1 天草

人物辞典情報募集スレ2

お陰さまで100スレを超えましたので、新スレに突入します!

11/5現在、
魏…93人
蜀…58人
呉…54人
他…90人

計…295人
(PC)
2 天草
大伴さん、100人違ってましたよ(笑)
(PC)
3 大伴
細々としたところはあってるのに、大雑把なところで間違うのが大伴です(笑)

ちなみに天草さん、蜀に麋芳追加の+1を忘れていますよ。

司馬徽
字は徳操。頴川の出身。ホウ徳公が与えた、水鑑の号で呼ばれた。人物を見分ける能力に優れていたという。誰も評価しなかったホウ徳公の従子、ホウ統を、南州の士人中第一人者になるだろうと讃えたという。荊州で劉備に諸葛亮とホウ統を推挙した人物とされる。その門下には徐庶、韓嵩、尹黙、李仁、向朗などがいた。
(F2102V/FOMA)
4 天草
そっか〜!
蜀の人数がおかしいかな?とか思ってました(汗)
(PC)
5 大伴
徐陵

字は元大。会稽の人。徐平の父。三つの県の長を歴任したが、どこでも評判が良かった。この時は少しも認められぬ境遇にあったが、虞翻は一度会っただけですぐさま友人としての交わりを結び、守り立てたという。後に霊陵太守にまで昇進した。太守当時、朝廷では彼を、やがて列卿の位に昇るべき人材として遇していた。徐陵の死語、その財産を他人に奪われる事件があったが、絡統が徐陵の遺族の為に訴訟をおこし、優遇を願い出ると、孫権はそれを許した。


司馬徽と徐陵で298(笑)
(F2102V/FOMA)
6 大伴
孟建
字は公威。汝南の人。諸葛亮、徐庶、石韜の学友で、建安の初期は荊州に遊学していた。亮は孟建が北に帰りたがっている事を知り、止めたという。しかし後に魏に仕えた。涼州の刺史となり、優れた政治が評判となった。その後は征東将軍にまで昇っている。温カイ伝の注に、諸葛亮がキ山に出陣した際(231年か?)には、亮は司馬懿からの使者として訪れていた杜襲に、孟建への伝言を頼んだとある。


これで目標まで後101。
(F2102V/FOMA)
7 天草
大伴殿>全て追加完了しました。

皆さんに辛ピ・辛評の情報を募集します!
いろいろ情報が錯乱してます。
(PC)
8 ユウキ
諸葛誕


字は公休。諸葛亮の族弟。夏侯玄らと共に当時の才人の『八達』の一人。カン丘倹、文欽の反乱では造反に誘われるが、これを公にし自らも兵を率いて乱の早期終了に功を示したことなどから、重職を歴任する。

が、司馬師の専横が激しくなり禅譲の噂が広まると、諸葛誕は堂々と反対の意志をみせたらしい。司馬氏から反心ありと見られるようになり、我が身と魏王朝の危機を感じた誕は止むを得ず寿春により挙兵する。
もとより成算のある旗揚げではなかった。
追い詰められ、降伏を勧められるが、部下の兵数百人は応じず皆斬られた。
演義での諸葛誕とはまったく違う印象を受ける。
(P900i/FOMA)
9 ユウキ
郭奕

字は伯益。郭嘉の子。洒脱な人で、理解が早く、ものの道理に明るく、博識であった。このあたりは父親似である。
ただ、度量が狭く、人を尊敬したり、軽蔑したりが極端であった。そしてその態度が表に出る人物だったという。
後に太子文学になったが、早くに亡くなった。
郭嘉同様くせのある人物だったようです。まったく郭嘉はどんな教育をしたのでしょう。←個人的。
(P900i/FOMA)
10 ユウキ
陳泰

字は玄白。陳羣の息子。友人がその父親と比べてすぐれた統率力を持ち、功績を打ち立てる点では父以上と評した。やはり武官としての能力に長けていたようである。
姜維の数々の北伐をよく防ぐ。中でもテキ道における戦いでは反対する諸将を押し切って出陣して姜維を打ち破る。
後に中央に召された。死後には司空を追贈されている。三国志終盤の名将。
(P900i/FOMA)
11 天草
陳泰・郭奕は追加しました。
諸葛誕に関しては、伝をもう少し見たいので、また後日。
(PC)
12 大伴
袁綏

「献帝春秋」を著した袁曄の曾祖父で、子の袁迪が張紘らと共に大江を渡ると、太傅掾になった。
張超が董卓の討伐に向かった時は、袁綏が広陵の統治をあずかった。


董訪

董昭の弟。
彼が張バクの幕下にあった為、袁紹は董昭を処罰しようとした。
黄初二年(221)、曹丕は、領地のうち百戸を分割し、董訪に賜り、関内侯にとり立てた。


張弘

呂布の刺姦。
曹操が呂布を攻めると裏切り、人質となっていた陳登の弟三名を連れ脱出し、陳登のもとに走った。
(F2102V/FOMA)
13 大伴
董訪は董昭の弟ですから、済陰郡定陶県の人として良いかも知れませんね。


袁迪

袁綏の子、袁曄の祖父。


王朗

鮑信配下の将軍で、干禁は彼の下で都伯を勤めていた。


↑こういう情報なら楽に目一杯増やせますよ。
(F2102V/FOMA)
14 天草
大伴殿>それくらいの情報でもいいですよ。

できれば、私が追いつくスピードで(笑)
(PC)
15 大伴
ちなみに>>13の鮑信配下の王朗は、王郎や魏書に伝がある王朗とは別人です。干禁伝の始めにちょろっと名のでる人物です。


成廉

呂布の側近。
呂布が黒山賊を袁紹の要請で攻めた際、呂布、魏越と共に突進したとある。
曹操が呂布を下ヒに攻めた際、野戦で捕虜にされている。


魏越

呂布の側近。
呂布が黒山賊を袁紹の要請で攻めた際、呂布、成廉と共に突進したとある。


宗憲

呂布の将。
魏続、侯成と共に陳宮を縛り上げて曹操に降伏する以外には、三国志に記述は無い。


そろそろ呂布回りを固めていきましょう(笑)近いうちに侯成、薛蘭、李封、曹性、カク萌も。
(F2102V/FOMA)
16 大伴
侯成

呂布の騎将。
侯成が食客に十五頭の馬を飼育させていたところ、食客はその馬を駆り立て逃走し、沛城に向かい、劉備のもとに身をよせようとした。侯成は自ら騎兵を率いてこの後を追い、馬を全部取り戻して立ち返ったという。
しかしその祝いを、呂布が酒を禁じていたにも関わらず行おうとして、呂布に謀反を疑われた。
この事から後に曹操が下ヒを包囲した時、魏続、宗憲らと共に陳宮を縛って、降伏をした。
(F2102V/FOMA)
初投稿です。みなさんよろしくお願いします。 司馬芝 字は子華。河内郡温県の人。曹操は荊州平定後、彼を菅県の長に任命。後に広平県令に転任した。その後大理正に昇進、甘陵・沛・陽平太守を歴任、功績をあげた。河南の尹となり、あるとき、「君主が教令を示して官吏に違反されること、官吏が教令に反してお上に知られ、災難に遭うこと、これこそが政治のうまくいかない理由なのだから、各人努力しないわけにいこうか。」と部下を戒めた。 後に大司農となった。以前より農政担当官らは役人や庶民に商業を行わせ、利益を図っていたが、司馬芝は明帝に「呉・蜀は滅んでおらず、国家の要務は農業にこそあります。農業養蚕への努力こそ、国家にとっての利益でございます。」と上奏し、受け入れられた。人柄は誠実で品行は正しかったが、それを鼻にかけることはなかったという。 長&稚拙な文ですみません。ちなみに私はケータイ持ってないので兄のケータイでいつもここを拝見してます(パケ定なので許されてる)
(W21S/au)
18 天草
蛮犬殿>初めまして!貴重な情報をありがとうございます!!

もちろん司馬芝を追加しておきました。無知な私は知りませんでしたが、伝が立ってる人物だったのですね!!しかし、蛮犬殿の書き込みをそのままコピーしてしまった私は…(汗)

これからも情報お願いします!また他のスレや他のコーナーにも参加下さい!!
(PC)
19 大伴
蛮犬さんはじめまして。以後も宜しくお願いしますね。

しかしなんだか、魏続だけが呂布ファミリーで特別扱いの様な……


薛蘭

呂布の別駕従事。
李封と共に曹操の将李乾を招き、反乱して呂布に味方する様説得したが聞き入れられず、殺害した。
曹操は興平二年(195)李乾の子李整に、李乾の兵を率いさせ、鉅野の薛蘭、李封を諸将と共に攻めさせた。呂布の救援は間に合わず、斬られた。


李封

呂布の治中従事。
薛蘭と共に曹操の将李乾を招き、反乱して呂布に味方する様説得したが聞き入れられず、殺害した。
曹操は興平二年(195)李乾の子李整に、李乾の兵を率いさせ、鉅野の薛蘭、李封を諸将と共に攻めさせた。呂布の救援は間に合わず、敗れた。
(F2102V/FOMA)
20 大伴
許シ

呂布の配下。
本来は曹操の元で従事中郎の役にあったが、陳宮に従い謀反した。
呂布が彭で捕らえられた時は、袁術への救援を求める使者として発っており、助かった様である。
後年、劉表の前で劉備と天下の人材について論議し、そこで陳登を「傲慢」と評価した。


王楷

呂布の配下。
本来は曹操の配下であったが、陳宮に従い謀反した。
呂布が彭で捕らえられた時は、袁術への救援を求める使者として、許シと共に発っていた。
三国志を繙く時、その名は常に許シと共にある。


呂布ファミリーも大分充実してきましたねぇ(笑)
ちなみに今何人?
(F2102V/FOMA)
21 蛮犬
劉雄鳴 字は雄鳴?藍田の人。若年期より薬草の採取と狩猟を仕事とし、いつも覆車山の麓に住んでいた。毎日朝から晩まで霧中を歩いても、迷わなかったことから、彼には霧を起こす能力があると噂された。 郭シ・李カクが反乱を起こしたとき、多くの人々が劉雄鳴のもとに身を寄せた。小将に推された後、謀反した馬超らに撃ち破られたので、曹操のもとに向かった。曹操は彼の手を握り、「わしが潼関を越えたとき、一人の神のような人を手に入れる夢を見た。それが君だったのか。」と言った。曹操は上表し彼を将軍の位に就かせたが、降伏を望まぬ部下に脅され、謀反した。夏侯淵に討たれ、漢中に逃亡。行き場を失ったので、再び帰順した。曹操は彼のあごひげを引っ張り「老賊め、本当におまえを手に入れることになったな。」と言った。もとの官に戻され、勃海に追放された。 〔張魯伝〕の注、『魏略』より。妙に忘れ難い名前だったので、投稿しました。ほぼ丸写しです(沈)先ずはできることから少しずつ…。
(W21S/au)
22 大伴
趙庶

曹操の呂布征討の際、李鄒と共に別軍の徐晃に降伏した。


李鄒

曹操の呂布征討の際、趙庶と共に別軍の徐晃に降伏した。


又もや呂布ファミリー。しかも徐晃伝に出て来るだけで記述少ないし(汗)
天草さん!!!>>20からですし、そろそろ溜まりはじめましたよ(笑)
(F2102V/FOMA)
23 天草
とりあえず、>>20からの書き込みを蛮犬さんの情報とあわせて全て終えました。

今回から、人物情報以外の者を上から上書きしてます。あの辞典を完全に武将辞典とすべく、また皆さんの協力をお願いします。よく見たら、意外な人物がなかったりしますもんね(汗)
(PC)
24 大伴
畢シン

東平国の人。曹操がエン州の刺史であった時、別駕従事に任命した。
張バクが曹操に反逆した時、張バクは畢シンの母、弟、妻子を脅迫する。そのため曹操は「卿の老いた母が向こうにいる。往ってよいぞ」と言ったが、畢シンは二心は抱かないと言った。曹操はそれに涙を流し喜んだが、退出した後に畢シンは故郷に向かった。
呂布が敗れると、畢シンも曹操に生け捕りにされた。曹操は「親に孝行な者は主君に忠義でない筈がない」と許し、畢シンを魯国の相とした。
(F2102V/FOMA)
25 蛮犬
ホウイク 字は子異。酒泉郡表氏県の人。涼州従事としてスタートを切り破羌の長を代行。張猛が反逆し、刺史の邯鄲商を殺し、「邯鄲商を弔う者は死刑だ。」と命令を下したことを聞くや、すぐさま遺体の安置された所に赴き号泣し、その後会見の際、張猛を殺そうとしたが、張猛は(部下に?)命じて(ホウイクを?)殺させなかった。これによりホウイクは忠烈の士として聞え渡った。 大守の徐揖に要請され主簿となったのち、郡民が謀反し城を包囲した。ホウイクはそれをかいくぐり張掖・燉煌郡にこれを知らせ出兵を頼んだが聞き入れられず、結局出兵したが時既に遅く、城邑は敵の手におち、徐揖は死んでいた。三年間彼の為に服喪した。曹操はこれを聞くと彼を召し寄せて掾属とした。文帝の御世、西海大守にまで昇進、後に召し帰されて中散大夫に任命された。 解釈に困ったので()を付けました。それが正しいとは断定しづらいんですが。因みに姓名の「ホウ」はホウ徳の「ホウ」、「イク」はさんずいに「育」と同じ漢字です。
(W21S/au)
26 大伴
ちなみに……
>>13
の王朗は……(涙)
(F2102V/FOMA)
27 赤龍
張機
150〜219?。字は仲景。南陽郡の人。後漢末の医学者。十七才で孝廉に挙げられ、長沙太守を努めたという(異説あり)。
南陽の二百人以上の一族が、十年で三分の二も死に、その多くが傷寒によって死んだことに衝撃を受け、漢代以前の医学的知識をもとに、民間の処方も参考にしながら『傷寒雑病論』を著す。
薬方の祖として、後世に「医聖」と尊ばれる。
(J-SA05)
28 蛮犬
袁渙 字は陽卿。陳郡扶楽県の人。清潔で落ち着きある性格であったという。先ず郡に功曹に任命され、その後、成績優秀として侍御史に昇進。劉備に茂才として推挙された。その後長江・淮河地帯に避難、袁術に仕えたが、呂布との戦で呂布に拘留されてしまった。袁渙は呂布に、当時仲違いした劉備を侮辱する書簡を書かないと殺す、と脅されたが、顔色も変えず笑いながら、「私は人に恥辱を感じさせるものは罵詈ではなく、徳だけであると聞いております。以前劉将軍に仕えたときと同様に今あなたにお仕えしているのです。もし此処を去るとき、あなたを罵倒しても宜しいでしょうか。」と言った。呂布は恥じ入り、断念した。呂布の死後、曹操に身を寄せることができた袁渙は、「武器は止むを得ぬ時に使うもので、混乱した社会は道義でもって治め、武力で正した社会を完成させるには道徳を用いるべきです。」と進言した。また屯田制を施行し、人民を募った際、「彼らの意向を尊重し、強制されないように。」と言った。梁国相に転任した。魏建国時に郎中令となった。当時、劉備が死んだと伝えられた(これは誤り)時、臣下たちは皆喜んだが、袁渙は劉備に推挙されたことがある為、喜ぶことはなかった。在官数数年で亡くなった。お忙しいにも関わらず、長文失礼しました。m(_)m
(W21S/au)
29 天草
赤龍殿>張機をその他に追加しましたが、良かったかな?呉や魏の方がふさわしかったりします?(汗)

大伴殿>すいません。王朗追加しました。
(PC)
30 赤龍
張機、その他で大丈夫です。張機というより、蒼天航路で名前がでた張仲景と言ったほうがわかりやすいですかね?
(J-SA05)
31
ちなみに、張機は長沙大守でありながら一切の伝がないため架空の人物という説もありますよ。


実際に傷寒論自体は、後年に篇算されたものですし
(F900i/FOMA)
32 赤龍
張仲景が長沙太守であったこと自体が意見の分かれているとこです。『傷寒雑病論』は後に散逸。宋代に編纂しなおされ、二書に分けられたのが、『傷寒論』『金キ要略』。なお晋代に建てられた墓碑も残っており、実在したと見てよいと私は思ってます。
(J-SA05)
33
いや、書き方が悪かったようで実在しないという主張ではなく

人物伝としてこういう説もありますよ
といった感じの補足情報的な意味合いです。
(F900i/FOMA)
34 大伴
>>20の地名ですが、句点コードで彭の字を見つけて安心してしまい、脱字しています(汗)

彭城
です。申し訳ない。
(F2102V/FOMA)
35 李勣
初めまして。李勣というものですm(__)m
朱桓 字は休穆。呉郡の呉の人。最初、余姚県の長になり、盪寇校尉に昇進。丹楊郡やハ陽郡の山越の討伐に功があり、卑将軍に昇進。新城亭侯に封ぜられる。のち濡須の督。西暦222年魏の大司馬曹仁が濡須を攻めようとしたとき、偽計をもって朱桓を騙し、朱桓は大半の兵を羨渓に向かわせた。そこを曹仁に急襲された。朱桓の手元には5000の兵しかなく、みな恐慌をきたしていたが、督戦して曹仁の息子の曹泰らを破り、敵の死者は千余人に及んだ。孫権はこれを喜び朱桓を嘉興侯に封じ、奮武将軍、彭城の相にした。西暦237年、魏の廬江郡主簿の呂習が内応したいと申し出があり、全ソウとともに迎えに行ったが、それが嘘だとわかると、退却することとなった。朱桓はみずから殿になった。廬江大守の李庸はこれを追撃しようとしたが朱桓が殿だと知ると、最後まで兵を動かすべきかどうか決心がつきかねた。朱桓は普段からプライドが高く、人のしたにつくのを嫌ったので、自分の思い通りに軍を動かせないといつも腹を立てて憤激した。しかし目下の者には優しく、私財を惜しみなく散じ、血縁者には厚い援助を与えた。加えて記憶力がずば抜けて良く、配下の一万の私兵の妻や子まで皆その顔を覚えていた。朱桓が死んだとき、男女を問わず嘆き悲しまない者はいなかった。家には貯えがなかったという。
以上、すごく長くなってしまいました。スイマセンm(__)m
(N2701/FOMA)
36 蛮犬
すみません…。>>20のホウイクは…。
(W21S/au)
37 蛮犬
>>20じゃなく、>>25でした。
(W21S/au)
38 天草
蛮犬殿>あれ失礼しました(汗)先程追加しておきました★

李勣殿>初めまして!!意外な人物が残ってましたね。まだ他にも有名武将が載せられてないかも知れませんので、情報お願いします!
(PC)
39 しす
ちょっと我が儘かな?とも思ったのですが、書かせていただきます。
マイナーな人物もいいんですが、李通や満寵、臧覇、朱然、丁奉といった比較的有名どころがまだ載っていなかったので、少しずつでもいいから載せてほしいとこです。

やっぱ我が儘かな…(汗)
(PC)
40 大伴
張汎
雁門郡馬邑県の人。
本来、漢代に匈奴との交易を利用して騙そうとした聶壱の子孫であったが、匈奴からの復讐を恐れ、張姓とした。
張遼の兄。
曹丕が魏王を継いだ時(220)、息子と共に列侯に取り立てられた。
(F2102V/FOMA)
41 しす
>天草殿
さっそくのお聞きいれ感謝感謝♪
やっぱり好きな武将が加わるのは嬉しいもんですね。
大変でしょうけど、これからもよろしくお願いします。
(PC)
42 大伴
>>40は?(涙)
(F2102V/FOMA)
43 大伴
このサイトは、棗祗メジャー化プロジェクトの最前線ですし、是非に彼の追加を(笑)
(F2102V/FOMA)
44 蛮犬
鮑クン 字は叔業。 泰山郡平陽県の人。 鮑信の子。父の功績により丞相の掾となった。217年、曹丕が太子に立てられたとき、太子中庶子となった。魏郡西部都尉のとき、曹丕の夫人郭氏の弟がお上の布を盗んだが、曹操と曹丕に何度も手紙を宛て、免罪を請うた。 以前より鮑クンは公正な態度をとったので、曹丕の怒りと憎悪を買い、些細なことで彼を左遷し、疎んだ。 そして鮑クンが悲劇の最期を遂げるきっかけとなった事件が起こる。大守の孫ヨウが完成途中の陣営保塁を横切ったが、完成間近だったので、不問に付した。このことを別件で罪に問われていた劉曜が密かに上奏したのだ。皇帝となった曹丕は鮑クンを死罪にしようとしたが、鍾ヨウらは彼の父は曹操に功績があったとして罪を許されるよう願い出たが、平素より鮑クンを憎んでいた曹丕が耳を貸す筈もなく、226年、処刑された。阿諛追従を良しとせず、節操高い態度は心を打つものがあり、大いに評価されるべきであろう。
(W21S/au)
45 蛮犬
楊豊 字は伯陽。酒泉郡の人。元の名を阿若といった。若い頃より復讐と怨みを晴らすことを仕事としていた為、「東市相い斫(き)る陽阿若、西市相い斫る楊阿若」と称された。建安年間、大守の徐揖が黄氏一族を処刑したが、黄昂は逃げ延び、食糧と金で兵を募り、徐揖を攻撃。その時外出していた楊豊は徐揖に断り、張掖に救援を要請。同じ頃張掖でも反乱が起き、大守が殺された。一方黄昂も徐揖を殺害。黄昂は楊豊が同調しないことに立腹し、彼をお尋ね者とした。その後楊豊は武威大守の張猛に仮の都尉に任命され、徐揖の仇討ちを許された為、単身南羌に赴き、騎兵千余人を引き連れ、酒泉郡の三十里手前で騎兵を下馬させ、砂埃を上げさせたので、郡民は東方の兵と勘違いし、散り散りになった。黄昂は羌族に捕えられた。楊豊は黄昂に、「卿は先にわしの首に縄をかけようとしたが、今、わしの為に捕えられた。どうじゃ。」と言った。黄昂は謝ったが、楊豊は彼を殺した。後に孝廉に推挙され、フ馬都尉に任命された。二十余年後に病没した。
(W21S/au)
>>44最後の数行、勝手に私の評価(ほぼ主観的)を書いてしまいました(汗)すみません。
(W21S/au)
47 天草
蛮犬殿>いやいや、構いませんよ。私も頷きながら読んでましたよ!

また他の皆さんも抜けてる人物に気が付いたら、書き込みください。
(PC)
48 蛮犬
盧植 字は子幹。タク郡タク県の人。意志強く節義高く、人に迎合することはなく、州郡からの招聘にも応じなかった。黄巾の乱が起こると、北中郎将に任命されたが、敗戦を喫し処罰された。ニ度目の尚書就任の際、少帝を脅迫した張譲を叱責した。張譲らは謝罪し、自殺した。董卓が廃立を企てたときも、殷の太甲と前漢の昌邑王を引き合いに出し諌め、危うく処刑されそうになったが、蔡ヨウのとりなしで助かった。後に老齢と病を理由に退官し、192年、死去。
(W21S/au)
49 大伴
三国志と直接の関わりは無い人物ですが……重要人物ですので、手元のポケット辞典をほぼ丸写し。後漢書列伝五十上を要約するのも大変ですので、一まずはご勘弁。

馬融(バユウ_79〜166
後漢の儒学者。字は季長、陝西の人。官に仕えたが出世出来ず、安帝の時には地方官となる。経書研究の第一人者で、論語や孝経等、多くの古典に注釈し、訓詁学を発達させた事でも知られる。その門弟には廬植がおり、又鄭玄も一時は師事した。
(D505iS)
50 黄漢升
久々に人物推挙
名・黄晧
三国志で、五本指に入る大悪党。宦官で、媚を売るのや、つけ入るのが得意で、劉禅に寵愛された。中守尚書令の董允が死ぬと、政治にも参与し始め、蜀は衰退し始めた。姜維は、黄晧の専横を恨み、殺害しようとしたが、劉禅は「黄晧は使い走りの召使にすぎぬ、董允も黄晧に対して歯軋りしていたが、朕はそれを残念に思っていた。君が気にするほどの男ではない」さらに、黄晧は、政治に、鬼神や巫女の言葉を用いたので、政治の腐敗を招いた。劉禅が降伏すると、魏のトウ乂は、黄晧を殺そうとしたが、黄晧は、左右の者に賄賂を贈って死を免れている。
(N900i/FOMA)
51 天草
人物以外の者を削除、あるいは人物に変更しましたので、一気に人数が増えましたので、集計しておきます。

1/7 現在
魏…170名
呉…107名
蜀…103名
その他…120名

合計…500人!!突破☆
(PC)
52 大伴
宣伝文句変更の必要性有りですね(藁

先日本屋で見た三国志人名辞典は、3千7百何人かでした。是非とも追い抜きましょう!!
(D505iS)
53 エロハシ
冊子化プロジェも進んでるようですし、新しい方も増えてるようで、また名人物が挙がりそうですので、あげときます☆
(P900i/FOMA)
54 蛮犬
此処に書くのは久しぶりです。

魏諷 (?-219)
字は子京。沛の人(王昶の『家誡』によると済陰出身)。
民衆を扇動する才能を買われ、召し出された。あるとき大軍がまだ帰還せぬうちに、魏諷は長楽衛尉の陳イとギョウ襲撃を謀った。しかし計画前日に陳イは怖じけづき、曹丕にその事を報告した。これにより魏諷とその関係者数十人は死刑に処された。ちなみに彼を推挙した鍾ヨウも免職となっている。
(W21S/au)
55 大伴
催エン伝にその記述のある、婁圭を追加して下さい。最近三国志の資料に乏しくって……
(D505iS)
56 蛮犬
又々人物推挙です。
楊豊(?-?)

字は不明。魏書・劉放伝の注『孫資別伝』には、孫資の同僚・田豫は当時名声のあった孫資を妬み、楊豊は田豫にくっつき悪口を言っていた、とある。
因みに、ホウイク伝の注・『魏略』に登場する楊阿若とは全くの別人。
天草殿>前回の魏諷共々、辞典に追加してください(泣)
(W21S/au)
57 蛮犬
>>56楊阿若の事が載っているのはホウイク伝ではなく、閻温伝でした。大変失礼いたしました。天草殿、誠に勝手ながら、修正お願いします。
(W21S/au)
58 蛮犬
訂正の為あげ。
(W21S/au)
59 ストラップ
全端なんか取り上げて欲しいなぁ。
(PC)
60 元歎
呉の丞相らがいないので…

孫劭(163〜225)
字は長緒。北海郡の人で、身の丈は八尺あった。孔融に「朝廷に立つべき人材だ」と称賛された。劉ヨウに身を寄せるが、江東が孫権に支配されると、孫権に仕えた。朝廷に公式の使者を送り献上物を奉るべきだと述べると、孫権はすぐさまこの献策に従った。黄武初年(222)に呉の初代丞相となり、陽羨侯に封ぜられた。225年に死去した。丞相になった人物であるのに伝は立てられていないという人物。
(PC)
61 元歎
顧雍(168〜243)
字は元歎。呉郡の人。蔡ヨウから琴と学問の伝授を受け、蔡ヨウに高く評価された。孫権が会稽郡の太守の職務にあたるようになると、孫権は会稽郡に赴かず、顧雍に代行させた。その結果、郡内の役人も民衆も彼に心服した。孫権が呉王になると、陽遂郷侯に封ぜられたが、家人たちは顧雍が何も言わないのでそのことを知らず、のちに人に聞かされびっくりしたという。
顧雍は、酒を飲まず、寡黙であったが、行うことは時宜を得ており、「顧君はものを言わないが、言えば必ず的を射る」と孫権に賛嘆された。酒を飲んで楽しむ時にも、左右の者は酒の上で失敗すれば顧雍が必ず見ているに違いないと思いハメをはずそうとしなかったので、孫権は「顧公がいると楽しめない」と言った。
孫劭の死後、丞相となった。法の執行に厳格で、呂壱の悪事が発覚した時も弁明の機会を与えた。
19年間丞相を務めた。243年に死去し、粛侯と諡された。

ちなみに、僕のHNはこの人からつけました♪
(PC)
62 元歎
三人目ですね。

歩シツ(?〜247)
字は子山。臨淮郡淮陰の人。貧乏だったので友人の衛旌と瓜を植えて生活費をかせぎ、昼は肉体労働、夜は経書やその解釈をして勉強した。
孫権が討虜将軍になると、歩シツを召し寄せその幕府の主記に任じた。210年、交州刺史となった。士燮兄弟が歩シツの命令を奉ずるようなり、南方の地域が呉と好を結ぶようになった功により広信侯に封じられた。
246年、陸遜のあとをついで丞相となった。が、一族の子弟たちを訓育し、みずからも書物を手放すことなく、着る物や住む所は学者先生たちと変わらないみすぼらしいものであった。性格は太っ腹で人々の心をひきつけ、喜怒の感情を態度に表わすことはなかった。247年に死去した。

歩シツの「シツ」は「隲」で代用できるかな?
長文、連続投稿失礼しました。
(PC)
63 天草
あげます☆

リクエストはもちろん、情報も募集してます。
(PC)
64 鴎外
天草さんさっそくありがとうございます!
ではリクエストですが楊脩とういう人物をお願いします。鶏肋のエピソードのある人だったと思いますがわかりますか?あとこちらでわかることは太子争いのとき曹植に味方した人だというくらいですね。お忙しい中リクエストさしていただきありがとうございます!完成はいつでもよろしいので楽しみに待たせていただきますね。
(N2102V/FOMA)
65 ストラップ
リクエストですが……
>>>266-16
の呂布ファミリーの人々、
>>>166
の夏侯の姓を持つ人々

などを入れて戴きたいですね。
(F2102V/FOMA)
66 朱家
私もリクエストよろしいですかね?
臧洪を是非!臧子源のほうが知られてるかな?伝も立ってますし、涙を誘うような文を希望します。よろしくお願いします。
(A1304T/au)
67 ゼロ
魏のホウ徳をおねがいします。
(P900iV/FOMA)
68 天草
>>64
>>65
>>67
更新しました。

>>66はしばしお待ちを♪
(PC)
69 李勣
こちらは久々です(汗
んじゃ私も…楊稷だったかな?この人物をお願いしますm(__)m
(N2701/FOMA)
70 鴎外
ありがとうございます!楊脩が袁術の甥だったのは初耳でした。またリクエストさしていただくかもしれませんがよろしくお願いします!
(N2102V/FOMA)
71 朱家
お願いだけも心苦しいので…奇才を一人。

周不疑
字を元直。本文ではなく、注の「零陵先賢伝」に見られる人物。
零陵郡の人。幼少から聡明で、並外れた才を持っていた。
曹操は、曹沖の良き相談相手になるだろうと思い、娘と結婚させようとしたが、彼は遠慮した。曹沖が亡くなると、周不疑の才を疎んじ、殺そうとした。曹丕が諫めると、曹操は「曹沖ならいざ知らず、とてもおまえには使えない」と言って暗殺した。弱冠17才だった。
それより前に劉備も、周不疑を劉巴の下で学ばせようとし、劉巴は「そんな才はありません」と断る。これは謙遜か拒否だが、劉備も才を感じてたのだろう。
奇才に、当の本人が気付いてなかった?17才の若者に保身術を求めるのは酷だが、曹操が恐れるほどの才だからこそ、残念でならない。
(A1304T/au)
72 ストラップ
このスレッド、未だ生きているのかな?

袁綏(エンスイ)
「献帝春秋」を書いた袁暐(「陸冒伝」では袁曄)の祖父。
広陵太守張超の配下で、張超が対董卓戦に参加した際広陵の統治を預かった。
(PC)
73 ストラップ
董訪(トウホウ)
張バクの配下で、魏の司徒董昭の実弟。後に魏で関内侯に封じられた。
(PC)
74 ストラップ
すいません。
>>72-73、一度>>12に書いてました。申し訳ない。
(F2102V/FOMA)
75 天草
人物辞典の更新が止まってますが、これは悪気があるわけではなく、今年の五月の会館三周年の目玉企画として、人物辞典のリニューアルを予定しているからです。

これまでの辞典はもちろん、携帯用三国志サイトの常識を越えた辞典を突然公開します!
もう半年くらい前からやってますから、最初に辞典を作った時以上のインパクトがあると自信があります☆

問題はちくまの著作権(笑)なるべく丸写しにならない様に気を付けるつもりです(;^_^A
(N900i/FOMA)
76 天草
>>75
訂正
会館三周年…×
開館三周年…○
(N900i/FOMA)
77
>>75
関係ないのですが…
天草さん!来観者名簿も復活してほしいんですが…。密かにあそこに載ることを目標にしてるんです"笑
(W32SA/au)
78 バンビ
人物辞典で呉の凌統がないんですけど追加してもらえませんか?
(W21T/au)