢も気になりますね。
江陵は劉璋を攻めにるも脅すにも不可欠なはず。
それを曹仁に任せて北帰せざる得なかったとなると、赤壁の役はただの撤退以上のものを感じます。
ただ、赤壁の役の後に江陵を曹仁に任せて、慌てた様に北走した理由が気になります。
もしかして、朝廷がかなり動揺してたのでしょうか?
関連して、孫権のあの強気の攻勢も気になりますね。
江陵は劉璋を攻めにるも脅すにも不可欠なはず。
それを曹仁に任せて北帰せざる得なかったとなると、赤壁の役はただの撤退以上のものを感じます。
(J-SH53_a)
93 天草
>>91
そこが一番微妙で、伝によって記述が違うんです。
赤壁が大きな戦だったのか?の謎に大きく関わるところですよね。
ちなみに武帝記には敗走した事は載ってますが、その内容などは全くありませんし、僅かの行しか割いてません。
>>92
そう言われれば、確かにそうですね。
たった井一度の敗戦ですから、江陵あたりにそのまま留まってもと良さそうな気がしますね。
曹仁を信用していたのでしょうが…。
そこが一番微妙で、伝によって記述が違うんです。
赤壁が大きな戦だったのか?の謎に大きく関わるところですよね。
ちなみに武帝記には敗走した事は載ってますが、その内容などは全くありませんし、僅かの行しか割いてません。
>>92
そう言われれば、確かにそうですね。
たった井一度の敗戦ですから、江陵あたりにそのまま留まってもと良さそうな気がしますね。
曹仁を信用していたのでしょうが…。
(PC)
94 TS
魯粛伝なんかからわかるのは、
孫権は劉表が死ぬ前から荊州進出(侵攻)を計画していて、劉表死亡と曹操侵攻、降伏は孫権・魯粛の想定外の早さだった、ということ。
それから魯粛は江陵→江夏と動き曹操に抵抗する劉備と接触しており、
孫権・魯粛にとって曹操を撃ち(劉備を旗頭に立てて)荊州に進出するのはこの時点で事実上決まっていたと言っていいでしょう。
孫権や魯粛から見ると、赤壁・烏林の戦闘は曹操の侵略をはねのける防衛戦ではなく、
荊州進出の邪魔になる曹操を駆逐する戦いだった、ということです。
でなければ赤壁での勝利後にそのまま江陵まで進み、一年かけてまで江陵を落としたりはしないでしょう。
孫権は劉表が死ぬ前から荊州進出(侵攻)を計画していて、劉表死亡と曹操侵攻、降伏は孫権・魯粛の想定外の早さだった、ということ。
それから魯粛は江陵→江夏と動き曹操に抵抗する劉備と接触しており、
孫権・魯粛にとって曹操を撃ち(劉備を旗頭に立てて)荊州に進出するのはこの時点で事実上決まっていたと言っていいでしょう。
孫権や魯粛から見ると、赤壁・烏林の戦闘は曹操の侵略をはねのける防衛戦ではなく、
荊州進出の邪魔になる曹操を駆逐する戦いだった、ということです。
でなければ赤壁での勝利後にそのまま江陵まで進み、一年かけてまで江陵を落としたりはしないでしょう。
(W31T/au)
95 寿君
曹操軍の別動軍がもし漢水に展開していたのなら、劉備はもしかしたら夏口すなわち後方に布陣してた可能性は否定できないと思います。
徐晃伝を読みましたら、満寵と共に漢津に関羽を討伐したとあるんです。これが、江陵に曹仁と籠城した記述の直前に存在します。
もしかして、曹操軍は漢水からも侵攻して関羽軍と衝突したのでしょうか?。
とすると、長江に孫呉、漢水に劉備と言う考え方もできなくないんですが…。
実際関羽が漢津あたりに居たのなら、戦後に関羽が江陵の北道を断ち切ったのも、上陸して真っすぐ東に行けばいい訳で、辻褄は合うのですが…。
徐晃伝を読みましたら、満寵と共に漢津に関羽を討伐したとあるんです。これが、江陵に曹仁と籠城した記述の直前に存在します。
もしかして、曹操軍は漢水からも侵攻して関羽軍と衝突したのでしょうか?。
とすると、長江に孫呉、漢水に劉備と言う考え方もできなくないんですが…。
実際関羽が漢津あたりに居たのなら、戦後に関羽が江陵の北道を断ち切ったのも、上陸して真っすぐ東に行けばいい訳で、辻褄は合うのですが…。
(P901iS/FOMA)
96 飛燕
自分もTSと同じ考えです。
そもそも、この戦いを遭遇戦とするなら孫権軍は自動的に侵攻軍ですよ。曹操軍と遭ったのがあくまで偶然なんですから、孫権軍は防衛ではなく、他の目的で上っていた。それが江陵奪取ということですね。
自分はこの戦いに小説チックな考えを持っています。
この戦いって、劉備の利点だらけですよね。赤壁があったから三分計が成った、というのも、三分計には赤壁は不可欠だった、ってひっくり返せると思いますし。ですから、荊州逃亡から赤壁に至るまでは、全て孔明の脚本に依るものでは?と思ってしまった訳です。孫権けしかけたのも彼ですしね。
ちょっと物語的過ぎますね(苦笑)小説のネタにしときます。
そもそも、この戦いを遭遇戦とするなら孫権軍は自動的に侵攻軍ですよ。曹操軍と遭ったのがあくまで偶然なんですから、孫権軍は防衛ではなく、他の目的で上っていた。それが江陵奪取ということですね。
自分はこの戦いに小説チックな考えを持っています。
この戦いって、劉備の利点だらけですよね。赤壁があったから三分計が成った、というのも、三分計には赤壁は不可欠だった、ってひっくり返せると思いますし。ですから、荊州逃亡から赤壁に至るまでは、全て孔明の脚本に依るものでは?と思ってしまった訳です。孫権けしかけたのも彼ですしね。
ちょっと物語的過ぎますね(苦笑)小説のネタにしときます。
(F900iC/FOMA)
98 天草
>>95
確かに徐晃伝の記述は興味深いですね。
地図の研究中ですから、ついでに簡単に作ってみました。
携帯から見れますように…。
http://image.blog.livedoor.jp/amakusa3594/imgs/5/2/52604d0f.gif?blog_id=586564
白い○が樊、水色の●が江陵です。
しかし、肝心の関羽がいたという漢水の場所が分かりません。
どなたか分かる方いますか?
確かに徐晃伝の記述は興味深いですね。
地図の研究中ですから、ついでに簡単に作ってみました。
携帯から見れますように…。
http://image.blog.livedoor.jp/amakusa3594/imgs/5/2/52604d0f.gif?blog_id=586564
白い○が樊、水色の●が江陵です。
しかし、肝心の関羽がいたという漢水の場所が分かりません。
どなたか分かる方いますか?
(PC)
99 寿君
>>95
こうは言ってみた私なんですが、半信半疑なんです。
ってのは、徐晃が関羽を漢津に討伐したってのは、もしかしたら、樊から水軍率いて南下した時に追撃した事かも知れないんです。
だから、>>95を成立させようとすれば、
「関羽は襄陽にあった水軍を殆ど徴発して南下した」って前提条件が必要なんです。
もしそうなら、徐晃はすぐには後を追えませんから、赤壁戦時と言う事になり、関羽は徐晃伝にある如く漢津に水軍を駐留させてた事になる…って訳です。
そこが悩むとこであります。
こうは言ってみた私なんですが、半信半疑なんです。
ってのは、徐晃が関羽を漢津に討伐したってのは、もしかしたら、樊から水軍率いて南下した時に追撃した事かも知れないんです。
だから、>>95を成立させようとすれば、
「関羽は襄陽にあった水軍を殆ど徴発して南下した」って前提条件が必要なんです。
もしそうなら、徐晃はすぐには後を追えませんから、赤壁戦時と言う事になり、関羽は徐晃伝にある如く漢津に水軍を駐留させてた事になる…って訳です。
そこが悩むとこであります。
(P901iS/FOMA)
100 黒耀竜
>>98
劉備の敗走ルートについて、長坂から脇道を通って漢津に行き、関羽の水軍と合流して夏口に到着、とあるので、当陽(長坂)東方の漢水流域のどこかだと思います。
有名な渡しのようなのでもしかしたら今でも地名が残っているかもと思い、「湖北省 漢津」でググると荊門市漢津というのが引っかかりました。荊門市は当陽の北になるので、これで間違いないと思います。>>98の地図でいえば当陽と雲杜の中間あたりになるようです。
結局、ピンポイントで割り出すのは失敗しましたが、津というのは川幅の狭い所あるいは川の屈曲点にあるのが普通ですので、それらしい所が見つかると思います。
どなたか湖北省か荊門市の詳しい地図をお持ちなら話が早いかもしれませんが。
劉備の敗走ルートについて、長坂から脇道を通って漢津に行き、関羽の水軍と合流して夏口に到着、とあるので、当陽(長坂)東方の漢水流域のどこかだと思います。
有名な渡しのようなのでもしかしたら今でも地名が残っているかもと思い、「湖北省 漢津」でググると荊門市漢津というのが引っかかりました。荊門市は当陽の北になるので、これで間違いないと思います。>>98の地図でいえば当陽と雲杜の中間あたりになるようです。
結局、ピンポイントで割り出すのは失敗しましたが、津というのは川幅の狭い所あるいは川の屈曲点にあるのが普通ですので、それらしい所が見つかると思います。
どなたか湖北省か荊門市の詳しい地図をお持ちなら話が早いかもしれませんが。
(PC)