1 ピヨひこ

兵の統率について

ひとつの軍隊を将軍が指揮して統率するのはわかるのですが、その兵士内での統率はどうなっていたのでしょう?
(W21SA/au)
2 ピヨひこ
疑問:合肥の戦いの際、甘寧が100騎で魏の陣営に奇襲し、混乱させた…とありますが、その100人の兵士の選抜の基準は何だったのでしょう?
(W21SA/au)
3 天草
ピヨひこサン>初めまして(ですよね?)よろしくお願いします。

統率の件ですが、やはり現在の軍隊と同じ様に兵卒の中でも階級のようなものが存在したのではないか?と考えますがいかがでしょう?
もちろん何万人もの軍に一人の将が作戦を告げるというのは無理がありますからね。
もし兵卒内の階級のような存在が分かる記述があるとご存知の方がいれば教えて下さい。

あと>>2は合肥の戦いではなく、赤壁の直後の江陵包囲戦ですね。
その記述には特に屈強な兵を選び…という様な言葉はありませんが、そういうシーンにはよく出てきますよね。
私の考えでは…
@忠誠度
A武力
B作戦遂行能力

でいかがでしょう。
あえてAとBを分けたのは、奇襲の場合臨機応変な戦いが求められると考えたからです。いかがでしょうか?
(PC)
4 まさ
初めまして。さてと、兵の階級についてですが、多分あったと思います。今の下士官にあたるものがあったんじゃないでしょうか?そうでもしなけりゃ、万単位で兵を動かすのは不可能かと
(W21S/au)
5 ピヨひこ
その作戦遂行能力とは判断力や洞察力に優れていると言うことですかな?
ではその良し悪しはどこで判断するんでしょうね?試験とか?それとも戦争での活躍から昇進かな?
(W21SA/au)
6 ヤスシ
ピヨひこ殿お久しぶりです。
曹操は戦争での活躍で下士官みたいなものを作っていそうな気もしますが…。

>>2については甘寧の子飼いの兵だったのでは?…と思いますが如何でしょう?
(PC)
7 天草
>>4
まさサン>初めまして。上官は良い兵卒を育てる事で出世する…みたいな感じなら、良い軍隊になりそうですもんね。恐らく良い将は常にそういう目で兵卒を見ていたものだと。
曹操が楽進を発掘した事なんか良い例ですよね。

>>5
あくまでも推測ですが、やはり実戦経験ではないでしょうか?
兵卒の中の上官何人かが、特に優れた自分の部下何十人かを指名し、任務に当らせる…みたいな感じなら理想ですよね。
もっとも一番大事な事は@の忠誠度だと思いますけどね。

>>6
甘寧の選ぶ兵に関しては確かにそうなのかもしれませんね。って言うか、そうであってもらいたいですよね(笑)格好いいから。
(PC)
8 ピヨひこ
下級位から名をはせた人物といえば郭馬(交州太守?のとう允の私兵長。とう允が死に、私兵の解散が命じられたがどこかで反乱。反乱は交州一帯に広まったため晋の呉討伐を招いた。うろ覚えですいません)を思い浮かべます。
私兵長が反乱を起こせると言うことはそれだけ多くの兵をまとめれる地位にあったのでしょうか?
(W21SA/au)
9 赤龍
軍の編成について、例えば『尉繚子』に見える歩兵の編成は、歩兵五人に伍長、十人に什長、五十人に属長、百人に伯長を置く、されてます。他の兵書や歩兵以外の編成を見ても、長い時代を通じて(三国含む)五人一組を最小単位(伍)とし、それを基本とした編成がなされ、単位ごとにそれぞれ長が置かれていたと考えられます。
(J-SA05)
10 赤龍
ただし、三国時代の軍は豪族の私兵の集合という面も強く、その編成はかなりまちまちであったと思われます。特に豪族連合という面の強い呉では、それぞれの将が私兵を抱えてるという形がよく見られます。ピヨひこさんのあげた私兵長なんかもそうした例ですね。郭馬かあ、大学時代の研究で多少扱ったなあ…懐かしい
(J-SA05)
11 ピヨひこ
ではその伯長等にはどれくらいの権限があったのでしょう?中には有能な人物も多少いたと思いますが…
(W21SA/au)