1 茶雨

陸抗について

呉末期・暴君孫コウに支え長い間呉を支え続けた名将。 彼についてなんなり語りましょ〜 私は・・・後から語ります。 口を開くとノンストップなのでソ
(A1402S/au)
2 茶雨
そういえばみなさまとはお初になりますね・・・ こんな奴ですが宜しくお願いします(笑)
(A1402S/au)
3 天草
茶雨殿>初めまして!よろしくお願いします!
渋い名前を出してこられましたね!!
三国志末期の人物に詳しくない私はしっかり勉強させてもらいます!

陸抗

何と言ってもこのエピソードですよね!
陸抗と羊コ
(PC)
4 ユウキ
陸坑自体はあまり目立った戦果はあげていなかったはず皆さんは軍人、内政官どちらが陸坑の得意とする分野だと思いますか
(P900i/FOMA)
5 大伴
限られた戦力を、西陵と江陵のどちらに割り振るか、という判断の正しさが、彼の指揮官としての資質を示していると思います。
又、長年国境の警備にあたりながら戦功の少ない事も、隙の無い防備を施した証明でしょう。

ただ二十六で療養が必要な程の病になっていますし、体は強く無かったかも知れませんね。


茶雨さんはじめまして。以後も宜しく。
(F2102V/FOMA)
6 茶雨
個人的に陸抗は軍人に近いと思います 君主さえよければ・・・ ここでみなさんに質問です。 陸抗は誰に支えたら一番良かったと思いますか? 私は曹操だと思います。 陸抗について考えた結果徐晃に似ていると思ったからです。 主君を見捨てなかったし、見る限り控えめな性格だったと思うし。病気がちなところは郭嘉に似てるかも(笑)
(A1402S/au)
7 雷雄
西陵城で展開した二重包囲作戦や、羊コとの読み合いにも終始有利な事から優秀な指揮官だったのではないかと思います。 自分の指揮権の範囲では善政を行ったらしいですから内政官としても優秀では?
(F504i)
8 ユウキ
僕は群雄割拠の時代や大きな戦いが起こる状況では陸坑の力は発揮できないかとやはり守勢の人かな…
ショクでトウインの後を継いで劉禅の補佐をしてほしいなぁ
(P900i/FOMA)
9 茶雨
>6の理由は陸抗は引っ張るよりひっぱられるタイプだと思ったからです。だから実行力が強くてバイタリティのある”引っ張る”タイプの曹操がいいと思いました。
(A1402S/au)
10 大伴
確かに陸抗は、狭い範囲で職務をこなす職人的気質を見せていますね。
では広い視野はもて無かったのでしょうか?
これに関しては何とも言えませんよね。それに性格は環境はあってのものですし、環境は時代背景あってのものです。つまり本人の性格や技能は、その人の歩んだ歴史とは不可分です。

もしも……という話よりも、資料から陸抗という人自身の事を、もっと探ってみませんか?せっかくの陸抗スレッドですし。
(F2102V/FOMA)
11 ユウキ
こんな夜中にここを見ている僕はいったい…さては大判さん寝れないんですね
やはり大判さんの言うようなイメージを僕も持ってます。あいにく僕は資料なんかはもってないのでなんとも言えないですが…
(P900i/FOMA)
12 大伴
先ずは私の分析(笑)

246年に彼は、諸葛恪と任地を交換し、紫柴に駐屯する事になります。この時に元の任地の塞壁を修復し、宿舎の屋根を取り替えたり、畑を整理したりと綺麗にしました。一方恪はそのまま来たので恥じ入ったそうです。

恪も任地替えは始めての事では無いでしょうし、ならば恪のやり方が一般的だったのでは無いでしょうか?

このエピソードから陸抗には、几帳面かつ、他人を気配る心がある様に思えます。几帳面ならば事務処理に優れたでしょうし、不尊な恪を恥じ入らせた位ですから、多くの人がその配慮に与った事だと思います。
(F2102V/FOMA)
13 ユウキ
イメージとしては諸葛瑾+魯粛タイプかな…敵将から認められるという事は確実に人望が厚かったんでしょうね逆に陸坑の失敗談なんてゆうのは無いのでしょうか???
(P900i/FOMA)
14 大伴
失敗談。捜してみましたが無いですね。

孫休伝と霍峻伝に引く注に、蜀の巴東に羅憲を攻めたが、援軍の為に撤兵する、とある位でしょうか?
後無理に捜すならば、朱桓伝に引く注で、朱異を止めたが止めきれず、孫リンに朱異を殺されたエピソードなどが挙げられると思います。
(F2102V/FOMA)
15 郭煕
世説新語ですが賀ショウ(召β)が呉郡に赴任した時、呉の豪族は彼を馬鹿にしたので仕返しに彼らの罪を調べ上げ、捕らえています。陸抗はこの時都まで謝罪に行ってやっと許されたそうです。記憶で書いているから細部が違うかも。
(W11K/au)
16 ユウキ
罪とはいったいどのような…??
(P900i/FOMA)
17 郭煕
明治書院の世説新語を引きます。()は中略
賀ショウは呉郡の太守となったが、()呉の豪族たちは彼を馬鹿にして()賀ショウはこれを聞くと()そこで各地の駐屯所へ行って顧氏や陸氏の諸豪族が官兵を私用し、逃亡者を匿っていることを取り調べ上げ、悉く事実を報告した。()陸抗はこの時江陵都督をしており、わざわざ都へ下って孫皓に頼み込んだので、やっと許されることができた。
陸抗自身が訴えられたのかは疑問ですが、官兵を私用したというなら彼か陸績の息子あたりでしょう。
(W11K/au)
18 大伴
陸凱伝に、孫コウが陸凱に手が出せなかったのは、陸抗が大軍を預かっていたからだとあります。とすれば、「その気になれば大軍を反乱に使えた」ともとれますから、己の自由に使っていたのかも知れませんね。

私は陸抗という人を、非常な几帳面だと考えているのですが、几帳面が過ぎる故に、完璧主義者だったところがあるのでは無いでしょうか?
陸遜伝の注に引く陸機陸雲別伝によれば、「歩闡を降した時、嬰児まで皆殺しにした」とあります。これは非情な方法ですが、後の憂いを絶つ為の、徹底した処置とも言えますから。
(F2102V/FOMA)
19 茶雨
みなさんすごい詳しいですね、、、私三国志歴浅いので正史とかについては勉強不足なんですよね(汗) スレ立ててなんですが本借りて勉強してきます、、、
(A1402S/au)
20 大伴
茶雨さんへ>始めは多くの人が、通俗演義から入っていると思いますよ。それで良いと思います。一度に全体を把握しようとしないで、少しづつ陸抗について調べていけば、その内陸抗だけでは無く、興味の対象がその他にまで広がると思います。

ちなみに陸抗についてはその伝が無く、陸遜伝のおまけとして記述されています。ですから、陸遜伝から入ると先ずは楽しめると思いますよ。
(F2102V/FOMA)
21 大伴
陳寿という人は、諸葛亮と陸遜を特別視していたのでしょうね。この二人だけは、臣下にありながら独自の列伝を持っていますから。

陸抗伝が無いのは、陸抗が軽んじれたという事では無く、陳寿が深く陸遜を尊敬したという事だと思います。
(F2102V/FOMA)
22 赤龍
正史では、親の伝の中に、続けて子の伝を付するという形が普通です。陸抗もその形に従っただけでしょう。例外はまず鐘会。これは魏の叛臣のため、叛臣列伝的な巻に含めたのでしょう。もう一人が父董和と同じ巻に立伝された董允。これは陳寿の意図もよくわかりません。
(J-SA05)
23 大伴
いや、私が本当に言いたい意味は、関張馬黄趙伝の様に、一つの巻に複数の列伝を入れる形式とせず、巻として陸遜伝と諸葛亮伝が独立しているという事ですよ。
(D505iS)
24 大伴
そういえば、諸葛恪も、瑾とは独立して伝が立っていませんでしたっけ?
うろ覚えですいません
(D505iS)
25 赤龍
そういやそうですね。呉書巻十九は、孫権没後の呉のトップの列伝というべきもの(しかもマイナス評価の者が多い)鐘会と同様、構成上巻を分けて妥当なものでしょう。
(J-SA05)
26 大伴
陸抗についての面白いエピソードがありましたら教えて下さい。
(D505iS)
27 朱家
やっと探せた…ふぅ。えーと、歩闡の子孫を根絶やしにしてますが、これは彼の判断なのでしょうか?裏切り者のため、その行為を非難しませんが、祖父の功績を考えても孫皓に身柄を預けるのが筋だと思うのですが…呪いで死んだなんて話もありますし、正史の記述を覆す材料ないですかね?突破口すら探せない状態なので、大胆な仮説でも構いません。
(A1304T/au)
28 朱家
ふと気付いた事が…
彼の記述って陸遜伝の3〜4割もありますよね。活躍を目で見て、痛烈に批判した孫皓の下で、民が「孔明のごとし」と噂してるのも踏まえて、それでも伝を立てないって凄くないですか?ちょっと異常と思えるほどの敬愛ぶりだ。孔明亡き後、蜀内で陸遜の物凄い名声が鳴り響いてたんじゃないですかね?子供心にある意味洗脳されてたとか…
「陸遜・陸コウ伝」となってたら後世の評価も大きく違ったろうに…
(A1304T/au)
29 赤龍
>>22あたりでも触れているように、子の伝を親の伝に付随させるというのは一般的な史書の体裁。時として、子の記述の方が分量が多いということも、また十分ありうることです。
陸抗の場合も、陸遜伝に付随して伝を立てられているのは妥当な扱いであり、全く異とするに足りないと私は思います。
(PC)
30 朱家
痛いとこつかれました(笑)弱いですよね…
特別扱いは孔明だけにして欲しかったなぁ〜というのがありまして…
(A1304T/au)
31 珠樹
失礼いたします。
>>>18についてですが、反逆罪は族誅、というのが中国における一般的な処罰です。
歩センの場合、西陵一城まるごと呉に背いていますから、たとえ陸抗が処刑せずとも、ほぼまちがいなく族滅となったでしょう。
また、陸抗は歩氏一族や幹部クラスの将校は処刑しましたが、その他の数万に上る将卒は赦免しています。
このあたり、国情と刑罰のバランスをわきまえた人といえるのではないでしょうか。
(F902i/FOMA)
32 巫俊(ふしゅん)
>>31
裴注を確認しましたが、この部分で問題になっていることは幼い子どもの命まで奪ったことです。
子ども殺し事件を問題にしてるのは裴松之自身ではなく中世初期の有識者の談なので、陸抗の行為が問題になったのも時代的な背景があると思います。
東晋時代以降は族誅や逆賊討伐の名目で幼児殺害の風潮がますますエスカレートしていきましたから、陸抗は有識者たちの槍玉として丁度よかったのだと。
私個人の感想からしますと、法律に基づいての族誅というなら国家の裁可を仰ぐべきで、陸抗の個人プレーだと解釈される場合はやはり問題になることだと思います。
ただ個人プレーと解釈する場合は陸抗を一将軍に過ぎないという見地から断罪してる訳で、国家の事業を代行する陸抗に子どもを殺害する権限が公然と存在していたのかどうかが、評価の分かれ目だと思いますね。
(PC)
33 巫俊(ふしゅん)
当たり前のことですが、陸抗の行為は現代的価値観からすると人道に対する罪で国際法廷ものです。
将来の禍根を絶つためうんぬんは弁解にもなりません。
ふつうの歴史学ではこういう人権問題の歴史は「現代の価値観で過去の歴史を裁くものだから」と敬遠されるんですけどね、
この部分の裴注を見れば子ども殺しを悪習とする風潮もしだいに中国社会に形成されてきたことも分かるので、面白いなと思ってます。
(PC)
34 ストラップ
「遜卒時年二十」から計算すると、陸抗は陸遜四十八の時の子で、陸遜って上原謙並だなぁ何て思うのですが、字幼節から推測するに、末の子ですよね?
家督を継いだ事から考えるに次男なんですかね?

延の死語、ずっと男子がいなかったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)