7 赤龍
九品官人法の説明は、陳羣のスレだかで一度行った覚えがあります。
官品とは官職につけたランクと思って頂ければいいです。征東将軍(官職)は二品(官品)という感じで。最高が一品です。
官品とは官職につけたランクと思って頂ければいいです。征東将軍(官職)は二品(官品)という感じで。最高が一品です。
(J-SA05)
11 李克用
(P900i/FOMA)
13 黄漢升
ヤスシ殿が、言っていた、徳間書店・三国志全人名事典より抜粋
丞相・中央政府最高行政長官。秦に由来する。魏は司徒、さらに相国と改称。蜀、呉ともに置く。
相国・丞相と同じ
宰相・天子を補佐し、群官を統合する最高行政官を広くしめす。具体的には、丞相、相国、三公など。
とりあえず、意見がでてたやつを書きました!
丞相・中央政府最高行政長官。秦に由来する。魏は司徒、さらに相国と改称。蜀、呉ともに置く。
相国・丞相と同じ
宰相・天子を補佐し、群官を統合する最高行政官を広くしめす。具体的には、丞相、相国、三公など。
とりあえず、意見がでてたやつを書きました!
(N900i/FOMA)
14 大伴
最高位の三公などは良く耳にしますね。(資料によっては異なる記述もありますが)後漢では以下の様な職だった様です。()内はうろ覚えですので、信用しないで下さい。
太尉:軍事の責任者。曹操の父、曹嵩がその地位を金で買った事は良く知られる。
司徒:三国志では王允の役名として知られる政事の責任者(教育の責任者とする資料も)。
司空:法務を司る職(土木事業の責任者とする資料も)。三国志では、荀爽や丞相となる前の曹操の職としても知られる。
太尉:軍事の責任者。曹操の父、曹嵩がその地位を金で買った事は良く知られる。
司徒:三国志では王允の役名として知られる政事の責任者(教育の責任者とする資料も)。
司空:法務を司る職(土木事業の責任者とする資料も)。三国志では、荀爽や丞相となる前の曹操の職としても知られる。
(D505iS)
15 大伴
何進や袁紹がその地位にあった大将軍や、曹操の丞相、董卓の相国などは三公よりも上位の官職の様ですが、常設の職では無いので、先ずは三公がトップだと考えて良いと思います。
その下が九卿ですね。
その下が九卿ですね。
(D505iS)
17 李克用
たまには参加……
>>14
司徒と司空を教育と土木の責任者とするのは、おそらく周代の同名の官職からきています。
>>16
皇帝などは、役職ではないです。爵位ですかね(皇帝は違うと思うけど)。ゲームなどでは役職と同列に置かれますが、皇帝の下に政治を行なう者(役人。例えば宰相)が居るなら、王や公にも居ます(例としては魏公、呉王、漢中王)。
皇帝は中華全域の君主であり、王と公は一国の君主です。
そもそも、皇帝と王は漢の場合、皇族しかなれません(王は例外あり)。公は臣下がなれる最高の爵位で、普段は侯になったりしますね。
王や公は、皇帝から授かった土地(封地)を自治することが出来ます。
間違ってたらすいません。何分、あまり調べられなかったので(;^_^A
>>14
司徒と司空を教育と土木の責任者とするのは、おそらく周代の同名の官職からきています。
>>16
皇帝などは、役職ではないです。爵位ですかね(皇帝は違うと思うけど)。ゲームなどでは役職と同列に置かれますが、皇帝の下に政治を行なう者(役人。例えば宰相)が居るなら、王や公にも居ます(例としては魏公、呉王、漢中王)。
皇帝は中華全域の君主であり、王と公は一国の君主です。
そもそも、皇帝と王は漢の場合、皇族しかなれません(王は例外あり)。公は臣下がなれる最高の爵位で、普段は侯になったりしますね。
王や公は、皇帝から授かった土地(封地)を自治することが出来ます。
間違ってたらすいません。何分、あまり調べられなかったので(;^_^A
(P900i/FOMA)
18 赤龍
三公について補足。三公は形式上人臣のトップの官ですが、後漢〜三国には名誉職的な地位へと変化していました。後漢には外戚が大将軍となり頂点にたつのがよく見られます。また、尚書系の官が実際の政務を行うようになります。三公は名門の人、高名な名士、功臣等の名誉職と化して行きます。
(J-SA05)
19 赤龍
これを象徴する現象として、天人相関説により、災害が起ると政治の責任とされ、人臣の最高位である三公がしばしば罷免されています。しかし本当の最高権力者(外戚、董卓等)の地位は変化がありません。三公に次ぐ地位であった九卿もまた名誉職化されています。
(J-SA05)
22 赤龍
九卿とは、三公に次ぐ地位であり、三公が総理クラスとすれば、九卿は各省の大臣クラスにあたるでしょうか。この三公九卿が本来朝廷の中枢であり、政策の最高決定機関でしたが、皇帝直属の秘書官的地位であった尚書が実質的な政務機関となり、九卿も名誉職化していきます。
(J-SA05)
23 赤龍
九卿を以下に列挙。太常(儀礼担当)光禄勲(宿衛)衛尉(門衛)太僕(車馬)廷尉(刑獄)大鴻臚(賓礼)宗正(皇族)大司農(銭穀)少府(宮中)。尚書は本来少府の属官にすぎませんでした。ちなみに太宰府にあった外国の使節を扱う鴻臚館、外交を担当した大鴻臚に由来します。
(J-SA05)
24 黄漢升
またまた、職の説明いたします!とりあえず、三公からですが、この、三公は前漢と後漢で違うので、とりあえず三国志と言うことで、後漢の三公を書いときます
太尉・名目は武事を統括するものだが、実質は名誉職で、朝政には参与しない。
司空・最初は司工ともかかれていた。土木建築を司る。御史台のあつかう監察の業務とは関係はない。同じく名誉職。
司徒・教科、政治全般を司る。漢では大司徒ともいう。
こんな感じですかね?ソースは前と同じ、徳間書店、三国志人名事典です!時間があれば九卿アップしますね!
太尉・名目は武事を統括するものだが、実質は名誉職で、朝政には参与しない。
司空・最初は司工ともかかれていた。土木建築を司る。御史台のあつかう監察の業務とは関係はない。同じく名誉職。
司徒・教科、政治全般を司る。漢では大司徒ともいう。
こんな感じですかね?ソースは前と同じ、徳間書店、三国志人名事典です!時間があれば九卿アップしますね!
(N900i/FOMA)
25 大伴
私としては……県令や郡太守の話が聞きたいですね。
県や郡の軍隊は、どんな役職の人が纏めていたのでしょうか?官位が無い人々ですか?
又、夏候惇は曹操の司馬だった様ですが、州牧の下には司馬や参軍は普通に付きますか?
刺史の時代は、州の軍隊はどんな役職者が統括していたのでしょう?
県や郡の軍隊は、どんな役職の人が纏めていたのでしょうか?官位が無い人々ですか?
又、夏候惇は曹操の司馬だった様ですが、州牧の下には司馬や参軍は普通に付きますか?
刺史の時代は、州の軍隊はどんな役職者が統括していたのでしょう?
(D505iS)
27 赤龍
三公や州牧、刺使クラスなら、各年ごとに誰がついたかまとめたものが、中国の学者の著作にあったりします。補表といわれるもの。日本の『公卿補任』みたいなやつです。私も大学の書庫のを見てただけで、持ってませんが…。頑張ればつくれますよ。
(J-SA05)
29 くわぁまん
役職って調べると面白いですよね…。
例えば、かの有名な呂布…。
彼はヘイ州の刺史丁原の配下だった時の役職は主簿でした。主簿とは文書・帳簿・印鑑を司る文書作成係の事ですから…。
え!?あの呂布が?ってオドキの役職ですね…(汗)
例えば、かの有名な呂布…。
彼はヘイ州の刺史丁原の配下だった時の役職は主簿でした。主簿とは文書・帳簿・印鑑を司る文書作成係の事ですから…。
え!?あの呂布が?ってオドキの役職ですね…(汗)
(F901iC/FOMA)
30 李
【丞相】
天子を丞(たす)けて、万機を司る官。あるいは天子に代わり職責を負う者。職務は多岐に渡る。日本の官職にあてはめれば、丞相は太政大臣に総理大臣。左右丞相はそれぞれ左大臣・右大臣となる。
戦国時代に、楚を除く大半の国が置いた官である、相が元となっている。一般的には、宰相と言う方が分かりやすいかな。
漢の前身となる秦では、前328年に初めて相国を置き(張儀が就任)、前309年に左右丞相を置く(左丞相は甘茂、右丞相は樗里疾で、二人一緒に史記には列伝がある)。
秦は、二丞相制が続き(例外あり)、前漢初期に丞相は一人となる(二度、左右丞相に分かれている)。
前漢では、丞相(大司徒)は一人となり、大尉(大司馬)と御史大夫(大司空)と併せて三公とする。大尉は常設では無かったようであり、御史大夫は丞相の副官にあたるから、実質は丞相が最高位であった。
前漢の中期以降は皇帝に権力が集中し(特に武帝)、丞相の職務が減って権威が落ちる(代わりに皇帝の側近が力を持ってくる)。
晩期・末期は外戚や宦官の横行により、有名無実だった(この辺りは、きちんと調べられてないので、違うかも)。
新は飛ばし、後漢初期においては、丞相は名誉職(上公)となって消え、三公は大尉・司徒・司空の三つとなる。
後漢は皇帝の多くが早世したために、宦官が政治を握り、皇帝の秘書役である尚書が権力を握った。
後漢末に董卓が相国(丞相に特権が付いたもの)となり、曹操が三公を廃止し丞相となって復活する。
魏
司馬懿、司馬昭(相国)
蜀
諸葛亮
呉 孫邵、顧雍、陸遜、歩シツ、孫峻、孫リン、濮陽興、陸凱(左丞相)・万イク(右丞相)、張悌
訂正があれば、よろしくお願いしますm(__)m
天子を丞(たす)けて、万機を司る官。あるいは天子に代わり職責を負う者。職務は多岐に渡る。日本の官職にあてはめれば、丞相は太政大臣に総理大臣。左右丞相はそれぞれ左大臣・右大臣となる。
戦国時代に、楚を除く大半の国が置いた官である、相が元となっている。一般的には、宰相と言う方が分かりやすいかな。
漢の前身となる秦では、前328年に初めて相国を置き(張儀が就任)、前309年に左右丞相を置く(左丞相は甘茂、右丞相は樗里疾で、二人一緒に史記には列伝がある)。
秦は、二丞相制が続き(例外あり)、前漢初期に丞相は一人となる(二度、左右丞相に分かれている)。
前漢では、丞相(大司徒)は一人となり、大尉(大司馬)と御史大夫(大司空)と併せて三公とする。大尉は常設では無かったようであり、御史大夫は丞相の副官にあたるから、実質は丞相が最高位であった。
前漢の中期以降は皇帝に権力が集中し(特に武帝)、丞相の職務が減って権威が落ちる(代わりに皇帝の側近が力を持ってくる)。
晩期・末期は外戚や宦官の横行により、有名無実だった(この辺りは、きちんと調べられてないので、違うかも)。
新は飛ばし、後漢初期においては、丞相は名誉職(上公)となって消え、三公は大尉・司徒・司空の三つとなる。
後漢は皇帝の多くが早世したために、宦官が政治を握り、皇帝の秘書役である尚書が権力を握った。
後漢末に董卓が相国(丞相に特権が付いたもの)となり、曹操が三公を廃止し丞相となって復活する。
魏
司馬懿、司馬昭(相国)
蜀
諸葛亮
呉 孫邵、顧雍、陸遜、歩シツ、孫峻、孫リン、濮陽興、陸凱(左丞相)・万イク(右丞相)、張悌
訂正があれば、よろしくお願いしますm(__)m
(P900i/FOMA)
34 エイ
私も質問を。
物語の中で、『官職』と云う単語が出て来ますが、これって『官』と『職』と云う認識が正しいのでしょうか?
例えば、尚書『令』・尚書『郎』とかと云うと、官→尚書とかでいいのでしょうか?
物語の中で、『官職』と云う単語が出て来ますが、これって『官』と『職』と云う認識が正しいのでしょうか?
例えば、尚書『令』・尚書『郎』とかと云うと、官→尚書とかでいいのでしょうか?
(PC)
35 くわぁまん
官になるなら執金吾…
派手好き、見栄っ張り、目立ちたがり屋のアッシが最も憧れる官職でゃんす。丁原もそうだったなぁ…(爆)
官職云々よく解らないんですが、「郎」は若年の男子と言う意味。つまり尚書郎は初心者、満一年で郎中になり満三年で侍郎と言います。
更に、「令」は長と言う意味で、尚書令は尚書台の長官と言った重職です。
国政を左右する重要ポストらしいのですが話が難しいのてハショリます…(涙)
派手好き、見栄っ張り、目立ちたがり屋のアッシが最も憧れる官職でゃんす。丁原もそうだったなぁ…(爆)
官職云々よく解らないんですが、「郎」は若年の男子と言う意味。つまり尚書郎は初心者、満一年で郎中になり満三年で侍郎と言います。
更に、「令」は長と言う意味で、尚書令は尚書台の長官と言った重職です。
国政を左右する重要ポストらしいのですが話が難しいのてハショリます…(涙)
(F901iC/FOMA)
36 エイ
なるほど、郎→郎中→侍郎と出世魚のように成る訳ですな。
つまり『郎』は職でもなんでもないとの解釈で、宜しいでしょうか?
反対に『令』は、職ですよね。
あと、例に挙げた尚書だと『尚書僕射』と云うのがありますよね?
これはどう云うものなのでしょうか?
つまり『郎』は職でもなんでもないとの解釈で、宜しいでしょうか?
反対に『令』は、職ですよね。
あと、例に挙げた尚書だと『尚書僕射』と云うのがありますよね?
これはどう云うものなのでしょうか?
(PC)
37 李
尚書台は機密(主に文書)を扱い、皇帝に近いポストでもあります。尚書令は尚書台の長官で一名、尚書僕射は次官で二名、その下に吏部・度支・客曹・五兵・左民尚書の五名がいます。まだまだ居るようですが、重要なのはそのへんで。
朗は、新しく官に推挙されたものが付く官で、ここから上の役職に上がっていきます。
朗は、新しく官に推挙されたものが付く官で、ここから上の役職に上がっていきます。
(P900i/FOMA)
39 くわぁまん
「僕射」は「射を僕る」の意味が有ります。その部門部門の責任者の意で、例として謁者僕射(高官の任命等)などが有りますが、尚書僕射は尚書省の次官です。
所謂副長官で文書の開封や金銭穀物の受納、官吏の任免等が仕事です。
尚書は李サンが言った通りですが「吏部」以外はたんに尚書と呼ばれ他に左丞・右丞・郎中・諸曹典事・主書令史等が有ります。
二年生の郎中の名が有るからやはり尚書郎は見習いで役職では無いのかもね…(涙)
所謂副長官で文書の開封や金銭穀物の受納、官吏の任免等が仕事です。
尚書は李サンが言った通りですが「吏部」以外はたんに尚書と呼ばれ他に左丞・右丞・郎中・諸曹典事・主書令史等が有ります。
二年生の郎中の名が有るからやはり尚書郎は見習いで役職では無いのかもね…(涙)
(F901iC/FOMA)
40 李
後漢では、吏曹・客曹・三公曹・二千石曹・民曹尚書に僕射一人が尚書のメンバーとなっています。前漢や時代によっては、多少変わりますが。
尚書朗の下には、どうやら守尚書朗と言うのがあるようです。確認は取れていませんが。
>>33
官職スレに、妙に食い付いてきますね(・・)
マイナーなのは、くわぁまんさんの方が詳しそうなのですが? どうせなら、調べて書き込んでいただきたい。私は、誰もが知っている所からやりますから。
尚書朗の下には、どうやら守尚書朗と言うのがあるようです。確認は取れていませんが。
>>33
官職スレに、妙に食い付いてきますね(・・)
マイナーなのは、くわぁまんさんの方が詳しそうなのですが? どうせなら、調べて書き込んでいただきたい。私は、誰もが知っている所からやりますから。
(P900i/FOMA)
41 李
誰が何の官位・官職についていたのか募集したいと思うんですが、如何でしょうか? 書き込む人は少ないかなあ。
誰が何の地位についていたのかや、官職情報をデータにすれば面白いと思うんだけども。
誰が何の地位についていたのかや、官職情報をデータにすれば面白いと思うんだけども。
(P900i/FOMA)
42 赤龍
まとめあげれば、資料として非常に役に立つと思いますね。
調べて、まとめるまでが大変ですが。
ちなみに、以前にも書きましたが、このように、どの役職に誰が何時ついていたかを表にした「補表」というものが、中国では色々と作られています。
調べて、まとめるまでが大変ですが。
ちなみに、以前にも書きましたが、このように、どの役職に誰が何時ついていたかを表にした「補表」というものが、中国では色々と作られています。
(PC)
43 くわぁまん
官職はちょっと解りずらい所が有りますね…。
後漢、魏、呉、蜀、晋で若干変わってるのも有るし…。
アッシと李サンと先日語っていた都督なんですが、よく解らんとです…。(汗)
部督と都督って一緒なのか、違うのか…(涙)
後漢、魏、呉、蜀、晋で若干変わってるのも有るし…。
アッシと李サンと先日語っていた都督なんですが、よく解らんとです…。(汗)
部督と都督って一緒なのか、違うのか…(涙)
(F901iC/FOMA)
44 李
くわぁまんさんと、都督の話をした覚えは無いっすがね。
都督は、大都督とか水軍都督とかも呼ばれる(?)みたいです。非常設で、最高の軍事権を有し、担当地域内なら誰よりも権限が上になります(君主はともかくとして)。
有名な都督は、呉の中枢を担った周瑜や涼州で都督を称した馬超かな(違ってたらスマソ)。
部督は知らないので、また調べときます。
都督は、大都督とか水軍都督とかも呼ばれる(?)みたいです。非常設で、最高の軍事権を有し、担当地域内なら誰よりも権限が上になります(君主はともかくとして)。
有名な都督は、呉の中枢を担った周瑜や涼州で都督を称した馬超かな(違ってたらスマソ)。
部督は知らないので、また調べときます。
(P900i/FOMA)
45 くわぁまん
惜しい…、ちょっと違うね…(汗)
都督はメジャー職ですよ…。陸遜は最終的には大都督になってます。
天子から黄エツを与えられ将軍衆を統率出来る職です。魏と呉にしか無い官職と思われ蜀は中都護が統率しました。
また、赤壁の戦時に左右の部督に周瑜、程普が任命されています。
ここが解らんのですよ…。(滝汗)
都督はメジャー職ですよ…。陸遜は最終的には大都督になってます。
天子から黄エツを与えられ将軍衆を統率出来る職です。魏と呉にしか無い官職と思われ蜀は中都護が統率しました。
また、赤壁の戦時に左右の部督に周瑜、程普が任命されています。
ここが解らんのですよ…。(滝汗)
(F901iC/FOMA)
46 赤龍
>>45でくわぁまんさんが説明されてる都督は、主に「大都督」についてであり、都督自体は蜀にも存在してますよ。南中諸郡の軍権を持つライ降都督が有名ですね。
>>44「都督は、大都督とか水軍都督とかも呼ばれる」わけではなく、都督の種類の中に大都督とか○○都督なんてのがあるわけです。乱世ならではの非常設の必要に応じて設置される軍事職。確かにわかりずらいですね。
>>44「都督は、大都督とか水軍都督とかも呼ばれる」わけではなく、都督の種類の中に大都督とか○○都督なんてのがあるわけです。乱世ならではの非常設の必要に応じて設置される軍事職。確かにわかりずらいですね。
(PC)
47 李
将軍職は、ごく一部以外は非常設なのですよ。状況に応じて設けられるわけでして、例え常設であった官でも無くなるときがあります。
魏では、行都督督軍と言うのが都督にあたるのでしょうか?
魏では、行都督督軍と言うのが都督にあたるのでしょうか?
(P900i/FOMA)
48 くわぁまん
ふと思ったこと…。
劉備がまだ県尉だった頃督郵をシバいて半殺しの目にあわせたのは有名な話し…。
で、思ったのが三国分裂時やはり督郵は居たはずですが、記録は残ってるのですかね?
劉備がまだ県尉だった頃督郵をシバいて半殺しの目にあわせたのは有名な話し…。
で、思ったのが三国分裂時やはり督郵は居たはずですが、記録は残ってるのですかね?
(F901iC/FOMA)
49 ストラップ
長史って一体何ですか?軍人?
現代でいうところの主計長みたいなものかと考えているのですが。
どんな役職者の下に付くのかも教えて戴ければ幸いです。
品位とかも一定でしょうか?それとも上役によって変わりますか?
現代でいうところの主計長みたいなものかと考えているのですが。
どんな役職者の下に付くのかも教えて戴ければ幸いです。
品位とかも一定でしょうか?それとも上役によって変わりますか?
(F2102V/FOMA)
50 ストラップ
私物化する様で申し訳ないが、後漢書の注から引用したメモ。候の字に注意。
大将軍の営は五部。部ごとに校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部の下に曲あり。曲に軍候一人有って比六百石。
大将軍の営は五部。部ごとに校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部の下に曲あり。曲に軍候一人有って比六百石。
(F2102V/FOMA)
54 孫(みらう)
得意分野ぽいからあげ
長吏ってのは幕僚長みたいなもので上役によりけりな力あるはず
軍にもさまざまあって、中央軍や地方軍、私兵、民兵(義勇軍)、奴隷兵(降伏軍)などどの他にもあるだろうから、複雑な命令系統一本化するために都督が存在していたとかね
行は代行の意味で下っぱが上役を代行するのと 上役が下を兼務するで呼び方は複数あるはず
署、視とか
最後に守がついたら、その官職についてまもない新人さんみたいな意味もあったはず
調べながらではないため穴あり(汗
長吏ってのは幕僚長みたいなもので上役によりけりな力あるはず
軍にもさまざまあって、中央軍や地方軍、私兵、民兵(義勇軍)、奴隷兵(降伏軍)などどの他にもあるだろうから、複雑な命令系統一本化するために都督が存在していたとかね
行は代行の意味で下っぱが上役を代行するのと 上役が下を兼務するで呼び方は複数あるはず
署、視とか
最後に守がついたら、その官職についてまもない新人さんみたいな意味もあったはず
調べながらではないため穴あり(汗
(P700i/FOMA)
55 孫(みらう)
軍侯ですか
五部は中郎将が左右とかの種類で五ですかね
光禄勲の下に五官中郎将とかもあったし、似たようなものかな?
将軍を助ける意で中郎将なら
中郎将を補佐する校尉がその下なのは自然ですね
また司馬も
んで 門侯や軍侯ですか
門将ならよくあるんですが、将軍が爵位を帯て後に記される際に門侯になったとか
今夜調べてみます
五部は中郎将が左右とかの種類で五ですかね
光禄勲の下に五官中郎将とかもあったし、似たようなものかな?
将軍を助ける意で中郎将なら
中郎将を補佐する校尉がその下なのは自然ですね
また司馬も
んで 門侯や軍侯ですか
門将ならよくあるんですが、将軍が爵位を帯て後に記される際に門侯になったとか
今夜調べてみます
(P700i/FOMA)
56 孫(みらう)
軍侯も門侯もわかりました〜
そもそも
大将軍所部>部長が校尉、おつきに司馬>曲長が軍侯>屯長が屯長
屯営を別としたなら別部司馬をおく
部の校尉や司馬は均等に設置する
諸将の軍には長吏を一人設置する
掾として29名設置する
令史・属官としおて42名設置する
その他必要に応じて門の数だけ門侯を設置する、功曹を設置する・・・
などです
よって軍侯は上級下士官
門侯はは上級兵卒程度もものと思われます!
で、いいかな?
そもそも
大将軍所部>部長が校尉、おつきに司馬>曲長が軍侯>屯長が屯長
屯営を別としたなら別部司馬をおく
部の校尉や司馬は均等に設置する
諸将の軍には長吏を一人設置する
掾として29名設置する
令史・属官としおて42名設置する
その他必要に応じて門の数だけ門侯を設置する、功曹を設置する・・・
などです
よって軍侯は上級下士官
門侯はは上級兵卒程度もものと思われます!
で、いいかな?
(PC)
58 赤龍
軍候について補足説明。
>>50>>56での軍候の説明は『後漢書』百官志の大将軍についての説明の部分からのものですよね。しかし呂布はこの時大将軍ではない。なので、当然この説明をそっくりそのまま適用することができません。
さて百官志のその直後の文を見ますと「其餘将軍」つまり大将軍以外のその他諸々の将軍にも「部曲が有り、司馬・軍候をもって兵を領する」と書かれ、その他の将軍の下にも司馬・軍候などがそれぞれ部隊長クラスとして置かれていたことがわかります。
一方の「門候」
これも>>56にあるよう大将軍の下に存在していたことがわかります。また百官志には、城門校尉の箇所にも洛陽の各城門にそれぞれ門候を一人づつ置いたと書かれています。つまり、規模の差はあれ門の守備の責任者を広く門候と呼んだのではないでしょうか。
問題の呂布が戟を射る場面。呂布は将軍であるから軍候がいても問題無し。戟を立てたのは陣営の営門なので、その場に門候が置かれていてもまた問題なし。なので、どちらが正しいかはこれだけでははっきりさせられません。
>>50>>56での軍候の説明は『後漢書』百官志の大将軍についての説明の部分からのものですよね。しかし呂布はこの時大将軍ではない。なので、当然この説明をそっくりそのまま適用することができません。
さて百官志のその直後の文を見ますと「其餘将軍」つまり大将軍以外のその他諸々の将軍にも「部曲が有り、司馬・軍候をもって兵を領する」と書かれ、その他の将軍の下にも司馬・軍候などがそれぞれ部隊長クラスとして置かれていたことがわかります。
一方の「門候」
これも>>56にあるよう大将軍の下に存在していたことがわかります。また百官志には、城門校尉の箇所にも洛陽の各城門にそれぞれ門候を一人づつ置いたと書かれています。つまり、規模の差はあれ門の守備の責任者を広く門候と呼んだのではないでしょうか。
問題の呂布が戟を射る場面。呂布は将軍であるから軍候がいても問題無し。戟を立てたのは陣営の営門なので、その場に門候が置かれていてもまた問題なし。なので、どちらが正しいかはこれだけでははっきりさせられません。
(PC)
59 孫(みらう)
百官の順で太尉、司徒、司空、<将軍>と続いていて大将軍と続いては居ないのですよ
将軍の説明です
なので大将軍・所部ではなく大将・軍所部での区切りで読めば問題ないでしょう
将軍についての説明の3563 段に将軍とは比公者四:第一大將軍,次驃騎將軍・・・ついくので大将軍としての説明欄じゃ そちらが矛盾する段出てくるので・・・という説明ではどうでしょうか?
将軍の説明です
なので大将軍・所部ではなく大将・軍所部での区切りで読めば問題ないでしょう
将軍についての説明の3563 段に将軍とは比公者四:第一大將軍,次驃騎將軍・・・ついくので大将軍としての説明欄じゃ そちらが矛盾する段出てくるので・・・という説明ではどうでしょうか?
(PC)
60 赤龍
>>59
該当箇所を順に見ていきましょう。
まず「其の領する軍皆部曲有り」将軍の指揮する軍には部曲があった。これは将軍総合のことですね。
次「大将軍営五部、〜」大将軍の軍営には五部があり云々と、大将軍の軍営個別の説明に入ります。その説明が門候まで終わると、
次「其餘将軍、置以征伐、〜」とその他の将軍についての説明に移ります。こういう構造の文なので、>>56で引用されてる説明が大将軍についてなのは明白だと思います。
「大将軍営」を「大将の軍営」と読むのは誤りでしょう。突然「大将」なんて言葉がでてくるのも不自然ですから。
将軍の箇所だから大将軍の説明では無いというのは大きな間違いで、将軍の中でも特に重要な大将軍の説明をこの中でおこなっているのです。
該当箇所を順に見ていきましょう。
まず「其の領する軍皆部曲有り」将軍の指揮する軍には部曲があった。これは将軍総合のことですね。
次「大将軍営五部、〜」大将軍の軍営には五部があり云々と、大将軍の軍営個別の説明に入ります。その説明が門候まで終わると、
次「其餘将軍、置以征伐、〜」とその他の将軍についての説明に移ります。こういう構造の文なので、>>56で引用されてる説明が大将軍についてなのは明白だと思います。
「大将軍営」を「大将の軍営」と読むのは誤りでしょう。突然「大将」なんて言葉がでてくるのも不自然ですから。
将軍の箇所だから大将軍の説明では無いというのは大きな間違いで、将軍の中でも特に重要な大将軍の説明をこの中でおこなっているのです。
(PC)
62 ストラップ
>>>400-78で触れられてる石井氏の「都督考」の論旨(の一つ)ですが、これは後漢時代の都督を
「憲兵的な役割のもので、士卒を処罰出来るものである。将軍や校尉が兼任する事もあった」
としていますよね。
蜀書トウ張宗楊伝第十五にある
「楊戯は二十余歳で州の書佐から督軍従事となり(軍内の)裁判を司った」
の記述などから、当時の軍隊に軍法を司る専門の役があった事を示していますが……これは裏を返せば、都督を兼任していない将軍や校尉は、部下を直接裁く権限が無かったという意味でもあります。
僕はここに懐疑的なんですよね。
本当に当時、こんな近代的と思えるシステムが構築されていたのでしょうか?
「憲兵的な役割のもので、士卒を処罰出来るものである。将軍や校尉が兼任する事もあった」
としていますよね。
蜀書トウ張宗楊伝第十五にある
「楊戯は二十余歳で州の書佐から督軍従事となり(軍内の)裁判を司った」
の記述などから、当時の軍隊に軍法を司る専門の役があった事を示していますが……これは裏を返せば、都督を兼任していない将軍や校尉は、部下を直接裁く権限が無かったという意味でもあります。
僕はここに懐疑的なんですよね。
本当に当時、こんな近代的と思えるシステムが構築されていたのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
64 ストラップ
石井氏の「都督考」では、何故将軍や中郎将、校尉が都督を兼任しているのか、という疑問から始まり、都督は軍号では無く、軍法に違反したものを裁く役目、裁ける役職であると結論つけています。
「兼任しているから裁ける」はつまり、「兼任していなければ上官であっても部下を裁けない」という意味で間違いないでしょう。
そもそも、将軍や中郎将、校尉が都督を兼任しなくても勝手な裁量で断罪できるという事を認めるならば、将軍や中郎将、校尉等は都督を兼任する必要は無く、この論は本末を転倒させてしまいます。
「兼任しているから裁ける」はつまり、「兼任していなければ上官であっても部下を裁けない」という意味で間違いないでしょう。
そもそも、将軍や中郎将、校尉が都督を兼任しなくても勝手な裁量で断罪できるという事を認めるならば、将軍や中郎将、校尉等は都督を兼任する必要は無く、この論は本末を転倒させてしまいます。
(F2102V/FOMA)
66 諏訪
石井氏の「都督考」は読んだことがないのですが、士卒を処罰する権限としては「節」があるのではないですか?
後漢時代ではありませんが、夷陵の戦いにおける呉軍について見てみます。
陸遜 鎮西将軍・大都督・仮節
韓当 偏将軍
徐盛 建武将軍
潘璋 振威将軍
朱然 昭武将軍
鎮西将軍の陸遜は雑号将軍の他将より将軍号においては格上ですが、それだけでは各将を指揮したり処罰したりできず、大都督となることによって各将を指揮する権限を得、仮節となることによって軍令に従わない者を処罰できるようになる、ということではないでしょうか。
時代や国によって違いはあるでしょうが、ごく大雑把にいって、都督とは指揮官というような意味ではないかと思います。
ひとくちに指揮官といっても、夷陵の戦いにおける陸遜のように全軍を束ねる指揮官から、陽人の戦いにおける華雄のように小部隊の指揮官まで、大小さまざまあるでしょうが。
後漢時代ではありませんが、夷陵の戦いにおける呉軍について見てみます。
陸遜 鎮西将軍・大都督・仮節
韓当 偏将軍
徐盛 建武将軍
潘璋 振威将軍
朱然 昭武将軍
鎮西将軍の陸遜は雑号将軍の他将より将軍号においては格上ですが、それだけでは各将を指揮したり処罰したりできず、大都督となることによって各将を指揮する権限を得、仮節となることによって軍令に従わない者を処罰できるようになる、ということではないでしょうか。
時代や国によって違いはあるでしょうが、ごく大雑把にいって、都督とは指揮官というような意味ではないかと思います。
ひとくちに指揮官といっても、夷陵の戦いにおける陸遜のように全軍を束ねる指揮官から、陽人の戦いにおける華雄のように小部隊の指揮官まで、大小さまざまあるでしょうが。
(W51S/au)
67 赤龍
私も「都督考」読んでないので、その評価の話は詳しい人にお任せしますが、ストラップさんが注目している「将軍職と部下に対する処罰権の分離」については、すでに大庭脩先生も指摘されています。以下『親魏倭王』より要約
将軍職は、本来非常時に任命される、かなりの強権を持った特別な存在であり、部下の処断権も有していたようです。
孫武が呉王の寵姫を斬り「将、軍にありては君命も受けざるところあり」の逸話は有名ですね。
しかし、後漢末の将軍号の乱発等により、将軍の地位の性格が変化。特別な権限を示す職であったはずが、軍人の階級を示すランク、さらには官僚の階級を示すランクに過ぎなくなってしまいます。
孫乾とか麋竺とか、前線で戦うわけでもないのに、将軍である例がたくさんありますよね。
将軍職は、本来非常時に任命される、かなりの強権を持った特別な存在であり、部下の処断権も有していたようです。
孫武が呉王の寵姫を斬り「将、軍にありては君命も受けざるところあり」の逸話は有名ですね。
しかし、後漢末の将軍号の乱発等により、将軍の地位の性格が変化。特別な権限を示す職であったはずが、軍人の階級を示すランク、さらには官僚の階級を示すランクに過ぎなくなってしまいます。
孫乾とか麋竺とか、前線で戦うわけでもないのに、将軍である例がたくさんありますよね。
(PC)
68 赤龍
つづき
そういうわけで、将軍号の乱立によるインフレで、将軍の中でも、権限の有無を付与する必要が生じてきたと。
その将軍に付与する権限が「都督」であり、>>66で諏訪さんが説明されてる「節」です
大庭氏は「どの範囲の地域の軍隊を指揮下におけるか」を「都督諸軍事」、「どの程度の専決権を皇帝から認められているか」を「節」と説明されてます。
ちゃんと意味が伝わる要約になってるか心配ですが……
そういうわけで、将軍号の乱立によるインフレで、将軍の中でも、権限の有無を付与する必要が生じてきたと。
その将軍に付与する権限が「都督」であり、>>66で諏訪さんが説明されてる「節」です
大庭氏は「どの範囲の地域の軍隊を指揮下におけるか」を「都督諸軍事」、「どの程度の専決権を皇帝から認められているか」を「節」と説明されてます。
ちゃんと意味が伝わる要約になってるか心配ですが……
(PC)
69 諏訪
「呂範伝」には、孫策の時代に呂範が都督になったことが記されていますが、注の『江表伝』にその詳しいいきさつが載っています。
それによると、呂範が「綱紀になお整わざるところがあるので、自分を都督にしてほしい」というと、孫策は「あなたほどの地位の人がそのような小職に就くことはない」といったものの、結局呂範を都督にし、その結果、軍中は引き締まり、威と禁が大いに行われるようになった、とのことです。
ここでの「都督」は、軍中を引き締める役割ながら、「小職」とされています。
これは>>62で述べられている「憲兵的な役割」なのかもしれません。
それによると、呂範が「綱紀になお整わざるところがあるので、自分を都督にしてほしい」というと、孫策は「あなたほどの地位の人がそのような小職に就くことはない」といったものの、結局呂範を都督にし、その結果、軍中は引き締まり、威と禁が大いに行われるようになった、とのことです。
ここでの「都督」は、軍中を引き締める役割ながら、「小職」とされています。
これは>>62で述べられている「憲兵的な役割」なのかもしれません。
(W51S/au)
70 ストラップ
石井論文には冒頭、
「四征将軍と州郡都督は常に兼任の形で任命されている(中略)なぜ将軍と都督という、ともに軍事に関係する官号の兼任が必要とされたのか、という疑問が残る」
と書かれているのですが、慥かに気に成りますよね。
高順などは、中朗将で都督なんですかね?
「四征将軍と州郡都督は常に兼任の形で任命されている(中略)なぜ将軍と都督という、ともに軍事に関係する官号の兼任が必要とされたのか、という疑問が残る」
と書かれているのですが、慥かに気に成りますよね。
高順などは、中朗将で都督なんですかね?
(PC)
72 魏延
漢代では太尉のことを一時期(前漢の武帝期?)大司馬としていたそうです。そして、太尉とはいわずとしれた三公の一つであり、常設される官位の中では最高位です。
それに対して漢代には非常設だった相国はジョウ相と同じであり、位は三公よりも上とされています。
情報源:新字源、後漢書百官志(後漢書の方は漢文でみたのでミスってるかも知れないです)
それに対して漢代には非常設だった相国はジョウ相と同じであり、位は三公よりも上とされています。
情報源:新字源、後漢書百官志(後漢書の方は漢文でみたのでミスってるかも知れないです)
(812SH/SB)
74 魏延
徳間の三国志全人名事典によりますと
大将軍:軍事・内政を統括し、三公の上に立つ最高官。
ジョウ相:中央政府の最高行政長官。
となっています。字面から判断するに両方非常設ながら大将軍の方が上位かなと思います。
間違っていましたらすいません。
大将軍:軍事・内政を統括し、三公の上に立つ最高官。
ジョウ相:中央政府の最高行政長官。
となっています。字面から判断するに両方非常設ながら大将軍の方が上位かなと思います。
間違っていましたらすいません。
(812SH/SB)
75 諏訪
前漢時代は丞相が常設、太尉や大司馬の方が非常設です。
また、周勃や周亜夫が太尉から丞相に昇進していますから、丞相の方が太尉より上です。
景帝の時代までは非常設ながらも太尉は存在していましたが、武帝の即位後まもなく廃されます。
後に大司馬の官を新たに設け、匈奴討伐で功績をあげた衛青と霍去病を任命します。
その後、武帝に後事を託された霍光が大司馬・大将軍に任命されて以降は、大司馬が実質的に丞相よりも上位の最高権力者となります。
ですから前漢後期以降は、大司馬の方が丞相より上です。
前漢末に丞相を大司徒、御史大夫を大司空に名称を改め、大司馬・大司徒・大司空が三公として確立されると、後漢の光武帝もこれを踏襲します。
ただし大司馬を太尉と改め、大司徒と大司空は大の字を除いて、太尉・司徒・司空を三公と呼ぶようになります。
ところが後漢末になって状況はややこしくなります。
董卓が権力を握ると、三公の上位に大司馬・相国を設け、劉虞を大司馬に、自身は相国になります。
本来、太尉=大司馬、司徒=丞相(相国)であったはずですが、三公とは別に大司馬・丞相を設け、三公より上位に置いたのです。
これ以後、丞相(相国)・大司馬は三公より上の非常設の官となりました。
また、周勃や周亜夫が太尉から丞相に昇進していますから、丞相の方が太尉より上です。
景帝の時代までは非常設ながらも太尉は存在していましたが、武帝の即位後まもなく廃されます。
後に大司馬の官を新たに設け、匈奴討伐で功績をあげた衛青と霍去病を任命します。
その後、武帝に後事を託された霍光が大司馬・大将軍に任命されて以降は、大司馬が実質的に丞相よりも上位の最高権力者となります。
ですから前漢後期以降は、大司馬の方が丞相より上です。
前漢末に丞相を大司徒、御史大夫を大司空に名称を改め、大司馬・大司徒・大司空が三公として確立されると、後漢の光武帝もこれを踏襲します。
ただし大司馬を太尉と改め、大司徒と大司空は大の字を除いて、太尉・司徒・司空を三公と呼ぶようになります。
ところが後漢末になって状況はややこしくなります。
董卓が権力を握ると、三公の上位に大司馬・相国を設け、劉虞を大司馬に、自身は相国になります。
本来、太尉=大司馬、司徒=丞相(相国)であったはずですが、三公とは別に大司馬・丞相を設け、三公より上位に置いたのです。
これ以後、丞相(相国)・大司馬は三公より上の非常設の官となりました。
(W51S/au)
76 諏訪
丞相と相国についてちょっと補足しておくと、高祖から恵帝にかけての一時期、丞相は相国と名称を変更されていました。
蕭何や曹参といった建国の功臣が就任していたことから、相国の方が上のような印象がありますが、基本的には丞相=相国と考えていいでしょう。
蕭何や曹参といった建国の功臣が就任していたことから、相国の方が上のような印象がありますが、基本的には丞相=相国と考えていいでしょう。
(W51S/au)
77 諏訪
ここで三国時代の丞相(相国)・大司馬・大将軍について見ていきます。
まず大司馬と大将軍ですが、魏では曹真、蜀では蒋エン、呉では丁奉がそれぞれ大将軍から大司馬に昇進していますから、三国とも大司馬>大将軍です。
次に丞相(相国)と大司馬ですが、まず魏では、大司馬は231年の曹真死後就任者がおらず、一方相国は末期に司馬昭・司馬炎が就任したのみで、併置されていないので比較は困難ですが、司馬昭・司馬炎が就任した相国の方が上の印象があります。
蜀では丞相は諸葛亮のみ、大司馬は蒋エンのみで、こちらも併置されていませんから比較しずらいですが、やはり諸葛亮が就任した丞相の方が上のような印象ですね。
最後に呉ですが、三国の中で呉だけ丞相と大司馬が併置されていますから、比較は容易です。
246年に歩隲を丞相、朱然を左大司馬、全ソウを右大司馬に任命していますが、「呉主伝」のここの記述は丞相・左大司馬・右大司馬の順です。
またそれ以前の地位は、歩隲が驃騎将軍、朱然が車騎将軍、全ソウが衛将軍ですから、三者が順繰りに昇進したと考えれば、やはり丞相>大司馬です。
以上から、丞相(相国)>大司馬>大将軍と考えていいのではないかと思います。
まず大司馬と大将軍ですが、魏では曹真、蜀では蒋エン、呉では丁奉がそれぞれ大将軍から大司馬に昇進していますから、三国とも大司馬>大将軍です。
次に丞相(相国)と大司馬ですが、まず魏では、大司馬は231年の曹真死後就任者がおらず、一方相国は末期に司馬昭・司馬炎が就任したのみで、併置されていないので比較は困難ですが、司馬昭・司馬炎が就任した相国の方が上の印象があります。
蜀では丞相は諸葛亮のみ、大司馬は蒋エンのみで、こちらも併置されていませんから比較しずらいですが、やはり諸葛亮が就任した丞相の方が上のような印象ですね。
最後に呉ですが、三国の中で呉だけ丞相と大司馬が併置されていますから、比較は容易です。
246年に歩隲を丞相、朱然を左大司馬、全ソウを右大司馬に任命していますが、「呉主伝」のここの記述は丞相・左大司馬・右大司馬の順です。
またそれ以前の地位は、歩隲が驃騎将軍、朱然が車騎将軍、全ソウが衛将軍ですから、三者が順繰りに昇進したと考えれば、やはり丞相>大司馬です。
以上から、丞相(相国)>大司馬>大将軍と考えていいのではないかと思います。
(W51S/au)
79 魏延
諏訪さんの詳細・正確な説明に対して、自分の浅はかな書き込みが恥ずかしい・・・。
バンビさん、誤った情報を伝えてしまい、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
諏訪さん、勉強になりました。これからはもっと慎重に、しっかり調べた上で書き込みます。
バンビさん、誤った情報を伝えてしまい、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございませんでした。
諏訪さん、勉強になりました。これからはもっと慎重に、しっかり調べた上で書き込みます。
(812SH/SB)
80 朱家
劉備は、大司馬、漢中王と称してますし、併置されてる呉でも、分置されてたり、丞相不在だったり、呂岱が大司馬でも、孫峻は丞相大将軍で、大将軍を付与しなければ、権力者として足りないとも考えられます。司馬昭も相国大将軍です。
正式な任命前に死んでるものの、呂範が大司馬で、完全なる併置もあります。すでに死んでる士ショウを衛将軍としてるものの、実質的には前将軍の呂範が最上位で(後の張昭の輔呉将軍がかなりの高位なので、この時、陸遜の輔国将軍も高位かもしれない)、そこから大司馬となります。名誉的な匂いがするし、それならば、丞相より下という事はないと思われます。
三国とも、権力者の都合はともかくとして、国家制度、官職的に丞相と大司馬は、どちらが偉いという明確な差はないと考えますね。だからといって、根拠があるわけではなく、大司馬が下というのに違和感があり、私見でしかないですが…
正式な任命前に死んでるものの、呂範が大司馬で、完全なる併置もあります。すでに死んでる士ショウを衛将軍としてるものの、実質的には前将軍の呂範が最上位で(後の張昭の輔呉将軍がかなりの高位なので、この時、陸遜の輔国将軍も高位かもしれない)、そこから大司馬となります。名誉的な匂いがするし、それならば、丞相より下という事はないと思われます。
三国とも、権力者の都合はともかくとして、国家制度、官職的に丞相と大司馬は、どちらが偉いという明確な差はないと考えますね。だからといって、根拠があるわけではなく、大司馬が下というのに違和感があり、私見でしかないですが…
(PC)