1 ユウキ
中国(後漢末期)の気象について。
広大な中国大陸なので、各州ごとにやはり気象の違いはあったと思います。
資料からどの州はこんな気候だった。とかこの州はこんな気候だったと思われる。とか推測しましょう。
気候がわかればとれる食物なんかもわかるかも?日本のようにコシヒカリとか米の違いなんかもあったのかな?
資料からどの州はこんな気候だった。とかこの州はこんな気候だったと思われる。とか推測しましょう。
気候がわかればとれる食物なんかもわかるかも?日本のようにコシヒカリとか米の違いなんかもあったのかな?
(P900i/FOMA)
4 赤龍
蜀の曇りの多さは「蜀犬日に吠ゆ」と言われるくらい有名ですね。年間日照時間は黄河下流域の半分にすぎないとか。そのため、あまり日照時間の影響しない野菜が育てられ、穀物類はあまりむいてない土地だそうです。
(J-SA05)
5 ユウキ
そうなんですか!?勉強になります。やはり人間は暖かい所の方が長生きできるのでしょうか…?
確か日焼けサロンは日照時間の短いヨーロッパで健康の為に生まれたものと聞きました。曇りが多いとゆう事は多少健康に影響する?のかな…。色白も多いかも。
確か日焼けサロンは日照時間の短いヨーロッパで健康の為に生まれたものと聞きました。曇りが多いとゆう事は多少健康に影響する?のかな…。色白も多いかも。
(P900i/FOMA)
11 天草
当然、天候によって戦術の変更を余儀なくされた事が予想できますよね?
雨などでは弓は戦力ダウンになるような気も…という事は、意外と攻城戦では攻める側は雨の日を狙ってたとか…考えられません?
騎馬はどうだったんだろ?足元のぬかるむ歩兵は厳しかったなら、ダート馬(重馬場)なら活躍できそうだけど…やっぱり雨の日は歩兵>>騎兵だったのかな?
皆さんはどう思います?
雨などでは弓は戦力ダウンになるような気も…という事は、意外と攻城戦では攻める側は雨の日を狙ってたとか…考えられません?
騎馬はどうだったんだろ?足元のぬかるむ歩兵は厳しかったなら、ダート馬(重馬場)なら活躍できそうだけど…やっぱり雨の日は歩兵>>騎兵だったのかな?
皆さんはどう思います?
(PC)
19 巫俊(ふしゅん)
後漢末期に中国の気候が寒冷化したというのは、地球環境の問題というテーマからも重要な例ですよね。
魏の文帝が南征したとき、南方の河川が凍結するという異常気象に遭ったと言う例もそのひとつ。
地球の寒冷化は穀物の深刻な減収を招き、ひいては流民の発生や戦乱の発生に至る。
三国志の時代も流民が発生しています。
流れ流れて行き着いた土地にも、寒冷化で食物が無かったらいったいどうなったんでしょうね?
三国志の時代の混迷の原因が、気候の寒冷化と流民だとすると、漢末の群雄たちも流民対策に四苦八苦するようすが想像されます。
とくに徐州牧の陶謙とか。
魏の文帝が南征したとき、南方の河川が凍結するという異常気象に遭ったと言う例もそのひとつ。
地球の寒冷化は穀物の深刻な減収を招き、ひいては流民の発生や戦乱の発生に至る。
三国志の時代も流民が発生しています。
流れ流れて行き着いた土地にも、寒冷化で食物が無かったらいったいどうなったんでしょうね?
三国志の時代の混迷の原因が、気候の寒冷化と流民だとすると、漢末の群雄たちも流民対策に四苦八苦するようすが想像されます。
とくに徐州牧の陶謙とか。
(PC)
21 赤龍
三国時代の寒冷化の問題については、私もかつてブログの方にも書きましたので、駄文ですが一応参考として
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50170063.html
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50170063.html
(PC)
22 削除済
23 削除済
24 天草
露骨な宣伝で上がってきたスレですが、ふと気になったので書き込みます。
現代日本にも影響がある「黄砂」ですが、当然当時の中国でも、起こっていたと考えられますよね?
本場の黄砂が、どれくらいの規模のものなのか、想像できないのですが、三国志の中に黄砂らしきものが書かれている記憶がありません。
皆さんはどう思いますか?戦や普段の生活に影響があったのでしょうか?
現代日本にも影響がある「黄砂」ですが、当然当時の中国でも、起こっていたと考えられますよね?
本場の黄砂が、どれくらいの規模のものなのか、想像できないのですが、三国志の中に黄砂らしきものが書かれている記憶がありません。
皆さんはどう思いますか?戦や普段の生活に影響があったのでしょうか?
(N902i/FOMA)
25 通
被害の規模は分かりませんが、文献としては中国では紀元前1150年頃の書物に『塵雨』との記述があり、これが黄砂の事だそうです。
他にも『雨土』『雨砂』『』『黄霧』などと呼ばれていますね。
朝鮮の王などは「天が怒り雨でも雪でもない砂を降らせたのだ」と解釈して王とその側近は大変恐れた、との話も読んだ事があります。日本の平安時代の彗星や日月食と同じように、実際の被害より為政者の不安感を増大させる、という被害の方が大きかったのではないかなと。
あくまで推測ですが、上記の点(彗星や日月食)と異なるのは、慌てふためくのは王などの貴族連中ばかりで、民衆は黄砂が降ってきても多少嫌がる程度で大きな社会不安は起きなかったのではないですかね。
他にも『雨土』『雨砂』『』『黄霧』などと呼ばれていますね。
朝鮮の王などは「天が怒り雨でも雪でもない砂を降らせたのだ」と解釈して王とその側近は大変恐れた、との話も読んだ事があります。日本の平安時代の彗星や日月食と同じように、実際の被害より為政者の不安感を増大させる、という被害の方が大きかったのではないかなと。
あくまで推測ですが、上記の点(彗星や日月食)と異なるのは、慌てふためくのは王などの貴族連中ばかりで、民衆は黄砂が降ってきても多少嫌がる程度で大きな社会不安は起きなかったのではないですかね。
(P902i/FOMA)
26 巫俊(ふしゅん)
黄砂の分布は自然環境によって著しく増減するんです。
詳しくは知らないですが、黄砂の発生原になっている場所が三種類あり、
A.甘粛・寧夏・新彊など西北方の極度に乾燥した砂漠地帯
B.甘粛・陝西・山西などの雨量の乏しい黄土高原
C.華北の平野部の普通の農耕地
それぞれに性格が異なるようです。
最近よく話題になる日本に降る黄砂はAの砂漠産のものだけではなく、BとCの農耕地から出る黄砂も影響力が大きいようです。
Aの砂漠は漢代よりずっと昔からあるんですが、BとCについては漢代以来の中国社会の環境開発、自然破壊による産物でして、黄土高原や華北の平野からこれほど多くの黄砂が強風で上空に舞い上がることは漢代には無かったと想像しています。
漢代のヘイ州や幽州にはまだ多くの、人間の手の付けられていない自然林があったんですよ。
自然林は雨量を貯め、下草や草原は土壌を植物で蔽(おお)って地下の黄砂が風に吹かれないようにガードしていたのですが、
ヘイ州の高原地帯は前漢の武帝の時代から少しづつ開発が進み、漢人で刑徒になった者が入植を繰り返したり、
匈奴などの胡人で後漢に降服してきた者や、西晋が内乱で壊乱した際に勢力を回復したヘイ州の匈奴や鮮卑
が自己の勢力を富ます為に、胡人・漢人の区別をせず人民を虜囚にしてヘイ州の高原部に強制移住させていました。
以後の時代も後魏、北周、隋、唐、沙陀(五代)、北宋、遼、金、元、明、清..と遊牧民や漢人の移動と入植が繰り替えされていまして、ついに森林はほとんど切り倒されてしまい、草原は草の根っこまでも食べる羊によってほとんど根絶やしにされてしまいました。
詳しくは知らないですが、黄砂の発生原になっている場所が三種類あり、
A.甘粛・寧夏・新彊など西北方の極度に乾燥した砂漠地帯
B.甘粛・陝西・山西などの雨量の乏しい黄土高原
C.華北の平野部の普通の農耕地
それぞれに性格が異なるようです。
最近よく話題になる日本に降る黄砂はAの砂漠産のものだけではなく、BとCの農耕地から出る黄砂も影響力が大きいようです。
Aの砂漠は漢代よりずっと昔からあるんですが、BとCについては漢代以来の中国社会の環境開発、自然破壊による産物でして、黄土高原や華北の平野からこれほど多くの黄砂が強風で上空に舞い上がることは漢代には無かったと想像しています。
漢代のヘイ州や幽州にはまだ多くの、人間の手の付けられていない自然林があったんですよ。
自然林は雨量を貯め、下草や草原は土壌を植物で蔽(おお)って地下の黄砂が風に吹かれないようにガードしていたのですが、
ヘイ州の高原地帯は前漢の武帝の時代から少しづつ開発が進み、漢人で刑徒になった者が入植を繰り返したり、
匈奴などの胡人で後漢に降服してきた者や、西晋が内乱で壊乱した際に勢力を回復したヘイ州の匈奴や鮮卑
が自己の勢力を富ます為に、胡人・漢人の区別をせず人民を虜囚にしてヘイ州の高原部に強制移住させていました。
以後の時代も後魏、北周、隋、唐、沙陀(五代)、北宋、遼、金、元、明、清..と遊牧民や漢人の移動と入植が繰り替えされていまして、ついに森林はほとんど切り倒されてしまい、草原は草の根っこまでも食べる羊によってほとんど根絶やしにされてしまいました。
(PC)
27 巫俊(ふしゅん)
そういうことで、今日では黄砂の主原因のひとつである黄土高原の黄砂は人為的な自然破壊と若干の気候変動によって形成されたものと考えられています。
また華北の平野部の農耕地については、やはり人口の多い漢人が限界まで耕した結果、どこも畑ばかりなった大地は土が露出して、黄砂が風に吹き上げられるようになったということです。
従って、黄砂は西北の砂漠産の物が太古から存在していたはずですが、今ほどは厳しいものではないと推測されるのです。
漢文の記録にも古いものは聞かないですし。
黄砂と同様により新しい時代の環境破壊の産物としては、黄河の濁りが酷くなったということがあります。
黄河は古い時代には澄んでいたという説がありますが、漢代には農業用水の取水と自然林の伐採によって、すでに黄色くなっていたのではないかと推測されています。
>中国では紀元前1150年頃の書物
この時代(殷代後期)の書物ってひとつも残ってないですから、牛・亀の骨に刻まれた甲骨文のことですかね?
甲骨文に塵雨なるものは寡聞にして聞かないですけど。
また華北の平野部の農耕地については、やはり人口の多い漢人が限界まで耕した結果、どこも畑ばかりなった大地は土が露出して、黄砂が風に吹き上げられるようになったということです。
従って、黄砂は西北の砂漠産の物が太古から存在していたはずですが、今ほどは厳しいものではないと推測されるのです。
漢文の記録にも古いものは聞かないですし。
黄砂と同様により新しい時代の環境破壊の産物としては、黄河の濁りが酷くなったということがあります。
黄河は古い時代には澄んでいたという説がありますが、漢代には農業用水の取水と自然林の伐採によって、すでに黄色くなっていたのではないかと推測されています。
>中国では紀元前1150年頃の書物
この時代(殷代後期)の書物ってひとつも残ってないですから、牛・亀の骨に刻まれた甲骨文のことですかね?
甲骨文に塵雨なるものは寡聞にして聞かないですけど。
(PC)
29 巫俊(ふしゅん)
嘘吐くのは歴史家の常です。誤植や記憶の低下は掲示板の参加者が積極的に指摘してくれます。
>紀元前1150年頃には塵雨と呼ばれていた
で、問題の箇所ですが、これはどこに書いてあったんですか?
「紀元後1150年頃」だったらともかく、「紀元前1150年頃」ということですが、私の拙い経験からすると、甲骨文字に「塵雨」という文字は見たことがないので。
>紀元前1150年頃には塵雨と呼ばれていた
で、問題の箇所ですが、これはどこに書いてあったんですか?
「紀元後1150年頃」だったらともかく、「紀元前1150年頃」ということですが、私の拙い経験からすると、甲骨文字に「塵雨」という文字は見たことがないので。
(PC)
30 巫俊(ふしゅん)
『三国志』管輅伝に、
歳朝(あ)けて西北の大風塵埃天を蔽う,十余日して、(何)晏、(登β)ヨウ の皆誅するを聞く、然る後舅氏乃ち服す。
とありました。
歳朝(あ)けて、は正始十年(249年)の正月という意味です。
249年の正月に北西から大きな風が吹いて、チリとホコリは天空を覆い、十日余りして何晏と登βヨウが誅殺されたので、それを聞いて管輅の義理の父はそうして管輅の予言に心服した。
これって伝説的な表現がありますけど、西北と言っていますから砂漠か高原からの黄砂の可能性が高いですね。
全く知りませんでした。
歳朝(あ)けて西北の大風塵埃天を蔽う,十余日して、(何)晏、(登β)ヨウ の皆誅するを聞く、然る後舅氏乃ち服す。
とありました。
歳朝(あ)けて、は正始十年(249年)の正月という意味です。
249年の正月に北西から大きな風が吹いて、チリとホコリは天空を覆い、十日余りして何晏と登βヨウが誅殺されたので、それを聞いて管輅の義理の父はそうして管輅の予言に心服した。
これって伝説的な表現がありますけど、西北と言っていますから砂漠か高原からの黄砂の可能性が高いですね。
全く知りませんでした。
(PC)
33 通
あの後いくつかサイトを調べたのですが、なんという文献にのっていたのかまではわかりませんでした。
ただ『黄砂・砂塵暴の発生、輸送、沈着及び対策に係る研究』というサイトに、韓国の研究者の話に『中国では紀元前1150年に既に黄砂にふれた文献がある』と言ってますし、何らかの文献があるのは確かなようです。
他にも調べたのですがどこも同じような記述でなんという文献なのか、については記述されてないんです。
今度、図書館に行って調べて来ます。ただ、うちは田舎なのであの図書館にあるかどうか・・・・。
巫俊さん、期待にこたえられなくて申しわけない。
ただ『黄砂・砂塵暴の発生、輸送、沈着及び対策に係る研究』というサイトに、韓国の研究者の話に『中国では紀元前1150年に既に黄砂にふれた文献がある』と言ってますし、何らかの文献があるのは確かなようです。
他にも調べたのですがどこも同じような記述でなんという文献なのか、については記述されてないんです。
今度、図書館に行って調べて来ます。ただ、うちは田舎なのであの図書館にあるかどうか・・・・。
巫俊さん、期待にこたえられなくて申しわけない。
(P902i/FOMA)
34 巫俊(ふしゅん)
なるほど、韓国の研究者というのは歴史学者では無いようですね。
『中国では紀元前1150年に既に黄砂にふれた文献がある』
ですから、戦国時代や漢代になってから初めて成立した中国の漢籍に書かれている内容を、正確な歴史記録であると誤解したらしいです。
繰り返して言いますが、『史記』以下の中国古典に書かれている歴史は伝承・伝説の類であって、とくに殷代以前の記録については正確さが著しく損なわれています。
紀元前二千年期(紀元前200年〜紀元前1001年までの時期を指す)の歴史を知る史料として正確さを期待できるのは、考古学的な出土史料である甲骨文などに限定されていまして、古典に書いてあるから実際に有ったというのは紀元前二千年期の歴史を考える上では暴論に等しいんです。
陳寿の『三国志』が現代史であるのに対し、『史記』などが書く夏殷時代の歴史は民族の遠い記憶を画いた古代史なんですよ。
『中国では紀元前1150年に既に黄砂にふれた文献がある』
ですから、戦国時代や漢代になってから初めて成立した中国の漢籍に書かれている内容を、正確な歴史記録であると誤解したらしいです。
繰り返して言いますが、『史記』以下の中国古典に書かれている歴史は伝承・伝説の類であって、とくに殷代以前の記録については正確さが著しく損なわれています。
紀元前二千年期(紀元前200年〜紀元前1001年までの時期を指す)の歴史を知る史料として正確さを期待できるのは、考古学的な出土史料である甲骨文などに限定されていまして、古典に書いてあるから実際に有ったというのは紀元前二千年期の歴史を考える上では暴論に等しいんです。
陳寿の『三国志』が現代史であるのに対し、『史記』などが書く夏殷時代の歴史は民族の遠い記憶を画いた古代史なんですよ。
(PC)
35 巫俊(ふしゅん)
誤字 紀元前2000年〜紀元前1001年が「紀元前二千年紀」
世紀(100年間)より上位の単位を年紀(1000年間)と言います。
「期」か「紀」か漢字表現に迷った...
とくに韓国では、漢字が廃止されるなど民族的な立場から中国史に対する反発が著しいので、一概には言えませんが韓国の中国史研究の環境は劣悪なようです。
それでその研究サイトが挙げているのは、この『今本竹書紀年』という明代に書かれた歴史書でしょうね。
五 年 夏,築 南 単 之 台 .雨 土 于 亳.
殷の紂王の五年夏、南単の台を築く。亳(はく)に土が降った。
南単(なんぜん)の台はピラミッドを模した土台の上の木造の望楼と解釈されていまして、
亳は河南・豫州方面のどこかにあったと云われる殷の古都のことですが、
そこで黄砂が降ったという災異を記録したとされています。
ただこの『今本竹書紀年』は明代に作られた文献であり、歴史記録というよりは年表形式の小説です。その年表の年次は荒唐無稽な信用できないとされていますが、殷の紂王の時代に土が降ったという伝説は戦国時代に作られた文献『墨子』に書かれていることを確認しました。
殷の紂王は現在の研究では、紀元前11世紀の後半に死んだとされています。
紀元前1150年は紀元前12世紀の中盤ですから、紀元前1050年の前後くらいだろうと修正されます。
どちらにせよ、『墨子』の記録が正確かは分からないのですが。
世紀(100年間)より上位の単位を年紀(1000年間)と言います。
「期」か「紀」か漢字表現に迷った...
とくに韓国では、漢字が廃止されるなど民族的な立場から中国史に対する反発が著しいので、一概には言えませんが韓国の中国史研究の環境は劣悪なようです。
それでその研究サイトが挙げているのは、この『今本竹書紀年』という明代に書かれた歴史書でしょうね。
五 年 夏,築 南 単 之 台 .雨 土 于 亳.
殷の紂王の五年夏、南単の台を築く。亳(はく)に土が降った。
南単(なんぜん)の台はピラミッドを模した土台の上の木造の望楼と解釈されていまして、
亳は河南・豫州方面のどこかにあったと云われる殷の古都のことですが、
そこで黄砂が降ったという災異を記録したとされています。
ただこの『今本竹書紀年』は明代に作られた文献であり、歴史記録というよりは年表形式の小説です。その年表の年次は荒唐無稽な信用できないとされていますが、殷の紂王の時代に土が降ったという伝説は戦国時代に作られた文献『墨子』に書かれていることを確認しました。
殷の紂王は現在の研究では、紀元前11世紀の後半に死んだとされています。
紀元前1150年は紀元前12世紀の中盤ですから、紀元前1050年の前後くらいだろうと修正されます。
どちらにせよ、『墨子』の記録が正確かは分からないのですが。
(PC)
36 巫俊(ふしゅん)
黄砂を意味する漢語。
漢語 意味
雨土 土砂が降る
霾 土砂が降る
『後漢書』郎伝の注
爾 雅 曰 : 「 風 而 雨 土 為 霾 . 」
爾雅は漢代に作られたらしい百科事典。
天雨塵土 天が塵土を降らした
雨塵、天雨塵土は『宋史』にのみ使われている語彙。『宋史』は10世紀から13世紀にかけての漢民族国家・宋の歴史書で、14世紀元朝のモンゴル人宰相トクト(脱脱)が編纂。
黄沙 黄色い沙
『三国志』では蜀書後主伝に農耕地という意味で出てくる。木牛流馬と同じく諸葛亮が選んだ農耕地が「黄沙」という土壌らしい。
『南史』梁本紀や『隋書』五行志では「天雨黄沙」とあり、黄沙が降ったと言及する。
漢語 意味
雨土 土砂が降る
霾 土砂が降る
『後漢書』郎伝の注
爾 雅 曰 : 「 風 而 雨 土 為 霾 . 」
爾雅は漢代に作られたらしい百科事典。
天雨塵土 天が塵土を降らした
雨塵、天雨塵土は『宋史』にのみ使われている語彙。『宋史』は10世紀から13世紀にかけての漢民族国家・宋の歴史書で、14世紀元朝のモンゴル人宰相トクト(脱脱)が編纂。
黄沙 黄色い沙
『三国志』では蜀書後主伝に農耕地という意味で出てくる。木牛流馬と同じく諸葛亮が選んだ農耕地が「黄沙」という土壌らしい。
『南史』梁本紀や『隋書』五行志では「天雨黄沙」とあり、黄沙が降ったと言及する。
(PC)
37 巫俊(ふしゅん)
>>35
う〜ん、墨子の例の「雨土」という文章ですが、「非攻・下」という章に書かれています。
今確認してみたところ、例の部分の少し前の段落に、
雨血三朝,
地の雨が三日降り続いた。
と書かれているんですよね。。
血の雨・・・そんなもの自然現象にあったでしょうか。
だとすると、この「雨土」というのも荒唐無稽なものなのか、それとも神話伝説的に何か深い寓意があるのでしょうか。
とりあえず、毎年のように降り注ぐ現在の黄砂ならば、このような扱いはされないでしょうな。
う〜ん、墨子の例の「雨土」という文章ですが、「非攻・下」という章に書かれています。
今確認してみたところ、例の部分の少し前の段落に、
雨血三朝,
地の雨が三日降り続いた。
と書かれているんですよね。。
血の雨・・・そんなもの自然現象にあったでしょうか。
だとすると、この「雨土」というのも荒唐無稽なものなのか、それとも神話伝説的に何か深い寓意があるのでしょうか。
とりあえず、毎年のように降り注ぐ現在の黄砂ならば、このような扱いはされないでしょうな。
(PC)
38 巫俊(ふしゅん)
しかも後ろの段落には「天が肉を降らす」と書いてあります。
自然天候の記録としては精度が疑われますね。
日常的にはありもしない災異を想像して書いているという印象が強いので、これを使って紀元前11世紀の記録という訳にはいかないでしょう。
自然天候の記録としては精度が疑われますね。
日常的にはありもしない災異を想像して書いているという印象が強いので、これを使って紀元前11世紀の記録という訳にはいかないでしょう。
(PC)