1 トクメイキボン
郭嘉奉孝
過去ログ漁りましたがなかったので、建ててみました☆ 曹軍中期軍師団の一翼を担った郭嘉について、語るスレです♪
皆様の郭嘉評はどんな感じなのでしょうか?
皆様の郭嘉評はどんな感じなのでしょうか?
(P900i/FOMA)
2 大伴
トクメイキボンさんはじめまして。確かに今まで無かったのが不思議な位のスレッドですよね。
話題自体は、>>>28を中心に、>>>89-22、>>>143-24と出ているのですが……。
彼は袁紹や劉表の行動を読んだり、孫策暗殺を予言したりと、人の心理による推測を多くやっていますね。
話題自体は、>>>28を中心に、>>>89-22、>>>143-24と出ているのですが……。
彼は袁紹や劉表の行動を読んだり、孫策暗殺を予言したりと、人の心理による推測を多くやっていますね。
(F2102V/FOMA)
3 ユウキ
トクメイさんおはようございますΨ(^凹^ж)Ψ
郭嘉…正直味方ならかなり頼もしいですが敵ならかなり嫌な相手ですね。
ところで袁紹とは面識があったので『曹操10の勝因』語るのは分かるのですが、遠く離れた江南の地、まして『小覇王』と呼ばれている英雄孫策がいずれ暗殺されるであろうなどとなぜ予言できたのでしょうか??
ある程度の情報はあったと思いますが、不思議に思います。
もしや当時孫策というのはあまり評判よろしくなかった…?曹操と劉備で英雄論をして劉備が雷に驚くふりをするのは演義での創作でしたっけ?あの時確か曹操は孫策を酷評してたような…
話がずれましたが郭嘉自体に呉の武将とのコネでもないとあれだけの予言はできないような。もしや創作!?
郭嘉…正直味方ならかなり頼もしいですが敵ならかなり嫌な相手ですね。
ところで袁紹とは面識があったので『曹操10の勝因』語るのは分かるのですが、遠く離れた江南の地、まして『小覇王』と呼ばれている英雄孫策がいずれ暗殺されるであろうなどとなぜ予言できたのでしょうか??
ある程度の情報はあったと思いますが、不思議に思います。
もしや当時孫策というのはあまり評判よろしくなかった…?曹操と劉備で英雄論をして劉備が雷に驚くふりをするのは演義での創作でしたっけ?あの時確か曹操は孫策を酷評してたような…
話がずれましたが郭嘉自体に呉の武将とのコネでもないとあれだけの予言はできないような。もしや創作!?
(P900i/FOMA)
4 天草
確かに孫策の死の予言は郭嘉伝に掲載されてます。しかしこれはかなり怪しいと私も睨んでます。
郭嘉の場合、神がかりてきな策(というより予言)で有名ですが、別スレでもありましたが、やはり諜報能力にも長けていたのではないでしょうか?
郭嘉最強論者の私には興味深いスレです(笑)
あっ!トクメイキボンさん、初めまして!
ここでは、ニックネームやハンドルネームを呼び合うことで、匿名性の高い討論場のスムーズ化を計ってもらいたいので、できれば何でも構いませんので特定できるニックネームをつけて頂きたいとキボンです(笑)
郭嘉の場合、神がかりてきな策(というより予言)で有名ですが、別スレでもありましたが、やはり諜報能力にも長けていたのではないでしょうか?
郭嘉最強論者の私には興味深いスレです(笑)
あっ!トクメイキボンさん、初めまして!
ここでは、ニックネームやハンドルネームを呼び合うことで、匿名性の高い討論場のスムーズ化を計ってもらいたいので、できれば何でも構いませんので特定できるニックネームをつけて頂きたいとキボンです(笑)
(PC)
5 大伴
>>>62をはじめ、色々な所で語られていますし、伸び悩んでいますね。
しかし郭嘉は早死にと言っても三十八まで生きていますからねぇ。ホウ統は三十六で死んでいますし、曹沖などはもっと小さい。私の尊敬する作家は三十四(満年齢なら三十三)です。十一年も曹操に仕えていますし、それ程早死にでも無いような……
しかし郭嘉は早死にと言っても三十八まで生きていますからねぇ。ホウ統は三十六で死んでいますし、曹沖などはもっと小さい。私の尊敬する作家は三十四(満年齢なら三十三)です。十一年も曹操に仕えていますし、それ程早死にでも無いような……
(F2102V/FOMA)
8 天草
演義やゲームではあまり語られてないですが、正史では意外と、袁紹死後の北伐の記載が各伝に多く伝わってますよね?
郭嘉もその戦いに従軍して、帰った時に死んでます。
年齢の件ですが、郭嘉が死んだ時に曹操は諸将に向かって、
「諸君は皆わしと同年代だが、郭嘉一人が飛びぬけて若かった」
と言ってますよね?記載通りなら、郭嘉が死んだのは袁残党北伐後ですから、207年だとすると…
曹操が155年(52歳)
荀イクが163年(44歳)
荀攸が157年(50歳)
程イクが141年(66歳)
(意外と皆、歳とってるなぁ(汗))
31歳だとしたら、確かに若いですよね。○ロハシ殿(爆)
郭嘉もその戦いに従軍して、帰った時に死んでます。
年齢の件ですが、郭嘉が死んだ時に曹操は諸将に向かって、
「諸君は皆わしと同年代だが、郭嘉一人が飛びぬけて若かった」
と言ってますよね?記載通りなら、郭嘉が死んだのは袁残党北伐後ですから、207年だとすると…
曹操が155年(52歳)
荀イクが163年(44歳)
荀攸が157年(50歳)
程イクが141年(66歳)
(意外と皆、歳とってるなぁ(汗))
31歳だとしたら、確かに若いですよね。○ロハシ殿(爆)
(PC)
12 大伴
>>11
申し訳ない。解説不十分。
http://diary.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/isyana/?Y=2004&M=12&D=5
で天草さんが、郭嘉を主役に短篇小説の連載を始められたので(笑)その記念です。
申し訳ない。解説不十分。
http://diary.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/isyana/?Y=2004&M=12&D=5
で天草さんが、郭嘉を主役に短篇小説の連載を始められたので(笑)その記念です。
(F2102V/FOMA)
15 天草
郭嘉伝は彼の予言的な神がかり進言が中心になってますが、以前から言われているように、かなり怪しく思えます。
その謎を紐解くのに、欠かせない書物が郭嘉伝に度々登場する、『傅子』という書物ではないかと思います。
この著者・傅玄を含めて情報があれば、教えて下さい。
その謎を紐解くのに、欠かせない書物が郭嘉伝に度々登場する、『傅子』という書物ではないかと思います。
この著者・傅玄を含めて情報があれば、教えて下さい。
(PC)
17 天草
うひゃ!!
覚えてたんですか!?
あれは毎週その日に書いてる、駄文なんですよ?(汗)
それでも良ければ、前の分をUPしましょう。
さすがに先のものまで書いて、公開するのは悪いでしょうし…(汗)
覚えてたんですか!?
あれは毎週その日に書いてる、駄文なんですよ?(汗)
それでも良ければ、前の分をUPしましょう。
さすがに先のものまで書いて、公開するのは悪いでしょうし…(汗)
(PC)
21 削除済
25 劉信
はじめまして!小説などで三国志をよんでいる時によく曹操と荀イクが話あっている場面で軍事が理解できる文官という評がでてくるので政治力にも長けていたのではないでしょうか?
(N900iS/FOMA)
26 ストラップ
>>>28-22で計算している様に、建安二年(197)から曹操麾下に加わった様ですね。
で、問題なのですが、「程郭董劉蒋劉伝第十四」で郭嘉が「司空軍祭酒」になりましたよ、とあり、「征呂布〜」と続くので、これが建安三年(198)以前の事だという事がわかります。
「武帝紀」を見ると、>>>163-2を述べた文章の直前(つまり建安三年)に、「(建安)三年春正月(中略)初めて軍師祭酒を置く」とあります。
「軍師祭酒」は郭嘉の「司空軍祭酒」でない可能性はありますか?
で、問題なのですが、「程郭董劉蒋劉伝第十四」で郭嘉が「司空軍祭酒」になりましたよ、とあり、「征呂布〜」と続くので、これが建安三年(198)以前の事だという事がわかります。
「武帝紀」を見ると、>>>163-2を述べた文章の直前(つまり建安三年)に、「(建安)三年春正月(中略)初めて軍師祭酒を置く」とあります。
「軍師祭酒」は郭嘉の「司空軍祭酒」でない可能性はありますか?
(PC)
29 諏訪
ところで、郭嘉死後の軍師祭酒には董昭がなっていますが、董昭って曹操の軍師の中でも知名度が低いですよね。曹操に仕えたのは荀攸や郭嘉よりも先のはずなのに…
下手したら、戯志才よりも知名度低いかも。
下手したら、戯志才よりも知名度低いかも。
(W51S/au)
31 諏訪
(W51S/au)
32 しす
>>29-30
董昭…メジャーではないがでしょうけど、戯志才よりマイナーだとは思えませんが。
ただ魏で軍師祭酒に任ぜられた人達の中では知名度は間違いなく高い方でしょう。
メジャー、マイナーの線引きは個人によって線引きが違いますから判断の基準は難しいと思います。
特に董昭クラスではね。
ただここは郭嘉スレなんで脱線しすぎないように。
董昭…メジャーではないがでしょうけど、戯志才よりマイナーだとは思えませんが。
ただ魏で軍師祭酒に任ぜられた人達の中では知名度は間違いなく高い方でしょう。
メジャー、マイナーの線引きは個人によって線引きが違いますから判断の基準は難しいと思います。
特に董昭クラスではね。
ただここは郭嘉スレなんで脱線しすぎないように。
(PC)
33 諏訪
>>32
>>29は、荀攸や郭嘉らと比べてマイナーなのではないかと言いたかったのです。言葉足らずで申し訳ありません。戯志才よりも…という点は、戯志才が謎の軍師として話題になることが多いので、大げさな書き方をしてしまいました。
董昭の個スレがなく、話の流れから、ここに書き込んでしまいました。脱線して申し訳ありません。
>>29は、荀攸や郭嘉らと比べてマイナーなのではないかと言いたかったのです。言葉足らずで申し訳ありません。戯志才よりも…という点は、戯志才が謎の軍師として話題になることが多いので、大げさな書き方をしてしまいました。
董昭の個スレがなく、話の流れから、ここに書き込んでしまいました。脱線して申し訳ありません。
(W51S/au)
>>33
荀攸や郭嘉と比較すると確かにマイナーですね。
この話題は>>>366に移しましたので、そちらで話題を続けましょう。
脱線云々は特に諏訪さんを指摘したわけではないので、お気になさらずに。
多少の脱線はOKだと思いますよ。
ただこのままだと脱線っしっぱなしになりそうなのでカキコしただけですので。
荀攸や郭嘉と比較すると確かにマイナーですね。
この話題は>>>366に移しましたので、そちらで話題を続けましょう。
脱線云々は特に諏訪さんを指摘したわけではないので、お気になさらずに。
多少の脱線はOKだと思いますよ。
ただこのままだと脱線っしっぱなしになりそうなのでカキコしただけですので。
(PC)
35 朱家
郭嘉を考えてみようかと…
十の勝因は、荀イクの四つの勝因を脚色したものだと思いますし、「劉備を殺せ」は『魏書』だと、曹操と同じ考えである正反対の記述があり、孫策暗殺は、どう防ぐかの問題なので的外れだし、予言や占いでしかない。
「袁紹はすぐに来ないから劉備討伐」は、袁紹がすぐに出兵してるから、完全に見込み違い。袁兄弟を仲違いさせるための南征は、莫大な浪費を伴う軍行動以外に方法がある。柳城で「軽装な兵で不意をつくべき」は、突然敵と遭遇して、軽装であるがために混乱状態になった(動きを読まれ、奇襲された可能性もある)
「疲弊してても呂布を討つべき」「劉表は劉備を使えないから烏丸討伐」、この二つは評価できるけど、呂布戦はリスクマネの問題だし、烏丸討伐は『曹瞞伝』だけど、反対した人に恩賞を与え、曹操は「幸運だった」と言ってます。
どのような言葉が史書に残るか?という問題があるけど、程イクらと同じ視点で評価するならば、少なくとも彼等より無能でしょう。しかし、私自身、曹操と考え方が近い人物だったと思っていて、一般的な意味の参謀や軍師ではなく、分身?って感じ(笑)
十の勝因は、荀イクの四つの勝因を脚色したものだと思いますし、「劉備を殺せ」は『魏書』だと、曹操と同じ考えである正反対の記述があり、孫策暗殺は、どう防ぐかの問題なので的外れだし、予言や占いでしかない。
「袁紹はすぐに来ないから劉備討伐」は、袁紹がすぐに出兵してるから、完全に見込み違い。袁兄弟を仲違いさせるための南征は、莫大な浪費を伴う軍行動以外に方法がある。柳城で「軽装な兵で不意をつくべき」は、突然敵と遭遇して、軽装であるがために混乱状態になった(動きを読まれ、奇襲された可能性もある)
「疲弊してても呂布を討つべき」「劉表は劉備を使えないから烏丸討伐」、この二つは評価できるけど、呂布戦はリスクマネの問題だし、烏丸討伐は『曹瞞伝』だけど、反対した人に恩賞を与え、曹操は「幸運だった」と言ってます。
どのような言葉が史書に残るか?という問題があるけど、程イクらと同じ視点で評価するならば、少なくとも彼等より無能でしょう。しかし、私自身、曹操と考え方が近い人物だったと思っていて、一般的な意味の参謀や軍師ではなく、分身?って感じ(笑)
(PC)