1 大伴

諸葛亮孔明A

前スレッド>>>55

関連スレッド
孔明>>>97
天下三分計>>>140
荊州逃亡(長坂の戦い)>>>95
馬謖(街亭の戦い)>>>5
魏延>>>32
姜維>>>68
諸葛瞻>>>155
(F2102V/FOMA)
2 天草
大伴さん…凄い…(汗)
続スレの見本の様な立て方ですね。

さて、三顧の礼までなかなか表舞台に名の出ない諸葛亮ですが、有名人だったのでしょうか?
良く、若い頃から有名で…というフレーズを軍師系の人達の伝を読むと出てきますよね?彼は誰かに推挙されたとか、それを断ったとか出てきますかね?ふと疑問に思いました。

PS:大伴さん>そのスレNOはどうやったら分かるの?
(PC)
3 伏仁傑
大伴さん・天草さん>よろしくお願いします。

前スレで「法正は益州派の頭目株」と表現しましたが、正確には「親劉備の益州文官の頭目株」です。文章が長くなりすぎるのを嫌い省略しました。現在手元に資料が無い状態なので多少記憶が怪しいですが…劉備を益州へ引き入れた功績が本当に法正のモノならばそれまでの彼の立場がどうあれその勲功は絶大なものになったであろう事は想像に難くないと思われます。そんな彼に対して諸葛亮が大変な配慮をしていたとしても不思議は無いでしょう。
(W11K/au)
4 伏仁傑
次に「新世代の武将」ですが
数年前、我が学友(勿論日本人)が長安へ遊学した際最後まで「福健省から来た」と信じられていたそうです。中国人は郷土への帰属意識が非常に高くたとえ同国内でも余所から来た人間は外国人と変わらない印象があるようです。ましてや二千年ばかり前の時代ですから荊益両派の融和は極めて困難だったのでは無いでしょうか?
そんな意味で諸葛氏が馬ショクら新世代にかけていた期待は大きく「泣いて斬った」のもただ馬ショクへの師弟愛ばかりでは無いような気がします。地方軍閥から集権国家への胎動による犠牲、ギに対抗する為の集権化を急ぎすぎた諸葛氏の焦りが見えます。
(W11K/au)
5 天草
諸葛亮が法正に気を使を使っていたというのは、間違いないでしょう。それは法正伝にも書かれてます。

法正は自分を中傷した人物を勝手に処刑したりしていたので、ある人が諸葛亮にそれを告発したところ、諸葛亮は彼がいたお陰で、劉備が大望を遂げたのだ…とこれを制してます。

ところで、劉備死後の諸葛亮は国の軍・政全権を任されたと思われますが、劉備の生前はどうだったのでしょう?かれにどこまでの権限があったのでしょうか?
(PC)
6 赤龍
ひとつ前の質問に戻りますが、出仕まえの諸葛亮について。
有名な黄承彦の娘との婚姻。母は荊州の有力者蔡瑁の姉妹であり、その別の姉妹は劉表の妻。さらに亮の姉は荊州の名高い名士ホウ徳公の子と結婚。婚姻の時期は不明ですが均の妻も襄陽の習氏から。この人脈からも、出仕前からかなりの知名度はあったと思われます。
(J-SA05)
7 赤龍
孔明の婚姻も、こうした背景を考えると、一般に言われるような美談ではなく、徐州人である彼が荊州名士のグループの中心に入り込むための政略的なものにさえ見えてきます。
(J-SA05)
8 天草
なるほど…。
確かにそう言われるとそうかも知れませんね。

彼の叔父。玄は亮が幾つの時に亡くなったのでしょうか?もし、姉が政略的に結婚した時に、家督が諸葛亮だったのなら、恐ろしい子供だなぁと感じましたが(汗)
(PC)
9 しす
別スレでも語ったのですが、赤龍さんの言う孔明の親族の婚姻に関して政治的な匂いを感じるという考え方はよく本などでも目にするようになりましたよね。
私も彼は単なる隠者ではなく、世に出るために荊州人士にパイプを作っていたのでは?と考えています。

>天草殿
いまいちソースははっきりしませんが、私の持ってる本には玄は197年に亡くなってるようです。
ということは三顧の礼の10年前ですから17歳ってとこでしょうか。
(PC)
10 伏仁傑
赤龍さん>初めまして。諸葛亮の結婚は明らかに政略結婚です。まぁ本人達の感情がどうあったかなんて後の世の我々は知る術もありませんし探るだけ野暮なんですが…
話を戻しますが、前漢の高祖がまだ徐州辺りの無頼漢だった頃に富豪の娘呂氏を娶ったエピソードにあるように、三国時代には既に閨閥を利用した出世が当たり前にあったと思われます。娘を将来有望な人物に嫁がせる事で一家の安泰を計るのは恥ずかしい事では無く立派な処世術だったのです。また、大望ある青年書生達にとって有力者の娘との結婚は立身への糸口であると共に「紐付き」になる恐れもあり真剣に検討されるべき生涯の大事であったでしょう。(そう言えば劉備もビ氏を嫁に貰ってましたね)
逆に有力者の娘との婚姻を片っ端から断り、名を上げて…という出世の仕方も当時からあったようです。
(W11K/au)
11 大伴
諸葛亮伝に

(建興)十二年(234)(中略)その年の八月に、諸葛亮は病に倒れ、軍中で死去した。時に五十四歳。

とありますから、ここから逆算して、孔明の誕生年は光和四年(181)という事がわかります。又、同伝の注に、「献帝春秋」を引用し

建安二年(197)正月、西城の民衆が反乱して、諸葛玄を殺し、その首を劉ヨウに送り届けた。

とあります。ですから、しすさんの計算は間違いないですよ。
(F2102V/FOMA)
12 ユウキ
ちなみに皮肉にも諸葛亮と献帝は生年没年が一緒ですね。ドラマを感じる。
(P900i/FOMA)
13 赤龍
亮とは関係ないですが、諸葛玄を攻撃した、朝廷から派遣された豫章太守朱晧、朱儁の子のようです。今発見してびっくりしたんで、報告しました。
(J-SA05)
14 大伴
私は孔明の北伐政策自体を指示している訳ではありませんが、一次から三次までの三回のそれは、どうもどれも惜しい気がします。どれも魏の混乱につけこんでおり、彼の政治家としての資質の高さを示すものであると思いますね。
今、陳倉城攻防戦を思い、改めてそう感じました。
(F2102V/FOMA)
15 しす
微妙にスレ違いかもしれませんが、素朴な疑問が…
亮の父が珪、叔父が玄、兄が瑾。
珪と瑾が同じ王(玉)偏で玄と亮がナベブタと偏が同じなんですよね。
例えば東坡居士こと蘇軾と、その弟蘇轍のように兄弟で同じ偏を共有する例は見たことがあるのですが、親子や叔父甥の関係でこういった例を見たことがありません。
実際そういった例って結構あるんでしょうか?
(PC)
16 天草
諸葛亮の話が出てましたので、専用スレをあげておきます。

有能政治家・諸葛亮がやった最大のお手柄は何だったと思いますか?
(PC)
17 ユウキ
存在そのものが功績でしょう。内政や軍事にはちょっと詳しくないので、あえて触れませんが、劉備が死んだ後、孔明以外に誰がショクをまとめられたでしょうか?関羽・張飛・縻竺・などほとんどは死んでしまい、劉禅は幼く、孔明がいなかったら内部から崩壊すらしたのでは無いのでしょうか?何をしたとかでは無く、劉備の意志を劉禅以上に受け継ぎそこにいてショクをまとめて自身が死ぬまでショクを保った事が功績だと思います。
(P900i/FOMA)
18 ユウキ
わかりやすく言うと、軍の司令官や有能な政治家とかでは無くショクの象徴として存在した事自体が象徴かと。
(P900i/FOMA)
19 ユウキ
最後は功績でした(笑)
(P900i/FOMA)
20 天草
やはり諸葛亮の政治で有名なのは、司法の分野でしょうか?

陳寿も『どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。みなこれを畏れつつも愛し、刑罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する。』と最大限の評価を与えています。
(PC)
21 天草
あと、どの文献で見たのか、覚えてませんが、諸葛亮が当時ではありえない、兵士の交替勤務制を採用していたという記述を見ました。
兵士の十人に二人を交替で帰国させるという、近代社会的な休暇制度です。

激戦状態になってもそれを変更する事はなく、兵士はこの様なことからも、戦場では命を賭けて、諸葛亮のために戦った…と。


やはり凄い人物ですね。
(PC)
22 しす
孔明と言えば、蜀の兵装に関しても色んなもの作らせてますよね。
元戎(連弩)、木牛、流馬、神刀、筒袖鎧などなど。
まぁ、もっとも兵力の差を兵装で少しでも埋めようという悲しい努力にも思えますが。
(PC)
23 天草
そういえば、奥さんがそれらの兵器を開発したと言う説もありますよね。
ソースは何だったかな?

信憑性はどうなんだろ?
(PC)
24 べん
初めまして。天草さんの孔明の休暇制度私も聞いたことあります。只でさえ国力で劣っているのに休暇を与えるなんて計り知れない器です。ただ決断力に少し欠けている感が私にはあります。一軍ではなく一国を担っているという責任感の強さから、それはきているのかも知れませんが。
(N900i/FOMA)
25 天草
べんさん>よろしくお願いします!

確かに責任感の強さは様々なエピソードから見て取れますよね。

馬謖もこともそうですが…もっと臨機応変な考えが出来れば、良かったのかも知れませんが、そうであったら、諸葛亮らしくないのかもしれませんね。
(PC)
26 べん
よろしくお願いします。最大の功績はやはり戦略のない劉備に戦略を示した事だと思います。そして、それを実現させた事。話は変わりますが、せっかく実現させたのだから、劉備の怒りを静め夷陵の戦は絶対に防ぐべきでした。関羽にも非はありますが、呉の方が悪いのですから外交しだいでは二方面作戦できるぐらいは取り返せたかも知れません。
孔明は劉備の実戦経験を高くかい、荊州人士の気持ちを考慮してたのでしょうけど戦わずして勝てるものならそうするべきだったと思います。呉にとっても要所なのでかなり難しい外交になるとは思いますが、それこそ政治家孔明の本領発揮だったと考えます。
(N900i/FOMA)
27 天草
確かに劉備軍における諸葛亮の最大の功績は、孫呉との同盟にあったのかも知れませんね。
それなのに…劉備は…(汗)
(PC)
28 たろう
孫呉と同盟ができたのは魯粛と兄のお陰でもあるんですよね?
(W21SA/au)
29 しす
ageます
(PC)
30 海老
はじめまして。海老といいます。よろしくお願いします。
僕は孔明が大嫌いなので、これはこうだったのでは?とか色々裏ばかり考えてしまいます。
政治家としても一流と言われる孔明ですが、益州や南郡の民を粗雑に扱っていたため反乱が何度も起きたと本でよんだ事があります。
そして明らかに無謀な北伐。
どこか考えが許かったように思えます。
(N900i/FOMA)
31 海老
戸籍調査等も別に孔明が最初に考えたわけでもないですし。
夷陵での戦いを止めなかったのも発言権がないと考えるよりは荊州名士の支持が欲しかっただけ。
僕はショクの武将達の死亡時期にも疑問を抱きます。
(N900i/FOMA)
32 海老
短命の時代とは言え、孔明にとって扱いずらい武将が同時期にゴロゴロ死んでいく様はまるで孔明の計算の様にも思えます。
大した戦果をあげた訳でもなく、大した人物を推挙した訳でもなく、政治家としても明らかに劉表、張昭、袁家にも劣り、それでも後生の人達に英雄扱いされる理由がわかりません。
全ては物語という事なんでしょうか?
(N900i/FOMA)
33 エロハシ
海老さん初めましてです☆

>>32の冒頭ですが、もしそれが諸葛亮の策謀だとしたら、今現在の評価をも遥かに凌ぐ大人物だったのでは?

それと、もし劉備が諸葛亮と出会ってなかったら、劉備は今ほど後世の人間に知られることもなく、群雄割拠の時代を彩った一群雄で終わってたと思いますよ。
(P900i/FOMA)
34 天草
海老サン>初めまして!いきなり面白い説(>>32参照)をお聞きして、驚きました♪これからもヨロシクです。

さて、私は諸葛亮が今でも人気を博して止まないのは、もちろん演義での大活躍もそうですが、やはり先帝への忠義心だと思います。

また、これはあくまでも私の個人的意見ですが、諸葛亮の蜀漢の策は天下を三分し、劉備が皇帝になったところで終わりだったのでは?と思ってます(またかよ)
これについては>>>140で語ってます。
つまり無理な北伐は先帝の意思を引き継ごうとした忠義の一心で、蜀の民や武将達はこれに感動を覚えたのではないか?と。

繰り返しますが、ソースはありません(爆)
(PC)
35 たろう
諸葛亮の人気はやはり天下三分ですかね。
最近気になるのがもし馬ショクがガイテイで負けず処刑もされなかったら亮は姜維を味方にひきいれると思いますか?それとも馬ショクを後継者にしておわりでしょうか?
(W21SA/au)
36 エロハシ
今、ツルノタケシのラジオを聞いてたんですが、孔明がダウンジャケットを初めて使用(着用)したとのことだったんですが、これってまじですか!?
(P900i/FOMA)
37 天草
>>35
姜維が諸葛亮に降伏するのは、馬謖が街亭で破れる前だと思われますので、それは変わりないでしょうね。

前にもどこかのスレでも話題に出ましたが、諸葛亮が馬謖を重用したのは(どのスレだっけ?)、才能だけでなく、荊州派への気配りなど、単純な事ではないのでは…という意見が一般的ですよね?
彼が諸葛亮の後継者になるのはまずなかったのではないでしょうか?
(PC)
38 ストラップ
湖南省邵陽市の南に棋盤崖と呼ばれる場所があり、六尺にわたって筋目が彫られ、碁盤になっているとか。伝えでは、孔明の碁盤であるとか無いとか。
(PC)
39 ストラップ
>>15
確かに気になりますね。どなたか詳しい方はありますか?

ただ「玄」の部首は「玄」ですよ。
(PC)
40 赤龍
>>38
これについては>>>114-87-96でも、ちょっと触れてるので参考にどうぞ。
(PC)
41 TS
亮という字は「玉の輝くさま」といった意味ですから、瑾とは玉関連で関係ある字を名にしていると言って良いと思います。
もっとも、兄弟だからといって名に関連があるとは限らない(曹操の子とか、名に関連性があるように見えますか?それどころか曹操と息子曹拠は手偏が共通しますが、兄弟ではありません)ので、あまり気にしないのが一番だと思います。
むしろ、世代が違うところから養子を迎えることはまずない(甥を養子にしても従兄弟は養子にしない。皇帝は例外)ので、万一世代が違うとしたら、瑾の子を亮の子として迎えた事実を説明できなくなります。
(W31T/au)
42 ストラップ
>>40-41
という事は、世間では定説化しつつある「瑾と亮の非兄弟説」と「珪と瑾の非親子説」の根拠とするところは無くなったと見て良いのでしょうかね?
(PC)
43 TS
前者は三国志の諸葛亮伝、諸葛瑾伝どちらでもお互いを兄弟と明記してますので、例の名の法則でしたら否定する根拠としては説得力は無いも同然です。
後者も諸葛亮伝に父とはっきり書かれ、珪は従父と区別してますから、これも違うという根拠は無いです。
これら陳寿の三国志の記述をろくな根拠なく否定できるなら、何でもありですよ。
(W31T/au)
44 しす
>>39
ご指摘感謝。
確かに玄の部首は玄でした。
先入観はいけませんね。
>>15に関しては>>>114-91で赤龍さんが仰られている高島俊男氏の『三国志人物縦横談』に書かれていたものです。
亮瑾非兄弟説に関しては>>40(>>>>>>114-87-96)で根拠を失ったと個人的に考えていますので、否定の方向でいいんじゃないかと思います。
(PC)
45 ストラップ
今日、プラネタリュームに往ってきました。

その中で「三台」という星座を諸葛亮の星であると言っていました。

これが本来、何に書かれていた記述かわかる方はありますか?
御教授下さい。
(F2102V/FOMA)
46 赤龍
>>45
三国志演義で、五丈原において孔明が星を見「三台星の中に客星が現れ、主星の光りは衰え、それを補ける星も光を失う」ということから、己の死を悟ったというシーンです。このあと、延命の祈願をする場面につづきます。
さて、三台星ですが、おおぐま座の足に位置する3つの星らしく(ここら辺プラネタリウム見られたストラップさんの方が詳しいと思いますが)三公をあらわす星といわれてます。諸葛亮はご存知のように丞相。三公クラスにあたり、その星が光を失うということから、彼の運命を示しているということでしょう。
余談ですが、かつて大河ドラマ「花の乱」において、野村萬斎演じる細川勝元が死を悟るシーン、ほとんどこの演義の孔明の話が用いられてました(笑)
(PC)
47 ストラップ
>>46
御教授感謝です。
「三台星」は、三公をあらわす星座だったんですね。

しかし良く考えれば……おおぐま座(の足の部分)やこじし座は、獅子座に近い訳ですから……獅子座同様この季節には見づらい星座ですよね(九月半ばは19時位までと、早朝に本来見れる様です)。
プラネタリウム、>>>388-4にあわせたつもりかも知れませんが、上映時期が悪い様な……
(F2102V/FOMA)
48 ストラップ
「蜀書 諸葛亮伝第五」を読んでたのですが、諸葛亮が(俗に言うところの)天下三分の計を語るあたり(ちくま学芸文庫なら5-105〜106)、凄く良いですね。
理路整然とした諸葛亮が、劉備に大戦略を授けるシーンです。
曹操が袁紹に勝った要因を話す事で計画の重要性を説き、現在の情勢を分析。この後に劉備が向かうべき道を示す。
三国志の名シーン中の名シーンだと思います。

という訳で「三国志演義」の該当箇所(第三十八回)を(立間祥介訳.平凡社版 で)見てみると……発言内容は似ているのですが、芝居がかったもの言いに詩も付いてて間延びし、「三国志」ほど燃えませんね(汗)天文の話しをして、劉表と劉璋の支配地は奪って構わんと、説得力の無い事を言うからでしょうか。

第一、散々かっこ付けて登場しておきながら、「当方こそ南陽の野人」とか、「長らく百姓暮しをいたしておりました」とかいう白々しい謙遜の仕方がどうにも好みでは無いです(笑)
まぁ劉備の「漢室の末裔、タク郡の愚夫」という自己紹介も、気に入らないのですが(汗)

このシーンは三国志の方が勝っていると思いますし、諸葛亮がもっともかっこ良く描かれている場面だと、僕はそう感じます。
(F2102V/FOMA)
49 沙耶
高レベルなスレでの発言で大変恐縮ですが、私も参加させて下さい。

ストラップさんが仰られるように、天下三分の計を語る場面は燃えますね(私もちくま学芸文庫です)

しかし、やはり出師の表も忘れてはいけません!
私は正史を購入する前に出師の表を読んでいたので、正史で陳寿が記録していたという事実を知って嬉しかったですね。


政治や戦略等がどんなに優れていても、先帝への忠義が皆無だったとしたら、やはり人気は抑えられるかと思っています(個人的意見ですが)

それを思うと、やはり陳寿は諸葛亮を敬愛していたのだなぁ、と思います。

最後に質問で申し訳ないんですが、後・出師の表を掲載している様な書物は存在するのでしょうか?
ご存じの方ご教授下さいm(__)m
(D902i/FOMA)
50 赤龍
後出師の表は、正史本文でなく、裴松之の注の漢晋春秋に見られます。
ちくま学芸文庫の訳でしたら、5巻のP130からの上奏文ですね。
ただ、この後出師の表、正史本文にも、諸葛亮集にも存在しないため、また内容にも一部問題があるため、偽作説も根強く主張されています。
(PC)
51 赤龍
後出師の表の問題については、天草さんがブログのほうで丁寧に解説されています。
こちらも参考にどうぞ
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/27923283.html
(PC)
52 沙耶
赤龍さん>再び回答有難うございます。
ブログの記事と合わせて注も読んできました(本文しか読んでいませんでした。すいません;)

なるほど、確かに後出師の表は怪しいですね。


私も天草さん同様、まさか諸葛亮が間違えるとも思えませんし;

ただ、諸葛亮の文でも、後世の捏造でも名文ですね・・・!
取り敢えず、この文章の筆者は凄い!と、私の中では思っておきます(爆)

何か曖昧ですいません。精進しますm(__;)m
(D902i/FOMA)
53 巫俊(ふしゅん)
かつて孫家に打ち破られた王朗や劉ヨウの名前が後出師の表に出てくるので、呉国の中で真しやかに流布した文章だと考えると、すんなりするところもあります。

蜀や晋の公文書館では諸葛亮の正文とは扱われていなかったのかもしれませんが、後出師の表を記録した『黙記』という史料は『呉録』の作者張勃の子とされる呉の大鴻臚・張[イ厳]の作とされているようです。(『隋書』経籍志雑家類)
(PC)
54 赤龍
後出師の表、これも多分名分なんだろうなあと思いますが、どうも前出師の表と比べて、内容的にもやや気になったりします。
「食事を一度だけにした」とか、ことさらに自分の苦労をアピールしたり、「私は愚かなので、絶対に勝てるとはいいきれない」「ことの成否はあらかじめ予測できるものではありません」と、弱気な発言というか、言い訳がましい言い方とか。
なんというか、前出師の表のような気迫みたいなものがあまり感じられないように思えました。
偽作という疑いを持って読んでるせいかもしれませんが…。
一応フォローしてみると、第一次北伐の失敗をうけて、その分やや弱気というか悲観的な空気に、諸葛亮含めた蜀がおおわれてたためかな?なんても思ったりしました。
(PC)
55 赤龍
「故に五月瀘を渡り、深く不毛に入る」と前出師の表と全く同じ句が存在することも、偽作説を主張する人の根拠となってるようです。
「李服を任用すれば、李服は暗殺を図り」と李服なるなぞの人物も現れます。これも一応王服の誤りでは?とは言われています。
名文に水をさすようで申し訳ないのですが、疑いの目で見ると、かなり問題点が浮かび上がってくる文章のようです。
(PC)