2 天草
鳳雛という呼び名を最初につけたのは、彼の叔父のホウ徳という人物だそうな。さっそく彼を司馬キの元に連れて行くと、
「ホウ徳殿は確かに見る目が高い」
と驚嘆したと言います。
ちなみに司馬キを水鏡と最初に呼んだのも、このホウ徳という人物だったらしいです(ホウ統伝・注)
意外なとこに面白い逸話が隠されてますね。
「ホウ徳殿は確かに見る目が高い」
と驚嘆したと言います。
ちなみに司馬キを水鏡と最初に呼んだのも、このホウ徳という人物だったらしいです(ホウ統伝・注)
意外なとこに面白い逸話が隠されてますね。
(PC)
4 エイ
ホウ士元の人物評価の対象になった江東の人物の話がありますよね。
『一日の長』の逸話です。
あと、ホウ士元は人材を育成することにも長けていたと記憶しています。…うろ覚えですが……。
その中身は「誉めて」育てるというものだったそうな。
『一日の長』の逸話です。
あと、ホウ士元は人材を育成することにも長けていたと記憶しています。…うろ覚えですが……。
その中身は「誉めて」育てるというものだったそうな。
(PC)
6 べん
大塩さん私もそう思います。まずホウ統が生きることにより蜀に情報機関が残ったのがかなり大きいと思います。(確か孔明がホウ統戦死により軍事も司ることになり、その時情報機関を潰してしまったはず)
情報は全ての基本ですからね。ホウ統には、もっと活躍して欲しかったです。
情報は全ての基本ですからね。ホウ統には、もっと活躍して欲しかったです。
(N900i/FOMA)
8 しす
>関羽殿
中国で「流矢(りゅうし)」とは日本語で言うところの「流れ矢」とは全く別のものですよ。
中国語で「流矢」とは「雨のように降り注ぐ矢」という意味です。
実際「六韜」の奇兵第二十七には「疾きこと流矢のごとく、撃つこと機を発するが如くなるは…」という記述があります。
この記述から見ても流れ矢ではないことが解ります。
言い換えれば、流矢に当たったということは恐らくはりねずみ状態だったのではないでしょうか。
そう考えると到底助かるとは思えません。
中国で「流矢(りゅうし)」とは日本語で言うところの「流れ矢」とは全く別のものですよ。
中国語で「流矢」とは「雨のように降り注ぐ矢」という意味です。
実際「六韜」の奇兵第二十七には「疾きこと流矢のごとく、撃つこと機を発するが如くなるは…」という記述があります。
この記述から見ても流れ矢ではないことが解ります。
言い換えれば、流矢に当たったということは恐らくはりねずみ状態だったのではないでしょうか。
そう考えると到底助かるとは思えません。
(PC)
9 天草
しす殿>それは知らなかったなぁ。勉強になりました。
ところで、ホウ統伝で面白い記述を…。
彼の弟、林は黄権と共に魏に降ってるんですね。その後列候の位までもらってるとか…。う〜ん何だかなぁ。。。
皆さん、知ってました?
ところで、ホウ統伝で面白い記述を…。
彼の弟、林は黄権と共に魏に降ってるんですね。その後列候の位までもらってるとか…。う〜ん何だかなぁ。。。
皆さん、知ってました?
(PC)
10 べん
しすさん、初めて知りましたよ。そうするとホウ統って先陣にでるタイプの軍師なのですね。そんなホウ統にやっぱり活躍して欲しかったです。
でも殷周革命時代と三国時代では意味が違うとかありませんか?千年ぐらいたってますし。
でも殷周革命時代と三国時代では意味が違うとかありませんか?千年ぐらいたってますし。
(N900i/FOMA)
14 どら
行軍の最中に横ッ腹に突っ込まれたり包囲されたりしたら矢面にたたされる可能性はありますよね。少なくても臨戦態勢が整ってない状態だったんじゃないでしょうか?騎兵じゃなく弓兵ってのも伏兵っぽいですよね。
(N2701/FOMA)
15 べん
赤龍さん、答えてくれてありがとうごさいます。六滔は戦国時代頃の物だったのですか。それも初めて知りました。
ホウ統って大胆な策をたてますよね。もっと色々な策をみたかったです。
ホウ統って大胆な策をたてますよね。もっと色々な策をみたかったです。
(N900i/FOMA)
16 しす
>べんさん
亀レスすいません。
「流矢」という言葉の意味ですが、今現在でも漢和辞典なんかに載ってるくらいですから、三国の時代も変わってはいないと思います。
しかし赤龍殿の言う通り、軍師参謀クラスで最前線で死んだ人っていないですよね。
他に討ち死にした武将がいるわけでもないし。
亀レスすいません。
「流矢」という言葉の意味ですが、今現在でも漢和辞典なんかに載ってるくらいですから、三国の時代も変わってはいないと思います。
しかし赤龍殿の言う通り、軍師参謀クラスで最前線で死んだ人っていないですよね。
他に討ち死にした武将がいるわけでもないし。
(PC)
18 天草
>>17ユウキさん>確かに私も彼を思いつきましたが、>>>180の周瑜スレでも話題になってる通り、彼の場合軍師・参謀と呼ぶのかどうか疑問ですからね。
確かに純粋な参謀が戦死というのは、あまり聞きませんね。
ホウ統暗殺説を検討すべき?
確かに純粋な参謀が戦死というのは、あまり聞きませんね。
ホウ統暗殺説を検討すべき?
(PC)
19 ユウキ
確かにそうですね。
暗殺説ですか!味方からの暗殺か敵からの暗殺か…。まず味方から無いような気がしますね。益州獲りの最中、ホウ統は大事な戦力ですから。また誉めてその人物の能力を伸ばしたとありますから、あまり恨まれるようなふしはありませんし。嫉み?
暗殺説ですか!味方からの暗殺か敵からの暗殺か…。まず味方から無いような気がしますね。益州獲りの最中、ホウ統は大事な戦力ですから。また誉めてその人物の能力を伸ばしたとありますから、あまり恨まれるようなふしはありませんし。嫉み?
(P900i/FOMA)
27 郭嘉
軍師というものは指揮をとるだけの武力と体力があればよい。優れていればの話ですが。曹操による軍事改革により戦は変わり、個人的武勇だけでは話にならず。ですから前線でいればそいち強いのかとはならないはず。
(P505iS)
28 大伴
確かに、軍師という言葉は勘違いされ使用されている気はしますね。私も戯志才を曹操の軍師という人々に「違う」と散々言ってきました。
私が謂いたかったのは、間違いなく軍師中郎将の役にあり、軍事に関する知識があったという事。
軍事に関する助言をする者の内、指揮権を持たぬ者酔R師
としたつもりはありませんよ。
私が謂いたかったのは、間違いなく軍師中郎将の役にあり、軍事に関する知識があったという事。
軍事に関する助言をする者の内、指揮権を持たぬ者酔R師
としたつもりはありませんよ。
(D505iS)
29 天草
(PC)
31 八苦
大伴さん!言い得て妙!軍師参謀の概念の違いを私は上手く説明出来なかったんで(笑)。さてさて、ホウ統の話。モチロン戦術、戦略どちらにも精通していた(筈)でしょう。が、彼の功績少なくて残念です。大した活躍もしていないのに、後生にこれだけ名を残すとは凄いですね。孔明による暗殺?まさかね(;¬_¬)なんて、少しだけ有り得ると思っている八苦でした。話それちゃってスミマセン。汗
(P2102V/FOMA)
32 大伴
>>29
良く読めば定義が求められていますね。遅れましたが大伴流の定義を。
戦略……作戦を円滑に進める為の大きな概要。進行ルートや戦場を決定したり、輸送の計画を行う。
作戦……戦場における各戦闘を統合する計画。
戦術……戦闘において、指揮下の兵を効果的に扱う為の技術。
官渡の戦いを例に出せば……袁紹と戦う事を決めたのが政治、官渡と白馬で防衛し延津から攻める事を決めたのが戦略、輕重を囮にしたのが作戦、罠にかかった文醜を効果的に攻撃する方法が戦術、兵個人の攻撃が、武術……といったところでしょうか。
良く読めば定義が求められていますね。遅れましたが大伴流の定義を。
戦略……作戦を円滑に進める為の大きな概要。進行ルートや戦場を決定したり、輸送の計画を行う。
作戦……戦場における各戦闘を統合する計画。
戦術……戦闘において、指揮下の兵を効果的に扱う為の技術。
官渡の戦いを例に出せば……袁紹と戦う事を決めたのが政治、官渡と白馬で防衛し延津から攻める事を決めたのが戦略、輕重を囮にしたのが作戦、罠にかかった文醜を効果的に攻撃する方法が戦術、兵個人の攻撃が、武術……といったところでしょうか。
(D505iS)
36 朱家
劉備が、士元の積極策を用いていれば、死ななかったように思う。結果は劉備が正解だったような気はするが、劉備の持つ消極性が死なせたとは、言い過ぎでしょうかね?
公瑾の積極性が、士元には合ってたように思いますね。
公瑾の積極性が、士元には合ってたように思いますね。
(A1304T/au)
40 ストラップ
ホウ統は上策、中策、下策と三つ提案をしますが、相手が劉備なんだから、お前が一つに絞ってやれ……という感じですね。劉備に慣れていなかったという感じ。
でもフで劉璋と会見した時、劉璋を捕らえよと進言したのを退けられているしなぁ。上策のみを献策したら、劉備下策を選んで撤兵するか、下策よりマズイやり方、「(敵地に)長期に留まって」しまいそう。
でもフで劉璋と会見した時、劉璋を捕らえよと進言したのを退けられているしなぁ。上策のみを献策したら、劉備下策を選んで撤兵するか、下策よりマズイやり方、「(敵地に)長期に留まって」しまいそう。
(F2102V/FOMA)
41 黄龍
しゃしゃり出る筋合いのないものですが、このホムペは三國志を深く、真の部分まで追求していることが伝わるので、敢えて書きますm(__)m
>>2の「叔父のホウ徳」とありますが、文献には「ホウ徳公」と書かれているはずです。この「公」はいわゆる尊称や敬称の「公」ではなく、姓がホウで、名が「徳公」という人物のことです。よって西涼の馬超配下のホウ徳とは別人であるし、同姓同名なわけでもありません。
失礼しました
>>2の「叔父のホウ徳」とありますが、文献には「ホウ徳公」と書かれているはずです。この「公」はいわゆる尊称や敬称の「公」ではなく、姓がホウで、名が「徳公」という人物のことです。よって西涼の馬超配下のホウ徳とは別人であるし、同姓同名なわけでもありません。
失礼しました
(F900i/FOMA)
43 天草
法正政治家論を話しましたが、ついでにこのスレをageます。
法正伝末に陳寿は彼を
『戦略・戦術に長けていた』
とはっきり評してます。
これは諸葛亮・法正の記述には見られないもので、やはり彼こそが、私たちがイメージしている軍師像に一番近いのかも知れませんね。
法正伝末に陳寿は彼を
『戦略・戦術に長けていた』
とはっきり評してます。
これは諸葛亮・法正の記述には見られないもので、やはり彼こそが、私たちがイメージしている軍師像に一番近いのかも知れませんね。
(N900i/FOMA)
45 ストラップ
>>43-44
本日徳間書店の「三国志英傑伝」診ました。「経学思謀」の訳を「戦略・戦術に長けていた」としている訳ですね。「経学」とは恐らく「儒教」に関する研究の事だと思うので、翻訳が怪しいのでは無いかと思うのですが‥‥‥
本日徳間書店の「三国志英傑伝」診ました。「経学思謀」の訳を「戦略・戦術に長けていた」としている訳ですね。「経学」とは恐らく「儒教」に関する研究の事だと思うので、翻訳が怪しいのでは無いかと思うのですが‥‥‥
(PC)
46 赤龍
>>44
たしかにそれは誤訳のようですね。ストラップさんのいわれるよう、経学とは儒教の経典を研究する学問ですから。「思謀」の方を「戦略・戦術」と訳すのも、ちょっと意味が違うと思いますし。
ちくま訳の「経学と策謀にすぐれ」の方が妥当でしょう。
たしかにそれは誤訳のようですね。ストラップさんのいわれるよう、経学とは儒教の経典を研究する学問ですから。「思謀」の方を「戦略・戦術」と訳すのも、ちょっと意味が違うと思いますし。
ちくま訳の「経学と策謀にすぐれ」の方が妥当でしょう。
(PC)
48 ストラップ
>>8
これを証明する記述が、「鄭孔荀列伝第六十」にありました。
孔融について書かれた箇所の建安元年に関する記述。
「流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)」
これを証明する記述が、「鄭孔荀列伝第六十」にありました。
孔融について書かれた箇所の建安元年に関する記述。
「流矢は雨のごとく集まり、弋矛は内に接するも、融は几に隠りて書を読み、談笑すること自若たり(流矢雨集、弋矛内接、融隠几読書、談笑自若)」
(F2102V/FOMA)
49 岳飛
1度だけ他のスレに書き込んだ事ありますが、とりあえずはじめまして、岳飛と申します。浅学ながら書き込ませていただきます。
ホウ統についてですが、軍略&戦術についてはほぼ間違いなく諸葛亮より上であったろうと思います。
諸葛亮が得意としていたのは恐らく政治、国家戦略についてであり、現に呉に夷陵で大敗した時に諸葛亮は「法正が生きてさえいれば」と嘆いたといいます。夷陵での軍師は馬良だったように記憶していますので、劉備は戦術については法正>馬良、諸葛亮という見方をしていたのではないかと。
諸葛亮の書いたという『兵法二十四編』(違ったら申し訳ありません)も絵で描いたような陣形が多い、すなわち実戦での有用性に欠けるのでは、という話も聞きましたし。
一方ホウ統が劉備に上中下の三策を献策した時劉備が中策を選択したのは、中策で十分に蜀は取れるというホウ統に対する信頼があったのではないか、などと考えています。
間違い、偏見が多々ありますがお許し下さい。
長文失礼致しました。
ホウ統についてですが、軍略&戦術についてはほぼ間違いなく諸葛亮より上であったろうと思います。
諸葛亮が得意としていたのは恐らく政治、国家戦略についてであり、現に呉に夷陵で大敗した時に諸葛亮は「法正が生きてさえいれば」と嘆いたといいます。夷陵での軍師は馬良だったように記憶していますので、劉備は戦術については法正>馬良、諸葛亮という見方をしていたのではないかと。
諸葛亮の書いたという『兵法二十四編』(違ったら申し訳ありません)も絵で描いたような陣形が多い、すなわち実戦での有用性に欠けるのでは、という話も聞きましたし。
一方ホウ統が劉備に上中下の三策を献策した時劉備が中策を選択したのは、中策で十分に蜀は取れるというホウ統に対する信頼があったのではないか、などと考えています。
間違い、偏見が多々ありますがお許し下さい。
長文失礼致しました。
(W31T/au)
51 ストラップ
>>50
すいません。
馬良、夷陵で戦死していますね。
>>49
法正ならわかりますが、ホウ統が諸葛亮より軍事に優れていたか否かは、ホウ統自身の実績の為に計れないと思います。特に戦術に関しては何か書かれていましたっけ?
又、劉備が中策を選んだのは、彼に上策を採用する決断ができなかったからであるのではないでしょうか?
すいません。
馬良、夷陵で戦死していますね。
>>49
法正ならわかりますが、ホウ統が諸葛亮より軍事に優れていたか否かは、ホウ統自身の実績の為に計れないと思います。特に戦術に関しては何か書かれていましたっけ?
又、劉備が中策を選んだのは、彼に上策を採用する決断ができなかったからであるのではないでしょうか?
(F2102V/FOMA)
52 岳飛
>ストラップ殿
素早い反応ありがとうございます。
私は法正とホウ統を混同してはいませんよ、ただ少し書き方に不備があった感じがしますので補足を…
正史によりますと、諸葛亮が前線指揮を初めてしたのは劉備の死後、南蛮制圧戦であったと思います。それまでは、内政が主な仕事であったのではないかと考えています。よって前線に諸葛亮がいた戦いはなかったと思います。
しかしホウ統は流れ矢(流矢)で恐らくハリネズミのようになって絶命したことから、積極的に前線に出ていた、すなわち劉備から軍略の才を(少なくとも諸葛亮よりは)認められていたのでは…と考えたのです。
後劉備が中策を選んだ件については多分に私の私感が入っています…劉備は演義にかかれている程のお人好しではなかったと考えていますので中策を選んだのには何か考えがあったのでは?と思ったのでホウ統に好意的な解釈をとってしまいました。申し訳ありません。
素早い反応ありがとうございます。
私は法正とホウ統を混同してはいませんよ、ただ少し書き方に不備があった感じがしますので補足を…
正史によりますと、諸葛亮が前線指揮を初めてしたのは劉備の死後、南蛮制圧戦であったと思います。それまでは、内政が主な仕事であったのではないかと考えています。よって前線に諸葛亮がいた戦いはなかったと思います。
しかしホウ統は流れ矢(流矢)で恐らくハリネズミのようになって絶命したことから、積極的に前線に出ていた、すなわち劉備から軍略の才を(少なくとも諸葛亮よりは)認められていたのでは…と考えたのです。
後劉備が中策を選んだ件については多分に私の私感が入っています…劉備は演義にかかれている程のお人好しではなかったと考えていますので中策を選んだのには何か考えがあったのでは?と思ったのでホウ統に好意的な解釈をとってしまいました。申し訳ありません。
(W31T/au)
53 ストラップ
>>52
諸葛亮よりもホウ統に軍事の才があったから、劉備はホウ統を従えて益州に入ったというのは、ホウ統の軍事の才を諸葛亮と較べて上とする根拠とはならないと思います。劉備は関羽や張飛でさえ荊州に残していますからね。これを根拠とするならば、関羽や張飛よりも黄忠が将として上だった、とも言えます。
三つの策を示した事は、ホウ統の軍事的才覚をあらわすエピソードだとは思いますが、中策で充分であった、という様な判断では無く、「」極的な案だけで無く、消極的な案をも同時に示した」という事にあるのだと思います。>>30、>>40参照。
諸葛亮よりもホウ統に軍事の才があったから、劉備はホウ統を従えて益州に入ったというのは、ホウ統の軍事の才を諸葛亮と較べて上とする根拠とはならないと思います。劉備は関羽や張飛でさえ荊州に残していますからね。これを根拠とするならば、関羽や張飛よりも黄忠が将として上だった、とも言えます。
三つの策を示した事は、ホウ統の軍事的才覚をあらわすエピソードだとは思いますが、中策で充分であった、という様な判断では無く、「」極的な案だけで無く、消極的な案をも同時に示した」という事にあるのだと思います。>>30、>>40参照。
(F2102V/FOMA)
55 天草
しかし、軍事面でホウ統が諸葛亮より上ではないか?という意見には、私は賛成です。
この時点では諸葛亮もそうですが、ホウ統の軍事的才覚は未知数だったわけですよね?
荊州に残って内政に務める役と、入蜀という大事な軍事に同行する参謀に彼ら二人を分けたのは、劉備の適材を見抜いた良い人事だったのでしょうね。
この時点では諸葛亮もそうですが、ホウ統の軍事的才覚は未知数だったわけですよね?
荊州に残って内政に務める役と、入蜀という大事な軍事に同行する参謀に彼ら二人を分けたのは、劉備の適材を見抜いた良い人事だったのでしょうね。
(PC)
56 朱家
孔明は、すでに内政面の実績があったと思いますし、士元は、劉璋討伐を強く主張してます。この状況では、当たり前の人事だと思います。
士元は、劉璋暗殺を拒否されたから、わざわざ優劣をつけて三策も進言したと思います。
士元はもう一つ、悩んで待機が最悪と言ってます。待機や退却を選ばないように、中策へ誘導してるように思います。優劣をつけないと、上策を選ぶ可能性は極めて低く、策として成立してない下策を進言して、中策を選びやすくしてます。
士元としては「上策を選んで欲しいが、悩まれるなら中策を」って感じだと思います。一番大事なのは即決する事で、リスクのある上策を即決できる可能性は低いと思ってたんじゃないですかね。
士元は、劉璋暗殺を拒否されたから、わざわざ優劣をつけて三策も進言したと思います。
士元はもう一つ、悩んで待機が最悪と言ってます。待機や退却を選ばないように、中策へ誘導してるように思います。優劣をつけないと、上策を選ぶ可能性は極めて低く、策として成立してない下策を進言して、中策を選びやすくしてます。
士元としては「上策を選んで欲しいが、悩まれるなら中策を」って感じだと思います。一番大事なのは即決する事で、リスクのある上策を即決できる可能性は低いと思ってたんじゃないですかね。
(W32K/au)
57 諸葛蘭
大伴ストラップさん、>>53はどうでしょうか?
劉備が関羽や張飛を留守に残したのは、猛将と名高い二人を連れて行けば劉璋に警戒されるからじゃないでしょうか。
留守組と従軍組どちらが能力が高いかは置いといて、劉備は黄忠が関羽張飛に決して見劣りしないと理解して起用したように思います。足りないのは名声だけだと。
ホウ統に関しては戦略面はなかなか優秀みたいですが戦術面はイマイチな感じです。
雒城を攻めあぐねたのは陳倉を抜けなかった諸葛亮にも共通します。
戦場での駆け引きや戦術面は劉備の能力で十分なので、ホウ統には戦後の益州統治が期待されていたのではないでしょうか。
人を褒めて伸ばす人材登用など、新領土の統治にもってこいです。
劉備が関羽や張飛を留守に残したのは、猛将と名高い二人を連れて行けば劉璋に警戒されるからじゃないでしょうか。
留守組と従軍組どちらが能力が高いかは置いといて、劉備は黄忠が関羽張飛に決して見劣りしないと理解して起用したように思います。足りないのは名声だけだと。
ホウ統に関しては戦略面はなかなか優秀みたいですが戦術面はイマイチな感じです。
雒城を攻めあぐねたのは陳倉を抜けなかった諸葛亮にも共通します。
戦場での駆け引きや戦術面は劉備の能力で十分なので、ホウ統には戦後の益州統治が期待されていたのではないでしょうか。
人を褒めて伸ばす人材登用など、新領土の統治にもってこいです。
(PC)
58 ストラップ
>>57
とりあえず黄忠に関しては>>>136に。
(比喩では無い意味での)矢面に立った、というのが、>>14にある様に、ホウ統のまずさを表している気がします。
>>56
>>>136-24に書いた内容とも被るかも知れませんが、劉備という人は、やはり大きなリスクを嫌う人だったのかも知れませんね。その上、優柔不断だった様にも思えます。
とりあえず黄忠に関しては>>>136に。
(比喩では無い意味での)矢面に立った、というのが、>>14にある様に、ホウ統のまずさを表している気がします。
>>56
>>>136-24に書いた内容とも被るかも知れませんが、劉備という人は、やはり大きなリスクを嫌う人だったのかも知れませんね。その上、優柔不断だった様にも思えます。
(F2102V/FOMA)
59 赤龍
諸葛亮ではなくホウ統が同行したことについて、>>>332の益州侵略スレでも触れましたが、第一陣のメンバーの大半が赤壁以後、特に劉備の荊州統治以後に臣従したと思われる荊州出身者で占められていることにも注意すべきだと思います。
ホウ統もこれにしっかりあてはまりますよね。この編成の目的は色々考えれて、ちょっと結論はだせませんが、ホウ統自身の問題だけでなく、こうした編成にも理由があるのではないかと最近考えています。
ホウ統もこれにしっかりあてはまりますよね。この編成の目的は色々考えれて、ちょっと結論はだせませんが、ホウ統自身の問題だけでなく、こうした編成にも理由があるのではないかと最近考えています。
(PC)
60 天草
>>56
最近の私の劉備評価はまた変わってきましたw
大きなリスクを嫌う人…これは大賛成で、私もそう思います。そしてこれこそ、現在社会でも成功するための当然の近道だと思います。
優柔不断だった様にも…これには反対です。むしろ、後々の事を考えて、慎重であったという見方をしてます。
劉備評になりそうですから、この続きは劉備スレにしましょうかw
>>59
私もずっとそれを考えてました。
見事に留守番組と同行組に分かれてますからね。
この人事の流れには、もう一度注目するべきかもしれませんね。
最近の私の劉備評価はまた変わってきましたw
大きなリスクを嫌う人…これは大賛成で、私もそう思います。そしてこれこそ、現在社会でも成功するための当然の近道だと思います。
優柔不断だった様にも…これには反対です。むしろ、後々の事を考えて、慎重であったという見方をしてます。
劉備評になりそうですから、この続きは劉備スレにしましょうかw
>>59
私もずっとそれを考えてました。
見事に留守番組と同行組に分かれてますからね。
この人事の流れには、もう一度注目するべきかもしれませんね。
(PC)
61 岳飛
>>59
その分け方について考えると、
@蜀は楽に取れそうだから新参組の功績を稼がせようという劉備の配慮
A関羽は千里行、張飛と趙雲は長坂と勇名が広く轟いているため、警戒されるとまずいと考えたから。
私にはこの辺りしか思い浮かびません…
その分け方について考えると、
@蜀は楽に取れそうだから新参組の功績を稼がせようという劉備の配慮
A関羽は千里行、張飛と趙雲は長坂と勇名が広く轟いているため、警戒されるとまずいと考えたから。
私にはこの辺りしか思い浮かびません…
(W31T/au)
64 岳飛
>>63
ありがとうございました。
そうでしたね、演義でした。
でも劉ヨウが後に「蜀は小国、名将は関羽ただ一人」と言ったと聞きますし(あってるでしょうか?)、関羽はやはり有名であったろうと思います。
スレからの脱線申し訳ありません。
ありがとうございました。
そうでしたね、演義でした。
でも劉ヨウが後に「蜀は小国、名将は関羽ただ一人」と言ったと聞きますし(あってるでしょうか?)、関羽はやはり有名であったろうと思います。
スレからの脱線申し訳ありません。
(W31T/au)
65 ストラップ
(PC)
66 しょう
お疲れさまです。
いつも楽しく拝見してます。
いままでの皆さんの意見ではホウ統はそれほどの人物では無いような感じですか、ホウ統は演義で有名なだけで、実は大した人材では無かったのでしょうか?
これだというホウ統の実績があれば教えてください。
いつも楽しく拝見してます。
いままでの皆さんの意見ではホウ統はそれほどの人物では無いような感じですか、ホウ統は演義で有名なだけで、実は大した人材では無かったのでしょうか?
これだというホウ統の実績があれば教えてください。
(F-10D/d)
67 Barbal
酔っぱらっていますので、うろ覚え失礼。
彼の場合、これといった実績を上げる前に死んでしまったのが惜しいですよね。
とりあえず、劉備に益州攻略のために上中下の策を挙げて暗に上策を勧めるとか浮かれる劉備に「君臣ともに間違っていました」と答えて容れられるなど、よく出来た人なんだろうなぁと思わせられます。
どれだけ優れた謀臣でも意見を採用されなければ意味がないと思えば、彼は間違いなく優れた人材だったと思いますよ。
彼の場合、これといった実績を上げる前に死んでしまったのが惜しいですよね。
とりあえず、劉備に益州攻略のために上中下の策を挙げて暗に上策を勧めるとか浮かれる劉備に「君臣ともに間違っていました」と答えて容れられるなど、よく出来た人なんだろうなぁと思わせられます。
どれだけ優れた謀臣でも意見を採用されなければ意味がないと思えば、彼は間違いなく優れた人材だったと思いますよ。
(PC)