1 ユウキ
周喩について。
過去ログチェックしましたが無かったので。
言わずと知れた周喩ですが皆さんの評価はどうでしょうか?
最近赤壁の戦いは小規模(疫病撤退)が話題になりましたが、もしそうなら周喩の果たした功績は小さい物となる気がしますが…。
また赤壁以外での周喩の主な功績はどのようなものがありますか?
なんとなく後世での周喩の評価は過大のような気がします…皆さんの周喩の評価はどのような物ですか?
言わずと知れた周喩ですが皆さんの評価はどうでしょうか?
最近赤壁の戦いは小規模(疫病撤退)が話題になりましたが、もしそうなら周喩の果たした功績は小さい物となる気がしますが…。
また赤壁以外での周喩の主な功績はどのようなものがありますか?
なんとなく後世での周喩の評価は過大のような気がします…皆さんの周喩の評価はどのような物ですか?
(P900i/FOMA)
2 天草
この話題なら、入れそう(笑)
私は嫌いじゃないですよ!
孫策と仲良しだった、という事も関係しているのか、彼は24歳という若さで、一軍を率いてます。
それ以降、孫策の江東平定に最前線で活躍してますから、やはり評価はしもいいんでしょうね。
あと赤壁だけじゃなく、その後の小競り合い(江陵城の戦い)なども残されてますね。
私は嫌いじゃないですよ!
孫策と仲良しだった、という事も関係しているのか、彼は24歳という若さで、一軍を率いてます。
それ以降、孫策の江東平定に最前線で活躍してますから、やはり評価はしもいいんでしょうね。
あと赤壁だけじゃなく、その後の小競り合い(江陵城の戦い)なども残されてますね。
(PC)
3 ユウキ
江稜攻防戦で周喩は矢を受けて尚士気を保つ為に鼓舞したとありますが、矢を受けたということはやはり陣頭指揮型ですよね。
軍師というより将軍のイメージが強いです。
ところで話がズレますがこの時代軍師は軍のどこら辺にいたのでしょうか?やはり後方でしょうか?
軍師というより将軍のイメージが強いです。
ところで話がズレますがこの時代軍師は軍のどこら辺にいたのでしょうか?やはり後方でしょうか?
(P900i/FOMA)
5 天草
そうですね。
周瑜の場合は確かに軍師というよりも、最前線で実際に陣頭指揮にあたった指揮官みたいな役割だったのでしょうね。
統率力に優れた軍略家…みたいな人物でしょうか?
しかし、思ったよりも具体的な話が出てこないのは、本当に残念です!
軍師は私もイメージ的に、戦場でも後方の本陣で、戦場の地図を広げて…みたいな感じで考えてましたが、実際のところはどうなんでしょうね?
周瑜の場合は確かに軍師というよりも、最前線で実際に陣頭指揮にあたった指揮官みたいな役割だったのでしょうね。
統率力に優れた軍略家…みたいな人物でしょうか?
しかし、思ったよりも具体的な話が出てこないのは、本当に残念です!
軍師は私もイメージ的に、戦場でも後方の本陣で、戦場の地図を広げて…みたいな感じで考えてましたが、実際のところはどうなんでしょうね?
(PC)
7 伏仁傑
周喩…ユは口ではなく王偏ですが…
孫策に仕官した当初はともかく、曹氏南下時は軍師と言うよりも前線司令官としての役割だったようですね。『魯粛・程普と共に先鋒として向かい(中略)私(=孫権)は後方にいて物質兵員を送ろう』と命令されている所から見て役割分担は明らかだと思います。
精査したワケではありませんが、どうも孫権はある時期から自分で兵を率いて力戦す…という事が無い印象があります。周喩が死んだら魯粛に、魯粛が亡くなれば呂蒙に、呂蒙が夭逝したら陸遜に…と兵権を委任し続けていますね。
呉都から動けない政治的理由でもあったのでしょうか?
孫策に仕官した当初はともかく、曹氏南下時は軍師と言うよりも前線司令官としての役割だったようですね。『魯粛・程普と共に先鋒として向かい(中略)私(=孫権)は後方にいて物質兵員を送ろう』と命令されている所から見て役割分担は明らかだと思います。
精査したワケではありませんが、どうも孫権はある時期から自分で兵を率いて力戦す…という事が無い印象があります。周喩が死んだら魯粛に、魯粛が亡くなれば呂蒙に、呂蒙が夭逝したら陸遜に…と兵権を委任し続けていますね。
呉都から動けない政治的理由でもあったのでしょうか?
(W11K/au)
8 伏仁傑
連投スイマセン
斐松之は正史周喩伝の注釈で『対曹抗戦は魯粛が口火を切ったのであり、周喩の功績では無い』と批判している。また余談だが魯粛伝で『劉孫連合して曹操に対抗する策は魯粛の案であり諸葛亮の発意では無い』と呉書ショク書の矛盾を批判している。随分魯粛を買っているようにも見えるが
私が思うに当時、曹操南下に対抗するには…と知識人の間では散々議論されているであろうから『誰が言い出した』と細かく指摘するのはナンセンスである。周・魯・諸葛氏はいずれも優れた人物であり、彼等が別な場所でそれぞれ別々に議論して同じ結論が導き出されても何ら不思議は無い。それを史官が『周喩の…『魯粛の…『諸葛の…と各々の功績と記録しても矛盾は無いのではないだろうか?
大切なのはこの三者の意見がほぼ一致し、実際に曹操を退けた。と言う事実でありその功績は各々いささかも褪せる事は無い。
斐松之は正史周喩伝の注釈で『対曹抗戦は魯粛が口火を切ったのであり、周喩の功績では無い』と批判している。また余談だが魯粛伝で『劉孫連合して曹操に対抗する策は魯粛の案であり諸葛亮の発意では無い』と呉書ショク書の矛盾を批判している。随分魯粛を買っているようにも見えるが
私が思うに当時、曹操南下に対抗するには…と知識人の間では散々議論されているであろうから『誰が言い出した』と細かく指摘するのはナンセンスである。周・魯・諸葛氏はいずれも優れた人物であり、彼等が別な場所でそれぞれ別々に議論して同じ結論が導き出されても何ら不思議は無い。それを史官が『周喩の…『魯粛の…『諸葛の…と各々の功績と記録しても矛盾は無いのではないだろうか?
大切なのはこの三者の意見がほぼ一致し、実際に曹操を退けた。と言う事実でありその功績は各々いささかも褪せる事は無い。
(W11K/au)
10 たけがみ
たしか孔明も矢の届くところで兵を叱咤激励していた記憶が…。
一般にいわれる軍師(参謀)という役割が謀をめぐらすことから陣中深くにいるというイメージを作っただけではないでしょうか。大抵は参謀も将として前線に立ったものと思われるのですが。おそらく軍政家と混同されていると。
一般にいわれる軍師(参謀)という役割が謀をめぐらすことから陣中深くにいるというイメージを作っただけではないでしょうか。大抵は参謀も将として前線に立ったものと思われるのですが。おそらく軍政家と混同されていると。
(N900i/FOMA)
11 天草
確かにそういうイメージは考え直す必要がありますよね。
話題を周瑜に戻しますが、政治家としての彼はどうだたのでしょうか?
諸葛亮や司馬懿を初めとして、優秀な人物は戦場だけではなく、政治家としての名も残りますよね。彼はその点、軍事だけに没頭できたのでしょうか?
話題を周瑜に戻しますが、政治家としての彼はどうだたのでしょうか?
諸葛亮や司馬懿を初めとして、優秀な人物は戦場だけではなく、政治家としての名も残りますよね。彼はその点、軍事だけに没頭できたのでしょうか?
(PC)
12 八苦
孫策が孫権に、内政は張昭に、軍事は周喩に問えって遺言してたよね。演儀だけの話かな?きっと軍事に没頭できる程文官に呉は恵まれてたのでしょう。因みに軍帥って参謀という意味よりは軍の責任者って意味だと思いますが…帥って字を使ってるんだから。
(P2102V/FOMA)
14 赤龍
八苦さん、軍帥じゃなくて軍師ですよ。一般的には、戦場にて君主(将)の近くにあり、策を建てる役割の人を指します。後に拡大解釈され、参謀・補佐役・知恵者的存在等をひっくるめた広義の意味で使われるようになります。孔明や周瑜を軍師というのも、こちらの広義の軍師からきてます。
(J-SA05)
15 赤龍
ちなみに、正史等の記述に見える軍師という官職は、軍の行政・司法を担当する官であり、私達が普通使う軍師とは意味が違います。多少ややこしいですが、これらの違いが軍師に対する誤解、混乱の原因となってます。
(J-SA05)
16 八苦
字ぃ間違えた!(笑)広義でいえば参謀=軍師となるでしょうが、かなり広義にしてしまった場合になっちゃいますよ?三国志、とりわけ孔明の存在が参謀と軍師を混同させてしまった一因になってると思いますが、周喩や魯肅、呂蒙などを見れば分かると思いますが、君主より軍の全権を預かった者が軍師なのです。まぁ、赤龍さんの物言いも私の物言いも観点が違うだけですけどね。
(P2102V/FOMA)
17 エロハシ
俺は昔、なんかで三国志の時代には軍師という役職はなかった。というのを見た時があるんですが、「軍師」という役職はあったんですか? あと軍師将軍とはなんなのですかね?(滝汗)
スレずれすいませんm(__)m
スレずれすいませんm(__)m
(P900i/FOMA)
18 赤龍
八苦さん、ですから周瑜等を軍師というのは、軍師の意味が拡大解釈された(もしくは光栄ゲームの影響?)もので、彼等の実態は一軍の司令官。そうした立場の人は本来軍師とは呼ばないのですよ。八苦さんの軍師の定義も、私が先に挙げた軍師の拡大解釈からさらに派生した誤解と思われます。
(J-SA05)
19 八苦
赤龍さん、軍師という言葉も使う場所や使い方により色々という事ですね(^_^!)エロハシさん初めまして。軍師という役職は当時無かったと思います。ただ、軍師将軍という名称の役職は赤龍さんご指摘の通り正史にもありますよね。軍師将軍がどんな仕事だったか私は詳しく知りませんが、身分はかなり低かったと聞いています。赤龍さんと私の議論の中にもあるように、軍師=君主の参謀的な片腕という概念を一度除かないとコンガラガってしまうかもしれません。よね?
(P2102V/FOMA)
20 たけがみ
八苦さんはじめまして。
なにやら軍師の方へ話が流れてますが、軍師という役職は当時から存在します。丞相府、大将軍府、大司馬府など各府毎にありました。五品程度の役職ですから高くはないとはいっても各府では上級官僚だと思われます。蜀の軍師将軍はよくわかりませんが…。
話を周瑜に戻しますが、確かに周瑜の政治家としてのエピソードを聞きませんね。占領地を支配することも当然あったでしょうから一定の行政手腕はあったでしょうが特に取り上げるほどのものはないということでしょうか。
なにやら軍師の方へ話が流れてますが、軍師という役職は当時から存在します。丞相府、大将軍府、大司馬府など各府毎にありました。五品程度の役職ですから高くはないとはいっても各府では上級官僚だと思われます。蜀の軍師将軍はよくわかりませんが…。
話を周瑜に戻しますが、確かに周瑜の政治家としてのエピソードを聞きませんね。占領地を支配することも当然あったでしょうから一定の行政手腕はあったでしょうが特に取り上げるほどのものはないということでしょうか。
(N900i/FOMA)
21 天草
たけがみさんの話で思い出しましたが、確か周瑜は『周郎』と呼ばれて、民衆にも人気があったんでしたよね?そう考えると、破竹の勢いで領土を広げてた彼らが、新しい領地を彼を筆頭に治めてたんでしょうね。。。
ちなみに孫策は『孫郎』と呼ばれてたらしいけど、自分に歯向かってきた敵には容赦なかったらしい。。。
この二人だから、うまくやれてたのかも知れませんね。
ちなみに孫策は『孫郎』と呼ばれてたらしいけど、自分に歯向かってきた敵には容赦なかったらしい。。。
この二人だから、うまくやれてたのかも知れませんね。
(PC)
23 天草
彼の伝に間違いがないなら、周瑜は24歳で建威中郎将になった後、牛渚の守備→春穀県県長→江夏太守になり、この時に橋公(字が出せない…)の妹を妻にしてます。
200年に孫策が暗殺されている事から、結婚したのは24の歳とみて間違いないでしょう。
※生年が175年であることから、24歳なら199年だから
亡くなるのが210年で36歳くらいですから、10年間の結婚生活があったのにも関わらず、子供がいる記述がありません。
孫策が僅か一年で跡取りを作ってた事を考えると(笑)残念ですよね。
独り言っぽい書き込みすいません。。。
200年に孫策が暗殺されている事から、結婚したのは24の歳とみて間違いないでしょう。
※生年が175年であることから、24歳なら199年だから
亡くなるのが210年で36歳くらいですから、10年間の結婚生活があったのにも関わらず、子供がいる記述がありません。
孫策が僅か一年で跡取りを作ってた事を考えると(笑)残念ですよね。
独り言っぽい書き込みすいません。。。
(PC)
24 闘莉王
天草さん、周喩←名前が出ない子どもいなかったんですか?正史詳しくないのでわからないんですが私の読んだ小説(名前忘れた)には周喩の息子が出て来たような…架空人物なんですかね(笑)
(F900i/FOMA)
25 赤龍
周瑜には子供いますよ。二子一女。長男は周循。父周瑜の風があったといわれるが若死。弟周胤は後に罪を犯し流罪に。諸葛瑾等の度重なる助命嘆願により赦されることになったが、ちょうどそのころ病死。一女は孫登の妃になっています。また周循は公主を、周胤も皇室の女を妻としています。
(J-SA05)
26 赤龍
周瑜の兄の子周峻は、周瑜の功を認める意味で偏将軍に任じられたが、死後その子周護は性格に問題があるとして用いられなかったとあります。先の周胤の件と合わせ、孫権が密かに周瑜の存在を疎ましく思っていたため、後に彼の一族に対する不遇があるのだという見方もありますね。
(J-SA05)
27 無問題
皆さん、お久しぶりです。周喩については、子どもたちのあまりの冷遇っぷりに暗殺説が囁かれていますよね。孫権は彼を兄のように慕う反面、疎ましく思っていたのではないでしょうか?あくまで一個人の考えですが
(W21K/au)
28 寿君
周瑜は暗殺されたんじゃないかって言う説は他でも聞いた事があります。
もしそうなら、周瑜は才能を恐れられていた可能性も低くない。赤壁で曹操を破り、孫堅以来の宿願である荊州進出を果たし、ついには百戦錬磨の劉備・関羽・張飛をバラして自陣営に取り込み、益州攻略を企図して天下二分を目指した。この人は孫呉では相当なビッグスケールの英傑ですよね。それでいて、孫権には義兄にあたる存在。孫呉政権内での人気は相当なもの。若き孫権が彼に畏怖を抱いても不思議はないのではないでしょうか。
もしそうなら、周瑜は才能を恐れられていた可能性も低くない。赤壁で曹操を破り、孫堅以来の宿願である荊州進出を果たし、ついには百戦錬磨の劉備・関羽・張飛をバラして自陣営に取り込み、益州攻略を企図して天下二分を目指した。この人は孫呉では相当なビッグスケールの英傑ですよね。それでいて、孫権には義兄にあたる存在。孫呉政権内での人気は相当なもの。若き孫権が彼に畏怖を抱いても不思議はないのではないでしょうか。
(P900i/FOMA)
29 くわぁまん
お!?寿君お初です。
君主にとって大功を上げた配下は言わばライバル的存在になります。
例は劉備の祖先漢の高祖劉邦とその忠臣韓信がそうでした。
韓信自体は裏切ったり独立しようとは考えてませんでしたが、功績を上げれば上げるほど周りに取巻きが出来その流れに巻き込まれてしまい、結果詰め腹を切らされる事になってしまいました。
孫権は孫策ほどの戦上手ではないのでかなり意識してたでしょうね。国を救ったのは孫権ではなく周瑜だと世間は思う、自分はお飾りの君主であると…。
君主にとって大功を上げた配下は言わばライバル的存在になります。
例は劉備の祖先漢の高祖劉邦とその忠臣韓信がそうでした。
韓信自体は裏切ったり独立しようとは考えてませんでしたが、功績を上げれば上げるほど周りに取巻きが出来その流れに巻き込まれてしまい、結果詰め腹を切らされる事になってしまいました。
孫権は孫策ほどの戦上手ではないのでかなり意識してたでしょうね。国を救ったのは孫権ではなく周瑜だと世間は思う、自分はお飾りの君主であると…。
(F901iC/FOMA)
30 無問題
孫権ってそういう黒い噂がけっこうありますよね。周揄暗殺説には劉備が関与しているって説がありますよね。確かに、劉備は当時は益州を狙っていたわけで、動機は十分ありますよね
(W21K/au)
31 寿君
みなさんとは初めましてでございます。よろしくお願いします。
くわぁまんさんのご意見には激しく同意です。
暗殺は飛躍してるようにも思えるし、納得できる説でもあります。何せ、余りにも死のタイミングが良すぎる。
ただ、江陵攻めの戦傷が破傷風となり、死んだのなら納得はいきます。日本でも関ケ原で鉄砲傷を受けた井伊直政は2年後に破傷風が悪化して死んでますから。
でも、孫権は赤壁戦後、周瑜が死ぬまで、悉く周瑜の献策を退けて、魯粛の献策を採用してますよね。
うーん、微妙だ。最近、周瑜〜陸遜に至る短期間の孫呉の軍権交代劇に興味があります。
陸遜以外は何か大仕事完了後に突然死んでますからね。
くわぁまんさんのご意見には激しく同意です。
暗殺は飛躍してるようにも思えるし、納得できる説でもあります。何せ、余りにも死のタイミングが良すぎる。
ただ、江陵攻めの戦傷が破傷風となり、死んだのなら納得はいきます。日本でも関ケ原で鉄砲傷を受けた井伊直政は2年後に破傷風が悪化して死んでますから。
でも、孫権は赤壁戦後、周瑜が死ぬまで、悉く周瑜の献策を退けて、魯粛の献策を採用してますよね。
うーん、微妙だ。最近、周瑜〜陸遜に至る短期間の孫呉の軍権交代劇に興味があります。
陸遜以外は何か大仕事完了後に突然死んでますからね。
(P900i/FOMA)
33 天草
匿名サン>発言内容は問題ないのですが、この討論場では、固定ハンドルでの発言をお願いします。
特例を出すと今後の運営に関わりますので、今回は注意という事にさせてもらいます。
発言内容を考えても、匿名でないといけないような理由はどこにも無いと思われます。
討論場注意事項をもう一度良く確認頂いて、ご協力をお願いします。
特例を出すと今後の運営に関わりますので、今回は注意という事にさせてもらいます。
発言内容を考えても、匿名でないといけないような理由はどこにも無いと思われます。
討論場注意事項をもう一度良く確認頂いて、ご協力をお願いします。
(PC)
34 寿君
匿名さん>
すいません。正しくは義理の兄弟のようなものと言うのが正しいですね。
孫策と周瑜の妻は姉妹。と言う事は、孫策の弟の孫権にとって、孫策の妻は義姉になります。と言う事は孫策の妻の妹の夫・周瑜は義姉にあたらないでしょうか。
実際、私の弟は私の妻の姉の夫を義兄と呼称するし、妻の妹も私を義兄と呼称しています。
周瑜と孫権は義兄弟的関係になると言ったのです。
すいません。正しくは義理の兄弟のようなものと言うのが正しいですね。
孫策と周瑜の妻は姉妹。と言う事は、孫策の弟の孫権にとって、孫策の妻は義姉になります。と言う事は孫策の妻の妹の夫・周瑜は義姉にあたらないでしょうか。
実際、私の弟は私の妻の姉の夫を義兄と呼称するし、妻の妹も私を義兄と呼称しています。
周瑜と孫権は義兄弟的関係になると言ったのです。
(P900i/FOMA)
35 燃燈
話をぶりかえす様で申し訳ありませんが周瑜の暗殺説、もし劉備がからんでるとしたらおもしろいですね。どこかにそれらしい記述はあるのでしょうか?最近三国志にハマったばかりなので詳しくなくてすいません(;Д;)
(W21SA/au)
36 真夕
初めまして、カキコさせてもらいます。
もし周瑜暗殺があったとしたらですが、劉備が絡んでいるというのを本か何かでみたことがあります。何かの席で孫権に「周瑜は今は貴方の下で力を尽くしているが、果たしてこれからもずっと貴方の下で尽くしてくれるのでしょうか?」とあたかも孫権を心配しているように見せかけて揺さぶっていたようです。孫権はそんなことはない、と否定したようですが…
もし周瑜暗殺があったとしたらですが、劉備が絡んでいるというのを本か何かでみたことがあります。何かの席で孫権に「周瑜は今は貴方の下で力を尽くしているが、果たしてこれからもずっと貴方の下で尽くしてくれるのでしょうか?」とあたかも孫権を心配しているように見せかけて揺さぶっていたようです。孫権はそんなことはない、と否定したようですが…
(W21T/au)
37 ストラップ
(F2102V/FOMA)
38 諸葛覧
個人的に、江陵攻防戦の矢傷が影響したのでは、と思います。
ホウ統が流れ矢で戦死したように、この時代の矢傷は現在では拳銃で撃たれたのと同等の感覚ではと。
今なら医学の進歩で助かることもあるでしょうが、当時なら体の重要な機関を損傷した時に完全に直す技術は無かったのではないでしょうか。
ちなみに軍師の役割なら、赤壁以降の魏との小競り合いでは呂蒙がそれっぽい感じがします。総司令官に何かと作戦案を提案してますので。
ホウ統が流れ矢で戦死したように、この時代の矢傷は現在では拳銃で撃たれたのと同等の感覚ではと。
今なら医学の進歩で助かることもあるでしょうが、当時なら体の重要な機関を損傷した時に完全に直す技術は無かったのではないでしょうか。
ちなみに軍師の役割なら、赤壁以降の魏との小競り合いでは呂蒙がそれっぽい感じがします。総司令官に何かと作戦案を提案してますので。
(PC)
39 元歎
(PC)
40 しす
>諸葛覧さん
>>38のホウ統の件ですが>>>189-8で私自身が指摘してますが、流矢にあたるというのは拳銃で撃たれるなどと生やさしいものではありません。
どっちかと言うと「俺達に明日はない」のボニー&クライドの最後…
あるいは「アンタッチャブル」でマローンがフランク・ニティに殺されるシーン…
それぐらい凄惨な状態だと思いますよ。
なのであまり周瑜の場合とは比較にはならないような気が。
>>38のホウ統の件ですが>>>189-8で私自身が指摘してますが、流矢にあたるというのは拳銃で撃たれるなどと生やさしいものではありません。
どっちかと言うと「俺達に明日はない」のボニー&クライドの最後…
あるいは「アンタッチャブル」でマローンがフランク・ニティに殺されるシーン…
それぐらい凄惨な状態だと思いますよ。
なのであまり周瑜の場合とは比較にはならないような気が。
(PC)
41 さくら
なんだか面白い説ですねぇ。でも、周瑜殺して特はないでしょう。劉備が一番特してますし。孫権の周瑜暗殺説よりも、魯粛スパイ説のほうが可能性ありそう。自分の考えにそぐわないから殺すならとっくに張昭は殺されてるでしょう。貴方の母と兄のおかげで仕えてるんですよみたいな事言われるし。
(N900iS/FOMA)
42 元歎
>>41
周瑜の天下二分の刑が成功すれば、孫権は広大な地を手に入れることができますが、その大部分を周瑜が支配することになります。名声ももちろん周瑜が上。豪族達が、周瑜を君主にと薦めれば、孫権は微妙な立場に立たされます。それゆえ暗殺しようとした、と考える人もいますよ。
周瑜の天下二分の刑が成功すれば、孫権は広大な地を手に入れることができますが、その大部分を周瑜が支配することになります。名声ももちろん周瑜が上。豪族達が、周瑜を君主にと薦めれば、孫権は微妙な立場に立たされます。それゆえ暗殺しようとした、と考える人もいますよ。
(PC)
43 さくら
うーん、周瑜は孫家は親戚みたいな付き合いのような間柄だったんですよね。仮に周瑜が活躍して、豪族たちに君主になれって言われても周瑜は断るのでは?孫策が死んだ時自ら先だって忠誠を誓ってるのに、名家の人間でも理君主の首変えたら汚名がついちゃいますよ。孫権が君主にふさわしくない人だったらともかく(;^_^
孫権が周瑜の意見と合わないのは孫権が戦争に消極的で、単に兵力けちってるだけですよ。(笑)呉は人口密度低いらしいですから。
そもそも孫権は周瑜に猜疑心はないと思います。晩年の陸遜の憤死で猜疑心が強く才ある人材をむざむざ死なすなんてかれてるからそういう性格だと思われてるみたいですが、若い頃はそんなのないように思いますよ。
それに、呂蒙を評す時に周瑜を例にして高く評価してますし、皇帝になった時は周瑜のおかげみたいな事いってますから特別だったのでは?
・・なんか孫権擁護レスになってしまいました。
孫権が周瑜の意見と合わないのは孫権が戦争に消極的で、単に兵力けちってるだけですよ。(笑)呉は人口密度低いらしいですから。
そもそも孫権は周瑜に猜疑心はないと思います。晩年の陸遜の憤死で猜疑心が強く才ある人材をむざむざ死なすなんてかれてるからそういう性格だと思われてるみたいですが、若い頃はそんなのないように思いますよ。
それに、呂蒙を評す時に周瑜を例にして高く評価してますし、皇帝になった時は周瑜のおかげみたいな事いってますから特別だったのでは?
・・なんか孫権擁護レスになってしまいました。
(N900iS/FOMA)
44 元歎
周瑜が断るかどうかは問題じゃないですよ。断っても豪族たちは無理やり周瑜の臣下になるかもしれません(>>29参考)。どちらにせよ、孫権と豪族たちの信頼関係が揺らぐわけですから、孫権にとっては脅威です。ただ、これでは、かなり弱いですね…。他にないかなぁ…
>>9
古いレスを引っ張ってきました(笑)『三国志』を読んでいて、たまたま見つけたんで。
僕にとってはかなり意外だったんですが、張昭も軍を率いていたんですね。孫権の時代、黄巾賊(残党?)が乱をおこしたので、張昭が討伐に向かいこれを見事平定。また、孫権が合肥に遠征した時も別働隊として匡[王+奇]を伐つ。さらに部将を指揮して、豫章の賊徒の頭領である周鳳たちを南城に攻めて、これを打ち破る…。『三国志』にはこの後、「それ以後は張昭がみずから軍を指揮することはまれで…」と続きます。けっこう軍を率いてたようですね。張昭って万能だったのかも…。
(スレ違いすいません!!)
>>9
古いレスを引っ張ってきました(笑)『三国志』を読んでいて、たまたま見つけたんで。
僕にとってはかなり意外だったんですが、張昭も軍を率いていたんですね。孫権の時代、黄巾賊(残党?)が乱をおこしたので、張昭が討伐に向かいこれを見事平定。また、孫権が合肥に遠征した時も別働隊として匡[王+奇]を伐つ。さらに部将を指揮して、豫章の賊徒の頭領である周鳳たちを南城に攻めて、これを打ち破る…。『三国志』にはこの後、「それ以後は張昭がみずから軍を指揮することはまれで…」と続きます。けっこう軍を率いてたようですね。張昭って万能だったのかも…。
(スレ違いすいません!!)
(PC)
45 真夕
そういえばこの時期周本家はどうなっていたのでしょうか?今だ有力であったなら本家が出てきて周瑜をたてようとするとか…ありえませんか;
>>44
張昭も軍を率いていたんですね…以外です。孫権が皇帝になってから「周瑜のおかげでここにいるのだ。お前の言を聞いていたら曹操に食べさせてもらわなければならなかった」と言われ、苦い思いをしたとか…今思うと運がないというかなんというか…
>>44
張昭も軍を率いていたんですね…以外です。孫権が皇帝になってから「周瑜のおかげでここにいるのだ。お前の言を聞いていたら曹操に食べさせてもらわなければならなかった」と言われ、苦い思いをしたとか…今思うと運がないというかなんというか…
(W21T/au)
47 ぺろ
>>42の天下二分計ですが、個人的にかなり無理のある策と思っております、まず陸軍を率いての大遠征、劉備曹操の動向、さらに長期化すれば莫大な兵糧が必要になってきます、これについてみなさんはどう思われるでしょうか??
(W21H/au)
48 元歎
天下二分は成功したと思いますよ。赤壁の時も勝つとは思えなかったのを、天祐とはいえ迎撃したわけですし。二分された後、どうなるかは考えてませんが。
二分の計関連について、周瑜はこう考えたのだろう、という面白い説があります。以下要約です。
孫呉最大の弱点は孫家の家柄の悪さ。そのため、孫策は献帝保護を目的として許都襲撃を計画した。しかし、今は皇族である劉備が孫権の元にいる。劉備を反曹操の旗頭にすれば良い。だから、『劉備を呉に留め、(帝を奉るための)宮殿を造り、(帝にふさわしい)美女や愛玩物を提供』したのだ。関羽や張飛を自分が扱えると考えたのは、劉備を軟禁するわけではないからだ。『遠い将来の事を考えれば』というのは、曹家が漢を滅ぼした時の事。そして二分の計。周瑜の蜀を奪う計画は現実性は大いにあった。劉備が実際に成功している。さらに、ホウ統はこの時、『精鋭を選び、成都に直行し急襲すべき』と劉備に進言している。周瑜もおそらく本拠直撃を狙っており、短期間に成都を制圧できるという勝算があった。周瑜が蜀を併呑する間の呉の防衛は、揚州・荊州の長江流域をすでに押さえている以上、そう簡単には防衛ラインを突破する事はできない。呂蒙あたりが残っていれば、拠点防御面で問題はない。このように考えた場合、周瑜の天下二分の策は、孫呉が天下統一を成し遂げるためには、これしかないと言って良いほど、純粋軍事戦略的に精錬された策である。ただし、これが天下二分の策の真相だったすれば、孫権が周瑜の提案を受け入れなかったのは、当然至極と言える。天下統一は二の次として、孫権を皇帝とする事に目標を置く魯粛案と、天下統一を目標として、名目上のトップとして劉備を担げという周瑜案。どっちを孫権が受け入れるかは、その後を見れば一目瞭然だ。
以上です。そもそも劉備を担ごうとしていたわけですね。だから劉備方面も心配ないと。
なかなか面白いと思いませんか? 今のところ僕はこの考えに傾いています。
二分の計関連について、周瑜はこう考えたのだろう、という面白い説があります。以下要約です。
孫呉最大の弱点は孫家の家柄の悪さ。そのため、孫策は献帝保護を目的として許都襲撃を計画した。しかし、今は皇族である劉備が孫権の元にいる。劉備を反曹操の旗頭にすれば良い。だから、『劉備を呉に留め、(帝を奉るための)宮殿を造り、(帝にふさわしい)美女や愛玩物を提供』したのだ。関羽や張飛を自分が扱えると考えたのは、劉備を軟禁するわけではないからだ。『遠い将来の事を考えれば』というのは、曹家が漢を滅ぼした時の事。そして二分の計。周瑜の蜀を奪う計画は現実性は大いにあった。劉備が実際に成功している。さらに、ホウ統はこの時、『精鋭を選び、成都に直行し急襲すべき』と劉備に進言している。周瑜もおそらく本拠直撃を狙っており、短期間に成都を制圧できるという勝算があった。周瑜が蜀を併呑する間の呉の防衛は、揚州・荊州の長江流域をすでに押さえている以上、そう簡単には防衛ラインを突破する事はできない。呂蒙あたりが残っていれば、拠点防御面で問題はない。このように考えた場合、周瑜の天下二分の策は、孫呉が天下統一を成し遂げるためには、これしかないと言って良いほど、純粋軍事戦略的に精錬された策である。ただし、これが天下二分の策の真相だったすれば、孫権が周瑜の提案を受け入れなかったのは、当然至極と言える。天下統一は二の次として、孫権を皇帝とする事に目標を置く魯粛案と、天下統一を目標として、名目上のトップとして劉備を担げという周瑜案。どっちを孫権が受け入れるかは、その後を見れば一目瞭然だ。
以上です。そもそも劉備を担ごうとしていたわけですね。だから劉備方面も心配ないと。
なかなか面白いと思いませんか? 今のところ僕はこの考えに傾いています。
(PC)
49 朱家
拠点は江陵ですから、遠征は劉備と同じですよ。戦力、人材は劉備よりはるかに上ですし、周瑜が江陵を攻めてる時、孫権は合肥に侵攻してるし、周瑜死後、孫瑜に命じて蜀に侵攻しようとしてるので、結構、余裕あるんじゃないかな?
とりあえず劉璋は、張魯に対処(中枢に近いし、家族皆殺ししてるから)しないとならないので、全軍で周瑜にあたれないんです。周瑜は短期決戦するでしょうから、それに失敗したら戦死するだけと思います。そうなったら歴史どおりに戻るでしょう。
周瑜の策の弱点は「孫瑜に蜀を統治(進軍もする)させる」です。孫瑜は優秀で、評判の良い人物ですが、武力制圧後の蜀を治めるのは困難で、それほどの人物かどうか…自身が蜀を治めるのは危険ですからね。
蜀の制圧は高い確率で成功すると思いますが、その後の張魯と襄陽侵攻が、ちょっとキツイと思います。両方とも制圧しないと、かなり不安定な領土ですからね。
とりあえず劉璋は、張魯に対処(中枢に近いし、家族皆殺ししてるから)しないとならないので、全軍で周瑜にあたれないんです。周瑜は短期決戦するでしょうから、それに失敗したら戦死するだけと思います。そうなったら歴史どおりに戻るでしょう。
周瑜の策の弱点は「孫瑜に蜀を統治(進軍もする)させる」です。孫瑜は優秀で、評判の良い人物ですが、武力制圧後の蜀を治めるのは困難で、それほどの人物かどうか…自身が蜀を治めるのは危険ですからね。
蜀の制圧は高い確率で成功すると思いますが、その後の張魯と襄陽侵攻が、ちょっとキツイと思います。両方とも制圧しないと、かなり不安定な領土ですからね。
(EZ)
50 ぺろ
元ギさん毎度レスありがとうございます(^0^)/劉備を担いでの天下号令案は確かに大儀もあるし戦略としてはかなり優れていると思います。しかしそうなった場合孔明や鳳統はどう動くのでしょうか?それと成都奇襲案ですが、劉備の場合すでに益州内部での反乱、さらに内通者がいたので実現可能ですが周ゆの場合はどういった方法で奇襲する予定だったのでしょうか?
(W21H/au)
51 元歎
ホウ統は周瑜存命中は孫権(周瑜の功曹)に仕えているので、ホウ統は周瑜に従うでしょう。諸葛亮についてですが、主君である劉備が名目とはいえ孫権の上に立つわけのですから、不満などあるはずがないし、劉備の部下である諸葛亮は何らかの官職を貰って、いつかは懐柔されるでしょう。
周瑜も劉備がやった謀略ぐらいできるでしょう。益州の張松・法正・孟達は現に劉備に通じていたのですから、周瑜の名目上の主君である劉備に寝返るはずで、李厳らも寝返るかもしれません。(劉備が旗頭でなくても、孫権は為政者・君主として劉備より優れているので、どちらにしても寝返るでしょう)
あと、元ギじゃなくて元タンです(T_T) (笑)
周瑜も劉備がやった謀略ぐらいできるでしょう。益州の張松・法正・孟達は現に劉備に通じていたのですから、周瑜の名目上の主君である劉備に寝返るはずで、李厳らも寝返るかもしれません。(劉備が旗頭でなくても、孫権は為政者・君主として劉備より優れているので、どちらにしても寝返るでしょう)
あと、元ギじゃなくて元タンです(T_T) (笑)
(PC)
54 元歎
>>52
そこが気になるんですよね〜。孫権が、劉備を皇帝として認めるのか…いや、古参の程普などや魯粛もわかりません。周瑜はそこまで考えていたのでしょうかね? 政治家ならそういうところまで考えてそうですが。
そこが気になるんですよね〜。孫権が、劉備を皇帝として認めるのか…いや、古参の程普などや魯粛もわかりません。周瑜はそこまで考えていたのでしょうかね? 政治家ならそういうところまで考えてそうですが。
(PC)
55 ぺろ
元たんさん久しぶりです(^0^)/確かに劉備を擁立→天下号令だと必ず反対勢力が出てきそうですよね、特に後に周ゆの後任者の魯粛も孫権を皇帝にするなんて事いってたみたいだし、実は孔明の三分計よりも周ゆの二分計を利用した方が天下布武の実現性はあったかもしれませんね...
(W21H/au)
56 オガコロ
周瑜は孔明にもてあそばれてなかったと私は思います。演技では孔明の掌の上で踊らされてますが、あれは孔明をひきたてるためのものだと思います。まぁ実際のところ周瑜がどれほどの実力だったかは分かりませんが、孔明と互角程の能力は持っていたと自分は思います。
(EZ)
57 よかいち
初めましてm(__)m楽しく拝見させてもらってます。
赤壁辺りの諸葛亮と周瑜のゴタゴタは演義の創作ですよね?確か。
赤壁での火計は黄蓋の策ですから、案外、目に付く活躍がなかったように感じます。
ただ、劉備を警戒したところなんかを見ると眼が肥えているのではないでしょうか?
赤壁辺りの諸葛亮と周瑜のゴタゴタは演義の創作ですよね?確か。
赤壁での火計は黄蓋の策ですから、案外、目に付く活躍がなかったように感じます。
ただ、劉備を警戒したところなんかを見ると眼が肥えているのではないでしょうか?
(EZ)
58 ぺろ
オガコロさん、よかいちさん初めまして!!お二人とも周ユの事非常に高く評価されてるみたいですね!少し前のレスで周ユの大計天下二分の計という戦略について討論しておりますので、よかったら御覧になってください!
(PC)
59 オガコロ
ペロさんはじめまして。実は僕は正史の方にはあまり詳しくないので、ちょっと話題についていけない気がしまして……(^^;)笑
みなさんすごいですよね(^o^)演技なら結構知識はあるつもりなんですが…笑"でも周瑜の天下二分の計には無理がちとあった気がします。
みなさんすごいですよね(^o^)演技なら結構知識はあるつもりなんですが…笑"でも周瑜の天下二分の計には無理がちとあった気がします。
(EZ)
61 オガコロ
あくまで私の考えなのですが、天下二分の計を行おうとするには荊州の劉備、益州の劉璋などのなかなかの強豪がいます。そして益州までとなると兵糧輸送が非常に難しくなりますし、劉備や劉璋と戦うとなると兵たちの疲労は計り知れないものになると思います。それにこれは曹操に絶好のチャンスを与えるようなものです。曹操は漁夫の利を得るだけになってしまいますし、また呉(まだこの当時は建国されてませんが)の背後には山越もいます。こんな状況では益州までを平定するには莫大な費用と兵糧、そして長い時間もかかりますし、軍需品も不足してきます。これでは勢力を広げるどころか逆に国力は低下すると思います。よって結局は曹操が得をするだけで終わってしまうだろうというのが私の考えです。
(EZ)
62 元歎
兵糧輸送などに関しては朱家さんの>>49をご覧ください。
劉備には南部四郡の攻略や統治などいろいろあったはずです。あと、僕の考えとしては劉備を擁立しようとしていたとしているので、劉備は『敵』ではありません。まあ、擁立はできなかったのですが。
長い時間はかからなかったはずです。いくつか前のレスの通り、本拠直撃を狙っていたと思いますから。
言ってることが>>48と変わってないですね…。
劉備には南部四郡の攻略や統治などいろいろあったはずです。あと、僕の考えとしては劉備を擁立しようとしていたとしているので、劉備は『敵』ではありません。まあ、擁立はできなかったのですが。
長い時間はかからなかったはずです。いくつか前のレスの通り、本拠直撃を狙っていたと思いますから。
言ってることが>>48と変わってないですね…。
(PC)
64 ぺろ
擁立に関しては呉国内でも君主の孫権を差し置いて劉備を筆頭にするのはかなり難しいと思いますよ、劉備側からすればかなりの好機だったと思いますけど、どの道作戦にかかる目前で周ゆが死んだので何ともいえませんね...
(W21H/au)
65 景文
失礼します。うーん、ここも話が終わった後ですかね…(;-_-A
孫権治世時代の軍の中心人物の早い死にまつわる黒い噂…非常に興味深い話でした。権はグレーゾーンな立場ですね。
私の周瑜像は…美周郎と言われる色男、頭も切れ、音楽にも非凡な才があり、奥さんは美人、君主と義理の兄弟の間柄、そして軍を統括して大功を上げる。これといった失敗もなく、志半ばで倒れる…正直嫌な奴ですね
孫権治世時代の軍の中心人物の早い死にまつわる黒い噂…非常に興味深い話でした。権はグレーゾーンな立場ですね。
私の周瑜像は…美周郎と言われる色男、頭も切れ、音楽にも非凡な才があり、奥さんは美人、君主と義理の兄弟の間柄、そして軍を統括して大功を上げる。これといった失敗もなく、志半ばで倒れる…正直嫌な奴ですね
(P900i/FOMA)
66 元歎
いや、だから擁立はできなかったんですよ。孫権が周瑜の策をとらなかったので…。
君主といっても、この頃の孫権はあまり強いことは言えません。赤壁前夜も、皆が認める功績があった周瑜や程普が抗戦を主張したからこそ、降伏派を押し切ることができたのです。また、司令官を周瑜と程普と二人選んでいます(周瑜の方が上かもしれないが、ほぼ同格)。程普が周瑜の下で指示を受けるのは、孫堅以来の宿将・程普にとって屈辱だろうと気を配ったからだと考えられます。しかし、このことで曹操の大軍を前にしながら、主導権争いのようなことを周瑜・程普はしたようですが…。他にも、色々孫権は配下に気をつかってますよ。まあ、このように、孫権が主導性を発揮することはできなかったのです、この頃は。それに、清流派の文官たちは一応の皇族・劉備を選ぶと思われます。孫家は家柄が悪いですし…。
君主といっても、この頃の孫権はあまり強いことは言えません。赤壁前夜も、皆が認める功績があった周瑜や程普が抗戦を主張したからこそ、降伏派を押し切ることができたのです。また、司令官を周瑜と程普と二人選んでいます(周瑜の方が上かもしれないが、ほぼ同格)。程普が周瑜の下で指示を受けるのは、孫堅以来の宿将・程普にとって屈辱だろうと気を配ったからだと考えられます。しかし、このことで曹操の大軍を前にしながら、主導権争いのようなことを周瑜・程普はしたようですが…。他にも、色々孫権は配下に気をつかってますよ。まあ、このように、孫権が主導性を発揮することはできなかったのです、この頃は。それに、清流派の文官たちは一応の皇族・劉備を選ぶと思われます。孫家は家柄が悪いですし…。
(PC)
67 光
過去スレ見てたら発見したのでアゲ!
面白い話しをしてますね。逆に天下二分計がその通り(劉備を立てる)計画であったのであれば、その前の孫権による、周ユ暗殺説が強くなると思いませんか?周ユを疑う理由がより強くなりますよね?
周ユ暗殺説の信憑性が問われてますが、自分は周ユ暗殺説は有り得ると思ってます。自分は劉備陣営による周ユ暗殺説を考えてます。まず周ユの後任が魯粛である事。そしてホウ統の存在。そして古傷の悪化。最後に劉備側にはあまりに都合の良い時期だった事。
なんで周ユは意見が全く噛み合ってなかった魯粛を後任にしたのか?少し不思議に捉らえる事も可能だと思います。
そしてホウ統、この頃はまだ孫権の配下ですよね?そのホウ統と言えば諸葛亮と親交があった。さらにホウ統はその後すぐさま劉備陣営へ・・・これも不思議に見えます。
そして古傷の悪化!コレが死因にしては余りに周ユは元気に飛び回り過ぎではないかと思います。或は飛び回り過ぎが原因の悪化かも知れませんが・・・
最後に説明不要で劉備陣営にとって都合が良すぎます。
コレに先ほどの孫権の関与を考えると周ユ暗殺はかなり簡単に行えそうでもありますし・・・皆さんの意見が聞きたいです。
面白い話しをしてますね。逆に天下二分計がその通り(劉備を立てる)計画であったのであれば、その前の孫権による、周ユ暗殺説が強くなると思いませんか?周ユを疑う理由がより強くなりますよね?
周ユ暗殺説の信憑性が問われてますが、自分は周ユ暗殺説は有り得ると思ってます。自分は劉備陣営による周ユ暗殺説を考えてます。まず周ユの後任が魯粛である事。そしてホウ統の存在。そして古傷の悪化。最後に劉備側にはあまりに都合の良い時期だった事。
なんで周ユは意見が全く噛み合ってなかった魯粛を後任にしたのか?少し不思議に捉らえる事も可能だと思います。
そしてホウ統、この頃はまだ孫権の配下ですよね?そのホウ統と言えば諸葛亮と親交があった。さらにホウ統はその後すぐさま劉備陣営へ・・・これも不思議に見えます。
そして古傷の悪化!コレが死因にしては余りに周ユは元気に飛び回り過ぎではないかと思います。或は飛び回り過ぎが原因の悪化かも知れませんが・・・
最後に説明不要で劉備陣営にとって都合が良すぎます。
コレに先ほどの孫権の関与を考えると周ユ暗殺はかなり簡単に行えそうでもありますし・・・皆さんの意見が聞きたいです。
(F901iC/FOMA)
68 光
言うならば、天下三分にはどうしても周ユの存在が邪魔であり劉備陣営にとっては正に目の上のコブ。取り除きたいのは当然で、天下三分をするなら益州に攻め入らなければならない。しかし周ユがいる限り益州に攻める為の入口にあたる南郡が手に入らない。周ユは益州進出を睨んで江陵を落とした訳で、周ユが譲る事は有り得ない、さらには益州進出を狙っている。周ユは劉備が益州を狙っている事もわかっていたはず、つまり周ユがいる限り天下三分は無理。
暗殺の可能性は有り得なくはないと思います。
当時ホウ統は周ユの下にいましたし(実行犯か?)、魯粛は周ユ亡き後、後任なったと思ったら劉備に周ユが苦心の末に手に入れた江陵(周ユが正に死ぬ程の怪我してまで取ったのよ?)をあっさり貸し与えますし、孫権は周ユに許可を出した益州進出(その計画を実行する最中の死、ある意味遺言以上の事でしょ?)を行わないし、周ユは劉備が孫権に会いに行った時、すぐ手紙を書いて、却下されたと知るやいなや江陵から孫権に会いに行って(随分元気に活動?)さらには許可貰ったらさっそく準備して(やっぱり元気?)江陵に戻る途中に・・・これは何かあってもおかしくないのでは?と自分はやっぱり思ってしまいます。
暗殺の可能性は有り得なくはないと思います。
当時ホウ統は周ユの下にいましたし(実行犯か?)、魯粛は周ユ亡き後、後任なったと思ったら劉備に周ユが苦心の末に手に入れた江陵(周ユが正に死ぬ程の怪我してまで取ったのよ?)をあっさり貸し与えますし、孫権は周ユに許可を出した益州進出(その計画を実行する最中の死、ある意味遺言以上の事でしょ?)を行わないし、周ユは劉備が孫権に会いに行った時、すぐ手紙を書いて、却下されたと知るやいなや江陵から孫権に会いに行って(随分元気に活動?)さらには許可貰ったらさっそく準備して(やっぱり元気?)江陵に戻る途中に・・・これは何かあってもおかしくないのでは?と自分はやっぱり思ってしまいます。
(F901iC/FOMA)
69 光
スレッドの周ユの後世での過大評価についてですが、逆に自分が思うのは周ユは後世で演義が書かれてから逆に過小評価されてる様に思えます。
何故、演義ではあれほどに哀れで情けなく書かれているかを自分なりに考えてみましたので皆さんの意見が聞きたいです。
演義で哀れな周ユの理由その1、まず劉備陣営に諸葛亮が来たばっかりなので諸葛亮の活躍を書きたかった為。
その2、周ユ史実通りに書いてしまうと天才軍略家、諸葛亮の影が薄くなってしまう為。
その3、天下二分の計と言う大計を立てその半ばで亡くなってしまった為。
つまり簡単に言うと周ユをそのまま書いてしまうと周ユの早死にの為に諸葛亮は周ユに勝ち逃げ(勝ち逃げと言う表現はあまり正しくはないが)される形に見えてしまうからだと思います。
演義を読み終わった後に、周ユが生きていれば諸葛亮の天下三分、劉備のショク漢は有り得なかったんじゃん?って感想を持たれたら台なしですからね・・・
つまり演義での周ユの情けなく、そして哀れな結末は周ユのその偉大なる功績、そして計略、魅力の裏付けであり、それが逆にあれ程までに書く必要があったと自分は推測します。
何故、演義ではあれほどに哀れで情けなく書かれているかを自分なりに考えてみましたので皆さんの意見が聞きたいです。
演義で哀れな周ユの理由その1、まず劉備陣営に諸葛亮が来たばっかりなので諸葛亮の活躍を書きたかった為。
その2、周ユ史実通りに書いてしまうと天才軍略家、諸葛亮の影が薄くなってしまう為。
その3、天下二分の計と言う大計を立てその半ばで亡くなってしまった為。
つまり簡単に言うと周ユをそのまま書いてしまうと周ユの早死にの為に諸葛亮は周ユに勝ち逃げ(勝ち逃げと言う表現はあまり正しくはないが)される形に見えてしまうからだと思います。
演義を読み終わった後に、周ユが生きていれば諸葛亮の天下三分、劉備のショク漢は有り得なかったんじゃん?って感想を持たれたら台なしですからね・・・
つまり演義での周ユの情けなく、そして哀れな結末は周ユのその偉大なる功績、そして計略、魅力の裏付けであり、それが逆にあれ程までに書く必要があったと自分は推測します。
(F901iC/FOMA)
70 朱家
『三国志演義』は、正史をベースとしたものではなく、民衆には真実として語り継がれていた民間伝承、それによる講談(はなし家のネタ)がベースです。正確には『三国志平和』をベースに、非現実を排除し、正史を絡めたものですね。
とりあえず周瑜は、この時点の他呉将より、はるかに優秀で、情けないは魯粛に集中するよう描かれており、全体的に見て、マシなほうだと思いますよ。
作者の意図として最後の言葉が、悲劇の天才なのか、孔明の才に嫉妬する小人物なのか、意見の分かれるとこですが、私は前者だと思ってますね。
演義の周瑜は、孔明に蓋をされてるから、正史を読むと、蓋が外れた反動などで、過大評価になりがちですよ。
とりあえず周瑜は、この時点の他呉将より、はるかに優秀で、情けないは魯粛に集中するよう描かれており、全体的に見て、マシなほうだと思いますよ。
作者の意図として最後の言葉が、悲劇の天才なのか、孔明の才に嫉妬する小人物なのか、意見の分かれるとこですが、私は前者だと思ってますね。
演義の周瑜は、孔明に蓋をされてるから、正史を読むと、蓋が外れた反動などで、過大評価になりがちですよ。
(PC)
71 光
返信ありがとうございます。
そうでしょうか?過大評価でしょうか?
簡単な話し、周ユが他呉将よりも優秀に描くのは諸葛亮の噛ませ犬としての役割の為ではないですか?噛ませ犬がしょぼかったら諸葛亮が輝きませんから・・・逆に諸葛亮が嫌な奴になってしまいます。最期の言葉も上には上がいる的な意味を書きたかっただけにしか見えません。
演義抜きで正史のみを見て、自分は周ユは素晴らしい人物だと思いましたけど?三国で一番と言っても良い位の人物(軍人)に見えますが?どうでしょうか?
さらに言うと三国志演義を事実と誤認している人が結構多いですよね?これは三国の時代があった中国でもあるそうです。民間伝承などもその域でしょう。よって周ユは現代に近づくにつれて過小評価されてると思います。実際に正史の周ユは偉大だと思います。生涯において戦負けなし、引き分けなし、さらに最後まで自らの君主の為を考え行動する忠義心、さらに天下に覇を称える為の大計を立てる、周ユが正当な評価をウケれば今の現状を見てとても過大評価されてるとは思えません。実際に呉が天下を取れるチャンスはここしかなかった様に見えます。
それと民間伝承ですが、民出身の劉備軍贔屓は当たり前です。
そうでしょうか?過大評価でしょうか?
簡単な話し、周ユが他呉将よりも優秀に描くのは諸葛亮の噛ませ犬としての役割の為ではないですか?噛ませ犬がしょぼかったら諸葛亮が輝きませんから・・・逆に諸葛亮が嫌な奴になってしまいます。最期の言葉も上には上がいる的な意味を書きたかっただけにしか見えません。
演義抜きで正史のみを見て、自分は周ユは素晴らしい人物だと思いましたけど?三国で一番と言っても良い位の人物(軍人)に見えますが?どうでしょうか?
さらに言うと三国志演義を事実と誤認している人が結構多いですよね?これは三国の時代があった中国でもあるそうです。民間伝承などもその域でしょう。よって周ユは現代に近づくにつれて過小評価されてると思います。実際に正史の周ユは偉大だと思います。生涯において戦負けなし、引き分けなし、さらに最後まで自らの君主の為を考え行動する忠義心、さらに天下に覇を称える為の大計を立てる、周ユが正当な評価をウケれば今の現状を見てとても過大評価されてるとは思えません。実際に呉が天下を取れるチャンスはここしかなかった様に見えます。
それと民間伝承ですが、民出身の劉備軍贔屓は当たり前です。
(F901iC/FOMA)
72 朱家
正史を読んだ人に限り、過大評価になりがち、と前述しました。
演義が書かれる、ずっと前から、その世界観が民衆に浸透してました。その根本は、魏を正統としながら、蜀の地位を向上させ、孫権を呼び捨てにした陳寿であり、周瑜は、呼び捨てにされた孫権の配下です。
大雑把に説明すると、元々、呉の地位、評価は低く、現在に至るまで大きな変化はないのです。
本来、評価とは相対的ではなく、最初の段階(正史)から、現在(演義)の蜀を中心に見れば、呉の評価は下がったように見え、魏から見たら、上がったように見える。要は錯覚です。もちろん、大雑把であり、呉の評価が全く変わってないとは言いません。
あと、劉備は漢皇帝の血筋との認識で、贔屓だけでなく、マイナスの民間伝承も多く、面白おかしく語られるのは、有名人の宿命です。
演義が書かれる、ずっと前から、その世界観が民衆に浸透してました。その根本は、魏を正統としながら、蜀の地位を向上させ、孫権を呼び捨てにした陳寿であり、周瑜は、呼び捨てにされた孫権の配下です。
大雑把に説明すると、元々、呉の地位、評価は低く、現在に至るまで大きな変化はないのです。
本来、評価とは相対的ではなく、最初の段階(正史)から、現在(演義)の蜀を中心に見れば、呉の評価は下がったように見え、魏から見たら、上がったように見える。要は錯覚です。もちろん、大雑把であり、呉の評価が全く変わってないとは言いません。
あと、劉備は漢皇帝の血筋との認識で、贔屓だけでなく、マイナスの民間伝承も多く、面白おかしく語られるのは、有名人の宿命です。
(PC)
73 天草
光さん、初めまして。以後宜しくお願いします。
朱家さん、お久しぶりです。
私も久々に論議に参加します。
周瑜の評価について、個人的には過大とも過小とも思っていません。
伝の位置も相応しい位置だし、戦場における具体的な戦術の記述は少ないですが、曹操もが欲したという件で有り余る才能は分かります。演義で諸葛亮にやられる事に関しては、逆に考えれば司馬懿と共に神格化した彼のライバルとして採用されたわけですから、それはそれでかなりの評価だと思います。
むしろ私が最近気になるのは、実は「天下二分の計」なるもの。果たしてこれは本当に素晴らしい策なのでしょうか?
当時、赤壁で敗れたと言えども、曹操の軍は孫権の比ではなく、周瑜は、これに対抗するための策として、蜀を取り、馬超らと共闘する事を論じました。つまり、周瑜は曹操に対抗し勝つための策を献上したと思います。
一方諸葛亮の天下三分の計は、さらに周瑜の上を行き、当時地盤もなかった劉備に蜀を取らせて、他の二つの大国と対等の力を持つ為の策を具体的に献上しました。
曹操に勝つための策であるなら、うまく行くかどうかは別にして、戦術的に誰でも考え得る方向性です。しかし地盤もない人物を曹操と対等の力を持たせる策など考える策を献上する人物は諸葛亮の天下三分の計だけだと思います。
長文になりましたが、うまく伝わったかな?w
要するに、今話題になっている「過大評価」という点を敢えて使うなら、俗に言う「天下二分の計」こそ過大評価の様な気がしています。
朱家さん、お久しぶりです。
私も久々に論議に参加します。
周瑜の評価について、個人的には過大とも過小とも思っていません。
伝の位置も相応しい位置だし、戦場における具体的な戦術の記述は少ないですが、曹操もが欲したという件で有り余る才能は分かります。演義で諸葛亮にやられる事に関しては、逆に考えれば司馬懿と共に神格化した彼のライバルとして採用されたわけですから、それはそれでかなりの評価だと思います。
むしろ私が最近気になるのは、実は「天下二分の計」なるもの。果たしてこれは本当に素晴らしい策なのでしょうか?
当時、赤壁で敗れたと言えども、曹操の軍は孫権の比ではなく、周瑜は、これに対抗するための策として、蜀を取り、馬超らと共闘する事を論じました。つまり、周瑜は曹操に対抗し勝つための策を献上したと思います。
一方諸葛亮の天下三分の計は、さらに周瑜の上を行き、当時地盤もなかった劉備に蜀を取らせて、他の二つの大国と対等の力を持つ為の策を具体的に献上しました。
曹操に勝つための策であるなら、うまく行くかどうかは別にして、戦術的に誰でも考え得る方向性です。しかし地盤もない人物を曹操と対等の力を持たせる策など考える策を献上する人物は諸葛亮の天下三分の計だけだと思います。
長文になりましたが、うまく伝わったかな?w
要するに、今話題になっている「過大評価」という点を敢えて使うなら、俗に言う「天下二分の計」こそ過大評価の様な気がしています。
(PC)
74 光
返信ありがとうございます。呉の過大評価は話してませんよ(^_^;天下を取った魏(晋)が正統とされる正史では呉の存在は低くて当たり前ですよ。そんな正史で周ユについて悪く書いてませんよね?それはショク贔屓の演義より正史の方が周ユの評価は高いと取れるのでは?
天草さんはじめましてm(__)m以後よろしくお願いします。
天下三分の計は、なったからこその評価ではありませんか?
周ユが生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった為、当時の情勢から無理難題な策になってはないでしょうか?逆に言うと天下三分は魯シュクの功績ではないでしょうか?劉備を中心に見て曹操に対抗する策はそれしかなかった様に見えます。ただ魯シュクがいなければそれすらなしえかったと思います。
周ユの天下二分は実行前に終わった為、良策か愚策かはわかりませんが、呉が天下を取れるチャンスは後にも先にもここしかなかった様に見えます。色々なifが考えられる為にどうにも答えられませんが、呉にとっては天下を取れる可能性のある最初で最期の大計だった事は間違いないと思います。周ユがそれを見抜いていたかはわかりませんが、その最初で最期の天下を取れる可能性がある大計を解いた事は評価に値すると思います
天草さんはじめましてm(__)m以後よろしくお願いします。
天下三分の計は、なったからこその評価ではありませんか?
周ユが生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった為、当時の情勢から無理難題な策になってはないでしょうか?逆に言うと天下三分は魯シュクの功績ではないでしょうか?劉備を中心に見て曹操に対抗する策はそれしかなかった様に見えます。ただ魯シュクがいなければそれすらなしえかったと思います。
周ユの天下二分は実行前に終わった為、良策か愚策かはわかりませんが、呉が天下を取れるチャンスは後にも先にもここしかなかった様に見えます。色々なifが考えられる為にどうにも答えられませんが、呉にとっては天下を取れる可能性のある最初で最期の大計だった事は間違いないと思います。周ユがそれを見抜いていたかはわかりませんが、その最初で最期の天下を取れる可能性がある大計を解いた事は評価に値すると思います
(F901iC/FOMA)
75 しす
>>74
まずそもそも、正史での周瑜の評価が高いとか低いなんて話は誰もしていませんよ。
もう一度>>72の朱家さんのカキコを読まれては?
それに「周瑜が生きていれば」という言葉を用いられていますが、可能性を評価するのではなく、実際の功績を評価すべきであり、可能性云々を持ち出すことそのものがナンセンスだと思いますが。
まずそもそも、正史での周瑜の評価が高いとか低いなんて話は誰もしていませんよ。
もう一度>>72の朱家さんのカキコを読まれては?
それに「周瑜が生きていれば」という言葉を用いられていますが、可能性を評価するのではなく、実際の功績を評価すべきであり、可能性云々を持ち出すことそのものがナンセンスだと思いますが。
(PC)
76 天草
>>74
>周ユが生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった為
この根拠が理解できません。
諸葛亮が天下三分の計を説いたのは、赤壁より前の話ですし、周瑜より前に劉備が生き残るための策を説いていたことになります。
周瑜の策は曹操に対抗するための策だったのに対し、諸葛亮の策は曹操・孫権に対応するために漢を別の地で立て直そうという策。どちらが優れた策だったか、そういう意味で諸葛亮の策の方が壮大で賢明だと思うのです。
>呉が天下を取れるチャンスは後にも先にもここしかなかった
周瑜が蜀を取って馬超と連携するという策は、長期的な策であり、この時だったら…という一時期を指すのが無謀なように感じます。
敢えて曹操の領域に踏み込むチャンスを挙げるなら、むしろ赤壁の敗走後の曹操を深追いする事だったのではないでしょうか?
実際に孫権・周瑜は江陵や徐州方面から追い討ちをかけようとして失敗していますよね。
むしろ、立て直す好機を与えてしまった孫権の軍に、曹操に対抗するための策といったほうが良いような気がします。
>周ユが生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった為
この根拠が理解できません。
諸葛亮が天下三分の計を説いたのは、赤壁より前の話ですし、周瑜より前に劉備が生き残るための策を説いていたことになります。
周瑜の策は曹操に対抗するための策だったのに対し、諸葛亮の策は曹操・孫権に対応するために漢を別の地で立て直そうという策。どちらが優れた策だったか、そういう意味で諸葛亮の策の方が壮大で賢明だと思うのです。
>呉が天下を取れるチャンスは後にも先にもここしかなかった
周瑜が蜀を取って馬超と連携するという策は、長期的な策であり、この時だったら…という一時期を指すのが無謀なように感じます。
敢えて曹操の領域に踏み込むチャンスを挙げるなら、むしろ赤壁の敗走後の曹操を深追いする事だったのではないでしょうか?
実際に孫権・周瑜は江陵や徐州方面から追い討ちをかけようとして失敗していますよね。
むしろ、立て直す好機を与えてしまった孫権の軍に、曹操に対抗するための策といったほうが良いような気がします。
(PC)
77 赤龍
周ユが生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった為
これに関しては、まず第一に、周瑜の方針は劉備の勢力拡大を警戒し、できる限り力をつけさせないというものだった。
第二に、周瑜が死の直前企図していたのが、益州侵攻だった。
この2点がポイントだと思います。諸葛亮・周瑜の戦略に共通した重要な点は、益州の奪取。もし周瑜が健在で、そのまま益州侵攻が成功してしまえば、劉備の出る幕が無く、無理に益州を望めば、孫権との衝突が起きる。どちらにしろ、諸葛亮の戦略は根本から見直さなければならない事になります。
そして、周瑜の死後、後継者の魯粛の方針は、諸葛亮に近い戦略であり、独力での益州侵攻を中止し、劉備に力をつけさせ、ともに曹操に対するというもの。
これらの点を考えれば「周瑜が生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった」というのは、充分考えられる推測であると私は思います。
これに関しては、まず第一に、周瑜の方針は劉備の勢力拡大を警戒し、できる限り力をつけさせないというものだった。
第二に、周瑜が死の直前企図していたのが、益州侵攻だった。
この2点がポイントだと思います。諸葛亮・周瑜の戦略に共通した重要な点は、益州の奪取。もし周瑜が健在で、そのまま益州侵攻が成功してしまえば、劉備の出る幕が無く、無理に益州を望めば、孫権との衝突が起きる。どちらにしろ、諸葛亮の戦略は根本から見直さなければならない事になります。
そして、周瑜の死後、後継者の魯粛の方針は、諸葛亮に近い戦略であり、独力での益州侵攻を中止し、劉備に力をつけさせ、ともに曹操に対するというもの。
これらの点を考えれば「周瑜が生きていれば劉備軍の天下三分は有り得なかった」というのは、充分考えられる推測であると私は思います。
(PC)
78 赤龍
諸葛亮にしろ、周瑜にしろ、根本的な戦略は「北方の大勢力曹操に対抗するには、楊州・荊州・益州と南方の諸州の力を合わせなければならない」というものであり、その荊・益州支配の主体が劉備か孫権かという違いにすぎないということになります。
そして、これは何も彼等だけが導き出した戦略ではなく、甘寧や魯粛の考えもほぼ同様なものでした。
つまり、曹操への対抗、南方の勢力が、中原の大勢力に対抗しようと思えば、おのずと多くの人の行き着く戦略であったと思います。
というわけで、策自体は諸葛亮と周瑜、大きく優劣をつけるべきものではないと私は考えます。
勿論、周瑜の死や、孫呉の方針転換という幸運があったにせよ、その戦略を途中までにしろ実現した諸葛亮は充分高く評価すべきだとは思います。
そして、これは何も彼等だけが導き出した戦略ではなく、甘寧や魯粛の考えもほぼ同様なものでした。
つまり、曹操への対抗、南方の勢力が、中原の大勢力に対抗しようと思えば、おのずと多くの人の行き着く戦略であったと思います。
というわけで、策自体は諸葛亮と周瑜、大きく優劣をつけるべきものではないと私は考えます。
勿論、周瑜の死や、孫呉の方針転換という幸運があったにせよ、その戦略を途中までにしろ実現した諸葛亮は充分高く評価すべきだとは思います。
(PC)
79 しす
>>75に補足。
まず演義における周瑜評は所詮「小説の登場人物としての評価」であり、歴史上の人物の評価ではないということ。
すなわち>>1の言う過大評価には「演義における周瑜評」は含まないということを大前提にして話を進めないと進展はないと思います。
まず演義における周瑜評は所詮「小説の登場人物としての評価」であり、歴史上の人物の評価ではないということ。
すなわち>>1の言う過大評価には「演義における周瑜評」は含まないということを大前提にして話を進めないと進展はないと思います。
(PC)
81 朱家
>>74
演義の世界観は蜀が主役で、その根本は陳寿だと言ったんですよ。
言わんとする事が「史実の周瑜と違う」=「評価が低い」なら、演義と正史を混同してるだけです。
演義という世界観で、呉将の中での順位は、一位陸遜、二位周瑜だと思いますよ。この評価は低いですか?孔明とは比べないで下さいね。そういう世界観ですから。
正史での順位付けは不毛ですが…あえて呉将の順位は、一位陸遜、二位は分からないけど、周瑜にしときましょう。演義の世界観と同じですね。
天草さん、お久しぶりです。私は、天下三分、二分とも、見解が違います。三分は天草さんに近いけど…長くなったので、暇な時にまとめて書きたいと思います。
演義の世界観は蜀が主役で、その根本は陳寿だと言ったんですよ。
言わんとする事が「史実の周瑜と違う」=「評価が低い」なら、演義と正史を混同してるだけです。
演義という世界観で、呉将の中での順位は、一位陸遜、二位周瑜だと思いますよ。この評価は低いですか?孔明とは比べないで下さいね。そういう世界観ですから。
正史での順位付けは不毛ですが…あえて呉将の順位は、一位陸遜、二位は分からないけど、周瑜にしときましょう。演義の世界観と同じですね。
天草さん、お久しぶりです。私は、天下三分、二分とも、見解が違います。三分は天草さんに近いけど…長くなったので、暇な時にまとめて書きたいと思います。
(PC)
82 光
返信ありがとうございます。
返信する事がいっぱいで大変だ(^_^;色々伝わってない事多くて・・・自分の文面下手ですいませんm(__)m
まず、諸葛亮の天下三分は赤龍さんの意見にもう一つ付けたしで、周ユが益州進出の足掛かりの江陵を制した時点で無理難題になってしまったのです。周ユは譲る気は勿論ありません。
呉の天下統一の唯一無二のチャンスと言ったのは馬超うんぬんよりもその後の展開?からです。後もう一つのチャンスは魯シュクが長生きして劉備軍との同盟を大切にして関羽を討ち取るではなく、共に攻めればチャンスがあったのかもしれませんが・・・その場合は上手くいったにしろ呉よりショクの天下統一の方が可能性が高い様に見えますので・・・
周ユ評価に付いては過大評価と論じられる時点で自分は今現在過小評価をされていると感じますよ。その理由が自分は演義だと思います。自分の回りと話しをしても演義の話しが出てきますので・・・正史を見て今現在の周ユ評が過大であると思う人はまずいないと思います。周ユに対して突っ込み所ってまずありませんから・・・それに周ユは神格化もされてませんし、周ユ凄いって話しはたいして聞かないですから、まず過大評価はなされてません。
返信する事がいっぱいで大変だ(^_^;色々伝わってない事多くて・・・自分の文面下手ですいませんm(__)m
まず、諸葛亮の天下三分は赤龍さんの意見にもう一つ付けたしで、周ユが益州進出の足掛かりの江陵を制した時点で無理難題になってしまったのです。周ユは譲る気は勿論ありません。
呉の天下統一の唯一無二のチャンスと言ったのは馬超うんぬんよりもその後の展開?からです。後もう一つのチャンスは魯シュクが長生きして劉備軍との同盟を大切にして関羽を討ち取るではなく、共に攻めればチャンスがあったのかもしれませんが・・・その場合は上手くいったにしろ呉よりショクの天下統一の方が可能性が高い様に見えますので・・・
周ユ評価に付いては過大評価と論じられる時点で自分は今現在過小評価をされていると感じますよ。その理由が自分は演義だと思います。自分の回りと話しをしても演義の話しが出てきますので・・・正史を見て今現在の周ユ評が過大であると思う人はまずいないと思います。周ユに対して突っ込み所ってまずありませんから・・・それに周ユは神格化もされてませんし、周ユ凄いって話しはたいして聞かないですから、まず過大評価はなされてません。
(F901iC/FOMA)
83 天草
おはようございます♪
>>82
私は基本的に孫権にも劉備にも天下統一の決定的なチャンスはなかったと思っています。
あったとすれば曹操が赤壁で力押しして勝った場合、曹操の天下統一というシナリオだったのではないでしょうか?
光さんのいう過大・過小評価が各個人の評価ならば、それは人それぞれですからね…(汗)
三国志の中の周瑜評を言われているのなら、陳寿も裴松之も特に酷評しているわけではありませんので別に過大でも過小でもなく、正等に評価されていると思います。
演義での周瑜は諸葛亮のライバルとしてむしろ良く書かれていると思います。嫌いな人も少ないのではないでしょうか?
>>82
私は基本的に孫権にも劉備にも天下統一の決定的なチャンスはなかったと思っています。
あったとすれば曹操が赤壁で力押しして勝った場合、曹操の天下統一というシナリオだったのではないでしょうか?
光さんのいう過大・過小評価が各個人の評価ならば、それは人それぞれですからね…(汗)
三国志の中の周瑜評を言われているのなら、陳寿も裴松之も特に酷評しているわけではありませんので別に過大でも過小でもなく、正等に評価されていると思います。
演義での周瑜は諸葛亮のライバルとしてむしろ良く書かれていると思います。嫌いな人も少ないのではないでしょうか?
(PC)
84 しす
>>84
くどいようですが、もう一度書きます。
あなたの周りがどうこうは知りませんが、少なくともここで論じられているのは「正史における後世の人達の周瑜評」であって、「演義の登場人物としての周瑜評」ではありませんよ。
『西遊記』を読んで、史実の玄奘三蔵の人物像を評価する人なんていませんよね。
くどいようですが、もう一度書きます。
あなたの周りがどうこうは知りませんが、少なくともここで論じられているのは「正史における後世の人達の周瑜評」であって、「演義の登場人物としての周瑜評」ではありませんよ。
『西遊記』を読んで、史実の玄奘三蔵の人物像を評価する人なんていませんよね。
(PC)
85 朱家
>>82
>正史を見て今現在の周瑜評を過大である〜
一般的に、正史を読んだ人なら、演義の周瑜を見て、過大だと思う人はいませんが、過小と思う人もいません。まず間違いなく「こんなの嘘だ」と思います。
その後、演義は小説だから「嘘に、嘘だと言っても意味ないな」となるのです。
>>84
演義なら演義、正史なら正史と、しっかりと区別するなら、演義の評価を語っても問題ないと思います。
ある種の女性の間では、演義とゲームの周瑜が暴走し、神格化した周瑜像も作られていて、人それぞれだと理解してるつもりですが、私個人としては、かなり不愉快だったりします(笑)
>正史を見て今現在の周瑜評を過大である〜
一般的に、正史を読んだ人なら、演義の周瑜を見て、過大だと思う人はいませんが、過小と思う人もいません。まず間違いなく「こんなの嘘だ」と思います。
その後、演義は小説だから「嘘に、嘘だと言っても意味ないな」となるのです。
>>84
演義なら演義、正史なら正史と、しっかりと区別するなら、演義の評価を語っても問題ないと思います。
ある種の女性の間では、演義とゲームの周瑜が暴走し、神格化した周瑜像も作られていて、人それぞれだと理解してるつもりですが、私個人としては、かなり不愉快だったりします(笑)
(PC)
86 しす
よく考えたら私の見解を書いていませんでした。
私個人としては今まで何人かの方が仰られているように、少なくとも正史における周瑜の評価は妥当だと思います。
天下二分に関しては飽くまで個人的見解ですが…
魏と呉の国力比7:3ならば可能性は低いものの、アリかなぁという気はします。
もちろん肥大化しすぎて自壊する危険性も多分にはあると思います。
ま、IFの話しになると「じゃあ寿命はどれくらい延ばせるの?」という問題も生じてきますが。
>>84
私も両者を区別し、それを明確にしてくれるならば演義での評価は問題ないと思います。
私自身、正史と演義の人物像の違いを比較するのは好きですしね。
例えば魯粛のように正史と演義で全然扱いが違っていても、どちらも好きという例もありますしね(笑)
私個人としては今まで何人かの方が仰られているように、少なくとも正史における周瑜の評価は妥当だと思います。
天下二分に関しては飽くまで個人的見解ですが…
魏と呉の国力比7:3ならば可能性は低いものの、アリかなぁという気はします。
もちろん肥大化しすぎて自壊する危険性も多分にはあると思います。
ま、IFの話しになると「じゃあ寿命はどれくらい延ばせるの?」という問題も生じてきますが。
>>84
私も両者を区別し、それを明確にしてくれるならば演義での評価は問題ないと思います。
私自身、正史と演義の人物像の違いを比較するのは好きですしね。
例えば魯粛のように正史と演義で全然扱いが違っていても、どちらも好きという例もありますしね(笑)
(PC)
87 光
とりあえず自分は♂です。その方向の人達とは違います(゜Д゜;≡;゜д゜)(笑)
自分が言いたいのは正史に対する周ユ評ではなく、後生の人達の過大評価についてであります。演義の話題に触れたのはまず第一に演義はベストセラーであり正史はそこまで浸透していない為に、今現在の人々の周ユ評は演義がベースになっており情けない姿に映っていると言う現状を示唆しました。実際自分の回りは演義に詳しい人はいても正史を知っている人はいません。話すと逆に否定されたりします。それが現状です。この事を踏まえて今現在の周ユ評が過大になっているとは思えません。
後もう一つ演義が書かれたのは三国時代よりも千年以上未来で、より現代人に近い感覚で書かれており、現代人にも親しみやすい演義が広く伝わるにつれて、正史が霞み周ユの評価は下がってしまっているのではと思います。
正史を知っている人についてはそれぞれ個人個人で評価があるでしょう、それは人それぞれの見解です。しかし過大評価されていると論じられることは現在過小評価されている裏返しではないのでしょうか?詳しく知らない為に起こる現象ではないでしょうか?
自分が言いたいのは正史に対する周ユ評ではなく、後生の人達の過大評価についてであります。演義の話題に触れたのはまず第一に演義はベストセラーであり正史はそこまで浸透していない為に、今現在の人々の周ユ評は演義がベースになっており情けない姿に映っていると言う現状を示唆しました。実際自分の回りは演義に詳しい人はいても正史を知っている人はいません。話すと逆に否定されたりします。それが現状です。この事を踏まえて今現在の周ユ評が過大になっているとは思えません。
後もう一つ演義が書かれたのは三国時代よりも千年以上未来で、より現代人に近い感覚で書かれており、現代人にも親しみやすい演義が広く伝わるにつれて、正史が霞み周ユの評価は下がってしまっているのではと思います。
正史を知っている人についてはそれぞれ個人個人で評価があるでしょう、それは人それぞれの見解です。しかし過大評価されていると論じられることは現在過小評価されている裏返しではないのでしょうか?詳しく知らない為に起こる現象ではないでしょうか?
(F901iC/FOMA)
88 元歎
光さん、初めまして! 遅レスすいません。(内容的に僕へのレスみたいですので)
>>67-68
僕自身、>>42にあるように暗殺を否定してはいません。ただ、この書き込みは2005年(たぶん…)のもので、僕も考えが変わってきて暗殺を否定とまではいきませんが、可能性はかなり低いと考えるようになりました。天下二分計に関しての考えはほぼ変わりありません。
周瑜と魯粛の考えは大きく異なりますが、その目的は同じです。また、周瑜はこの戦略(天下二分)には自分の存在が不可欠と考えていたのでしょう。死を感じた周瑜が領土拡大より国力増強を目指すよう遺言したことも考えると、後任が魯粛というのは不思議ではありません。
江陵を貸したのは、それが魯粛のもともとの戦略であって当然のことです。魯粛は陸口に軍を駐屯させて、劉備に圧力をかけているかのような構図です。いざとなれば江陵を強制的に返還させることもできたでしょう。
>>87
最近は正史の存在が知られるようになり、その中の三国志も和訳もあるため読む人は多くなってきてますよ。光さんの周りの人たちは、たまたま演義しか読んでない人が集まってるだけではないでしょうか?
あと、従来低評価だった人物が見直されるとき、反動で一時期過大評価につながるのはよくあることです(その逆も)。
>>67-68
僕自身、>>42にあるように暗殺を否定してはいません。ただ、この書き込みは2005年(たぶん…)のもので、僕も考えが変わってきて暗殺を否定とまではいきませんが、可能性はかなり低いと考えるようになりました。天下二分計に関しての考えはほぼ変わりありません。
周瑜と魯粛の考えは大きく異なりますが、その目的は同じです。また、周瑜はこの戦略(天下二分)には自分の存在が不可欠と考えていたのでしょう。死を感じた周瑜が領土拡大より国力増強を目指すよう遺言したことも考えると、後任が魯粛というのは不思議ではありません。
江陵を貸したのは、それが魯粛のもともとの戦略であって当然のことです。魯粛は陸口に軍を駐屯させて、劉備に圧力をかけているかのような構図です。いざとなれば江陵を強制的に返還させることもできたでしょう。
>>87
最近は正史の存在が知られるようになり、その中の三国志も和訳もあるため読む人は多くなってきてますよ。光さんの周りの人たちは、たまたま演義しか読んでない人が集まってるだけではないでしょうか?
あと、従来低評価だった人物が見直されるとき、反動で一時期過大評価につながるのはよくあることです(その逆も)。
(PC)
89 赤龍
以前は、三国志の小説といえば吉川英治、漫画なら横山光輝、映像なら人形劇と、いずれも演義ベースの作品で、周瑜は常に諸葛亮に到底及ばない引き立て役で、印象の悪い人物でしたね。
しかし、最近の人気作では、漫画なら蒼天航路、小説なら北方謙三と、既存の演義ベースにとらわれない作品も増え、どちらも諸葛亮にも劣らぬ優れた人物にえがかれてます。三国無双でも特に悪い扱いはされてませんし。
そんな感じで、最近は最初から周瑜にマイナスの印象なく三国志の世界に入る人も増えてるかもしれませんね。
>>88
いくら正史のことが知られるようになっても、実際和訳を読むようなのは一部のどっぷりつかった人くらいですよ(笑)光さんの周りの方の反応が、ごく普通のものじゃないかな。
しかし、最近の人気作では、漫画なら蒼天航路、小説なら北方謙三と、既存の演義ベースにとらわれない作品も増え、どちらも諸葛亮にも劣らぬ優れた人物にえがかれてます。三国無双でも特に悪い扱いはされてませんし。
そんな感じで、最近は最初から周瑜にマイナスの印象なく三国志の世界に入る人も増えてるかもしれませんね。
>>88
いくら正史のことが知られるようになっても、実際和訳を読むようなのは一部のどっぷりつかった人くらいですよ(笑)光さんの周りの方の反応が、ごく普通のものじゃないかな。
(PC)
90 朱家
長くなりますが…
演義を史実と思って読む人がほとんどですから、噛ませ犬は、正史を読まないと分からない事です。
孔明伝を読まずに、周瑜伝だけを読むと、演義の周瑜が低評価だと思わないはずです。周瑜伝に孔明は一箇所しか登場せず、孔明さえ登場しなければ、史実と大差なく、それでも、まだ孔明が絶対的なものとして存在してるからです。
史実と違う事と、評価の高低は違い、孔明より下に描かれる事が、本当に低評価なのか?って事です。
正史は比較するために書かれてなく、どちらが上か分からないし、個人の主観によって変化します。演義は個人の主観では変化しません。
陳寿の主観であれば、一伝を与えてる孔明は、演義の差と変わらないのかもしれません。
演義を史実と思って読む人がほとんどですから、噛ませ犬は、正史を読まないと分からない事です。
孔明伝を読まずに、周瑜伝だけを読むと、演義の周瑜が低評価だと思わないはずです。周瑜伝に孔明は一箇所しか登場せず、孔明さえ登場しなければ、史実と大差なく、それでも、まだ孔明が絶対的なものとして存在してるからです。
史実と違う事と、評価の高低は違い、孔明より下に描かれる事が、本当に低評価なのか?って事です。
正史は比較するために書かれてなく、どちらが上か分からないし、個人の主観によって変化します。演義は個人の主観では変化しません。
陳寿の主観であれば、一伝を与えてる孔明は、演義の差と変わらないのかもしれません。
(PC)
91 朱家
つまり、周瑜は相対的で、正史を読むと、孔明に失望した反動によって、周瑜の過大評価へつながるのであり、演義の周瑜と、正史の周瑜を純粋に比較したものではないのです。
演義を史実と思ってる人が、圧倒的多数であり、正史を読んだ人は少数派です。少数派の主張をしているのに、正史の中の、少数派の意見は主張しない。これをどちらも主張してみると…
「演義の周瑜は、低評価なのか、高評価なのか、妥当なのか分からない」という結論になります。
あまり整理されておらず、読みずらい事はお許し下さい。
昔、専攻してた分野であり、間違ってると恥ずかしいのですが、なんか、よく分からなくなってきました(笑)
演義を史実と思ってる人が、圧倒的多数であり、正史を読んだ人は少数派です。少数派の主張をしているのに、正史の中の、少数派の意見は主張しない。これをどちらも主張してみると…
「演義の周瑜は、低評価なのか、高評価なのか、妥当なのか分からない」という結論になります。
あまり整理されておらず、読みずらい事はお許し下さい。
昔、専攻してた分野であり、間違ってると恥ずかしいのですが、なんか、よく分からなくなってきました(笑)
(PC)
92 削除済
93 亀頭
全然関係ない話なんですが、今度ジョン・ウー監督の「レッドクリフ」という、赤壁の戦いが舞台の映画が公開されるらしいですよ。
そういえば、三国志の映画ってありましたっけ?
そういえば、三国志の映画ってありましたっけ?
(SH901iS/FOMA)
94 削除済
95 削除済
97 周
詳しく説明。赤壁の抗戦派に周ユがいなければ戦は行われず呉国滅亡になっていたとおもう、これにはまず、多大な影響を持つ武将が唱えなければ意味がなく抗戦派は負けていたと思う為。降伏派を抗戦に向けたのは周ユの話術と的確な戦力分析があっての事であろう。また呉国建国に多大な功績があり、亡き孫策の親友でもあり民衆からの人気もある周ユの意見なので皆従った、むしろ従うしかなかったのではなかろうか?面倒になったのでこれで終わる、解りにくい稚拙な文になったが読んでくれた方に感謝。
(SH001/au)
98 周
過去レス総て見ましたが、この板の周ユの評価は間違いなく引く諸葛亮を立てすぎです。結果だけ見て天下三分と天下二分の優劣を言ってる方がいますが、それなら結果だけ見て赤壁の戦いの周ユの功績をもっと評価すべきではないでしょうか?負けてれば天下三分はありませんよ。戦わず降伏してても天下三分はありませんよ。
周ユは孫策の遺言から軍の方針を決める役割を赤壁前からしてたでしょう。程普とのいざこざからもそれは読み取れます。
そんな周ユの元に魯粛達抗戦派しか来なかったと思いますか?間違いなく降伏派も来ていたでしょう。むしろ降伏派の方が多かったのでは?そんな中、先を読み抗戦派につく
戦でも建策されたのは火計だけではないはずです。しかし火計をしかける。
そんな些細な事は考えず今度は結果のみ見る。
戦はただ一度の敗北のない用兵術
能力を見極め優れた人材を推挙する観察眼
三公を出した名家の出身である家柄
身分を気にせず孫策と強い絆を結ぶ友情
周郎と呼ばれ民からも慕われてる魅力
音楽にも詳しい多種多様の才
美男子で奥さん美人という恵まれ様
何処をどう見ても完璧な人間ではないでしょうか?
周ユは孫策の遺言から軍の方針を決める役割を赤壁前からしてたでしょう。程普とのいざこざからもそれは読み取れます。
そんな周ユの元に魯粛達抗戦派しか来なかったと思いますか?間違いなく降伏派も来ていたでしょう。むしろ降伏派の方が多かったのでは?そんな中、先を読み抗戦派につく
戦でも建策されたのは火計だけではないはずです。しかし火計をしかける。
そんな些細な事は考えず今度は結果のみ見る。
戦はただ一度の敗北のない用兵術
能力を見極め優れた人材を推挙する観察眼
三公を出した名家の出身である家柄
身分を気にせず孫策と強い絆を結ぶ友情
周郎と呼ばれ民からも慕われてる魅力
音楽にも詳しい多種多様の才
美男子で奥さん美人という恵まれ様
何処をどう見ても完璧な人間ではないでしょうか?
(SH001/au)
99 皇澪桜
以前から周瑜という人物が気になってました。
演義しか知らない時は、相当凄い奴だけど諸葛亮にはかなわない人というイメージでした。
改めて正史を読んでみると、容姿端麗で万能であり、忠義にも厚くて、呉国建国に多大な功績もあり、とても偉大な人物であると感じました。
…が、過大(または過小)評価とするのはどうでしょうか?
十分に評価されてる気もするし、実力以上に評価されている様でもないと思います。
演義を正史だと思ってる人からすれば過大評価でしょうし、正史ありきな人には演義は語るに及ばず…世間一般にみれば呉を支える軍師として十分に評価されてるし…(諸葛亮が持ち上げられすぎている分、評価が下がっている様に感じますが…)
私としては、演義と正史の人物像を比較するのもナンセンスだと思いますし、正史単体でみれば評価は過大でも過小でもないと思います。
的外れずれな意見で且つ長文になってしまい申し訳ありませんでしたm(_ _)m
演義しか知らない時は、相当凄い奴だけど諸葛亮にはかなわない人というイメージでした。
改めて正史を読んでみると、容姿端麗で万能であり、忠義にも厚くて、呉国建国に多大な功績もあり、とても偉大な人物であると感じました。
…が、過大(または過小)評価とするのはどうでしょうか?
十分に評価されてる気もするし、実力以上に評価されている様でもないと思います。
演義を正史だと思ってる人からすれば過大評価でしょうし、正史ありきな人には演義は語るに及ばず…世間一般にみれば呉を支える軍師として十分に評価されてるし…(諸葛亮が持ち上げられすぎている分、評価が下がっている様に感じますが…)
私としては、演義と正史の人物像を比較するのもナンセンスだと思いますし、正史単体でみれば評価は過大でも過小でもないと思います。
的外れずれな意見で且つ長文になってしまい申し訳ありませんでしたm(_ _)m
(W63CA/au)