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儒教と曹操と政治

久々スレ立て。

九品官人制など、儒教思想を全く無視した曹操の行った政治を討論しましょう。
(W11K/au)
2 天草
確かに私も気になりますね。

曹操は儒教を嫌っていたのでしょうか?
もしそうだったとしたら、なぜだと思います?
(PC)
3
嫌いだったと仮定するなら


儒ではなく儒の作り出した漢の膿が嫌いだったのではないでしょうか…

月並ですが
(F900i/FOMA)
4 たかひろ
曹操は儒教を嫌っていたというより、儒教による能力の限定を嫌ったのかと。
(PC)
5 エイ
曹孟徳の支配体制って、『法家』ですよね?

歴史に法を以て初めて天下を統一した存在を知り、
そこに儒の限界と法の合理性をみてとったのでしょうか?
(P2102V/FOMA)
6 赤龍
九品官人法は曹操でなく、曹丕の代に制定されました。中心人物は陳羣。漢代の郷挙里選を完全なものとするためのもので、なんら儒を否定しようとするものではありません。
(J-SA05)
7 赤龍
曹操の法家的性格。求賢令の内容。蒼天航路の影響等から「曹操対儒」という図式で説明されがちですが、実際曹操はそこまで儒を否定、無視してたのでしょうか?
(J-SA05)
8
曹操は最後まで帝位につかなかったあたり、旧形式を気にしてた感あり?
曹ヒの時代の制度でしたか。スマソ。
(W11K/au)
9 たかひろ
どうなんでしょうか。

@就けなかった

A就く気がなかった

B条件的制約が存在した
(F2102V/FOMA)
10 天草
儒教からもう少し掘り下げて考えると…曹操は名士の事をどう考えていたのでしょうか?

皆さんはどう思います?
(PC)
11 ちゃき
使えるかぎり使い切ったのでは?

でなければサイエンなんかが重臣になれることはないのでは?
(F900i/FOMA)
12
たかひろさん>私は@A両方と考えます。
ジュンイクのように帝位慕奪反対な家臣も居ただろうし。
↑の理由だけでは弱い気もしますけど(^_^;)逆に曹操が帝位につくと起こる不都合みたいのがわかればいいんですが。
(W11K/au)
13 エロハシ
俺は曹操が儒教を敵対視していたとは思いませんね☆ ただ思想が違っただけなのではないかと。誰だったかなぁ…親の喪に服してる期間中に薬を飲んだせいで親不孝者呼ばわりされた人がいますよね?(汗) 理に照らし合わせれば、そんな大したことではないのに、そんなことにすら過敏な儒教を曹操が重宝するでしょうか? あと太平道(道教)を国教としますが、それもまた後の世から考えれば、儒への別視と思われても仕方ないかと…
(P900i/FOMA)
14 天草
曹操が文学を重要視して、自分の子供を中心に広ませたのは、儒教に対抗したものではないか?という説もあるようですね。

そう思いますか?
私は妙に納得しちゃいましたが…。
(PC)
15
みなさんの意見は儒学そのものではなく、それによって起こる制限のみを曹操は嫌ったということですか?

天草さん>その説おもしろいですね。私にはイマイチですが(^_^;)
(W11K/au)
16 天草
そうですね。
曹操が嫌ったのは、儒学そのものではなく、その教えによって名声を高めた人物の力を恐れたのではないかと予測してます。いかがでしょうか?
(PC)
17 たかひろ
俺は儒による能力制限かと。
(F2102V/FOMA)
18 建安
いや、やはり曹操は儒学によって埋もれゆく様々な才を見過ごせなかったのだと思います。彼くらいの人材コレクターなら不思議ではないはず。
(P505iS)
19 天草
ちゃき殿・建安殿>初めまして!よろしくお願いします♪

いやぁ皆さんの面白い考えを聞いて、妙に納得させられますね。

曹操の儒に対する気持ちを考えるのに、荀イクとの関係は避けて通れない気がしますね。
それについては>>>89

そもそも儒教・儒学と呼ばれる【儒】とは一体何なんでしょうか?宗教?学問?なぜ当時の中国人はそこに影響されたのでしょうか?
(PC)
20
天草さん>何かの本で見ましたが、私は元々は学問でその教えが段々宗教化していったものと思ってます。だから祖といえる人は孔子とは言い切れないらしいです。広辞苑とかには孔子が祖となってますが。
確か一回は廃れて朱子学で盛り返したとかじゃなかったけな?昔読んだ本ですし、いろんな資料見たわけではないので、自信ないですが(>_<)
(W11K/au)
21 建安
儒ですか(*^^*)一応孔子が祖とは思いますけど。私も荀イクとの最後にはかなり興味があります。いろんな説がありますが、私は個人的に曹操が自殺においこんだというのはあまり信じたくありません。彼等の確かな関係を信じたいのです。
(P505iS)
22 李克用
http://o.z-z.jp/thbbs.cgi?id=tyuugokusi&p3=&th=9

↑のは、中国史討論場たてた儒総合スレです。三国志で、述べられない部分があるので、もっと詳しく話したい人はそちらに。
(P900i/FOMA)
23 大伴
魏三字石経や何晏の論語集解などは聞きますから、全く廃した訳では無いでしょう。

さて、後漢書の列伝二十五を読んでいて、鄭玄の門弟の一部がわかりましたので報告します。*は魏関係者。

チ慮
王基*
催エン*
国淵*
任カ*
(D505iS)
24 大伴
私が考えるに……魏書袁張涼国田王ヘイ管伝第十一に記された人々は、儒者では無いでしょうか?
(D505iS)
25 赤龍
当時の士太夫は、儒的教養を基本としていましたので、皆ある程度は儒の知識はあったでしょうが、特に儒者、儒学者というとどうでしょう?特にそういい記述の無い人もいますし、田疇は特に異質です。陳寿の評にあるように、道義的な面で高く評価できる生き方をした人を集めた。そのため儒者の割合が多くなった。と私は考えます。
(J-SA05)
26 ストラップ
>>25
儒臣というもの自体が廃れていた、という解釈は妥当でしょうか?
(PC)
27 ストラップ
連書き失礼。
『孔子家語』を偽作したとされる王粛などは、宗教家としての登用でしょうか?う〜む。
(PC)
28 赤龍
王粛は、宗教家ではなく、経学者ととるべきでしょう。もちろん魏の文臣としても出世しています。儒教が重んじられた時代ですから、国家の重臣であり、儒者である、というのも珍しいことではありません。ヨーロッパ史では知識人と官僚は別の階層であるが、中国史では知識人=官僚、ということを教わった覚えがあります(西洋史は苦手でよくわかりません)。
重臣王朗の子であり、司馬氏と婚姻関係を結ぶなど、名家の出自という面もありますね。
(PC)
29 赤龍
ちなみに、王粛は経学史上(儒教史上)当時の最重要人物の一人といっていい人物です。以後経学は、鄭玄系と王粛系の経学の二派にわかれ、数百年この二派の論争が続いたといわれています。
(PC)