1 ユウキ
三国志の名将達の兵法・戦法。
曹操や周瑜など戦がうまかった武将は数多くいると思いますが、ただうまかったっというだけで、どのような戦法が得意だったとかはあまり知られていないような気がします。
得意とした戦法・陣形・軍の大小などを各武将別に検証するスレです。
まずは魏延あたりから始めましょう。
得意とした戦法・陣形・軍の大小などを各武将別に検証するスレです。
まずは魏延あたりから始めましょう。
(P900i/FOMA)
3 大伴
麭義なとは対騎馬戦術に優れていた様ですし、カク昭には対坑道戦が記録されていますが……
戦闘についてはほとんど書かれていませんからね。かなりの部分は推測せねばなりませんね(汗)
戦闘についてはほとんど書かれていませんからね。かなりの部分は推測せねばなりませんね(汗)
(F2102V/FOMA)
5 ユウキ
一元さん初めまして!以後よろしくお願いします。
大伴さんでも分かりませんか…。やはり推測になってしまいそうですね。
そういえば白馬義従でしたっけ?確か史実だったような…。
まず有名な話だと…
速攻、奇襲型=夏侯淵・孫策・楽進なんかも一番乗りが多いですしこのタイプでしょうか?
大伴さんでも分かりませんか…。やはり推測になってしまいそうですね。
そういえば白馬義従でしたっけ?確か史実だったような…。
まず有名な話だと…
速攻、奇襲型=夏侯淵・孫策・楽進なんかも一番乗りが多いですしこのタイプでしょうか?
(P900i/FOMA)
6 大伴
夏侯淵は、奇襲を得意とはした様ですが、恐らく突撃をする様な騎馬戦術は不得手としたのでは無いでしょうか?
というのも、例えるならばマラソンランナーのタイプで、配下には瞬発力の速筋よりも、遅筋を要求する様な場面が多かったと考えられるからです。
又、当時の馬には鐙が無く、人馬共に体力を消耗した様です。夏侯淵という人は、休息のタイミングをとるのが抜群に上手かったのだと推測します。
呂布が騎馬での戦闘に優れていたというのは、呂布が曹操に言った言葉ですね。しかし具体的な事はわかりません。夏侯淵の様な、長距離の移動が得意だったのか、フランキングが得意だったのか、正面突撃が得意だったのか。私の知る資料からは、推測の域を出ません。どなたか資料をお持ちですか?
というのも、例えるならばマラソンランナーのタイプで、配下には瞬発力の速筋よりも、遅筋を要求する様な場面が多かったと考えられるからです。
又、当時の馬には鐙が無く、人馬共に体力を消耗した様です。夏侯淵という人は、休息のタイミングをとるのが抜群に上手かったのだと推測します。
呂布が騎馬での戦闘に優れていたというのは、呂布が曹操に言った言葉ですね。しかし具体的な事はわかりません。夏侯淵の様な、長距離の移動が得意だったのか、フランキングが得意だったのか、正面突撃が得意だったのか。私の知る資料からは、推測の域を出ません。どなたか資料をお持ちですか?
(F2102V/FOMA)
7 ユウキ
確かに夏侯淵は三日で五百里、五日で千里なんて言われてたらしいですよね。てか間違ってます?(笑)
つまり大伴さんの長距離ランナーの例えは納得です。敵陣と対峙してからの機を見て意表を突いた、混乱させるような奇襲を得意にしていたわけでは無いようですね。
離れた場所から突然現われて敵の防備が整わない内に落とすようなやり方でしょうか?
甘寧なんかはどうでしょう?確か少数の兵で奇襲を仕掛けた話があったような…
後は先にイリョウを落とす献策をしてますよね。実際に落としてますし。これは夏侯淵に似たやり方ですよね。
つまり大伴さんの長距離ランナーの例えは納得です。敵陣と対峙してからの機を見て意表を突いた、混乱させるような奇襲を得意にしていたわけでは無いようですね。
離れた場所から突然現われて敵の防備が整わない内に落とすようなやり方でしょうか?
甘寧なんかはどうでしょう?確か少数の兵で奇襲を仕掛けた話があったような…
後は先にイリョウを落とす献策をしてますよね。実際に落としてますし。これは夏侯淵に似たやり方ですよね。
(P900i/FOMA)
8 大伴
奇襲は寡兵の時に有効な戦い方ですが、それは人数の少ないが、敵に悟られ難いからでもありますからね。
話は変わりますが、私は曹操を離脱戦、離隔戦を得意とした、後退戦のエキスパートだと考えています。
理由は、
>>>72-17-21
>>>72-25
を参照の事。
話は変わりますが、私は曹操を離脱戦、離隔戦を得意とした、後退戦のエキスパートだと考えています。
理由は、
>>>72-17-21
>>>72-25
を参照の事。
(F2102V/FOMA)
10 天草
曹操が離脱戦・後退戦を得意にしたというのは、納得できますね。
それで思い出したのですが、赤壁の戦いで曹操が敗走する時に、劉備が自分の退路を読んでいなかった事に対して、曹操が馬鹿にする記述がありますよね。
皆さん、御存知の通り、演義ではこの時、諸葛亮がバッチリ退路を読み、関羽が最後に曹操の命を助ける名場面が用意されてます。
何とも皮肉な演出ですよね。
スレ違いすいません。
それで思い出したのですが、赤壁の戦いで曹操が敗走する時に、劉備が自分の退路を読んでいなかった事に対して、曹操が馬鹿にする記述がありますよね。
皆さん、御存知の通り、演義ではこの時、諸葛亮がバッチリ退路を読み、関羽が最後に曹操の命を助ける名場面が用意されてます。
何とも皮肉な演出ですよね。
スレ違いすいません。
(PC)
13 大伴
(D505iS)
16 大伴
>>1
まずは……と書かれてほったらかしですので、拡大解釈して(笑)
彼の話をする時、長安急襲案は外せないでしょう。又、第四次北伐の撤退の際、先回りして南下できた事も忘れてはならない要因です。
彼はこのスレッドで以前私が述べた、夏候淵タイプの人ではないでしょうか?地理に精通し、兵の休息のタイミングを良く知る人物です。
まずは……と書かれてほったらかしですので、拡大解釈して(笑)
彼の話をする時、長安急襲案は外せないでしょう。又、第四次北伐の撤退の際、先回りして南下できた事も忘れてはならない要因です。
彼はこのスレッドで以前私が述べた、夏候淵タイプの人ではないでしょうか?地理に精通し、兵の休息のタイミングを良く知る人物です。
(D505iS)
18 ナナホッシー
夏候淵も魏延も少数の精鋭を率いるタイプですね。海賊上がりの甘寧も合肥の戦功から考えてこのタイプかな。
と考えると、夏候淵ともども漢中太守には向かないんじゃないかなあって思ってしまいます。
軍団を束ねる必要があるポストって向かないんじゃないかと思いますので。
と考えると、夏候淵ともども漢中太守には向かないんじゃないかなあって思ってしまいます。
軍団を束ねる必要があるポストって向かないんじゃないかと思いますので。
(PC)
初めまして。皆さんホンマお詳しいですね。まぁ、私個人の意見としてはギエン(携帯で漢字が出てこない!)や夏候淵、は人の下にいて光る将だと感じるし、甘寧や張遼なんかはもっと早い時期から有能な部下をもっと預けてもらってたらもっといい働きをしたと思いますね〜。。上に立つ資質としてはかなりのものかと。。
(W22H/au)
20 ストラップ
>>18-19
現場の前線指揮を執る人間という事のみで光った、という意味ですね?私自身はそれには懐疑的ですが、言わんとしている事はわかりますよ。
私が二人を似た人としたのは、遠征からの急襲を得意としたタイプであったと考えるからです。
馬を戦いに使う利点はの主なものは、以下四点です。
@長距離を短時間で移動(戦略レベル)
A戦場での素早い移動(作戦レベル)
B戦闘における、大質量の物体の移動という威圧効果(戦術レベル)
C非騎乗者に対する高さ等の有利(武術レベル)
夏候淵が評価されたのは@においてのみですね。
現場の前線指揮を執る人間という事のみで光った、という意味ですね?私自身はそれには懐疑的ですが、言わんとしている事はわかりますよ。
私が二人を似た人としたのは、遠征からの急襲を得意としたタイプであったと考えるからです。
馬を戦いに使う利点はの主なものは、以下四点です。
@長距離を短時間で移動(戦略レベル)
A戦場での素早い移動(作戦レベル)
B戦闘における、大質量の物体の移動という威圧効果(戦術レベル)
C非騎乗者に対する高さ等の有利(武術レベル)
夏候淵が評価されたのは@においてのみですね。
(D505iS)
21 ストラップ
>>20
似ているようですが、@とAは、全く別の事柄です。例えるならば、驢馬とチーターはどっちが速く動けるかという問題です。大食いと早食いが似て異なる様に、質が全く違いますね。
似ているようですが、@とAは、全く別の事柄です。例えるならば、驢馬とチーターはどっちが速く動けるかという問題です。大食いと早食いが似て異なる様に、質が全く違いますね。
(D505iS)
22 ストラップ
この時代、>>>100-24にも書かれている様にまだ迷信的方法が強く信じられていた時代ですから、多くの軍事行動は理屈だけで決定されては無かったと思います。
その日の雲の形でどう行動するか決めるとか、良い方角から攻める為に本来有利な地形を離れるとか。
三国志の表に出ないだけで、まだ兵陰陽に分類される学問が実践されていた時代の可能性は充分にあると思います。
事実トンコウの唐の時代の遺跡から、雲の形を参考にする兵法書が掘り出されている様です(トンコウ残巻占雲気書)。
迷信的方法を採用しない、という事が、勝者の方法だった時代でもあると考えています。
その日の雲の形でどう行動するか決めるとか、良い方角から攻める為に本来有利な地形を離れるとか。
三国志の表に出ないだけで、まだ兵陰陽に分類される学問が実践されていた時代の可能性は充分にあると思います。
事実トンコウの唐の時代の遺跡から、雲の形を参考にする兵法書が掘り出されている様です(トンコウ残巻占雲気書)。
迷信的方法を採用しない、という事が、勝者の方法だった時代でもあると考えています。
(F2102V/FOMA)