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献帝・劉協

漢王朝ラストエンペラー劉協!彼を主人公にした物語などがあっても面白そうじゃないですか?と妄想したりする今日この頃。

皆で協のわかっていること、想像なんかも語ってしまうスレ。
(W11K/au)
2 しす
忘れられがちですが、この人って孔明と同じ年に産まれて同じ年に亡くなってるんですよね。
でもこの人にとって曹丕に皇帝の座を譲って後の14年間が実は一番幸せだったのでは?と考えるのは私だけでしょうか?
(PC)
3 大伴
>>2>>>157-12。シンクロニティ(笑)
(F2102V/FOMA)
4 ユウキ
しす殿気が合いますな(笑
(P900i/FOMA)
5 しす
スゲー、ほぼ同じ時間に違うスレで同じ内容のことが書き込まれているとはw
(PC)
6 エロハシ
なにこれ…すごいな…献帝の怨念を感じるー(笑)

確かに俺も禅譲後の方が幸せな気がします☆ 帝ってのは、えてしてそんなもんでしょうが、野心家達の意のままに操られているのなんて、耐えかねないものでしょうから↓
(P900i/FOMA)
7 ユウキ
献帝の悲劇は擁護する側からも逆の立場からも利用された事でしょう。魏からは大義名分。ショクからは国威発揚。呉は?話がずれますがこうゆうところに呉の不人気があるのか…。演義の隠れMVPは献帝かな。
(P900i/FOMA)
8 天草
すげー被り方…(滝汗)遅い?(再汗)

んで、結局献帝は曹操を嫌っていたのでしょうか?

どう思います?
(PC)
9
え?孔明と献帝て生没年同じなんですか?Wカキコとともにビックリ!

天草さん>嫌ってたんじゃないですかね。普通に考えて
(W11K/au)
10 天草
何となく、ただ嫌ってた、という感情だけじゃない気がするんです。

皆さんはどう思いますか?
(PC)
11 蛮犬
あくまでも憶測ですが、曹操は曲者(これはあくまで私の考え)特有の嫌らしさ故の匂いを発していたんだと。それを献帝は嗅ぎとっとったんではないかと思うのですが…。どうでしょう?
(W21S/au)
12 ユウキ
やはり演義での献帝でのイメージ→曹丕に禅譲を迫られたり、など悲劇の皇帝。このイメージなんですが、華キンのように演義と正史で全く違う人物もいますし、一概に演義のイメージ通りの皇帝だったとは言えないかもしれないですね…
馬騰や劉備が演義で正義の味方になるには献帝が悲劇の皇帝である必要が多少あるのでは?まぁ献帝の為というか漢朝の為が強いでしょうが。
嫌っていたかどうかはわかりませんがある程度曹操に敬意や尊敬していたのでは?と思います。曹操のような力は無かったでしょうし。同時に劣等感なども持っていたかも。
(P900i/FOMA)
13 ユウキ
ただ暗殺計画ありましたよね??あれは献帝発案?そうなると尊敬や敬意とは無縁な話になる(;_;)
董卓に皇帝にされた時一体どんな事を思ったんだろう…。聡明であったらしいですがまだ小さい献帝にはよくわかって無かったのかな。皇帝になる→董卓暗殺→呂布に保護される→李カク、郭シに攻められ脱出→曹操に保護される。かなり波瀾万丈ですよね。
劉備が漢中獲った時や、官渡の戦いで曹操が逆転勝利して絶対的な勢力になった時、馬超が漢朝(実質的には曹操)に兵を挙げた時献帝は何を思ったのか…。『劉備頑張ってくれ!!』とか『袁紹が滅んで私は今まで以上に曹操のいいなりだな』とか『馬超が兵を挙げたか!漢に対する反逆だが特別に許す!頼むから曹操破って脱出させてくれ!』とか思ったのかな…。やっぱ皇帝も人間ですもんね。
(P900i/FOMA)
14 天草
子供の頃は兄と比べられて、随分良い書き方をされてるのに、曹操に擁護されてからはその記述がプツッと…そこが気になるんですよね。

確かに暗殺計画はありましたが、案外側近が動いただけで、当の本人は曹操の元で結構満喫していたのでは…?何てことも考えられなくもないかな?と。
(PC)
15 ユウキ
確かに側近が動いたのかもしれないですね。ただたとえ側近主導で動いたとしても最後のGOサインを出すのは献帝であるのでは…?。天草さんが言うように生活を満喫していたくせに曹操暗殺しようとしてたら、だいぶ都合がいいというか、優柔不断な面が見えるような。おそらく曹操暗殺が成功しても、今度は暗殺した側からも都合よく使われるんでしょうね。第2の曹操。
(P900i/FOMA)
16 しす
果たして劉協に曹操暗殺を謀る度胸があっただろうか?
こういう決断ってかなり肝っ玉座ってないと下せない決断のような気がするのですが…。
(PC)
17
幼少のころの評判の通りの人物と考えるか考えないかで、全く違う人物像になりますね!

曹操にたいしては、憎しみというか、嫉妬や劣等感はあったろうと私は考えます。だから暗殺計画(協の発案とかんがえて)を立て、失敗し、それからも機をうかがいながら曹操に依存していた…では一般的すぎ?
(W11K/au)
18 ユウキ
@董卓に皇帝にされた時まだ幼く、この国で何が起きているかさえよくわかってなかった。
A曹操に保護され最初は心強く思ったが、次第に飾りだけの自分の存在意味を疑うようになる。
Bそんな時に側近達が今曹操を倒すべきという進言をする。英断や決断などではなく、側近に押し切られる形で承諾。
C計画は失敗し、たくさんの忠義の士?を死なせる結果になる。
Dこの悲惨な事件以後自分さえ耐えればいいと自分に言い聞かせ、行動は自らの意志で謹んだ。強く責任を感じた。
E曹丕に譲り、普通の生活に戻る。
こんな感じではないでしょうか?
(P900i/FOMA)
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ではもう一つ。

李カクらに追われ洛陽にたどり着いた協。ボロボロになった帝など多くの群雄は忌避され、絶望のどん底にいたなかで、曹操の保護を受け、感謝の気持ち一杯の協は曹操がホントに気に入った。曹操は優秀そうだし、なにより恩がある。なので全権を委ねる。董卓のもとにいたころ出来なかった贅沢をさせてくれるし、いうことない!
曹操が死に、息子の曹ヒがかねてより帝位の重荷から逃れたいと思っていた協に対して禅譲を提案してきた。しかもまだまだ贅沢させてくれるようなので協は諸手をあげ帝位を譲る。ホント曹氏様サマな漢王朝最終皇帝劉協でした…。
こういうのもあり得そうですし、おもしろいですねぇ。

妄想族・飛
(W11K/au)
20 ユウキ
というか話がぶっとんで飛躍してしまうのですが、献帝は曹丕に譲って、確か領地をもらったんでしたっけ?その領地はどの辺りだったのでしょう?どなたか教えてください(;_;)
献帝が譲り漢が滅び、献帝は元皇帝ですよね、その元皇帝をショクに招いて自国の皇帝になってもらうという考えは劉備、孔明には無かったのでしょうか?曹丕に無理矢理降ろされた悲劇の皇帝を劉備が迎え、自国で保護し、ショクの再度皇帝になってもらい、ショクこそ正統であり魏など極悪非道であるってやって国威発揚に役立てたり。
現実的には地理とか献帝の心情を考えると無理でしょうか…?はたまた劉備にはどうでもいいことだったのでしょうか。話かわってすみません(;_;)
(P900i/FOMA)
21
ではもう一つ。

李カクらに追われ洛陽にたどり着いた協。ボロボロになった帝など多くの群雄は忌避され、絶望のどん底にいたなかで、曹操の保護を受け、感謝の気持ち一杯の協は曹操がホントに気に入った。曹操は優秀そうだし、なにより恩がある。なので全権を委ねる。董卓のもとにいたころ出来なかった贅沢をさせてくれるし、いうことない!
曹操が死に、息子の曹ヒがかねてより帝位の重荷から逃れたいと思っていた協に対して禅譲を提案してきた。しかもまだまだ贅沢させてくれるようなので協は諸手をあげ帝位を譲る。ホント曹氏様サマな漢王朝最終皇帝劉協でした…。
こういうのもあり得そうですし、おもしろいですねぇ。

妄想族・飛
(W11K/au)
22 赤龍
禅譲後は山陽公とされ、河内郡山陽県(現河南省焦作あたり、洛陽の北東)に領邑一万戸を与えられました。その地位は諸侯王の上とされ、漢の暦、祭祇を続ける事が許されました。
敵対勢力に山陽公がわたれば、反魏の名分となるため、それは魏が許さないでしょう。その為にも洛陽近辺に置いたのかも?
(J-SA05)
23 赤龍
劉備のもとには、禅譲後献帝が殺害されたとの誤報が伝えられ、それを名分に、漢の皇帝位を継ぐとして即位しました。あくまで国名は「漢」であり「蜀漢」「蜀」は後世つけられた名称です。献帝殺害の誤報も、ひょっとしたら、大義名分を得るため蜀側が故意に流したのかも?
(J-SA05)
24 関羽
僕も誤報と知ってか故意に流したと考えています。
(W11H/au)
25 ユウキ
赤龍さん詳しくありがとうございます。やはり洛陽近郊でしたか…。かなり監視の目はあったと考えていいのでしょうか?だとしたら皇帝時代も山陽公時代も変わらない生活だったのかも知れないなぁ…
劉備側が誤報を流した説は興味がありますね!
(P900i/FOMA)
26
なぜ劉備が献帝をうけいれなかったか?と思ってたのは、私だけではなかったんですね!

もし献帝受け入れを実行に移そうとも、ユウキさんのおっしゃる通り監視が厳しかったりしたでしょうし、無理な話だったのかな?
(W11K/au)
27 天草
劉備が皇帝の座に座るためには、やはり献帝は邪魔ですからね。曹丕が献帝を廃したのは、彼にとっては大義を得たラッキーな出来事だったのではないでしょうか?

献帝は曹操の娘を嫁にもらい、彼女を寵愛しますよね?これは間違いないですか?
そうだったら、意外と最初は嫌だった曹操への気持ちを、環境や生活が変えていった様な気がしますが、いかがでしょうか?
(PC)
28 天草
あげ
(PC)
29 大伴
荀悦は、何をした人ですか?荀イクの従弟みたいですが……?
飽くまで献帝の臣であって、曹操とは無関係な間柄かな?
(F2102V/FOMA)
30 大伴
質問age。

孔融などは、いつまで従ったの?
(D505iS)
31 赤竜
以前蜀が献帝殺害の誤報を敢えて流したのでは?という仮説をたてましたが、涼州にいた蘇則、領国にいた曹植も献帝崩御と思い喪に服したとか。この誤報は全国的に流れており、蜀はそれを意図的に利用したのでは?という仮説の方がいいかな、と思い直しました。
(J-SA05)
32 天草
孔融が曹操に帰順した具体的な年代は分かりませんが…
『献帝の時、北軍中侯、虎賁中郎将を経て北海国相となる。董卓専横時には尚書令に任命された。』
とまずはあるみたいです。
その後、政治がうまく行かずに住民が大量に流出し、賊に追われて曹操の元に行ったらしいです(汗)
(PC)
33 赤龍
孔融ですが、189年北海の相となり、196年袁譚に攻められ逃亡し、献帝に召し出される。その後208年処刑。また、興味深いのが、194年劉備が孔融を青州刺史に推挙。これは劉備が陶謙に身を寄せ豫州刺史に推挙され、その後陶謙死後劉備が徐州を支配した年。ここでも孫乾のスレで触れた当時の彼等の密接な関係がうかがえます。
(J-SA05)
34 赤龍
荀悦は、イクの従兄。148〜209。霊帝期の党錮等の混乱を避け隠居していた為、世間ではその名が知られてなかったが、荀イクだけは深く尊敬してたという。最初は曹操に召辟されたらしいので、荀イクの推挙があったのではと思われる。その後朝廷の官を与えられるので、イクと同じコースでしょう。漢代について編年体で記述した『漢記』の著者として有名です。
(J-SA05)
35 赤龍
荀悦が曹操に召し出された時期ですが、「初辟鎮東将軍曹操府」とあることから建安元年の六月以降(〜九月?)。ちょうど曹操が献帝を迎えいれた時期です。孔融が召し出されたのも同年。早急に許の新朝廷のメンバーを揃える必要があったのかも?あと著作は『漢紀』でした
(J-SA05)
36 三三
ちょっと気になって霊帝、献帝関係で探してたら古いけど書いてもいいのか迷いましたが・・
見た人もいるかもしれませんが
何年か前に「何でも鑑定団」でとある芸能人の持ってきた家系図のトップは「霊帝」でした。
下ってみると途中に初代征夷大将軍 坂上田村麻呂
の名が
記憶には「皇族の血を引いていない征夷大将軍は徳川のみ」だと
この家系図と征夷大将軍の件が間違いなければ、霊帝の子孫は日本の皇族?
TVのナレーションでも献帝の子孫は戦乱を避けるため日本に渡ってるとも行っていました。
中国で易姓革命時に日本に渡り、そのたびに日本で文化の変化があるという形跡もあります
なので献帝の子孫が渡った可能性はありますが、その後のことはわかりません
どこかにわかるような資料ってないですかね?
(PC)
37 天草
>>36
それは面白い話ですね。
かなり眉唾ものだとは思いますが、鑑定士がそんな事を…。

続報・番組の目撃談…待ってます♪
(PC)
38 赤龍
坂上田村麻呂の坂上氏は、渡来人の東漢氏に属しています。系図では東漢氏の祖阿知使主(あちのおみ)は霊帝の曽孫とされています。ですから、坂上田村麻呂の末裔は(系図上では)霊帝の子孫ということになります。また、同様に渡来系の西漢氏の祖は献帝、秦氏の祖は秦の始皇帝とされています。
(J-SA05)
39 赤龍
さて、本当に霊帝の末裔かというと、残念ながら違うようです。アヤ氏は元々朝鮮からの渡来人。それが中国系を称するようになり「アヤ」に「漢」の字をあて、漢の末裔を称するようになったようです。秦氏も同様。この変化は「日本版中華思想の形成により、朝鮮諸国に対する蕃国意識が形成された」ためと考えられているようです。
(J-SA05)
40 三三
レスありがとうございます
何がなにやら・・・理解できたか出来ないか・・・
確か秦氏は徐福が絡んでいた気がしましたが違いましたか
大和時代以前は理解に苦しみます
古事記を作るのに豪族たちをまとめるため「遠い先祖は同じ」ということにして糾合しようとした という形跡があるともいわれてたとおもいますが、霊帝の子孫も同じような扱いですかね?
とりあえず日本に霊帝の子孫がたくさんいるようですね
(PC)
41 天草
age

まだ見てない方は是非>>1から見てみてください。
なかなか面白いスレですよ。
(PC)
42 ナナホッシー
博物館冊子収録スレッドなのでageます。
(PC)
43 朱家
上がってきたので…
献帝は曹操の「述志令」をどう思ったんですかね?後世の人からすれば笑い話ですが、伏皇后が誅殺に動くのは四年後ですし(魏公が要因ですが)献帝も踊らされたと思うのですが…
(A1304T/au)
44 ストラップ
献帝の配下として「演義」ではおなじみの董承。曹操暗殺計画でひそかに暗躍するも、劉備に裏切られる人です。この人なんか複雑な経歴の持ち主ですよね。

元は牛輔の武曲で、しかも董卓の腹心。そして董太后の甥なんだから凄いというか何というか。一つ位嘘があるんじゃないの?という感じです。
(F2102V/FOMA)
45 赤龍
牛輔の部曲、董宅卓の腹心、董太后の甥という3つはそれぞれ別の史料に見えるもの。どれかが間違いの可能性もあるし、必ずしも三者が同一の董承とはいえないとも思えます。
特に董卓の腹心とする『献帝起居注』は、董卓の一族董旻、董コウと董承が並べられており、董卓の同族として書かれたととれます。すると、董太后の甥というのと矛盾してしまいますね。
(J-SA05)
46 赤龍
高島俊男さんは『三国志きらめく群像』中で、この3つの経歴を「どれか一つが本当だとするとあとの二つは間違い、という関係にある」としています。董太后の一族と董卓の一族という前述の矛盾に加え、太后の一族や董卓の腹心が牛輔なんかの部曲にいるはずはないだろうと。
そして、董卓の死後一族も皆殺しにあったのに、一族で腹心の者が帝のそばにのうのうといられるはずはないだろう、とこれを否定しています。
(J-SA05)
47 ストラップ
>>45-46
確かに「董旻、承、コウ」という書き方は、姓も略していますし、並びも真ん中ですし、董旻、董コウと同じ一族、というニュアンスを持っていそうですね。
赤龍さんの言われる様に、「董承という武官が同時期に二人存在した」、とか、「参照している資料に間違った記述がある」という可能性は高かそうですね。
(PC)
48 ストラップ
>>46
しかし「後漢書 卷七十二 董卓列伝第六十二」にある、
「卓以王為賢、且為董太后所養、卓自以與太后同族、有廃立意((董)卓、(陳留)王を以って賢なりと為し、且つ董太后の養う所為れば、卓自ら太后と同族なるを以って廃立せんとの意有り)」
という箇所も気になりますね。
董太后と董卓が同族というのが不思議な気がしますね。
(PC)