1 大伴

麋竺、孫乾、簡雍

通俗演義では孔明登場後、どんどん影が薄くなる三名。三国志の許麋孫簡伊秦伝でも記述は少なく、陳寿の評も伊籍と四人纏めて述べられています。この三名は(麋竺は蜀書、季漢輔臣賛の弟の項目で名がでますが)、先主伝に数回名がでる外は、許麋孫簡伊秦伝にしか名のでない人達で、裴松之もまったく注で触れていません。

ここではそんな地味な三人について語っていきましょう。
(F2102V/FOMA)
2 大伴
そういえば、麋竺は注釈ついていましたね(汗)

麋竺伝にはわざわざと、彼が軍を統御する事はなかったと書いてありますが、三人はそれぞれ将軍だったと思います。各々は、兵を率いた事はあったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
3 ユウキ
確かにビジクは軍を統率した事はないと書かれてますよね。
カンヨウの功績はリュウショウへの使者となって無血開城を成功させた事でしょう
孫ケンは曹操に追われた劉備を劉表の元に置いてもらうための使者になってますよね軍を率いた可能性が高いのは孫ケンぽい気がしますが…
(P900i/FOMA)
4 しす
麋竺って忘れられがちですが弓馬術にすぐれていたという記述がありますよね。
統率力はなかったけど、個人の武勇は意外と高かったのかも。
どうもこの3人、実際の功績の記述が少ないんだけどイメージ的に劉備軍の営業マンって感じですよね。
(PC)
5 天草
さすがにこの三人には個別スレは与えられなかった?(爆)

しす殿>麋竺の弓馬術!?それは初耳です。良かったら詳しく教えて下さい!

さてさて、この三人の立場は誰が一番上だったか分かりますか?
私の調べでは、やはり簡雍が一番だったと思います。
ここに来ている皆さんにとってはこんな問題簡単でしょうが、私は知りませんでした(汗)

その簡雍ですが、何の文献だったか覚えてませんが、関羽や張飛よりも劉備とは古かったと書かれていた思いがあります。果たして真相は?
彼の劉備との出会いは何なんでしょう?
(PC)
6 ユウキ
カンヨウは劉備と同郷の出身ですねもしかしたら幼なじみとかありえますよねカンヨウの気質を劉備は愛したようです『快男児』がぴったり
(P900i/FOMA)
7 赤龍
孫乾伝に、
「(孫乾は)麋竺に次ぎ、簡雍と同等の礼遇を受けた」とありますから、麋竺が一番上ですね。麋竺は諸葛亮よりも席次は上とあります。
(J-SA05)
8 天草
失礼!
私もその記述を見て書きました(汗)
勘違いでした(陳謝)
(PC)
9 天草
ちなみに孫乾は『ソンカン』と読んでました(笑)
先日の茶会の話題ですが…(汗)
(PC)
10 天草
連カキ失礼!
確かにありました。
麋竺
(PC)
11 赤龍
吉川英治さんの小説のルビが「そんかん」だったんで、その読みが広まったんでしょうね。「かこうじゅん」とか。
余談ですが、安能務の『封神演義』も間違ったルビを広めたけど、さすがに、聞仲(もんちゅう)だけは広まらなかったな(笑)
(J-SA05)
12 大塩平八郎
えっ!!もんちゅうじゃないんですか?
横山氏のにいん周伝説でこうだったから…
(W21H/au)
13 大伴
えっ?私は「まごかわき(一字削除)」で孫乾です(汗)

曹植も「そうち」派と「そうしょく」派がいますしね。いづれにせよ日本語読みしていて本来の音では無いし、あまり気にする事ではないのでは?毛沢東も「モウタクトウ」なんて発音じゃ無いし。


麋竺からの三代が馬と弓に習熟している話は、麋竺伝のお尻に書いてありますよ。倅は虎賁中郎将にまでなった威。威の倅が、虎騎監の照。
(F2102V/FOMA)
14 赤龍
どうせ中国の発音とは違うからどっちでもいいだろう、という意見はよく聞きますが、やはり、日本読みする場合の決まりというか常識というのは存在します。基本的に漢音で読むと思えばいいかと。
曹植は全くの別問題。人名の場合漢音の「しょく」と読むのが普通だが、「ち」と読むのは伝統的な慣習のようなもの。煬帝(ようだい)鄭玄(じょうげん)とかもですね。
(J-SA05)
15 赤龍
毛沢東は常識的に「もうたくとう」それが嫌なら中国語の発音。真顔で「けさわひがし」と読んだらその人の教養が疑われますよね。同じことです。
(J-SA05)
16 大伴
書く内に、私の視点がブレて変な話になってしまいましたね。

本来私が書くべきだった内容は、
このhpでは発音を文字表記している訳では無いので、左程気にせずとも良いだろう。そんな事を書くよりも、歴史事実の話題をしたい。
こうですね(汗)
私とて鍾ヨウを、鍾チュウとか鍾ユウと表記されればわかりませんから。スレッドタイトルに戻すつもりがまったく逆の効果でしたね。

話を元に戻す為に。
三名の名はそれぞれ本邦では、
びじく しちゅう
そんけん こうゆう
かんよう けんわ
です。

簡雍の本来の姓は耿というそうです。幽州の人は耿を簡と発音したので改めたとあります。我が国の発音ではまるで似ませんが、きっと現地発音では少し似ているのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
17 赤龍
大伴さん、そういう意味でしたか。気付かず申し訳ないです。ただ、この基本的な決まり、あんまりちゃんと認識されてないんで説明はしたかったんです。
さて、漢字の音ですが、中国でも時代によって変化しています。現代中国語では簡はjian、耿はgengと別物。これが当時の発音では同じだったであろうということです。
(J-SA05)
18 大伴
なるほど。

文献で発音表記が示される事は稀でしょうから、今となってはどう発音されていたかはわかりませんが、方言の問題だけで無く、時代の問題もあるのですね。
本当に簡雍の姓が耿であったか否かは亦別の問題として、当時の幽州では似た発音をしていたらしいと言う事なんですね。私の思考からは「当時の」という視点が抜け落ちているのですね。

しかしこの箇所は、裴松之のソースが「ある人」となっていますし、妖しい気もしますね。
事実とすれば、改名の時期は、劉備が公孫サンを頼った時でしょうか?
(F2102V/FOMA)
19 しす
実はあまり気にしたことなかったんですけど、麋竺って正史に「僮客萬人 資産鉅億」って記述ありますよね。
正直言ってそれだけの富を持っていながら劉備に走らせた理由っていったい何だったのだろう?
(PC)
20 関羽
劉備の方から近寄ったのではないでしょうか?
資産目当てで。
(W11H/au)
21 しす
>関羽殿
残念ながら私が言いたいのはそういうことじゃないんですよ。
どっちから近づいたか…ってことは私の頭の中ではどうでもいいことで、どちらから近づいたにせよ、大事なのは飽くまで「理由」です。
なぜ資産をなげうってまで、彼について行こうとしたのか?
劉備という人物に何を見出したのか?
一度でも三国志の小説を書いたことのある身としては、そこを知っておきたいという欲求があるんですよ。
(PC)
22 ユウキ
劉備自身の魅力に魅せられた。劉備の魅力=男気、心の広さ、腰の低さ、情に厚い、などがあがると思いますが…ビジクには劉備という人物に新鮮さを感じた。自分の家は代々豪商の家であり、ここにいればあらゆる物は手に入れられるだろう。だがもっと広い世界に飛び出したい!そんな気持ちからそうさせたのでは…
おもしろくはないが、誠実でいつも思いやりのある彼氏がいたとする。
だがあるときまったく逆の世間のいろんな事を知っている、遊び人タイプの男が目の前に現われたとする。
だんだん引かれてゆき、誠実な彼氏に満足できずに冒険してしまう女の気持ち的なときめきがビジクの中に芽生えた。(汗)
こんな感じではないでしょうか?どうですか?しす殿。
(P900i/FOMA)
23 たけがみ
麋竺自身の人格に大きくかかわってくるところですね。
私は純粋に劉備の魅力にひかれたというよりは先行投資の色合いが強いと思います。
(N900i/FOMA)
24 天草
私は、こう考えます。

彼は陶謙に利用され、ろくな仕事も与えられないのに、配下に加わっていた。そこへ劉備率いる任侠軍団が現れる。何不自由なく生きてきて、その家庭環境から常に一線を置かれながら人と薄っぺらい付き合いを続けてきた麋竺にとって、彼らは新鮮で羨ましく見え、彼らに惹かれていく。

そこに曹操の徐州大虐殺が起こり、親戚・友人・知人が大勢殺され、曹操を恨むようになる。しかし徐々に力を付けていく曹操に歯向かおうという人間すらいなくなってしまった。
そんな中、劉備は国を持たない軍団でありながら、敢然と曹操に立ち向かっていく。その姿に麋竺は感銘を受け……妄想でした(笑)

何が言いたいかと言えば、徐州大虐殺と曹操、これが麋竺と劉備を結び付けたのではないかと。
(PC)
25 ストラップ
曹操自身は、麋竺が偏将軍の時に、一時的に郡太守にしようとしています。
天草さんの想像された様な事実があり、これはそれの懐柔策だったのでしょうか?

曹操としては麋竺を配下に欲しい訳では無い。が、劉備には渡したくない(力の無い劉備には大きな元手になるから)。だから仲間に引き込む。
↑こういう事を考えたかも知れませんね。


劉備―麋竺ラインは、全くの想像でしか語れませんし、私には良くわかりません。
(F2102V/FOMA)
26 大伴
話は変わりますが、確か通俗演義の孫乾は、関羽と共に曹操に降りますよね?
三国志には、「先主が曹公に背いた時、孫乾をやって袁紹と手を握った」とあります。
ならば、通俗演義の記述は、創作と考えた方が良いのですよね?歴史的事実である可能性はありますか?

そもそもこういう場合、使者は大急ぎで帰って報告をしますか?それとも、先に袁紹側から使者が出されますか?
(F2102V/FOMA)
27 天草
>>25に関しては、同意見です。
懐柔策というよりも、曹操も麋竺の経済力を欲したのではないでしょうか?

>>26の孫乾に関しては、調べてみますね。
(PC)
28 天草
確かに孫乾は袁紹への使者として、向かってますから、演義で関羽と曹操に降るのは創作でしょうね。

ってか、私はその演義のシーンを聞いたのが初めてなんですが(汗)関羽と一緒に投降したのは孫乾だけ?
(PC)
29 大伴
通俗演義の孫乾の動き、勘違いしていました。申し訳ない。

二十四回→孫乾、使者として河北に往くが、袁紹が兵を動かそうとし無い為、それを劉備にしらせる。
二十五回→(関羽が曹操に降る)
二十六回→(関羽、黄巾残党の征伐に往く)黄巾残党に身を寄せていた孫乾、劉備の噂を関羽に伝える。(関羽その後劉備の居所を知る)
二十七回→(関羽六将を斬る)孫乾、劉備が袁紹の元を離れた事を関羽に伝える。
二十八回→孫乾、以後関羽に同行し、汝南を目指す。

全然曹操に降っていませんでしたね(汗)
(F2102V/FOMA)
30 大伴
今日気付いたのですが……

三国志 →麋竺
通俗演義→糜竺

麋の字が違うのですね。
(F2102V/FOMA)
31 天草
三人の年代はどんな感じだったのでしょうか?もちろん死亡年とあわせて、調べられる方はいますか?私もちょっと調べてみようと思います。

彼らと劉備、それぞれの関係は良く耳にしますが、彼ら同士は仲が良かったのかな?同じようなポジションだけに実は嫌ってたりして…。
(PC)
32 大伴
孫乾を劉備に推挙したねは確か、馬融の弟子の鄭玄でしたよね?
孫乾は儒官であった可能性はありませんか?
(D505iS)
33 大伴
浴室でずっと>>32について考えていました。
鄭玄と廬植は共に馬融の門下。劉備は廬植門下ですから、ここで鄭玄とは繋がりがあったのでしょうね。
(D505iS)
34 赤龍
鄭玄と孫乾は共に北海郡の出身。北海の相孔融は、劉備が徐州を治めることに賛成し、劉備を説得してますが、孔融と鄭玄も交友関係が見られます(北海名士グループの中心である)。また当時鄭玄は徐州に避難しており、陶謙は師友の礼をとっていた。陶謙と孔融もまた交流有り。こうして見ると、面白い人間関係、人脈が見えてきますね。
(J-SA05)
35 赤龍
孫乾が鄭玄に師事したか?儒者だったか?史料が無いのでなんともいえませんが、鄭玄から同郷の優れた人物と評価されてたと思われますから、何らかの交流があったかもしれませんね。ひょっとしたら、鄭玄と共に徐州に避難していたのかもしれません。
(J-SA05)
36 大伴
確かに徐州に孫乾がいたとする方が、筋は通る気はします。
又そういう学派を意識した見方をすると、劉備が田楷を離れて陶謙配下になったのにも、鄭玄の影響を考えてしまいますね。

人物辞典にはまだ鄭玄の項目は無い様ですね。どうやら重要人物の疑いもありますし、早急な追加をお願いしたいですね。私も詳しく知りたいので。
(D505iS)
37 天草
ここのスレにあるような謎に辿り着く事は出来ませんでしたが、一応調べて更新してみました。
読み仮名は(テイゲン)で間違いないですよね?

鄭玄
(PC)
38 李克用
手元に、鄭玄について書かれているものがありました。テイゲン、あるいはヂョウ(ジョウ)ゲンですので、あってますよ。
太学に入って、今文と公羊学を学び、張恭祖に師事して古文尚書・周礼・左伝などを学び、最後に馬融について古文経を学ぶ。
玄は、遊学より郷里に帰り、弟子の衆は多くにのぼる。党錮の禁の時は、著述に専念し、広く群経注した。漢代経学の集大成者となり鄭学と称す。
古代歴史文献の整理に、非常に貢献があった。

天草さんが、調べたのと大差ないですね。後半生が書かれてませんでしたが。
(P900i/FOMA)
39 大伴
後漢書、張曹鄭列伝によると、馬融のところで廬植と知り合ったのでは無く、廬植の紹介で馬融に師事した様ですね。

以下晩年の記述。
黄巾が青州にくると徐州に逃れ、陶謙に師友の礼で接された。建安元年北海に帰る。この後袁紹に招かえられ、弁舌をふるった。が、紹が位をやるといっても病を理由に家に帰った。建安五年の六月、七十四で没した。
(D505iS)
40 赤龍
陶謙は、公孫サン・袁術派に属していました。劉備が徐州支配を辞退した際袁術の名を出したのも、派閥の盟主的存在だからでしょう。しかし孔融らは、袁術を否定し、劉備を迎えた。これ以前も、陶謙、孔融等が連名で、朱儁に李確を討つよう要請。彼等は袁紹、袁術、公孫サン等関東の既存の有力群雄でなはなく、新たな実力者を求め、漢朝の秩序を再建せんとしたのでは?
(J-SA05)
41 赤龍
そして、次なる候補として期待されたのが、劉備なのでは?彼等がそろって劉備を推し、協力した背景にはそうした勢力があったのでは?
てなことを、昨日から考えてます。まだ雑で、根拠も薄い仮説ですが。
(J-SA05)
42 天草
孔融の気持ちはどうだったのでしょうか?
彼の事はイマイチ分かりませんが、劉備を立てようとしてたと思います?
(PC)
43 赤龍
私の仮説、まだまだ雑な状態なんで、あまりはっきりしたことは言えませんが、辞退する劉備に孔融が説得する記述が先主伝にあり、袁術よりも劉備と評価してたのは確かだと思います。孔融が黄巾に包囲された時に、劉備に救援を依頼し、たすけられたこともありますし。
(J-SA05)
44 大伴
催エン伝の注にある孔融の記述は、催エン伝の陳寿の記述よりも文量が多いですね。たはは。
で、鄭玄が黄巾の賊を避ける為に逃れた不其県は、何郡かどなたかご存知ですか?ご教授下さい。
(D505iS)
45 天草
>>44
徐州の瑯邪郡のようです。
(PC)
46 赤龍
不其県は青州東莱郡ですよ。
(J-SA05)
47 大伴
県名はさっぱりわかりません。別に地名質問スレッド作ろうかな……
(D505iS)
48 天草
あれ!?
おかしいなぁ。。。
調べ違いだったらすいません。
もう一回確認してみます。
(PC)
49 赤龍
ちょっと調べなおしてみました。『後漢書』郡国志に「不其は侯国、故は瑯邪に属す」とあります。後漢から三国は確かに青州東莱郡に属しています。しかし前漢の地図を見ると、この地域は瑯邪郡に属しています。これは郡国の変遷によるものです。天草さんが参考にされたものは前漢に準拠したものだったのでしょう。
(J-SA05)
50 赤龍
こうした行政区分の変遷は結構ややこしい問題で、それに関する専門の研究も行われてる程です。混乱するのもしかたがないものです。
ちなみに後漢から三国は、琅邪は郡ではなく国です。
(J-SA05)
51 しす
麋竺の死に同情age
(PC)
52 ストラップ
このスレッドはなかなかに興味深いものがありますね。皆さんには是非、最初から再読して欲しいですね。

麋竺の家が火事になる記述をどこかで読んだ気がするのですが‥‥‥三国志蜀書でしたっけ?
(PC)
53 赤龍
火事の話、麋竺伝注の『捜神記』ですよ。
(PC)
54 ストラップ
おお。
捜神記ならば、捜神記自体から探してみようかな(笑)
(PC)
55 ストラップ
今捜神記を頭から流しています。
火事のエピソードは、巻四にありますね。

左慈、于吉、葛玄などは巻一から登場して、丹念に読めば面白いですよ。
孫休が火星人に司馬氏の天下を予言される話等……スレッド違いですね(汗)
(F2102V/FOMA)
56 ストラップ
今月号の「文芸春秋」では孫乾を「外交のオーソリティー」の様に書いていました。
「文芸春秋」の「三国志」は小説(作り話・創作)ですから、これを事実とする訳にもいきませんが、事実彼などはそういう役目でしか記録されていなかった様に記憶します。
麋竺などは戦闘に参加しなかったとはっきり書かれていますが、何で功績があったとははっきりしていません。
この三人、実際はどんな仕事を担っていたのでしょうか?
(PC)
57 ストラップ
三国志中、文字数が最も少ないのが、孫乾伝らしいです(126字)。
黄忠伝>>>136も短いと思っていましたが、これは243字らしいので、孫乾伝のほぼ二倍ある訳ですね。
(PC)
58 天草
この三人が同時に存在していた頃、彼らの中の上下関係はどうだったのでしょう?

最古参の簡雍が一番上の様なイメージがありますが…役職に詳しい方、分かりますか?
(N902i/FOMA)
59 ストラップ
>>58
それは>>7を参照です。>>5でも同じ質問していますよね(汗)
いつの時代もお金持ちは礼遇されるのですよ、屹度。
(PC)
60 ストラップ
>>58-59
建安六年。劉備が荊州にいた頃は三人同格だったみたいですね。麋竺は「左将軍従事中郎」ですね。
(F2102V/FOMA)
61 天草
あれ?前に話題がありました?(;^_^A

すいません…色んな事情があるんです(笑)
(N902i/FOMA)
62 ストラップ
尤も簡雍は劉備と同席しても威儀を正さず、諸葛亮には寝たまま話したりしたみたいですから、本当は簡雍が一番偉かったかもしれませんね。

最終官職
麋竺:安漢将軍
孫乾:ヘイ忠将軍(秉忠将軍)
簡雍:昭徳将軍
(PC)
63 ストラップ
>>57
「蜀書巻八」ってどの人も短いのですが……同じ巻の伊籍伝は百四十六文字。
三国志演義の活躍が嘘の様な短さ。
(F2102V/FOMA)
64 赤龍
今、ブログのほうでこの3人について書いてみているとこです。今日は麋竺を。ほとんど正史の伝を写しているような惨状ですが(苦笑)よろしければ参考に。http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50287279.html
(PC)
65 公孫祐
はじめまして。
三国志にハマって15年、最近は麋竺にしか興味がない公孫祐です(汗)

アタマから一気に読ませてもらい、もっと早くここを見つけてたらなぁ…と思ってしまいました。

私も麋竺を主役にした小説をブログに書いてますが、ホントに麋竺って、劉備の何に惹かれたんでしょうね。妹まであげちゃうくらいですから。

曹操に付かなかったのは、やはり徐州大虐殺が原因だと私も思います。


あ、ちなみに私のHNは、孫乾さんが元ネタです。白馬将軍じゃありません(笑)
(W53SA/au)
66 公孫祐
連投失礼しますm(_ _)m

ずっと気になってる事がありまして。

麋竺の字『子仲』についてなんですが、普通に考えりゃ『仲』って二番目の意味ですよね?
て事は、彼は二男になる訳ですが、二男に劉備軍を立て直せるだけの権限があったのかなと思いまして…。
長男が何らかの理由で家業を継がなかっただけ?

でも、伯仲叔…って、馬氏五常とか司馬八達みたいに、兄弟全員に共通してつけるのが多いですよね。
でも、そうなると弟の麋芳の説明がつかないんです( ̄○ ̄;)
もっとも、麋芳の字『子方』の『方』って『逆らう、叛く』という意味があるらしいので、陳寿の悪意も込もっていたりするかもしれませんが…。

諱の『竺』とも共通点のようなものはないし…。


どなたか解決お願いしますm(_ _)m
(W53SA/au)
There are a few men in opera who don't mind doing beefcake. Friends and I used to joke that Samuel Ramey had a clause in his contracts mandating him baring his furry chest at some point.,
(PC)
68 袁家熱愛
麋竺の子、麋芳と博子仁は呂蒙の計略に乗せられ、関羽を裏切る訳ですが、(これは史実でしょうか?)彼らは最悪の裏切り者として、後世まで人々に嫌われ、中国のどっかの建物には、首や手に枷を嵌められた、二人の像まであるそうです。
二人を擁護とまでいいませんが、彼らは正しい判断をしたっ思いますよ。
許攸とは訳が違って、熟考した上で決断したんですよね?(横山三国志では)実に人間らしいなと。二人に補給を送るよう命じた関羽も、遅くなったら酷い仕打ちをするなんて言ってますし。
(912SH/SB)
69 袁家熱愛
すみません麋竺の子ではなく、弟でした。記憶が曖昧だった(*_*)
(912SH/SB)
70 しす
麋芳に関しては>>>145に専用スレがありますよ。
あと博子仁ではなく傅士仁ですが、これも性格には士仁です。
彼に関しては>>>440の季漢輔臣賛スレで語られていますので、そちらを参考にしてください。
私個人の意見としては、「切羽詰った」という程追い込まれたわけでもなく、関羽と不和だったという理由で寝返った彼らの行動は非難されても仕方がないと思います。
>>>145-22-26でも話題に上ってますが、呂蒙の策に騙されて降ったカク普はともかく、麋芳、士仁はつけこまれただけですから。
(PC)
71 袁家熱愛
しすさん、ご教授感謝です。まさか麋芳と士仁のスレまであるとは知りませんでした
そうですか。確かに横山版?では虞翻に丸めこまれてるのを見ましたよ。関羽の脅しは本気だったのでしょうか?麦城に救援を送っていれば、助かったかもしれませんが…。
(912SH/SB)
72 公孫祐
コチラのレスも落ち着いたようなんで(私の前の質問流れてしまいましたが(T_T))、新たに話題投下します。


陶謙スレで質問した延長です。
麋竺が陶謙に仕えた期間って記録だけで単純に見るとすごく短くないですか?
「麋竺伝」には「後徐州牧陶謙辟爲別駕從事」とあり、陶謙が牧になってから招聘されています。
陶謙は牧になった翌年に没しているので、最長でも2年あるかないか…。

実際のところ、どうなんでしょうか?
やはり、刺史の頃から接触はあったと考えたほうがいいですか?
あれだけの資産、あの陶謙が黙ってるハズがありませんよね(汗)
(W53SA/au)
73 寿君
さすがに記録にないと、明確な意見は述べれませんが、確か公孫祐さんは、むじんさんのblogで「ひょっこり麋竺島」のエントリーにコメントされてましたね。
史書の記述もさる事ながら、こんな逸話が立つぐらいの大資産家です。
今でも、新知事さんが、地元の大企業のトップを訪問したりしますよね?。
ましつや陶謙も中々の狸(笑)、それぐらいの根回しはすると思いますし、そうじゃなけりゃ、やっていけないと思います。

なお、私も麋竺は好きです。あの「捜神記」の火の女神とのエピ。もちろん事実とは思えませんが、彼の人柄を表してますね。
(P905i/FOMA)
74 公孫祐
〉寿君さん
早速のご意見ありがとうございます。
実は麋竺を主役に小説書いておりまして、資料集めの際にむじんさんにもお世話になりました。
URLは宣伝板にありますんで、ご一読して頂けると幸いです。(スレ違いな内容スイマセン)

話を戻して…
捜神記といい、麋竺島といい、彼の人柄が様々な不思議逸話を作り上げたんでしょうね。
劉備もその人柄を愛していたんでしょう(たぶん)。

多彩な人がいる劉備陣営にあって、一際異彩を放つ存在だと思います。
(W53SA/au)
75 巫俊(ふしゅん)
麋竺島といえば田横島も山東半島の海外にありますね。
田横は諸葛亮のお気に入りなんで劉備陣営に関わっていえると言えるでしょうか。
諸葛亮のいたロウ邪國は蓬莱神話の地の附近でもある田横島とも海路で連絡しているはず。

田横島については私のブログで紹介しているので、中国史博物館からリンクしているブログ「巫氏春秋」えをどうぞ。
海外の地は半毛外の地であり、蓬莱信仰、隠者、海賊などに関係してくる海域ですから、麋竺は実家の商取引上のことから何か漁民などの経済と関わっていたのかもしれないですね。

麋竺が蛮民(漁民)の大檀那という感じだとすると、麋竺が信仰の対象になった魅力があったというのも分かる気がします。

私は麋竺のなんとなく謙虚なマスクの裏に無邪気な破天荒さが隠れているような気がするんですけど、どうでしょうか?
(PC)
76 公孫祐
>巫俊さん
なるほど…。
その破天荒さが、劉備と共鳴したと考えれば、あそこまで入れあげた理由が分かる気がします。

侠者も海賊も一目置く存在というのも考えられますね。
扱いに馴れてなきゃ、あの劉備陣営には馴染めないでしょうしねf^_^;
(W53SA/au)
77 削除済
_urlsvip.txt;10;10
(PC)
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(PC)
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(PC)
81 削除済
82 削除済
83 削除済
84 削除済
85 テンテン
簡雍について…彼は劉備が旗揚げして以来の功臣にしては めちゃくちゃ影が薄いですが彼を物語るエピソードを1つ。

成都で禁酒令を出した劉備。彼は酒関連の道具を作る事も禁止したが ある日 劉備と簡雍が街に出た時に 男女を見て 簡雍が
「あの者たちも淫交罪で罰しなくては…」
「何故だ?」
と問う劉備に
「あの者らは淫交する道具がありますから」
と とぼけた口調で言う彼に劉備も笑って禁酒令を緩くした…っていうエピソードは有名ですね
(W62SA/au)
86 公孫祐
またもや麋竺マニアです(^_^;)

成都の「九里堤」は、もともと「麋●堰」(●化けて読めず)と言って、麋竺が築いたってホントですか?

しかもその後は「諸葛堰」になったとか…(-.-;)

中文サイトで見つけたんですが…。
(W53SA/au)
87 雲畜斎
劉備に着き従っていた為、流浪の日々に大半を費やしてしまい、蜀を得て定住した後も、蜀には史官が居なかった(らしい)為、彼らを含めて、人物歴を記した資料が甚だ乏しかったのでしょう。

蜀は「人材不足」ではなく、「歴史に名を残した人の数が少なかった」のだと思います。
(N906imyu/FOMA)
88 公孫祐
ふと思ったんですが、麋竺と呂不韋って似てませんか?
(W53SA/au)
89 削除済