1 しす
鐘ヨウという人物について
演義では地味な存在だが、正史では相国、太傅にまで登り、位人臣を極めた人物、鐘ヨウ。
よく息子の鐘会の方は取り上げられますが、私は彼は息子に勝るとも劣らない人物だったと思います。
皆さんはどうでしょうか?
意見をお聞かせください。
よく息子の鐘会の方は取り上げられますが、私は彼は息子に勝るとも劣らない人物だったと思います。
皆さんはどうでしょうか?
意見をお聞かせください。
(PC)
3 しす
実はこの人、曹操から「漢の蕭何に匹敵する」とまで言われてるんですよね。
ま、曹操は「古の○○のようだ」とか言うの好きだけどw
そういえば廃墟になった洛陽を復興させたのもこの人ですよね。
やはり傑物と呼ぶに相応しい。
ま、曹操は「古の○○のようだ」とか言うの好きだけどw
そういえば廃墟になった洛陽を復興させたのもこの人ですよね。
やはり傑物と呼ぶに相応しい。
(PC)
4 大伴
目立って無いのかなぁ?
山椒を食べて自殺しようとしたり(鍾会伝注「魏氏春秋」)、朝議を数ヶ月サボって、美人の生ける屍とあっていたり(鍾ヨウ伝注「異林」)、ツッコミどころ満載な気がしますが……記述も多いですし。
山椒を食べて自殺しようとしたり(鍾会伝注「魏氏春秋」)、朝議を数ヶ月サボって、美人の生ける屍とあっていたり(鍾ヨウ伝注「異林」)、ツッコミどころ満載な気がしますが……記述も多いですし。
(F2102V/FOMA)
6 しす
演義だと彼、全然活躍場面ないですからねぇ。
それと息子の方が謀臣としてカン丘倹や諸葛誕を破り、そして蜀攻略も果たすなど派手さでは上なのは否めないとは思いますが。
武功だけなら会の方が上かもしれませんが、内政や外交では息子の及ぶところではないと考えます。
特に天草殿の言うとおり、馬騰と韓遂を和解させ、帰順させた功績は当時の曹操陣営の状況から考えたら比類なき功績と言える気がします。
それと息子の方が謀臣としてカン丘倹や諸葛誕を破り、そして蜀攻略も果たすなど派手さでは上なのは否めないとは思いますが。
武功だけなら会の方が上かもしれませんが、内政や外交では息子の及ぶところではないと考えます。
特に天草殿の言うとおり、馬騰と韓遂を和解させ、帰順させた功績は当時の曹操陣営の状況から考えたら比類なき功績と言える気がします。
(PC)
8 赤龍
陳羣とか王朗とか、ただでさえこの手のキャラは演義では目立たない上、馬騰が曹操に屈せぬ漢の忠臣という設定である以上、馬騰を帰順させる話等書くわけにもいかない。ここらへんも演義で活躍できない理由では。
(J-SA05)
9 しす
なるほど、赤龍殿の言うこと、実にもっともだと思います。
確かに馬騰は劉備を正統として描く都合上、ある程度人格者として描かなければならない理由はよく解りますからね。
ただ王郎や華キンみたいに変に悪党として描かれることもなかったので余計に印象薄い気がしますよね。
確かに馬騰は劉備を正統として描く都合上、ある程度人格者として描かなければならない理由はよく解りますからね。
ただ王郎や華キンみたいに変に悪党として描かれることもなかったので余計に印象薄い気がしますよね。
(PC)
12 大伴
私の理解している範囲で
┌┴┐
(李氏)┬◯ コウ
│ ├─┐
キン 迪 敷
│
┌─┬───┘
◯ 瑜?
│
ヨウ
├──┬─┬─┬─┐
イク 演 劭 豫 会
│
駿 ……ヨウ・毅・峻・テン
|
◯
(会の)兄の子の位置が判断つきません。
┌┴┐
(李氏)┬◯ コウ
│ ├─┐
キン 迪 敷
│
┌─┬───┘
◯ 瑜?
│
ヨウ
├──┬─┬─┬─┐
イク 演 劭 豫 会
│
駿 ……ヨウ・毅・峻・テン
|
◯
(会の)兄の子の位置が判断つきません。
(F2102V/FOMA)
14 天草
大伴殿>その家計図を私も何とか書こうとしましたが、無理でした(汗)
さて、息子の記述は鍾会以外さっぱり調べても出てきませんでした。誰か知ってる人がいたら、是非教えて下さい。その代わり面白い記述を見つけました。
鍾ヨウは、能書家としても知られ、一説によれば普段我々が使用している漢字の字体である「楷書」も鍾ヨウによって広められたという。何とソースは「広辞苑」らしいです。眉唾モノですが…。
さて、息子の記述は鍾会以外さっぱり調べても出てきませんでした。誰か知ってる人がいたら、是非教えて下さい。その代わり面白い記述を見つけました。
鍾ヨウは、能書家としても知られ、一説によれば普段我々が使用している漢字の字体である「楷書」も鍾ヨウによって広められたという。何とソースは「広辞苑」らしいです。眉唾モノですが…。
(PC)
16 赤龍
鐘ヨウ伝には、演は弟、豫は孫とあります。
訳本の注には、演をイクの弟とする読みの説も紹介してますが、そうすると、ショウはイクの子、豫はイクの孫となってしまいます。
ちなみに『後漢書』では、鐘ヨウは鐘晧の孫になってました。これまた、どっちが正しいのか?
訳本の注には、演をイクの弟とする読みの説も紹介してますが、そうすると、ショウはイクの子、豫はイクの孫となってしまいます。
ちなみに『後漢書』では、鐘ヨウは鐘晧の孫になってました。これまた、どっちが正しいのか?
(J-SA05)
17 大伴
確かに(汗)申し訳ない。以下に(注釈等を除き)引用します。
太和四年鍾ヨウは逝去した。帝は白服を着て弔問した。おくりなは成侯という。子の鍾イクがあとをついだ。それより以前、文帝は鍾ヨウの封地を分割して、鍾ヨウの弟の鍾演と子の鍾劭、孫の鍾豫に与え、列侯にとりたてた。
鍾イク(字は稚叔)はそれ程年長ではなさそうですね。孫の豫よりも若い可能性もありますね。
太和四年鍾ヨウは逝去した。帝は白服を着て弔問した。おくりなは成侯という。子の鍾イクがあとをついだ。それより以前、文帝は鍾ヨウの封地を分割して、鍾ヨウの弟の鍾演と子の鍾劭、孫の鍾豫に与え、列侯にとりたてた。
鍾イク(字は稚叔)はそれ程年長ではなさそうですね。孫の豫よりも若い可能性もありますね。
(F2102V/FOMA)
18 大伴
修正
┌┴┐
(李氏)┬◯ 晧
│ ├─┐
キン 迪 敷
│
┌─┬───┘
◯ 瑜?
├──┐
ヨウ 演
├─┬──┐
劭 イク 会
│
豫 駿 ヨウ 毅 峻 テン
|
◯
こんなものでしょうか?
┌┴┐
(李氏)┬◯ 晧
│ ├─┐
キン 迪 敷
│
┌─┬───┘
◯ 瑜?
├──┐
ヨウ 演
├─┬──┐
劭 イク 会
│
豫 駿 ヨウ 毅 峻 テン
|
◯
こんなものでしょうか?
(F2102V/FOMA)
20 しす
皆様感謝感謝♪
>天草殿
鐘ヨウが楷書を広めた人物であることは間違いないようですよ。
実際書家としてはけっこう有名らしく、東晋の書聖、王義之らと並び称されるほどだとか。
実際彼の書いた「薦季直表」という書が現存してたはず。
でも詳しくは知りませんが(爆)
>天草殿
鐘ヨウが楷書を広めた人物であることは間違いないようですよ。
実際書家としてはけっこう有名らしく、東晋の書聖、王義之らと並び称されるほどだとか。
実際彼の書いた「薦季直表」という書が現存してたはず。
でも詳しくは知りませんが(爆)
(PC)
21 大伴
後漢書/荀韓鍾陳列伝第五十二に因ると、
◯
├─┬─┐
◯ ◯ 晧
│
瑾
で、瑾の母は李ヨウの姑とありますね。
又、鍾ヨウは晧の孫と書いてあります。当たり前に読めば、曾孫とする三国志の記述と反するのですが、孫は血筋の意味に取るのでしょうか?
◯
├─┬─┐
◯ ◯ 晧
│
瑾
で、瑾の母は李ヨウの姑とありますね。
又、鍾ヨウは晧の孫と書いてあります。当たり前に読めば、曾孫とする三国志の記述と反するのですが、孫は血筋の意味に取るのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
23 大伴
このスレッドも勿体ないですよね。
鐘ヨウは山椒を飲んで自殺を計りますが……他の方法を何故とらなかったのか不思議です。現代でも偶に醤油の一気のみ自殺未遂とか聞きますが……もっと確実な方法は沢山あると思うのですが……
鐘ヨウは山椒を飲んで自殺を計りますが……他の方法を何故とらなかったのか不思議です。現代でも偶に醤油の一気のみ自殺未遂とか聞きますが……もっと確実な方法は沢山あると思うのですが……
(D505iS)
27 しす
今更ですが鐘ヨウって数えで81?で亡くなってますから死因は老衰と考えていいのではないでしょうか。
鐘ヨウの後を継いだ鐘毓は会ほどの器量ではないにせよ、それなりの見識を持っていたようですね。
優秀な父と弟に挟まれてイマイチ(と言うかかなり)目立ちませんけど。
鐘ヨウの後を継いだ鐘毓は会ほどの器量ではないにせよ、それなりの見識を持っていたようですね。
優秀な父と弟に挟まれてイマイチ(と言うかかなり)目立ちませんけど。
(PC)
29 無問題
正史をしってはじめて彼の功績を知りました。演義では馬超のやられ役として少しでてくる程度だったので、正史を知ったときに「こんなにすごい人だったのか!」と思ったものです。長寿の上に子だくさんだったんですね。もっと彼の事をしりたくなりました。
(EZ)
30 しす
>>28
鐘会は鐘ヨウが亡くなった時はまだわずか5〜6歳ですからさすがに家は継げないですね。
鐘毓に関しては生年が解らないので何とも言えませんが。
そういえば>>23で触れている山椒を呷って自殺しようとした件は会の母親の件ですよね。
会の母が妾で彼女を溺愛するあまりに正妻と離縁。
ところが曹丕が復縁するように命じたので鴆毒で死のうとしたが手に入らなかったので山椒で自殺未遂…。
好きな人物なんですが、こういうエピソードを聞くと「オイ!」って感じにはなりますわなぁ。
鐘会は鐘ヨウが亡くなった時はまだわずか5〜6歳ですからさすがに家は継げないですね。
鐘毓に関しては生年が解らないので何とも言えませんが。
そういえば>>23で触れている山椒を呷って自殺しようとした件は会の母親の件ですよね。
会の母が妾で彼女を溺愛するあまりに正妻と離縁。
ところが曹丕が復縁するように命じたので鴆毒で死のうとしたが手に入らなかったので山椒で自殺未遂…。
好きな人物なんですが、こういうエピソードを聞くと「オイ!」って感じにはなりますわなぁ。
(PC)
31 朱家
兄弟のエピソードを…
彼らは若い頃から評判が高く、文帝は二人に会わせてくれと言い、謁見した。鍾毓は汗をかいていたので文帝は「何故、汗をかいてるのか」と尋ねると「緊張して汗が流れてくるのです」と答えた。文帝は鍾会に「君は何故、汗をかいていないのか」と尋ねると「緊張して汗も出ないのです」と答えた。この時、鍾毓は13才とあったと思います。面白いエピソードですね。
彼らは若い頃から評判が高く、文帝は二人に会わせてくれと言い、謁見した。鍾毓は汗をかいていたので文帝は「何故、汗をかいてるのか」と尋ねると「緊張して汗が流れてくるのです」と答えた。文帝は鍾会に「君は何故、汗をかいていないのか」と尋ねると「緊張して汗も出ないのです」と答えた。この時、鍾毓は13才とあったと思います。面白いエピソードですね。
(A1304T/au)
32 しす
>>31
「世説新語」に見えるエピソードですね。
でも文帝って鐘会が産まれた翌年に亡くなってるんですよね。
「世説新語」にはもう一つ兄弟のエピソードとして父鐘ヨウの薬酒を盗み飲みした話しもありますがこれも面白い。
鍾毓は頭を下げてから飲み、鐘会は何もせずに飲んだ。
それをこっそり観ていた鐘ヨウがその理由を尋ねると鍾毓は
「『左伝』には酒を以って礼をなす、とありますので」と答え、鐘会は
「もともと盗みは礼を外れたものなので、頭は下げません」と答えたとか。
司馬氏政権下で着実に出世し、天寿を全うした兄と、失敗したとは言え、蜀で独立を謀った弟。
両者の性格の違いを現したエピソードだと思います。
「世説新語」に見えるエピソードですね。
でも文帝って鐘会が産まれた翌年に亡くなってるんですよね。
「世説新語」にはもう一つ兄弟のエピソードとして父鐘ヨウの薬酒を盗み飲みした話しもありますがこれも面白い。
鍾毓は頭を下げてから飲み、鐘会は何もせずに飲んだ。
それをこっそり観ていた鐘ヨウがその理由を尋ねると鍾毓は
「『左伝』には酒を以って礼をなす、とありますので」と答え、鐘会は
「もともと盗みは礼を外れたものなので、頭は下げません」と答えたとか。
司馬氏政権下で着実に出世し、天寿を全うした兄と、失敗したとは言え、蜀で独立を謀った弟。
両者の性格の違いを現したエピソードだと思います。
(PC)
33 天草
ほほう…という事は、兄・鍾毓も目立ちはしないが、それなりの人物だったのですね。
立場的には最終的にどちらが上だったのでしょうか?
ってか、鐘会スレってなかったですかね?もしかしてスレ違い?(笑)
立場的には最終的にどちらが上だったのでしょうか?
ってか、鐘会スレってなかったですかね?もしかしてスレ違い?(笑)
(PC)
34 朱家
鍾会は司徒で、魏の最高位は司馬氏ですから、これ以上出世したいなら叛乱しかないです(笑)
鍾毓は車騎将軍?だったと思います。姜維が絡んでるのが大きいと思いますが鍾会が目立ちすぎですね。
鍾毓は機敏なふるまいは父のようだと言われてますので、こちらが子供らしい。ところでこの人の字、穉叔ってチシュクであってます?
鍾毓は車騎将軍?だったと思います。姜維が絡んでるのが大きいと思いますが鍾会が目立ちすぎですね。
鍾毓は機敏なふるまいは父のようだと言われてますので、こちらが子供らしい。ところでこの人の字、穉叔ってチシュクであってます?
(A1304T/au)
38 朱家
赤龍さん>訂正どうもです。自信がなかったので…
正史に従えば、司徒、太尉ですが、地方職ではないので、中央に戻らないと正式に任命されないですよね?つまり、危険な二人は帰って来いって事じゃないですか?
多くの本で、艾は征西将軍、会は鎮西将軍となってます。どう捉えたらいいのか微妙だと思います。
正史に従えば、司徒、太尉ですが、地方職ではないので、中央に戻らないと正式に任命されないですよね?つまり、危険な二人は帰って来いって事じゃないですか?
多くの本で、艾は征西将軍、会は鎮西将軍となってます。どう捉えたらいいのか微妙だと思います。
(A1304T/au)
40 しす
>>37-38
お二方とも解りやすい説明ありがとうございます。
解釈の仕方しだいで、どちらとも判断できるのですね。
しかし正史で親子が別々に伝を立てられている例はまずないですから、鐘ヨウ、鐘会親子がいかに優れていたかが伺える気がします。
お二方とも解りやすい説明ありがとうございます。
解釈の仕方しだいで、どちらとも判断できるのですね。
しかし正史で親子が別々に伝を立てられている例はまずないですから、鐘ヨウ、鐘会親子がいかに優れていたかが伺える気がします。
(PC)
42 赤龍
>>41
「甥」にも色々意味の違いがあるようではっきりわかりませんが、正史及びその注の甥の用例を見る感じでは、鍾ヨウの姉妹が郭家に嫁ぎ、その間の子が郭援となるんじゃないかな?と思いました。
「甥」にも色々意味の違いがあるようではっきりわかりませんが、正史及びその注の甥の用例を見る感じでは、鍾ヨウの姉妹が郭家に嫁ぎ、その間の子が郭援となるんじゃないかな?と思いました。
(PC)
43 ストラップ
>>42
やはりそちらを一般的用法と考えるべきなのでしょうね。鍾ヨウ自身と、実際に血が繋がっていると。
確かに妻方の甥ならば、(現代的な見方をすれば)郭援が死んだ時の対応が大袈裟な気はします。血は繋がっておらず、しかも敵ですからね。
又、鍾ヨウと鍾会の母のエピソードから、やはり線としては薄いかなぁと思います。鍾会の母って、恐らくは年の大分離れた女ですよね?
やはりそちらを一般的用法と考えるべきなのでしょうね。鍾ヨウ自身と、実際に血が繋がっていると。
確かに妻方の甥ならば、(現代的な見方をすれば)郭援が死んだ時の対応が大袈裟な気はします。血は繋がっておらず、しかも敵ですからね。
又、鍾ヨウと鍾会の母のエピソードから、やはり線としては薄いかなぁと思います。鍾会の母って、恐らくは年の大分離れた女ですよね?
(F2102V/FOMA)
44 ストラップ
すいません。大事な事を忘れていました(汗)
>>42
見解を述べて戴き感謝します。
しかし>>43書いててふと考えたのですが、鍾ヨウって女性がらみのエピソードが多くないですか?
例の死体(?)を抱いていた話など。
>>42
見解を述べて戴き感謝します。
しかし>>43書いててふと考えたのですが、鍾ヨウって女性がらみのエピソードが多くないですか?
例の死体(?)を抱いていた話など。
(F2102V/FOMA)
45 ストラップ
久しぶりにageておきます。
>>>266-24-25に呂布やケイ琴、元嘯の話しをしましたが、
「杜稾鍾隷、漆書壁経」
と、鍾ヨウの名前も出ています。
「杜操は稾草(草書)の上手、鍾ヨウは隷書を作った。漆で書いた書や、壁から出てきた経書がある」
>>>266-24-25に呂布やケイ琴、元嘯の話しをしましたが、
「杜稾鍾隷、漆書壁経」
と、鍾ヨウの名前も出ています。
「杜操は稾草(草書)の上手、鍾ヨウは隷書を作った。漆で書いた書や、壁から出てきた経書がある」
(F2102V/FOMA)