3 大伴
単福さんはじめまして。ここに来る人は徐庶好きな人多いですから、今までにこのスレッドなかったのは不思議ですね。
>>157の親からいけるスレッドのどこかに、徐庶や石トウ、催州平について語ったものがあると思います(そこには無いかも知れませんが、荊州の潁川派閥についてはどこかにある筈)。
図書館作品(このサイトの短編小説置き場)にも、徐庶が主役の作品は二編ありますよ。
>>157の親からいけるスレッドのどこかに、徐庶や石トウ、催州平について語ったものがあると思います(そこには無いかも知れませんが、荊州の潁川派閥についてはどこかにある筈)。
図書館作品(このサイトの短編小説置き場)にも、徐庶が主役の作品は二編ありますよ。
(D505iS)
5 天草
単福サン>はじめまして!確かに徐庶はみんな好きな人が多いですよね。
曹操軍に行ってからの彼の活躍が少ないのは寂しい限りですよね。
彼が諸葛亮達と知り合ったのは、殺人事件の後?前?後だったですよね?
曹操軍に行ってからの彼の活躍が少ないのは寂しい限りですよね。
彼が諸葛亮達と知り合ったのは、殺人事件の後?前?後だったですよね?
(PC)
7 天草
今、辞典の徐庶を書き直しながら考えたのですが…
諸葛亮が後に嘆息したという、彼の立場(役職)は本当に哀れな役職なのでしょうか?
彼の付いていた役職(御史中丞)は後に出世する為の大事な役職で、皇甫嵩(後に太尉)、陳羣(後に司空)、韓馥(後にキ州牧)、諸葛誕(後に司空)と、出世コースの一つです。
しかもこの段階で彼には何の名声もないでしょうし、もちろん名士でもありませんから、いきなりこの役職は結構な待遇だったのではないでしょうか?
諸葛亮が後に嘆息したという、彼の立場(役職)は本当に哀れな役職なのでしょうか?
彼の付いていた役職(御史中丞)は後に出世する為の大事な役職で、皇甫嵩(後に太尉)、陳羣(後に司空)、韓馥(後にキ州牧)、諸葛誕(後に司空)と、出世コースの一つです。
しかもこの段階で彼には何の名声もないでしょうし、もちろん名士でもありませんから、いきなりこの役職は結構な待遇だったのではないでしょうか?
(PC)
9 赤龍
「至右中郎将、御史中丞」とあり、いきなり御史中丞に任じられたのでなく、最終的に到達した官を意味します。この頃推定六十過ぎ。官品は四品、哀れな官というわけでなくそこそこの官。しかし徐庶は亮の友で才能を高く評価した人物。朝廷の中枢にあって当然という思い(評価)があの言葉になったととるべきでしょう。
(J-SA05)
10 赤龍
蜀に残ってくれれば、朝廷の中枢にあって自分をたすけてくれただろうに…、という亮の無念の想いも想像できます。魏は徐庶の才能を見抜けずうもらせている、という皮肉にもとれるかもしれません。
(J-SA05)
12 大伴
徐庶が本当に優れた人物であったか否かは別として、孔明が彼に深い信頼をもっていた事はうかがえますね。
しかし徐庶は前科持ちですから、呉ではまったく駄目だったかも知れませんね。
しかし徐庶は前科持ちですから、呉ではまったく駄目だったかも知れませんね。
(D505iS)
13 天草
彼が剣術の名手だった事から、私は一武将として良い将軍になっていたのではないか?と考えてます。
戦術・策略面で活躍する軍師的な演義やゲームのイメージは諸葛亮らと親交を交えたというあたりから来ているのでしょうが、実際に戦場で戦略を立てたという記述はどこにもありませんからね。
戦術・策略面で活躍する軍師的な演義やゲームのイメージは諸葛亮らと親交を交えたというあたりから来ているのでしょうが、実際に戦場で戦略を立てたという記述はどこにもありませんからね。
(PC)
16 ヤスシ
諸葛亮が仕事に対する謙虚さと判断の確実さを賞賛しています。またその才が用いられていないとのコメントからみると知略もなかなかだったのでは無いでしょうか?
撃剣の使い手でめありますし、万能に活躍出来たのかも知れませんね。
撃剣の使い手でめありますし、万能に活躍出来たのかも知れませんね。
(W11H/au)
18 赤龍
母が捕虜になったため、曹操に降った徐庶。忠と孝どちらを選ぶか強いられたわけですが、この時代忠よりも孝を重視する傾向があったようです。母の老齢の為、徐州へ行く劉備と別れた田豫。父と君が病で、薬が一つしかないとき、どちらを救う?と曹丕に聞かれ、はっきり父と言いきったヘイ原。例え名目としても、忠よりも孝を重視、この風潮が徐庶の決断に影響したのではと思います。
(J-SA05)
19 天草
>>17
単福殿>いや、スレ違いではないですから、大丈夫ですよ。ただ、その手の質問や意見は答えづらいですよね(汗)
政治面なのか?戦略面なのか?戦闘能力なのか?
同じ様な兵力でガチンコの戦をしない限り、統率力に差も分かりませんしね。
後の世での、総合的な評価なら間違いなく諸葛亮の方が上でしょうね。
>>18
赤龍サン>なるほど!確かに思い当たる節はありますね。そこら辺は戦国時代の武将の美学と少し違うのかも…。
黄権なんかは家族を棄てて降伏しましたよね。
あの話しなんかは、逆に残された家族を許した劉備と旧主を信じた黄権の美談になってますからね。
単福殿>いや、スレ違いではないですから、大丈夫ですよ。ただ、その手の質問や意見は答えづらいですよね(汗)
政治面なのか?戦略面なのか?戦闘能力なのか?
同じ様な兵力でガチンコの戦をしない限り、統率力に差も分かりませんしね。
後の世での、総合的な評価なら間違いなく諸葛亮の方が上でしょうね。
>>18
赤龍サン>なるほど!確かに思い当たる節はありますね。そこら辺は戦国時代の武将の美学と少し違うのかも…。
黄権なんかは家族を棄てて降伏しましたよね。
あの話しなんかは、逆に残された家族を許した劉備と旧主を信じた黄権の美談になってますからね。
(PC)
20 漢森
感覚と云ったら、道教のお寺じゃ、割りとポピュラーに 徐庶のお母ちゃんは賢母として祭られているけど、その時の徐庶はバカ息子扱いされてますね
はじめて観たときは、軽いめまいを感じました
『演義』でのお話なのに…
はじめて観たときは、軽いめまいを感じました
『演義』でのお話なのに…
(P900i/FOMA)
21 大伴
そう言えば、徐庶は(通俗演義では)相馬が出来ましたね。
馬は健康を侵しやすい動物らしく、相馬は信頼できる学問なのだそうです。良く食事のとれる顔の馬(顎の発達した馬や歯並びの良い馬)は丈夫、という事が基本だとか。
馬は健康を侵しやすい動物らしく、相馬は信頼できる学問なのだそうです。良く食事のとれる顔の馬(顎の発達した馬や歯並びの良い馬)は丈夫、という事が基本だとか。
(D505iS)
24 漢森
ひいき目でみれば、博望破で魏軍を焼き殺したのは徐庶の手柄だろうし、魏に移ってからも割りと順調に出世(早死にしたので最終役職は中途半端ですが)したところをみると、軍事、政務ともに有能だったのでしょうが、いかんせん実績が記されてないので、頭に『それなりに』と付いちゃうとこが惜しいなぁ
(P900i/FOMA)
26 元歎
博望の戦いの時、徐庶は劉備陣営にもういたんですかね? それで、いたとしても軍を指揮したり策を献策できる立場にいたのでしょうか?
確か、焼き殺したのではなく、伏兵による撃破だったと思います。
確か、焼き殺したのではなく、伏兵による撃破だったと思います。
(PC)
29 天草
このスレを見逃してた…。
確かに>>28で諸葛覧サンが仰るとおり、諸葛亮の策でないのは恐らく間違いないでしょう。
徐庶が在籍した時期自体が微妙で分かりづらいし、博望の戦いもイマイチはっきりしない様な…。
徐庶の劉備軍在籍期間ははっきりさせたいところですよね。
>>26の劉備軍の勝利方法は、自陣に火をかけて退却したと見せかけ、伏兵を用いるというものでした。
まんまと引っかかったのは、隠れへっぽこ武将のあの方ですね(笑)
確かに>>28で諸葛覧サンが仰るとおり、諸葛亮の策でないのは恐らく間違いないでしょう。
徐庶が在籍した時期自体が微妙で分かりづらいし、博望の戦いもイマイチはっきりしない様な…。
徐庶の劉備軍在籍期間ははっきりさせたいところですよね。
>>26の劉備軍の勝利方法は、自陣に火をかけて退却したと見せかけ、伏兵を用いるというものでした。
まんまと引っかかったのは、隠れへっぽこ武将のあの方ですね(笑)
(PC)
30 天草
問題を再燃させますが…魏(曹操軍)にいったあとの彼は政治家として、または軍師として、活躍したのでしょうか?
それとも演義の様に劉備への義を貫き、何もしなかったから伝がないのでしょうか?
それとも演義の様に劉備への義を貫き、何もしなかったから伝がないのでしょうか?
(N900i/FOMA)
32 諸葛覧
参考程度に
孟建→征東将軍(二品)
徐庶→御史中丞(四品)
石韜→典農校尉(六品)
孔明の学友達、出世度合いはまちまちですね。
徐庶の御史中丞は検察次官ぐらい、それなりには出世したと言えるかもしれません。
石韜の典農校尉は県農政部長クラス、あまり出世に恵まれなかった様子ですね。
孟建に関しては、温恢の後任として涼州刺史となり、統治によって名声を得ているようです。
他の二人は具体的な治績は見当たりませんね。
活躍の場を与えられたか否か、時の主流派閥との関係が良好か否か、こういった要素でも出世具合は変わってくると思います。
孟建→征東将軍(二品)
徐庶→御史中丞(四品)
石韜→典農校尉(六品)
孔明の学友達、出世度合いはまちまちですね。
徐庶の御史中丞は検察次官ぐらい、それなりには出世したと言えるかもしれません。
石韜の典農校尉は県農政部長クラス、あまり出世に恵まれなかった様子ですね。
孟建に関しては、温恢の後任として涼州刺史となり、統治によって名声を得ているようです。
他の二人は具体的な治績は見当たりませんね。
活躍の場を与えられたか否か、時の主流派閥との関係が良好か否か、こういった要素でも出世具合は変わってくると思います。
(PC)
36 くわぁまん
徐庶も碧眼だったのかなぁ?
物語では、孫権が所謂碧眼児だと劉備、曹操にやゆされる場面が有りますが、父方か母方か移民族の血が流れていたのかも…。
祖父の玄徳先生は列記とした?漢民族だから母方にいたのかもしれませんね…。(笑)
物語では、孫権が所謂碧眼児だと劉備、曹操にやゆされる場面が有りますが、父方か母方か移民族の血が流れていたのかも…。
祖父の玄徳先生は列記とした?漢民族だから母方にいたのかもしれませんね…。(笑)
(F901iC/FOMA)
37 景文
すいません…何かの本(十八史略かな)で孔明と元直は一時一緒に玄徳に仕えていたと読んだ記憶があるのですが…これは嘘なんでしょうか?十八史略はそれ程怪しい書とは思えないのですが…
(P900i/FOMA)
39 景文
元歎サン、ありがとうございます。
私としては曹へ移った後、ぱっとしないのは、やはりこれといったコネクションもない元直が出世するにしてもあの曹家臣団の派閥間の牽制しあった中で取り上げられるのは厳しいでしょうし、、取り敢えず敵に回すとやっかいなので飼い殺しにされたんじゃないかなと…敵に回したくないという事はやはり人並み外れた才能の持ち主だと考えたいデスネ。
私としては曹へ移った後、ぱっとしないのは、やはりこれといったコネクションもない元直が出世するにしてもあの曹家臣団の派閥間の牽制しあった中で取り上げられるのは厳しいでしょうし、、取り敢えず敵に回すとやっかいなので飼い殺しにされたんじゃないかなと…敵に回したくないという事はやはり人並み外れた才能の持ち主だと考えたいデスネ。
(P900i/FOMA)
41 削除済
42 しす
>>40
徐庶の才能に関しては、実績が明確でない以上、憶測の域を出ませんからね。
sただ蜀の寿命が延びたかどうかに関しては「その可能性も無いとは言えない」程度のものでしょう」。
ただ諸葛亮が彼の才能を高く評価していた事は事実のようですし、諸葛亮の負担を減らし、彼の寿命をもう少し先延ばしにすることが出来た可能性は少なからずあるように思えます。
「假に元直の十分の一でも真似ようとするなら、それは国家に対し忠義な行いとなり、私の過失も少なくなる」
と諸葛亮に言わしめた程の人物ですから、人材不足の蜀にとっては痛い損失だったかもしれませんね。
徐庶の才能に関しては、実績が明確でない以上、憶測の域を出ませんからね。
sただ蜀の寿命が延びたかどうかに関しては「その可能性も無いとは言えない」程度のものでしょう」。
ただ諸葛亮が彼の才能を高く評価していた事は事実のようですし、諸葛亮の負担を減らし、彼の寿命をもう少し先延ばしにすることが出来た可能性は少なからずあるように思えます。
「假に元直の十分の一でも真似ようとするなら、それは国家に対し忠義な行いとなり、私の過失も少なくなる」
と諸葛亮に言わしめた程の人物ですから、人材不足の蜀にとっては痛い損失だったかもしれませんね。
(PC)
43 二本柳
初めまして。二本柳と申します。いつも楽しく拝見させてもらってます。
徐庶についてですが、この人のプロフィールでよく見るのが「撃剣の使い手」というところ。撃剣とは剣術の事ですよね?余程の名手だったのでしょうか?またこの部分にまつわるエピソードなどはあるのでしょうか?
徐庶は好きな人物の一人なんですが、この部分だけ私の中の徐庶像にしっくりこないんです。
徐庶についてですが、この人のプロフィールでよく見るのが「撃剣の使い手」というところ。撃剣とは剣術の事ですよね?余程の名手だったのでしょうか?またこの部分にまつわるエピソードなどはあるのでしょうか?
徐庶は好きな人物の一人なんですが、この部分だけ私の中の徐庶像にしっくりこないんです。
(P901iTV/FOMA)
45 しす
>>44
確かに文帝紀の記述を読むとフェンシングを思わせるような描写がありますね。
スレ違いですが、文帝紀での曹丕とトウ(登β)展のやりとりは何となく疋田文五郎と柳生宗厳の試合のエピソードを思い出しました。
確かに文帝紀の記述を読むとフェンシングを思わせるような描写がありますね。
スレ違いですが、文帝紀での曹丕とトウ(登β)展のやりとりは何となく疋田文五郎と柳生宗厳の試合のエピソードを思い出しました。
(PC)
46 二本柳
(P901iTV/FOMA)
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