1 蛮犬

司馬懿について

間違いなく魏の牽引車だった彼。しかし何故三国志に伝が立っていないのでしょう?私は249年のクーデタが関係していると思いますが、あれは曹爽にも非があるし…。みなさんのご意見お聞かせ下さい。
(W21S/au)
2 大伴
とりあえず、参照スレッドの一つとして>>>85を挙げておきますね。


そう言えば伝は編まれていませんねぇ……

私はまるで得意分野では無いので、愉しみに議論を聞きますね(笑)
(F2102V/FOMA)
3 赤龍
実は明快な理由で、司馬懿は晋の宣帝(司馬炎即位時に帝位を追贈)であり、晋の事実上の創業者的存在。『晋書』に宣帝紀として本紀が立てられるべき人物。なので、魏書に魏の臣としては伝が立てられてません。曹操が実際は後漢時代の人なのに『後漢書』に立伝されないのと同じことです。
(J-SA05)
4 赤龍
特に『三国志』が書かれたのは晋代。司馬懿も名で表記されることなく、宣帝、宣王と書かれています。魏臣として司馬懿伝などたてるわけにはいきません。
(J-SA05)
5 蛮犬
赤龍さん>た、確かに。曹操は皇帝の位についてないのに三国志に『武帝紀』として立てられてますね…。ご回答ありがとうございました。ついでにまた質問です。中国史上「ある王朝の臣」と「次の王朝の事実上の建国者」であった人物が2ヶ国の正史に伝が立てられていることはないと言っていいんでしょうか。
(W21S/au)
6 赤龍
どうなんでしょう?さすがに全部確認したことないんで私はわかんないです。編纂方針はそれぞれ違うでしょうし。だれか歴代正史の目次とか確認できる方お願いします。
(J-SA05)
7 ユウキ
問題が解決してしまったようなので…司馬懿は曹操の執拗な要請によって曹操に仕えた感があります。また司馬懿の目立った活躍は曹丕の代からだと思います。クーデターを起こしましたがいつ頃から狙っていたのでしょうか?張コウ暗殺説なんかもありましたよね(笑
(P900i/FOMA)
8 蛮犬
まさかそんなことまで(あんぐり) (゜。゜)できるだけ早く読んで確認します。有り得ないこともないですな。私が司馬懿に気持ち悪さ、薄気味悪さを覚えたのは〔曹爽伝〕を読んでからでした。
(W21S/au)
9 李克用
>>5
正史読んだことないので、あれなんですけども、私がそれにあたると思います。……李克用のことね。たぶん、唐書(唐書って正史だっけ?汗)と五代史に伝があると思うんですが、間違っていたらすいません(;^_^A
(P900i/FOMA)
10 蛮犬
手持ちの三省堂『全訳 漢辞海』の書名解説をひくと、唐書は正史、とありました。参考までに書いておきます。@後晋の劉クらの編。200巻。A北宋の欧陽脩らの編。225巻。古文での記述。Aは@の不備を補う目的で編まれ、A成立後、@を『旧唐書(くとうじょ)』、Aを『新唐書』と呼ぶようになった。共にニ十四史の一つ。…私も彼については何も知らないんです…。悪しからず。
(W21S/au)
11 李克用
>>10
スレとは完全に外れますが、李克用については中国史博物館に書いてますよ。
それと、調べましたがどうやら新・旧五代史には載ってませんでした(旧唐書に伝がある)。
李克用は、唐の将軍であり事実上の後唐の建国者ですから、当てはまると思ったんですが…勘違いでした。すいません(;^_^A
(P900i/FOMA)
12 蛮犬
書かれてたのに見逃していたとは、こちらこそ失礼しました。
(W21S/au)
13 天草
司馬懿は皆さんにとって、悪役ですか?それとも英雄ですか?またその理由は?
(PC)
14 蛮犬
そうですね、悪役だとは思いませんね。長いので省略しますが、曹爽伝の「またこっそりと、先帝の才人(女官)のうちから七、八人を奪い…」のくだりで、これでは足をとられても仕方ないのでは…。いつから司馬懿はクーデタを企んでいたかはわかりませんが、曹氏のこういった綻びに付け入ろうとしていたのではないでしょうか。何れにせよ曹爽一派は誰かに叩かれる運命にあったと思うのですが。政治の腐敗を断ち切ったという点で、彼は英雄だと思います。また話は変わるのですが、張当の、曹爽がクーデタを起こそうとしていた、という陳述は本当なのか疑いたくなります。
(W21S/au)
15 しす
私も悪役だとは思いませんね。
演義でも一時的にではあるけど主役級のエピソードがあるわけですし。
ただ好きか嫌いかと聞かれると微妙。
なんか完璧すぎてあまり人間味を感じないんですよね。

でも横山三国志の臨終の時の台詞はすごい好きです。
「諸葛孔明…なんと素晴らしい男であっただろうか。あの世ではゆっくり教えをこいたい」
やりすぎ演出という声もあるが、カッコイイと思う。
(PC)
16 赤龍
私も、司馬懿高く評価はするものの、好きにはなれません。なんか陰険なイメージが強くて。後に東晋の明帝は、宰相の王導から司馬氏が天下を取った過程を聞き、ショックを受けたとか、五胡十六国の石ロクが司馬懿親子を「孤児や寡婦を欺き、狐のように人を誑かして天下を取る」と軽蔑する等、当時からイメージ悪いようです。
(J-SA05)
17 天草
司馬懿は生前に皇帝に登ってないんでしたっけ?

あれ?司馬懿が曹爽一派を一掃し、朝廷の全権を掌握した時は誰が魏の皇帝だったんでしたっけ?

何だか混乱してきました。。。
(PC)
18 しす
>天草殿
景初三年(239年)曹叡没。
曹芳即位。
嘉平元年(249年)司馬懿、曹爽を討つ。
嘉平三年(251年)司馬懿没。
正元元年(254年)司馬師、曹芳を廃し、曹髦擁立。

というわけで曹爽が討たれた時は曹芳ですね…って前置き長いか(汗)

ところで「曹爽」と入力する時「爽やか」と入力して違和感を感じるのわしだけでせうか?
(PC)
19 関羽
曹爽で合ってますよ
(W11H/au)
20 しす
>関羽殿
そーいう意味ではないのだが(汗)

ところで欠点らしい欠点もなく、なんとなく人間味に欠けるような司馬懿ですが、詩作だけはダメだったと本で読んだことあります。
素人目にも稚拙だったということですが、どなたか詳しくご存知ないですか?
(PC)
21 天草
確かにその噂は耳にしたことありますね。

そういえば、諸葛亮の作品も残ってないし、意外とこの二人は文学的能力が低かったのかな?
(PC)
22
司馬イはおいといて

諸葛亮の場合は、さほど文学に力を入れる意味がなかったのでは?
文学が国に重要だと言ったのは曹ヒですし魏以外での文学はさほど意味をなさなかったのではと

ただ、出師の表は何故か漢詩の本に載ってたりしますよね

私見ですが、司馬イ自体は、極力失敗のないようにという点に重きをおいたのだと思います。
だから、苦手な事は極力やらなかった、しかし、君主が文学を前面に出してきた…苦手だけどやらないとしかたないな

的な事を考えたりします
(F900i/FOMA)
23 赤龍
蜀、呉では文学が重要では無い、というよりも、大国魏のように文学を奨励する余裕が無かったのでは、と思います。特に蜀は史官さえ置かれなかった国ですから。
(J-SA05)
24 天草
しかし、司馬懿ってやっぱり人気ないですね(汗)

曹操が好きな人が多いからなのかな?

子供も優秀ですが、奥さんはどんな女性だったんでしょうか?
(PC)
25 蛮犬
私にとって司馬懿は晋の建国者としてのポジな印象ではなく、政権・国家簒奪者としてのネガな印象が強いのですが。そういえば彼の奥さんについての話をききませんねぇ…。息子の昭の奥さんは王粛の娘で、司馬炎を生んだそうです。
(W21S/au)
26 天草
実際は曹爽を討ってから二年後に死亡ですし、政権を握ったのも、帝位に就いたのも彼じゃないから、イメージなんでしょうね。

では、彼は優秀な政治家なんでしょうか?それとも優秀な軍略家?
(PC)
27
軍略家としては、やはり遼東討伐として公孫淵を討ったことは、評価されるのでは?
さらに、これに乗り朝鮮半島まで勢力を伸ばせた事は政治家としても評価出来るかと
(F900i/FOMA)
28 天草
まぁ最前線で戦ってたわけですから、やはり優秀な軍略家でもあるんでしょうね。
当時の人々はやはり司馬懿のクーデターを喜んだんでしょうか?
(PC)
29
どうでしょう政権が安定しないということは、あまり、民衆にとってよい事はないように思いますよ

たぶん、一般人にすれば司馬イのクーデター自体も直接政権が変わったわけではないのでたいした変化はなかったのでは?と思いますよ
(F900i/FOMA)
30 赤龍
直接司馬懿のクーデターを指すわけではないですが、孫晧伝中の張悌の言に、残虐、煩雑な曹氏から民心が離れて久しく、司馬懿親子が実権を握って、恩恵を広げ、民衆を苦しみから救った。そのため民衆は久しく司馬氏に心を寄せた。というものがあります。曹氏から司馬氏への人心の移行が語られています。
(J-SA05)
31 天草
それだけ曹爽の横暴が酷かったということなんでしょうね。

司馬懿の息子・孫には優れた人物が多かったみたいですが、父親・先祖はどうだったのでしょうか?
誰かご存知の方はいますか?
(PC)
32 蛮犬
祖父の司馬雋(字元異)も父の司馬防(字建公)も官吏だったようです。また防との親子関係は厳格だったと、司馬朗伝の注には記されています。
(W21S/au)
33 赤龍
曹操を洛陽北部尉に推挙したのは司馬防のようです。曹操と司馬氏、かなり早くから密接な関係だったかもしれません。司馬防、結構長生きしたようで、曹操魏王就任の時に呼び出されてます。
(J-SA05)
34 あきっと
みなさん初めましてm(__)m
いつも見ているだけなのですがみなさんの博学ぶりには関心していますほんとにお詳しい
そこでお願いなのですが…ただいま三国志で司馬師をプレイしております日記を書いているのですが、リアリティを出すために、司馬一族の系譜を教えていただきたいのですがm(__)mぜひお願いします
(P2102V/FOMA)
35 大伴
>>34
その質問は、>>>85の方が良かったかも知れませんね(事情により回答は詳しい方に譲ります)。
まぁ何はともあれ、あきっとさん以後も宜しく。
(D505iS)
36 蛮犬
あきっと殿>はじめまして。宜しくお願いします。
私めのスレにご投稿いただきありがとうございます。私、浅学の身ですが重ねて宜しくお願いします。(こんなことは交流板ですべきかな)
(W21S/au)
37 天草
あきっと殿>初めまして!一応チャレンジしてみますが、ここの携帯表示では表現しづらいので、かなり略したもので失礼します。

司馬防―司馬朗
    司馬懿
    司馬孚
    司馬馗
    司馬恂
    司馬進
    司馬通
    司馬敏

司馬懿―司馬師
    司馬昭―司馬炎
    司馬幹
    司馬亮
    司馬[イ由]
    司馬京
    司馬駿
    司馬[月彡]
    司馬倫

分かりづらくてすいません。かなり略してますが、ゲームに出てきそうなのはこれくらいかな?
(PC)
38 あきっと
ありがとうございますm(__)m
司馬孚の息子が望ですね?
攸が炎の弟で司馬師の養子になったと違うトコに書いてました♪ありがとうございますm(__)m
(P2102V/FOMA)
39 天草
司馬防という彼の父親はどんな人物だったのでしょうか?

どなたか情報をお持ちの方はいますか?
(PC)
40 天草
司馬懿スレはここでいいかな?

望蜀の故事を取り上げます。
215年曹操が漢中を支配した際、司馬懿はいまこそ蜀へ進軍すべきだと進言しますが、曹操はこれを一蹴しました。

曹操の撤退の本当の狙いは何だったのでしょうか?
また司馬懿の進言通り、進軍した場合、どちらに分があったのでしょうか?
(PC)
41 珠樹
司馬懿作と伝えられる詩は一首だけ残っています。遼東遠征の帰り、故郷で開かれた祝宴の席で詠んだとか。
原文を忘れてしまって申し訳ないのですが、大意としては戦勝を喜び、自身の栄誉を思い、めでたい結果を都へ報告に行こう、といった内容。
いかにも即興で作ったらしい詩で、押韻を除けば普通の文に近い。このあたり、司馬懿は技芸に嗜みがないと言われるのでしょう。

一方の諸葛亮は、陳寿の編纂による『諸葛亮集』の存在したことが、ハイ松之注に書かれています。今は散逸していますが、どうやら彼の文を集めたものだったよう。
諸葛亮も知識人階級ですから、詩や文は当然作れたはず。
文以外は書く機会がなかった、とのご意見はもっともだと思います。

蜀はともかく、賦や楚辞を作り出した呉越に文芸が見られなかったのはなぜか。
これは、秦漢以来、文化が全て都のある中原で発生したから、につきるでしょう(何よりも言語が違います)。
ですから、都して間もない建業には文芸が生まれなかった。半世紀後に陸機が出ますが、これは洛陽で培われたのかもしれません。

逆に、江南に漢人の都がおかれた南北朝では宮体詩や四六文が生まれたことを、蛇足とさせて頂きます。
(F902i/FOMA)
42 巫俊(ふしゅん)
>>41
楚辞を作り出した呉越ってところが気になっちゃうんですが、楚辞を作り出したのは呉越ではないのでは?
でも楚辞をつくったのを呉越という言葉で表現するのは江南の歴史としてそれはそれで面白いんでどんな意味でその言葉を使われているのかな、とまあ蛇足でした。
(PC)
43 うさぎ
皆様お馴染みでしょうが、司馬懿の奥様、張春華についてのエピソードを。

司馬懿が曹操のスカウトを数回断っていた時理由は仮病だった。

ある日天気が良いのでのんびりし書物の虫干ししていた司馬懿、いきなりにわか雨に降られ仮病中という自分の立場も忘れ『高価な書物が濡れてしまう!』と大慌てでダッシュして無事書物を取り込んだ。

ところがそれを司馬家のたった一人の使用人が目撃。まさに家政婦は見た!状態。

それに気付いた張春華、とっさの判断で使用人を殺害。家政婦殺害事件を聞いた司馬懿、以来恐妻家になり、たった一人の使用人がいなくなり家事を一手に引き受けた妻に頭があがらなかったという…ちなみにこのエピソードは唐以前には見られないので唐代にできた創作だろうというお話です。

司馬懿と張春華はたしか8つだか9つ差の夫婦だったと思います。

幼妻のぎこちないフロンティアスピリット溢れる料理を頑張って食べる司馬懿を想像しました。
(SH702iD/FOMA)
44 うさぎ
使用人殺害の動機は『仮病が外部にばれるのを防ぐ』口封じです。

あと親子仲良くハンガーストライキ事件もあります。

司馬師、昭…男は誰もがマザコンという言葉を思い出しました。
(SH702iD/FOMA)
45 巫俊(ふしゅん)
PCじゃないと開かないかもしれませんが、
http://wiki.spc.gr.jp/sangokumakki/
ここなどは、司馬氏を語れるサイトかもしれないと、巫俊も参加しようかなと思っています。
(PC)
46 容堂
はじめまして!

いつも皆様の詳しい議論を読ませていただいてます。大変勉強になり、同時面白いです。


そして質問なのですが、司馬いクーデターの意志はあったのでしょうかなかったのでしょうか?
別の三国志関連のサイトでは頑なになかったと否定していたので気になりました。
私個人の意見としては多かれ少なかれあったのではないかと思いますし、クーデターをしたのも司馬いの魅力ではないかと捉えています。
(SH704i/FOMA)
47 朱家
>>46
もの凄い亀レスですが、はじめまして。

曹爽を中枢から排除(権力移動)したいと思うのは、司馬懿だけではないです。
権力掌握や皇帝への野心にしても、誰であれ、人間ですから(ある意味欲)ゼロではないし、反抗心もゼロという事はないですね。
おそらくは「病と称して引っ込むまで、具体的に計画してない」という意味を、「クーデターの意思がない」と表現したのだと思いますよ。
まあ、功績が大きくなると、身に危険が及びますので、曹叡の晩年には、それに対する準備や、状況によっては変事に動こうとする意思はあったと思いますが、明確な区別はできないですね。


関係ないけど『晋書』平原王(司馬幹)「……永嘉五年薨、時年八十」ん?張春華44才の子供じゃん、なんと丈夫な人だこと…まあ、驚いたのは高齢出産ではなく、かわいい妾が…(笑)
(PC)
48 しす
くだらない話で恐縮なんですが、首が半回転する彼の「狼顧の相」って、そんなフクロウみたいな人って実際に居たりするもんなんですかね?
彼の場合は話半分としても、実際にそんな人がいるのか?と疑問に思いました。
(912T/SB)