1 諸葛豊

正史について

みなさんお久しぶりでございます!私はなぜ正史があのようにあいまいでかつ、わかりにくくかいてあるのかすごく疑問です。そこで幅広い知識をもつみなさんにいろいろな意見を聴きたいです。
(N900iS/FOMA)
2
もともと、正確で細かい情報がないからでは?
(F900i/FOMA)
3 エロハシ
ソース不明ですm(__)m あと記憶もあいまいなんで、聞き流す程度で…

陳寿はもともと、蜀の臣ですよね。んで、時に蜀ビイキとか言われたりします。ただ、蜀の人たちの情報は少なかった…。で、陳寿は蜀を基点に三国志を書いたので、魏呉などの記述を多く書けば、蜀伝がみすぼらしくなる…。あとバランスも悪くなる。みたいな感じだったかと…
(P900i/FOMA)
4 赤龍
エロハシさんの言われる説は、清の学者陳レイの説のようです。
(J-SA05)
5 伏仁傑
やはり一番の理由は三つの国の史官の質が違う事ではありませんか?
正史はだいたい次の王朝の史官が、前の王朝の史官が記したモノを纏めるのが常ですから、記録の段階であやふやな国があったのではないでしょうか?
それ抜きでも晋の史官は大変だったでしょうね…
(W11K/au)
6 赤龍
蜀は史官の質云々以前の問題で、史官が置かれていませんでした。そのため陳寿も自分の故国でありながら、資料収集に一番苦労したでしょう。そこからエロハシさんの言われる説が導きだされるわけです。
(J-SA05)
7 赤龍
好意的な意見としては、面白いものの小説的で信憑性に欠ける記事でも、必要と感じれば平気で載せた『史記』等に対し、資料を厳しく吟味し、信頼に足るもののみで編纂したためである。その為、歴代正史でも、特に信頼できる史料として高く評価されている。なんて説明がよく見られます。
(J-SA05)
8 李克用
とりあえずここに書き込みますが、曹冲伝に象の重さを計った話があるそうですが、印度仏経にほとんど同じ話があるようです。
三国時代や後漢末に仏教は広まってきており、混同している話もあるそうです。
(P900i/FOMA)
9 ストラップ
そういえば「後漢書」に、劉備や孫権の伝は立伝されていませんね。彼らは三国志でも「紀」では無く「伝」として書かれていますが、これは曹操が立伝されなかった理由と同じと考えて良いのでしょうか?
(PC)
10 ストラップ
昨日、調べもののついでに見たのですが、
「続日本記 巻第三十 称徳天皇 神護景雲三年七月-宝亀元年九月」
の神護景雲三年(769年)の十月十日に、太宰府が「五経があるだけで三史の正本が無く……」と言上したので、天皇は史記、漢書、後漢書、三国志、晋書をそれぞれ一部賜った……とあります。
僕が知る内では、我が国の歴史で三国志が出て来る最初の記述なのですが、三国志ってどの位前から読まれていたのでしょうか?
>>>205-17>>>205-57-62などから考えれば、日本書紀の時代には伝わっている事は確実とみて間違いないと思いますが。
(PC)
11 ストラップ
僕はあまり三国時代になってからに興味が無い事もあって、「三国関連」の正史というと「三国志」と「後漢書」というイメージが強いのですが……良く考えれば「晋書」ってのもありましたね。もっとも和訳本が出てないし、漢文読めない僕にはまるっきり字を眺めるだけだけど(汗)
(F2102V/FOMA)
12 大本営
史記以外は当時の王朝の命令又は援助で書かれたもので都合の悪い事は曖昧にしてます
(W32SA/au)
13 天草
三国志自体はやはり…

@魏書A蜀書B呉書

の順で正確だと考えて良いのでしょうか?
特に呉書については、にわかには信じられない、中国四千年の歴史を感じる話しが多いですよね?

そんな三国志だけではない正史は、この長い年月どうやって保存されたんでしょう?

その後も反乱やら戦争やらで、焼失されなかったり、紛失しなかったり…というのは凄い事だと思うのですが。
(W31SA/au)
14 ストラップ
>>13
紛失云々については、>>>205-48>>>205-57-62で見られる様に増やしたんだと思いますよ。
(PC)
15 飛燕
>>13
@魏書Aショク書B呉書、という順は陳寿の魏に対する抵抗、と書いてある本を読みましたよ。ショク書を読むと、彼がショクびいきである事を感じさせる記述があり、そのことから彼はショクを正統の魏に準ずる2番目に並べたんだそうです。彼にとっては、魏が正統、というのも納得のできないことだったのかもしれませんね。
(F900iC/FOMA)
16 ストラップ
>>>85-24-28にも正史に関する話題がありましたので、こちらに紹介しておきますね。
(F2102V/FOMA)
17 寿君
>>13
 天草さんにお尋ねしたいのですが、この正確さの基準として、「中国四千年の歴史を感じさせる…(後略)」と述べていらっしゃいますが、これは具体的に言うとどういう事なんでしょうか?。
 いろんなサイトで意見を見てみると「呉書は陳寿の思惑が入ってないから、一番信用できる」みたいな事から信頼なさってる意見も聞きますが、呉書は韋昭の呉書を参考にして書いてるから、孫呉万歳!な記事があり、一番信頼性がないみたいな意見も耳にしました事もあります。
 どうかお教え願えないでしょうか。自分も天草さんと同じ順番(まあ魏書も敗戦や失策を糊塗した記事がありますが)で考えてますが、自信がありません。
(P901iS/FOMA)
18 天草
>>17
実はあまり意味はないんですが…w

呉書にはとにかく妙な人物の話が多いですよね?

方技伝顔負けの、超能力者・透明人間などなど…どう考えても

「そりゃないだろ?」

みたいな人間の話w

そこを、中国四千年の歴史云々…と分かりづらく(笑)説明したんです。

>>13の史書としての正確さを素直に考えるなら、資料が多かったであろう魏の人物の話は当然でしょうが、もしかすると、呉書の方が正確なのかもしれませんね。
何せ蜀書は記述が少なすぎ!

資料が少なかったのでしょう。
(PC)
19 寿君
 えーと確か呉書二十巻の皆々様方ですよね。
 何せ孫権なんか、ある方士にテレポーテーション教えてもらったなんて話もあるぐらいですから(飲んでたコーヒーで蒸せそうになりました)
 私は呉書に関して韋昭が史記なみに詳細に書いたのを陳寿が参考にしてるから、呉録以外の注は無視してます。
 江表伝は「世界の中心で孫呉をさけぶ」内容なんで無視してます。
 一番いいのは、ちくまなら8巻末尾の目次見ながら、該当箇所を読んで行間に潜むものを見つける。
 これが一番面白いし、いいのかも知れませんね。

天草さん、ご意見ありがとうございました。糧にします。m(__)m
(P901iS/FOMA)
20 赤龍
基本的にどう読もうと個人の勝手ですが、せっかく史料が存在するのに「○○は無視」みたいな読み方をすると、自分で視野を狭めていくだけでもったいないなと思います。
どの史料だって「〜を正統とする」みたいな主張は多かれ少なかれ入っているものですし。
むしろ、そうした多方面の主張を併せて読んでいく事で気づくこともあり「行間に潜むものも」読めるようになるというものです。
(PC)
21 寿君
赤龍さん>まったくおっしゃるとおりですね。

 知ったげな事を言って申し訳ありませんでした。
 信用ならないなあと言うのに言葉が過ぎたみたいですね。


 以後慎ませていただきます。
(P901iS/FOMA)
22 司馬散人
陳寿の三国志編纂の経緯をご存知の方いらっしゃいませんか?
以前、史記同様に私家版として編纂された後、内容を評価され正史と認められるようになったと、どこかで読んだ記憶があるのですが、あれって勅命で編纂されたものでは無いのでしょうか?
(J-SH53_a)
23 巫俊(ふしゅん)
最初から私家版だったはずです。
といっても、晋の臣下が書く歴史書ですから、たしか陳寿は晋の皇帝に『三国志』を献上していませんでしたっけ?
ちょっと記憶があいまいなんですけど。

経緯というと、『魏略』や王沈の『魏書』を参考にしたということでしょうか?
(PC)
24 寿君
 確か、私家版で作ったのを、陳寿没後に、西晋の尚書令の范クンらが上書して採録する事を請うたので、詔が下って河南インと洛陽の令が陳寿宅を訪れて、その書を写し取り、これが今に伝わる『三国志』だそうです。
 書自体は、完成した時から、その出来栄えを称賛され、夏侯湛って人は『魏書』を完成してたけど、「とても彼には及ばない」と自著を破り棄て、筆を折ったんだそうです。
(P901iS/FOMA)
25 司馬散人
巫俊さん、寿君さんありがとうございました。

経緯とは、編纂の動機とその目的、方法のことですね。
司馬遷は父の編纂作業を受け継ぎ、若い頃は各地を旅行したり、またいろんな史料を閲覧出来る立場でしたが、陳寿の場合はどうだったのか?と思いまして。
何かエピソードが伝わってないでしょうか?
(J-SH53_a)
26 寿君
 確かにそうですね。僕も司馬散人さんと同じ疑問を感じてます。
 三国志を編纂する事で、同時に故国・蜀の人物を紹介したかったんでしょうか?。
 確かなんかの本で読んだんですが、蜀出身の人物が中央であまり活躍してないので、それを憂えて蜀出身者をアピールする意味もあったみたいな話を読んだ事ありますが…

 実際どうなんでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
27 巫俊(ふしゅん)
『晋書』と『華陽国志』の陳寿伝だったら、ネット上に訳があるようです。

http://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/san-gokushi/index.htm
(たぶんPC限定かな)
(PC)
28 朱家
『魏書』『蜀書』『呉書』を別々の史書として奏上し、それから『三国志』としてますからね。陳寿は、その時代の人ですから、資料を閲覧できる立場になったなら、他国に興味を持つのは不思議ではないと思います。
『史記』『漢書』『三国志』『後漢書』は個人で書かれたものですから、何かの主張や、目的があって調べたのではなく、歴史に興味があって調べ、それをまとめたと考えて良いと思います。『諸葛亮集』や『益部耆旧伝』などは目的があるでしょうが…

『晋書』の事だと、丁儀、丁ヨクの息子達に「賄賂をくれれば、父上の良い伝を書きましょう」とあります。
丁儀、丁ヨクは曹丕に一族の男子を殺され、同族と思われる丁謐は司馬懿に三族殺されてます。生き残った可能性は否定しませんが、『晋書』は、こんなもんです(笑)
(W32K/au)
29 司馬散人
寿君さん》やっぱり気になりますよね〜。
陳寿の立場や価値観が詳しく解ると記述の信憑性も増しますもんね。

巫俊さん》お手数かけて頂き、ありがとうございました。
しかし、PC持って無い私は見れませんでした(:_;)PCの必要性を痛感する今日この頃でした<笑>
(J-SH53_a)
30 赤龍
>>28
『史記』にしろ『漢書』にしろ、単に歴史に興味をもって調べただけの著作なんかではありません。
それぞれ、目的も主張もありますし、著者の主観や思想、理念なども大きく反映されています。それに気付かずに読んでいては、一面的なものの見方しかできないでしょう。
そもそも、現代の歴史学と過去の歴史を書くという行為を同列に考えるのは大きな誤解のもとになります。
(PC)
31 司馬散人
朱家さん》丁寧な説明をありがとうございました。

陳寿は己の価値観(史観)で編纂したと考えて良さそうですね。
また、あまり権力(司馬氏)に阿るつもりも無かったと。
(J-SH53_a)
32 司馬散人
赤龍さん》前レス書いてる途中だったので、気が付かずすいません。

結果的に三国志が正史として認められたと言うことは、晋朝にとって許容範囲の内容だった事になりますね。
(J-SH53_a)
失礼します。
私も司馬散人さんの
おっしゃるように、
陳寿の書いた三国志は、晋朝の許容範囲だったのだと思います。
陳寿はおそらく、
・歴史上の事実。
・晋朝の建て前。
・自らの主観。
の以上の三点から、
正史三国志を書き上げた。それはつまり当時の、歴史の社会化と呼べる
作業であったと思います。話しはズレますが、
それに対し、後代に
描かれた三国志演義は、劉備玄徳を主人公にしながらも、陳寿が描き切れなかった、人間の実像に迫って、三国志を
描き直したものだと、
考えられます。つまり、陳寿が行った作業は、
社会化された歴史の記録。羅漢中が行った作業は、人間化した記録の
ドラマ化と言えるのでは無いでしょうか?

もちろん記録をドラマ化するに当たっては、
正史では取り扱われなかった地元に残る伝聞などを詳細に精査し、信憑性の高いものを、物語として取り入れる等の作業が行われたと思います。
それは、
まったくの虚構では無く、「もしかしたらあったかも知れない」または、「実際はこうだった」等、人間の歴史として、
違和感の無いものに
仕上げられています。
むしろ正史にある
不自然な箇所を考えれば、こちら(演義)の方が
真実なんじゃないかと
思えるほどです。
陳寿の意図が、
一体どこにあったのか?今となっては知るよしもありませんが、三国志に於ける伝聞や異説が多く現存することなどから、陳寿は敢えて「正史」を
三国時代の結論とせず、種々の異説を許容したのかも知れません。
自らから描いた正史すら、この時代(三国時代)が後代に伝わるための、
参考書の一つになるように…
(PENCK/au)
34 朱家
もちろん『三国志』の中には主張も、目的もあります。それは『三国志』の中の事です。
調べたい事があるから、調べたのであって、強制ではありません。「調べたい事」が主張でもあり、目的でもあります。
三国時代に興味(特別な関心)がある。その特別な関心の中身を話してるのではありません。
主張や目的がないと言ってるのではなく、ここでは、司馬遷の「父の遺言」(正しいかどうかは別)のような明確な動機が陳寿にあったか?の答えが求められてるのであって、あえて言うなら「自分の生きた時代を後世に残したい」って動機でしょうか。これも自分の生きた時代に、特別な関心があるからではないですかね。教訓や人物などは前提だと思います。
(W32K/au)
35 朱家
連スレ失礼…

司馬談、班彪を知らずに、陳寿、范曄と同列にしたのは、お詫びしなければなりませんね。
ちょっと調べましたが、司馬談、班彪は、質は違うものの、使命感ですかね。司馬遷、班固は受け継いだと…
まあ、司馬遷、班固を補足する程度の資料しかありませんが(笑)
(W32K/au)
36 ストラップ
>>33
「人間の実像に迫って描き直したもの」
って……
フィクションと歴史を混同する困ったちゃんがここにも一人(汗)
(F2102V/FOMA)
37 寿君
>>33
 そう思ってる割りには、孫堅の死を岩の下敷きって言わないあたりが、不思議ですね。(苦笑)
(P901iS/FOMA)
38 司馬散人
私は、朱子学アレルギーになった後、演義の劉備にリアリティを感じられなくなりましたが、陳寿の劉備評に実像を垣間見た気がして救われました。
(J-SH53_a)
39 狄仁傑
演義の成立過程において、講談・講釈等の庶民文化が影響を与えたであろう事を忘れてはなりません。
いわゆる朱子学的な味付けは三国当時のモノではなく後世のものでは無いでしょうか?
陳寿が取材して歩いた?時代だと劉備等の英傑達の記憶は郷党の古老らにはまだ新しく、ナマな情報があったと推測されます。
(W31SA/au)
40 寿君
 やっぱり、魏や呉は史官が居て記録があったから、丸写しでも良かったけど、蜀書は史官が居なかったから、狄仁傑さんのおっしゃるように取材したんでしょうね。
 その中から得られたソースを、彼なりに厳選に厳選して書いたのが蜀書って事でしょうか?。
(P901iS/FOMA)
41 巫俊(ふしゅん)
>>39
朱子学的な味付けという言葉の解釈しだいですけど、この場合南宋の朱子の学問を指すということもありますが、正史自体が儒教的な評価法を採用しているということに、何がしかのアレルギーを発生させる原因があるのかもしれませんね。
(PC)
42 巫俊(ふしゅん)
陳寿の三国志に朱子学的なものというのも、何やらおかしいのですが、後代の私たちからすると、朱子学をまたいで三国志の世界を覗くという形勢になっていることも事実ですし。
演義、正史いろいろな意味をふくめて。
(PC)
43 司馬散人
私が「朱子学アレルギー」の言いだしっぺなんですが(苦笑)
朱子学のイデオロギィシュな部分に馴染め無くて、演義の虚飾された劉備に、士大夫の理想像が反映されてるみたいに感じて「こんな奴いね〜よ」と感じていたんです。

その後、陳寿の「高祖の風有り」(でしたっけ?)の記述で「(儒者嫌いだった)劉邦に似ているかもしれない!?」と思ったら、急に親しみを感じるようになった訳です。

まぁ、劉邦の時代と劉備の時代では儒教の質と影響力が違いますが、これがきっかけで「侠」にも関心が向くようになりました。
(J-SH53_a)
44 狄仁傑
>>41
>巫俊さん。
演義に後世の朱子学的な評価の痕跡を認める事は私には可能ですが、正史はどうでしょうか?
不勉強なので私にはそれを指摘する事が出来ません…
とは言え、陳寿がいわゆる三国鼎立の煮えたぎる時代より後の平和な位置に居て
【平和な時代の人倫】から戦乱の時代の人物像を評価する事で
人物評におけるある程度の【温度差】を加味して考えるべきだ
とも私は思います。
例えるなら
飢餓下における人肉食の体験を飽食の時代から評価すればおのずと辛くなる…のではないか?って事です。
(W31SA/au)
45 狄仁傑
>>43
>司馬散人さん
劉邦に関しては司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で似たような記述がありましたね。
『産まれたまんまの中国人』だったかな?

あの作品の中では『侠』に憧れる劉邦も描かれてますね。
(W31SA/au)
46 巫俊(ふしゅん)
朱子学以外にも、北宋、南宋の時代の新学や道学と呼ばれた儒学者たちは、歴史にもクチバシを挟んでいます。

とくに乱世の名臣に関する彼らの評価は大変厳しく、二君に仕えるどころか、十人以上の君主に使えた10世紀(五代)の菩薩の如き名宰相馮道に対しては、たくさんの君主に仕えたということだけで断罪してしまっています。

朱子は三国志の君主・臣下の評価もしてると記憶してるんですが、内容は忘れてしまいました。

いわゆる二十四史のなかの新唐書以降については、宋学の影響を強く受けているようですよ。
(PC)
47 赤龍
朱熹は『資治通鑑』をまとめなおした『通鑑綱目』を著しています。
そこでは、『資治通鑑』が魏を正統と扱ったのにたいし、蜀漢を正統王朝として扱い、諸葛亮を忠臣として極めて高く評価しています。
(PC)
48 赤龍
>>28>>46あたりをみて感じるのが、現代の歴史という学問と同じ感覚だけで、過去の「歴史」というものを考えてはならない。ということです。
すなわち、かつての歴史を学び、史書を書き、歴史を論じた人達。彼らは単純な歴史への興味や、事実の探求のみで歴史を学び、記していたわけではありません。時として、自分の信じる思想・理念を表し、証明するための手段として歴史が用いられたということです。
また「儒学者たちは、歴史にもクチバシを挟んで」というと、儒学と歴史が完全な別分野である印象を感じさせますが、実際は儒者であり且つ史家であるというのもごく普通のことです。
これは、日本でも充分当てはまる事は『神皇正統記』や『大日本史』の例を見ても明らかですね。
それこそ「現在の常識で過去を断罪する」ような危険を感じます。
(PC)
49 巫俊(ふしゅん)
クチバシを挟んでないように思っている人もいるかもしれないですから。
宋代の人たちの思っていたものは幻想だと私は判断しますけど、私は幻想のなかでしか人は生きられない、、とも考えるからです。
(PC)
50 巫俊(ふしゅん)
宋代史家も「現在の常識で過去を断罪」してるんですよ。
私の解釈も「も」であることは否定しません。
(PC)
51 赤龍
>>50
そのことは>>48の前半で説明してますよ。
最も、宋代史家に限定せずかつての史家の場合は、常識というよりも、より強烈に自らの信じる(かくあるべきという)思想、価値観で歴史を記してきたことも多々あったと。
だからって、我々までもがそうした見方で歴史を見ても、また偏った見方しかできなくなるわけですが。
(PC)
52 巫俊(ふしゅん)
>>51
片寄っていない歴史叙述など存在できるんでしょうか?
わたしはできないと思いますよ。
極力公平を期することはできるわけで、「当時の人の考え方にしたがってみる」というのもひとつの方策なわけです。
(PC)
53 巫俊(ふしゅん)
あんまりそれを絶対視なさいますと、それが「現在の常識で過去を断罪」する行為と同義であると思われるのですかどんなもんでしょう?
(PC)
54 赤龍
うーん、なんか、問題点ずれてるとこに食いついてきますね(苦笑)
私がここで一番言いたいことは、このスレの主旨に沿って、当時の歴史家の姿に関しての部分なんですけど。

とりあえず>>52について。
歴史を学ぶものにとっては現在の常識のみではからず、背景となる当時の実態や常識を学ぼうとするのは当然の努力。
勿論、当時の人間で無い以上、完全にそれを理解するのは無理であり、人が書く以上、完全に主観をはずすなんてことは無理なのは当たり前。
だからって、その努力を怠っていいのか?放棄してもいいのか?
最終的にどういうスタンスでいくかはその人次第ですが、少なくとも私は、できうる限りこの点に注意するよう心がけています。
これ以上あんまり脱線するようでしたら、歴史を学ぶ方法に関するスレがあったと思うんで、そちらに移った方がいいですね。
(PC)
>>54
>>>395に移しておきました。
(PC)
56 ストラップ
赤龍さんの>>48>>51を読んでいると、現在のジャーナリストの様な感覚で考えれば良いのかなぁという気がします。
(PC)
57 ストラップ
裴松之の方が四半世紀位早くに生まれてはいるようですが、范曄と裴松之はほぼ同時代の人と見てよいのでしょうか?
後漢書と三国志の裴松之注ってどちらが先ですか?裴松之が注に後漢書を引いていない事から考えて、後漢書の方が後なのかなと、予想はしていますが(汗)

二人は同じ様な先行の史料をもとにしたと見てよいのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
58 赤龍
>>57
裴松之が『三国志』の注を完成させ宋の文帝に提出したのが429年。
范曄が『後漢書』を書き始めたのは、432年に宣城太守に左遷された時といわれています。
『後漢書』の方が少し後から書かれたようですが、ほぼ同時代の著作ですね。
(PC)
59 ストラップ
>>58
早速の解答、ありがとうございます。
実はこれが気になってたのは、>>>120-38の事を調べていて、裴松之が「張脩」を、
「臣松之謂張脩応是張衡、非典略之失、則伝写之誤」
としてるのに対し、范曄が「霊帝紀」で、
「秋七月、巴郡妖巫張脩反、寇郡県」
とちゃんと使っていたからなんですよね。
(PC)
60 ストラップ
馬融の兄の馬続ですが、正史の編集に携わっていますよね?

これを理由に馬続(と馬融)は、班彪―班固―班昭という流れと極めて近い学問を修めていると見て良いと思っています。


同郷という事で、親しくしていたのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
61 しす
age
(PC)
62 タケ王子
スミマセン勝手にageさせて下さい。

>>59のストラップさん調べていた先に飛べなくて…気になって…スミマセン。
(W43H/au)
63 ストラップ
>>62
すみません。>>>102-38の誤りです。
(EZ)
64 タケ王子
>>63ストラップさん
お忙しい中、有難うございました。

話は変わりますが、このスレ及びこのスレに付随するスレは、三国志に興味を持ちながらも学がなく関連する書物を持ち合わせていない自分としては、繰り返し読み返すほど面白く、全てを理解することはできないながらも、とても参考になります。

最近こうした議論が少なく、拝見できないのはちょっと残念ですね。

スレ違い大変失礼致しました。
m(_ _)m
(W43H/au)