4 無問題
法正って人間性に癖がありますよね。些細な恨みがある者を死罪にしたり…。でも、その汚点を払拭するぐらいの才能がかれにはあったと思います。しかし、法正だけに止まらず、軍師系って人間的に一癖も二癖もある人物が多いですよね(郭嘉とか程イクとか)
(W21K/au)
5 赤龍
その人間的な問題点が、ホウ統が荀イクに例えられたのに対し、法正が「程イク、郭嘉のともがら」と比較された所以でしょうね。「徳性についての賞賛はなかった」とまで言われてますし。
(J-SA05)
6 朱家
過去スレありましたか…確認したつもりでしたがすいません。確かに劉備の庇護のもと好き勝手やってましたけど、それが普通の人間らしくて好きなんですよね。あまりに立派な人物だと親近感が持てなくて…凄いとは思いますけどね。劉備がそこまで気に入った理由が謎なんですけど、才を愛した感じではないですし、私の憶測だとダークな部分も含めて自分に似てたからではないかと思いますが、どうでしょう?
(A1304T/au)
7 無問題
確かに、この二人にたもの同士ですよね。劉備は演技のようないちがいに好い人とは言えないし、けっこう狡猾なところがあるし、けっこう乱暴ものだし…。まあ、そういう劉備も好きですけど(笑)
(W21K/au)
9 無問題
朱家さん・孫権はどっちかというとガキっぽいですよね。張昭から虎狩りをやらないように諌められてもやめなかったり、部下といざこざおこしたり…。孫権に女性のファンがおおいのは母性本能がくすぐられるからではないでしょうか?
(W21K/au)
12 門弟
法正は個人的に大好きです。たしか緒葛亮とホウ統と同じ司馬キ先生の門下生でしたか。法正の存在がいかに大きかったか。劉備の関羽、張飛の弔い合戦の委凌の戦いでは、大敗した劉備が死にそうになりながら帰ってきて言ったそうです。「度戦(たびいくさ)、法正あらば、毎敗せず」(この戦い、法正が生きていれば負けはしなかった)と。諸葛亮という軍師が居ながら法正を立てるとは、劉備の法正への信頼がいかに厚かったか、法正が死んだ時の切なさがわかりますね。関羽、張飛の弔いもできず、63歳で果てた劉備の少し悲しい出来ごとでした。
(W21T/au)
14 門弟
たしか門下生でしたよ。法正が諸葛亮と話している場面が本か何かにかいてありました。まだ乱世について話していたので劉備と出会う前、法正と久々に会った場面でしたかね。すみません、あいまいな記憶で…
(W21T/au)
15 赤龍
法正は、荊州に行った形跡もなく、司馬徽との接点を示す記述も無く、司馬徽門下ということは考えられません。
おそらく、門弟さんが読まれたのは、何かの小説の創作ではないのでしょうか?
ちなみに、正史では夷陵の敗戦を聞いた諸葛亮が「法正が生きていれば、東征をとめることができただろうし、たとえ東征したとしても、きっと危難を避けることができただろう」と嘆息しています。両者の交流は窺えませんが、諸葛亮も高く評価していたことは事実でしょうね。
おそらく、門弟さんが読まれたのは、何かの小説の創作ではないのでしょうか?
ちなみに、正史では夷陵の敗戦を聞いた諸葛亮が「法正が生きていれば、東征をとめることができただろうし、たとえ東征したとしても、きっと危難を避けることができただろう」と嘆息しています。両者の交流は窺えませんが、諸葛亮も高く評価していたことは事実でしょうね。
(PC)
19 くわぁまん
ちょっと調べてみました。法正は司隷部の右扶風郡の出身です。その祖父法真は古典や予言の書にも通じており、人物の出世を予知するなど人物鑑識眼を持っていたらしいです。
人物鑑識眼と言えば月旦で有名な許ショウ、許靖の従弟、水鏡先生こと司馬徽があげられますよね…。
法真は188年に89歳で没してますが、若かりしころ遊学の旅をしていれば洛陽辺りで彼らは会っていたかもね。
人物鑑識眼と言えば月旦で有名な許ショウ、許靖の従弟、水鏡先生こと司馬徽があげられますよね…。
法真は188年に89歳で没してますが、若かりしころ遊学の旅をしていれば洛陽辺りで彼らは会っていたかもね。
(F901iC/FOMA)