2 大伴
先ずは現状の調査を(笑)
ゲームで棗祗は、どういう風に扱われていますか?
明日には、調べて概略を書き込みします。
尚棗祗は主に、任峻伝にその記述が見られます。程イク伝にもその名が見られますね。
ゲームで棗祗は、どういう風に扱われていますか?
明日には、調べて概略を書き込みします。
尚棗祗は主に、任峻伝にその記述が見られます。程イク伝にもその名が見られますね。
(F2102V/FOMA)
6 大伴
やはりゲームにも未登場でしたか。
ならば我々で戯志才並のメジャーキャラクターに育てる価値があるというものですね。
小説やマンガには何かで登場しますか?
概説は明日にでもm(__)m
ならば我々で戯志才並のメジャーキャラクターに育てる価値があるというものですね。
小説やマンガには何かで登場しますか?
概説は明日にでもm(__)m
(F2102V/FOMA)
8 大伴
確かに記述は少ないですね。武帝紀に一度、程イク伝に一度、任峻伝に少し名が出るだけですから。しかし戯志才よりは多いと思うのですが……
屯田に関する記述は確かに、裴松之の注によるもので、陳寿は殆ど触れていませんね。
屯田に関する記述は確かに、裴松之の注によるもので、陳寿は殆ど触れていませんね。
(F2102V/FOMA)
9 大伴
棗祗(ソウシ)
@曹操の元で農業政策を執行した人物。任峻伝に、「軍事・国事に必要な物資が豊富になったのは、棗祗が発議して任峻が実現した結果である」とある。
A本来の姓は棘であったが、先祖が難を避けた時に改姓した。
B注に引く「魏武故事」に、曹操が義兵を起こした時、共に従い各所の征討に従事したとあるから、190年頃参入したと思われる。
C袁紹は冀州に入った後(191年以後)、棗祗を欲したが、棗祗は曹操に従い東阿の県令を引き受けた。
D194年、曹操の留守に陳宮と張バクが謀反すると、エン州で呼応しないのは、ケン城、范、東阿のみであった。呂布がそれらを攻めると聞くと、官吏と人民は恐慌きたしたという。陳宮は自ら東阿に向かうが、程イクの騎兵に倉亭津の私を切られ失敗する。程イクが東阿に到着した時、棗祗は官吏と人民を統率し激励して城の防備を固めていたという。
E後に大軍の食糧が欠乏した時、棗祗の東阿から補った様である。
F曹操が許を平定すると、棗祗は韓浩と共に屯田制を献策している。この時、飢饉と干バツで軍無いの糧食が不足していた様である。任峻伝には、「羽林監の潁川の棗祗」と記されている。
(つづく)
@曹操の元で農業政策を執行した人物。任峻伝に、「軍事・国事に必要な物資が豊富になったのは、棗祗が発議して任峻が実現した結果である」とある。
A本来の姓は棘であったが、先祖が難を避けた時に改姓した。
B注に引く「魏武故事」に、曹操が義兵を起こした時、共に従い各所の征討に従事したとあるから、190年頃参入したと思われる。
C袁紹は冀州に入った後(191年以後)、棗祗を欲したが、棗祗は曹操に従い東阿の県令を引き受けた。
D194年、曹操の留守に陳宮と張バクが謀反すると、エン州で呼応しないのは、ケン城、范、東阿のみであった。呂布がそれらを攻めると聞くと、官吏と人民は恐慌きたしたという。陳宮は自ら東阿に向かうが、程イクの騎兵に倉亭津の私を切られ失敗する。程イクが東阿に到着した時、棗祗は官吏と人民を統率し激励して城の防備を固めていたという。
E後に大軍の食糧が欠乏した時、棗祗の東阿から補った様である。
F曹操が許を平定すると、棗祗は韓浩と共に屯田制を献策している。この時、飢饉と干バツで軍無いの糧食が不足していた様である。任峻伝には、「羽林監の潁川の棗祗」と記されている。
(つづく)
(F2102V/FOMA)
10 大伴
G屯田は、人民から募集して許の県下で行わせた。百万石の穀物を取り入れ、郡と国でいずれも田官を置き、数年のうちにいたる所で粟を備蓄した。袁紹の軍がこれの輸送を度々襲った。
H棗祗は屯田制の改正案を提出したが、曹操は迷い、荀イクと議論させた。棗祗の案は「田地分割の策」と表現されている。しかし荀イクは軍祭酒の侯声の言う従来の案(牛の数を基準とした様だ)とどちらが優れているか判断が出来なかった。それでも棗祗は信念を変えず、計算に基づき曹操に意見を述べた。曹操はこれに賛成し、棗祗を屯田都尉にとりたてた。この年は大豊作で、棗祗のその政策によって田地を増大させた。
I棗祗は早くに死んだ様である。郡の太守の官を追贈したが、尚その功績に相応しく無いと曹操は悔やむ。「もと陳留の太守」という記述があるが、追贈は陳留の太守か?又曹操は、侯にとりたてるのを当然と思いながら引きのばしている。棗祗の子、棗処中に爵位領地を与えて棗祗を祭らせ、不朽の事業を評価した様である。
J忠誠有能な天分をもつと、曹操は評価している。
H棗祗は屯田制の改正案を提出したが、曹操は迷い、荀イクと議論させた。棗祗の案は「田地分割の策」と表現されている。しかし荀イクは軍祭酒の侯声の言う従来の案(牛の数を基準とした様だ)とどちらが優れているか判断が出来なかった。それでも棗祗は信念を変えず、計算に基づき曹操に意見を述べた。曹操はこれに賛成し、棗祗を屯田都尉にとりたてた。この年は大豊作で、棗祗のその政策によって田地を増大させた。
I棗祗は早くに死んだ様である。郡の太守の官を追贈したが、尚その功績に相応しく無いと曹操は悔やむ。「もと陳留の太守」という記述があるが、追贈は陳留の太守か?又曹操は、侯にとりたてるのを当然と思いながら引きのばしている。棗祗の子、棗処中に爵位領地を与えて棗祗を祭らせ、不朽の事業を評価した様である。
J忠誠有能な天分をもつと、曹操は評価している。
(F2102V/FOMA)
12 ユウキ
質問よろしいですか??
あまり議論が発展する話では無いかもしれないんですが個人的な疑問で。
先祖が難を受けた際に改名とありますが、どのような難だったのですか?張遼のような感じ…?
あまり議論が発展する話では無いかもしれないんですが個人的な疑問で。
先祖が難を受けた際に改名とありますが、どのような難だったのですか?張遼のような感じ…?
(P900i/FOMA)
13 大伴
Hの内容は私にも良くわかりませんね。
豊作の時は沢山納めさせ、不作の時はあまり納めさせ無いやり方の様ですが……豊作により田地を拡大との関連も不明です……従来の牛のやり方は、使っている牛の数に応じて納めさせたやり方でしょうか?
Aに関しては、あれ以上は不明です。
豊作の時は沢山納めさせ、不作の時はあまり納めさせ無いやり方の様ですが……豊作により田地を拡大との関連も不明です……従来の牛のやり方は、使っている牛の数に応じて納めさせたやり方でしょうか?
Aに関しては、あれ以上は不明です。
(F2102V/FOMA)
14 大伴
従来のやり方は、使用する牛の数に応じて納めさせた。
棗祗の案は、収穫量に応じて納めさせるものだった。
棗祗の案を取り入れた年は、たまたま大豊作であったので、曹操軍に蓄えが増えた。
という事でしょうか?
これだと、不作の時は従事する者を苦しめず(軍は一見損をするが、長期的に見ればそれ程でも無いのか?)、豊作の時には軍が潤うというシステムになりますね。計算が繁雑な様ですが。
棗祗の案は、収穫量に応じて納めさせるものだった。
棗祗の案を取り入れた年は、たまたま大豊作であったので、曹操軍に蓄えが増えた。
という事でしょうか?
これだと、不作の時は従事する者を苦しめず(軍は一見損をするが、長期的に見ればそれ程でも無いのか?)、豊作の時には軍が潤うというシステムになりますね。計算が繁雑な様ですが。
(F2102V/FOMA)
15 赤龍
屯田制の研究を調べましたが、従来は牛一頭あたりいくらという定額の税。棗祗案は、原文では分田の術。収穫を五公五民、官から耕牛も借りてるものは六公四民の割合で納める(つまり一定の割合で分け合う)これなら、豊作で収穫が多い程官も潤う。一方従来案は官は毎年一定の収入がえられる、ということになります。ちなみに五公五民は当時の一般的な小作料と同等だそうです。
(J-SA05)
16 赤龍
「分田」を「田地分割」なんて訳すから、土地を分割するみたいなイメージになり分かりにくくなるんですね。研究者の書き下し文と比較すると、ちくまの和訳はどうも実態をよく把握せず訳してるようです。専門分野が違うからしかたないですが。訳本に依存しすぎるのは危険と改めて確認。
(J-SA05)
17 大伴
成る程。定額から累進課税になった様なものでしょうか。
これだと官自体が、農業指導に力が入りますね。
>>9-10
のCから考えますと、わざわざ曹操の配下にある棗祗を袁紹はヘッドハンティングしようとしていますよね?この時は未だ、屯田案を提出する前の様ですし、他の事で名声があった事も匂わせますね。
武帝紀では韓浩より先に名がありますが、これは棗祗が屯田計画のプロジェクトリーダーだったという事でしょうね。
これだと官自体が、農業指導に力が入りますね。
>>9-10
のCから考えますと、わざわざ曹操の配下にある棗祗を袁紹はヘッドハンティングしようとしていますよね?この時は未だ、屯田案を提出する前の様ですし、他の事で名声があった事も匂わせますね。
武帝紀では韓浩より先に名がありますが、これは棗祗が屯田計画のプロジェクトリーダーだったという事でしょうね。
(F2102V/FOMA)
18 大伴
>>16
原文の読める環境と能力を持たない私としては、今後の大きな課題ですね。
しかし確かにあの箇所は、何が書いてあるのかわかりませんね。訳した人々自身が解らずに訳した可能性もありますね。
尚私はガンマニアなのですが、翻訳書に間違った銃器知識を良く発見します。原文の間違いもあるかも知れませんが、それならば翻訳の時点で訳者が訂正すべきだと考えますね。翻訳者は概ね専門用語にも疎いですし(笑)
原文の読める環境と能力を持たない私としては、今後の大きな課題ですね。
しかし確かにあの箇所は、何が書いてあるのかわかりませんね。訳した人々自身が解らずに訳した可能性もありますね。
尚私はガンマニアなのですが、翻訳書に間違った銃器知識を良く発見します。原文の間違いもあるかも知れませんが、それならば翻訳の時点で訳者が訂正すべきだと考えますね。翻訳者は概ね専門用語にも疎いですし(笑)
(F2102V/FOMA)
19 赤龍
>>10
の「もと陳留太守」という訳。これも原文は「故陳留太守棗祗」つまりここでは「故」は「もとの」ではなく「故人」という意味でとるべきですね。これなら追贈の件と通じます。ここの訳どんどん怪しくなってきたぞ(笑)
の「もと陳留太守」という訳。これも原文は「故陳留太守棗祗」つまりここでは「故」は「もとの」ではなく「故人」という意味でとるべきですね。これなら追贈の件と通じます。ここの訳どんどん怪しくなってきたぞ(笑)
(J-SA05)
25 大伴
>>23
という事は、県までは絞れませんが、棗祗の出身地が判明したという事ですね。
他にも>>9-10の記述から導き出せる事はあるでしょうか?
しかし私は、>>>25-24でちゃんと棗祗に配役を割り振っている(笑)さっき発見して驚きました。
という事は、県までは絞れませんが、棗祗の出身地が判明したという事ですね。
他にも>>9-10の記述から導き出せる事はあるでしょうか?
しかし私は、>>>25-24でちゃんと棗祗に配役を割り振っている(笑)さっき発見して驚きました。
(F2102V/FOMA)
26 大伴
いかん、いかん(笑)
私の目の黒い内は下げる訳にはいかん(笑)
関連スレッドは
>>>28-34-36
(>>>28-47、>>>28-56)
位かな(笑)
屯田制の提案以前はどんな仕事だったのでしょう?
県令をまかされて城の防備を整えている位ですから、軍事に疎かったとは思えませんが、前線に立つタイプかと問われると、後の活躍から考えるに妖しい。
初期の曹操軍は、夏侯惇以外に他に事務処理得意そうな人はいませんよね?(イルノカナ)やはり軍吏みたいな仕事を担ったのでしょうか?
私の目の黒い内は下げる訳にはいかん(笑)
関連スレッドは
>>>28-34-36
(>>>28-47、>>>28-56)
位かな(笑)
屯田制の提案以前はどんな仕事だったのでしょう?
県令をまかされて城の防備を整えている位ですから、軍事に疎かったとは思えませんが、前線に立つタイプかと問われると、後の活躍から考えるに妖しい。
初期の曹操軍は、夏侯惇以外に他に事務処理得意そうな人はいませんよね?(イルノカナ)やはり軍吏みたいな仕事を担ったのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
29 大伴
(F2102V/FOMA)
31 大伴
そうです。月曜の昼を予定しております。
このスレッドも、かなりシツコク上げたから、このサイトではそれなりに棗祗も知名度出てきたかな?
◎ダイジェスト版◎
概要は
>>9-10
陳留の太守とありますが、生前太守であった事は無い。
潁川郡の出身。
袁紹が棗祗をヘッドハンティングしようとしたのは、
191〜194の間でしょうか。
袁紹は冀州に入った後(191)に引き抜きを試みています。又、東阿の県令を引き受けたのは、袁紹の誘いを断ってからですし、陳宮謀反(194)の際はもうすでに東阿の県令ですから。
霊帝崩御が189ですから、かなり早い時期から活躍していた事が推測されますね。
このスレッドも、かなりシツコク上げたから、このサイトではそれなりに棗祗も知名度出てきたかな?
◎ダイジェスト版◎
概要は
>>9-10
陳留の太守とありますが、生前太守であった事は無い。
潁川郡の出身。
袁紹が棗祗をヘッドハンティングしようとしたのは、
191〜194の間でしょうか。
袁紹は冀州に入った後(191)に引き抜きを試みています。又、東阿の県令を引き受けたのは、袁紹の誘いを断ってからですし、陳宮謀反(194)の際はもうすでに東阿の県令ですから。
霊帝崩御が189ですから、かなり早い時期から活躍していた事が推測されますね。
(F2102V/FOMA)
32 大伴
棗家略系図
祗
│
処中
│
拠
├──┐
腆 嵩
単純過ぎる(汗)
拠は字を道彦といい、晋の冀州刺史となった。
嵩は字を台産といい、散騎常侍だった。親子とも才能があると評判で、著述を多く残した。
嵩の兄、腆は字を玄方といい、襄陽の太守となった。文学に優れたという。
祗
│
処中
│
拠
├──┐
腆 嵩
単純過ぎる(汗)
拠は字を道彦といい、晋の冀州刺史となった。
嵩は字を台産といい、散騎常侍だった。親子とも才能があると評判で、著述を多く残した。
嵩の兄、腆は字を玄方といい、襄陽の太守となった。文学に優れたという。
(F2102V/FOMA)
34 エイ
韓元嗣と共に屯田プロジェクトの指揮を執り始めたのは、196年でしょうか?
あと、任伯達は204年に亡くなっていますが、都亭侯となったときには……1人のような……。
『早くに亡くなった』というのは『若死した』のでしょうか?
それとも『太祖の業績中の創成期に亡くなった』ということでしょうか?
もし、後者なら太祖が世に出た頃には既に一時代前の政治家だったとか。
あと、任伯達は204年に亡くなっていますが、都亭侯となったときには……1人のような……。
『早くに亡くなった』というのは『若死した』のでしょうか?
それとも『太祖の業績中の創成期に亡くなった』ということでしょうか?
もし、後者なら太祖が世に出た頃には既に一時代前の政治家だったとか。
(PC)
39 三三
名前だけは何かで見覚えあったので調べてみました
潁川郡、長杜県の人。興平元年(一九四)、超邈・陳宮の謀反の際、東阿を固守。その二年後の建安元年(一九六)には、屯田を献策して屯田都尉になった。屯田制を実施して、深刻な飢餓から一転、許の周辺だけで一〇〇万石の穀物を収穫できるようになったが、彼は早逝した。
なぜこんな人がマイナー?
潁川郡、長杜県の人。興平元年(一九四)、超邈・陳宮の謀反の際、東阿を固守。その二年後の建安元年(一九六)には、屯田を献策して屯田都尉になった。屯田制を実施して、深刻な飢餓から一転、許の周辺だけで一〇〇万石の穀物を収穫できるようになったが、彼は早逝した。
なぜこんな人がマイナー?
(PC)
41 しす
>>>156の鐘ヨウもそうなんですが、この手の人物は評価されにくい部分はありますよね。
ま、それでも鐘ヨウなんかは長生きしたこと、位人臣を極めたこと、また戦場や外交での活躍もあったこと、鐘ヨウ楷書の祖、鐘会の父という幾つかの付加価値があってまだゲームなどでもましな扱いではあるんですけど。
ところでこの手の人物、蜀や呉では誰が相当するのでしょうか?
ま、それでも鐘ヨウなんかは長生きしたこと、位人臣を極めたこと、また戦場や外交での活躍もあったこと、鐘ヨウ楷書の祖、鐘会の父という幾つかの付加価値があってまだゲームなどでもましな扱いではあるんですけど。
ところでこの手の人物、蜀や呉では誰が相当するのでしょうか?
(PC)
42 赤龍
蜀のこの手の人物として、王連はどうでしょう。
劉備の入蜀に抵抗し、その忠義を広く称えられた人物。劉備に仕えた後は司塩校尉となり、塩鉄の販売を管理、多大な利をあげ、蜀の財政に大きく貢献。塩鉄は漢代は国の専売であり、特に益州は塩の産地として有名です。『季漢輔臣賛』でも「軍需担当として頼りにされ」と評されています。
劉備の入蜀に抵抗し、その忠義を広く称えられた人物。劉備に仕えた後は司塩校尉となり、塩鉄の販売を管理、多大な利をあげ、蜀の財政に大きく貢献。塩鉄は漢代は国の専売であり、特に益州は塩の産地として有名です。『季漢輔臣賛』でも「軍需担当として頼りにされ」と評されています。
(J-SA05)
43 赤龍
また、王連は優れた人材を登用したことでも評価されています。諸葛亮が丞相府を開くと、腹心というべき長史に任命されています。
知名度は低いですが、かなりの人物と思います。この人も是非有名にしたいです。
知名度は低いですが、かなりの人物と思います。この人も是非有名にしたいです。
(J-SA05)
44 匿名にしときます。
私は、あんまり、人気は、無いと思いますが、馬岱が好きです。
理由は、諸葛亮が馬岱に罰を加えても、後々理由を知ったときの馬岱の態度と、たとえ階級をとられても、ショクに忠誠を尽くし、諸葛亮の死んだ後でもちゃんと言う事を守ったので私は、馬岱が好きです(^ロ^)
理由は、諸葛亮が馬岱に罰を加えても、後々理由を知ったときの馬岱の態度と、たとえ階級をとられても、ショクに忠誠を尽くし、諸葛亮の死んだ後でもちゃんと言う事を守ったので私は、馬岱が好きです(^ロ^)
(P901i/FOMA)
49 ストラップ
坂口和澄氏の「正史三国志群雄銘銘伝(光人社)」という本に、分田の術について書いてありました。一度>>15で説明してありますが、もう一度書いておきます。どうやら屯田とは無関係のものみたいです(汗)
自分の牛(私牛)を持っているものは軍屯と同じく、収穫高の50%を納める。
漢から借りた牛(官牛)を使って耕作している者は、民屯と同じく収穫の60%を納める。
なお同書で坂口和澄氏は、民屯によって人民の流出を防いだであろうという事も、棗祗の功績の一つに挙げられていました。
自分の牛(私牛)を持っているものは軍屯と同じく、収穫高の50%を納める。
漢から借りた牛(官牛)を使って耕作している者は、民屯と同じく収穫の60%を納める。
なお同書で坂口和澄氏は、民屯によって人民の流出を防いだであろうという事も、棗祗の功績の一つに挙げられていました。
(PC)
50 赤龍
>>49
上記の説明文「軍屯と同じく」「民屯と同じく」の文はそれぞれ不要と思われます。
また、「分田の術」というのは屯田制(民屯)の収穫の徴収法なので、屯田とは無関係なわけではありません。むしろ、屯田制の特徴として、必ず触れられる事ですから。
上記の説明文「軍屯と同じく」「民屯と同じく」の文はそれぞれ不要と思われます。
また、「分田の術」というのは屯田制(民屯)の収穫の徴収法なので、屯田とは無関係なわけではありません。むしろ、屯田制の特徴として、必ず触れられる事ですから。
(PC)
51 ストラップ
(F2102V/FOMA)
52 ストラップ
曹操の民屯については、参考の為に、赤龍さんのブログ記事へのアンカーをつけておきますね☆
http://blog.m.livedoor.jp/amakusa3594/c.cgi?sss=stseugroodevil&id=50028487
http://blog.m.livedoor.jp/amakusa3594/c.cgi?sss=stseugroodevil&id=50028487
(F2102V/FOMA)
53 赤龍
>>51
これは民屯の徴収率の説明なので「民屯と同じく」という部分が不要なのは、とりあえず確実。
軍屯の徴収率がどのようにされていたのか、私にはわからないですが(『三国志』では見つけれませんでした)、『真三国志 一』(学研、1998)の伊藤敏雄氏の文章中に、この徴収率(牛の有無両方)が「軍屯の場合同様」と書かれています。
つまり、この説によると、分田の術による民屯の徴収率そのものが、軍屯と同じであったということになります。
これは民屯の徴収率の説明なので「民屯と同じく」という部分が不要なのは、とりあえず確実。
軍屯の徴収率がどのようにされていたのか、私にはわからないですが(『三国志』では見つけれませんでした)、『真三国志 一』(学研、1998)の伊藤敏雄氏の文章中に、この徴収率(牛の有無両方)が「軍屯の場合同様」と書かれています。
つまり、この説によると、分田の術による民屯の徴収率そのものが、軍屯と同じであったということになります。
(PC)
54 飛燕
>>36
建安18年に、司馬イの提案により、呉との交戦地域・淮河流域と蜀との国境地帯・関中で、軍屯が実施されたそうなので、司馬イもいくらか屯田に絡んでたのかも…。
上記のことは「中国の歴史 三国志の世界」に記載されてるのですが、このあと、さらに゙軍人に寄る屯田、軍屯が実施され、一般人民による民屯よりもさらに効率的な農業生産が行われだとあるのですが、何故軍屯は民屯よりも効率的なのでしょう?
建安18年に、司馬イの提案により、呉との交戦地域・淮河流域と蜀との国境地帯・関中で、軍屯が実施されたそうなので、司馬イもいくらか屯田に絡んでたのかも…。
上記のことは「中国の歴史 三国志の世界」に記載されてるのですが、このあと、さらに゙軍人に寄る屯田、軍屯が実施され、一般人民による民屯よりもさらに効率的な農業生産が行われだとあるのですが、何故軍屯は民屯よりも効率的なのでしょう?
(F900iC/FOMA)
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