1 雷
孫策
素人改め雷です
しばらく来ないうちに盛り上がってますね\(^O^)/
曹操の父暗殺について、話が盛り上がってたみたいなので、私は孫策の暗殺について議題を作りました。
千吉の呪い説もありましたっけ?
しばらく来ないうちに盛り上がってますね\(^O^)/
曹操の父暗殺について、話が盛り上がってたみたいなので、私は孫策の暗殺について議題を作りました。
千吉の呪い説もありましたっけ?
(N900i/FOMA)
11 くわぁまん
孔明が吹き矢で、プッとやったのでは? 幼少の頃の孔明は伯父さんを頼っていた時に孫策、正確には孫策に追い立てられていた劉ヨウに偉い目に遭わされてますからね。
(SH900i/FOMA)
12 くわぁまん
古いスレで恐縮です。
孫堅の三男、孫翊は気質が孫策に似ていたそーです。
彼もまた、早くに亡くなっています。もしかしたら孫権が…。考えたくはないですが身内の者の魔の手が伸びていたのでは…。
孫堅の三男、孫翊は気質が孫策に似ていたそーです。
彼もまた、早くに亡くなっています。もしかしたら孫権が…。考えたくはないですが身内の者の魔の手が伸びていたのでは…。
(SH900i/FOMA)
15 天草
久々に策スレが上がってきたので話題を一つ
父が死んだ時、彼はわざわざ母を連れて家を替え、弟(孫匡)に父の爵位を譲ってるのはなぜでしょうか?
その時父のあとを受け継いでいれば、のちに袁術に兵を返してもらう苦労をしなくても良かっただろうし、また呉に戻って兵を募集しているところを見ると、回り道をしたような気さえします。
しかも匡といえば一番末っ子(当時はまだ子供?)。何か考えがあったと思えますが、彼の狙いは何だったのでしょう?
父が死んだ時、彼はわざわざ母を連れて家を替え、弟(孫匡)に父の爵位を譲ってるのはなぜでしょうか?
その時父のあとを受け継いでいれば、のちに袁術に兵を返してもらう苦労をしなくても良かっただろうし、また呉に戻って兵を募集しているところを見ると、回り道をしたような気さえします。
しかも匡といえば一番末っ子(当時はまだ子供?)。何か考えがあったと思えますが、彼の狙いは何だったのでしょう?
(N900i/FOMA)
18 朱家
孫賁後見のもと、爵位を受け独立する事は、ある意味袁術に対する反逆ですから、対抗する力がないと見て放棄したのでは?それに劉表にも目をつけられる危険があったと思います。爵位も袁術に対して大志を隠すためだったと考えます。徐州に移ったのは身の施し方を張紘ら名士に教えを請うためではないでしょうか?すぐに袁術のもとへ行かなかった説明がつくと思います。つづく…
(A1304T/au)
19 朱家
陶謙と呉景が険悪になり危険を感じて、呉景の元で募兵しますが、これも袁術への手土産と考えてます。袁術をあまよくば飲み込んでやろうぐらいは考えていたかもしれません。「江表伝?」では袁術に会い「少しぐらいは自分で集めてこい」と言われ、募兵してる時に賊に襲われ、せっかく集めた兵が壊滅し、哀れんだ袁術は兵千だけを与えた。とあったと思います。問題は孫堅の玉璽の話が注にしか出てこないので信憑性が微妙で、これが真実ならば、もっと違う見方ができると思いますが…
(A1304T/au)
21 天草
古スレage祭り
>>15の謎を再燃
爵位を譲るなら孫権等でも良かったのに、なぜ一番幼い匡だったのでしょうか?
その頃孫権は孫策と行動を共にしてたのかな?
そもそも彼らがいくつの時の話だったっけ?
すいません。明日まで家に帰らないので、調べようがありませんw
>>15の謎を再燃
爵位を譲るなら孫権等でも良かったのに、なぜ一番幼い匡だったのでしょうか?
その頃孫権は孫策と行動を共にしてたのかな?
そもそも彼らがいくつの時の話だったっけ?
すいません。明日まで家に帰らないので、調べようがありませんw
(PC)
22 朱家
いや〜蒼天航路の絵が嫌いで、ためらってたけど、とうとう読みました(半分ぐらい)評判に違わず面白いです。こんな事を何故、孫策スレに?
劉ヨウ酷くない?かなり優秀だと思うし、怪物が近くにいなければ、身を立てれた人物だったと思うし、こんなに評価が落ちてるとは…
孫策なんて非常に人気があるのだから、劉ヨウを正当に評価して、それでも勝つ孫策って感じにならないのかな?
劉ヨウ酷くない?かなり優秀だと思うし、怪物が近くにいなければ、身を立てれた人物だったと思うし、こんなに評価が落ちてるとは…
孫策なんて非常に人気があるのだから、劉ヨウを正当に評価して、それでも勝つ孫策って感じにならないのかな?
(PC)
23 通
三国志時代の人物って、評価がきっぱり別れる事が多いですよね。無能者としては劉ヨウもそうだし、益州の劉璋や蜀の劉禅とか。なんででしょう。確かに国は保てなかったですけど、それにしても酷い評価ですよね。劉禅なんか後世まで馬鹿の代名詞ですから。あ、今思ったら劉姓が多い気がしますね(笑)
(P902i/FOMA)
25 通
三国志演技を本当の三国志と勘違いしている人の方が、断然多いですからね。小説家も、正史より演技の方から物語りを作る事が多いですし。
孫策というと、演技では于吉に呪い殺される話がありましたが、まあ呪いは嘘としても、実際に于吉という人物はいたのでしょうか。
孫策というと、演技では于吉に呪い殺される話がありましたが、まあ呪いは嘘としても、実際に于吉という人物はいたのでしょうか。
(P902i/FOMA)
29 通
あの当時の呉はまだ後年のようにしっかりした支配体制が出来ておらず、各地に反孫の勢力や残党がいましたし、長子の孫韶はまだ幼かったですから、それが孫権に跡を譲った理由だと思います。
(P902i/FOMA)
32 赤龍
>>15
古い話で申し訳ありませんが、久々に宮崎市定先生の『大唐帝国』を読んでいたら
「学問の道にはいって、いわば儒教の教徒となると、当然のことながら儒教の規律である礼を守らねばならなかった。とくに親には孝行をつくし、兄弟には友愛をつくすことが要求された(中略)両親ともなくなったあとは遺産相続が行われるが、なるべく自分の分を少なくして兄弟にゆずり、廉潔であることを証拠だてなければならない」
という一文がありました。
これを読んでいたとき、ふと孫策が爵位を孫匡に譲ったことと関係あるかも?と思いました。
もちろん、これが全ての理由とは断言できず、>>18で朱家さんが仰る、野心を韜晦する手段という理由も考えられますが。
しかし、当時は儒的な価値基準が重視されていた時代。弟に譲ることにより、自分の名声を高めることを狙った可能性も考えられるのではないでしょうか。
また、以前、孫堅の死から孫策の活動が表面的になるまでの、いわば雌伏の期間。これが儒の定める「三年の喪」の期間にあたるのでは?という指摘をされた方がおられました。これについては要検証ですが。
こうした方面から考察すれば、孫策について別の一面が見えるかもしれない。なんてふと思いました。
読書中の全くの思いつきなので、根拠は全然無い、無責任な話ですが。
古い話で申し訳ありませんが、久々に宮崎市定先生の『大唐帝国』を読んでいたら
「学問の道にはいって、いわば儒教の教徒となると、当然のことながら儒教の規律である礼を守らねばならなかった。とくに親には孝行をつくし、兄弟には友愛をつくすことが要求された(中略)両親ともなくなったあとは遺産相続が行われるが、なるべく自分の分を少なくして兄弟にゆずり、廉潔であることを証拠だてなければならない」
という一文がありました。
これを読んでいたとき、ふと孫策が爵位を孫匡に譲ったことと関係あるかも?と思いました。
もちろん、これが全ての理由とは断言できず、>>18で朱家さんが仰る、野心を韜晦する手段という理由も考えられますが。
しかし、当時は儒的な価値基準が重視されていた時代。弟に譲ることにより、自分の名声を高めることを狙った可能性も考えられるのではないでしょうか。
また、以前、孫堅の死から孫策の活動が表面的になるまでの、いわば雌伏の期間。これが儒の定める「三年の喪」の期間にあたるのでは?という指摘をされた方がおられました。これについては要検証ですが。
こうした方面から考察すれば、孫策について別の一面が見えるかもしれない。なんてふと思いました。
読書中の全くの思いつきなので、根拠は全然無い、無責任な話ですが。
(PC)
35 しす
>>32の赤龍さんのカキコを読んで思った野ですが…
初平二年(191)〜興平元年(194)の孫策雌伏の3年を「三年の喪」と仮定した時、逆転の発想もできるのではないかと考えました。
即ち袁術が「三年の喪」を理由に孫策の決起を封じたというのはどうでしょう?
とりあえず小説のネタとしてならば使えそうな気はしたのですが。
初平二年(191)〜興平元年(194)の孫策雌伏の3年を「三年の喪」と仮定した時、逆転の発想もできるのではないかと考えました。
即ち袁術が「三年の喪」を理由に孫策の決起を封じたというのはどうでしょう?
とりあえず小説のネタとしてならば使えそうな気はしたのですが。
(PC)