1 大塩平八郎

びぼうについて

関羽を裏切り呉に降ったび竺の弟びぼうについて語りましょう
(W21H/au)
2 ユウキ
初めまして以後よろしくお願いしますさてビボウについてですが…話が飛びますが呉に寝返ってからのビボウの活躍は皮肉にも魏に寝返ろうとした呉将晋宗を討伐した事のみ孫権の嫌がらせ
(P900i/FOMA)
3 天草
大塩殿>初めまして!こりゃまた珍しい名前を出されましたね!!

私が彼について不思議に思うのは、裏切ったタイミングです。

あのタイミング以前にも、劉備の共をしてたら危険な思いも沢山しただろうに…

皆さんはどう思いますか?
(PC)
4 大伴
呉主伝と賀斉伝を総合しましょう。

223年六月、魏に寝返ったキ春の晋宗を攻撃し晋宗を生け捕りにしたとありますね。賀斉が率いた人の名には、麋芳、鮮干丹、劉ショウが挙げられていますね。

しかしこれ以外の麋芳のエピソードは、関羽を裏切る事と、虞翻に道を譲れと言われる事位で、功績らしい功績は一つも書かれていませんよ。

陳寿は字で呼ばぬなど、どうも嫌っていた節がありますから、書き残さなかったのかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
5 ユウキ
正史では裏切りの記述が何度も繰り返されていたような…やはりたかひろさんのスレにもありましたが陳寿は嫌っていたように感じられます
逆に孟達なんかは正史より演義での方が誇張して悪役扱いの感があります…
(P900i/FOMA)
6 ユウキ
↑文が足りなかったたかひろさんのスレって言うのは、正史とはいえ人の感情の入らない書物はないという事に関してです
(P900i/FOMA)
7 大塩平八郎
あいさつ忘れてましたすみません(汗)これからよろしくお願いします。びぼうって馬忠の首をとってしじんと一緒に呉を裏切り劉備に斬首された…
ってのは演義の創作なんですか?
(W21H/au)
8 ユウキ
それは演義の話みたいですね
(P900i/FOMA)
9 赤龍
何故このタイミングで裏切ったか?兄の麋竺は劉備から厚い寵愛を受けてた上、妹も劉備の妻。当然弟の麋芳もかなり厚遇されてたと推測されます。しかし、関羽の下についてから関羽に軽視され(士大夫に対して傲慢という人ですし)、その上不手際から、「帰ったら始末してやる」と脅されてた。プライドが傷つけられ、処遇に不満を持ち、さらに身の危険も感じていた。寝返るのに十分な条件が整っていたと思います。
(J-SA05)
10 赤龍
ちなみに、虞翻の麋芳いびりですが、士仁、麋芳の寝返り工作担当したのって虞翻ですよね。自分が寝返らしたのに、ちょっとひどいんじゃないか、虞翻。と思いました。
(J-SA05)
11 ユウキ
確かに演義みたくリョモウに攻められて簡単に降伏→寝返りではなくて、関羽と仲違いの末→寝返りってありますもんね
どうもグホンは偏屈で頑固な面がありそうですね。孫権の機嫌を損ねて何度も流罪。最後は交州に行かされてますね
(P900i/FOMA)
12 郭煕
呉書によれば士仁は確かに虞翻の説得によりますが、ビ芳は呂蒙が引き連れていた士仁を見て降伏しています。つまり、虞翻は無関係です。また、事件の直後から孫権の誘いに乗って意気を通じ合っていたそうですから、虞翻が非難するのももっともだと思います。
(W11K/au)
13 赤龍
郭煕さん、『呉書』によると、呂蒙に士仁を連れて行くよう進言したのは虞翻ですよ。無関係てわけじゃないです。
(J-SA05)
14 郭煕
しかし降伏を決意したのはビ芳自身です。別に虞翻がビ芳を説得したわけではありません。
(W11K/au)
15 大塩平八郎
びぼうって呉で活躍してたんですね!初めて知りました。
じゃあ士じんはどうなったんですか?
(W21H/au)
16 天草
士仁(関羽伝では傅士仁)が呉で、後に活躍したという記述はないように思われます。

スレ違いでしょうが、虞翻という男は、正確悪いのかな?いじめっ子?
確か于禁も似た時期に彼にいじめられてますよね?(汗)

私はビ芳は『ビホウ』と読んでましたが、皆さんはいかが?
(PC)
17 大伴
恐らく、虞翻という人は、人を裏切る様な人を嫌いだったのでしょう。
しかし、自軍が有利な立場になる事をその気持ちよりも優先し、裏切り工作には携わった。

工作時に、直接麋芳と接触していなければ、詰り易かったでしょうね。

まぁ見方によっては自分勝手だとも言えると思いますよ。

我が国の人の多くは「ビホウ」と発音していると思いますが、我が国独自の読みですし。曹植も、「ソウチ」「ソウショク」と読まれていますから。
(F2102V/FOMA)
18 ユウキ
俺ビボウだと思ってたビホウなんだ
(P900i/FOMA)
19 大伴
そういえば、麋芳も人物辞典未収録人物ですね。

麋芳
麋竺の弟。劉備が曹操の元に身を寄せていた196年に曹操は竺を新しく区分したエイ郡の太守とし、弟の芳を彭の相とした。219年、南郡太守として江陵に配置されていたが、出陣中の関羽への支援を怠った。その為に関羽に脅され、呉の呂蒙に公安の士仁の奨めで味方した。呉臣となってからは、賀斉の指揮で魏に奔った晋宗を捕らえるのに貢献している。
(F2102V/FOMA)
20 赤龍
しかし麋芳も、関羽信仰と共に、関帝廟に鎖でつながれた姿でさらしものにされ、後世まで人々の侮蔑の対象となってますから、自業自得とはいえ、哀れなものです。
(J-SA05)
21 天草
赤龍殿>それは、麋芳が死ぬ時の話なんですか?それとも関帝廟にある像か何かの話かな?
面白い話ですね。
(PC)
22 赤龍
中国の関帝廟(どこのかは不明)の関羽像の前には、鎖でつながれ、苦悶の表情を浮かべた、麋芳、士仁、カク普の像が置かれているそうです。岳飛の廟に、罪人姿の秦檜の像が置かれてるのと、同様の意味でしょう。
(J-SA05)
23 天草
赤龍殿>情報感謝!!

いやぁ驚きですね!
パソコンをお持ちの方で、時間のある方は是非どこかでその画像を拾ってきてもらいたいものです。
(PC)
24 赤龍
学研の歴史群像シリーズ『群雄三国志』に写真と解説がありました。白黒で小さいですが。
(J-SA05)
25 しす
>>22の赤龍さんのカキコを見て、カク普が麋芳や士仁と同様に扱われているのは酷かな?と思ったのは私だけでしょうか?
結果的に呉に降ったのだから同じってことでしょうか。
あと潘濬は入ってないんでしょうか?
(PC)
26 赤龍
私もまだカク普には弁明の余地があるんじゃないかと思います。特に演義のイメージでは同列にするほどでもと。
ただ、この像にも多少そうした配慮があり(?)古参であり、劉備の姻戚でもあるのに降服した麋芳が最も重罪で、首かせをつけ、手足を鎖でつながれています。そして、士仁は手足をつながれ、呂蒙の計略で降ったカク普は足だけをつながれている、というように。
潘濬は入ってません。演義で呉に降った事が書いてないから(演義は未確認)、まずその存在が気にされてないのかも。喜ぶべきやら、悲しむべきやら。
(PC)
27 諏訪
『関羽伝』では、麋芳・士仁は関羽と不和であったために孫権を招き入れたように書いていますが、『呂蒙伝』注の『呉書』によると、士仁は虞翻に会見を申し入れられても受け入れず、「勝ち目はないから降服しろ」と手紙を送られて、涙を流して降服しています。
そして麋芳は、士仁の姿を見て、降服しています。
この記述を信じるならば、麋芳・士仁はやむをえず降服したのであって、責めるのは酷な気がします。
(W51S/au)
28 寿君
確かに、呉書を読んで麋芳が投降せざるを得なかった原因として考えられるのは、
「関羽の前線への兵力投入による、守備兵力の低下」
であり、関羽と最悪なまでに仲が悪かったような感じではなく、「どうしようもなくなり」とも取れますね。

蜀書ではこの時、呉に降伏した人物に(郭普まて一緒に)、「裏切り者」として批判的に書いてます。
陳寿が蜀の人間であった事を考えれば、案外呉書の記録の方が冷静に見てるかも知れませんね。

僕も一概には麋芳と士仁を決めつける事はできないと思ってます。
むしろ、この場合、呂蒙の奇襲が見事だと思います。
(P905i/FOMA)