2 天草
先ずは大伴さんの『荀イク無能説』をコピペしておきます。
(武帝紀より)
建安三年、曹操は張繍と劉表の攻撃を受け、退却。先ずは安衆を目指しました。この時苟イクに
「一日に数里を行軍するだけだが、(中略)安衆に到着すればまちがいなく張繍を破る」
とメールします。これは曹操が安衆を戦場に設定したという事(計画的後退)と、勝算が高いと判断した事を現すだけで無く、曹操の軍が遅滞行動(敵の追撃を遅らせながら、戦力を維持する事)を伴いながら後退している事がわかります。遅滞行動が大変に難しい事は承知のとおりです。
又、張繍軍の追撃は、平行追撃(相手の退却路に平行する道を利用した追撃)では無く、正面追撃であった事も推測できます。
次に安衆では、先ず最初に輜重を先に全部通していますが、これには二つの理由が考えられると思います。
・足の遅い部隊を先に通し、前線部隊の離脱速度を最大限に発揮させる為。
・必要に応じて退路上に補給物資を積み、交付できる様にする為。
そして主力が夜に撤退している事も忘れてはいけません。
「奇襲の軍を伏せておいた。ちょうど夜があけた」
と続いています。後退はそれを悟られない様に、悪天候や夜間を利用し、その兆候を秘匿するのは、レーダーが発達した現代でさえ常識です。
(武帝紀より)
建安三年、曹操は張繍と劉表の攻撃を受け、退却。先ずは安衆を目指しました。この時苟イクに
「一日に数里を行軍するだけだが、(中略)安衆に到着すればまちがいなく張繍を破る」
とメールします。これは曹操が安衆を戦場に設定したという事(計画的後退)と、勝算が高いと判断した事を現すだけで無く、曹操の軍が遅滞行動(敵の追撃を遅らせながら、戦力を維持する事)を伴いながら後退している事がわかります。遅滞行動が大変に難しい事は承知のとおりです。
又、張繍軍の追撃は、平行追撃(相手の退却路に平行する道を利用した追撃)では無く、正面追撃であった事も推測できます。
次に安衆では、先ず最初に輜重を先に全部通していますが、これには二つの理由が考えられると思います。
・足の遅い部隊を先に通し、前線部隊の離脱速度を最大限に発揮させる為。
・必要に応じて退路上に補給物資を積み、交付できる様にする為。
そして主力が夜に撤退している事も忘れてはいけません。
「奇襲の軍を伏せておいた。ちょうど夜があけた」
と続いています。後退はそれを悟られない様に、悪天候や夜間を利用し、その兆候を秘匿するのは、レーダーが発達した現代でさえ常識です。
(PC)
3 天草
(続き)この後、曹操自ら精鋭で組織した残遅部隊を率い、収容部隊に奇襲をさせつつ、逆襲に成功します。
後に苟イクは何故勝ちを予測したのは何故か、と曹操に問います。しかし思い出して下さい。
@曹操が戦力を温存していた事。
A敵が何らかの理由で平行追撃(迂回)が出来なかった事。
B(Aより)戦線が直線化し、前線が僅かになる事
C安衆への計画的後退だった事。
少なくともこれだけの情報を苟イクは得ています。しかも曹操は逆襲のセオリーどおりに動いています。曹操の危惧すべきは、残遅部隊のモラールだけなのですが、それもCから考えれば通常の後退とは事情を異にします。
つまりこれだけ後退の上手な人が「勝つぞ」という訳ですから、逆襲に適した地形でモラールが維持できている事は想像つく筈なのです。
これを想像出来ないという事が、苟イクが軍事の素人だという事を現していると思います。
後に苟イクは何故勝ちを予測したのは何故か、と曹操に問います。しかし思い出して下さい。
@曹操が戦力を温存していた事。
A敵が何らかの理由で平行追撃(迂回)が出来なかった事。
B(Aより)戦線が直線化し、前線が僅かになる事
C安衆への計画的後退だった事。
少なくともこれだけの情報を苟イクは得ています。しかも曹操は逆襲のセオリーどおりに動いています。曹操の危惧すべきは、残遅部隊のモラールだけなのですが、それもCから考えれば通常の後退とは事情を異にします。
つまりこれだけ後退の上手な人が「勝つぞ」という訳ですから、逆襲に適した地形でモラールが維持できている事は想像つく筈なのです。
これを想像出来ないという事が、苟イクが軍事の素人だという事を現していると思います。
(PC)
4 天草
(続き)次にスレッドタイトルの賈クですが、
(賈ク伝より)
曹操の意図に気付き、張繍に追撃を止める様に進言しますが、張繍は聞き入れず、追撃を開始します。
しかし逆襲された後に賈クは、もう一度追撃する事を進言しました。
一度の勝利に気を許していた為に、曹操の軍は大打撃を受けます。
しかし恐らくは張繍側の問題(一度逆襲された為に恐怖感があり追撃を躊躇したか、元々敗残兵であった為に徹底した追撃の為の体力や資材が無かったか)により、決定的な打撃は与えられませんでした(無論、天候、地形、時間帯といった問題や、曹操軍のモラールの回復という理由から断念したかも知れない)。
以上の理由から私は、
賈ク>曹操>苟イク
と戦術家としての序列を付けるものです。
(賈ク伝より)
曹操の意図に気付き、張繍に追撃を止める様に進言しますが、張繍は聞き入れず、追撃を開始します。
しかし逆襲された後に賈クは、もう一度追撃する事を進言しました。
一度の勝利に気を許していた為に、曹操の軍は大打撃を受けます。
しかし恐らくは張繍側の問題(一度逆襲された為に恐怖感があり追撃を躊躇したか、元々敗残兵であった為に徹底した追撃の為の体力や資材が無かったか)により、決定的な打撃は与えられませんでした(無論、天候、地形、時間帯といった問題や、曹操軍のモラールの回復という理由から断念したかも知れない)。
以上の理由から私は、
賈ク>曹操>苟イク
と戦術家としての序列を付けるものです。
(PC)
5 大伴
もう少し資料を集めてから、と思っていたのですがまぁはじまったものは仕方がないですね(汗)
ちなみち上記の訂正が>>>15-22、概要が>>>15-17です。これは苟イクの軍事的無知を現すエピソードと言えるでしょう。他にも探してみます。彼は軍事に関する助言は行っていますが、私の識る限り具体的なものは無く、「今攻めろ」の様な政治的レベル、戦略レベルの事ばかりです。
>>>28-36
このエピソードでは、棗祗が効果的な屯田の方法を提案しているのですが、苟イクはその良し悪しが全く判断がつかず、迷っています。
参考に>>>19-12もあげておきます。確かに後の反論にある様に過度な言い方かも知れませんが、真実を全く含まない出鱈目では無いと思います。
私は次の様に想像します。
曹操が苟イクを重用したのは彼個人の能力を評価しての事では無く、苟氏一門の持つ声望なのでは無いかと思います。それは(宦官の孫である為に曹操を嫌う)名士と呼ばれる人を集めるのに役立ちましたし、彼は頴川に人脈を持っていて、それを推挙できましたから。曹操にとっては、名族の持つ影響力を手に入れたという事こそが大事だったのだと考えます。
ちなみち上記の訂正が>>>15-22、概要が>>>15-17です。これは苟イクの軍事的無知を現すエピソードと言えるでしょう。他にも探してみます。彼は軍事に関する助言は行っていますが、私の識る限り具体的なものは無く、「今攻めろ」の様な政治的レベル、戦略レベルの事ばかりです。
>>>28-36
このエピソードでは、棗祗が効果的な屯田の方法を提案しているのですが、苟イクはその良し悪しが全く判断がつかず、迷っています。
参考に>>>19-12もあげておきます。確かに後の反論にある様に過度な言い方かも知れませんが、真実を全く含まない出鱈目では無いと思います。
私は次の様に想像します。
曹操が苟イクを重用したのは彼個人の能力を評価しての事では無く、苟氏一門の持つ声望なのでは無いかと思います。それは(宦官の孫である為に曹操を嫌う)名士と呼ばれる人を集めるのに役立ちましたし、彼は頴川に人脈を持っていて、それを推挙できましたから。曹操にとっては、名族の持つ影響力を手に入れたという事こそが大事だったのだと考えます。
(F2102V/FOMA)
6 大伴
>>>28-38
に、苟イクが軍事行動に初期を除けば関わっていない事を書きました。これは無能だったからでは無いでしょうか?曹操が前線に立ち続けた事も、ここに合わせて書いておきます。
>>>13-49
こちらは官渡の戦いで、苟イクが勝ちを確信している事をあげています。あの圧倒的劣勢の中、勝ちを確信している事自体が無能を表現していると思います。
尚、郭嘉なども同様の発言をしていますが、それは飽くまで曹操に向けられたものであって、気持ち良く開戦に踏み切らせる為のものだという要素を忘れてはならないでしょう。
に、苟イクが軍事行動に初期を除けば関わっていない事を書きました。これは無能だったからでは無いでしょうか?曹操が前線に立ち続けた事も、ここに合わせて書いておきます。
>>>13-49
こちらは官渡の戦いで、苟イクが勝ちを確信している事をあげています。あの圧倒的劣勢の中、勝ちを確信している事自体が無能を表現していると思います。
尚、郭嘉なども同様の発言をしていますが、それは飽くまで曹操に向けられたものであって、気持ち良く開戦に踏み切らせる為のものだという要素を忘れてはならないでしょう。
(F2102V/FOMA)
8 C
果たして無能な人物に自分の留守をまかせるでしょうか?
秦の王センを例に挙げると、彼は大軍を預かるにあたり始皇帝の信頼を得るためになんども褒美の話しをしています。
官渡では、曹操軍が率いたのはたしかに四万程度ですが、許昌には三十万を青州兵がいたわけです。これは、信頼できない無能な人間にまかせれる数ではないと思います。それに、官渡という局地において曹操軍がふりであっただけでそれほど全体として不利ではなかったのではないかと思います
軍事において局地的な臨機応変に欠けた点はあるでしょうが軍事面の功績など表面のみで無能の断定するのは短絡的かと思います。
秦の王センを例に挙げると、彼は大軍を預かるにあたり始皇帝の信頼を得るためになんども褒美の話しをしています。
官渡では、曹操軍が率いたのはたしかに四万程度ですが、許昌には三十万を青州兵がいたわけです。これは、信頼できない無能な人間にまかせれる数ではないと思います。それに、官渡という局地において曹操軍がふりであっただけでそれほど全体として不利ではなかったのではないかと思います
軍事において局地的な臨機応変に欠けた点はあるでしょうが軍事面の功績など表面のみで無能の断定するのは短絡的かと思います。
(F900i/FOMA)
9 大伴
官渡での戦闘についての考察は>>>13に譲るとして、
留守≒有能
とするのは如何でしょう。
例えば徐州への遠征の際は、夏侯惇、程イク、陳宮といった有能な人を残していますし、苟イク一人にその責任を担わせた訳ではありませんよね?ならば、苟イクが有能である必要も薄いのでは無いでしょうか。
曹操としては、重用している振りをして、彼のその一門の名前を利用した、とは考えられませんか?
官渡での戦力差に関しては、裴松之自身も懐疑的ですね。しかしそれは誇張されているだけで、曹操側の不利は変わらぬと思います。又、局地的な不利であっても、一点が破られれば、集中展開を許したでしょう。こちらについてはは>>>13で(笑)
留守≒有能
とするのは如何でしょう。
例えば徐州への遠征の際は、夏侯惇、程イク、陳宮といった有能な人を残していますし、苟イク一人にその責任を担わせた訳ではありませんよね?ならば、苟イクが有能である必要も薄いのでは無いでしょうか。
曹操としては、重用している振りをして、彼のその一門の名前を利用した、とは考えられませんか?
官渡での戦力差に関しては、裴松之自身も懐疑的ですね。しかしそれは誇張されているだけで、曹操側の不利は変わらぬと思います。又、局地的な不利であっても、一点が破られれば、集中展開を許したでしょう。こちらについてはは>>>13で(笑)
(F2102V/FOMA)
10 C
無能以外が有能とは言っていません、そういう意味です
はたしてエンショウ四十万で遠征して青州兵を撃破するのは簡単だったんでしょうかね。
曹操の信頼を得るのは、そんなに簡単だったんでしょうか
私は、ジュンイクの言葉を直球として受け止めてよいものかと思います
はたしてエンショウ四十万で遠征して青州兵を撃破するのは簡単だったんでしょうかね。
曹操の信頼を得るのは、そんなに簡単だったんでしょうか
私は、ジュンイクの言葉を直球として受け止めてよいものかと思います
(F900i/FOMA)
11 大伴
なるほど。
Cさんが言われるのは、
「有能か否かは別として、無能という程では無かったのではないか?」
という事ですね?
確かに
¬有能≠無能
ですね。では、私も主張を一歩譲り、
「苟イクは定説程は有能では無い」
と改めましょう。
如何でしょうか?
Cさんが言われるのは、
「有能か否かは別として、無能という程では無かったのではないか?」
という事ですね?
確かに
¬有能≠無能
ですね。では、私も主張を一歩譲り、
「苟イクは定説程は有能では無い」
と改めましょう。
如何でしょうか?
(F2102V/FOMA)
14 大伴
私は苟イクが万能では無い事を示し、有能では無い側に引っ張りたいと思います(大目標)。
万能では無い事を示す為に、私は彼の軍事的才能の欠如を示したいと思います(中目標)。
軍事的才能の欠如を示す為に私は先ず、戦術眼の欠落、軍政家としての不適を指摘していきたいと考えます(小目標)。
主としてこのスレッドでは、
>>>72-17
>>>72-18
>>>72-19
>>>72-20
>>>72-21
>>>72-22
の内容を引き継ぎ、合わせて
>>>35-36
の話題にも触れていきましょう。苟イクの軍政家としての不適を表すエピソードです。
参照スレッドとしては
>>>13
にて、苟イクが官渡の戦いでどの様な発言、行動をしたかを議論したいと思います。
万能では無い事を示す為に、私は彼の軍事的才能の欠如を示したいと思います(中目標)。
軍事的才能の欠如を示す為に私は先ず、戦術眼の欠落、軍政家としての不適を指摘していきたいと考えます(小目標)。
主としてこのスレッドでは、
>>>72-17
>>>72-18
>>>72-19
>>>72-20
>>>72-21
>>>72-22
の内容を引き継ぎ、合わせて
>>>35-36
の話題にも触れていきましょう。苟イクの軍政家としての不適を表すエピソードです。
参照スレッドとしては
>>>13
にて、苟イクが官渡の戦いでどの様な発言、行動をしたかを議論したいと思います。
(F2102V/FOMA)
17 漢森
折角、面白そうなお題が出たのにこのまま沈めるのはもったいないので
まず建安三年の張繍戦ですが、これは大伴サンのご指摘では、セオリー通りの撤退を行ない、カクに見破られていたにも関わらず、張繍がその進言を聞き入れず自滅したのが勝因となってますね、果たして曹操は張繍がカクの進言を聞き入れない事迄予測してたのでしょうか?ここではたまたま勝ちを拾った曹操ですが、敵の値踏みの甘さは拭えません、その点、人物推挙で鳴らした荀イクには、カクの能力も折り込みで不思議な勝ちに見えたのではないでしょうか
まず建安三年の張繍戦ですが、これは大伴サンのご指摘では、セオリー通りの撤退を行ない、カクに見破られていたにも関わらず、張繍がその進言を聞き入れず自滅したのが勝因となってますね、果たして曹操は張繍がカクの進言を聞き入れない事迄予測してたのでしょうか?ここではたまたま勝ちを拾った曹操ですが、敵の値踏みの甘さは拭えません、その点、人物推挙で鳴らした荀イクには、カクの能力も折り込みで不思議な勝ちに見えたのではないでしょうか
(P900i/FOMA)
18 漢森
次に官渡の開戦前の言動ですが、既に曹‐荀の間では開戦の意志は決まっていて反対派を押さえる為のアジ演説だったのではないでしょうか?
よく曹の寡兵が袁の大軍を破ったといいますが直前に吸収した青州兵が数に入ってません、これを合わせると充分袁の大軍とも対抗できますし、何より開戦を回避する様な外交政策が取られた形跡がありません
つまりは、端からやる気マンマンの曹操が慎重派を押さえる為のもので、『数でも負けていない』の前提を端折った上での勝利要因の上積みと読み解くべきではないでしょうか?
それと荀イクの的確過ぎる予言ですが、袁紹の許に李通以外の家臣から内通の手紙があったが曹操はそれを見ずに全て焼き捨てたと云うエピソードがありますが、この逆もあったのでは?
この場合曹操に取り成してくれるのは名士の荀イクと云う認識が袁紹側にあり、荀イクに情報が集まっていたとしたら、予言は可能ですよね
敵からも曹操より荀イクの人望の方が支持された事の証明になりませんか?
よく曹の寡兵が袁の大軍を破ったといいますが直前に吸収した青州兵が数に入ってません、これを合わせると充分袁の大軍とも対抗できますし、何より開戦を回避する様な外交政策が取られた形跡がありません
つまりは、端からやる気マンマンの曹操が慎重派を押さえる為のもので、『数でも負けていない』の前提を端折った上での勝利要因の上積みと読み解くべきではないでしょうか?
それと荀イクの的確過ぎる予言ですが、袁紹の許に李通以外の家臣から内通の手紙があったが曹操はそれを見ずに全て焼き捨てたと云うエピソードがありますが、この逆もあったのでは?
この場合曹操に取り成してくれるのは名士の荀イクと云う認識が袁紹側にあり、荀イクに情報が集まっていたとしたら、予言は可能ですよね
敵からも曹操より荀イクの人望の方が支持された事の証明になりませんか?
(P900i/FOMA)
19 漢森
最後に、棗VS侯の討論で負け組の侯声を支持した不明をなじっておられますが、屯田制と云っても画期的なシステムではなく、以前からあった荘園規模の事業を国家規模に拡大しただけのもので、討論の内容も農学的な問題ではなかったのでは?ここではむしろ、そういった専門分野においても一家言あった荀イクの万能をたたえるべきではないでしょうか
後に屯田の管理を司馬一族が独占し、晋建国の礎にした事実を踏まえれば、荀イクの推す侯声の方が長い目で見ればよかったのかも
ま、もしそこまでの先見があったら神ですがね
後に屯田の管理を司馬一族が独占し、晋建国の礎にした事実を踏まえれば、荀イクの推す侯声の方が長い目で見ればよかったのかも
ま、もしそこまでの先見があったら神ですがね
(P900i/FOMA)
20 大伴
>>17は面白いですね。賈クの有能を見抜いていた為に曹操に尋ねた。得意げに話す曹操が、実に間抜けな役です(笑)
しかし賈クは攻撃の中止を進言していますし、張繍がそれを聞き入れたなら、損害無く撤退できただけでは?
ならば漠然と「賈クは恐い」と考えているだけで、やはり軍事な見地に因った発言とは言えなくなりますね。
>>18
扇動とみる人が多い様ですね。それが正しいかも知れません。
しかし私には、軍事的な内容(軍略という意味ではありません)に及ばない苟イクの言葉が、説得力に欠く気がします。
しかし、曹操軍が自軍の兵員を少なく主張していたというのはやはり面白いと感じます。それが前提にあり、孔融はそれを知らなかった。説得力に欠く扇動は、内情が秘匿事項であったから。これは検証の勝ちがあるかも知れませんね。
予言が諜報活動の成果であったというのはありそうですが、それでもこの時許攸の裏切りまで必ずと言い切るのはやはり解せません。
>>19
屯田の管理を独占する者が現れる事で、地位を奪われる事を恐れた。
流石にこの様な事を考える様な時期では未だ無いと思いますよ。
しかし賈クは攻撃の中止を進言していますし、張繍がそれを聞き入れたなら、損害無く撤退できただけでは?
ならば漠然と「賈クは恐い」と考えているだけで、やはり軍事な見地に因った発言とは言えなくなりますね。
>>18
扇動とみる人が多い様ですね。それが正しいかも知れません。
しかし私には、軍事的な内容(軍略という意味ではありません)に及ばない苟イクの言葉が、説得力に欠く気がします。
しかし、曹操軍が自軍の兵員を少なく主張していたというのはやはり面白いと感じます。それが前提にあり、孔融はそれを知らなかった。説得力に欠く扇動は、内情が秘匿事項であったから。これは検証の勝ちがあるかも知れませんね。
予言が諜報活動の成果であったというのはありそうですが、それでもこの時許攸の裏切りまで必ずと言い切るのはやはり解せません。
>>19
屯田の管理を独占する者が現れる事で、地位を奪われる事を恐れた。
流石にこの様な事を考える様な時期では未だ無いと思いますよ。
(F2102V/FOMA)
23 漢森
私としては名士中の名士たる荀イクが軍事なんぞの汚れ仕事に言及しないのは当然と思っていましたが、荀イクが諜報活動の統括をしていた、と云うのは面白い仮定ですね
もしそうなら軍事、軍略に関して求められる答えはおのずと違ってくる訳だし、その成果と過程は表には出さないですよね
もしそうなら軍事、軍略に関して求められる答えはおのずと違ってくる訳だし、その成果と過程は表には出さないですよね
(P900i/FOMA)
24 赤龍
許攸の件、私も同じことを考えもしましたが、結局は証明が不可能で、小説的には面白い意見で終ってしまいますね。仮にそうだったとしても、この時点でそんな機密をみんなにしゃべっちゃうのは軽率すぎるというもの、と大伴さんの反論材料も増えちゃうしとか思ってました(笑)
(J-SA05)
25 大伴
そうですね。
諜報に関与していたというのは、立証も反証も、三国志の記述だけからは組み上げるのが難しそうですね。
私見では、弟が袁紹側にいますから、下手に関わると、曹操側から疑われる危険があります。厳しいと感じますね。
>>23
袁紹伝に
審配と逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、苟シン、許攸を参謀に……
という記述がありますから、名士の軍事への関与は普通にあったのでは無いでしょうか?苟攸も前線で戦況を見聞していますし。
諜報に関与していたというのは、立証も反証も、三国志の記述だけからは組み上げるのが難しそうですね。
私見では、弟が袁紹側にいますから、下手に関わると、曹操側から疑われる危険があります。厳しいと感じますね。
>>23
袁紹伝に
審配と逢紀に軍の事務を統括させ、田豊、苟シン、許攸を参謀に……
という記述がありますから、名士の軍事への関与は普通にあったのでは無いでしょうか?苟攸も前線で戦況を見聞していますし。
(F2102V/FOMA)
27 エロハシ
あんま徐州討伐戦時の、荀イクについて語られてませんので、一石投じてみますね☆
あの時(なんか変な感じ・笑)豫州刺史(でしたっけ?汗)の郭貢が、ケン城下に兵を引きつれて来て、荀イクに会見を求めますよね。その時息まいてた諸官を押さえ込み、会いにいって郭貢を中立にさせた功績は大きいのでは?
あと幾多の大戦で自分の留守を他人に任すのは、裏切られないという信頼関係があったからだと思います! 優秀な臣を求めてた曹操幕下にあっては、それも優れた臣の一面を垣間見させるものかと…m(__)m
あの時(なんか変な感じ・笑)豫州刺史(でしたっけ?汗)の郭貢が、ケン城下に兵を引きつれて来て、荀イクに会見を求めますよね。その時息まいてた諸官を押さえ込み、会いにいって郭貢を中立にさせた功績は大きいのでは?
あと幾多の大戦で自分の留守を他人に任すのは、裏切られないという信頼関係があったからだと思います! 優秀な臣を求めてた曹操幕下にあっては、それも優れた臣の一面を垣間見させるものかと…m(__)m
(P900i/FOMA)
28 大伴
功績と言えると思います。
しかし曹操が荀イクの軍事的才能を認めていたか否かは別の問題だと思いますよ。曹操は他にも、夏侯惇、程イク、陳宮、棗祗といった優れた人々を残して行っていますし、ただ単に連れて行っても戦場では役に立たない荀イクを残していっただけかも知れませんから。
しかし曹操が荀イクの軍事的才能を認めていたか否かは別の問題だと思いますよ。曹操は他にも、夏侯惇、程イク、陳宮、棗祗といった優れた人々を残して行っていますし、ただ単に連れて行っても戦場では役に立たない荀イクを残していっただけかも知れませんから。
(F2102V/FOMA)
29 天草
久々にこのスレに口を挟みます(笑)
私も荀イクは諸葛亮と同じような【優秀な政治家】だったのではないかと思っています。
諸葛亮の場合は、人材不足のために、晩年常に最前線に出て、慣れない戦略に挑戦したが、荀イクの場合は最後まで政治家に徹したのではないかと。
無能とは思いませんが(爆)彼が陣頭で指揮を執った戦を思い浮かぶ事ができませんが、いかがでしょう?殆んど、留守番と防衛(立て篭もり)だったのではないでしょうか?
疑問は曹操軍において、彼がどれだけの権限を持っていたのか?ということです。何かそれを示すような記述は正史にありますか?
私も荀イクは諸葛亮と同じような【優秀な政治家】だったのではないかと思っています。
諸葛亮の場合は、人材不足のために、晩年常に最前線に出て、慣れない戦略に挑戦したが、荀イクの場合は最後まで政治家に徹したのではないかと。
無能とは思いませんが(爆)彼が陣頭で指揮を執った戦を思い浮かぶ事ができませんが、いかがでしょう?殆んど、留守番と防衛(立て篭もり)だったのではないでしょうか?
疑問は曹操軍において、彼がどれだけの権限を持っていたのか?ということです。何かそれを示すような記述は正史にありますか?
(PC)
31 赤龍
私は、荀イクの役割は大局的な戦略・指針の立案と、政治面にあり、実際に戦場に同行する軍師の役割は郭嘉、荀ユウらが果たしていたと考えています。ですから、軍事行動の記事の無さ、大伴さんの荀イク批判も、なんら荀イクの価値、評価をさげるものではないと考えます。そうした役割分担も多彩な人材あってのこと。そして、その郭嘉、荀ユウら多くの人材を推挙したのも荀イク。やはり私は荀イクは高く評価されて当然と考えます。
(J-SA05)
32 大伴
まぁ正直に言うと、私も荀イクの有能を崩せるとは考えていませんよ(笑)無能はまぁ、煽り文句ですね(汗)
私が崩したいのは、彼の万能性。軍事に関わる部分です。
荀イクは軍事の天才
↑
これの否定ですよ。
私が崩したいのは、彼の万能性。軍事に関わる部分です。
荀イクは軍事の天才
↑
これの否定ですよ。
(F2102V/FOMA)
33 ストラップ
>>32
しかし荀イクは、戦略眼に長けた部分もあった様です。
陶謙が死んだ時、徐州を攻めようとする曹操に、本拠地の重要性を説き、エン州を完全に奪還する事を説いています。曹操は于毒との戦いで、本拠地(東武陽か?)を攻撃させている位、アクティブかつオフェンシブな戦略思想の持ち主ですから、彼の様な守勢を重視する戦略も必要だったのかも知れませんね。
僕自身、>>>183-8に書きました理由で、曹操は後退戦の名手だったのでは無いかと推測しています。後退戦の多くは、攻めが失敗した時に行うものですから、やはり曹操は攻撃型だったのだと推理しますよ。
しかし荀イクは、戦略眼に長けた部分もあった様です。
陶謙が死んだ時、徐州を攻めようとする曹操に、本拠地の重要性を説き、エン州を完全に奪還する事を説いています。曹操は于毒との戦いで、本拠地(東武陽か?)を攻撃させている位、アクティブかつオフェンシブな戦略思想の持ち主ですから、彼の様な守勢を重視する戦略も必要だったのかも知れませんね。
僕自身、>>>183-8に書きました理由で、曹操は後退戦の名手だったのでは無いかと推測しています。後退戦の多くは、攻めが失敗した時に行うものですから、やはり曹操は攻撃型だったのだと推理しますよ。
(PC)
34 ストラップ
>>32
しかし荀イクは、戦略眼に長けた部分もあった様です。
陶謙が死んだ時、徐州を攻めようとする曹操に、本拠地の重要性を説き、エン州を完全に奪還する事を説いています。曹操は于毒との戦いで、本拠地(東武陽か?)を攻撃させている位、アクティブかつオフェンシブな戦略思想の持ち主ですから、彼の様な守勢を重視する戦略も必要だったのかも知れませんね。
僕自身、>>>183-8に書きました理由で、曹操は後退戦の名手だったのでは無いかと推測しています。後退戦の多くは、攻めが失敗した時に行うものですから、やはり曹操は攻撃型だったのだと推理しますよ。
しかし荀イクは、戦略眼に長けた部分もあった様です。
陶謙が死んだ時、徐州を攻めようとする曹操に、本拠地の重要性を説き、エン州を完全に奪還する事を説いています。曹操は于毒との戦いで、本拠地(東武陽か?)を攻撃させている位、アクティブかつオフェンシブな戦略思想の持ち主ですから、彼の様な守勢を重視する戦略も必要だったのかも知れませんね。
僕自身、>>>183-8に書きました理由で、曹操は後退戦の名手だったのでは無いかと推測しています。後退戦の多くは、攻めが失敗した時に行うものですから、やはり曹操は攻撃型だったのだと推理しますよ。
(PC)
35 ストラップ
久々にこのスレッドをageてみましょう。
>>>72-26-27の問題なのですが、>>>72-5の理由で、又>>31の理由から、「三国志卷十」に治められた人物の人選には確かに疑問があります。>>>72-9-12という評価では無く、単純にその「仕事」の内容が違ったのでは無いかと思うのです。
とはいえ、「後漢書」の「卷七十」の様な、鄭太、孔融と並べ、魏臣では無く漢臣として扱うやり方も妙だと思うのです。荀イクが「曹操の覇業がどこを目指していたのかわからなかった」とする評価は、荀イクの評価を下げるものだと考えるからです。
如何でしょうか?
この件について、皆さんの意見をお聞かせ下さい。
>>>72-26-27の問題なのですが、>>>72-5の理由で、又>>31の理由から、「三国志卷十」に治められた人物の人選には確かに疑問があります。>>>72-9-12という評価では無く、単純にその「仕事」の内容が違ったのでは無いかと思うのです。
とはいえ、「後漢書」の「卷七十」の様な、鄭太、孔融と並べ、魏臣では無く漢臣として扱うやり方も妙だと思うのです。荀イクが「曹操の覇業がどこを目指していたのかわからなかった」とする評価は、荀イクの評価を下げるものだと考えるからです。
如何でしょうか?
この件について、皆さんの意見をお聞かせ下さい。
(PC)
37 赤龍
まずは、『三国志』の巻十(荀イク、荀ユウ、賈ク)と、裴松之が賈クの同類とみた巻十四(程イク、郭嘉、董昭、劉ヨウ、蒋済、劉放)が、陳寿がどういう意図で同じ巻にまとめたか?それを考えなければならないと思います。
それを曖昧にしたまま人選に関する疑問を出しても、それは陳寿の意図とは違う、的外れなものとなってしまう可能性があるからです。
それを曖昧にしたまま人選に関する疑問を出しても、それは陳寿の意図とは違う、的外れなものとなってしまう可能性があるからです。
(PC)
38 ストラップ
>>37
陳寿の基準‥‥‥については我々には一切知らされる事はありませんよね。想像で補うしか無い。
だからこそ、基準を提示した裴松之の意見の方が、後世の我々には賛同ができる。
とはいえ僕は、裴松之の意見にも疑問符を打つのですよね。荀イク、荀攸、賈クの三人で見た場合、荀攸は荀イクよりも賈クに近い様に僕には思えるのです。戦場にも立たず、本拠地を預かった荀イクは、特別な気がします。
しかし諸葛亮や陸遜の様に一人で立伝するとなると、そこまでの人物では無い気がするし‥‥‥。第一、三少帝紀の立場が無い。
陳寿もこんな風に悩んだのでしょうかね。
陳寿の基準‥‥‥については我々には一切知らされる事はありませんよね。想像で補うしか無い。
だからこそ、基準を提示した裴松之の意見の方が、後世の我々には賛同ができる。
とはいえ僕は、裴松之の意見にも疑問符を打つのですよね。荀イク、荀攸、賈クの三人で見た場合、荀攸は荀イクよりも賈クに近い様に僕には思えるのです。戦場にも立たず、本拠地を預かった荀イクは、特別な気がします。
しかし諸葛亮や陸遜の様に一人で立伝するとなると、そこまでの人物では無い気がするし‥‥‥。第一、三少帝紀の立場が無い。
陳寿もこんな風に悩んだのでしょうかね。
(PC)
39 赤龍
陳寿の意図が、我々に一切知らされる事はないのか?
いえ、そんなことはありません。それを理解するために、伝の陳寿の本文、および評(裴松之の注も参考になることも)を丹念に読み取っていく必要があるのではないでしょうか?そうすれば、結果それが推測・想像になるとしても、ある程度その意図を知る事ができるはずです。裴松之も、それを自分なりに考えた上で、異をとなえたのだと思います。
私の考えは、まだまとめている最中なので、また後日に。
いえ、そんなことはありません。それを理解するために、伝の陳寿の本文、および評(裴松之の注も参考になることも)を丹念に読み取っていく必要があるのではないでしょうか?そうすれば、結果それが推測・想像になるとしても、ある程度その意図を知る事ができるはずです。裴松之も、それを自分なりに考えた上で、異をとなえたのだと思います。
私の考えは、まだまとめている最中なので、また後日に。
(PC)
41 赤龍
遅くなりましたが、ブログのほうで、賈クを荀イク、荀攸と同じ巻になぜまとめたか?についてまとめてみました。
要は、人格・人品といった点もふまえ、諸謀臣の中でも格上の3人を選んだということで、陳寿、裴松之ともそうした点を問題にしている。決して戦略とか戦術とか役割の面を問題にしているわけではない。というのが私の考えです。
要は、人格・人品といった点もふまえ、諸謀臣の中でも格上の3人を選んだということで、陳寿、裴松之ともそうした点を問題にしている。決して戦略とか戦術とか役割の面を問題にしているわけではない。というのが私の考えです。
(PC)
42 ストラップ
>>41
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50120213.html
拝見しました。
この問題をどの様な方向性から光をあてるか、という見かたを示して戴き、感嘆致しました。明快であると思います。
僕が歴史を考える時、意識せざるとも軍事的見地から常に思うという、呪縛をも明哲に指摘され、赤面の思いです。
確かに今日の「軍事行動の大小」という概念は、十八世紀のフランスの軍人、特にポール・ギデオン・ジョリイ・ド・マイゼロアの主張から一般化しておりますね。
陳寿本分と裴松之の意見がが同じ方向からの主張であった納得しました。
ご教授感謝します。
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50120213.html
拝見しました。
この問題をどの様な方向性から光をあてるか、という見かたを示して戴き、感嘆致しました。明快であると思います。
僕が歴史を考える時、意識せざるとも軍事的見地から常に思うという、呪縛をも明哲に指摘され、赤面の思いです。
確かに今日の「軍事行動の大小」という概念は、十八世紀のフランスの軍人、特にポール・ギデオン・ジョリイ・ド・マイゼロアの主張から一般化しておりますね。
陳寿本分と裴松之の意見がが同じ方向からの主張であった納得しました。
ご教授感謝します。
(PC)
43 天草
曹操と荀イクは本当に仲違いしていたのでしょうか?
それはいつから?
そもそも最初から仲良しなどではなく、曹操が名士を意識した人事をしたという奇抜な意見なども期待したいですね。
それはいつから?
そもそも最初から仲良しなどではなく、曹操が名士を意識した人事をしたという奇抜な意見なども期待したいですね。
(N902i/FOMA)