2 ユウキ
孔明さん初めまして。以後よろしくお願いします。
孔明と仲達ですが、軍事的なものはそれほど差は無いと思います。攻める側と攻められる側では違いますし。
内政の部分でも遜色ないと思います。
逆に人物眼という点では仲達のほうが上ではないでしょうか?姜維、馬ショク、李厳など…逆に仲達はトウガイを抜擢したり、王必の人物評で曹操と意見が別れて結果仲達の目のほうが正しかった話もありますし。
孔明と仲達ですが、軍事的なものはそれほど差は無いと思います。攻める側と攻められる側では違いますし。
内政の部分でも遜色ないと思います。
逆に人物眼という点では仲達のほうが上ではないでしょうか?姜維、馬ショク、李厳など…逆に仲達はトウガイを抜擢したり、王必の人物評で曹操と意見が別れて結果仲達の目のほうが正しかった話もありますし。
(P900i/FOMA)
3 八苦
私は仲達の方が人物的に優れていると思いますよ。大概の本は孔明や劉備をヒイキメに書いてあるから錯覚してしまうけど、軍略は下手って部下だった陳寿にも孔明伝で書かれてるし、政治家としての孔明は素晴らしいかもしれないけれど、軍略家としての孔明は一流とは言い難いのが本当の所だと思いますよ。
(P2102V/FOMA)
4 ユウキ
仲達を孔明の立場に置き換えてみるとどうでしょう?もし仲達がショクの臣だったとしたら仲達は長安を落とせたでしょうか?恐らく結果は孔明と一緒では無いでしょうか。
孔明の軍事活動と言えばほぼ北伐のみですから、軍事面は比べようが無いのでは。仲達の功績である孟達、公孫氏を討つ事は孔明でも出来たと思いますが。
孔明の軍事活動と言えばほぼ北伐のみですから、軍事面は比べようが無いのでは。仲達の功績である孟達、公孫氏を討つ事は孔明でも出来たと思いますが。
(P900i/FOMA)
5 天草
二人とも優秀だった…というと議論になりませんが(汗)比べるのは非常に難しいですよね。
ちなみにこの二人は演義などではライバルとして良く戦いますが、実際は確か一度しか戦ってないんですよね?(違ったかな?)
軍事面ではやっぱり司馬懿の方が上なのかな?それとも単に、魏の方が人材が豊富だったからなのかな?
ちなみにこの二人は演義などではライバルとして良く戦いますが、実際は確か一度しか戦ってないんですよね?(違ったかな?)
軍事面ではやっぱり司馬懿の方が上なのかな?それとも単に、魏の方が人材が豊富だったからなのかな?
(PC)
7 ユウキ
国力、地理を考慮しないでどちらが上かを決めるのは乱暴だと思います。ただ孔明はうまくは無かったと思います。
陳寿の孔明評の軍事は下手には何か根拠はあるのでしょうか?陳寿自身は軍事の経験はあるのでしょうか?
これは完全に僕の妄想ですが、陳寿は結果論のみを取り上げて書いただけでは無いでしょうか?また街亭での敗北の時なんかはショク宮中でも孔明への陰口は普通にあったと思います。
それを耳にしていた陳寿は後世になって、軍事的な事に詳しく無いあまり知ったかぶりをして結果論、非難を元にして戦争は下手だったと書いたのではないか?と思います。
他に孔明が戦争下手と言っている人物はいるのでしょうか?
陳寿の孔明評の軍事は下手には何か根拠はあるのでしょうか?陳寿自身は軍事の経験はあるのでしょうか?
これは完全に僕の妄想ですが、陳寿は結果論のみを取り上げて書いただけでは無いでしょうか?また街亭での敗北の時なんかはショク宮中でも孔明への陰口は普通にあったと思います。
それを耳にしていた陳寿は後世になって、軍事的な事に詳しく無いあまり知ったかぶりをして結果論、非難を元にして戦争は下手だったと書いたのではないか?と思います。
他に孔明が戦争下手と言っている人物はいるのでしょうか?
(P900i/FOMA)
8 エイ
久々にお邪魔致します。
早く年末の仕事を処理したい…。
あっと!失礼、逸れました。
諸葛孔明と司馬仲達。
きっと遥か昔から、比べられたのでしょうね。
さて、この二人の人物を比べる方々に質問
スピードスケートの金メダリストとフィギュアスケートの世界チャンピオンはどっちが上でしょうか??
早く年末の仕事を処理したい…。
あっと!失礼、逸れました。
諸葛孔明と司馬仲達。
きっと遥か昔から、比べられたのでしょうね。
さて、この二人の人物を比べる方々に質問
スピードスケートの金メダリストとフィギュアスケートの世界チャンピオンはどっちが上でしょうか??
(P2102V/FOMA)
9 八苦
まず仲達がショクで孔明が魏にいた場合、結果はおっしゃる通り孔明が魏を守りきったと思います。が、理由はどうあれ孔明は北伐を選択、決行し失敗したのです。勝てぬ戦で衆を疲弊させただけに終ったのならば、司令官として無能です。ならば戦わず、国を富ませ、謀を駆使し、敵が隙を見せるまで待たなければならないと思います。何万の命を預かってるのですから。まぁエイさんのが正論ですが、敢えての話です。
(P2102V/FOMA)
10 八苦
あっ、書き忘れを少し。ユウキさんおっしゃる通り、陳寿は宮中の陰口を書いたに過ぎない話。また、陳寿以外に孔明に辛口評論を加えた人物はいないという話。言われてみればそうかもしれません。ただ、言われるだけの理由はあったかと。愚見ですが。
(P2102V/FOMA)
11 ユウキ
今読み返したらちょっとケンカ腰に見える文かもしれないです(笑)あれは僕自身勉強不足なので皆さんの知ってる限り孔明批判してる人物はいるのかなぁ?ってゆう単純な疑問だったり陳寿の経歴に疑問があったので?でした。批判してる訳では無いので気になさらないで下さい(笑)
それと以後よろしくお願いします!
それと以後よろしくお願いします!
(P900i/FOMA)
12 赤龍
そもそも孔明が戦争上手というのは後世つくられた虚像だと思われます。諸葛亮びいきの陳寿でさえ、あえて記述した欠点。それは単なる陰口の類ではなく、当時の一般的評価ではなかったのでしょうか。逆に同時代の人が孔明の軍事的才能を評価している例はあるんでしょうか?
(J-SA05)
14 赤龍
北伐開始時は、判断しようにも実戦経験がほとんど無く、判断材料も評価のしようも無かったと思います。それにまあ、得意じゃなかった=平均以下て訳でもないでしょうし。平均程度、歴戦の名将(張コウ等)には及ばぬ、くらいじゃないでしょうか。
(J-SA05)
15 赤龍
個人的には、軍略の知識自体はかなり学び、豊富だったと思いますが、経験不足と文人特有の学者気質、机上論的な面により、実戦では臨機応変の軍略で、敵の名将達に及ばなかったのではと思ってます。ただ、大局的な戦略には優れたものがあったと思います。
(J-SA05)
16 八苦
ユウキさん以後よろしくお願いします。さて、孔明に実力が無ければ劉備は登用しなかったでしょうし、関羽達が孔明を認めるのは難しかろうと思います。私が孔明を仲達より下と見たのは人材活用や人選眼です。この点は既にユウキさんがご指摘してますね。内に孔明あって、宮中や劉禅を見張り、軍を李厳が率いていれば随分話は変わっていた筈。孔明は劉備亡き後、全権を掌握しようとして他人を認められなくなっています。また外亭の戦で馬稷を使うなど、自分のお気に入りを周りに置いてしまっていた気が…。これは日本の豊臣政権、現在の小泉内閣に通じるところがあります。これでは自ずと滅びますよね。
(P2102V/FOMA)
17 天草
八苦さん、よろしくお願いします。
諸葛亮の人選がどうだったのかは微妙だと思います。
李厳などは当初は大事な補給要員として、活躍させてたのに、裏切られた形ですし、馬稷もあながち無能だったとは言い切れません。
ただ派閥があったのは予想できますが、これも蜀だけとは思えませんし…。
やはり蜀の人材不足、これに尽きると思いますね。
諸葛亮の人選がどうだったのかは微妙だと思います。
李厳などは当初は大事な補給要員として、活躍させてたのに、裏切られた形ですし、馬稷もあながち無能だったとは言い切れません。
ただ派閥があったのは予想できますが、これも蜀だけとは思えませんし…。
やはり蜀の人材不足、これに尽きると思いますね。
(PC)
18 たけがみ
(N900i/FOMA)
19 八苦
天草さん新参の八苦です。よろしくお願いします。さて、勿論孔明が重要したのですから馬稷が無能だとは思いません。馬稷だけにとどまらず三国史の英雄達に無能な人などいないと思っています。ただ結果、馬稷は外亭で負けています。この時点で馬稷を用いた孔明の失敗ではないかと…。李厳は大事な補給要員として活躍していたのは確かですが、劉備は忌まわの際に、孔明と李厳を対等とし、二人に後事を託しています。しかし気付けば孔明は李厳を補給要員として裏方に回し、軍の実権を牛耳っています。孔明一人が知恵者で他はとるに足らず、益州は人材不足。私はそんな事は無いと思ってます。孔明が独裁に走り、人材登用や活用を拒んでいた節はアチラコチラに見受けられます。
(P2102V/FOMA)
20 エイ
ドッチラケになるような水差し(カキコ)申し訳ありませんでした。
一応、弁明させて頂きますと
私自身も人物評や比較の論議は好きなのです。
が、諸葛孔明と司馬仲達の比較はそれくらい答えの出ないことに感じられるので、
(例え自分と違う意見が上がっても)『過ぎた』意固地は避けましょう。
……と、申したかったのです。
一応、弁明させて頂きますと
私自身も人物評や比較の論議は好きなのです。
が、諸葛孔明と司馬仲達の比較はそれくらい答えの出ないことに感じられるので、
(例え自分と違う意見が上がっても)『過ぎた』意固地は避けましょう。
……と、申したかったのです。
(PC)
21 エイ
蛇足ながら……
諸葛孔明の『人選』についてですが、
私は必ずしも的外れだったとは思いません。
確かに馬幼常・魏文長・李正方などについては、ツッコミどころがありそうですが、
「軍事を得意としない」とする部分の観点では如何でしょうか?
即ち、呉国との外交です。
トウ伯苗と使者としたこと、主簿に任じた宗徳エンは孔明の死後の呉の動きに警戒できる人材。
如何でしょうか?
諸葛孔明の『人選』についてですが、
私は必ずしも的外れだったとは思いません。
確かに馬幼常・魏文長・李正方などについては、ツッコミどころがありそうですが、
「軍事を得意としない」とする部分の観点では如何でしょうか?
即ち、呉国との外交です。
トウ伯苗と使者としたこと、主簿に任じた宗徳エンは孔明の死後の呉の動きに警戒できる人材。
如何でしょうか?
(PC)
23 天草
エイさんの言わんとすることは、良く分かります。
確かに諸葛亮と司馬懿を比べるのは、難しい事ですよね。
人選については私も同じ考えです。
私は常に答えをそっちに持って行きますが、やはり魏と蜀の決定的な違いは人材の豊富さで、そこを諸葛亮と司馬懿の違いにするのは、ちょっと酷のような気もしますね。
ところで、新たに気になったのですが…彼ら二人は私の知る限り、一度しか戦場で戦っていないにも関わらず、その戦では使者を送って何度も交流していますよね?駆け引きの一環なら、そういう心理戦が存在したのでしょうか?それとも以前から知り合いだったのでしょうか?
確かに諸葛亮と司馬懿を比べるのは、難しい事ですよね。
人選については私も同じ考えです。
私は常に答えをそっちに持って行きますが、やはり魏と蜀の決定的な違いは人材の豊富さで、そこを諸葛亮と司馬懿の違いにするのは、ちょっと酷のような気もしますね。
ところで、新たに気になったのですが…彼ら二人は私の知る限り、一度しか戦場で戦っていないにも関わらず、その戦では使者を送って何度も交流していますよね?駆け引きの一環なら、そういう心理戦が存在したのでしょうか?それとも以前から知り合いだったのでしょうか?
(PC)
24 たろう
難しいですね。たしか一度孔明が中達を挑発して失敗しましたよね。孔明死後の撤退では孔明の策で中達の追撃失敗。
しかし忠義の面では魏に反乱した中達ょりもはるかに孔明の方が優れてますね。配下の将としてはこの点から見て圧倒的に孔明の方が優れていたといえますね。
しかし忠義の面では魏に反乱した中達ょりもはるかに孔明の方が優れてますね。配下の将としてはこの点から見て圧倒的に孔明の方が優れていたといえますね。
(W21SA/au)
25 赤龍
たろうさんの論とは反対に、仲達は晋朝の祖というべき存在であり、一臣下の身分で終った孔明よりもスケールは上。という論法もできますね。実際は司馬懿自身にどれだけ纂奪の意思があったか疑問ですが。
(J-SA05)
26 たろう
たしかに中達は凄いです。当時一番強大だった魏を形はどうあれ滅ぼしたんですから…ってか司馬一族!?やはりそれだけの力があったんですかね。でも国を裏切るなんてやはり許せません、特に魏好きの私としては(超個人的)
孔明は劉備に「国をとって良いぞ」←(本当か分かりませんが)と言われても劉禅に尽し北伐までしてますから二人には全く違う長所?もあると思います。
孔明は劉備に「国をとって良いぞ」←(本当か分かりませんが)と言われても劉禅に尽し北伐までしてますから二人には全く違う長所?もあると思います。
(W21SA/au)
27 八苦
ホントに凄い二人を比べようとすると、必ずどちらかを卑下(する気は無くても結果的に卑下)する事になってしまって胸痛みます。二人は能を持ち、フル活用した。仲達と孔明の何か一点に絞って議論すべきだったかもしれないですね。
(P2102V/FOMA)
28 伏仁傑
劉備の遺言について、仮に実際に孔明へ「我が子に才が無いと見たら算奪しても良い」と言ったとしても、それは儀礼上の問題でありいわば「するハズが無い」とお互いが認識した上での行為でしょう。それにより2人の絆の美しさは損なわれるワケではありません。禅譲を初め高位高官に就任する場面では三度断る(断らなければならない)などなど儒教的な儀礼の美しさを抜きにして評論するのは危険です。
(W11K/au)
29 伏仁傑
続き
全体的な印象として孔明は極めて書生的と言いますか…大局を掴んで判断するのは得意なようですが具体的局面での判断ミス(街亭戦役での人選など)が目立ちます。そして戦術は教科書通りで堅実そのもの(北伐の進軍の様子などを参照)だからこそ逆に時折放つ奇策が効果的で目立つのかも知れません。
一方で仲達は有能な前線指揮官の印象が強く、臨機応変な策が目立ちます。孟達謀反の際の対処などは特筆すべきだと思います。彼が三代に渡って算奪の深慮遠謀を巡らせていたとしても不思議は無いでしょうし、乱世ならばそれもまた正しい生き方だと思います。
孔明と仲達、2人ともにこの時代において傑出した人物である事は間違いないと思います。それゆえに、どちらが優れていたか…などと評論するのは2人に失礼な行為だと思います。孔明はこんな生き方をし仲達はこのように生きた。それだけで良いのでは無いでしょうか?
相変わらずの長文でスイマセン
全体的な印象として孔明は極めて書生的と言いますか…大局を掴んで判断するのは得意なようですが具体的局面での判断ミス(街亭戦役での人選など)が目立ちます。そして戦術は教科書通りで堅実そのもの(北伐の進軍の様子などを参照)だからこそ逆に時折放つ奇策が効果的で目立つのかも知れません。
一方で仲達は有能な前線指揮官の印象が強く、臨機応変な策が目立ちます。孟達謀反の際の対処などは特筆すべきだと思います。彼が三代に渡って算奪の深慮遠謀を巡らせていたとしても不思議は無いでしょうし、乱世ならばそれもまた正しい生き方だと思います。
孔明と仲達、2人ともにこの時代において傑出した人物である事は間違いないと思います。それゆえに、どちらが優れていたか…などと評論するのは2人に失礼な行為だと思います。孔明はこんな生き方をし仲達はこのように生きた。それだけで良いのでは無いでしょうか?
相変わらずの長文でスイマセン
(W11K/au)
30 たろう
人物同士を比べるのは別によいと思います。実際答えはでないでしょうね。極端な話どんな凡将でも二人よりも劣っていると言われても事実といえる証明が出来ませんから。それより二人が傑出した人物ゆえにどちらが……などと書く方が失礼かと。明らかに良将と呼ばれる方しかかばっていないと思います。
(W21SA/au)
31 大伴
諸葛亮の凄いところは、やはりその北伐の時期の見図り方だと思います。巧い指揮官さえいたならば勝ってしまいそうな、そんな時期をちゃんと知っていて、闇雲に攻撃していない事です。正に一流の戦略家といえるでしょう。まぁだからこそ、彼の作戦家や戦術家としての才を疑わざるをえないのですが……
(D505iS)
32 天草
魏延スレについて調べていて気が付いたのですが…
五丈原の戦いで、諸葛亮伝には司馬懿が篭城して、女物の服を送って挑発したり…とありますが、司馬懿伝には全く逆で、諸葛亮が立て篭もったことになってるんですね?
裴松之もこの矛盾について語ってますが、結論は出してません。
攻めた諸葛亮が篭城というのは考えにくい気もしますが…どう思います?
五丈原の戦いで、諸葛亮伝には司馬懿が篭城して、女物の服を送って挑発したり…とありますが、司馬懿伝には全く逆で、諸葛亮が立て篭もったことになってるんですね?
裴松之もこの矛盾について語ってますが、結論は出してません。
攻めた諸葛亮が篭城というのは考えにくい気もしますが…どう思います?
(PC)
34 ストラップ
三国志の
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」
が、本邦で一般的には
「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」
と言われるのは、太平記の「大塔宮熊野落ちの事」と、「義貞夢想の事 付けたり 諸葛孔明の事」でこう引用しているが為なのだそうですよ。
本日仕入れた豆知識(汗)
「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」
が、本邦で一般的には
「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」
と言われるのは、太平記の「大塔宮熊野落ちの事」と、「義貞夢想の事 付けたり 諸葛孔明の事」でこう引用しているが為なのだそうですよ。
本日仕入れた豆知識(汗)
(F2102V/FOMA)
36 元歎
諸葛亮と李厳の話ですね♪ これは参加しないと!^^
李厳伝に『(ちくま訳)三年(二二三)、先主の病気は重くなり、李厳は諸葛亮とともに幼少の後主を補佐するよう遺詔をうけ、李厳は中都護となって、内外の軍事を統括し、永安に留まって鎮撫にあたれと命じられた』とありますよ。そもそも李厳が軍事を統括するはずだったのに、諸葛亮がそれを奪ったということですね。
李厳伝に『(ちくま訳)三年(二二三)、先主の病気は重くなり、李厳は諸葛亮とともに幼少の後主を補佐するよう遺詔をうけ、李厳は中都護となって、内外の軍事を統括し、永安に留まって鎮撫にあたれと命じられた』とありますよ。そもそも李厳が軍事を統括するはずだったのに、諸葛亮がそれを奪ったということですね。
(PC)
39 朱家
敗走して緜竹に立て篭った将兵を、指揮する総大将に派遣されたのが李厳で、劉備に降った功績は、法正に次ぐと思います。説得されてだと思うし、重責を担う事は約束済みでしょう。『蜀科』(法律)を作った一人でもありますね。
盗賊が数万を率いて反乱した時、劉備は漢中にいたが、李厳は慌てず、僅か五千で討伐した。新道県が包囲された時、救援に駆け付け平定した。これらは規模は小さいが大将としての功績です。
最大の危機とされる、曹真の侵攻時、迎え撃ったのは李厳です。危機的状況の中、孔明は、李厳を外、自身は内、これが最善との判断でしょう。では何故最善で侵攻しなかったか?奇策に耐える国力がなく、魏を倒す事は不可能と判断し、損失を少なく、確実に侵攻すべきと考え、そのために自身が軍を指揮したと思ってます。軍事に疎いのではなく、政治に優れすぎてたと考えてます。褒めてるのではなく、欠点です。
李厳は、孔明に王となるように勧めてますので、主は孔明だったと思います。断られて不快に思ったかもしれませんが。
盗賊が数万を率いて反乱した時、劉備は漢中にいたが、李厳は慌てず、僅か五千で討伐した。新道県が包囲された時、救援に駆け付け平定した。これらは規模は小さいが大将としての功績です。
最大の危機とされる、曹真の侵攻時、迎え撃ったのは李厳です。危機的状況の中、孔明は、李厳を外、自身は内、これが最善との判断でしょう。では何故最善で侵攻しなかったか?奇策に耐える国力がなく、魏を倒す事は不可能と判断し、損失を少なく、確実に侵攻すべきと考え、そのために自身が軍を指揮したと思ってます。軍事に疎いのではなく、政治に優れすぎてたと考えてます。褒めてるのではなく、欠点です。
李厳は、孔明に王となるように勧めてますので、主は孔明だったと思います。断られて不快に思ったかもしれませんが。
(EZ)
40 ぺろ
朱家さんこんばんわ!!李厳が孔明に王位を勧めたというのは初めて聞きました!しかし孔明を主と仰いでいたら断られるのは必須なはず、ある程度へりつくらって軍事に対してそのとき以上の裁量のある地位をほしかったんですかね?!
(W21H/au)
41 朱家
ぺろさん、よろしくです。
断った孔明のほうが変だと思いますよ。後世では讃えられますが、野心に乏しい主は、配下の心を失う危険があるので、李厳が正論です。ある意味劉禅に対する反逆ですし、証拠が残る手紙で勧めてますので、諂ったのではなく、本心だと思います。
ここからは私見ですが、蜀が滅びた一番の要因は、孔明だと思っています。専横者になるのであれば、帝位を奪わなければならなかったと思います。
断った孔明のほうが変だと思いますよ。後世では讃えられますが、野心に乏しい主は、配下の心を失う危険があるので、李厳が正論です。ある意味劉禅に対する反逆ですし、証拠が残る手紙で勧めてますので、諂ったのではなく、本心だと思います。
ここからは私見ですが、蜀が滅びた一番の要因は、孔明だと思っています。専横者になるのであれば、帝位を奪わなければならなかったと思います。
(EZ)
42 元歎
ふと思ったのですが、漢を継いだと自称している国なのですから、劉氏以外の者が王位につくことは劉邦に背くことになりませんか? 諸葛亮が王位につかなかったのはそのためじゃないかと…
>蜀が滅びた一番の要因
僕も諸葛亮…と言いたいところですが(以前はそう考えてました。まあ、今の考えも遠因は諸葛亮にあるのですが)、今は王平だと考えてます。諸葛亮の死後、諸葛亮の軍事的役割(漢中督)は呉懿が受け継ぎます。ここまでは良かったのです。しかし、呉懿を継いだ王平が成都の言うことを聞かなかったのか、気に入らないことをしたのかはわかりませんが、成都と漢中府が対立する原因を作ってしまいます。そして、漢中府を抑制するために蒋エンが漢中へ。しかし、費イや姜維ら漢中側の圧力により蒋エンはフに追いやられます(この時、王平・費イ・姜維・馬忠ら昇進、王平が漢中督)。成都の董允存命中は彼らをなんとか抑え、その死後は呂乂・陳祗が抑えようとします。しかし、彼らは完全に抑えることが出来ず、そして費イが刺殺されると(これまでに王平・馬忠は死去)、姜維が率いる漢中府は暴走します。そこで、成都は黄皓を使って漢中を抑制。黄皓時代はあの姜維ですら北伐を行ってません。しかし、蜀は完全に二つに分かれており、外敵である魏が攻めてきても、成都と漢中はうまく連携できず蜀は滅亡…という考えですね(『督』を総指揮官という意味で使ってるところもあります)。直接的には王平、間接的には諸葛亮ですね、原因は。(諸葛瞻は成都側ですから、父ののこしたモノと戦ったことになりますね…どういう心境だったんだろう。ちなみに、これはあるHPの考察です)
これらは、当事者たちにしかわからない、表面的には対立しているとはわからないことなので、史書に直接記されていません、とまあ、こういうひねくれた見方をする人もいるんですよ(笑)
>蜀が滅びた一番の要因
僕も諸葛亮…と言いたいところですが(以前はそう考えてました。まあ、今の考えも遠因は諸葛亮にあるのですが)、今は王平だと考えてます。諸葛亮の死後、諸葛亮の軍事的役割(漢中督)は呉懿が受け継ぎます。ここまでは良かったのです。しかし、呉懿を継いだ王平が成都の言うことを聞かなかったのか、気に入らないことをしたのかはわかりませんが、成都と漢中府が対立する原因を作ってしまいます。そして、漢中府を抑制するために蒋エンが漢中へ。しかし、費イや姜維ら漢中側の圧力により蒋エンはフに追いやられます(この時、王平・費イ・姜維・馬忠ら昇進、王平が漢中督)。成都の董允存命中は彼らをなんとか抑え、その死後は呂乂・陳祗が抑えようとします。しかし、彼らは完全に抑えることが出来ず、そして費イが刺殺されると(これまでに王平・馬忠は死去)、姜維が率いる漢中府は暴走します。そこで、成都は黄皓を使って漢中を抑制。黄皓時代はあの姜維ですら北伐を行ってません。しかし、蜀は完全に二つに分かれており、外敵である魏が攻めてきても、成都と漢中はうまく連携できず蜀は滅亡…という考えですね(『督』を総指揮官という意味で使ってるところもあります)。直接的には王平、間接的には諸葛亮ですね、原因は。(諸葛瞻は成都側ですから、父ののこしたモノと戦ったことになりますね…どういう心境だったんだろう。ちなみに、これはあるHPの考察です)
これらは、当事者たちにしかわからない、表面的には対立しているとはわからないことなので、史書に直接記されていません、とまあ、こういうひねくれた見方をする人もいるんですよ(笑)
(PC)
43 朱家
成都、漢中対立説はよくありますが、王平は驚きですね。もしよろければ、そのHPを教えて頂けないでしょうか?王平が対立の原因を作った根拠が、何なのか気になります。王平が責任者となった一年後に蒋エンが漢中に赴任します。僅か一年だと、かなり暴走しないと対立にならないし、蒋エンは六年も漢中にいます。その後、益州刺史をかたく拒否しますので、記述にあるように、漢中を退いたのは、病弱で重責を担えず、ほぼ引退状態になった思います。費イらが昇格するのも不思議ではないでしょう。
しかし蒋エンの出世(劉備死後)は、かなり強引で、孔明死後、分裂(対立ではなく、認める者と認めない者)したと思いますが、それは漢中に限らず、中央でも同じでしょう。
漢中が成都を押さえる体制は孔明が作ったものであり、蒋エン、費イもほぼ同じ権限を貰ってます。姜維だけは、その権限を与えられず、完全に政権が成都に移りました。対立が表面化するのは当然です。
蒋エンは上奏で「侵攻できないから、魏と呉に機敏に対応できるフに退く」と言ってます。漢中とは言いませんが、成都が首都なのも問題だったと思います。どこと聞かれると考えてませんが。
しかし蒋エンの出世(劉備死後)は、かなり強引で、孔明死後、分裂(対立ではなく、認める者と認めない者)したと思いますが、それは漢中に限らず、中央でも同じでしょう。
漢中が成都を押さえる体制は孔明が作ったものであり、蒋エン、費イもほぼ同じ権限を貰ってます。姜維だけは、その権限を与えられず、完全に政権が成都に移りました。対立が表面化するのは当然です。
蒋エンは上奏で「侵攻できないから、魏と呉に機敏に対応できるフに退く」と言ってます。漢中とは言いませんが、成都が首都なのも問題だったと思います。どこと聞かれると考えてませんが。
(EZ)
44 ぺろ
朱家さん、元欺さんこんにちわ!!二人のレスを見ていると改めて蜀という国が
難しい国なんだということを痛感いたしました、こういう情勢を踏まえてスレタイの孔明と仲達という二人を比較するのがいかに難しいかということがうかがえますね!
難しい国なんだということを痛感いたしました、こういう情勢を踏まえてスレタイの孔明と仲達という二人を比較するのがいかに難しいかということがうかがえますね!
(PC)
45 元歎
いえいえ、対立したというわけではなく、対立する原因をつくってしまったということです。根拠は…実力あると思われる王平が漢中督であったのに、武人でない蒋エンが漢中督となり、王平が事務方にまわされたことでしょうか。そして、漢中督となった蒋エンは北伐軍を出そうとしない。そんな蒋エンを嫌った姜維らは成都に圧力をかけ、費イ・姜維・馬忠(・王平?)が蒋エンに引導を渡す勅使となります。そもそも南方にいるはずの馬忠が成都に来て、さらに漢中まで行くなどおかしいことです。南方は反乱があって不安定な地。そんな地を離れる理由が他に考えられません(242〜244まで馬忠が成都にいたのはなんででしょう…? そんなに離れていていいのやら…)。また昇進する理由も詔勅を伝えただけというのはおかしく、圧力をかけた側にいたと考えます。
って、朱家さんはそんなこと聞いてないですね。王平が対立する原因をつくったという内容はわかりません。ちなみに、ここhttp://www.project-imagine.org/mujins/fancies.html ですが、PC用だと思います。おそらく多くの人知っているサイトですよ。
って、朱家さんはそんなこと聞いてないですね。王平が対立する原因をつくったという内容はわかりません。ちなみに、ここhttp://www.project-imagine.org/mujins/fancies.html ですが、PC用だと思います。おそらく多くの人知っているサイトですよ。
(PC)
46 元歎
あ、下の方の『成都政権と漢中府』というところです。
朱家さんは成都と漢中は対立していたとお考えではないのですか?
あと、スレタイは『孔明と仲達』。司馬懿とあまり関係のない内容になってきてしまいましたが、このままでここで話してよろしいでしょうか?
朱家さんは成都と漢中は対立していたとお考えではないのですか?
あと、スレタイは『孔明と仲達』。司馬懿とあまり関係のない内容になってきてしまいましたが、このままでここで話してよろしいでしょうか?
(PC)
47 朱家
元歎さんありがとうございます。明日確認してみます。私の考えだと(専横者の違い)スレにも関連あるんですけど、王平だと(笑)HP確認後、スレ捜してみます。
私の考えは、漢中成都対立説に近いですが、そこまで明確ではありません。
孔明は一点集中の体制を作り、政治の決定権を持ちながら、漢中に赴任します。首都の機能を漢中に移した感じだと考えてます。首都から政権を離すのであれば、遷都すべきです。自衛隊の本拠が大阪で、首相が国会を大阪に移したような感じです。両方とも孔明ですが、これは逆なんです。これにより、政治の一部であるべき軍事の権威が上がります。その後も軍事の都合で動いてます。これが劉禅の下か、帝位を奪ってなら問題ないのですが…孔明死後、軍事が政治に関与するようになり、軍事側は劉禅の命ではなく、蒋エンだと知ってますので、主張を変えません。これは劉禅がまとめるべきですが、孔明が補佐を放棄し、権威を奪ったため(与えたと思いたいが)対処できません。
従軍経験のない蒋エンを後継者にしたのは、国を本来の体制に戻すためだったかもしれませんが、結局、政権、軍権を持たせて漢中に赴任させます。
言いたい事が伝わってるか不安です(笑)
私の考えは、漢中成都対立説に近いですが、そこまで明確ではありません。
孔明は一点集中の体制を作り、政治の決定権を持ちながら、漢中に赴任します。首都の機能を漢中に移した感じだと考えてます。首都から政権を離すのであれば、遷都すべきです。自衛隊の本拠が大阪で、首相が国会を大阪に移したような感じです。両方とも孔明ですが、これは逆なんです。これにより、政治の一部であるべき軍事の権威が上がります。その後も軍事の都合で動いてます。これが劉禅の下か、帝位を奪ってなら問題ないのですが…孔明死後、軍事が政治に関与するようになり、軍事側は劉禅の命ではなく、蒋エンだと知ってますので、主張を変えません。これは劉禅がまとめるべきですが、孔明が補佐を放棄し、権威を奪ったため(与えたと思いたいが)対処できません。
従軍経験のない蒋エンを後継者にしたのは、国を本来の体制に戻すためだったかもしれませんが、結局、政権、軍権を持たせて漢中に赴任させます。
言いたい事が伝わってるか不安です(笑)
(EZ)
48 元歎
うん、そう考えると諸葛亮の罪の方が大きいかもしれませんね。李厳を追い落とし、軍権を奪ったのが一番大きいかな。
>その後も軍事の都合で動いてます。
大赦令が軍事行動にあわせて出されてますからね(HPにも書いてあります)。圧倒的です。
>帝位を奪ってなら
そうそう、どうせなら奪えば良かった。そうしたら、漢ではなくなるのだから、無駄な出兵しなくて良いし、対立することもなかった。ああ、どんどん諸葛亮の罪が大きくなってきたf^_^;
>従軍経験のない蒋エンを後継者にした
これは、諸葛亮の死の直後のことでしょうか?
>その後も軍事の都合で動いてます。
大赦令が軍事行動にあわせて出されてますからね(HPにも書いてあります)。圧倒的です。
>帝位を奪ってなら
そうそう、どうせなら奪えば良かった。そうしたら、漢ではなくなるのだから、無駄な出兵しなくて良いし、対立することもなかった。ああ、どんどん諸葛亮の罪が大きくなってきたf^_^;
>従軍経験のない蒋エンを後継者にした
これは、諸葛亮の死の直後のことでしょうか?
(PC)
49 朱家
確認しました。近いスレが捜せず、このままで(笑)
ほぼ考え方は同じでした。違いは蒋エンです。彼は十人十色など、人柄の逸話がありますが、裏を返せば、協力しない者が多かった事を示してると思います。最低限の仕事はしますし、蒋エンも弾圧しないので対立にはなりません。漢中赴任は、成都の意向、すなわち蒋エンの意思だと思います。フに退いたのも、圧力ではなく、病弱で協力も得られず、侵攻は無理と考えたのでしょう。王平の部下が「フの本隊」と言ってるので、依然として蒋エンの指揮下で、漢中から軍権を離すために、主力を連れてきたと考えてます。これは政治の都合で軍権を動かす、正しい形だと思います。蒋エンの誤算は、費イが援軍ではなく、軍を指揮する総大将として、曹爽撃退に派遣された事だと思います。蒋エンは病弱で動けないと思うので、漢中に行ったフ軍は、費イに吸収されたと考えてます。費イらの圧力はこの後で、益州刺史に推挙します。実質、軍を失った蒋エンに、名目上の軍権も放棄せよとの事だと考えます。拒否したのは、最後の抵抗だったのでは?
後継は軍権ではないです。費イだと軍に遠慮して政治を行うと考えた?まあこれは考えすぎだと思います(笑)
ほぼ考え方は同じでした。違いは蒋エンです。彼は十人十色など、人柄の逸話がありますが、裏を返せば、協力しない者が多かった事を示してると思います。最低限の仕事はしますし、蒋エンも弾圧しないので対立にはなりません。漢中赴任は、成都の意向、すなわち蒋エンの意思だと思います。フに退いたのも、圧力ではなく、病弱で協力も得られず、侵攻は無理と考えたのでしょう。王平の部下が「フの本隊」と言ってるので、依然として蒋エンの指揮下で、漢中から軍権を離すために、主力を連れてきたと考えてます。これは政治の都合で軍権を動かす、正しい形だと思います。蒋エンの誤算は、費イが援軍ではなく、軍を指揮する総大将として、曹爽撃退に派遣された事だと思います。蒋エンは病弱で動けないと思うので、漢中に行ったフ軍は、費イに吸収されたと考えてます。費イらの圧力はこの後で、益州刺史に推挙します。実質、軍を失った蒋エンに、名目上の軍権も放棄せよとの事だと考えます。拒否したのは、最後の抵抗だったのでは?
後継は軍権ではないです。費イだと軍に遠慮して政治を行うと考えた?まあこれは考えすぎだと思います(笑)
(EZ)
50 元歎
まあ、僕の考えはそのページに書いてあることと思ってくれれば良いのですが…。『フの本隊』というのは、実際にそうであったからでしょう。形だけとは言え、蒋エンから命令を受けるわけですから。もしかしたら、蒋エンが追認しないといけない形だったのかも(そこまでひどくないかf^_^;)。とにかく、蒋エンの命令は、漢中の意向に沿うように出されたものではないかと。
朱家さんは、蒋エン時代はまだ対立していなかったというわけですね。あのページの考えに変わりありませんが、一応最初から考え直してみます。超詳細年表を作って^^ いつ出来るやら…(汗)
朱家さんは、蒋エン時代はまだ対立していなかったというわけですね。あのページの考えに変わりありませんが、一応最初から考え直してみます。超詳細年表を作って^^ いつ出来るやら…(汗)
(PC)
51 朱家
いえいえ、内面的には対立してたと思いますが、図式が違うんです。
味方(劉禅ぐらい?)は少ないが権力を持つ蒋エンと、権力はないが、味方の多い孔明が育てた軍事側の対立です。成都側も孔明の命令で蒋エンが動く分には従いますが、孔明死後は協力しないし、孔明がいないので追い落とすほど統率もとれない。かといって軍事側に味方する理由もない。蒋エンがいなくなれば、軍事側が権力を持つのは面白くないので、利害一致により成都側がまとまったって感じです。
軍事側が何を言っても、全て蒋エンを経由する体制だったと思います。これは孔明の作った体制ですし、正確には孔明が選んだ蒋エンへの信頼ですね。きっかけは病気だと思います。軍事側は「大切な人材ですから休ませたほうが…」みたいな進言をした?劉禅は常に一人を信頼する、孔明の体制を継承してたと考えます。姜維の北伐も許可してますし、その体制、信頼を崩したのが黄皓だと考えてます。
孔明も、蒋エンを強引に出世させたのだから配慮しないと…李厳がいるうちは無理ですけどね。李厳が失脚しなかったらどうなってたでしょうかね?後継者にするか、殺すしかないような…殺すなら、さすがに孔明も帝位を奪ったかも(笑)
味方(劉禅ぐらい?)は少ないが権力を持つ蒋エンと、権力はないが、味方の多い孔明が育てた軍事側の対立です。成都側も孔明の命令で蒋エンが動く分には従いますが、孔明死後は協力しないし、孔明がいないので追い落とすほど統率もとれない。かといって軍事側に味方する理由もない。蒋エンがいなくなれば、軍事側が権力を持つのは面白くないので、利害一致により成都側がまとまったって感じです。
軍事側が何を言っても、全て蒋エンを経由する体制だったと思います。これは孔明の作った体制ですし、正確には孔明が選んだ蒋エンへの信頼ですね。きっかけは病気だと思います。軍事側は「大切な人材ですから休ませたほうが…」みたいな進言をした?劉禅は常に一人を信頼する、孔明の体制を継承してたと考えます。姜維の北伐も許可してますし、その体制、信頼を崩したのが黄皓だと考えてます。
孔明も、蒋エンを強引に出世させたのだから配慮しないと…李厳がいるうちは無理ですけどね。李厳が失脚しなかったらどうなってたでしょうかね?後継者にするか、殺すしかないような…殺すなら、さすがに孔明も帝位を奪ったかも(笑)
(EZ)
52 元歎
ということは、三つ巴? しかも中国の縮図のようなバランスのとれてない図式だ(笑) それも面白いですね^^
ただ、『劉禅は常に一人を信頼する』というのは、おかしいと思います。成都ではかなり大きな権力を董允が握っており、同じ時、漢中では費イ・姜維が董允と同等の権力を握っている。また、諸葛亮は、呉懿に軍事を、蒋エンに政事を任せ、劉禅もそれを認めたはず。常に一人を信頼するのであれば、諸葛亮のように独裁政治ともとれることを、蒋エンか呉懿にしてもらわないといけず、丞相の位を空けていたのも、おかしなことと思います。
諸葛亮の独裁政治もダメですが、李厳の独裁はもっといけないでしょうね。やはり、劉備の遺言どおり、李厳は軍事、諸葛亮は政事で、互いの職分を侵さないようにすべきだった。それを破ったのは諸葛亮。ここまで遡れば、原因は諸葛亮ですね。
ただ、『劉禅は常に一人を信頼する』というのは、おかしいと思います。成都ではかなり大きな権力を董允が握っており、同じ時、漢中では費イ・姜維が董允と同等の権力を握っている。また、諸葛亮は、呉懿に軍事を、蒋エンに政事を任せ、劉禅もそれを認めたはず。常に一人を信頼するのであれば、諸葛亮のように独裁政治ともとれることを、蒋エンか呉懿にしてもらわないといけず、丞相の位を空けていたのも、おかしなことと思います。
諸葛亮の独裁政治もダメですが、李厳の独裁はもっといけないでしょうね。やはり、劉備の遺言どおり、李厳は軍事、諸葛亮は政事で、互いの職分を侵さないようにすべきだった。それを破ったのは諸葛亮。ここまで遡れば、原因は諸葛亮ですね。
(PC)
53 朱家
え〜と、喩えですけど、蒋エン、費イの時代は、自民党内の派閥争いで、姜維の時代は、自民と元自民の新党との対立って考え方なんです。劉禅は首相一人を信頼してるものの、首相が強権を発動すると、離党されてしまい、悪影響を及ぼすと考え、派閥への配慮をしてたと思います。記述にあるように、官職を与えたのは劉禅ではなく、蒋エン、費イだと考えてます。対立が表面化してないのは、このためだと思ってます。
姜維は強権を発動し、新党を作られ、対立が表面化し、戦を繰り返す姜維に対して、国民が新党に味方したって感じです。陳祗の晩年から、すでに姜維の権力が危うくなってますし、黄皓が確立したとの考えです。
ちなみに蒋エンの妹は潘濬の妻ですから、孔明死後、突っ込まれたと思うんですよね。孔明の信頼だけでなく、劉禅からもかなり信頼されてたと思います。
孔明は滅亡の基礎を残し、仲達は統一の基礎を残した。仲達の基礎が不安定であれば、滅亡はなくとも、統一もなかったと思います。孔明も同じで、統一はなくとも、滅亡は防げたのではないかとの事です。先に呉が滅んでたら別ですけどね。
姜維は強権を発動し、新党を作られ、対立が表面化し、戦を繰り返す姜維に対して、国民が新党に味方したって感じです。陳祗の晩年から、すでに姜維の権力が危うくなってますし、黄皓が確立したとの考えです。
ちなみに蒋エンの妹は潘濬の妻ですから、孔明死後、突っ込まれたと思うんですよね。孔明の信頼だけでなく、劉禅からもかなり信頼されてたと思います。
孔明は滅亡の基礎を残し、仲達は統一の基礎を残した。仲達の基礎が不安定であれば、滅亡はなくとも、統一もなかったと思います。孔明も同じで、統一はなくとも、滅亡は防げたのではないかとの事です。先に呉が滅んでたら別ですけどね。
(EZ)
54 元歎
ふぅむ…なるほど〜、朱家さんの考えにも頷けますね。持論は変わりませんが。あと、成都漢中対立説は多くある、とありましたが、他にどんなものがありますか?
司馬懿はよく知らないので(汗) 晋書も読んでみたいですね〜。
司馬懿はよく知らないので(汗) 晋書も読んでみたいですね〜。
(PC)
55 門弟
みなさんすごい知識ですね…自分の未熟さがわかります!自分は難しくは考えれないので簡単に…。孔明と仲達どちらがすごかったか。司馬イ本人が言ってますよ。孔明と五丈原で対立した仲達は今までの孔明の戦い方を見て「孔明は罠を巧みに使う」という戦法を見抜き籠城の体制を取りました。孔明のいかなる挑発に耐え、武将から腰抜けと言われようと我慢し続けました。孔明も籠城の体制を取り時間だけが過ぎました。仲達は思います。「孔明は陣内をくまなく観察している。まもなく死ぬ身だ。その内蜀軍は慌ただしくなる」と。そして予想通り蜀軍は慌ただしくなり、仲達は確信しました。「孔明は死んだ」仲達は全軍に出陣命令を出しました。戦略も戦法も簡単に。孔明亡き今、仲達の戦略に勝てる知将は蜀にはいないからです。魏軍が本陣を攻撃する直前、蜀軍は慌ただしい体制から即座に戦闘体制に変わりました。しかも孔明独特の陣形に。「奴め、死んだと見せかけ挑発したか。」仲達は驚き何人かの護衛と共に本陣に逃げ帰りました。しかし孔明は仲達の予想通り死んでいました。仲達は孔明の死を知り、蜀軍の撤退した姿を見てこう思いました。「諸葛孔明殿こそ、天下一の大偉人だ。この仲達、あのような者と戦おうとしていたのか…。もし違う形で会っていれば、敵に回ろうとは考えん」仲達は後もなにか戦略があれば「孔明ならどうするだろうか。」と側近に話していたそうです。この言葉こそどちらか上かが分かる一言だと思います。
(W21T/au)
56 元歎
>>55いわゆる『死せる孔明、生ける仲達を走らす』というやつですね。しかし、司馬懿はただ『天下の奇才である』と言っただけだったと思います。あと、司馬懿が持久戦に持ちこんだ理由、それは諸葛亮の軍が精強であるとか攻撃したら完膚なきまでにたたかれるとかではなく、持久戦に持ちこむことによって司馬懿は被害を出さずに敵を退却させることができるからです。蜀軍は兵糧の輸送に問題がありましたからね。
(PC)
57 赤龍
確かに司馬懿は、諸葛亮を「天下の奇才なり」と賞賛しています。
しかし、この戦い自体は、諸葛亮の北伐を防ぎきった司馬懿の勝利という事を忘れてはいけません。
司馬懿の賞賛も、勝者の余裕の態度ともとれます。「あいつもたいした奴だったなあ」てな感じで(笑)
さらにうがった考えをしますと、司馬懿にとって、諸葛亮が大人物であればあるほど、それに勝利した自分の功績・名声もまた高くなる。その為、あえて諸葛亮を必要以上に高く評価したのかも?なんて想像したりもできます。
てな感じで、この一つの台詞だけで、二人の優劣を単純に決めることはできないですね。
しかし、この戦い自体は、諸葛亮の北伐を防ぎきった司馬懿の勝利という事を忘れてはいけません。
司馬懿の賞賛も、勝者の余裕の態度ともとれます。「あいつもたいした奴だったなあ」てな感じで(笑)
さらにうがった考えをしますと、司馬懿にとって、諸葛亮が大人物であればあるほど、それに勝利した自分の功績・名声もまた高くなる。その為、あえて諸葛亮を必要以上に高く評価したのかも?なんて想像したりもできます。
てな感じで、この一つの台詞だけで、二人の優劣を単純に決めることはできないですね。
(PC)