1 たろう

劉備という男

好評批評などありますが皆さんはどう思います?
(W21SA/au)
2 たろう
早速です。まず劉備は漢の復興のために戦ったと言いますが漢という国自体国を乗っとっています。あと劉備は旗揚げからしばらくの間自分の事を中山西王劉?の子孫だぞ!を決まり文句にやって来ました。しかし劉?の家系は何回か血の繋がりが断たれており養子を何回ももらってます。しかもこの劉?という人物には子孫が何百人といて本当の子孫ということはなかなか確かめれません。事実か嘘かは今では全く分かりませんが劉備がうまく詐称したとすれば…
(W21SA/au)
3 大伴
まぁ作ってしまったものは仕方ありませんが……一度古いログをチェックして作って下さい(笑)これ三つ目の劉備スレッドです。

>>>16
>>>56

参考に。
(F2102V/FOMA)
4 天草
まぁ人気のある(話題が出やすい)人物ですから、仕方ないですよね。

末裔の件は恐らく詐称でしょう?真実は分かりませんが…。
関羽・張飛との本当の出会いが気になりますね。関羽と張飛が元々知り合いで、彼らと劉備が出会った…みたいな書かれ方が多かったと記憶してますが…。
(PC)
5 漢森
末裔云々に関しては、蜀漢建国の折り社禝を奉ろうとして血統を調べたが途中でやめてますね


やばかったんだね
(P900i/FOMA)
6 伏仁傑
劉備は創業当時、中山靖王の子孫と称して自己を宣伝し勢力拡張に役立てました。その真偽についての議論は置いて、この私称が後のショク漢の限界を作ってしまったのではないか?と考察します。後漢の一族を称してしまえば献帝擁する曹氏に対し非常に困難な立場になってしまいます。仮に「君側の姦臣を払う」と呼号して曹軍と対峙しても大義名分からすれば利は曹氏にある事になってしまい非常に意気揚がらぬ結果になります。
曹操は存命中献帝の禅譲を受けませんでしたが、このような劉備の立場を逆用しようと考えた…一面もあったと思います。
(W11K/au)
7 伏仁傑
曹ヒが禅譲を受けた後に劉備は帝を名乗りますが、形の上では私称になり自ら地方軍閥の地位に成り下がってしまいます。
中華は飽くまでも中原地方がその中心地であり、いかに西方のショクが豊かであったとしても「漢」を名乗れなかったのは禅譲を受けられなかったからでしょう。これにより私称・漢の後継者であるショクは纂奪王朝であるギに対してピストン運動のように侵攻する事を(大義名分の上で)実行せざるを得なくなり、ひいてはキョウ維の無駄とも思える北伐を容認せねばならなくなったのです。
後主がいかに愚昧な君主であれショクが滅びる理由は明らかに度重なる北伐とそれによる国力の疲弊である事は皆さんも認めるところだと思います。
劉備の私称は後に大いなる禍根を残した…と私は指摘せざるを得ないのです。
相変わらずの長文スイマセンm(_ _)m
(W11K/au)
8 赤龍
伏仁傑さんの論ですが、漢室云々関係無く、漢の世、漢の臣という形である以上、大義名分は曹操にあります。蜀建国の問題にしても、地方政権としてみなされるのは、中原(及び中国の大半)を支配してなかった為、ここでも漢室の禍恨はあてはまらないでしょう。
(J-SA05)
9 赤龍
そもそも、劉備は献帝を継ぐ漢帝という名分で即位、国号はあくまで漢です。後世他の漢との混同を避けるため(三国志編纂時の都合もあっただろうが)蜀漢、蜀と呼称されてるわけです。
急に仕事入ったんで続きはまた後程(汗)
(J-SA05)
10 伏仁傑
赤龍さん>お待ちしてます♪
(W11K/au)
11 赤龍
すいません。
最後に、北伐ですが、確に存在意義を示すために行う必要もあったとは思いますが、理由はそれだけではないと思います。以上、伏仁傑さんの言われるような禍恨、悪影響はそれ程無かったのでは?という意見でした。
(J-SA05)
12 漢森
皇叔認定された時みたいに、何処からか都合のいい貴重な証拠も見つけられず、系図調査を途中で投げ出してる訳だから、誰も本気で信じてない与太話に影響力なんてないでしょ

それと度重なる北伐は、半分以上が中華の外にある要因じゃない?
(P900i/FOMA)
13 たろう
私は劉備は漢の復興が目的ではなくやはり野心があったと思います。小さい頃は「俺が天下をとってみせる」などと言ってたみたいです。
(W21SA/au)
14 伏仁傑
ギの文帝が立った為に献帝が隠れた(死去した)との噂が流布した為に劉備が即位した事は前後の記録から明らかです。
献帝を継い(だつもり)で漢を名乗った事は間違いないですね。正史にも「本家分家百世を経過し(美辞麗句の為中略)よろしく帝位につき二祖(高祖・光武帝)の後を継いで(漢の)宗廟を継承するべきだ」とあります。
劉備が本当に中山靖王の子孫かどうかは斐松之も「記録が失われていて残念だ」と述べている為不明です。
違ったとしても要は実力がモノを言う乱世ですから問題は無いですが、大義名分を重んじる当時の中国では大きな威力があったと推測します。
ところで「皇叔」の尊称は正史では見かけませんが出典はどこでしょうか?
(W11K/au)
15 伏仁傑
北伐の原因が劉備(自称)の出自にある事は出師の表に明らかです。存在意義と言うよりも重い…ショク漢の使命だったと私はとらえています。
まぁショクが滅亡した理由を北伐だけに求めるのは…劉禅があまりにアレなだけに…無理があるでしょうが「大義名分により自滅」した一面があると思うのです。
劉備が野心家であり様々な謀略を使ってショクを建国した事は大いに私も認めます。それだけに演義の聖人君子っぷりは逆に彼をつまらない人物像に見せている気がしますね。
(W11K/au)
16 赤龍
北伐の大義名分は漢室再興ですが、北伐を行った理由は本当にその名分だけで理解してよいのでしょうか?王夫之の主張する「以攻為守」。寄り合い所帯で不安定な蜀漢政権に、一つの共通の目的を与え、人心をまとめる。等様々な要因が考えられます。姜維の場合もそうです。戦争はたてまえだけで行われるものではありません。
(J-SA05)
17 伏仁傑
赤龍さん>なるほど。
しかしキョウ維の時代にはもうショクとしてのまとまりが出来上がっていたような気がします。
むしろ執拗に北伐を繰り返すキョウ維の方が群臣から浮き上がった存在だったように見受けられます。
もっとも、この頃には私の主張する大義名分すらどこかへ忘れ去ったかのような劉禅…
私の知人は「ショク滅亡の戦犯は当陽長坂破で阿斗を助けた趙雲だ」と主張してましたが…
(W11K/au)
18 赤龍
姜維の場合、政権の中枢に位置するものの、魏からの降将であり、荊州人、益州人といった同郷の派閥も、自身の支持者を増やす政治力も無く、その立場を維持するには、軍中にあって戦い、戦功を立て続けるしかなかったのではないかと考えます。それにより、ますます疎まれ…。と悪循環さえ感じます。
(J-SA05)
19 伏仁傑
赤龍さん>
確かに中国人は未だに郷党を大事にしますから貧弱な通信網しか無い当時では充分考えられる状況ですね。
また正史ではフ子や雑記を取り上げてキョウ維が功名心溢れる野心的な人物だった事を証明しようとしています。彼が北伐を私物化してしまった理由はここにもあるかと思われます。が、これはスレ違いな話題でしたね。スイマセン。
(W11K/au)
20 ユウキ
姜維の時代にはむしろ大義は失われていたと思います。劉禅が魏に降って、宴会の席で『ショクは恋しくない。』と答えていますが、まさに漢朝イデオロギーの終結を表していると思いますが。まさしく魏にとってこれほどの好都合な人物はいないわけで劉禅と孫晧とのその後の待遇に差が出てる気がします。
(P900i/FOMA)
21 漢森
古今東西、戦争の大元は経済闘争が発端です
人類史に於いてこれの例外たる戦争は寡聞にして聞いた事がありません
北伐や南征も国家経営の為西方通商路の確保が目的なら国を傾けても行なうのは必然です
(P900i/FOMA)
22 伏仁傑
ユウキさん>劉禅の有名なエピソードですね。貴方の言われる所の「漢朝イデオロギー」の擬人化された姿がその血統故に劉禅ならば、先主はその言動に地下で歯軋りした事でしょう。
漢森さん>おぉここでは初めて見る史観です。が、中国の貨幣経済の完成はもう少し後の宋代を待たねばならぬはず。私が学府を去って十余年、その間に文献史学に進歩があったのでしょうか、ワクワクします。何か面白そうな史料があれば是非教えて下さい。
(W11K/au)
23 赤龍
先にあげた王夫之の「以攻為守」論を発展させた史念海も経済的な目的にも言及してます。特に南征の目的の一つが、南方の交易ルートの確保という意見は多く聞かれ、かなり有力です。詳しくは『「三国志」の迷宮』山口久和、文春新書、なんかを読むとわかりやすいですよ。
(J-SA05)
24 しす
>>>56からの続きをこちらでお願いします。
(PC)
25 無問題
え〜、劉備スレの続きです。しすさんの『劉備は傭兵のようなものだった』という意見は非常に興味深いですね。確かに、一人でも将が欲しい陣営に自分をうりこんでますよね。公孫サンは人材面で圧倒していた袁紹と対峙していて、陶謙は曹操に攻めこまれ予断を許さない状況で、孔融は賊に囲まれている状態で絶体絶命だった…。そこに、絶妙なタイミングで現れた劉備(言いすぎか…)以外とどこの陣営がどういう状況におかれているか情報を分析する能力があったのではないでしょうか?
(W32SA/au)
26 飛燕
負け戦だと必ず評価が下がるということは、ちょっと固執しすぎでした。確かに、負け戦で評価が上がるときというのは有り得ますね。

前スレからの続きですが…

「名を売る=出世の為」と自分も考えてます。否定しているつもりはありません。

「優秀な人材=裏切るかもしれない」というのではなく、「(他人から見て)目的がはっきりしない=行動が予測不能」なのではないか?、ということを言いたいのです。信念でもって敵味方を区別し、戦をしていたら、おそらく彼は裏切ることはないでしょう。しかし、この時代にそういった、自分なりの正義感をもって生きるというのは甘っちょろくないですか?

>>25からすると、劉備は相当「名を売る」という一点に貪欲な気がします。それは「裏切り」という形も厭わない、というのは考え過ぎでしょうか?
(F900iC/FOMA)
27 飛燕
続きですが…

自分は、曹操暗殺未遂事件がこのことを示している気がします。彼は、これを成し遂げて、漢の救世主として、名を売るつもりだったんじゃないですか?名を売る為なら、恩人への裏切りも厭わないほど、彼は貪欲だったんじゃないですか?その貪欲さに目を付けて、董承らも計画を持ち掛けたのかもしれません。確かに、ある程度の信念は持ってたかもしれないですが、それは欲に負けてしまう程度のもの、ではないですか?

劉備が諸侯に受け入れられたのは、あくまで、びっくりするほど強くないという評価からの気がします。
何をしでかすかはわからないが、そんなに強くないから、すぐに揉み消せる。
かといって、弱いわけじゃ無いし、貪欲だから戦ではそこそこ使える。
そういう評価だったから、彼は受け入れられたと思います。
(F900iC/FOMA)
28 ヒロサトル
こんばんは。こちらでもよろしくお願いします。天草さんはじめまして。よろしくです。ご指摘の
"皇叔"につきましては、どうやら演義が出典の、創作とも取れそうです。また劉備の全国デビューも、陶謙に徐州牧を譲らてから、に間違いないと思います。ですが呂布に徐州を奪われ、曹操の元に身寄せてからは、朝廷から劉備に、曹操以上の地位が与えられ、さらには、献帝の曹操暗殺計画にまで荷担しています。それは劉備が、それだけ献帝に信頼が篤かった証しでしょう。後に劉備は
曹操に反旗を翻し、敗れてエン紹の元へ逃れる訳ですが、対呂布戦に於ける曹操との連合が、劉備には、曹操と対決する大義名分を得る契機となった事実は否めません。
その意味から、呂布が
死に際に叫んだ言葉はまさに、せい鵠を射ていたと言えるでしょう。
結局曹操は自ら、
劉備玄徳と言う尊皇攘夷の旗手を作り、天下統一の機会を逃してしまったのです。
(PENCK/au)
29 ヒロサトル
またここの議題の争点である、劉備玄徳が悪人か否かは、本当に難しい
問題です。私は呂布の、劉備に対する「お前が
一番の食わせ者だ!」の
言葉に、真理があるとは思いますが、
劉備の動機はどこまでも
「桃園の誓い」です。
それは関羽・張飛と共に、活躍すること―
その純粋な気持ちには、どんな野心も才能も結局は歯が立たないでしょう。


呂布には武力。
曹操には野心。
孫家には血筋。
孔明には知力。
そして劉備には、
自分自身…

もしかしたらこれが、
劉備玄徳と云う人物
引いては、
「正史」「演義」を含む、
三国志の結論なのでは
無いでしょうか?


すみません。そうすると結論は、
破綻しませんでしたね…
(PENCK/au)
30 天草
>>26-29
今私が考えている劉備像と少し違いますので、私の考えも述べます。

>>27-28
董承らの暗殺未遂事件に関して、劉備が本当に曹操を暗殺する気があったのかは、微妙な気がします。
見事に逃げてますからねw
記述が曖昧ですから、露見したのが先なのか?逃げたのが先なのか?
皆さんはどう思われますか?
露見していたら、袁術出兵に兵を貸さないのではないでしょうか?

>>29
「桃園の誓い」は創作ですね。


とにかく私が言いたいのは…
>>>75-77の様な完全なアンチ劉備派というのは、恐らく三国志演義からの小説類や漫画などにより、英雄化された彼を、批判したいがために作られた一種の拠り所だと思っています。
つまり演義は見たけど、本当の劉備は違うよ、と言いたいが為のつじつま合わせ。
実際に先主伝を読めば、彼を批判するような記述は殆ど見られず、それはアンチ劉備派から言わせれば、陳寿が書いたからだとなるのでしょうが、これはあくまでも魏を正当とした晋が定めた正史の記述ですから、そこで敵ながら誉められる事を良しとした理由があるはずです。

私が劉備を人徳の人間と見る事に演義だろうが正史だろうが変わりはありません。

長文失礼。
(PC)
31 天草
書き忘れ…。

劉備がどれくらい戦上手だったのか?の話に戻りますが、程イクと郭嘉が警戒している事、曹操がわざわざ彼を派遣している事から、やはりこの時既にある程度の名声があったと考えるべきかと。
(PC)
32 ヒロサトル
失礼。桃園の誓いは、
演義でしたね。私も
劉備の傭兵(義勇兵団)としての名声は、彼の、
人脈から来る活躍の場によって、侮れないものがあったのではないかと
思います。
(PENCK/au)
33 巫俊(ふしゅん)
正史における、大守や刺史としての名望や、援軍・客将・軍の経歴だったら、魏燭呉メインの演義やゲームにこそ登場しませんが、劉備以上の才子が数多くいますよ。
(N503i)
34 巫俊(ふしゅん)
青州刺史の臧洪とか、曹操が才能を惜しんだ袁氏の庶子(紹の従弟だっけ)とか、名声面じゃ劉備は無名の人に等しいですよ。
劉備はこの人たちと違って、乱世を生き抜いて声名を少しづつ殖やしていったことが、今の中国史のなかの劉備にしてるんであって、賛美するあまり最初から義の人として描きすぎると後漢時代の空気とずれてくると思います。
やはり許都時代が転機かな。初期劉備は北方民族の兵士を率いていたようですね。任侠の指揮官から大義の人へ移行期があるようです。ゆっくりとした。
(N503i)
35 飛燕
ちょっとクールダウンします…
彼には人徳的な魅力はありましたよね。裏切りも厭わない貪欲さじゃ人は付いてきませんね。考え過ぎでした(汗)もうちょい練り直して、出直してきます。お騒がせしてすみませんでしたm(__)m


劉備の行動で、どうも解らないことが2つあります。
1.何故呂布を受け入れたのか?2.曹操暗殺未遂事件に荷担した理由は?

1はさっぱりです(汗)呂布と協力して傭兵派遣会社でも作ろうとしたんですかね?

2については今思いつくのは2つです。

・この頃に天下を狙う野心が芽生え、曹操から独立したい気持ちが強くなった。

・劉備を危険視する曹操の幕臣(郭嘉・程イク等)が、劉備を討伐する名分をつくる為、でっちあげた。

後者はまずないでしょうけどね。
(F900iC/FOMA)
36 ヒロサトル
まず第一の、
劉備が徐州牧時代に
呂布を受け入れたのは、呂布に恩義があったからだと思います。
元々劉備は、
曹操に睨まれた陶謙に
請われて徐州入りし、
その地位を譲られた身です。そこで曹操との全面対決を避けられたのは、呂布のエン州侵攻があったからであり、言わば劉備は、呂布に窮地を救われた形になったのです。
その呂布が敗れて、
劉備に身を寄せて来たのであれば、これを助けるのは道理と感じ、単純に呂布を迎え入れたので
しょう。しかし呂布は、もはや虎牢関で見せた
飛将軍の面影は無く、
その心は、
想像以上に荒んでいた…

要するに劉備は、
人がよかったのでは?

そして第二の、
劉備が許都滞在中に曹操暗殺計画に荷担したのは、その発案者が、劉協、つまり
献帝だったからでしょう。いかに曹操と言えども、当時は皇帝の臣下で
ある身。その主君である献帝が、曹操暗殺を劉備に持ち掛けた(指令した)のです。劉備としては、道義に照らし合わせて、苦渋の選択をせざるを得なかったのでしょう。
これは劉協(献帝)と
劉備を近付けた、
曹操の失策です。

もっとも、
凶悪な孤狼と化した呂布を倒すためには、
劉備と曹操は、
共闘する以外に無かったのでしょうが…
(PENCK/au)
37 朱家
戦場での作戦が完璧であったとしても、それを実行する能力が乏しければ意味がありません。曹操にしても、戦場での作戦を一人だけで考え、実行してたとは思えません。まあ、そういう時もあったでしょうが…むしろ劉備よりも、周りの意見に耳を傾ける感じもします。
戦争が上手いとは、指揮能力に優れる、だと思いますね。少なくとも劉備は一流でしょう。作戦を話し合う人材の質が劣ると思われるのに、劉備個人の戦争が下手というのは賛成しかねます。
極論だと、政治力に乏しければ戦争にも負けるので、そういう意味なら、劉備は戦争下手でしょうね。しかし、受け入れた人達は、劉備の政治力など期待しないでしょう(笑)
(W32K/au)
38 朱家
さて、劉備はいつから法正を信頼したのか?
誰かの推挙ではなく、自ら売り込んで、主を裏切ろうとし、しかも、劉備と最初に会ってから約2年は経ってると思われる。孟達が人質のような感じだと思うが、妻子はどこだろう?才能は認めても、信頼するのは極めて難しい人物(笑)
士元の中策を、あえて法正、張松には知らせないようにしてた?劉備は、張松とまともに会ってないと思うし、材料は法正の言葉だけ、あとは手紙。撤退するとなれば、腹をくくらなければならないし、劉璋との戦いは、これからですしね。
もしかすると、積極策を用いなかった、一つの要因かも。
(PC)
39 天草
朱家サン、お久しぶりでおかえり☆

逆に劉備が人を信用しなかった例の方が少ない様に感じますので、自分を立てようとした見知らぬ法正を信じきったという事に対して、あまり不思議に思っていませんでした。
劉備が疑ってかかった人物って思いつきます?
馬禝の才能くらいかな?魏延は劉備からは疑われてないですよね?
(N902i/FOMA)
40 朱家
天草さん、お久しぶりです(笑)

注釈だったと思いますが、劉巴は自分じゃないと使えないと言ってます。文書類は劉巴が作ったとありますし、永安にも呼んでます。戦争以外は、常に劉備の近くにいたと思われます。まあ、そういう役職ですけどね(笑)
(PC)
41 赤龍
>>39
劉備に嫌われた人といえば、許靖が思いつきます。
劉備軍の成都包囲の際、城壁を越えて脱走し劉備に降ろうとして発覚。捕らえられてしまった人。天下に名高い名士の醜態に劉備も呆れたか、許靖を用いようとしなかった。
でも、結局は法正に許靖の虚名の力を諭され、厚遇してますけど。
(PC)
42 VWO
劉備が指揮して勝った相手が夏侯惇位しか思い浮かばないんですが他に誰かいましたっけ?
(W33SA/au)
43 VWO
???????w??????????????肪??????????v?????????????????????N???????????????H
(W33SA/au)
44 天草
>>42
惇兄との戦いと言えば、長坂前の戦い(一般には博望破の戦い)の事ですかね?

もちろん他にもたくさんありますよ。

詳しくは
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50183561.html
(PC)
45 りょパン
>>39
コメント申し上げます。
魏延は逆に劉備に重要されています。
漢中を制した後誰もが漢中太守は張飛だとおもわれたが劉備は魏延を任命したなどとても重要してます。
余談ですが劉備は魏延は重要しましたが馬謖に対しては「口ばかりで中身がともなっていないから重要できない」と言っていましたが
孔明は溺愛して魏延が嫌いでした。
劉備と孔明ってホントに水と魚の関係なのか?
(PC)
46 子竜
あげます。
(W31SA/au)
47 しす
>>>421を見ると、劉備嫌いって人結構いますね。
演義の劉備はともかく、正史の劉備像って私は好きなんですけどね。
演義で主人公にまつりあげられ、「中国人が理想とする聖人君主像」を押しつけられてしまったことで逆にこの人は過小評価されている気がします。
彼が各地を転々とし、周囲の人物を利用して勢力を拡大していったやり口には嫌悪感どころか、その手腕の見事さに関心すらするのですが。
(PC)
48 子竜
>>47
しすさんお久しぶりです。


私は曹操の再評価が劉備不人気の原因だとも考えております。

・曹操の現実主義的な言動、実績が、結果主義の現代日本人の心に深く感銘を与えた。しかし、劉備の大義名分と、彼が人の下を渡り歩いて来たという史実が現代日本人に反感を起こさせた。
・曹操が将の将であり兵の将でもあるのに対して、劉備は将の将でしかないという差。
・蒼天航路による爆発的な魏軍びいきの増加と、それによるとばっちり。(三国志演義の逆バージョン)


以上が私の考えです。劉備びいきの私が言うと余計反感を招くかもしれませんが……。


そもそも劉備が人の下を離れたのは、呂布には裏切られたからで、曹操の場合は詔勅に従ったために袂をわかたざるをえなくなった為で、袁紹の場合は関羽の帰還が理由の一因だと考えております。……今は。


呂布も近年再評価されておりますが、やはり、それのあおりを劉備が受けているように感じます。
イメージの差ではあるんでしょうが、呂布の劉備裏切りには何も言わないのに、劉備が呂布と袂を別った……今は裏切るという表現の方が分かりやすいので、そうしておきますが、何で一部の反劉備派の人はそちらばかりつつくのか理解に苦しみます。

反劉備派の人にはかなり暴言を吐いているとは分かっておりますが、敢えて言わせて頂きます。
(W31SA/au)
49 巫俊(ふしゅん)
私個人、劉備が嫌いという感覚は無いですね。
ただ、曹操、孫策といった主役陣から、張超、劉岱といった義兵を挙げた個々の太守、刺史まで、その立場と「正義」の在り方について再評価する動きがあり、劉備の主張する立場は以前よりも相対化させざるを得ないだろうと思います。

劉備を絶対的な正義者だとしてしまった最後、他の陣営の人物については評価できなくなりますからねぇ。

例えば私は、正史を書いた陳寿の立場からして政治家としての諸葛亮の施政を美化してきたと考えていますので、
諸葛亮が政権を取る以前の政権首班である劉備についても、例え劉備個人が人格者であっとしても、政治家としては腹の黒いところもあっただろうと考えています。

例えば、入蜀後の劉備は酒の醸造を禁止する布令を出していますが、酒をつくる道具を家に置いていた人間すら劉備は直々に指令して処刑しようとしています。
劉備はこの件で臣下に諌められるまで、推定無罪の原則に賛意を示しておらず、この一件だけでも劉備は現代人から無条件の正義を信任されるような統治をしていないことは明白です。
(価値観もイデオロギーも違うのですから当然ですが)
(PC)
50 巫俊(ふしゅん)
入蜀の是非からして、劉備の立場は「大義の為には、小さな義を蹂躙することもやむを得ない」と定義しており、確信犯の国盗りであったのですから。

これでは、幾ら異論が出ても仕方の無いことでありますし、後漢末の状勢についても理非がどこにあるのか議論できる場所は沢山あると思います。

小さな義とは、劉璋陣営側の吏民の立場を指すとします。
(PC)
51 子竜
>>50

念のため言っておきますが、私は劉備の行動こそが絶対正義だとは考えてはおりませんよ。劉備のやったこと全てが正しいとは考えておりません。そもそも絶対正義という考え方自体が嫌いですし。


もうこれ以上は何も言いません。もうこれ以上口を開いても劉備を偽善者に貶めてしまうだけですし、私自身もトチ狂った狂信者だとみなされてしまうので。


これからは傍観するだけにします。
(W31SA/au)
52 赤龍
>>48
>蒼天航路による爆発的な魏軍びいきの増加と、それによるとばっちり

私は、蒼天航路の劉備、かなり好きでした。
最初から完璧で、全てを見通したような曹操よりも、何度もどん底まで突き落とされ、弱さもみせ、色々迷いながらも、しだいに成長していく劉備のほうが、むしろ魅力的なキャラに映りました。
(PC)
53 赤龍
>>51
子竜さんの書き込みみても「トチ狂った狂信者」と感じるようなものはありませんよ。立派な一つの意見であり、そんなに卑下することはないと思いますが。>>48についても、暴論とはおもえないですし。

その>>48より
「現代日本人の心に深く感銘を与えたor反感を起こさせた」
という点は、最近私も気になっている問題です。
「人気の人物のタイプ」という流行の変化が、曹操人気、劉備不人気にも影響してるんじゃないかな?と。

曹操なり織田信長なりといった、新時代を切り開く革新的な英雄タイプ(と、少なくともそうしたイメージが一般にもたれている)の人物が最近は人気を集めている。
一方で、かつては人気を集めていた、劉備、豊臣秀吉タイプの人物は、以前に比べ人気が無くなっている。
こうした人気の傾向の変化を、現代社会の世相の変化と関連付けて語れれば、一端の論考のように見せられそうなんですが(笑)残念ながら私にそこまで上手く説明するのは無理でした。
(PC)
54 しす
皆さん意見ありがとうございます。
特に>>48の子竜さんの意見は解りやすいし、納得させられるものでした。
何となく胸の支えが取れた思いです。
ここからは私の個人的な意見ですが…
私は劉備が善人だなんてコレっぽっちも思ってないし、彼の行動についても非難されたとしてもある程度は仕方ないだろうなと思ってます。
じゃあ彼が嫌いかと問われると「否」なんですよね。
極端な例ですが劉備に限らず「善人だから好き」「悪人だから嫌い」といったありふれた尺度ではなく違う視線から彼のような人物を評価したっていいじゃないか…と思うんですよね。
(そういう意味では一般的に嫌われがちな頼朝なんかも好きだったりします)
で今の時代だからこそ、ありふれた道徳観に縛られずにこういった人物を「好きだ」と言える土壌が出来ているんじゃないのかと思っていましたが、実はそうでもなかったらしいというのが本音です。

>>52
私も『蒼天航路』の場合、欠点らしい欠点のない曹操よりは劉備の方が好きですね。
ついでですが演義の場合、劉備は嫌いですが曹操は結構好きだったりします。
(PC)
55 朱家
陳寿評が「劉邦」ですからね。陳寿の主観を客観、もしくは当時の人の主観(陳寿一人ではないはず)として尊重するならば、劉邦に特別な感情を持つ中国人にとって、決して押し付けた劉備像ではないでしょう。
「勝者の歴史」と「勝者のいない歴史」の差も大きいと思いますが。

そもそも『正史三国志』が全訳されて20年程度しか経ってないし、一般(普通?)の人が読める、正史系の本が多く発売されるようになったのも最近の事だし、もちろん、演義系による三国志人気の影響だと思いますし、演義と比較して正史を読んでしまう人が多いのも事実ですが、それも全訳されている現代だからこそだと思います。
(PC)
はじめまして。
劉備について、個人的には好きです。
でも、天下統一は無理かな。
組織の時代に、個人的魅力だけでは国は治められないのではないでしょうか。
でも私が仕えるとしたら、劉備ですね。曹操の下では疲れるし、いつ首を斬られるかわからないし。劉備という器の中で、個人的に劉備とつながって、働きたいもの。
蒼天の劉備はキライだけど、横山三国志の劉備が好きですね。
(W41H/au)
57 三国志&水泳
誰がなんと言うと絶対に人徳で乱世を勝ち抜いた名君!
(P701iD/FOMA)
58 叶兄弟
私の個人的な劉備の評価として賞賛される点は、天下人へ登りつめた人物の中でも部下の粛正というものを私の知る限り行なわなかった所につきます。曹操・曹丕、孫権、そして漢の高祖でさえも晩年は粛正の雨あらしです(高祖の場合、呂公の影響も大ですが…)。確かに、一武将の時代は裏切り、遁走の繰り返しでしたが最後まで部下がついてきた理由はその安心感ではないでしょうか?もっとも諸葛亮の存在も大ですけどね
(SO903i/FOMA)
59 巫俊(ふしゅん)
>>58
代わりに後継の諸葛亮が粛清をしまくりました(笑)
ふつう、この場合の粛清というのは国土を伐り拓いた後に、尊大な顔をした臣下が邪魔になってするものです。
戦争に全力を傾けているのですから、戦争の役に立つ人間を排除できません。
逆に戦争の役に立たない上に施政、経営の役にも立たない人間は平時よりも採用されにくくなっています。
そっちの方が健全なのかもしれませんけれど、別にリストラ(極刑をふくむ・・・)や雇用渋りをしない訳じゃないんで、それはそれとしてどうなんでしょうか。
(PC)
60 叶兄弟
確かに巫俊さんのおっしゃる通りで、韓信の言うところの「良狗煮られる」というやつですね。しかしながら劉備という人は孔明の進言を取り入れずに魏延を厚遇したり、劉封の処刑についても超後悔したりと下の者に対して寛容な面が武官や大衆には魅力的だったのでしょうね。本人はあれだけ裏切り行為を行っていながら臣下から裏切られずに天寿を全うできたのは歴史的に見てもレアなケースではないでしょうか?逆に考えるとその義侠心だけが劉備の劉備たるゆえんなんではないでしょうか。夷陵の戦で孔明が制止しきれなかったのもその辺の理由があったんじゃないかと私は考えます。為政者としては失格だと思いますが…
(SO903i/FOMA)
61 巫俊(ふしゅん)
>>60
はい、劉備は益州平定後に益州の武力奪取を非難した益州の旧臣ひとりを誅殺していたはずですし、粛清を何もしていないということはないと思います。
私にとっては劉備の「酒をつくった奴は俺が殺してやるぜ、がるるる」というのがかなり気になるのですが(笑)
しかし誅殺された益州の旧臣にしても、劉備にとっては殺すだけの理由というか許せないことがあったらしく、それを私たちがどう評価するかはともかくとして、乱世の君主というのはそういうものなのだと思います。
一人を殺すのも数十万人を連座刑で殺すのも同じ粛清です。
数十万人を連座刑で殺したのは、自ら高祖劉邦たらんと努力を惜しまずそして衰亡する元朝(モンゴル)を尻目に南京(昔の建業)に都を置いて即位した明の太祖朱元璋(洪武帝)そのひとです。
朱元璋は功臣たちが王朝の財政に手を伸ばし乱費するのに激怒し、自分の社会経済プラン(廃れていた万里の長城の復興、農本主義、古典的古代国家の統治方式の修復)を実現する為に朝廷の人員をそっくり入れ替えてしまったのです。
それは有力な幾つかの派閥を丸ごと反乱謀議の罪にかけて家族親戚ごと皆殺しにしていくというもので、従って何十万人と殺されたのです。
(PC)
62 叶兄弟
禁酒令って簡雍に諌められたあの一件ですよね?確かその諌められ方がユーモラスな感じの
(SO903i/FOMA)
63 赤龍
>>62
ユーモラスというか、ほとんどシモネタですね(笑)
当時の禁酒令、実際には、演義の呂布や張飛みたいな、個人的な理由や思いつきではなく、穀物の不足などに対する政策という面があるようです。国にとっては兵糧などに必要な貴重な穀物を、酒の材料として消費させないようにする、というような意味の。簡雍伝のやつも「当時旱魃で酒が禁止され」と書かれており、酒を作る道具を持っていただけで罰せられそうになったのも、飲酒自体よりも、酒を作ることへの取り締まりが主たる目的だったことを示していると推測できます。

>>61
「天旱禁酒、醸者有刑」と書かれ「殺す」とまでは書かれてませんよね。

細かい事ですが、演義の仁君のイメージの反動か、必要以上に劉備の暴力的イメージが強調されすぎることが多いので念のため。
(PC)
64 叶兄弟
>>63 なるほど、勉強になります。私はてっきり張飛が酒癖の悪さから殺された為、抑止的な処置だとばかり思ってました…
(SO903i/FOMA)
65 寿君
>>64
張飛が酒癖が殊更悪かった記述はなく、部下に殺されたのは単なる過酷な扱いに対する報復だろうと思われます。
(P905i/FOMA)
66 寿君
あっ、>>62で赤龍さんが演義である事に触れておられました。
余計なお節介になりましたる事、平にご容赦を。
イタタ!さらに印象悪くしてしまいましたでしょうか…(;つД`)
(P905i/FOMA)
67 寿君
すいません>>62じゃなくて>>63でした。(立ち直れない…orz)
(P905i/FOMA)
68 叶兄弟
>>66 寿君さん、全然気になさる必要ございませんよ!私は最近このサイトを知り、三国志の勉強をしておりまして、未だ演義と正史の区別もおぼつかない初心者でございます。まして稚拙なレスに対して返信頂けるだけで感謝感激です! へぇ〜そうなんですかぁー張飛+酒=暴って演義の世界だけなんですね!すごいトリビアです。できれば劉備スレなんで、劉備に関してのトリビアが何かあれば教えて下さい!
(SO903i/FOMA)
69 寿君
叶兄弟さん>お気遣いありがとうです。(*^ー^)ノ♪
劉備のトリビアですかあ、この人も中々ミステリアスな人で、個人的には情義の人は曹操で冷徹な人が劉備だと思うのです。
夷陵とて関羽報復と見せかけて実際は荊州回復を狙ってたとも言われます。
戦術の弱点を陸遜に突かれた事。相手が陸遜で凄いから、劉備では勝てないから無謀と言うのは、陸遜が優れていると言う結果から言えるだけです。
陸遜は孫権に「勝てるから安心してください」と手紙を送ってますが、これは孫権を安心させる為と取れるし、「誘導した」と言う戦略に関しても、勝ったから言えるのであり、もしかしたら単に西陵(夷陵)に追い込まれて、そこで持久戦にしたとも取れます。
法正なら制止しただろうと言う諸葛亮の談話も、「益州人の〜」と言う意味合いにも取れます。
言う程無謀じゃありませんよ。結果は陸遜が完全に劉備の布陣をよく点検して、効果的な攻撃をしたから、大敗になっただけ。
それが後々響いたとしても、開戦時点でそこまでの大敗になるなんて想像もつかないと思うし、相手の陸遜すら想像以上の大勝だったかも知れないのです。
僕はそう思っています。
(P905i/FOMA)
70 叶兄弟
なるほど…やはり史実は奥が深いデスねぇ。夷陵戦一つにしても、関羽の仇討ち→熱くなりすぎて→大敗にしかとらえてませんでした。そうですよね、よ〜く考えたら仇討ちにしては関羽がやられてから呉に侵攻するまで結構タイムラグありますもんね!ひょっとすると劉備軍って赤壁後ぐらいから蜀漢建国までトントン拍子というか性急すぎて人材の整備・熟成期間が短すぎるがゆえに終息するのも早かったのでしょうかねぇ?ともかく諸先輩方と語り合うには過去スレ等でもう少し勉強してからでないと…まさに「呉下の阿蒙」の心境です(笑)
(SO903i/FOMA)
71 赤龍
参考までに、>>139の夷陵の戦いのスレでは、劉備の荊州侵攻の理由について色々議論されてますよ。
(PC)
72 寿君
>>70
呉下の阿蒙なら、いずれは関羽を攻略する名将となりますね!

赤龍さんが誘導してくれてる夷陵の戦いスレの皆様のご意見にもありますが、>>69はあくまで私の私的見解です。しかも、深読みしてます。
ただ、単純な理由ではない深い理由があるのは確かだと思います。
ですから、>>69の意見は参考ぐらいにしていただければ、幸いかと思います。

どっちにせよ、劉備は一筋縄では行かぬ人物ではあります。
で劉備の件で宮城谷昌光さんの「三国志」で道教的な人物と言ってるのですが、未だに答えが判りません。
「明日は明日の風が吹く」みたいな感覚の人物と解釈されているのでしょうか?。
例えば、劉備は失った物を省みないし、土地と言う物への執着心がなく、すぐ捨てれるので、生き残れるみたいな事を語っていたと思います。
確かに劉備はそういう点があります。
この道教的な人物ってのを教えてください。道教の思想に詳しくないので、意味の深みが判らないんです。(´-ω-`)
(P905i/FOMA)
73 べん
道教は老子の思想…
孔子的な人為を否定し、根本は無為自然を説いてます。
何も無いが有るから、有るが有る…つまり世の中全て相対的で全くの無価値、無用なものなどない。だから聖人というのは、悪人であっても大切にし、善人ならば師と尊ぶ。とか難解で奥深くとても説明しずらいものです(^^;
第二次大戦後、中国が日本にいった「怨みに報いるに徳を以てす」も老子、「玄徳」も老子です。

老子は最上の政治は『統治者がいると言う事を知るのみで、何かを成し遂げても民衆に「俺達がやったんだ」と思わせるものである』と言っています。これなんか解釈によっては今の民主主義にも思えますよね。

何か老子は難しすぎて自分じゃ上手くまとまりませんが、老子の目指したところは人間も自然の一部なんだから欲を出して人より豊かになりたいとか頭が良いと思われたいとか不自然なことをしないで(所詮そんなものは相対的なのだから)、無為、無知、無欲に生きよ。だと思います(^^;
(N902iX/FOMA)
74 叶兄弟
本来は新たに続編スレを立ち上げた方が良いと思うのですが(スレ主になる自信がまだ無くて…)ご容赦下さい。夷陵の戦について少し勉強しまして自分なりに仮説(妄想?)をたててみたんですが、先ず当時内政に従事していた孔明は益州一国支配ではやがて限界がくることを悟り領土拡大の必要性は感じていたのですがそれは劉備が推し進めていた呉方面(東征)ではなく魏方面つまり後々自身が行う「北伐」ではなかったか?という事、そして「法正が生きていれば…」という件は法正が生きていれば自分と同意見で二人で進言すれば劉備の目を北に向ける事ができたという仮説です。その根拠としまして@法正は元々涼州人で涼州方面の地理人脈に明るかったA蜀内で新に徴兵した兵卒混じりで東征するより漢中駐留軍で魏を攻める方が勝算が高かったのでは?(まして魏延は練兵が巧かった)B馬超・馬岱つながりで北方異民族と連携プレー可能C孫権は和睦したがってたので無理に東征する必要は無しC確かに人材不足だったが魏も世代交代の過渡期でチャンスあり(司馬イも未だ無名)等々です。ではなぜ孔明は劉備に進言しなかった(できなかった)のか…(スンマセン続きます)
(SO903i/FOMA)
75 叶兄弟
(続き)ではなぜ孔明は劉備に進言しなかった(できなかった)という理由を想像してみたのですが@孔明自身に実戦経験・実績が浅く、説得する自信が無かったA予想以上に劉備&荊州派閥の決意が固く、ツケ入る隙が無かった。(自身も一応荊州人ということもあって)Bひょっとすると、北伐となると攻めの中心は当然「魏延」になると思われますが、孔明はこれ以上劉備が魏延を重用する事が好ましくなかったのでは?(法正が生きていても魏延中心だとは思うのですが、劉備直接指揮とは度合いが違う)等々です。ここで劉備に話を戻しますが、やはり劉備は呉侵攻に望む気持は「私怨」の割合が高かったのではないでしょうか?こちらのサイトの「人名辞典」にのってた「秦ビツ」という人も東征を諌めて投獄までされちゃってますし…関羽の死から期間が空いたのも当時の習慣として喪に服す期間(張飛も相次いで殺されたこともあり)があったり、新たに兵力増員・練兵をしたりして準備万端フルパワーで呉に侵攻したかったからでないでしょうか?
まだ勉強途中の身で大それた書き込み、長文申し訳ないです…
(SO903i/FOMA)
76 寿君
>>74-75
うーん、一部は賛同しがたい所もありますが、概ねその考え方も一理かと思いますが、諸葛亮は魏延を毛嫌いしてません。北伐でも大いに起用していて、重用する楊儀と魏延が仲が悪い事を嘆いていて、孫権にも「なんであの程度の奴を重用するんだ」と心配されたりしてます。
また法正は涼州人でなるほど反対したのかも知れませんが、東征推進派ではないのは確実で、荊州に対して権益を持たないから興味はないから反対するのは当たり前。
諸葛亮は荊州人士の代表に位置するから、地盤を失った政権内の荊州人士の事を考え、戦略的にも荊州は要地。形勢が不利になれば、静観してる魏も呉を攻める可能性は否定できない。
西陵を突破するか否かで、状況はいくらでも変化する物と思います。
(P905i/FOMA)
77 寿君
>>73
端的にご教授ありがとうございました。
劉備と言う人物を読み解く上で、大変参考になり、その上、実生活での教訓にすらなりました。お礼申し上げます。
なるほど、そういう風に劉備を捉えてしまったら、劉備の行動は説明は尽きますね。
いやこれは劉備が老荘思想を知っていたと言う訳でなく、元々そういう感性の持ち主だったのではないかと言うのが宮城谷氏の自説なんですけどね。
(P905i/FOMA)
78 寿君
>>76
語弊を恐れて。
法正が戦略的な見地は別にして、「荊州に対して既得権益を持たない故に」と言う個人的な都合で反対するのではないかと言う事。
また、益州人と言ったのは、大雑把にくくって、益州の地元組と荊州からの参入組と言う観点です。
上記の説はやや甘めに言い換えただけですので、ご了解ください。
(P905i/FOMA)
79 叶兄弟
寿君さん、ひとつ教えて頂きたいのですが…なぜ魏は夷陵の戦いの直後、疲弊した蜀を攻めずに呉(合肥)を攻めたのでしょうか?呉の戦線が伸びきっているという判断からでしょうか?(またスレちがいでスイマセン!)
(SO903i/FOMA)
80 寿君
確か、夷陵か曹丕のスレで語られてるんじゃないでしょうか。
まず、臣従しながら中々入朝しない孫権に魏の文帝様がお怒りになり、お仕置きしようとしたのが大義名分。
次に夷陵で勝っても、その余波で武陵蛮等が騒ぎだし、劉備も不気味に永安から動かない。
呉と蜀が仲直りする前に、手薄になった呉の最前線を叩いてやろうって事でしょう。
魏書と呉書では、確かニュアンスが異なりますが、実際、江陵が陥落しかけるまで行って、疫病流行で魏軍撤退してるんですね。

実に孫権にとっては「ギリギリの綱渡り」の時期だったんでしょうね。

と観察しております。もっと詳しい事情もあるけど、長くなるから、私はこれぐらい。
(P905i/FOMA)
81 諏訪
>>74-75
叶兄弟さん、はじめまして。

私は、北伐よりは荊州に侵攻する方がまだしも可能性があったと思います。
結果的に大敗していますから無謀な戦いだったように見えますが、当時呉の荊州統治はまだ安定しておらず、緒戦は順調でしたからね。

一方魏の雍州・涼州方面は、世代交替したといっても曹真は優れた将ですし、張コウのような歴戦の将も健在ですからね。後の諸葛亮の北伐と結果は変わらないと思います。
ちなみに、司馬懿は当時無名ではありません。曹操の幕僚として活躍し、文帝が即位すると尚書僕射になっています。ただ、将として活躍するのは文帝の死後、明帝の時代からですが。

あと細かい点ですが、法正は涼州人ではありませんよ。法正の出身地である扶風郡ビ県は、後漢では司隷校尉の管轄、魏では雍州に属します。
また諸葛亮も徐州の瑯邪郡陽都県の人。荊州人ではありません。
(W51S/au)
82 叶兄弟
寿君さん、そして諏訪さんご教授ありがとうございます!再度勉強し直して再チャレンジいたします!(ちゃんとスレタイにのっとって)
(SO903i/FOMA)
83 寿君
諸葛亮は荊州人士の人脈の中央に位置する人物だと認識していますが、違いますかね?。
(P905i/FOMA)
84 寿君
すいません…勘違いしました。自治会の方か管理人さん、>>83-84を削除してください。お願いします。
(P905i/FOMA)
85 巫俊(ふしゅん)
>>63

以前にレスした際に白文を見て劉備の酒の話を書いたのですが、そのとき刑に処されたという意味で「処刑」と書いてしまい、そうして次にこれを読み返した私が処刑=死刑と思ってしまったみたいですね。申し訳ないです。最近、このような二次的な記憶に因る勘違いが増えてきているみたいで、今痛感しているところです。

ついでながら、後魏の文成帝が禁酒令を出して斬刑としたと唐代の『通典』にありました。
(PC)
86 赤龍
よく見たら>>71はアンカーミスで誘導できてないですね(汗)
夷陵の戦いスレあげときますので、そちらもどうぞ。
(PC)
87 諏訪
劉備は陶謙の後を継いで徐州を支配しましたが、徐州牧あるいは刺史になったという記述が見つかりません。

『後漢書』「呂布伝」では、呂布が降服してきた劉備を豫州刺史にしていますが、『三国志』「呂布伝」や「先主伝」には呂布が劉備を豫州刺史にしたという記述はありません。
劉備は既に陶謙によって豫州刺史にされており、徐州を支配してからも官位は豫州刺史のままだったのではないでしょうか。
(W51S/au)
88 ポニョ
呂布が最期に叫んだ言葉…「大耳野郎!お前がイチバンアテにならん!」(笑)

劉備の敵になった人物は皆そう思ったのでは?

曹操→あれだけ良くしてやったのに裏切りやがって(-_-#)

孫権→荊州を猫ババする気かぁ(-"-;)

劉璋→あれだけ信じてたのに益州奪いやがって(ρ_;)


上のお三方…呂布を含めて4人はあの世で「劉備被害者の会」を立ち上げた…とか(笑)
(W62SA/au)
初めまして無知の横好きです。宜しくお願いします。私は三國志演義の主人公が好きなもので蓆売りから王の子孫を名乗り桃原の契りでデビューに胸をわかしました。黄巾の戦い・王朝の腐敗・連合軍での戦い・収賄への憤り・系図・王允密会・曹操対談・徐州・離散・関羽再会・集結・ジョシヨホウトウコウメイ・蜀・荊州・昭烈帝…主人公を悪く書く小説(史実に基づく)は無いですし着色して有っても真っ赤な嘘では無いでしょ?
途中で引けなくも成っただろうし、あれだけの部下が居たらネ〜だから尊敬してます。初カキコから長々と申し訳ありません。
(P903i/FOMA)
90 しす
>>89
初めまして。
真っ赤な嘘ではないものの、正史と演義でかなりギャップの激しい人物ではありますよ。
もっとも私は演義の人格者よりも、正史の彼の魅力の方に惹かれますね。
私は彼を語る時には、江戸時代の「御家第一」な日本人的な考えは捨てないと彼の魅力は見えてこない気がします。
(912T/SB)
91 バンビ
劉備に関して不思議に思うのが、官渡直前の沛にいる劉備を曹操が攻撃した時の事、曹操と1度も戦わずに逃げたのは何故でしょうか?
1、自分と曹操の軍事能力の差
2、兵力、物資の多さ
3、曹操自ら攻めてこないと思い油断し過ぎていた為にパニクった


自分の考えでは1、2ならそもそも叛旗を翻すなと思うのですが。
3でも少しも戦わないのは…と思うので皆さんの意見など色々お聞かせ下さい!
(W54T/au)
92 徳操
>>91
劉備が挙兵すると、東海相の昌キという人物が呼応したそうです。

また予州の各地で劉備に呼応する動きがあり、曹操は地元有力者の陳グンに慰撫させるなど、かなり各地に劉備(エン紹)シンパがいたようです。
つまり各地の反曹勢力を集結すれば、充分抵抗できると踏んで挙兵するも、うまく連繋が取れず、劉備は小ハイと下ヒを押さえる程度の兵力で曹操の本隊と当たることになり、被害が出る前に東海へ逃げて昌キと合流。

劉備に従ったエン紹シンパを回収するため、エン譚が迎えに来たという流れなんじゃないかと思います。

(CA001/au)
93 朱家
魏の史料である事を差し引くとしても、『魏書』だと、Bですね。それはそれで、関羽や夏侯博のように捕縛された可能性が高いと考えれば、恐るべき能力でしょう(笑)

劉備云々よりも、このあたりの曹操は変ですからね。本当に袁紹が動かないと、根拠なく思い込んでいたか?王忠、劉岱が劉備を潰せずパニクったか?ぐらいですかね。
正月に董承反乱を処理後、劉備討伐へ向かう、二月に袁紹が白馬を攻撃、曹操が戻るのが四月、正確ではないものの、二カ月半程度で、東端まで行って戻る曹操は凄い。逆に言えば、逃げたかどうかは別として、劉備は、組織的な戦いをしてないだろうと考えます。
(W56T/au)
94 バンビ
徳操さん朱家さんレスありがとうございます!

組織として戦う前に反曹の組織が出来なかったという事ですかね?
それじゃあ仕方がないですよね。
(W54T/au)
95 まる太郎
僕は十歳まで中国にいたんですが、向こうの人々の劉備観は時代と共にかなり変化していますよ。
辛亥革命以前は劉備と言えば「劉先主」「昭烈帝」「玄徳様」って中国の黒社会マフィアから普通の庶民まで一貫して尊称されてたのが、今では曹操のほうが人気ですよ。それでも僕みたいな劉備諸葛原理主義者は決して少なくありません。まあ曹操も嫌いではありませんが。

曹操派の正式な台頭は、20世紀になってからだと思います。急進派文豪の魯迅の「曹操は少なくとも一人の英雄である。」という一言は、多くの魯迅を奉信する知識人を曹操派に吸い寄せたのだと思います。魯迅は辛亥革命後の中国の精神的リーダーと呼ばれた人物ですからね。

まあ、時代的要素が強いですよ。

ついでですが、「Q版三国」という中国のアニメはズル賢い劉備が主人公で、めちゃくちゃなストーリーと特徴をとらえたキャラクターが面白いです。日本語版があるかわかりませんが、ぜひ見てみて下さい。
(S004/au)