1 天草
【新春】呉・蜀最大の好機【企画】
三国志は魏の流れを汲む晋の統一で終焉を迎えますが、呉と蜀にもチャンスはあったでしょうか?
歴史に厳禁の『if』も含んで、2005年新春企画スレを立てました!
呉と蜀が迎えた最大のチャンスはどこだったと思いますか?またそのチャンスをどう活かせば良かったと思いますか?
歴史に厳禁の『if』も含んで、2005年新春企画スレを立てました!
呉と蜀が迎えた最大のチャンスはどこだったと思いますか?またそのチャンスをどう活かせば良かったと思いますか?
(PC)
2 たろう
呉の最大のチャンスといえばカントの戦いの時でしょうか…呉の君主が死んだのですからさすがに許都侵攻は無理でしょうがなんとかして行けなかったんでしょうか?
蜀の最大のチャンスはケイシュウ駐留時かと。ケイシュウを奪っておけば優秀な文官を多く傘下に加えられて玄徳がエキシュウ侵攻を決断すれば呉に勝る大国になれたと…長文失礼
蜀の最大のチャンスはケイシュウ駐留時かと。ケイシュウを奪っておけば優秀な文官を多く傘下に加えられて玄徳がエキシュウ侵攻を決断すれば呉に勝る大国になれたと…長文失礼
(W21SA/au)
3 ピヨひこ
蜀は荊州を関羽に任せっきりにしないでちゃんと管理してれば少なくとも関親子、周倉、王甫、張飛、劉親子、そしてなにより多くの兵を死なせる事もなかったかと思います。関羽の死が蜀に大損害をもたらしましたねf^_^;
呉はやはり孫策の于吉仙人殺しですねぇ…孫策が生きてれば富国型の孫権とはまた違った呉ができたかもしれないのに(;_;)
呉はやはり孫策の于吉仙人殺しですねぇ…孫策が生きてれば富国型の孫権とはまた違った呉ができたかもしれないのに(;_;)
(W21SA/au)
13 たろう
三国時代では蜀・呉にはチャンスがないと思います。魏との国力・人材で大きく開き関羽を殺されたことにより劉備に張飛呂蒙?カンネイ等々と双方の国力人材を共に相当失ってます。唯一のチャンスといえばその直後に死んだ曹操の後継者争いが激化すれば袁みたいになったのかな?
(W21SA/au)
14 関羽
○○が死ななければとか言いますが、ただ一人の力で大勢が変わりますかね?
それに、国力や動員可能な兵数を見ればギの一人勝ちっぽいですよね。
呉なんて豪族(?)の支配もありますから実際は領地も少なく見積もった方が…。
それでもショクや呉が生き残れたのは両国共に天然の要塞だからじゃないですか?ショクには山呉には川って感じで。
乱筆乱文失礼しました。本当に意味不明な事言ってすみませんm(_ _)m
強いてチャンスがあったとすればショクと呉が争わなければ………(ToT)
それに、国力や動員可能な兵数を見ればギの一人勝ちっぽいですよね。
呉なんて豪族(?)の支配もありますから実際は領地も少なく見積もった方が…。
それでもショクや呉が生き残れたのは両国共に天然の要塞だからじゃないですか?ショクには山呉には川って感じで。
乱筆乱文失礼しました。本当に意味不明な事言ってすみませんm(_ _)m
強いてチャンスがあったとすればショクと呉が争わなければ………(ToT)
(W11H/au)
17 C
ショクと呉がやり合わなかったら
孔明さらに活躍したのかも…
◯◯が死ななかったらというのは以外とあるものと思います。指揮命令系統に関する一人一人の責任は当時は大きかったのではと、ショクと呉ではそれほどの人物がいたかいなかは別問題ですが
孔明さらに活躍したのかも…
◯◯が死ななかったらというのは以外とあるものと思います。指揮命令系統に関する一人一人の責任は当時は大きかったのではと、ショクと呉ではそれほどの人物がいたかいなかは別問題ですが
(F900i/FOMA)
18 たろう
呉がホウトウを配下にしてればどうだったでしょう?魯粛が周ユ亡き後の最高軍事指令になったが劉備に友好的な魯粛だったのでケイシュウあげちゃってますよね? ホウトウを信頼していた魯粛だったわけだからホウトウが周ユと同じ天下二分の計+劉備を潰しとけば…
(W21SA/au)
19 紀麗
自分は、呉がケイシュウをとっていれば、やがてリュウショウをも滅ぼし、周ユの考えであった天下二分の計が成功したと思います。天下が二分されたら呉にもチャンスがあったのでは…と、思います。
(A5503SA/au)
20 エイ
蜀漢にとっては、やはり219年の攻撃が唯一の可能性だったのではないでしょうか?(厳密には蜀漢ではないですが)
太祖が弱気になってますし。
呉には…。う〜む。
好機があったかどうかよりもそれを欲したのでしょうか?
太祖が弱気になってますし。
呉には…。う〜む。
好機があったかどうかよりもそれを欲したのでしょうか?
(P2102V/FOMA)
21 天草
少しスレ違いかもしれませんが、確かに>>20のエイさんが言う219年の勢いは蜀にありましたよね。
劉備はなぜあの時に、勢いに乗って長安に攻めなかったのでしょうか?
まさか翌年の曹操の死を受けて喪に服したなんてことはないでしょうけど。。。
劉備はなぜあの時に、勢いに乗って長安に攻めなかったのでしょうか?
まさか翌年の曹操の死を受けて喪に服したなんてことはないでしょうけど。。。
(PC)
22 エイ
スレ違い&自分の発言への相反するものになりますが…
219年の関雲長の攻撃が独断だとしたらいかがでしょうか?
いや、普通に考えれば春から戦い詰めで疲弊した漢中方面軍を休ませて、
同時に漢中王として、人事・政治を整え、更に荊州方面軍で魏国の回復を許さないと云うコトなのでしょうが、
それではツマラナイので(汗)
219年の関雲長の攻撃が独断だとしたらいかがでしょうか?
いや、普通に考えれば春から戦い詰めで疲弊した漢中方面軍を休ませて、
同時に漢中王として、人事・政治を整え、更に荊州方面軍で魏国の回復を許さないと云うコトなのでしょうが、
それではツマラナイので(汗)
(P2102V/FOMA)
23 べん
たろうさん、数で決め付けるのはどうかと思います。孫策の江東平定戦をみても、国力では圧倒的に劣る側がかったのですから。それに、一人が生き残るだけで歴史はかなり変わりますよ。例えば、周喩が死んだから天下二分の計が中断されたのですし。
そして、本題ですが呉は曹叡死亡時だと思います。蜀は長安奇襲を実行することだと思います。
そして、本題ですが呉は曹叡死亡時だと思います。蜀は長安奇襲を実行することだと思います。
(N900i/FOMA)
25 曹徳
219年関羽を益州に戻して長安を制圧。同時に荊州を呉に返して呂蒙・陸遜で樊城を落とす。これで自分的天下三分の計が完成。これなら呉・ショクともにチャンス有り!?だと思います。(見てるポイントは皆さんとあまり変わらないですね(>_<)スイマセン)
(P900iV/FOMA)
26 ナナホッシー
実は、呉にとって最後かつ最大のチャンスは、諸葛誕の謀反の時のような気がします。当時、魏王朝内で反司馬氏の動きはあったわけですし、それに乗じて兵を動かせば・・ということですね。諸葛格がうまく立ち回れればチャンスはあったんじゃないかと。
(PC)
28 ひよこ
じた州牧さんよろしく
そんなことはないでしょ曹操も強大な袁紹を破って魏の基盤を築きましたからね。
きっと蜀、呉にも好機はあったはず。
歴史に『IF』は意味がないと思われるかも知れませんが、過去という事実だけでなく空想の世界を楽しむのも歴史のもう一つの楽しみ方だと私はおもいます。
そんなことはないでしょ曹操も強大な袁紹を破って魏の基盤を築きましたからね。
きっと蜀、呉にも好機はあったはず。
歴史に『IF』は意味がないと思われるかも知れませんが、過去という事実だけでなく空想の世界を楽しむのも歴史のもう一つの楽しみ方だと私はおもいます。
(P900i/FOMA)
30 巫俊
長安は攻めやすいかもしれませんが、城としては籠城するならともかく、自然の要害として考えれば平原のまっただなかにあるので余り策を巡らして立ち回るのに有利な場所ではありません。
長安を占拠できたとしても、そのあとの計画は万全ですか?魏延はあまりそこまで考えていないと私は判断してます。
あまり長安という城市を巨大な城だとは思わない方がいいでしょう。
関西地方の広さを考えれば、一気呵成に黄河に至るまで攻略してしまおうというのは、よほどすぐれた条件がなければ同意できないでしょう。蜀では馬は、チベット圏や西南シルクロードから手に入れなければなりませんから、北方ほど馬が余ってる訳でもないんですよね。関中には運河がありますが破壊されたらすぐには修復できません。
それに街亭は隴山の中腹にあるので、隴西の数郡だけを占拠するなら長安よりも格段に守りやすかったのです…
長安のような多額の資金を投与せねば、潅漑農業もできず、しかも平原というところで連年と魏の物量にものに言わせた遠征軍の攻勢と戦ってみます?
蜀はアフガニスタン、ウズベキスタンと交易をはかっていたことが史料から明らかなんで、ここは隴西を取るべきだったんじゃないかな。
長安を占拠できたとしても、そのあとの計画は万全ですか?魏延はあまりそこまで考えていないと私は判断してます。
あまり長安という城市を巨大な城だとは思わない方がいいでしょう。
関西地方の広さを考えれば、一気呵成に黄河に至るまで攻略してしまおうというのは、よほどすぐれた条件がなければ同意できないでしょう。蜀では馬は、チベット圏や西南シルクロードから手に入れなければなりませんから、北方ほど馬が余ってる訳でもないんですよね。関中には運河がありますが破壊されたらすぐには修復できません。
それに街亭は隴山の中腹にあるので、隴西の数郡だけを占拠するなら長安よりも格段に守りやすかったのです…
長安のような多額の資金を投与せねば、潅漑農業もできず、しかも平原というところで連年と魏の物量にものに言わせた遠征軍の攻勢と戦ってみます?
蜀はアフガニスタン、ウズベキスタンと交易をはかっていたことが史料から明らかなんで、ここは隴西を取るべきだったんじゃないかな。
(PC)
31 迷子
なるほど。取った後、どうすんだよ?
…って事ですよね。自分も魏延と一緒だ(笑)
フシュンさん、はじめまして。凄い知識ですね。これからも色々と教えてくだされば助かります。
よろしくお願いします。
…って事ですよね。自分も魏延と一緒だ(笑)
フシュンさん、はじめまして。凄い知識ですね。これからも色々と教えてくだされば助かります。
よろしくお願いします。
(912SH)
32 巫俊(ふしゅん)
こんにちは。はじめまして。
喜んでいただけましたなら何より幸いです。
koeiの三国志5では何故か長安が塞がった渓谷にあってとても守禦しやすいところであったのですが、そんなわけないんですね(笑)
関中平野自体は四方を渓谷で塞がれていますが、これは日本人の感覚では渓谷ではなくてひとつの平野の国という感じ。
とはいえさっきの書き込みは、魏の潜在的な実力とか対応力が弱っていたとしても蜀より断然上と仮定しての意見だとお思いください。
三国志は国力の統計史料とかの乏しい歴史ジャンルですので、想像力を使わないと議論できないところが困りものです。
喜んでいただけましたなら何より幸いです。
koeiの三国志5では何故か長安が塞がった渓谷にあってとても守禦しやすいところであったのですが、そんなわけないんですね(笑)
関中平野自体は四方を渓谷で塞がれていますが、これは日本人の感覚では渓谷ではなくてひとつの平野の国という感じ。
とはいえさっきの書き込みは、魏の潜在的な実力とか対応力が弱っていたとしても蜀より断然上と仮定しての意見だとお思いください。
三国志は国力の統計史料とかの乏しい歴史ジャンルですので、想像力を使わないと議論できないところが困りものです。
(PC)
33 ヴらど
みなさん初めまして。私は、ショク(漢字が出ない/汗)にとって好機になったかもしれないのは、第一次北伐、そして孟達の反乱だと考えます。孟達は北伐に呼応する形での反乱でしたから、孟達が新城で粘ることができていたならば、魏の西方の軍は孟達と諸葛亮に二分する形になるからです。そうなると、諸葛亮の軍は、天水、南安、安定を奪い、糧道である街亭を維持しつつ、長安を攻めることが容易になります。さらに、憶測(妄想?)すると涼州あたりの異民族は利権に食い付きやすいですから、彼らを味方につけて、長安、さらにその先の潼関まで制圧して潼関で魏を食い止め長安を維持し、体制を整えながら洛陽を目指すつもりだったのでは、と考えます。無理のある作戦ですが、無理をしないと勝てないくらいの国力差はあったのだと思いますので…… 愚見ですがご意見いただけたら幸いです。長文失礼いたしました。
(N701i/FOMA)
34 巫俊(ふしゅん)
>>33
孟達は魏側を嘗めていましたし、諸葛亮も魏側の出方を読むことができず陳倉で持久戦になって敗「退」してしまいます。
諸葛亮はやっぱりこの方面で結果を期待できるような人ではない、が少し辛辣かもしれませんが私の評価するところです。
孟達は魏側を嘗めていましたし、諸葛亮も魏側の出方を読むことができず陳倉で持久戦になって敗「退」してしまいます。
諸葛亮はやっぱりこの方面で結果を期待できるような人ではない、が少し辛辣かもしれませんが私の評価するところです。
(PC)
35 ヴらど
確かに、諸葛亮の本分は戦闘にはあるとは考えにくいです。しかし、もしもを考えるとやはり、第一次北伐はショクにとっては中原へ打って出られる可能性は一番高かったと思います。どちらにせよ、街亭を守り切れていたならば、ですが。 また私見ですが陳倉やその次の北伐は第一次北伐とは意味合いが違っていたのではないかと思います。陳倉からの撤退後、翌年出兵して涼州南部を制圧しているので北方の防衛強化にその意義を置いていたのではないかと。そう考えると、諸葛亮の本分は行政や長期的な戦略にあったのだと思われます。その点では第一次北伐では趙雲という前線を任せられる人物も存在していますから諸葛亮が直接戦闘指揮をそこまでとる必要はなかったことを考えても、関中全土とはいかなくても、最悪涼州までは制圧できたのではないでしょうか。
(N701i/FOMA)
36 巫俊(ふしゅん)
>>35
う〜ん、希望的観測ばかりを前に押し出すという戦略論ってどうなんだろうと思いますが、まあ私とは立論する理由が違うんでしょうからそんなものですかね。
例えば潼関を制圧したとしてですよ、明帝紀によれば太和元年十二月に孟達が反し、二年正月に孟達は斬られたとあります。
更に二年正月の条の裴注には、
[一] 魏 略 曰 : 宣 王 誘 達 将 李 輔 及 達 甥 ケ 賢 , 賢 等 開 門 納 軍 . 達 被 圍 旬 有 六 日 而 敗 , 焚 其 首 于 洛 陽 四 達 之 衢 .
城を囲まれて十六日で孟達は敗北したとあります。
たとえ孔明が潼関を制圧したとしても、仲達は武関から関中平野に入って長安まで直進してくるでしょう。
潼関に魏延などを集中して防御にあたらせるということは、主力軍が仲達によって退路を断たれることを意味します。少なくとも孔明の戦略では心配事項のひとつであったはずです。
負けるくらいなら玉砕するという戦略であるなら別ですけどね。
う〜ん、希望的観測ばかりを前に押し出すという戦略論ってどうなんだろうと思いますが、まあ私とは立論する理由が違うんでしょうからそんなものですかね。
例えば潼関を制圧したとしてですよ、明帝紀によれば太和元年十二月に孟達が反し、二年正月に孟達は斬られたとあります。
更に二年正月の条の裴注には、
[一] 魏 略 曰 : 宣 王 誘 達 将 李 輔 及 達 甥 ケ 賢 , 賢 等 開 門 納 軍 . 達 被 圍 旬 有 六 日 而 敗 , 焚 其 首 于 洛 陽 四 達 之 衢 .
城を囲まれて十六日で孟達は敗北したとあります。
たとえ孔明が潼関を制圧したとしても、仲達は武関から関中平野に入って長安まで直進してくるでしょう。
潼関に魏延などを集中して防御にあたらせるということは、主力軍が仲達によって退路を断たれることを意味します。少なくとも孔明の戦略では心配事項のひとつであったはずです。
負けるくらいなら玉砕するという戦略であるなら別ですけどね。
(PC)
37 ヴらど
む、確かに希望的観測を前提にした戦術論でしたね。ご指摘にあるように武関から来られたら主力部隊を孤立させるだけで、長安を維持できないですね。前に述べたように私は第二回以降の北伐は防衛的側面が強いと考えていますから、攻勢をとっている第一次北伐に固執していたようですね。で、そう考えると北伐はかなり無理があったようですし、呉も長江あたりで押しつ押されつ、ですから劉備死後では呉にもショクにもチャンスは無かったのでしょうか?
(N701i/FOMA)
38 白
ギエンの長安急襲についてだけどあれは決戦案じゃなかったか?
長安を抑えてそれまでの地域を制圧、孤立した長安部隊まで補給線が繋げれるのかどうかの問題になるので成功した場合はもう東の防御施設に優れる長安が落ちることはなく確定させられる。長安が守りにくいのは西の話しで東への防御施設はあの時代1、2の堅固さだよ
長安を抑えてそれまでの地域を制圧、孤立した長安部隊まで補給線が繋げれるのかどうかの問題になるので成功した場合はもう東の防御施設に優れる長安が落ちることはなく確定させられる。長安が守りにくいのは西の話しで東への防御施設はあの時代1、2の堅固さだよ
(W52P/au)
39 巫俊(ふしゅん)
>>38
色々と突っ込みたいところはあるのですが、とりあえず「東への防御施設はあの時代1、2の堅固さだよ」とされる白さんの説を採用すれば、つまり「1、2の堅固さ」の潼関、武関は長安が陥落したとしても魏の側にあり、長安から発した急使の伝達によって近隣の郡兵、州兵が潼関、武関に入っていて、先鋒である魏延の軍は兵力を割いて「1、2の堅固さ」の潼関、武関を魏の大規模な増援が来る前に陥落させる必要があります。
「成功した場合はもう東の防御施設に優れる長安が落ちることはなく確定させられる。」とおっしゃっておられるのですから二関の奪取は当然の前提ですよね。
私は二関の奪取、簡単ではないと思いますよ。
色々と突っ込みたいところはあるのですが、とりあえず「東への防御施設はあの時代1、2の堅固さだよ」とされる白さんの説を採用すれば、つまり「1、2の堅固さ」の潼関、武関は長安が陥落したとしても魏の側にあり、長安から発した急使の伝達によって近隣の郡兵、州兵が潼関、武関に入っていて、先鋒である魏延の軍は兵力を割いて「1、2の堅固さ」の潼関、武関を魏の大規模な増援が来る前に陥落させる必要があります。
「成功した場合はもう東の防御施設に優れる長安が落ちることはなく確定させられる。」とおっしゃっておられるのですから二関の奪取は当然の前提ですよね。
私は二関の奪取、簡単ではないと思いますよ。
(PC)
40 ヴらど
視点を漢中制圧時あたりまで戻して考えたいと思います。そこでやはりショクにとって惜しかったのは関羽と荊州を失ったことですよねこれは私は外交センスの欠如が原因だったと思うのです。人材不足だと言ってしまえばそれまでですが、もう少し対応はできたはず。そうできた場合の具体的な戦略は荊州、関中への2面作戦になるでしょうかね。
(N701i/FOMA)
41 朱家
久しぶりですが…
基本戦略が「変事を待つ」であって、劉備も孫権も、襄陽保持という最低ラインをクリア出来てない。孔明や魯粛、周瑜らの大局観、共通見解を否定する材料もないですしね。
漢中制圧の頃であれば、曹操の人民の強制移住をさせず、劉備がしっかりと確保し、孫権を外交で丸め込み、関羽が襄陽を落とす、これでチャンスとなる訳でなく、変事に動ける準備が整うだけですからね。
まあ、正確な順序だと、さっさと孫権を丸め込み、張魯を潰す、もっと前なら、劉表から奪うなり、独力で荊州を取る、でしょうか。
結果論ですが、最初のつまずきが、最後まで足を引っ張った感じでしょう。もちろん、孔明は独力で荊州を取る事を前提としてますしね。
史実を考えると、上記の最低ラインをクリアするのは、極めて難しいと思いますね。
基本戦略が「変事を待つ」であって、劉備も孫権も、襄陽保持という最低ラインをクリア出来てない。孔明や魯粛、周瑜らの大局観、共通見解を否定する材料もないですしね。
漢中制圧の頃であれば、曹操の人民の強制移住をさせず、劉備がしっかりと確保し、孫権を外交で丸め込み、関羽が襄陽を落とす、これでチャンスとなる訳でなく、変事に動ける準備が整うだけですからね。
まあ、正確な順序だと、さっさと孫権を丸め込み、張魯を潰す、もっと前なら、劉表から奪うなり、独力で荊州を取る、でしょうか。
結果論ですが、最初のつまずきが、最後まで足を引っ張った感じでしょう。もちろん、孔明は独力で荊州を取る事を前提としてますしね。
史実を考えると、上記の最低ラインをクリアするのは、極めて難しいと思いますね。
(PC)
42 諏訪
234年に蜀が雍州から、呉が揚州と荊州から魏を攻める三方面作戦を行いましたが、成功しませんでした。
多方面作戦にも対応できるだけの国力が魏にはあるわけで、たとえ蜀が荊州を保持していたところで、魏にとっては、荊州から攻め込んでくるのが呉か蜀かの違いでしかなく、魏の防衛戦略にたいした変化はないでしょう。
それに、蜀が荊州を保持し続けるならば、荊州を狙う呉を警戒しなければならないため、魏との戦いに全力を注ぐわけにはいかなくなります。
孫策の代から荊州を狙っている呉に、荊州領有を諦めさせるのは容易ではないと思います。
多方面作戦にも対応できるだけの国力が魏にはあるわけで、たとえ蜀が荊州を保持していたところで、魏にとっては、荊州から攻め込んでくるのが呉か蜀かの違いでしかなく、魏の防衛戦略にたいした変化はないでしょう。
それに、蜀が荊州を保持し続けるならば、荊州を狙う呉を警戒しなければならないため、魏との戦いに全力を注ぐわけにはいかなくなります。
孫策の代から荊州を狙っている呉に、荊州領有を諦めさせるのは容易ではないと思います。
(W51S/au)
43 ヴらど
まぁ、前提が呉との外交を上手く行けているというものですから無理があるのは当然なんですが…… ただ関羽は魏の荊州北部の軍と上手く戦っておりますし、関中に対して馬超の影響力は健在だったことも考えると、可能性は0ではなかったかと……
(N701i/FOMA)
45 ヴらど
私の手持ちの資料によると魏呉ショクの国力差はだいたい9:2:1だとか。そうなると魏対呉&ショクの国力比は3:1になります。ただ三国時代の輸送力を考えると一方面の部隊の戦力にはある程度制限がかかることを考えると呉ショクが一枚岩ならば打倒の可能性は無かったわけではないと私は考えております。
(N701i/FOMA)
46 三国志○
>45
かなり絶望的な国力差だと思うんですが…。
その輸送力についても、魏国より蜀や呉の方が分が悪い気がするんですが?
諸葛亮の北伐でも困難とされてる様に蜀はかなり不利な様子。
呉はわかりませんが、一方面の部隊の戦力にはある程度制限が〜それは蜀や呉にも同じ事が、言えそぅですがどうですかね?
かなり絶望的な国力差だと思うんですが…。
その輸送力についても、魏国より蜀や呉の方が分が悪い気がするんですが?
諸葛亮の北伐でも困難とされてる様に蜀はかなり不利な様子。
呉はわかりませんが、一方面の部隊の戦力にはある程度制限が〜それは蜀や呉にも同じ事が、言えそぅですがどうですかね?
(912T)
47 ヴらど
まぁあくまで、可能性は無かったわけではなかった、という話なので…… 魏の方がかなり国力もありますし、中国では南から北へ攻め込むのは色々要因があって成功しにくいという話もありますからね。
(N701i/FOMA)
48 白羽扇がほしい
初めての投稿です。ショクと呉の最大の過ちはやはり夷陵の戦いでしょう。その原因は劉備がケイ州の返還に応じなかったことと、孫権が関羽を斬ってしまったことでしょう。結果として魏を喜ばせることに。自分の意見はショクと呉が同時に魏に攻め入り、センピ、匈奴、キョウに背後を突かせて退路を断てば魏を討つことは十分可能かと・・・自分は劉備が尊敬できるほど好きなので劉玄徳に天下を統一し漢王室を再興してほしかったなぁ
(P701iD/FOMA)
49 ハヤブサ
はじめましてデス♪
はたして本当に可能でしょうか?
一枚岩の国に侵攻し勝利するとなると相当な国力差が必要デス。圧倒的に防衛側が有利だからデス。(地理や兵糧などあらゆる面)
だからこの時代に関わらず国が滅ぶ時にはほとんど内憂、つまりその国自体が混乱疲弊している訳デス。
魏がこれに当てはまるのは、せいぜいがカン丘倹と諸葛誕の反乱時でしょうが…この時に呉蜀共に攻めてマスよね?
結果→司馬兄弟に統率された魏に敗北していマス。
確かにこの時に呉蜀が互いに協力し総力を上げて侵攻していれば(それでも難しいでしょうが)…あるいは、という事も考えられマスし、少なくともある程度領土は奪えたでしょう。
しかしそもそも呉蜀が本気で協力して魏を倒す、という事が有り得ません。
蜀はまだしも、呉の望みは魏打倒ではなく己の高み。漁夫の利を得ようとするダケでしょう。
やはり私は三国鼎立以後の魏打倒は不可能だったと思いマス。
いきなり来て長文すみませんでシタ。
はたして本当に可能でしょうか?
一枚岩の国に侵攻し勝利するとなると相当な国力差が必要デス。圧倒的に防衛側が有利だからデス。(地理や兵糧などあらゆる面)
だからこの時代に関わらず国が滅ぶ時にはほとんど内憂、つまりその国自体が混乱疲弊している訳デス。
魏がこれに当てはまるのは、せいぜいがカン丘倹と諸葛誕の反乱時でしょうが…この時に呉蜀共に攻めてマスよね?
結果→司馬兄弟に統率された魏に敗北していマス。
確かにこの時に呉蜀が互いに協力し総力を上げて侵攻していれば(それでも難しいでしょうが)…あるいは、という事も考えられマスし、少なくともある程度領土は奪えたでしょう。
しかしそもそも呉蜀が本気で協力して魏を倒す、という事が有り得ません。
蜀はまだしも、呉の望みは魏打倒ではなく己の高み。漁夫の利を得ようとするダケでしょう。
やはり私は三国鼎立以後の魏打倒は不可能だったと思いマス。
いきなり来て長文すみませんでシタ。
(W43T/au)
50 ヴらど
まぁ、状況が状況ですし、まして結果はすでに出ていますから不可能という結論にいたってしまうんですよねぇ。 それでもあえて可能性をあげるならば、という話でして……… 結論として私のなかでは、ショクに可能性があったのは、呉ショク共闘が前提の漢中制圧後の進攻、孟達反乱成功、もしくは街亭防衛成功していたらの第一次北伐ですかね。
(N701i/FOMA)
51 ハヤブサ
たびたび失礼しマス♪
そうですねぇ、私もあえて可能性を上げるなら…
少し「If」の世界になりますが…
劉備の蜀取りがもっと上手く(ホウ統が死なずに短期間で)いっていて諸葛亮が関羽と共に荊州に残っていたら…
219年の中国は魏が追い詰められていた…かも?
そうですねぇ、私もあえて可能性を上げるなら…
少し「If」の世界になりますが…
劉備の蜀取りがもっと上手く(ホウ統が死なずに短期間で)いっていて諸葛亮が関羽と共に荊州に残っていたら…
219年の中国は魏が追い詰められていた…かも?
(W43T/au)
52 ヴらど
これもかなり「if」になるんですが、やはり呉にとっては天下二分の計ができていたならば、ですかね。 これもあくまで魏を倒せた可能性がある、なわけですが。こうして考えてみるとやはり魏の一強だったんだなぁ、と思います。
(N701i/FOMA)
53 巫俊(ふしゅん)
ヴらどさんがおっしゃられてきたことを、劉備や諸葛亮に直接会って話すと相手の怒りを買い、首をはねられるか官職を剥奪されると思いますよ。
それくらい、当人たちの心理や判断を除外した蜀政権の為の希望的戦略をヴらどさんが語っているということです。
それくらい、当人たちの心理や判断を除外した蜀政権の為の希望的戦略をヴらどさんが語っているということです。
(PC)
54 ヴらど
そうなんですかあんまり当時の思想とか常識とかには詳しくないんでどのあたりがそうなのか分からないんですが…… では巫俊さんの意見を踏まえると、私の意見はそんな当時の人の心理や判断を無視しないとショクは魏に勝てなかった、ということになるんでしょうかね。
(N701i/FOMA)
55 赤龍
そもそも、この話題は実際に起こりえなかった「可能性」について考える「if]的要素を含んだものですから、絶対に正しい答えなんてあるはずがない、ということを念頭に。
あくまで可能性の高低の問題で、何がきっかけに歯車がかわるかは、誰にもわからない問題ですからね。
それに、実際起こりえなかったことについて考えるわけですから、ある程度当時の人の心理や判断を無視するのも当然でしょう。それに忠実に沿ったら、結局何も変らないはずですし(笑)
もともと無理を含んだ話から可能性を探って楽しんでるわけですから、あまり辛辣な言葉で否定するのはどうかと思います。そうした行為自体許せないというのなら、そもそもこのスレの存在自体否定することになりますしね。
あくまで可能性の高低の問題で、何がきっかけに歯車がかわるかは、誰にもわからない問題ですからね。
それに、実際起こりえなかったことについて考えるわけですから、ある程度当時の人の心理や判断を無視するのも当然でしょう。それに忠実に沿ったら、結局何も変らないはずですし(笑)
もともと無理を含んだ話から可能性を探って楽しんでるわけですから、あまり辛辣な言葉で否定するのはどうかと思います。そうした行為自体許せないというのなら、そもそもこのスレの存在自体否定することになりますしね。
(PC)
56 三国志○
>>51
まず関羽と諸葛亮というコンビはうまく行きますかね?関羽&張飛はやはり劉備と組ませるのがベストだと思うんですが
蜀は人事についても問題があるように思います。個性が強く魅力的な人物が多いので好きなんですが…派閥問題で決定的なダメージを受けているのも蜀と呉なんですよね。
魏は問題が起こった時の対処が早いですよね。
まず蜀と呉が一枚岩である前に蜀は自国が、一枚岩である必要があると思います。呉は孫権の後継者問題が起きるまでは一枚岩のように見えます。
戦争でも内政でも蜀と呉は魏に劣ってるなぁ…。
勝つ手段を見つけるのが逆に難しいですよね↓
まず関羽と諸葛亮というコンビはうまく行きますかね?関羽&張飛はやはり劉備と組ませるのがベストだと思うんですが
蜀は人事についても問題があるように思います。個性が強く魅力的な人物が多いので好きなんですが…派閥問題で決定的なダメージを受けているのも蜀と呉なんですよね。
魏は問題が起こった時の対処が早いですよね。
まず蜀と呉が一枚岩である前に蜀は自国が、一枚岩である必要があると思います。呉は孫権の後継者問題が起きるまでは一枚岩のように見えます。
戦争でも内政でも蜀と呉は魏に劣ってるなぁ…。
勝つ手段を見つけるのが逆に難しいですよね↓
(912T)
57 ハヤブサ
関羽と諸葛亮が上手くいくか、という事デスが…
私の考えとしては
荊州の軍事を関羽、内政を諸葛亮に任せる、といういわゆる二頭体制を敷く事が出来れば、内情も安定しやすく孫呉に対する造反も抑えられた可能性があるのでは…と。
関羽出撃後の荊州のまとめ役という意味でも。
二人の関係が特別悪かった、という記述も無かったと思うノデ。
それから劉、関、張は一緒に、という事デスが彼の他に荊州を任せられる人材が蜀にいたでしょうか?
魏に対する二正面侵攻も関羽ならではの戦略だと思うのデス。
私の考えとしては
荊州の軍事を関羽、内政を諸葛亮に任せる、といういわゆる二頭体制を敷く事が出来れば、内情も安定しやすく孫呉に対する造反も抑えられた可能性があるのでは…と。
関羽出撃後の荊州のまとめ役という意味でも。
二人の関係が特別悪かった、という記述も無かったと思うノデ。
それから劉、関、張は一緒に、という事デスが彼の他に荊州を任せられる人材が蜀にいたでしょうか?
魏に対する二正面侵攻も関羽ならではの戦略だと思うのデス。
(W43T/au)
58 三国志&水泳
この前白羽扇で投稿させていただきました。皆さんの意見をみていると興味深いものが多いですね。よく考えてみると呉は漁夫の利ねらいだったので本気で魏を討つ気はなかったと。ショクは第1次北伐で馬謖の勝手な行動が無ければ・・・第4次北伐で李厳の裏切りが無ければ・・・十分チャンスはあったと思いますね。
(P701iD/FOMA)
59 ヴらど
関羽と誰を組ませるべきかですが、とりあえず結果論として荊州を関羽のみに任せたのは失敗だったと思います。前にも言ったように呉との外交に関羽が対処しきれていないようにおもえますので。そうなると諸葛亮に限らずとも、やはり荊州に外交を担当できる実力者を配置すべきだったのだと思います。そうなると、ホウ統が生きていたらというのも無視できなくなってきませんかね?
(N701i/FOMA)
60 三国志○
>>57
どうも、ハヤブサさん以後よろしくお願いします
鳳統←(漢字が…)存命中は関羽&諸葛亮(その他色々)みたいなんですが益州攻略戦の時に援軍で諸葛亮や張飛は荊州を離れてましたね。
まぁ劉備陣営も当初(益州攻略戦以前)はそぅいう人事でしたよね。
僕もかなり蜀は好きなんですが蜀陣営だけにifを求める考えは最近になって改めようと思いまして。
それから劉、関、張は一緒に、という事デスが彼の他に荊州を任せられる人材が蜀にいたでしょうか?〓それこそが劉備存命中の一番の欠点だと思うんですよ。
劉備が古参の武将に傾倒しすぎてると思うんですよね。
若くして死んでしまってますが、霍峻あたりなら防衛戦などは得意としていたみたいですし、蒋婉(しょうえん)や費緯など優れた人物はいますよね。
知名度としては関羽に劣りますが候補としては結構いると考えています。
ifの究極を言わせて貰えば曹操ぐらいしか魏を倒すのは不可能な気が…(爆)
どうも、ハヤブサさん以後よろしくお願いします
鳳統←(漢字が…)存命中は関羽&諸葛亮(その他色々)みたいなんですが益州攻略戦の時に援軍で諸葛亮や張飛は荊州を離れてましたね。
まぁ劉備陣営も当初(益州攻略戦以前)はそぅいう人事でしたよね。
僕もかなり蜀は好きなんですが蜀陣営だけにifを求める考えは最近になって改めようと思いまして。
それから劉、関、張は一緒に、という事デスが彼の他に荊州を任せられる人材が蜀にいたでしょうか?〓それこそが劉備存命中の一番の欠点だと思うんですよ。
劉備が古参の武将に傾倒しすぎてると思うんですよね。
若くして死んでしまってますが、霍峻あたりなら防衛戦などは得意としていたみたいですし、蒋婉(しょうえん)や費緯など優れた人物はいますよね。
知名度としては関羽に劣りますが候補としては結構いると考えています。
ifの究極を言わせて貰えば曹操ぐらいしか魏を倒すのは不可能な気が…(爆)
(912T)
62 ヴらど
三国志○さん>劉備が仁侠の人というのもあるでしょうが、古参に傾倒しているのは事実ですよね。ですが、益州攻略中に裏切られれば、地盤を失い前にも後ろにもいけなくなるため、裏切らない人物で軍才もある人物となると関羽だったのだと思います。そして、関羽に荊州を任せた以上関羽よりもキャリアの無いといいますか、地位や名声の無い人物に荊州を任せるのは、古参と新参で内部分裂を引き起こしかねません。 そうなると、関羽と共に荊州を治める人物を派遣するにしても、関羽に意見ができるほどの発言力のある内政外交に長けた人物が必要になるでしょう。そのあたりで人材不足であったための結果として荊州と関羽を失ってしまったのだと思います。
(N701i/FOMA)
64 三国志○
>>58
北伐の失敗として馬謖の行動は有名ですが、仮に馬謖が山上に陣取らず水を確保し平地に陣取っていたとして張恰?(ちょうこう)を撃破する事ができたんですかね?
平地に陣営を敷いたとして、その後、諸葛亮はどういう戦略を展開させるつもりだったのか…。
皆さんはどう考えられますか?
北伐の失敗として馬謖の行動は有名ですが、仮に馬謖が山上に陣取らず水を確保し平地に陣取っていたとして張恰?(ちょうこう)を撃破する事ができたんですかね?
平地に陣営を敷いたとして、その後、諸葛亮はどういう戦略を展開させるつもりだったのか…。
皆さんはどう考えられますか?
(912T)
65 三国志○
>>62 63
裏切りは怖いですが、劉備当人が裏切りにあったという話はありましたっけ?(呂布は抜きで)
糜旁?と士仁にしても、関羽との人間関係ですよね。孟達や劉封もその余波を食らった感じがするんですよ。
間接的?には劉備も裏切られてますが、まず関羽に問題がなければ、裏切られる心配もないと思います。
まぁ劉備が関羽や張飛より信用している人物はいないと思いますけど。
外交に長けた人物なら、とう芝とかどうでしょう?(この時劉備配下かわかりませんが)
簡雍は孫権に嫌われそうなので…(笑)内政は潘濬でも問題なさそうなんで。
曹操の件はほんとありえない話なんですけど、蜀漢の主が曹操なら…って話です(爆)魏が劉備みたいな。曹操の合理的な判断力なら人事も適材適所でしょうし。まぁいずれにせよ年齢的にキツいです…。(笑)
裏切りは怖いですが、劉備当人が裏切りにあったという話はありましたっけ?(呂布は抜きで)
糜旁?と士仁にしても、関羽との人間関係ですよね。孟達や劉封もその余波を食らった感じがするんですよ。
間接的?には劉備も裏切られてますが、まず関羽に問題がなければ、裏切られる心配もないと思います。
まぁ劉備が関羽や張飛より信用している人物はいないと思いますけど。
外交に長けた人物なら、とう芝とかどうでしょう?(この時劉備配下かわかりませんが)
簡雍は孫権に嫌われそうなので…(笑)内政は潘濬でも問題なさそうなんで。
曹操の件はほんとありえない話なんですけど、蜀漢の主が曹操なら…って話です(爆)魏が劉備みたいな。曹操の合理的な判断力なら人事も適材適所でしょうし。まぁいずれにせよ年齢的にキツいです…。(笑)
(912T)
66 ハヤブサ
関羽に問題があったとしても劉備に絶対の忠誠を誓っていたら裏切りませんよ。
ずっと本拠地を持たない流浪生活だったんですし、荊州の旧豪族達をまだ完全には掌握していなかったと思います。彼らを支配し統括するには、相応の名前を残す必要があったでしょう。
それに当時最大の抗争場所であった荊州の司令官には、魏呉が警戒するぐらいの部名も必要だったハズ。
今までに挙げられた人物は確かに有能デスが…魏呉がその気で侵攻してきた時に防げるとはとても思えません。
関羽がいたからこそ、迂闊には手を出せなかったのデス。
そしてその関羽でも結局失敗した。
だからこそ、劉備が信用しているというよりも、関羽自身が自分と同格だと思える内政担当者が必要であったと考えマス。
そして当時の劉備陣営では諸葛亮以外には居ないでしょう。
まぁ諸葛亮も人事面では相当難がありますが…。
やはり劉備陣営は人材不足デスね。
ずっと本拠地を持たない流浪生活だったんですし、荊州の旧豪族達をまだ完全には掌握していなかったと思います。彼らを支配し統括するには、相応の名前を残す必要があったでしょう。
それに当時最大の抗争場所であった荊州の司令官には、魏呉が警戒するぐらいの部名も必要だったハズ。
今までに挙げられた人物は確かに有能デスが…魏呉がその気で侵攻してきた時に防げるとはとても思えません。
関羽がいたからこそ、迂闊には手を出せなかったのデス。
そしてその関羽でも結局失敗した。
だからこそ、劉備が信用しているというよりも、関羽自身が自分と同格だと思える内政担当者が必要であったと考えマス。
そして当時の劉備陣営では諸葛亮以外には居ないでしょう。
まぁ諸葛亮も人事面では相当難がありますが…。
やはり劉備陣営は人材不足デスね。
(W43T/au)
67 ヴらど
三国志〇さん>乱世であり、自分も劉璋を裏切るつもりだったので、常に裏切りを心配していたのでは、と私は考えています。内政外交担当者は、ハヤブサさんの言うとおり、関羽が自身と同格と考える人物でなければ、というのがネックでしょう。 曹操については強ち間違っていないかも知れませんね。政治、軍事、に長けた合理主義者。諸葛亮とかと比べても頭一つ抜けている感じがしますしね。
(N701i/FOMA)
68 三国志&水泳
第1次北伐でもし、街亭にて馬謖がもし山頂に陣ひかず平地に陣をひいたとしても、張コウを撃破するのは馬謖では無理だと思います。そもそも街亭での目的は孔明率いる本隊が到着するまで守り通すことで、敵の撃破ではないはず、馬謖は実質以上の言葉を吐く男ゆえ重要してはならない。たしかに劉備のいうとおりです。馬謖が平地に陣をひいたとしても張コウを討とうと考え、守ることはしないでしょう。散々攻撃して張コウに敗れ敗走するのがオチでしょう。自分は街亭の守りは馬謖ではなく魏延のほうが適任だったと思いますね。
(P701iD/FOMA)
69 三国志○
>>66
劉備に絶対の忠誠を誓っていたら裏切らないと、ハヤブサさんは言われますが…〓そもそも絶対に裏切らないという保証はどこにあるんでしょう?
劉備に対しての絶対的な忠誠というのであれば糜旁や士仁は特に劉備陣営最古参の武将であり結果的には裏切ってますが、当時の劉備陣営の信頼は格別なものがあったと思いますよ。
いくら信用してきた人物であれ長年苦楽を共にしたとしても、命の危険や不満が溜まれば心境は変わると思うのですが?
勿論、荊州陥落が関羽ひとりの責任とは思わないですし、関羽という人物も有能だったとは思いますよ。
劉備は人物の性格の長所、短所をよく理解している節があるにも関わらず具体的な対策を講じていません。曹操は張遼、楽進、李典ら仲が悪かった人物に対してでも巧くやれる様に取り計らっています。
これは関羽スレでも指摘がありましたが関羽の人格と味方に対する発言こそが第一の問題と思います。
諸葛亮を荊州に置くのは益州攻略中に鳳統が戦死した後ですが、仮に諸葛亮が荊州に残ったとして援軍は誰が行くべきだったでしょうかね?
劉備軍本体もかなり苦戦している様子、あわや劉備が…という記述もあったような。益州攻略スレ参照。
曹操陣営に比べたら人材不足なんでしょうケド、適材適所に人材を割り振るといった能力、荊州人事に関して言えば劉備は多少配慮が足りなかったと思います。
劉備に絶対の忠誠を誓っていたら裏切らないと、ハヤブサさんは言われますが…〓そもそも絶対に裏切らないという保証はどこにあるんでしょう?
劉備に対しての絶対的な忠誠というのであれば糜旁や士仁は特に劉備陣営最古参の武将であり結果的には裏切ってますが、当時の劉備陣営の信頼は格別なものがあったと思いますよ。
いくら信用してきた人物であれ長年苦楽を共にしたとしても、命の危険や不満が溜まれば心境は変わると思うのですが?
勿論、荊州陥落が関羽ひとりの責任とは思わないですし、関羽という人物も有能だったとは思いますよ。
劉備は人物の性格の長所、短所をよく理解している節があるにも関わらず具体的な対策を講じていません。曹操は張遼、楽進、李典ら仲が悪かった人物に対してでも巧くやれる様に取り計らっています。
これは関羽スレでも指摘がありましたが関羽の人格と味方に対する発言こそが第一の問題と思います。
諸葛亮を荊州に置くのは益州攻略中に鳳統が戦死した後ですが、仮に諸葛亮が荊州に残ったとして援軍は誰が行くべきだったでしょうかね?
劉備軍本体もかなり苦戦している様子、あわや劉備が…という記述もあったような。益州攻略スレ参照。
曹操陣営に比べたら人材不足なんでしょうケド、適材適所に人材を割り振るといった能力、荊州人事に関して言えば劉備は多少配慮が足りなかったと思います。
(912T)
71 ヴらど
街亭の戦いについて 三国志&水泳さんの言うように、私も馬禝では無理だったと思います。具体的には道筋に土壁なりなんなりを作っての陣地防衛戦ですょうか。魏延は実戦経験の無い馬禝よりも経験のある呉懿を推薦していたようですから、魏延の言うように呉懿に任せるというのはどうでしょう。
(N701i/FOMA)
72 三国志○
>>67
乱世であり、自分も劉璋を裏切るつもりだったので〓という割に劉備は中途半端な行動が目立つんですよね。
鳳統や法政が薦める様にさっさと劉璋を始末していれば…やたらに鳳統や張松を死なす事はなかったかも知れないし、益州攻略にも時間が掛かりすぎたせいで益州の内情を安定させる事にも、荊州に人材を割り振る時間も同時に無くした気がします。
消極的というか、行動がなんともお粗末ではありませんかね?まぁ単に慎重なだけな気もしますケド。
関羽が自身と同格というのは誰がいますかね?
諸葛亮なら巧く立ち回ったかも知れませんが、関羽は部下には優しいが同僚達に対しては傲慢な所があったと言われています。
曹操については強ち間違っていないかも知れませんね。〓有り得ない話に付き合って頂き感謝です。まぁ要するに蜀や呉で魏を打倒するなら、曹操以上に優れた人物が必要って事で(爆)そのぐらい可能性は低かったという事ですかね(笑)
乱世であり、自分も劉璋を裏切るつもりだったので〓という割に劉備は中途半端な行動が目立つんですよね。
鳳統や法政が薦める様にさっさと劉璋を始末していれば…やたらに鳳統や張松を死なす事はなかったかも知れないし、益州攻略にも時間が掛かりすぎたせいで益州の内情を安定させる事にも、荊州に人材を割り振る時間も同時に無くした気がします。
消極的というか、行動がなんともお粗末ではありませんかね?まぁ単に慎重なだけな気もしますケド。
関羽が自身と同格というのは誰がいますかね?
諸葛亮なら巧く立ち回ったかも知れませんが、関羽は部下には優しいが同僚達に対しては傲慢な所があったと言われています。
曹操については強ち間違っていないかも知れませんね。〓有り得ない話に付き合って頂き感謝です。まぁ要するに蜀や呉で魏を打倒するなら、曹操以上に優れた人物が必要って事で(爆)そのぐらい可能性は低かったという事ですかね(笑)
(912T)
73 三国志○
あと諸葛亮の信賞必罰という厳格な姿勢は、この関羽や劉備の失敗に起因している様に思います。
皆さんに質問なんですが関羽が荊州陥落した後、蜀まで退却が成功したとして、処断されず許されたと思いますか?
皆さんに質問なんですが関羽が荊州陥落した後、蜀まで退却が成功したとして、処断されず許されたと思いますか?
(912T)
74 ハヤブサ
う〜ん、絶対的な忠誠「例え自らが死にそうでも決して裏切らない」
ここまで求めるのはやはり少し酷なんでしょうかネ?
この二人は戦わずに降伏してるし…。すみません、多分個人的に嫌いなので弁護したく無かったのカモ…。
あと、私の案は「ホウ統が死なずに益州が短期間で取れたら」が前提デス。
あのように苦戦しては増援部隊として諸葛亮達を送るのは仕方無かったと思いマス。
蜀による統一は益州攻略がスムーズにいかなければ、可能性は見えてこなかったんじゃないカナ?というのがまとめデス。
街亭の戦いデスが、私もそれまで関中の守護を任されていた魏延の進言「先鋒は呉懿に」を聞き入れるべきだったと思いマス。
関羽が退却出来ていたらデスが、処断は流石にされないんじゃないかと。
諸葛亮が厳正とはいっても、益州攻略後の法正による私的な復讐にもその功績の大きさからか目をつぶっていますし…。
「関羽処罰」の進言はしなかったんじゃないカナ?
ここまで求めるのはやはり少し酷なんでしょうかネ?
この二人は戦わずに降伏してるし…。すみません、多分個人的に嫌いなので弁護したく無かったのカモ…。
あと、私の案は「ホウ統が死なずに益州が短期間で取れたら」が前提デス。
あのように苦戦しては増援部隊として諸葛亮達を送るのは仕方無かったと思いマス。
蜀による統一は益州攻略がスムーズにいかなければ、可能性は見えてこなかったんじゃないカナ?というのがまとめデス。
街亭の戦いデスが、私もそれまで関中の守護を任されていた魏延の進言「先鋒は呉懿に」を聞き入れるべきだったと思いマス。
関羽が退却出来ていたらデスが、処断は流石にされないんじゃないかと。
諸葛亮が厳正とはいっても、益州攻略後の法正による私的な復讐にもその功績の大きさからか目をつぶっていますし…。
「関羽処罰」の進言はしなかったんじゃないカナ?
(W43T/au)
75 ヴらど
三国志〇さん>劉備、やることが中途半端ですよねぇ。ここぞで格好つけたがるというか。まぁ、当時の人にはそういうのがうけたらしいですが。曹操ならスパッとやっちまうでしょうがね(苦笑 あと、関羽処断は微妙ですね。古参は反対するだろうし、劉備も反対するでしょう。しかし、関羽自身はそれを望かも知れませんので
(N701i/FOMA)
76 三国志&水泳
ケイ州が陥落して関羽が無事にショクまで逃げたとして関羽の処分は演義での関羽が私情で曹操を見逃したときと同じだと思いますね。関羽のことですから手を後ろ手に縛って劉備に処罰を願い出るでしょう。孔明はたとえ関羽であろうと軍律にてらしあわせ斬首せよというでしょう。しかし劉備が「手柄をもって罪をつぐなわせる」といって終わりでしょう。
自分個人の意見はショクが魏を討つには呉と同盟するしかないでしょう。ショクと呉が総力をもって戦えば天下統一をもくろむ魏が喜ぶだけだし、ショクと呉が戦っているときに魏になだれ込まれれば滅ぶしかないでしょうから。夷陵の戦いを避けるには劉備がショクを手に入れた時点でケイ州は呉に返還すべきだと思いますね。
自分個人の意見はショクが魏を討つには呉と同盟するしかないでしょう。ショクと呉が総力をもって戦えば天下統一をもくろむ魏が喜ぶだけだし、ショクと呉が戦っているときに魏になだれ込まれれば滅ぶしかないでしょうから。夷陵の戦いを避けるには劉備がショクを手に入れた時点でケイ州は呉に返還すべきだと思いますね。
(P701iD/FOMA)
77 ヴらど
三国志&水泳さん>たしかに荊州さえ還しておけば呉とは不和にはならなかったでしょう。しかし、荊州を失い、領地がショクだけとなると、後の北伐を考えても中原へ打って出るのが困難になってしまいます。かといって呉と不和になるのは避けたい。荊州問題をどう上手くさばくかがショクにとって魏と対抗する鍵だったのだと思います。
(N701i/FOMA)
78 周ユウ
確かに蜀と呉が不仲になったのは最大の敗因だろう。その点から言うと荊州を関羽に任せたのは失敗だろ、関羽は天狗過ぎる、魯粛が関羽の娘を孫権の息子?(勉強不足です)との縁談を持ち掛けても、侮辱して断った。関羽は自分の力を過信しすぎる点がある。目先のプライドより将来を見据える力がなかったのだろう。その点で、荊州は趙雲に任せた方がよかったかもしれない
(SH902iS/FOMA)
80 諏訪
呉が荊州は本来自分達のものであると考え、また関羽が勢力を伸ばすことに警戒している以上、たとえ関羽が孫権との縁談を断ったり湘関の米を勝手に奪い取るということがなくても、荊州に侵攻したでしょうから、孫権を敵に廻したことを関羽の責任とするのはどうかと思います。
そもそも関羽は荊州方面軍の司令官にすぎず、外交について全責任があるわけではありません。
また関羽の人間関係についてですが、劉封・孟達が援軍を出さなかったのは、占領地が安定していないという理由からで、関羽との仲は関係ありませんし、士仁・麋芳にしても、多くの兵を樊攻撃のために割かれたところを呉の大軍に包囲されたのですから、関羽と不仲でなくても公安・江陵を守りきるのは難しいでしょう。
関羽に問題がなかったわけではありませんし、司令官としての責任もあるでしょうが、荊州失陥の根本的な原因は、関羽の能力や性格といったことよりも、樊・襄陽侵攻という戦略自体にあったと思います。
樊・襄陽に侵攻すれば、呉の警戒を呼び、また呉に対する守備が手薄になるというリスクがある以上、司令官が関羽でなくても呉の荊州侵攻は避けられないでしょう。
そもそも関羽は荊州方面軍の司令官にすぎず、外交について全責任があるわけではありません。
また関羽の人間関係についてですが、劉封・孟達が援軍を出さなかったのは、占領地が安定していないという理由からで、関羽との仲は関係ありませんし、士仁・麋芳にしても、多くの兵を樊攻撃のために割かれたところを呉の大軍に包囲されたのですから、関羽と不仲でなくても公安・江陵を守りきるのは難しいでしょう。
関羽に問題がなかったわけではありませんし、司令官としての責任もあるでしょうが、荊州失陥の根本的な原因は、関羽の能力や性格といったことよりも、樊・襄陽侵攻という戦略自体にあったと思います。
樊・襄陽に侵攻すれば、呉の警戒を呼び、また呉に対する守備が手薄になるというリスクがある以上、司令官が関羽でなくても呉の荊州侵攻は避けられないでしょう。
(W51S/au)
81 寿君
荊州失陥に関しては、諏訪さんの意見に同意します。
漫画の話で恐縮なんですが、「蒼天航路」で荊州奪回に麦まで撤退した関羽に、孫権は「呉の支援の下に樊城攻撃続行」を要請するシーンがありますが、あれは結構ありかなと読んでて思いました。
孫権からすれば南郡に関羽がいるのが危険であり、南郡さえ獲得すれば国防上は安泰。劉備側からすれば、南陽郡を奪取すれば荊州からの侵攻ルートは確保できる。
むしろ、それぐらい詳細な取り決めをお互いにしておいても良かった気はしますが、荊州詐取、益州攻略、荊州分割と劉備側の不実は度重なる物でしたから、孫権側からしても、信頼できるものではなかったと思いますね。
関羽の対応にしても性格云々より、孫権サイドを軽視する気風が劉備サイドの首脳(諸葛亮はどうかは知らんけど)にあったんじゃないでしょうか?。
両陣営にそういう空気が漂っていたから、危うい同盟関係になったんだと思います。
漫画の話で恐縮なんですが、「蒼天航路」で荊州奪回に麦まで撤退した関羽に、孫権は「呉の支援の下に樊城攻撃続行」を要請するシーンがありますが、あれは結構ありかなと読んでて思いました。
孫権からすれば南郡に関羽がいるのが危険であり、南郡さえ獲得すれば国防上は安泰。劉備側からすれば、南陽郡を奪取すれば荊州からの侵攻ルートは確保できる。
むしろ、それぐらい詳細な取り決めをお互いにしておいても良かった気はしますが、荊州詐取、益州攻略、荊州分割と劉備側の不実は度重なる物でしたから、孫権側からしても、信頼できるものではなかったと思いますね。
関羽の対応にしても性格云々より、孫権サイドを軽視する気風が劉備サイドの首脳(諸葛亮はどうかは知らんけど)にあったんじゃないでしょうか?。
両陣営にそういう空気が漂っていたから、危うい同盟関係になったんだと思います。
(P905i/FOMA)
82 寿君
連ガキ失礼
ただ、赤壁戦以来の孫権と劉備の盟約の形式が判然としない点があります。
諸葛亮が魯粛と共に柴桑に行き、盟約を結んだ件に関しても、「盟約を結んだ」と言う事実しか判りません。(例えば戦後の荊州の扱い)
そうなると、周瑜が南郡攻め、劉備が湖南四郡を攻略した件に関しても自由行動か最初からの取り決めかも判らない。
そうなると荊州の帰属に関しても一概に呉が正しいとは言い切れず、ましてや赤壁以降は両軍自由に戦ったとすれば、両サイドに認識のズレが生じていたかも知れない。
それにより、関羽が樊城戦で認識違いによる采配ミスを犯した可能性も考えられると思うので、悩みます。
ただ、赤壁戦以来の孫権と劉備の盟約の形式が判然としない点があります。
諸葛亮が魯粛と共に柴桑に行き、盟約を結んだ件に関しても、「盟約を結んだ」と言う事実しか判りません。(例えば戦後の荊州の扱い)
そうなると、周瑜が南郡攻め、劉備が湖南四郡を攻略した件に関しても自由行動か最初からの取り決めかも判らない。
そうなると荊州の帰属に関しても一概に呉が正しいとは言い切れず、ましてや赤壁以降は両軍自由に戦ったとすれば、両サイドに認識のズレが生じていたかも知れない。
それにより、関羽が樊城戦で認識違いによる采配ミスを犯した可能性も考えられると思うので、悩みます。
(P905i/FOMA)
83 諏訪
>>82
赤壁以前の劉備は地盤を持たない流浪の身だったことから、孫権とは対等の同盟関係ではなく、客将のような存在だったのでは、と考えています。
よって、赤壁の戦いのときも、その後の湖南四郡攻略のときも、孫権軍の一部将のような立場だったのではないでしょうか。
『黄蓋伝』には、黄蓋が赤壁の戦いの後に武陵太守に任ぜられて武陵郡の反乱を鎮め、その後、長沙郡の反乱も平定したことが記されています。
劉備が攻略した湖南四郡がそのまま劉備のものにならず、一旦孫権のものになっているのですから、劉備が孫権の客将的存在だったという傍証のひとつになるかと思います。
おそらく孫権としては、荊州の直接統治は難しいと考えたために、改めて劉備に湖南四郡を貸し与えたのでしょう。そして劉備が地盤を持つことによって、両者が対等に近い立場になったのではないかと思います。
荊州は孫権が劉備に「貸した」という認識が両者ともにあったことは、蜀側の史書も記しています。
赤壁以前の劉備は地盤を持たない流浪の身だったことから、孫権とは対等の同盟関係ではなく、客将のような存在だったのでは、と考えています。
よって、赤壁の戦いのときも、その後の湖南四郡攻略のときも、孫権軍の一部将のような立場だったのではないでしょうか。
『黄蓋伝』には、黄蓋が赤壁の戦いの後に武陵太守に任ぜられて武陵郡の反乱を鎮め、その後、長沙郡の反乱も平定したことが記されています。
劉備が攻略した湖南四郡がそのまま劉備のものにならず、一旦孫権のものになっているのですから、劉備が孫権の客将的存在だったという傍証のひとつになるかと思います。
おそらく孫権としては、荊州の直接統治は難しいと考えたために、改めて劉備に湖南四郡を貸し与えたのでしょう。そして劉備が地盤を持つことによって、両者が対等に近い立場になったのではないかと思います。
荊州は孫権が劉備に「貸した」という認識が両者ともにあったことは、蜀側の史書も記しています。
(W51S/au)
84 周ユウ
諏訪さんと寿君さんの話を聞くと、知識では及ばないのがわかります。みなさんの知識の由来も是非教えていただきたいと思ってます。
話は変って私が言いたいのは、軍事作戦上、ある勢力を攻めるにはまず後方の憂いを断たなければならないのが基本。関羽が魏を攻めるのは漢室復興を目指すなら仕方がない、故にその前に呉との関係をより強くしなければならない、しかし彼がやってるのは挑発以外の何物でもない。その点で見て、関羽は自分の力を確信しすぎるのと、劉備の義弟の立場にいるため、軍事司令官の職の範囲外のことを好き勝手やりすぎてると見ている。趙雲など任せていれば少なくとも呉を挑発する態度は取らなかったはず。
話は変って私が言いたいのは、軍事作戦上、ある勢力を攻めるにはまず後方の憂いを断たなければならないのが基本。関羽が魏を攻めるのは漢室復興を目指すなら仕方がない、故にその前に呉との関係をより強くしなければならない、しかし彼がやってるのは挑発以外の何物でもない。その点で見て、関羽は自分の力を確信しすぎるのと、劉備の義弟の立場にいるため、軍事司令官の職の範囲外のことを好き勝手やりすぎてると見ている。趙雲など任せていれば少なくとも呉を挑発する態度は取らなかったはず。
(SH902iS/FOMA)
85 寿君
こういうと少し変になるのですが(話も脱線するし)、呉書に書いてあるからそうだとは断定できないから、困る訳です。
呉書は韋昭の「呉書」を大きく参考にして編纂されてます。蜀書は蜀に史官が居なかったから、記述は魏・呉の記録におもねる所が大だろうと思います。
確かに陳寿撰三国志が最も三国時代に近い一級歴史資料であるのは違いありませんが、だからと言ってその見解が全てと言う訳ではないと私は思っているから、断定はできないし、様々な方が様々な論説を唱えてらっしゃるのも現状だと私は理解してます。
ただ、私も劉備の客将と言う身分に関しては賛同です。
しかし、荊州貸与は「蜀には詳細な記録がなく、呉には独自編纂の記録や史書があるから、後者の都合だけが罷り通ってしまった」可能性もあるから、一概に貸し借り云々は何とも言えません。
まあ、揚州と荊州が連立政権体だったのではないかと言う話は聞いた事はあります。これも一説に過ぎませんがね。
呉書は韋昭の「呉書」を大きく参考にして編纂されてます。蜀書は蜀に史官が居なかったから、記述は魏・呉の記録におもねる所が大だろうと思います。
確かに陳寿撰三国志が最も三国時代に近い一級歴史資料であるのは違いありませんが、だからと言ってその見解が全てと言う訳ではないと私は思っているから、断定はできないし、様々な方が様々な論説を唱えてらっしゃるのも現状だと私は理解してます。
ただ、私も劉備の客将と言う身分に関しては賛同です。
しかし、荊州貸与は「蜀には詳細な記録がなく、呉には独自編纂の記録や史書があるから、後者の都合だけが罷り通ってしまった」可能性もあるから、一概に貸し借り云々は何とも言えません。
まあ、揚州と荊州が連立政権体だったのではないかと言う話は聞いた事はあります。これも一説に過ぎませんがね。
(P905i/FOMA)
86 寿君
周ユウさん、はじめまして、突如参戦させていただきました。
実績や名声から考えて、一方面軍を任される将軍ともなると、関羽ぐらいしかいないのが事実で、徐州時代から劉備から別行動を任されていますので、実績はあるのです。
なるほど趙雲もやり遂げたかも知れませんが、当時の彼の名声は無名です。樊城の曹仁や陸口の魯粛、呂蒙に対抗するには軽いと思われます。
荊州失陥に関しては、諏訪さんの語っておられる感じもありうると思います。
また、樊城攻撃自体の初期の戦略目標が必ずしも「許攻撃」であったとは言い切れません。もしかしたら、襄陽を奪取して漢水流域を制圧するだけだったのが、洪水による思わぬ勝利により、関羽が欲を出した可能性はあります。
戦争は不測の事態から戦線が拡大する事があります。(日中戦争もそんな感じですし)
ですから、一概に関羽の荊州駐留が誤りとは言えない面もあると思われます。
推論も含まれております事を、ご両人には何卒ご容赦の上で、論議をお進めください。こういう見方もあると言うだけでございます。
長文拙文、御許しを…。
実績や名声から考えて、一方面軍を任される将軍ともなると、関羽ぐらいしかいないのが事実で、徐州時代から劉備から別行動を任されていますので、実績はあるのです。
なるほど趙雲もやり遂げたかも知れませんが、当時の彼の名声は無名です。樊城の曹仁や陸口の魯粛、呂蒙に対抗するには軽いと思われます。
荊州失陥に関しては、諏訪さんの語っておられる感じもありうると思います。
また、樊城攻撃自体の初期の戦略目標が必ずしも「許攻撃」であったとは言い切れません。もしかしたら、襄陽を奪取して漢水流域を制圧するだけだったのが、洪水による思わぬ勝利により、関羽が欲を出した可能性はあります。
戦争は不測の事態から戦線が拡大する事があります。(日中戦争もそんな感じですし)
ですから、一概に関羽の荊州駐留が誤りとは言えない面もあると思われます。
推論も含まれております事を、ご両人には何卒ご容赦の上で、論議をお進めください。こういう見方もあると言うだけでございます。
長文拙文、御許しを…。
(P905i/FOMA)
87 巫俊(ふしゅん)
関羽って荊州刺史じゃなかったですか?
実際の関係とは別にして官制的、もしくは劉表以来の荊州刺史の伝統(注:伝統はどんどん変わるものです。ここでの趣旨とは異なる立場からの注意ですが)からすると、関羽がある程度の近隣との外交を負うのは当然であるといえるし、彼は只の軍司令官などではないので、軍司令官に過ぎないから..という批判から出た議論は当たらないと思います。
刺史はこの時代、行政官であり州の府で扱う諸々の問題に対処する責任を負うはずです。
実際の関係とは別にして官制的、もしくは劉表以来の荊州刺史の伝統(注:伝統はどんどん変わるものです。ここでの趣旨とは異なる立場からの注意ですが)からすると、関羽がある程度の近隣との外交を負うのは当然であるといえるし、彼は只の軍司令官などではないので、軍司令官に過ぎないから..という批判から出た議論は当たらないと思います。
刺史はこの時代、行政官であり州の府で扱う諸々の問題に対処する責任を負うはずです。
(PC)
88 諏訪
>>87
当時は劉備が荊州牧であって、関羽は荊州刺史になっていないのでは?
関羽に外交権が全くなかったわけではないでしょうが、劉備と孫権との同盟に関わるような大きな問題については、やはり関羽が担う問題ではないと思いますが…
当時は劉備が荊州牧であって、関羽は荊州刺史になっていないのでは?
関羽に外交権が全くなかったわけではないでしょうが、劉備と孫権との同盟に関わるような大きな問題については、やはり関羽が担う問題ではないと思いますが…
(W51S/au)
89 赤龍
関羽伝によると、関羽は「董督荊州事」ですね。
一方先主伝を見ると、劉キ死後、劉備が荊州牧となり、益州を得た後は「復領益州牧」と荊州牧とともに、益州牧も兼ねたとされてます(復を衍字とする見方もあるが、盧弼の解釈による)
一方先主伝を見ると、劉キ死後、劉備が荊州牧となり、益州を得た後は「復領益州牧」と荊州牧とともに、益州牧も兼ねたとされてます(復を衍字とする見方もあるが、盧弼の解釈による)
(PC)
90 寿君
>>83
すいません、危うく見落とすところでした。
確か黄蓋が武陵太守になったのは、関羽攻略後であって、赤壁戦直後ではないし、蜀書先主伝では赤壁直後には劉備が湖南四郡を平定したとありますよね。
どうして、先に湖南四郡が孫権の領有に帰する訳ですか?。
当時孫権軍は合肥や江陵、夷陵で曹操軍にかかりっきりのはずですが…。
また、荊州分割時にも先に関羽と魯粛と言う現地の責任者が先に会談してますし、孫権との縁談に関しても当事者の関羽に「娘さんをうちの娘婿にくれ」と普通に頼みに行っただけの事でしょう?。
そこで関羽が感情的になって断ったから、関羽が外交を専断してるとは決めつけれない。
何故なら、孫権はこう言われたのなら、劉備に抗議するか「関羽がああ言ったのだが縁談がうまく行くように」と仲裁を申し込むのが筋。
劉備に話せずに関羽だけに婚姻を申し込んだのであれば、孫権は筋違いだし、調略と言う可能性すら出てくる。
もしそうならば関羽からすれば、「主公の許可も得ずに俺に言ってくるとは…」と孫権の底意を図りかねたかも知れないですよ。
以前にもこの話題出ましたが、あれだけで関羽の独断外交とは言えないと思うのですが…。大体言い出しっぺは孫権だし…。
どう思われますか?。
すいません、危うく見落とすところでした。
確か黄蓋が武陵太守になったのは、関羽攻略後であって、赤壁戦直後ではないし、蜀書先主伝では赤壁直後には劉備が湖南四郡を平定したとありますよね。
どうして、先に湖南四郡が孫権の領有に帰する訳ですか?。
当時孫権軍は合肥や江陵、夷陵で曹操軍にかかりっきりのはずですが…。
また、荊州分割時にも先に関羽と魯粛と言う現地の責任者が先に会談してますし、孫権との縁談に関しても当事者の関羽に「娘さんをうちの娘婿にくれ」と普通に頼みに行っただけの事でしょう?。
そこで関羽が感情的になって断ったから、関羽が外交を専断してるとは決めつけれない。
何故なら、孫権はこう言われたのなら、劉備に抗議するか「関羽がああ言ったのだが縁談がうまく行くように」と仲裁を申し込むのが筋。
劉備に話せずに関羽だけに婚姻を申し込んだのであれば、孫権は筋違いだし、調略と言う可能性すら出てくる。
もしそうならば関羽からすれば、「主公の許可も得ずに俺に言ってくるとは…」と孫権の底意を図りかねたかも知れないですよ。
以前にもこの話題出ましたが、あれだけで関羽の独断外交とは言えないと思うのですが…。大体言い出しっぺは孫権だし…。
どう思われますか?。
(P905i/FOMA)
91 寿君
>>90
諏訪さん、↑と言いましたが、なるほどそう受けとるのも確かにありうる事に、呉書をよーく読み直して気づきました。
黄蓋の武陵太守拝命があり、黄蓋の兵を息子でなく孫皎が受け継いだと言う記事を拝見しました。
孫皎の死は219年だから、少なくとも黄蓋はそれ以前に死んでる。ところが、荊州分割では(215年)は湘水を境に分割している訳だから、武陵は劉備のもの。
だが、赤壁戦後に武陵には曹操勢力の金旋がいて、劉備が南征しているし、劉巴伝にも劉備が南征したのは確実な様子が書かれている。
スレのテーマからは外れますが、この黄蓋の武陵太守就任の時期やその逸話に関して見解を頂きたいのですが…。お願いします。
黄蓋伝自体には孫皎が兵を受け継いだとはないし…。
諏訪さん、↑と言いましたが、なるほどそう受けとるのも確かにありうる事に、呉書をよーく読み直して気づきました。
黄蓋の武陵太守拝命があり、黄蓋の兵を息子でなく孫皎が受け継いだと言う記事を拝見しました。
孫皎の死は219年だから、少なくとも黄蓋はそれ以前に死んでる。ところが、荊州分割では(215年)は湘水を境に分割している訳だから、武陵は劉備のもの。
だが、赤壁戦後に武陵には曹操勢力の金旋がいて、劉備が南征しているし、劉巴伝にも劉備が南征したのは確実な様子が書かれている。
スレのテーマからは外れますが、この黄蓋の武陵太守就任の時期やその逸話に関して見解を頂きたいのですが…。お願いします。
黄蓋伝自体には孫皎が兵を受け継いだとはないし…。
(P905i/FOMA)
92 諏訪
黄蓋が武陵太守になった記述が、赤壁で功を立てたという記述のすぐ後にあったので、黄蓋が武陵太守になったのは赤壁直後であり、それならば、劉備が攻略した湖南四郡が一旦は孫権のものになったのだと思い込んでいたのですが…
その後に異民族の酋長たちが蜀に対する忠誠を改めて、従うようになったという記述がありますね。
ここでいう蜀は劉備政権のことだと思われますから(劉璋政権ということは考えにくいですし)、確かに黄蓋が武陵太守になった時期には疑問がありますね。
私もこの問題について考え直してみます。
その後に異民族の酋長たちが蜀に対する忠誠を改めて、従うようになったという記述がありますね。
ここでいう蜀は劉備政権のことだと思われますから(劉璋政権ということは考えにくいですし)、確かに黄蓋が武陵太守になった時期には疑問がありますね。
私もこの問題について考え直してみます。
(W51S/au)
93 寿君
諏訪さん>一応、黄蓋のスレをageておきました。
もし何かお話がありましたら、そちらでお願いします。
ちょい体調崩してるんで、レスが出来にくいかも知れませんが、その時はお許しを…m(__)m
>>>344です。
もし何かお話がありましたら、そちらでお願いします。
ちょい体調崩してるんで、レスが出来にくいかも知れませんが、その時はお許しを…m(__)m
>>>344です。
(P905i/FOMA)
95 陸遜…
初めての投稿です。
すごく地味かも知れませんが、
私は呉の孫登の死がなければ
後の孫権の暴走、二宮の変は
なかったと思います。
孫権の力が劣ってきたのは
孫登の死から始まったみたいですし
二宮の変に巻き込まれて
死んでしまった孫和派の
陸遜などたくさんの名将の
死や流罪もなく。
司馬氏の反乱に乗じて
魏を攻めていれば、
呉の天下がなかったことも
ないのではないでしょうか?
すごく地味かも知れませんが、
私は呉の孫登の死がなければ
後の孫権の暴走、二宮の変は
なかったと思います。
孫権の力が劣ってきたのは
孫登の死から始まったみたいですし
二宮の変に巻き込まれて
死んでしまった孫和派の
陸遜などたくさんの名将の
死や流罪もなく。
司馬氏の反乱に乗じて
魏を攻めていれば、
呉の天下がなかったことも
ないのではないでしょうか?
(W62SH/au)
96 朱家
>>95
はじめまして。
とりあえず、顧雍、カン択が生きてるうちは、記述を見る限り、特に問題となってないですからね。
孫登が生きていれば、太子府は関係ないから、太常、平尚書事となる顧譚、38、9才だと思うけど、羊ドウが「情け容赦ない」と評してる人だし、孫登は、忠と孝が真っ先に衝突する人だから、孫登が生きてるだけでは駄目だと思うんですよね。
孫登の遺言も、客観的に読むと、出帥の表と同じように「父上(皇帝)しっかりしてね」とも聞こえる(笑)
私見というか、感覚的だけど、顧譚の父あたり(とりあえず張温)の世代が…豪族連合の色彩が強い呉において、中枢で、ここの空洞化は致命的な感じがするんですよね。むしろ、呂壱問題あたりで、孫権が死んでたら、この空洞は問題ではないと思うけど、巨星が死ぬ事で、どんな化学反応があるか想像できない。
はじめまして。
とりあえず、顧雍、カン択が生きてるうちは、記述を見る限り、特に問題となってないですからね。
孫登が生きていれば、太子府は関係ないから、太常、平尚書事となる顧譚、38、9才だと思うけど、羊ドウが「情け容赦ない」と評してる人だし、孫登は、忠と孝が真っ先に衝突する人だから、孫登が生きてるだけでは駄目だと思うんですよね。
孫登の遺言も、客観的に読むと、出帥の表と同じように「父上(皇帝)しっかりしてね」とも聞こえる(笑)
私見というか、感覚的だけど、顧譚の父あたり(とりあえず張温)の世代が…豪族連合の色彩が強い呉において、中枢で、ここの空洞化は致命的な感じがするんですよね。むしろ、呂壱問題あたりで、孫権が死んでたら、この空洞は問題ではないと思うけど、巨星が死ぬ事で、どんな化学反応があるか想像できない。
(PC)
97 凡人
やっぱり
219年あたりの
関羽による荊州侵攻の時。
あの時の侵攻は
なかなか
うまくいってました。
あの時に呉が
魏につかず、
ショクについていれば
劉備も連動して、
雍州や涼州を
獲れていたはず。
少なくとも
曹操は河北に
追いやられていたはずです
219年あたりの
関羽による荊州侵攻の時。
あの時の侵攻は
なかなか
うまくいってました。
あの時に呉が
魏につかず、
ショクについていれば
劉備も連動して、
雍州や涼州を
獲れていたはず。
少なくとも
曹操は河北に
追いやられていたはずです
(N705i/FOMA)