1 きいち
上下関係
袁紹と曹操、荀イク(臣)
袁紹と沮授、淳于瓊(同)
臣下であったのか、身分の上下はあれ、同僚だったのか。
後ろの括弧はとりあえず付けてみました。曹操と荀イクの関係が同盟関係から始まったのでは?という疑問から伸ばしてみました。皆さんはどんなイメージでしょうか?
袁紹と沮授、淳于瓊(同)
臣下であったのか、身分の上下はあれ、同僚だったのか。
後ろの括弧はとりあえず付けてみました。曹操と荀イクの関係が同盟関係から始まったのでは?という疑問から伸ばしてみました。皆さんはどんなイメージでしょうか?
(PC)
2 天草
きいちさん、どうも!
確かにそういうのは結構気になりますね。言葉遣いとか、呼び方とか、書物によって違ったりしますもんね!
ところで…
きいちさんの言う、曹操と荀イクの同盟関係…という説を教えてくれませんか?
確かにそういうのは結構気になりますね。言葉遣いとか、呼び方とか、書物によって違ったりしますもんね!
ところで…
きいちさんの言う、曹操と荀イクの同盟関係…という説を教えてくれませんか?
(PC)
3 きいち
たいていは荀イクが袁紹を見限ったとされている訳ですが、袁紹の上奏により東郡太守に就任した曹操が、袁紹の臣下であったと考えると、同僚であった二人がエン州方面を担当していて、多くの反対を押し切って天子を迎え入れた196年に袁紹とは別の道を選んだのでは、と。
同僚であったとする理由は袁紹配下に荀イクの兄荀ェがそのまま袁紹に仕え、また配下の出奔(191年)先のはずの曹操に袁紹が何もしていない。これはただの出向ではないか?
また、曹操の霊廟に荀イクは加えられていない事(魏の臣下ではない?)
等が挙げられていました。状況証拠のみですが、荀イクの権限が不自然に強い点は、説明しやすくなるように思います。
同僚であったとする理由は袁紹配下に荀イクの兄荀ェがそのまま袁紹に仕え、また配下の出奔(191年)先のはずの曹操に袁紹が何もしていない。これはただの出向ではないか?
また、曹操の霊廟に荀イクは加えられていない事(魏の臣下ではない?)
等が挙げられていました。状況証拠のみですが、荀イクの権限が不自然に強い点は、説明しやすくなるように思います。
(PC)
4 きいち
ちょっと説明不足ですね。
つまりはそれぞれの思惑は置いて、天子を迎え入れる事で一致した袁紹配下の武将二人が謀反した、という状況ではないか、という説です。
出典は・・・古代オリエント等を研究している大学講師の方のWebページからなのですが、書いていいのかな(・・?)
一応やめておきます(^o^;
つまりはそれぞれの思惑は置いて、天子を迎え入れる事で一致した袁紹配下の武将二人が謀反した、という状況ではないか、という説です。
出典は・・・古代オリエント等を研究している大学講師の方のWebページからなのですが、書いていいのかな(・・?)
一応やめておきます(^o^;
(PC)
5 天草
ほうほう!
面白い話ですね!!
勉強になりました。
話を私が逸らしたみたいなので、もう一度スレタイの話題に戻しましょう!
自分の小説で書きましたが、袁紹と淳于瓊は五分の関係じゃなかったかな?と思ってます。
淳于瓊って結構高位の人物なんですよね?(汗)
面白い話ですね!!
勉強になりました。
話を私が逸らしたみたいなので、もう一度スレタイの話題に戻しましょう!
自分の小説で書きましたが、袁紹と淳于瓊は五分の関係じゃなかったかな?と思ってます。
淳于瓊って結構高位の人物なんですよね?(汗)
(PC)
6 赤龍
袁紹、曹操、淳于瓊は西園八校尉時代は同僚であり、同格だったと思いますが、後に袁紹の元では特別扱いを受けた形跡も無く、あくまで旗下の一将扱いと思います。袁紹の地位も大将軍と、かなり差がついてますし。
(J-SA05)
7 赤龍
荀イクの件ですが、曹操に仕え、その属官となってますし、臣下であったとみてよいと思われます。むしろ、天子擁立の後、漢の侍中・守尚書令に任じられてからが、形式的には曹操の直接の臣ではなくなったといえます。また、曹操も、袁紹の勢力下にあったものの、袁紹の臣下という訳ではないと思います。
(J-SA05)
8 きいち
淳于瓊と袁紹の力関係は、確かに大きな開きが出来てはいますが、しかし、淳于瓊と沮授は袁紹傳ではその臣下のリストに載っていません。また、以下引用
紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃・高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。
一部化けるかも・・・高覧、張コウが降伏したのは淳于瓊が敗れたため、と見られます。配下の一武将とするには少し存在感が大きいようです。
紹初聞公之擊瓊,謂長子譚曰:「就彼攻瓊等,吾攻拔其營,彼固無所歸矣!」乃使張郃・高覽攻曹洪。郃等聞瓊破,遂來降。
一部化けるかも・・・高覧、張コウが降伏したのは淳于瓊が敗れたため、と見られます。配下の一武将とするには少し存在感が大きいようです。
(PC)
9 きいち
曹操の件は、そうですね。東郡太守に袁紹が上奏しているだけで、直接の臣とはいえないですね。他のスレで、呂布、荀イクの立場の話題があったので、主従関係があったのかどうか、またこの頃の主従関係がどの程度の拘束性があったのか気になったので、ちょっと立ててみました。特に荀イクの力があまりに強く感じられるのは・・・
(PC)
10 天草
あくまでも漢の位の上位のものが推薦したと言う事でしょうから、袁紹が曹操を推薦したと言うのは、問題ないでしょうね。
確か、劉備も孫権を上奏して、官位を与えてますよね?
淳于瓊については私もきいちさんの意見の通りであって欲しいと願います。何せ、自分の小説でそれらしい言葉遣いにしてますので…(汗)
確か、劉備も孫権を上奏して、官位を与えてますよね?
淳于瓊については私もきいちさんの意見の通りであって欲しいと願います。何せ、自分の小説でそれらしい言葉遣いにしてますので…(汗)
(PC)
11 赤龍
引用文に関しては、淳于瓊の守備する烏巣が戦局を左右する要地で、張コウもその事を認識していたため(張コウ伝参照)であると理解するのが妥当でしょう。袁紹の臣下のリストというのは、公孫サン撃破後の記述でしょうか?あそこには他にも名前がでない人物はいますし、名前が無いから臣下じゃないというのは飛躍があります。正史を見る限り、袁紹の一将であり、それ以上の立場を証明できる記述は無いと思います。
(J-SA05)
13 大伴
沮授、郭図、淳于瓊の三名は、三都督として軍部の長を担った様ですから、特別とは言えそうですね。
しかしその特別が、三名が袁紹配下である事を明確に示していると思います。
しかしその特別が、三名が袁紹配下である事を明確に示していると思います。
(F2102V/FOMA)
15 しす
>エロハシ殿
後漢書、八孝霊帝紀の注によると…
「楽資の山陽公載記に曰く小黄門蹇碩を上軍校尉、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉、議郎曹操を典軍校尉、趙融を助軍左校尉、馮芳を助軍右校尉、諫議大夫夏牟を左校尉、淳於瓊を右校尉とした。およそ八校、皆蹇碩が統轄した。」 とあります。
後漢書、八孝霊帝紀の注によると…
「楽資の山陽公載記に曰く小黄門蹇碩を上軍校尉、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉、議郎曹操を典軍校尉、趙融を助軍左校尉、馮芳を助軍右校尉、諫議大夫夏牟を左校尉、淳於瓊を右校尉とした。およそ八校、皆蹇碩が統轄した。」 とあります。
(PC)
17 赤龍
ちなみに、その論文によると西園軍は六(五?)軍構造(周の「天子六軍」)。さらにその主力は上・中・下の三軍。八校尉+無上将軍で、皇帝を象徴する「九」という数字の符合。これを事実とすれば、主力の中軍校尉袁紹と、数合わせ的淳于瓊には既に格の差が?あわれ淳于瓊。
(J-SA05)
19 赤龍
残念ながら、その論文では、上・中・下主力三軍の校尉に比べ、残り五人は見劣りする、というような事が書かれてました。八校尉の人選に入るだけの名声はあったものの、ほんと「それなりの」程度の名声だったのでは?
(J-SA05)
22 ストラップ
曹操の名には、どれ位影響力があったのでしょうか?
中牟で県令に放たれるエピソードを見ると、当時から大人物と思われていた節があります。
これはそれまでの功績に因るもので、肩書きに因るものでは無いと考えるべきですか?
中牟で県令に放たれるエピソードを見ると、当時から大人物と思われていた節があります。
これはそれまでの功績に因るもので、肩書きに因るものでは無いと考えるべきですか?
(F2102V/FOMA)
23 天草
まだ後漢の影響があった時、地方のに赴任を命ぜられる事は栄転だったのか、左遷だったのか、気になるところですよね。
当時の役職や地域の重要性などの知識がないので、私は分かりませんが…。
当時の役職や地域の重要性などの知識がないので、私は分かりませんが…。
(N900i/FOMA)
24 天草
西園八校尉の面子を記した記述を発見しました☆
出展は魏書・第八・張楊伝です♪
上軍校尉・ケン磧
中軍校尉・袁紹
下軍校尉・鮑鴻
典軍校尉・曹操
助軍校尉・趙融、フウ芳
左右校尉・夏牟、淳于瓊
張楊何も関係ないじゃん(笑)
宦官のケン磧が入っているのに注目!時代を表してますよね。
出展は魏書・第八・張楊伝です♪
上軍校尉・ケン磧
中軍校尉・袁紹
下軍校尉・鮑鴻
典軍校尉・曹操
助軍校尉・趙融、フウ芳
左右校尉・夏牟、淳于瓊
張楊何も関係ないじゃん(笑)
宦官のケン磧が入っているのに注目!時代を表してますよね。
(W31SA/au)
26 赤龍
鮑鴻については、『後漢書』によると、185年辺章・韓遂の反乱の討伐に参加。董卓とともに敵軍を攻め大功をあげます(鮑鴻は名前がでるだけだが)。
その後、188年西園八校尉の一人に名を連ね、同年葛陂の黄巾賊討伐に派遣されます。
しかし、なぜか翌年三月投獄され死んでいます。罪状などは記されておらず不明。
とまあ、わずかな記述ですが、八校尉のなかでも最も実戦経験豊富な人物だったのではと思われます。
残り3人については、西園八校尉に任じられた事以外の記述が『後漢書』にも見られません。ほんとに消息不明。
その後、188年西園八校尉の一人に名を連ね、同年葛陂の黄巾賊討伐に派遣されます。
しかし、なぜか翌年三月投獄され死んでいます。罪状などは記されておらず不明。
とまあ、わずかな記述ですが、八校尉のなかでも最も実戦経験豊富な人物だったのではと思われます。
残り3人については、西園八校尉に任じられた事以外の記述が『後漢書』にも見られません。ほんとに消息不明。
(PC)
28 飛燕
鮑鴻についてはけっこう記録が残ってるんですね。実戦経験が豊富なら八校尉の中でも序列が高いことに納得できます。しかし、彼は一体何をやらかしたんでしょうね?
他の人物はホントに消息不明なんですか…そのまま漢朝に仕え続けてたのでしょうか?だとしたら、淳ウケイだけ裏切り?
他の人物はホントに消息不明なんですか…そのまま漢朝に仕え続けてたのでしょうか?だとしたら、淳ウケイだけ裏切り?
(F900iC/FOMA)