1 しす

邪馬臺國(邪馬壹國?)

先日チャットでも話題にでました邪馬台国について語るスレです。
邪馬台国はどこなのか?
卑弥呼とは何者なのか?
思う存分語りましょう。
(PC)
2 たろう
曹叡の時代だかに一度使者がきましたよね?何が目的だったんですか?印授(?)をもらったらしいですが、
(W21SA/au)
3 天草
私が気になるのは、最初に邪馬台国の使者が辿り着いたとするなら、その航海技術や、会話などの文明です。
最初に訪問したのは、魏ではなく邪馬台国でOK?
(PC)
4 ひろ
私は弥馬台国九州説を使ってます。最初に四だ本が九州説だったからですが(^_^!)当時の日本には既に中国、朝鮮半島からの渡来人が多く入ってきてました。弥生時代の稲作の普及を見れば分かるかと思います。この点から考えると、航海技術を持った渡来人の集団が形成した国=邪馬台国で問題ないかと。また、言葉の問題も渡来人説をとれば説明はつくと思います。さらに親魏倭王の金印の話ですが、魏に臣従する意味を理解してたのは、やはり渡来人だから知っていたとみるべきでしょう。余談ですが邪馬台国の場所は諸説あり、台湾、フィリピンはおろか、遠くアフリカのエチオピア説まであります。
(P2102V/FOMA)
5 赤龍
日本と中国との外交自体は、前漢の頃から既に行われています。光武帝から送られた金印は有名ですね。当時は南西諸島周辺で採れる貝の装身具が日本各地、東北地方にまで見られるように、人々の移動はかなり活発なものでした。海は人々を隔てるものでなく、結び付けるものと。
(J-SA05)
6 赤龍
私も九州説を支持してます。エチオピア説は初耳(笑)詳しく聞きたいです。
(J-SA05)
7 しす
>たろうさん
私も詳しくはないので推測の域を出ませんが文化や技術的な交流を望んでいたとは考えられないでしょうか?
当時の日本は中国に比べ文化技術共に遅れをとっていましたから。
それと敵対していた狗奴国に対抗するために魏に臣従することで、背後に大国魏の存在を示そうとしたのではないでしょうか。

>ひろさん
渡来人説は結構言われていますね。
記紀の天孫降臨も渡来人のことをさしているという話もありますし。
ちなみに私も九州説支持ですね。

余談ですが邪馬台国に関してはアルファ・ケンタウリ(ケンタウルス座アルファ星)説というとんでも説まであります。
アルファ・ケンタウリと言えばよくSFでネタにされますが、その理由は太陽系に最も近い恒星系だからです。
と言っても光速で4年以上の距離ですがw
(PC)
8 しす
連ガキ失礼します。

そういえばエジプト説は聞いたことありますが、エチオピア説は私も知りませんでした。

そういえば琉球説もありますけど、エジプトやエチオピアに比べりゃかなりマシですねw
(PC)
9 天草
すげ〜!!
皆さん、さすがに良くご存知で。。。

そうか!?
三国志の時代が初めての交流じゃなかったんですね。それ自体初耳でした。
ちなみに私も邪馬台国=九州説を信じてやみません。

狗奴国っていうのは、本当に存在したのでしょうか?あったとするなら、どこだったのでしょう?もちろん諸説あるのでしょうが…(汗)
(PC)
10 ひろ(八苦です(^_^!))
エチオピア説はムーという雑誌で読んだ気が(笑)天孫降輪説や日ユ同祖論など、日本人のルーツに関係する特集の時だけ私は買うんですが(笑)。オカルト雑誌です。恥
(P2102V/FOMA)
11 赤龍
『ムー』私も好きですよ。あの胡散臭さがたまりません(笑)最近買ってないですが…。確かに時々古代史とやってましたね。
(J-SA05)
12 赤龍
狗奴国も諸説ありますが、有名なとこでは、邪馬台国九州説の立場では熊本あたり(九州南部)、近畿説なら紀井半島あたり、また伊勢湾沿岸部という説も。私は邪馬台国九州説で、狗奴国が本州(近畿)にあり、後の大和朝廷につながるのでは?なんて考えたりしてます。たいした根拠はないですが。
(J-SA05)
13 しす
結局狗奴国に関する情報を整理すると

・其の(邪馬台国)南に狗奴国有り。男王を王となす。其の官に狗古智卑狗有り。

という記述から推測するしかありませんが、当然ながら邪馬台国が何処なのかによるというのが現状。
狗古智卑狗(くこちひく)という官名からこれを菊地彦と読んで肥後菊地郡が九州説の言い分。
もっとも狗奴を熊と読んで肥後球磨郡とか、畿内なら毛野とか、伊予の河野とか諸説云々でよく解りません(爆)

ちなみに邪馬台が中国読みでヤマトに近いので邪馬台国が大和朝廷に繋がるのではないかと考えています。
神武天皇の東征が日向から始まることを考えると一概に否定はできない気がします。
んでもって卑弥呼=天照大神ではないかと。
なにげにこの二人共通項がありますし。
(PC)
14 八苦
私は天照大神はズバリそのまんま神武天皇だと思ってますよ。本名はハツクニシラスメスカムヤマトノイワレヒコでしたっけ?古事記では天照大神は女神になってますが、神社伝承では男神扱いだそうです。紀記の中で卑弥呼について触れ、神宮皇后の事ではないか?みたいな事が書いてあるけど、紀記ですらハッキリ断言できない卑弥呼という存在は、日本最古の謎めいた人物ですね。
(P2102V/FOMA)
15 しす
日本書紀における神功皇后=卑弥呼に関しては戦前はそう思われていたようですが、近年では否定されていますね。
それどころか神功皇后は創作の人物であるというのが定説になりつつあるようですね。
(PC)
16 赤龍
私は邪馬台国と大和朝廷には連続性は無いと考えています。当時の日本の諸勢力の一つで、九州にあったもの。同時期に近畿には大和朝廷の前身となる勢力がいたのではないか?と。なので、大和朝廷の作り出した系譜、神話に卑弥呼をあてはめる必要も無いと。あくまで私の説ですよ。
(J-SA05)
17 赤龍
日本書紀において神功皇后の箇所に卑弥呼の記述を置いたのは、紀元前660年の神武即位以来の書紀の編年を、中国の編年と対照させるための資料操作ともいわれてます。
(J-SA05)
18 しす
赤龍殿の仰られる大和朝廷の起源が畿内にあるという考え方は強ち否定できないものはあるんですよね。
神武天皇東征の事実を危ぶむ声もありますし。
ま、その手の話は後の楽しみにするとして、邪馬台国畿内説を支持する方はいないんですかね?
エジプト説やエチオピア説支持でもいいですけどw
(PC)
19 八苦
一応エチオピア説のココでの言い出しっぺとしてエチオピア説を主張したいが…どうやればいいんだ!?(笑)
(P2102V/FOMA)
20 しす
>八苦殿
そんな無理にエチオピア説でなくてもええですよ。
そげなこつ言うたら、私エジプト説とアルファ・ケンタウリ説…(自爆)
(PC)
21 赤龍
神武東征をふまえつつ、近畿説と九州説の妥協案的意見が邪馬台国東遷説ですね。これまた問題が多く、現状ではあまり支持されてないようですが。
八苦さん、エチオピア説興味あります。主な根拠、論旨とか説明お願いします。
(J-SA05)
22 しす
ちょっと調べたのですが王充(27-97)の記した『論衡』には

「周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず」(異虚篇第一八)
「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢草を貢ず」(恢国篇第五六)
「周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」(儒増篇第二六)

という記述があるそうです。
これが我々の祖先を指しているのかどうかはともかく、周代には倭人と呼ばれる人たちの存在が認められていたことになるんですね。
たぶんこの頃、日本は弥生ではなく縄文時代だと思いますが。
倭人という記述だけなら結構古くからあるんですね。
初めて知った。
(PC)
23 八苦
よし、赤龍さんの期待に答えて、根拠や論旨を壮大なコジ付けで考えてみます(笑)。題して、[卑弥呼の野望]邪馬台国はエチオピアに在った!乞うご期待!!!…しないで(T_T) そして私の次は、しす殿が、新説!邪馬台国はケンタウルス座のアルファ星に在った!を乞うご期待(>-<#)
(P2102V/FOMA)
24 赤龍
『論衡』の記事が事実とすれば、最古の倭との交渉記録となりますが、残念ながら疑問視する声が多数を占めています。『論衡』以外にこの記事は見られず、また当時倭の奴国の使者の入朝という事件があった。周の徳が遠く夷狄に及んだ事を表すため、このように記述したのでは?等色々な批判が。
八苦さん、元ムー読者として楽しみにしてます(笑)
(J-SA05)
25 しす
>赤龍殿
ありゃりゃ、ガセネタ濃厚ですか(汗)
我ながら最近ツメが甘いなぁ。

>八苦殿
エジプト説なら誰が提唱したかも解ってますし、それをここに記すことも可能ですが、アルファ・ケンタウリはちょっと…
ハイパードライブねぇと無理だ(爆)
「高速の1.5倍は保証するぜ!」のミレニアムファルコン号でも3年近くかかります(爆爆)
(PC)
26 赤龍
でもまあ、最近の弥生時代の始まりが五百年遡るという説が事実とすれば、中国が西周の頃の大陸(中国とは限らない)と交流があったという事になります。今かなり注目されている問題ですね。
(J-SA05)
27 しす
なんか色々調べていくうちに、やはり赤龍殿の意見が正しいような気がしてきました。
邪馬臺は確かにヤマトと読めるのですが、スレタイにもあるように三国志の記述では「邪馬壹國」とされており、後漢書の記述では「邪馬臺國」となってる。
一般的には壹は臺の誤記であるというのが定説化してますが、壹が間違いであるという主張の根拠がよく解りません。
どなたかご存知の方はいないでしょうか?
(PC)
28 大伴
馬の話で思い出しましたが、「牛や馬、虎、豹、羊、鵲はいない」とありますね。我が国に牛や馬はまだ少なかったのでしょうね。それとも飼われてなかっただけでしょうか?
(D505iS)
29 赤龍
当時の日本に牛や馬がいたことは確実です。ただ、牛馬の家畜化をみなれていた中国の使者には、家畜化された牛や馬が日本にみられず、おそらく野生のものも見る機会がなかったため、牛や馬はいないと記録したのだと考えられています。
(J-SA05)
30 釈迦
皆さん歴史に詳しいですね〜。正直、少し引きました(笑

自分は沖縄に住んでるんですが、邪馬台国とは別に沖縄には国が存在していたと勝手に思ってます。日本とは別に琉球王朝があった訳ですからね(笑

というか天照大神は実在してたんですか(-_-;)すっかり伝説の人物かと…
(A5501T/au)
31 しす
>釈迦さん
三国志の時代に琉球にはたぶん国と呼べるほどの大きな勢力はなかったようですよ。
私も詳しくはないですが、12世紀の舜天王統が琉球史に残る最初の王統だったかと。
ちなみに舜天は鎮西八郎為朝の子という伝説もありますね。
ま、もちろん飽くまで伝説ですが。
(PC)
32 釈迦
舜天?鎮西八郎為朝?分からねえー( ̄□ ̄;)

卑弥呼は「真・三国無双3」の近衛兵の中にいましたよね。発見したときはビックリしました(笑
(A5501T/au)
33 しす
さて、新しい方々も増えたことですし、ここでまた邪馬台国論争再燃と行きますか。
というわけで現在九州説支持派が圧倒的なようですが畿内説支持の方はいませんか?
日本以外の国説支持の方も大歓迎です。
(PC)
34 マネー
初めまして皆様、マネーと申します。さっそくですが、自分は東北説です。八戸市の風張遺跡(かざはり)で出土した7つぶの米がカナダの大学で分析したら三千年前の米という結果がでたそうです。それと『ぎ志倭人伝』は方角が間違って記載されています。十五世紀につくられた『混一きょう理歴代国都図』という地図には日本列島が逆に描かれています。ちょうど九州あたりを軸にして逆になってます、そうすると倭人伝の方角もあやしいですよね。
(D506i)
35 赤龍
マネーさん、はじめまして。南を東の誤りとするのは、近畿説などでも根拠としてよく主張されてますね。ただ、方位感覚に現代人以上に敏感だったと思う当時の使者が、西と南を間違えるとは考えにくく、後世の版本の誤写としても、本来の記述が東であったと示す史料も無し。最初に近畿説ありき、で導き出された主張の感があります。というのが九州説側の反論です。
(J-SA05)
36 マネー
赤龍さん返事ありがとうございます、方角がおかしいと言う意見についてもう少し付け加えたいと思います。倭人伝の文章で『始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る』と続いて行きますが、『伊都国に到る』の文だけ"至"ではなく"到"を使っています、至は途中経過、到は最終目的地に着くと言う意味が含まれています。この事からギの使節団は伊都国までしか行ってないと考えます。稚拙な考えですいません。
(D506i)
37 三三
すごい議論になってますね
自分の聞いたこと以上のことばかりですが
一部話がそれると思いますが・・・
渡来人説で
日本にはなぜか太公望の話があります
中国では最近まで無名でした(孔子により太公望の存在抹消説があります)
また、秦の時代に徐福の渡来説もあります(九州北部や紀伊半島南部海岸沿いに多い)
なのですでに交流が可能だと思いますが、遣唐使時代でも難航なので最短距離の九州が有力視されてます
東北説も聞いたことありますがなぜか中国とは別にキリスト関係の説が転がってたりします(家で靴を脱ぐのは日本人とユダヤ人のみだそうです)また伊勢神宮にはなぜか六方星が鳥居などにあちこちにあります
これらのことから中国以外からも日本に渡来していたとも言われてます

邪馬台国はどこかですが
日本で古い大きな神社といえば伊勢と出雲で、ともに西日本です
両神社ができた当時伊勢側と出雲側に分かれていた説があり、奈良時代は伊勢神宮が主、また太宰府と朝廷の間が中国(地方)と呼ばれたとも言われます
自分は近畿説だと思ってますが、馬などいなかった説があったので、九州説に傾きかけました
(PC)
38 赤龍
全くスレ違いの話になりますが、東北のキリスト関連伝説、昭和初期の『竹内文献』(偽書として有名)の一連の事件の中で産み出された歴史の浅い伝説のようです。そして、これには観光ルートからはずされる危機にあった戸来村側にも村興しの為のアピールとして利用したとか。という訳で、事実としては全く信じるに足らないことかと。
ムー的ネタで個人的には好きですけどね(笑)
(J-SA05)
39 しす
>マネーさん
はじめまして。
私は東北説というのは全くと言っていいほど知らないのですが、この場合伊都国は現在のどこに比定しているのでしょうか?
基本的に九州説、畿内説共に伊都国=北九州という点においては一致しており、東北説の場合伊都国をどこに比定しているかがポイントのような気がします。

>赤龍殿
戸来村は今でもキリスト終焉の地として謳ってますね。
ただ、えっらい交通の便悪いんですよね(爆)
(PC)
40 マネー
しすさん初めまして、よろしくおねがいします。伊都国は他の説と一緒です、次の『南、投馬(とうま)国に至る。水行二十日』は東北説では富山です。
(D506i)
41 くわぁびん
質問ーん!

邪馬台国は夷州、それともタン州のどっちでっしゃろ? (?_?)
(F901iC/FOMA)
42 しす
>マネーさん
なるほど伊都国までは同じということならば、あとは残りの行程の問題になりますね。

>くわぁびん殿
そもそも夷州も亶州もハッキリしていないと思いますから、どっちと聞かれても答えはでないと思いますよ。
一般的には夷州は台湾説が有力のようですが。
亶州は九州説、琉球説、台湾説などがあったと思います。
詳しくは知りませんので他の方にバトンタッチ(爆)
(PC)
43 赤龍
>しすさん
なるほど。不便なとこだから、国立公園の区域から除外されそうになり、打開策としてキリストの墓誘致(?)という流れでしょうか?今でも観光スポットとしてアピールされてるようですし。
でも、一部に邪馬台国問題にも近いものがあったりしますよね。吉野ヶ里を見てもわかるように、邪馬台国を誘致できれば全国的な観光地になりますから。お国意識とかもあるでしょうが…
(J-SA05)
44 赤龍
亶州については、他に種子島説もあります。が、結局は諸説粉粉よくわかってないです。なにしろ、呉もたどりつけなかったとこですから。
夷州の方はまだ台湾が最有力ですね。
(J-SA05)
45 しす
ageます。
(PC)
46 ストラップ
俗に言う「魏志倭人伝」というのは、何処から出てきた名称ですか?
「魏書東夷伝巻三十」の事ですよね?又、それには邪馬台国などについては一言も言及してないのに何故それが書かれていた事になっているのでしょうか?「魏書東夷伝巻三十」にあるのは、邪馬一国ですよね?
(PC)
47 赤龍
『三国志』魏書巻三十東夷伝倭人の条。略して「魏志倭人伝」ですね。『三国志』魏書の事を「魏志」というのは、一般的。特に問題の無い、分かりやすい略だとは思いますが、いつから使われるようになったんでしょうね?
邪馬一国ではなく、正確には邪馬壹国。そして、台=臺。「壹」と「臺」字が似てますよね。で、文献学的な考証の結果、現存の三国志版本文中の「壹」は「臺」の誤字とされ(詳しい経緯は資料が手元に無いのでわかりませんが)「邪馬臺国」が正しいというのが定説とされたわけです。で、現在の常用漢字を使い「邪馬台国」と表記しているのです。なので、そうした研究結果を認める限りは、「邪馬台国」として扱うのが正しいと言う事になります。
(PC)
48 赤龍
この例に限らず、こうした古い文献は、コピー機の無い時代、手書きで書き写されていますから、誤字・脱字は結構見られます。現存の版本間でも字の相違はかなりありますし。そうしたことから、このような問題がしばしば起こるわけです。
(PC)
49 胡蝶
はっ!!手元の資料を引っ張り出し、やっと見つけたと思ったら赤龍さんに先を越されてしまった…(笑)
(EZ)
50 胡蝶
調べたついでに「台」の旧字の漢字についても調べてみました。漢文の授業で「海東諸国紀」(朝鮮で書かれたものですが)という文献を扱っていて、その本文に「州に博多有り。或いは覇家台(←旧字)と称し、或いは石城府と称し…」とありました。恐らくこの「台」という字は、地名として名を付ける場合に何らかの意味があって用いられたのでは…?と思います。(あくまで自分の考えです)結局調べてこんな事しかわかりませんでした(汗)
(EZ)
51 ストラップ
>>47
王沈の著作との混同を避ける為でしょうかね?
記述は「南至邪馬壹國女王之所都」。
現代で使う「一」と「台」では、なぜ誤字が起こったのかは理解し辛いですね(笑)
(PC)
52 しす
余談ですが、邪馬壹國か邪馬臺國か…ということも一応論争のネタにはなってますよね。
それと卑弥呼の宗女、新たなる女王の名前も「壹与(いよ)」か「臺与(とよ)」かで論争が繰り返されていますし。

一方で邪馬臺をヤマトと読ませ、あるいは古事記、日本書紀などに見える日本国=大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)など大和朝廷成立頃から「豊」という字が頻繁に使われる理由を「臺与」と結びつけて大和朝廷との関連性を示すために都合よく使われているような気がしないでもないですね…。
(PC)
53 しす
星野之宣の某コミックを読み直して興味再燃age
(PC)
54 しす
古田武彦氏の著作によると邪馬壹國を邪馬臺國と恣意的に改めたのは松下見林、本居宣長らが近畿天皇家本拠を示す「ヤマト」に対応させるためのものだとか。
あと「臺」という貴字は蛮夷の人名や地名には用いられないということも述べられています。
ただこの古田武彦って人、現在では偽書扱いされている「東日流外三郡史」を本物だと思っちゃって、それに関する本も書いちゃってる人なんで、首を傾げたくもなるのですが…。
(PC)
55 赤龍
古田武彦の邪馬台国に関する論、色々問題があるようですね。
私が読んだ本には、古田武彦の一論をあげ「非論理であり、詭弁である」とし「倭人伝を改変せずに守るという立場の筈だが、これは実質的に改竄となっている」という厳しい批判が(『魏志倭人伝二〇〇〇字に謎はない』相見英咲、講談社)
ちなみに、現在刊行中の「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの『卑弥呼』の執筆予定者が古田武彦。いつになるかは不明ですが。もっといい書き手はいなかったんだろうか?
(PC)
56 しす
ところで未だに畿内説を支持する方はおられませんか?
京大出身者いないかなぁ?
(PC)
57 ストラップ
日本書記は、固有名詞を代えると、三国志の文章になる箇所がある位に三国志の影響を受けているそうですね。

日本書記では倭の女王を、神功皇后としていますが、
明帝景初三年六月

に使者を出した事になっていますね。
明帝は景初三年一月に死んでいますし、そもそも三国志ではこの記述、景初二年の筈。
古来より論議の的と、書物にありました。
(F2102V/FOMA)
58 赤龍
景初三年六月を明帝としたのは単純なミスとして(景初が明帝の年号だからという勘違いでしょうか?)、二年とするか三年とするか、おもな論点は2つあります。
第一は文献上の問題。現存の『三国志』の諸本では皆景初二年ですが、『日本書紀』だけでなく、『梁書』の諸夷伝、『翰苑』の注に引く魏志、『太平御覧』等は景初三年と記述している。
そして、より重要な第二の問題は、この前後の情勢を考えて、二年と三年どちらが妥当か?
これら二点の問題をふまえ、現在の日本では景初三年説が有力で定説化されてます。歴史教科書なんかにも魏志倭人伝を紹介しつつも、当然のように景初二年は三年の誤りであると断定する有様だったかと。私の高校時代の教科書の記憶なんで、間違ってるかもしれませんが。
(PC)
59 赤龍
『三国志集解』で清代の沈家本も、景初三年のほうが正しいと主張していることが紹介されてます。
(PC)
60 ストラップ
>>57-59
神功皇后という人物は、日本書紀の創作上の人物ですよね?
景初三年が正しいとすれば、この記述は三国志では無い史料を参考に書かれたか、三国志の記述が後世、何らかの理由で変更された、と見るべきなのでしょうか?
(F2102V/FOMA)
61 赤龍
景初三年説の立場としては、『三国志』も当初は景初三年としてたが、後世(唐〜宋)書き写していく際に誤写が生じ、二年としてしまい、宋代以降の現存の版本は皆景初二年となってしまった。しかし、唐代の『翰苑』注で引用されている『三国志』の該当箇所は三年となっている。つまり、唐代以前の古い本では『三国志』も三年と記述していたであろう。
てな感じの主張となってます。
(PC)
62 ストラップ
日本書紀(日本紀)が舎人親王によって元正天皇に献上されたのは、720年(遣唐使の時代)ですが、これが三国志を本当に参考にしているとすれば、同時代のものでは無く、旧い時代の三国志を参考にした事になりますね。
と、するならば、本邦に最初に三国志が伝わったのは、(唐は七世紀初頭からだから)遣唐使の初期の頃か、遣随使の時代という事になる計算ですよね。
(F2102V/FOMA)
63 ストラップ
>>61-62
すいません。勘違いしていました。唐の時代の三国志はまだ三年と記されている可能性が高いんでしたね(汗)
(F2102V/FOMA)
64 赤龍
ブログ「博物館集解」のほうに、この景初二年?三年?問題についての大雑把なまとめを書いてみました。よろしければ、そちらも参考にどうぞ。
(PC)
65 ストラップ
>>64
早速、http://blog.m.livedoor.jp/amakusa3594/c.cgi?sss=stseugroodevil&id=50066737見ました。

討論場では難しい詳しい解説は、我々基礎知識の無い者にもわかり易く纏められています。皆さんにも是非読んで戴きたいですね。
(F2102V/FOMA)
66
帯方郡太守の劉[日斤]さんと劉夏さんは別人ですか?私は別人と思うんですがどうでしょうか?
(W21T/au)
67 しす
夷州と亶州はどこかハッキリしてないんですってばage
(PC)
68 飛燕
自分は(珍しい)近畿説です。
倭の使者が、帯方郡に朝貢に来たら、そこは既に魏に占領されてて、引っ張られていった…というのが、確か金文京著「三国志の世界」にも紹介されてましたが、だとすると、この倭の使者はあまり当時の中国の情勢に詳しくなかったのではないでしょうか。
九州だと、多少詳しいだろうから、疎そうな近畿だろう、というのが自論です。
(PC)
69 司馬散人
新参者ですが愚説を一つ。
私は邪馬台国を北部九州の一地方政権と考えてます。理由として、発掘された副葬品から大陸との活発な交流を窺わせるからです。
一方、ほぼ同じ時代(3世紀半ば)に成立した奈良の纏向(まきむく)遺跡は日本最古の都市と呼ばれ、前方後円墳もこの遺跡の近くより発生した為、大和朝廷のルーツと考えられています。

しかし、纏向遺跡からは大陸との交流をしめすような遺物があまり見られず、魏から冊封されたとすると不自然に思えます。
(J-SH53_a)
70 赤龍
すでに江戸時代から行なわれている邪馬台国論争。かつては、かなり思想的要素も含んだ説があったようです。
近畿説(邪馬台国=大和朝廷)は、中国から正統な倭王と認められている以上、それは大和朝廷、天皇家の先祖でなければいけない。
一方、天皇が中国の皇帝の臣下と称したなどとはあってはならないこと。そのため、邪馬台国は勝手に倭国の王を僭称した九州の勢力。大和朝廷は一切関係無い。
などというように。
(PC)
71 司馬散人
赤龍さんの後にレスするなんて緊張するな〜

現在、考古学の方は畿内説、歴史学の方は九州説が有力みたいですね。

[卑弥呼]についてですが、これは個人名というより一般名詞的な[日巫女]又は[姫尊]じゃないかという説が多いです。
他の異民族同様[卑]という字を使うあたりに中華思想を感じますね<笑>

[台与]についてはよく解りません。本名ぽい気もしますが、ただ古事記・日本書紀には[豊]という字が美称として名前に多く使用されてますね。
[豊の国]と何か関係あるかも<笑>
(J-SH53_a)
72 しす
>>71
司馬散人さんのに補足すると、日巫女よりは姫尊の方が可能性が高いという話を何かの本で読んだ記憶があります。
日巫女の場合「ひみこ」ではなく「ひのみこ」と呼ばせる方が妥当であるということ。
また狗奴国の男王なる卑弥弓呼(ひみここorひみくこ)を卑弓弥呼(ひこみこ)の誤りであるとし、彦尊(男王)を指し、卑弥呼は姫尊(女王)を指しているという考え方ですね。
台与(臺與)に関しては壹與の可能性もあるので私も何とも言えませんが。

ちなみに現在の邪馬台国論争の中心は東京帝国大学の白鳥庫吉の『倭女王卑弥呼考』の九州説vs京都帝国大学の内藤虎次郎の『卑弥呼考』の近畿説…言うなれば東大vs京大の威信をかけた論争という感じでしょうか。
(PC)
73 飛燕
「邪馬台国」=「ヤマト朝廷」って有り得る気がします。
まず、邪馬台は祭政一致の仕組みですよね?ヤマト政権も神話あたりが作られたことから、おそらく祭政一致。政治の仕組みが似ています。
(邪馬台国があった)当時の日本は精霊信仰はあったものの、それは祭政一致とまではいかなかったのではないですか? 他のクニは、おそらく卑弥呼以前の邪馬台同様、戦好きの男の王だったんじゃないですか?でないと、いくつものクニに別れて争うことも無いと思います。

また、邪馬台が勢力を拡大できたのも、当時では斬新な祭政一致に思わず従ったからだと思います。全てのクニに卑弥呼的存在(いわゆる神)がいたら、争いはそう簡単には治まらないと思います。それが治まったのは、卑弥呼という神的存在の突然の出現に、他のクニが平伏したのでしょう。

祭政一致を行ってたのが、邪馬台国のみだから、それがヤマト政権に繋がった、ということですが、どうでしょう?
(F900iC/FOMA)
74 飛燕
正史に、王国の北の伊都国(北九州)に役人を常駐させてた、って記述があったんですね。今日の日本史の授業で知りました(汗)こちらは、もっと勉強して出直してきます。
(F900iC/FOMA)
75 巫俊(ふしゅん)
一般的には、祭政一致の国家から祭政の担当者が分化するように時代が進むものと考えられているようですよ。

例えば、ヤマト朝廷の中臣氏は軍事的な職掌をもって朝廷に仕えていたとされていますが、その職掌というのは神聖なものでした。

神権的な古代においては戦争も政治も経済すら、宗教によって支配されています。

三国時代から1000年以上前の夏殷時代という時代は、そういう神聖な巫祝王が支配する宗教国家でした。

男の王と女の巫女の間に、役割の違いがあって、それを克服しようとしたのが卑弥呼というのは、よく分かります。
祭政一致という概念は、むしろ普遍的なもののようにも感じますが、さて。
(PC)
76 司馬散人
私も祭政一致は古代において普遍的な現象と思います。
ただ、日本において権力と権威の分離指向は根が深く、卑弥呼も例外では無いように思えます。
つまり、有力者達に象徴として推戴された存在で、政治権力はあまり無かったと思えます。(もちろん想像です)

「邪馬台」と「ヤマト」の音が類似している理由は難しいです。
『「邪馬台国」はなかった』は読みましたが、ちょっと胡散臭いかな〜。

ちなみに、私が住んで居る所は、戦国時代秋月氏の本拠地で、安本美典氏が邪馬台国の候補地としている所です。
実際に付近の地形、地名が奈良の大和周辺と似ています。
だから、東遷説も否定しきれないんですよね〜。
(J-SH53_a)
77 巫俊(ふしゅん)
邪馬台国といえば、諸葛亮の延命の秘薬を求めて、姜維たちが数万の兵を率いて倭国を征服するという小説がありましたね。
関係ないですが(笑)
(PC)
78 飛燕
今日、学校の授業でやりましたよ。何か今は畿内説が圧倒的優勢で、もはや位置は重要視されてないそうです。

岡本健一著「邪馬台国論争」を読んで、改めて自分は畿内派です。九州派の学説は、正直全部曲解に思えて、畿内派の学説の方が説得力がありました。
(F900iC/FOMA)
79 巫俊(ふしゅん)
『邪馬台国論争』、講談社選書メチエの一冊ですね。

おそらく飛燕さんにとっては既成の事実のことかもしれませんが、補足しておきますと、
講談社選書メチエというジャンルで覚えておいておかれると、歴史や哲学関係の最新の知見を知るのに苦労しない、ということでしょうか。

選書ってのは新書よりちょっと大人向け(値段も高い)のシリーズなんで、その分秀逸なものが揃っているようです。

『縄文論争』とか、
『長城の中国史―中華vs.遊牧六千キロの攻防』とか、
『荘子=超俗の境へ』とか。

邪馬台国に話題を戻しますと、私は畿内説を採用すると、すごく近所になる近畿に住んでいるんですけど、
あんまりここに邪馬台国があったって気がしないんですよね(^^;

なんか卑弥呼のエキゾチックな印象と、実際の近畿地方のイメージが一致しない、、、というようなことは感じていたりします。

魏の朝廷や、帯方郡に赴任した太守や都尉の感じたままの像が邪馬台国ですから(結論になってないですね、、さて)
(PC)
80 巫俊(ふしゅん)
『邪馬台国論争』では近畿説が支持されているのですが、あれは考古学を基礎にした研究では、近畿が弥生時代の王権の中心に位置しているということを復誦しているような気がします。

文献から東シナ海外交を紐解くと、やはり偽使の可能性が捨てきれませんしね。

国家間の外交においては、考古学のような国家の実力を遺物によってはっきりされる情報よりも、はったりとか見せ掛けとかが大きく作用しますし、魏の考える邪馬台国像と、邪馬台国の考える魏の像は、きっと大きく異なっていたと思います。
客観的な国力の評価とか、文化の認識とかは、やっぱり限界があるというか。

そこら辺は、5世紀や6世紀の国際関係の方が実感しやすいと思いますが。
(PC)
81 赤龍
私も、巫俊さんの考えに近く、考古学での近畿地方での相次ぐ発掘成果は、大和朝廷の源流であろう、当時の日本でも有数の勢力が近畿地方に存在することをはっきりと証明しているものの、それと邪馬台国とのつながりについての明確な根拠に欠けているように感じます。ですから、近畿地方の発掘成果を、即邪馬台国と結びつけようという姿勢には慎重になっています。
反対に、マスコミとかの報道では、世間の感心を得るために、何か見つかるとすぐ「邪馬台国」や「卑弥呼」の語を持ち出していますよね(笑)
(PC)
82 赤龍
ちなみに、岡本健一氏の『邪馬台国論争』私はまだ読んでませんが、これが出版されたのは1995年。ちょうど、前年の青龍三年鏡の発掘など、近畿地方で3世紀頃の遺跡・遺物が発見され、近畿説が勢いづいてきた時期ということも頭に入れて置いたほうがいいと思います。
(PC)
83 巫俊(ふしゅん)
>>82
赤龍さん
1995年、もう10年前になるんですね。
90年代後半って新しい時代って印象があるんですけど、時の流れは早い。
(横山光輝三国志のアニメ版の主題歌を想い出す^^)
(PC)
84 巫俊(ふしゅん)
三国志の東夷伝から分かることとしましては、

北九州の諸国家について、帯方郡ないし魏朝廷がそこそこの知識を有していたことは、散見することができる訳です。
でも投馬国から邪馬台国にかけての知識になると、はやくも情報が減っていく。
邪馬台国を中心とした世界ではなく、北九州を中心とした知識を魏がもっていたことが原因でしょう。

交易の存在とか、中国系の倭国滞在者(これも倭人?)が鏡をつくっていたことは少しわかっているはずですし。
(PC)
85 赤龍
もし邪馬台国が近畿にあったとすれば、中国との使者の往来を可能とする為にも、近畿を中心とし、九州北部まで広い範囲で邪馬台国の力が及んでなければならないはずです(直接・間接支配、友好関係という差はあるが)
しかし、私には当時の邪馬台国がそこまでの力を持っていたとは思えません。これ以後の古墳時代でも、出雲、吉備、九州、それぞれ大和朝廷とは別の文化をもち、時に対立しているほどですから。
その為、私は九州説の立場にたっています。
>>78で「位置は重要視されてない」とありますが、このように邪馬台国の位置によって、邪馬台国の規模や、当時の日本の情勢に対する認識に大きな差が生まれてしまいます。決してないがしろにしていい問題ではないと思います。
一時の邪馬台国ブームで乱発された、単なる位置論を問題にするだけの説が濫発されたせいで、それに辟易・反省したためというのもあるでしょうが。
(PC)
86 巫俊(ふしゅん)
>>85
私はもともと九州説だったんですが、今は折衷的に近畿以西説派って感じですね。
とりあえず東海や関東ではないだろうと。(そういう説もありそうですが)
九州にすると邪馬台国が近すぎるということもありますし、近畿だったら少し遠いかなという気もします。

例えば後年の中国や朝鮮の使節が日本に来たときは、北九州の大宰府までは比較的簡単に大陸と行き来できたようです。
なんせ北九州の官吏ないし武士・海賊の類と交渉しておけば一衣帯水の距離ですから。

それで話を聞きますに、瀬戸内海を水路で移動するというのが、ちと難事だったようですね。
なんせ東西に長いですし、また別の海賊や地域勢力と交渉しないといけない。
こういうのは日本の中世の事例なんですけど。

使節が目的とする王都の政権が単独で水路を確保できるか否かも重要になってきますね。
とりあえず三国志には「水行」の記述があるのですし。
隋唐の時代なんかになると、日本の政府が水路を保障することができて、畿内まで水路で使節が入ってきているわけです。

ところが中世になると、瀬戸内海の複数の海賊集団と交渉しないと舟も出せない、そういう事態に変化しています。
さて邪馬台国はどうでしょうか?
または九州説をとると水路の問題はどうなるのでしょうか?

一応、別の文化集団が地方に割拠していたとしましても、ゆるやかな連合ということで理解できなくはないと思うのです。
中国の殷王朝なんかがそうで、今の日本と同じくらいの面積をゆるやかに仕切っていました。
(PC)
87 飛燕
僕もあえて近畿とは言いません。当時の鏡や銅製品の頒布図を見ると、中国地方が文化の中心であったろうと思いますから。
そもそも僕には九州という位置にこだわっている理由がわかりません。赤龍さんの言ってることもわかりますが、だからといって九州という位置になってしまう論拠がわかりません。そしてこれは九州説の人全てに言える事だと思います。九州派の学説は曲解と言いました。それは学者さん達が、東夷伝をいかに読んだら九州という位置におさまるか、そう考えているようにしか思えないからなんです。つまり、九州にあったという論拠を示さず、九州にあったという仮説を勝手に推し進めてるようにしか思えないんです。

はっきり言って、僕はお二人ほど意見は固まってません。だからこそ、より説得力のあるほうになびくわけです。たとえ、「邪馬台国論争」が畿内説寄りといっても、九州説はいくら何でも仮説過ぎると思います。

日程とか>中世の事は良くわかりませんが、ムラ・クニ境でお祓いをしていた可能性があるそうです。
「日本書紀」によると、隋使・ハイ清世の場合(608年)、6月15日に難波津に泊まり、8月3日入京と1ヵ月以上要してます。
また、貞観13年の渤海使は、疫神祓いで入京まで5ヵ月かかってるそうです。
(PC)
88 飛燕
連ガキですいませんが…

前述の「邪馬台国論争」。半分は位置について。もう半分は鏡について書かれてます。

特に最近ですが、鏡についての疑問があります。
「景初四年」鏡は何を目的に作ったのでしょう?
これの発見で、「景初三年」・「正始元年」鏡は国産説が強まってるそうです。だとすると、「景初四年」鏡は難升米達が帰ってくる前に作っていたのでしょう。ということは、「景初四年」鏡は記念ではないはずです。そうなると、ほぼ同類の「景初三年」・「正始元年」鏡も記念ではなくなるのではないですか?こういう疑問で、僕は難升米達が来たのが景初二年か三年かの意見もまとまりません。
(PC)
89 赤龍
>>89
なぜ九州説をとるか?単に倭人伝の位置の記述のみを問題にしてるのではなく、当時>>85で説明したように、いまだ近畿以西をまとめる統一政権的なものが存在せず、地域ごとに部族連合的な勢力が存在していたと考える以上、最も中国との交渉に適した北部九州の勢力をあてるのが一番妥当だと考えるからです。
中国地方も、出雲、吉備とそれぞれ一つの中心的地域がありましたが、それらが北部九州までおさえていたほどのものとは思えません。
そして、考古学的にも北部九州は当時の有力な勢力のひとつであることは明白。むしろ古代では、大陸文化を真っ先に受け入れる先進地でもあったのですから。候補地にあげる条件は充分に備わっている。
倭人伝の記述のみにこだわっているというような言い方をされているようですが、それは大きな誤りです。むしろ、畿内説を主張するには曲解的な読みをせねばならず、文献的には九州説が有利になりがちなため、そうした方法で九州説を批判しがちになるようです。
(PC)
90 赤龍
失礼、上記訂正
>>89 ×
>>87
です。
(PC)
91
金印を倭の国の使者に渡したのは、曹叡???曹芳???
授業でやって気になりました"笑
(W32SA/au)
92 ストラップ
>>91
その話題は>>57あたりからしばらく続いていますよ。
下記ブログ記事も参照の事。
http://blog.livedoor.jp/amakusa3594/archives/50066737.html
(PC)
93
(W32SA/au)
94
あれ?>>93おかしい…、
スイマセン、大伴さんありがとうございます!
教科書だと三国時代は三世紀始まりになってたんですけど、これは"日本書記"のせい???
(W32SA/au)
95 赤龍
>>94
ちょっとその教科書の意味がつかみにくいんですが、三国志の物語自体は2世紀後半から始まってますが、三国時代に入るのは諸説あるも220年あたりから。3世紀の前半からスタート。そして3世紀半ば〜終わりまで(こちらも複数説あり)
教科書の問題としてる個所を引用していただければ、もう少し的確に答えられるのですが。
(PC)
96
>>95
東京書籍「新選日本史B」より
"中国では、三世紀初めに後漢がほろび、魏・呉・蜀が対立する三国時代になった。"
とあります。てか、三世紀って、200年〜299年までですよね?なら私の解釈が違っただけかも"笑、お恥ずかしい↓↓↓
(W32SA/au)
97 赤龍
>>96
もう解決されたみたいですが、後漢が滅びたのは220年ですから、教科書は問題なさそうですね。
ちなみに、3世紀は201〜300までですよ。これ結構間違えやすいので重要。近年も1999年が世紀末で2000年が新世紀と勘違いしてる人がちょくちょくみられましたから。「紀元(もしくは紀元前)0年なんてものは存在しない」つまり、スタートは「1」ということを覚えておくとわかりやすいですよ。
(PC)
98
>>97
いやぁお恥ずかしい↓↓↓まだ間違っていたなんて"笑、勉強しないとダメですね。ですがこの日本の使者が朝鮮につくまででも結構時間がかかったのでしょうね。九州説で行けばまだ近いでしょうが…。都まで着くのに何日かかったんでしょう?
(W32SA/au)
99 飛燕
>>89
説得力あるなぁ、赤龍さんは…。
ですが、どうも北部九州に限定してしまうことに納得できません。連合という形を考えれば、九州島というのはぴったりかもしれませんが…。

「部族的集団」「統一できていない」とは高地集落の存在をいっているのでしょうか。この遺跡の分布を見ると、ほぼ大体が瀬戸内海に寄ってます。そのことから、中国地方と四国地方の勢力が争っていたとも考えられなくもありません。つまり、ある程度はまとまっていたのではないかと。
それに邪馬台国そのものに、それほど固い統一感があったのでしょうか。卑弥呼が死んで簡単に瓦解しているので、それほど強い結束力はなかったと思います。

また、赤龍さんはいかにも、九州>中国といっているようですが、断言できる事実ではないと思います。多少は劣っていたでしょうが、ほぼ対等だと思います。それは、どこかで言いましたが鏡の出土分布を見ても、王莽の造った貨幣が中国地方で点々と見つかっていることからも、わかるはずです。これら大陸の文化が、九州を窓口として、入ってきたものならば、相当密接な関わりを持っていたのでしょう。

九州が文明を受け入れる地であることに異論はありません。ですが、中国地方を「東の倭種」とばっさり切り捨ててしまうことに疑問を感じるのです。

中国地方が九州を支配できる力を持っていたか、よくわかりません。ですが、神話がこの地で生まれたことを考えると、九州とは違う、独特の文化を持っていたことは否めないと思います。
(PC)
100 赤龍
対馬国から奴国あたりまでの国の位置に関しては、現在おおむね異論がなく、九州北部の国ということで定着しています。
もし邪馬台国が中国地方にあったとすれば、出雲なり吉備なりの勢力が九州北部の国々をゆるやかな従属関係であれ、支配化におさめてなければならないことになります。
飛燕さんのいわれるように、吉備・出雲は九州とは違った独自の文化を持っていました。これがむしろ、それぞれが別勢力だったことを感じさせます。飛燕さんの説を成立させる為には、反対に文化的共通点などを探し、ひとつにまとまっていたことを証明する必要があるのではないでしょうか?
私は国の力自体が「九州>中国」とは言っていません。地理的により可能性が高いと言っているのです。
中国地方で、中国の鏡や貨幣が見つかっていることについては、交易やら、それを入手した国が頒布したことも充分に考えられます。また鏡の分布についても、位置的に真ん中にあるだけで、中国地方が当時の中心地とするには難があるように感じます。
(PC)