1 中耳炎になったユウキ
諸葛センについて
諸葛亮の息子!!あまりスポットライトがあたらないですが果たしてその能力は?名声、地位、などみんなで語りましょう☆というか息子って一人だけ??
(P900i/FOMA)
2 赤龍
諸葛センは、書画が巧みで記憶力がよかったとあります。しかし、親の七光りというか、彼に関係無いことでも「葛侯のなさったことだ」と実質以上の評判がたったとか。注の干宝の評は「危難を救う知恵も、敵を防ぐ武勇も無かったが、外は国家を裏切らず、内は父の志にそい、忠孝を貫いた」
(J-SA05)
5 大伴
尚もメン竹で戦死しています。魏軍に突進したそうですから、勇敢だったのかも知れません。
突進する前に、「(宦官の)黄コウを斬らなかった為に、敗北を招いた」と言っています。敗因は一つでは無いでしょうし、それを一人に集斂させるのは乱暴な事です。愚痴っぽくって、責任転嫁型だったかも知れませんね。少なくとも黄コウの事は嫌っていた様です。
突進する前に、「(宦官の)黄コウを斬らなかった為に、敗北を招いた」と言っています。敗因は一つでは無いでしょうし、それを一人に集斂させるのは乱暴な事です。愚痴っぽくって、責任転嫁型だったかも知れませんね。少なくとも黄コウの事は嫌っていた様です。
(F2102V/FOMA)
6 赤龍
諸葛センは、黄コウの専横に対し、何も反対できなかったようであり、さらに、姜維と閻宇を交替するよう上奏したとあり、黄コウと協力していた可能性さえあります。
尚の言葉は、「父も子も国家の厚い恩義を荷っているのに、(以下大伴さんの引用)」姦臣黄コウに対し何もできなかった父のふがいなさへの不満なんかも含まれているのかも?なんて想像します。
尚の言葉は、「父も子も国家の厚い恩義を荷っているのに、(以下大伴さんの引用)」姦臣黄コウに対し何もできなかった父のふがいなさへの不満なんかも含まれているのかも?なんて想像します。
(J-SA05)
7 赤龍
この時、尚はせいぜい十代、官に就いた記述も特に無く、まだ国政に関わる立場では無かったでしょう。それであの言葉ですから、黄コウの専横に対し、むしろ父の分まで責任を感じてたのでは?とも感じます。
(J-SA05)
10 削除済
12 雲畜斎
亮は瞻に対し、期待して無くはなかったでしょーが、大器ではないと見ていた節はありますね。
京は後に晋の江州刺史にまで昇進したらしーですが、細かい人物像については、諸兄にまかせます(笑)
京は後に晋の江州刺史にまで昇進したらしーですが、細かい人物像については、諸兄にまかせます(笑)
(N906imyu/FOMA)
16 如水
雲蓄斎さん
自分は単に子供を褒めるような手紙だったと思ってたんですが、それだと大分意味が違ってきますね。案外親バカなんだなっておもってたんですが・・・。
ストラップさん
多分、瞻の事だと思います。なにしろ曖昧なものでして・・・。というか、瞻の事も
自分は単に子供を褒めるような手紙だったと思ってたんですが、それだと大分意味が違ってきますね。案外親バカなんだなっておもってたんですが・・・。
ストラップさん
多分、瞻の事だと思います。なにしろ曖昧なものでして・・・。というか、瞻の事も
(PC)
17 如水
失礼しました。文書いてる途中に投稿してしまいました。
続けさせてもらいますね。
瞻の事も喬の事も手紙に書いてたんですか・・・。
兄に息子のことを手紙で知らせるなんてやっぱり親バカなのかな?
お二方、情報ありがとうございます。
続けさせてもらいますね。
瞻の事も喬の事も手紙に書いてたんですか・・・。
兄に息子のことを手紙で知らせるなんてやっぱり親バカなのかな?
お二方、情報ありがとうございます。
(PC)
18 ストラップ
>>16-17
>>13の感じからいうと、瞻かも知れませんね。
喬に関しては、(大分略しますが)
「喬は諸将の子弟と一緒に輜重をし、栄辱を勉強しています。喬は五〜六百人を率いています」
こんな感じでしょうか。
>亮与兄瑾書曰「喬本当還 成都、今諸将子弟皆得伝運、思惟宜同栄辱。今使喬督五六百兵、与諸子弟伝於谷中」
瞻に関しては、建興十二年の手紙として、
「今八歳。聡慧で可愛いのですが、早成の嫌いがあり、大きな人物に為れないのではないかと心配しています」
とあります。
>建興十二年、亮出武功与兄瑾書曰「瞻今已八歳。聡慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳」
>>13の感じからいうと、瞻かも知れませんね。
喬に関しては、(大分略しますが)
「喬は諸将の子弟と一緒に輜重をし、栄辱を勉強しています。喬は五〜六百人を率いています」
こんな感じでしょうか。
>亮与兄瑾書曰「喬本当還 成都、今諸将子弟皆得伝運、思惟宜同栄辱。今使喬督五六百兵、与諸子弟伝於谷中」
瞻に関しては、建興十二年の手紙として、
「今八歳。聡慧で可愛いのですが、早成の嫌いがあり、大きな人物に為れないのではないかと心配しています」
とあります。
>建興十二年、亮出武功与兄瑾書曰「瞻今已八歳。聡慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳」
(PC)
19 しす
瞻についと書いた手紙に関しては補足すると
「瞻は今已に八歳、聡慧愛す可きなるも、其の早成を嫌ふ。恐らく重器と為らざるのみ」
という記述ですよね。
この記述から見ると彼はこまっしゃくれたお子様だったと解釈すればいいのでしょうか。
そう考えると喬の兄、恪に似ているとも言える気がします。
そう考えると似たような子を持つ瑾に対してこのような手紙を送っているということは、切実な訴えなのかもしれませんね。
「瞻は今已に八歳、聡慧愛す可きなるも、其の早成を嫌ふ。恐らく重器と為らざるのみ」
という記述ですよね。
この記述から見ると彼はこまっしゃくれたお子様だったと解釈すればいいのでしょうか。
そう考えると喬の兄、恪に似ているとも言える気がします。
そう考えると似たような子を持つ瑾に対してこのような手紙を送っているということは、切実な訴えなのかもしれませんね。
(912T/SB)
21 雲畜斎
恪を絡めるとまた複雑になってしまいそうてすが、恪自身は大器には違いないですしね。それは父親の瑾も伯父の亮も認める所でしたが、同時に傲慢で大雑把な所も憂いてましたね。父親は「一族を滅ぼすだろう」とまで言ってますし、伯父はわざわざ陸遜に手紙を送ってまで恪の大雑把さを憂いてましたしね。
個人的推測ですが、瑾と亮の兄弟間での手紙のやりとりは、ある程度定期的に行われていて、その中で互いの子について都度触れられていたのではないかと。
しすサンの言うよーに、その中で瞻も早熟系だと言いたかったのかもしれませんね。
ただ恪と比べて、瞻は大器とは見ていなかったんじゃいでしょーか。
個人的推測ですが、瑾と亮の兄弟間での手紙のやりとりは、ある程度定期的に行われていて、その中で互いの子について都度触れられていたのではないかと。
しすサンの言うよーに、その中で瞻も早熟系だと言いたかったのかもしれませんね。
ただ恪と比べて、瞻は大器とは見ていなかったんじゃいでしょーか。
(N906imyu/FOMA)
22 朱家
諸葛瑾は、頭がキレて徳行に欠ける人は、余計な事を言ってしまうので、その事を心配してると思います。
>>20
単なる親バカで、本当に心配してる訳ではなく、ニヤケながら手紙を書いてるかもしれませんよ(笑)
諸葛瞻は、黄崇の進言を躊躇したり、トウ艾の襲来を速やかに姜維へ報告したのか疑問な点などは、恪に似てるかもしれませんね。
兵が分散すると思いますので、一概に諸葛瞻の選択を非難できないですが、後世の人である私には、トウ艾と平地で戦うのはね…トウ艾の威名を分かっていても、七十近い老人ですし、補給も断絶してますから、甘く見たのかなと。
てか、太守を歴任し、少なからず経験のある閻宇はどうした?まあ、ないと信じたいけど、諸葛瞻が「こちらは大丈夫」なんて言ってたら最悪(笑)
>>20
単なる親バカで、本当に心配してる訳ではなく、ニヤケながら手紙を書いてるかもしれませんよ(笑)
諸葛瞻は、黄崇の進言を躊躇したり、トウ艾の襲来を速やかに姜維へ報告したのか疑問な点などは、恪に似てるかもしれませんね。
兵が分散すると思いますので、一概に諸葛瞻の選択を非難できないですが、後世の人である私には、トウ艾と平地で戦うのはね…トウ艾の威名を分かっていても、七十近い老人ですし、補給も断絶してますから、甘く見たのかなと。
てか、太守を歴任し、少なからず経験のある閻宇はどうした?まあ、ないと信じたいけど、諸葛瞻が「こちらは大丈夫」なんて言ってたら最悪(笑)
(PC)
23 雲畜斎
確かに瞻が関を出てトウ乂と戦ったのは、ちと無謀でしたね。ってか瞻か率いた兵数って相手と比べてそんなに少なかったんですかね?朱家サンの言うとーり相手は補給もままならないだろーし、籠城して姜維と連携を取れば…
まぁそれ以前に、瞻が出陣すると同時に、成都から姜維の所に連絡が無かったのかが不思議です。そしたら少なくとも姜維の方から瞻に対し連絡があったのではと空想してしまいますが。
閻宇に関しては、蜀が呉に、魏を牽制するよーに依頼され、その際に成都から白帝城に5千の派兵があり、その兵を率いたのが閻宇とあります。(呉の朱績伝により)
ところが魏が蜀に侵入した際に成都に呼び戻された(蜀の羅憲伝により)ので…成都に居たのは間違いないのに、ホンマなにしてたんでしょーね。奥で震えとったのか?
まぁそれ以前に、瞻が出陣すると同時に、成都から姜維の所に連絡が無かったのかが不思議です。そしたら少なくとも姜維の方から瞻に対し連絡があったのではと空想してしまいますが。
閻宇に関しては、蜀が呉に、魏を牽制するよーに依頼され、その際に成都から白帝城に5千の派兵があり、その兵を率いたのが閻宇とあります。(呉の朱績伝により)
ところが魏が蜀に侵入した際に成都に呼び戻された(蜀の羅憲伝により)ので…成都に居たのは間違いないのに、ホンマなにしてたんでしょーね。奥で震えとったのか?
(N906imyu/FOMA)
24 朱家
綿竹城に籠城しても、トウ艾を足止めできないですからね。
推測を多分に含みますが、諸葛瞻が強行軍だとすると、脱落者も多く、黄崇の進言は、そのまま進軍して要害を固め、平地に出さないというもの。兵は疲労困憊だろうし、少ない兵で進軍するのは、経験不足の諸葛瞻には不可能だし、兵の集結を待ってるのであれば、躊躇するのも理解できる。
江由での降伏など、トウ艾の進軍が予想以上に速く、先鋒を派遣して時間稼ぎしようとしたが、突破され、綿竹付近には兵が集結しだしていて、退いたと…しかしながら、フ城は剣閣姜維の補給ルートである可能性が高いと思う。
上記とは全く違う見方で、諸葛瞻は自信家で、トウ艾を甘く見たり、姜維との権力争いなどで、侵入を防ぐのではなく、大きな功績を求め、平地でトウ艾を壊滅しよう、もしくはできると思って、黄崇の進言を躊躇した可能性も…?
推測を多分に含みますが、諸葛瞻が強行軍だとすると、脱落者も多く、黄崇の進言は、そのまま進軍して要害を固め、平地に出さないというもの。兵は疲労困憊だろうし、少ない兵で進軍するのは、経験不足の諸葛瞻には不可能だし、兵の集結を待ってるのであれば、躊躇するのも理解できる。
江由での降伏など、トウ艾の進軍が予想以上に速く、先鋒を派遣して時間稼ぎしようとしたが、突破され、綿竹付近には兵が集結しだしていて、退いたと…しかしながら、フ城は剣閣姜維の補給ルートである可能性が高いと思う。
上記とは全く違う見方で、諸葛瞻は自信家で、トウ艾を甘く見たり、姜維との権力争いなどで、侵入を防ぐのではなく、大きな功績を求め、平地でトウ艾を壊滅しよう、もしくはできると思って、黄崇の進言を躊躇した可能性も…?
(PC)