1 諸葛豊
陸遜について
前に正史で、陸遜が死んで家には財産らしきものが何も残っていなかった。と記述がされていて、まったくどういう意図で書かれていたのかわからないので、皆さんの知恵を拝借したいのですが…よろしくお願いします。
(N900iS/FOMA)
3 無問題
諸葛豊さん・はじめまして、よろしくお願いいたします。陳寿って陸孫をかなり特別扱い(尊敬していた?)してますよね。財を蓄えないのは儒教の美点のひとつなので遠回しに彼の美点を示したのではないのでしょうか?それとも、大久保利通みたいに国費の足りない部分を私費で補っていたのでしょうか?あくまで一個人の見解です。
(W21K/au)
5 朱家
晩年の陸遜は呉を乗っ取れるくらいの権限を持ってたから、疑われる全てを排除してたのでは?あとは死に際して全ての財を処分したのかな。どちらにしても素晴らしい将である事と孫権に対する批判ではないかな。
(A1304T/au)
6 赤龍
丞相という高位にまでのぼり、その気になれば贅沢も蓄財も思うがままの立場であるのに、清廉潔白、私腹を肥やす事がなかった、という事を指すのでしょう。財産があって当然の地位の人だからこそ、美談になるということですね。
(J-SA05)
7 赤龍
諸葛亮にも同様な話がありますね。反対に仁徳者として名高い劉虞、常に質素な衣服で清貧を装っていたものの、彼の死後兵士が彼の屋敷に踏み込むと、妻達は贅沢な暮らしをしてた、と最後に醜名を残してしまった人もいます。
(J-SA05)
9 赤龍
劉虞の件が事実だとすれば、外では清貧を装い世間の称賛を受けながら、内では密かに贅沢をしていた。つまり彼の行動は偽善だったという疑いがあります。孝行と清廉が最も尊ばれた当時、こうして名声を得ようとする者は他にも多かったのかもしれません。だからこそ、陸遜の事が特筆されてるのかもしれませんね。
(J-SA05)
10 天草
ここの辞典を全て読むのは難しいでしょうが、私財を残さなかった(と記された)人物というのは以外に少なくないんですよね?
特に後世に名を残されているような伝が立っている人物なら、>>6のような美談になってますよね。
ところで…陸遜スレですから、彼の発見について少し語ります。
彼は無名の文官だったのに呂蒙に見出され…というイメージが強いと思いますが、実は孫権が将軍の地位にあった時(多分曹操の上奏で討虜将軍になった時か?)孫権の幕下に入ったとあります。その後も事ある毎に賊退治をしてますから、当時から孫権の信頼はある程度厚かったとも考えられます。
また彼は無双などのイメージで若武者っぽいイメージですが、実は孫権と一つ違いなんですよね(笑)彼が台頭し関羽が殺される219年には183年生まれの陸遜は36歳でしたとさ。
特に後世に名を残されているような伝が立っている人物なら、>>6のような美談になってますよね。
ところで…陸遜スレですから、彼の発見について少し語ります。
彼は無名の文官だったのに呂蒙に見出され…というイメージが強いと思いますが、実は孫権が将軍の地位にあった時(多分曹操の上奏で討虜将軍になった時か?)孫権の幕下に入ったとあります。その後も事ある毎に賊退治をしてますから、当時から孫権の信頼はある程度厚かったとも考えられます。
また彼は無双などのイメージで若武者っぽいイメージですが、実は孫権と一つ違いなんですよね(笑)彼が台頭し関羽が殺される219年には183年生まれの陸遜は36歳でしたとさ。
(PC)
11 赤龍
陸遜出仕は21歳の時、203年ということになります。孫権に代替わりして4年目。江南の地の平定を進めている時期。陸氏といえば孫権が拠点とした呉郡の有力豪族の一つ(呉の四姓)陸遜は陸康死後、若くしてその陸氏のまとめ役。また孫策が陸康を攻め、陸氏の多くが死んだという因縁も。
つづく
つづく
(J-SA05)
12 赤龍
これらの事から、陸遜の登用は呉郡の名族陸氏を懐柔し、自政権内にとり込む(呉郡の豪族の支持を得る=呉郡の安定した統治)ことも目的であったと推測できます。その後の孫策の娘との婚姻、陸遜の才能を認めたという面もあるでしょうが、孫氏と陸氏が婚姻関係を結び、より強い結び付きをつくったともとれます。
(J-SA05)
14 朱家
若い頃は山賊退治で功をあげており、大将軍になってからは、荊州の兵馬の権と、蜀と自由に外交を行える印とゆう、恐ろしいほどの権限をもらってる。このような人物を疑う事が有り得ない。孫権がボケてた証拠でしょう。丞相はオマケみたいなもので、他にいなかったからだと思います。正史にも政治に関与した記述は最後以外なかったはずです。魯王に太子と同等の待遇を与えた時にも、政治家ではないからと言ってそのままにしてたが、あまりにひどくなったため、孫権に諫言したらしい。史実かどうか疑問だが、諫言が遅れたのは事実でしょう。
(A1304T/au)
16 ナナホッシー
朱家殿のおっしゃるとおり陸遜の権力は絶大でしたが、陸家の隆盛を恐れていたのは呉の皇族でしょう。特に孫登死後の後継争いにおいて孫権が陸遜を失脚させているのは誰かの讒言があったから、ってのは考えすぎでしょうかね。
(PC)
18 赤龍
ナナホッシーさん、実際陸遜への讒言は魯王派の楊竺によって行われています(他にも太子派の多くが被害にあった)孫権も後に陸抗に対し、讒言による冤罪だったことを認め謝罪しています。
(J-SA05)
19 天草
そうですね。
陸遜の失脚は孫権の失態と言うより、派閥争いや権力争いに巻き込まれた形でしょうか。
いつの世の中にもこういう話はあるんですよね。
それに打ち勝った司馬懿と彼をつい比較してしまうのは私だけでしょうか?
陸遜の失脚は孫権の失態と言うより、派閥争いや権力争いに巻き込まれた形でしょうか。
いつの世の中にもこういう話はあるんですよね。
それに打ち勝った司馬懿と彼をつい比較してしまうのは私だけでしょうか?
(PC)
20 赤龍
陸遜は、その主張から太子派とみなされるものの、彼自身は派閥抗争自体をよしとせず、派閥をつくって争う意思も無かった。国家の重臣として己の正しいと思う事を主張しただけ。そこが、自ら派閥をつくり、敵対派閥をつぶし権力を掌握しようと明確な意思をもった司馬懿との差でしょうね。
(J-SA05)
22 廻々
初めまして。
一応、陸遜の事なんですが…スレ違い又は初歩的な質問だったらすいません。
陸遜の名の事なのですが…元々は議というのは知っているのですが、何故名前を変えたのかが分からないのです。
遜という文字の意味を考えると孫権に変えさせられたのか…?みたいに推測していますが、資料になるもの持ってないんで調べられません。
知識がある方、お暇があれば御教授を…。
長文すいません。
一応、陸遜の事なんですが…スレ違い又は初歩的な質問だったらすいません。
陸遜の名の事なのですが…元々は議というのは知っているのですが、何故名前を変えたのかが分からないのです。
遜という文字の意味を考えると孫権に変えさせられたのか…?みたいに推測していますが、資料になるもの持ってないんで調べられません。
知識がある方、お暇があれば御教授を…。
長文すいません。
(P901i/FOMA)
24 赤龍
陸遜改名の時期、理由は不明ですが、呉書には「陸遜」と、魏書・蜀書には「陸議」と何故か使い分けられてる傾向がみられます。陳寿が使用した資料の違いなのか、後の版本によるものなのか、こちらも理由がわかりませんが、なにかヒントになるのかも…
(J-SA05)
25 廻々
レス感謝です!
>李克用さん
私は仕官当時に変えたのかと思ってましたが、実は後からだったんですね。
勉強になりました!
>赤龍さん
呉と魏・蜀で表記が使い分けられてたとは知りませんでした。
本当にヒントになりそうですね…。
また的外れな推測ですが…呉書では使わないって事は呉の御偉いさん(孫家の血筋等?)の中に議って名前の人が居たというのはどうでしょう?
呉の人が呉の為に書いた歴史書ならまだしも、これはちょっと無理がありますかね…。
スレ主様、スレの内容から外れてすいません…。
>李克用さん
私は仕官当時に変えたのかと思ってましたが、実は後からだったんですね。
勉強になりました!
>赤龍さん
呉と魏・蜀で表記が使い分けられてたとは知りませんでした。
本当にヒントになりそうですね…。
また的外れな推測ですが…呉書では使わないって事は呉の御偉いさん(孫家の血筋等?)の中に議って名前の人が居たというのはどうでしょう?
呉の人が呉の為に書いた歴史書ならまだしも、これはちょっと無理がありますかね…。
スレ主様、スレの内容から外れてすいません…。
(P901i/FOMA)
26 赤龍
廻々さん、私も同じことをかつて考えました。陳寿が呉書を書く際には、呉の人によって書かれた史書をかなり参考にしていると考えられてますから。ただ、名を避けるべき「議」という名の人がいない(見つからない)のが最大の問題点。結局私もよくわかりません。改名の時期を記した史料も無かったと思いますし。
(J-SA05)
28 赤龍
周魴伝、陸議と書かれているのは周魴が曹休にあてた手紙の中。一方周魴伝のその直後の陳寿の文中では陸遜と記されている。これで、この時は陸議と名乗っていた可能性がでましたね。原史料の相違の可能性もありますが。他の例も調べてみる必要がありますね。
(J-SA05)
29 廻々
お二方、情報感謝です!
孫議さんとかは居なさそうですか…残念です。
それでも史書の記述からすれば、陸遜は生前は陸議で通っていたと考えるのが妥当ですね。
諦めが悪いかも知れませんが…私なりにポイントとなりそうな事を纏めました。
1.『遜』の字義
当時は、現代使用以外の意味があった可能性有。
2.時期
死後・晩年が有力ですが、これが確定すれば結論が絞りやすくなります。
3.理由
4.誰が改名したか
これによって改名理由が動くと思います。
孫権が命じたのか、自分で変えたのか、後の者がそう記したのか…。
後は、やはり陳寿の記述スタイルでしょうか。
此方の意図が読めればいいのですが…当然、故人ですからね。
一先ず、1辺りを後程図書館で調べてきます。
やっぱ、資料が無いと話にならないので…。
上記について、有力な情報があれば教えて頂けると助かります。
なんか、結論が着かなそうな話を引っ張って申し訳ないです…。
孫議さんとかは居なさそうですか…残念です。
それでも史書の記述からすれば、陸遜は生前は陸議で通っていたと考えるのが妥当ですね。
諦めが悪いかも知れませんが…私なりにポイントとなりそうな事を纏めました。
1.『遜』の字義
当時は、現代使用以外の意味があった可能性有。
2.時期
死後・晩年が有力ですが、これが確定すれば結論が絞りやすくなります。
3.理由
4.誰が改名したか
これによって改名理由が動くと思います。
孫権が命じたのか、自分で変えたのか、後の者がそう記したのか…。
後は、やはり陳寿の記述スタイルでしょうか。
此方の意図が読めればいいのですが…当然、故人ですからね。
一先ず、1辺りを後程図書館で調べてきます。
やっぱ、資料が無いと話にならないので…。
上記について、有力な情報があれば教えて頂けると助かります。
なんか、結論が着かなそうな話を引っ張って申し訳ないです…。
(P901i/FOMA)
32 巫俊(ふしゅん)
呉郡の人で会稽郡の余姚に隠棲していた高岱を孫策の元に連れてきたのは会稽郡の丞の陸昭のようですね。会稽太守は孫策が直々に帯びているので、副官の丞は実務の官として重責を帯びていたようにも想像されます。郡内には都尉もいるので、郡内での地位はそれほど高くないのかもしれませんが。
討逆伝中のこの呉録の記事の編年的配置から見て、陸昭が会稽郡丞だったのは孫策が負傷死する200年の前後と推定されます。孫権が会稽太守の印綬を引き継ぐと顧ヨウが会稽郡丞に就任していますから、顧ヨウは陸昭の代わりという感じですよね。
それにしても高岱を陥れて孫策に斬らせるように仕向けたのは誰なんだろうか。
まさか陸昭が...という気がしないでもないですが、よく分かりません。
討逆伝中のこの呉録の記事の編年的配置から見て、陸昭が会稽郡丞だったのは孫策が負傷死する200年の前後と推定されます。孫権が会稽太守の印綬を引き継ぐと顧ヨウが会稽郡丞に就任していますから、顧ヨウは陸昭の代わりという感じですよね。
それにしても高岱を陥れて孫策に斬らせるように仕向けたのは誰なんだろうか。
まさか陸昭が...という気がしないでもないですが、よく分かりません。
(PC)