1 ヤスシ

劉禅は暗愚か?

最近リアルが忙しくてロムってました(笑)
たまには話題を一つ。
暗愚と言ってしまえば終わりかな?何とか皆様のお力で弁護してあげて下さい。正史にも伝がなく、三国志の話題とも言えないかも…(笑)
(J-SH53_a)
2 たかひろ
乱世には暗愚、平時には名君(でもないか)
(F2102V/FOMA)
3 大伴ゴジョウ
三国志にもちゃんと、劉禅伝ありますよ。蜀書<後主伝>がそれです。
彼の暗愚説はもはや定説の感がありますが、実際は凡庸であっただけやも知れませんね。ましてや黄コウの様な人物が常に周りにいては、努力するにも妨げとなりましょう。

司馬昭が「蜀を思い出すか?」と聞けば、「ここが楽しいので思い出さない」と劉禅は答えた。これを聞いたゲキ正は、「同じ質問をされたら涙を流し、[先祖の墓が蜀にあるので、西を思っては悲しく、一日として思い出さぬ日はありません]と言い、目を閉じる様に」と教えたという。ある時、たまたま司馬昭が同じ質問をした時、劉禅はそれでこう答えた。しかし司馬昭が「何とゲキ正の言葉と似ている事か」と驚いたので、「仰せのとおりです」と、白状した。左右の人々は笑ったという。

↑劉禅のマヌケさを表すエピソードではありますが、同時に彼の素直さも感じ取る事ができますね。
(F2102V/FOMA)
4 たかひろ
まっ彼は不人気ですが、平和な日本でのうのうと生きる俺よりだいぶんまし。

彼を裁く資格わないなぁ(笑)
(F2102V/FOMA)
5 ヤスシ
後主伝…忘れてました(笑)
大伴殿の劉禅のエピソード、最初から「蜀を思い出す」と答えていたら、謀叛の心有りと取られかねませんかね?だから劉禅は「楽しくて…略」と答えたと考えられませんかね?(無理があるか…)
(J-SH53_a)
6 大伴
その後楽しく暮らした人ですからねぇ。私は買い被りだと思います>ヤスシさん

まぁ後々わざわざ争い事を起こさず、無理なクーデターとは無縁に、安泰に生きたという事は、彼の賢さの一つかも知れませんね。
(F2102V/FOMA)
7 天草
おぉ!良い議題だ!

と言いながら、殆ど知らないので、勉強してみよう。。。
(PC)
8 ヤスシ
大伴殿>確かに(笑)買い被りですね。彼の幼名[阿斗]は馬鹿にする言葉になってしまっている様ですね。それがあまりに不敏で…(本人はそれなりに幸せだったから良いのかも)
(J-SH53_a)
9 たかひろ
ついでに中国人に言われたことがある(笑)
(F2102V/FOMA)
10 恵依
これは三国志を好きになった人は必ず一回は通る話題ですね(笑)

さて、ワタシは実は後主擁護派です。
モチロン、『飛び抜けて名君だった』などと云うつもりはありません。
しかしながら、彼を <暗愚> と評するには抵抗があります。
以下の理由で、

1.成都まで迫ったトウ艾に棺を背負って降伏した
2.(実権があったかどうかは別にして)約40年間、蜀漢の主であった。
3.滅亡に際して、国家に殉じる者があった
4.内乱に因る滅亡ではない


結局、滅亡した訳ですから君主として及第点は得られないのかも知れません。
しかし、個人の人柄として考えた場合に『後ろ指を指される』程ではないと。

ワタシはこのように考えます。
(PC)
11 ヤスシ
恵依殿の見方も一理ある気もするんですが…降伏が早すぎな気もするんですよね…。まだ友軍が粘っているのに降伏ですよ?(ドッチ派ダオマエハ)戦って散って欲しかったです。個人的には。
(J-SH53_a)
12 天草
後主伝読んでみました。

素直に感じた事は、父が偉大すぎて、周りが比べてしまったのでは…という印象です。確かに皆さんがおっしゃるとおり、少し酷な立場だった事も否定できませんよね。
しかしそれは曹否らにも言えることですからね。。。

擁護するなら、劉備の遺言通りに諸葛亮を重用したことですかね。しかしその後の人材に恵まれなかったのが残念ですよね。

では。。。蜀滅亡のA級戦犯は誰だったのでしょうか?私はこのあたりの背景に疎いので、皆さんの意見を聞かせてください。
(PC)
13 ヤスシ
実は…孔明だと思っています…。
あっ、物は投げないで下さい!
正直、戦があまり上手くなく、目立った富国政策もない(劉禅が浪費していた?)さらに、勝てる見込みのない北伐の連続、人材育成の中途半端。キリがないです。
時間をかければやりようもあったと思いますが…。孔明先生、あなたは何を焦っていたのですか?
(J-SH53_a)
14 たかひろ
姜維でしょ。こいつは自称後継者の戦犯。

軍部が力を持ちすぎる事のダメさを表したお方。
(F2102V/FOMA)
15 たかひろ
あとは劉備。夷陵がなければなぁ
(F2102V/FOMA)
16 大伴ゴジョウ
確かに諸葛亮は、軍事に関しては有能とは言い難い気がしますね。彼の才能は、もっと別の所にあったのでしょう。彼は司法、立法、行政での名が高い訳ですから、軍政、軍略までの飛び抜けた才を要求するのはちょいと酷なもの。欲張り過ぎです。
しかし、それでも諸葛亮に頼らねばならぬ人材の乏しさ。諸葛亮が一番ましだったのでしょうね。
原因はこの人と、罪を数人に被せる事は、私は致しませんが、軍事政権であったにも拘わらず、軍事の飛び抜けた専門家が不在であった事(若しくは、発言力がなかった事)が原因であると思います。文人ならば、沢山いた様ですので、そのバランスでしょうね。
(F2102V/FOMA)
17 たかひろ
つまりは確たる国家体系を確立しなかったショクは滅びるべくして滅びた…
(F2102V/FOMA)
18 恵依
国力五倍の強国が、辺境ね弱小勢力を滅ぼす。
驚く結果ではありません。

しかし敢えて『オマエの所為だー!』を探るとしたら、ワタシは

諸葛亮
関羽
姜維

の三人がその対象だと思います。
(P2102V/FOMA)
19 大伴ゴジョウ
現代の病の一つとして、ワーカホリックというのがありますが、今考えてみれば、諸葛亮はこれだったのかも知れませんね。確か会計簿をチェックしていて、楊ギョウというおっさんに怒られているでしょう。もっとも、現代ではそうして燃え尽き症候群となる人も多いですが。

姜維という人の悪い所は、軍政家として無能であった事でしょう。軍国主義の軍事政権において、こういう人物が軍部のトップに立つ事程致命的な事はありません。主戦論を唱える事が軍国主義では無く、軍事的圧力を背景に、外交や内務を行う事をこういうのです。自国の国力も考えずに戦争を行う事ではありません。

考えてみれば、諸葛亮の後継者である、蒋エンを支えた有能な政治家、費イの刺殺事件こそが、滅亡を早めた様な気がしますね。彼の死こそが、姜維一派の暴走に歯止めが効かなくなった原因でありますから。

無論、郭循が蜀を滅ぼしたと、論理の飛躍をするつもりはありません。
(F2102V/FOMA)
20 たかひろ
つまるところ、劉ぜんさんだ。
(F2102V/FOMA)
21 黄祖@天草
諸葛亮…う〜ん。。。ミーハーファンの私からすれば認めたくないですね(笑)

私は諸葛亮の無理な北伐はしょうがないと思っています。
弱小国家が強大な魏に侵攻する為、『攻撃こそ最大の防御』を身を呈してじっこうしたのではないでしょうか?つまり、あの状況では『そうするしかなかった』と言う事。先主への忠誠が無理をさせた。もしくは統一ではなく、三国の緊張状態のまま時代が続くのを許すなら、北伐は意味を成さないのでしょうが…。
(PC)
22 大伴ゴジョウ
恐らく諸葛亮という人は多才な人で、沢山の分野において優れていた人なのだと思います。
しかし多才と万能とは、似ていても、全く違う言葉ですからね。万能を求められ、万能であろうとした所に、彼の悲しさがあるのだと思います。

諸葛亮が劉備に認められたのは、諸葛亮伝に引く魏略によると、適正な徴兵量の計算方法でした。恐らく軍政家としては優れていたのでしょうし、軍令にも秀でていたのでしょう。しかしだからといって、戦略、作戦、戦術といった、各々のレベルの軍略にも能力があった、とする訳にはいかぬでしょう。恐らく戦略にしかありません。彼の立案能力には、首を傾げるところも多々ありますよね。
百戦全勝の名軍師。その虚構を認識する事こそが、彼の本来の素晴らしさを再認する事に繋がると、そう私は考えております。
(F2102V/FOMA)
23 趙偃
孔明さんは政治家としての立場から北伐を敢行したのでしょう。いくら内政を整備しても飛躍的な国力上昇は望めない状態で圧倒的な国力差がある場合、何もしなければ滅亡あるのみ。呉と多面攻撃すればあるいは、という望みにすがったわけで、彼の北伐は戦略としては間違っていないかと。まあ正攻法を常とし、軍略を得意としない彼が軍を率いなければならなかった点に成功に至らなかった理由があると私は考えます。
(N900i/FOMA)
24 天草
蜀の宦官達はどんな悪さをしたんですか?
(PC)
25 大伴
後主伝の伝末の賛に、確かに、劉禅は宦者に惑わされ暗愚になった、という意味の事が書いてありますね。

勉強不足を露呈する様ですが、黄コウという宦官のトップが、右大将軍閻宇と結託し、姜維と権力争いをした事以外はさして書かれていなかった様に記憶しています。恐らく宦官の悪事のバリエーションなど、それ程多くは無く、決まってそれら全てをやっていたのでしょう。だからわざわざ書かれなかったのだと思います。後漢末の宦官の様子を参考に推察してみても良いと、私は考えますね。
(F2102V/FOMA)
26 張五飛
これが悪い
羅貫中
蜀と言う土地
(TT21/TU-KA)
27 ヤスシ
蜀と云う土地は確かに不毛な部分もあるかと思いますが、守る事に関しては良い土地だったのでは?天然の要塞と言われた所ですし…。
(J-SH53_a)
28 大伴
人口密度が低い土地ですから。
私は特定過疎地域に指定された、物凄い田舎に住んでいるのですが、行政が行き届いておらず、住みにくいですよ。又、店は無いし、交通機関の未発達など大変不便です。
現代の日本でさえそうですから、当時の中国でも恐らくそうでしょう。行政が行き届いていないという事は同時に、管理が難しい土地という意味にもなるでしょうね。
土地は広くて管理が難しく人手が必要なのに、人口は少ないので収入は僅か。立地条件悪すぎますね。
(F2102V/FOMA)
29 天草
なるほど。。。

確かにそう考えると、天然の要害と言えば聞こえがいいですが、ただの田舎だったと言えば、そうなのかもしれませんね。私も田舎はクソがつく位の田舎ですから、想像はつきます。
(PC)
30 大伴
そう。

険しい土地→敵の進入を許し難く、略奪され難い。但し戸籍調査も困難。
(F2102V/FOMA)
31 張五飛
ついでに言うと降雨率高し。
(PC)
32 天草
良スレage
(PC)
33 三三
やっぱり劉禅のスレあったんですね^^
前買った本に「劉禅=愚か者」か?
と書かれたのを思い出して、スレ探してたのですが、いろんなスレを見つけるたびに覗いてしまい、横道へ・・・
話戻して
その本には劉禅をほめた人物のことが書かれてました
本探してきます
工エェっと
明の楊去奢という人物です
詳しい生没年や活躍の年代はわからないそうですが、刊行した本の序文そのほかに評論を書き付けてあった、その一節に
『後主の四十年の在位期間はこれといって見るべきものがないので、後世において、劉禅は凡庸で惰弱である。しかし、私は、そういう一般的な声に対して、彼は度量が広く、英断を下したりっぱな人物だと言いたい。大きな理由が三つある。ひとつは、官府内外のことをすべて、丞相諸葛亮に委ね、自分から嘴を入れることもなければ、諸葛亮を疑ったり嫌がったりすることがない点。ふたつめは丞相諸葛亮が没してからの在位期間三十年、政治方針を変更せず拡張もせずにそのまま維持し、諸葛亮以外丞相にすえることがなかった点。第三には、諸葛亮のことが気にいらず、前々から悪口を言いつづけ、諸葛亮の死後に「あいつが死んで良かったですね、陛下。あいつはいずれ陛下を廃して、みずから皇帝になろうとねらってたのですから。私はあいつが死んでホッとしましたよ。おめでとうございます。」といった季邈(リバク)を怒って処刑した点である。』
また、劉禅は中国歴代の皇帝(約二〇〇人)のなかで、在位期間四十一年は長いほうで、清の康熙帝、乾隆帝が六十年間超え、前漢も武帝が五十四年、・・・で劉禅が南宋の理宋と並んで第九位
劉禅の政治についても・・・孔明の布いた政治路線を変更しないで継承したため、努力していないように思われるが、「変えないでつづける」がはたして簡単か?どんな仕事でも一定のレベルを維持しつづけるのは大変苦労で、政治は揺れ動く国際情勢とともに変化が当たり前の世界。劉禅はそれを三十年何とかしつづけたのである
長すぎましたm(_ _)m
(PC)
34 天草
良スレage

劉禅は実は良い君主だった…という案は、結構多いし、いろいろな文献でもありますよね。

いや、やっぱり暗愚でしょ?という意見が欲しくないですか?(笑)

私もその方向で少し調べてみます。
(PC)
35 黄龍
全くの私見ながら述べさせて頂きます。劉家の血筋とも言えるんでしょうか、劉禅は平時においては無難に政治を行える人柄ながらも、乱世において臨機応変に対応できる能力のなかった数多い無害な凡将の1人にあたる人間なのではないでしょうか?劉家の特徴は、自分自身に取り立てて才はないものの、周りの良将にささえられながら将をうまく使い、従えさせる部分のみ際立っております。孔明を重用し、その政策を守り続けたのもその血のなせる業かな?などと思っております。霊帝・献帝・劉璋・劉表など、タイプは微妙に違うながらも、周りにいくらかの人物を得られながら、平時においては無害な政治を行う(だろう)人物を排出する劉家の特徴を顕しているんではないでしょうか?乱世に対応できる高祖や劉備はむしろ血の中の突然変異でありますね。劉禅を名将ととらえるには、彼に一体どんな際立った才があるのか?また、無難・無害な人物全てを名将と見なすのか?甚だ疑問に感じるのであります。
(F900i/FOMA)
36 たろう
私は劉禅の能力は未知数だと考えます。
劉禅はとにかく純粋で人に嫌われたくなかったのでしょう。諸葛亮・ヒイ・姜維・黄コウとの交わりや魏に行ってからの彼を見てもそんな感じがします。
なので劉禅は自分が思うような事を全くしてない。凡能ともみれますがあえて私は能力に関して未知数と考えています。
お人好しだったんでしょうね…あと私は諸葛亮が実権を握っている状態だったら乱世には向いてませんが治世では劉備や曹操等よりはるかに上だと確信しています。
長文失礼しましたm(_ _)m
(W21SA/au)
37 しす
へっぽこスレに関連してageます。
(PC)
38 ストラップ
個人的には、暗愚説をヒックリ返したいのですが、そうすると董允の仕事が軽くなってしまいますね。

最近夷陵の敗戦以後の蜀再建には、董允の果たした仕事が大きいのでは無いかと感じ始めました。宦官に勝手を許さなかった董允は立派ですよ。
(PC)
39 天草
改めて初歩的な事を考えてみました

彼の場合、何もしかった事が評価されているという珍しい人物ですよね(笑)
父の遺言を守り、諸葛亮に全てを任せてますし…それなのに後世でその幼名が駄目男の代名詞みたいに言われるのは何故なのでしょうか?
(EZ)
40 燃燈
きっとその「何もしなかった」ことが暗愚説でしょう。有能な部下にまかせて何もしなかったのは自分の能力や部下の能力を良くわかっていたからでは?だからこそ評価があり、でも何もしなかったから駄目君主…。どっちに転んでも駄目と言われる仕方のない様な気がします…
(W21SA/au)
41 赤龍
やっぱ、蜀びいきの人達には、戦わずしてあっさり降伏したというのが許せなかったのではないのでしょうか?
自殺した劉ジンなんか、反対に人気が高いですよね。
もし、蜀が天下をとっていれば、または、劉禅の次の代まで存続していたら、劉禅もここまで暗愚な人物とは言われなかったと思います。
民のこと、国の事を思えば、勝ち目が無いとわかればさっさと降伏した方が、無駄な血も流れず、よっぽどよい判断なんですが、後世の第三者は無責任なもんだなと思うところです。
(PC)
42 燃燈
阿斗がバカの代名詞となったのはいつ頃の時代なんですかね?演義の後の時代なら蜀ファンが多いので劉禅を暗愚と呼ぶ人が増えてもわかるのですが…どなたかわかりますか?
(W21SA/au)
董卓、えん術ほどの暴君ではないのです。長坂橋で趙雲に救われた→悪運強い→運も実力のうち→だから名君です!
もし長坂橋で劉禅が逝き劉封が跡継いでたら北伐と内乱で燭滅びます。
でわm(_ _)m
(W11K/au)
44 朱家
手元に資料がないのですが、初代丞相は孔明で、ニ代目&最後は黄皓ですよね。ふと思った事なんですが、孔明が偉大で欠番的になってたみたいですが、それは劉禅の意向なのか?朝議の意向なのか?劉禅が暗愚だとは思ってませんが、黄皓の丞相就任はひどいですね。これが大司馬ぐらいだったら評価が違ったのでは?孔明ファンは些細な事に敏感ですから。
(A1304T/au)
45 赤龍
黄皓は丞相にはなってないと思いますよ。最終的に中常侍・奉車都尉のようです。
(PC)
46 朱家
赤龍さんどうもです。長いこと勘違いしておりました。思いつきで書いて申し訳ないです。では、誰も触れないようなので、劉備の遺言で「孔明は後主の知力は大きく、期待以上の進歩をしていると言っているが」とある。皆さんはこの事にどのような考えをお持ちでしょうか?
(A1304T/au)
47 元歎
>>44
諸葛亮ファンがおられるのに、こんなこと言うのは恐れ多いですが(スイマセン)、劉禅は諸葛亮の独裁政治を嫌ったのではないかと思います。諸葛亮が丞相・録尚書事・司隷校尉(益州牧)を兼務していたのに対し、蒋エンは大将軍・録尚書事・益州刺史に任命されただけです。漢中府に成都政権が抑えつけられないように、漢中府に対して大きい実権は与えたくなかったのではないでしょうか? しかし、国政はしっかりと蒋エンら漢中府が握っていましたが。軍権も漢中府が握っているからあまり強いことは言えなかったんでしょうね。
黄皓は漢中府の暴走を制約する、いわば成都政権の切り札のような存在だったんじゃないかなぁと思っています。(ここまでは、成都と漢中は対立していたという前提の話です)

よく考えてみれば黄皓って、そんなに悪くないんですよね。姜維を讒言したことは、諸葛瞻・董厥らも参加していることからわかるように、姜維の北伐に対する反発であって黄皓の個人的な讒言ではありませんし、反乱が多発してないことから考えて、三国志や演義で言っているほど悪い政治ではなかったんだと思います。


>>46
今探してるんですが、この記述は誰の伝でしたっけ? 確かにどこかで読んだはずなのに…
(PC)
48 赤龍
>>46
先主伝注に引く『諸葛亮集』に載っているものですね。
私はただのお世辞程度だと思ってます。主君の子(しかも太子)の事を「あんたの子は馬鹿だよ」なんて言うわけないですし、まして劉備は死が迫っていた状態。安心させる為にもこうして劉禅の事を褒めるでしょう。
劉備は「もし本当ならなにも心配することは無い」といいつつ、様々な注意を続けてます。これはまた、お世辞だとわかっていたからでしょうね。
(PC)
49 朱家
上記の記述だけで結構議論されてますよね。常々言っていたみたいなようにもとれますから、諂ったものか、真実なのか、一般的には昔は聡明だったが…との見方ですね。錚々たる人物が近くにいる事を考えても、ある程度の水準に達していたと考えてもいいと思う。黄皓寵愛、後宮を美女で満たそうとした事は悪行か微妙ですし、陳寿も最後にチクリと言ってるだけです。劉禅を見捨てた記述などはないですし、身柄の安全を確認して次々に降ってますし、忠義の将が多かった?そうだとしても君主としての器が必要と思いますね。
(A1304T/au)
50 朱家
晋書で面白いのを見つけたので…
李密伝・彼は劉禅の事を「斉の桓公に次ぐ明君である。桓公は管仲を得て覇をとなえ、劉禅は孔明を立て強国魏と果敢に戦った。黄皓を寵愛し腐敗を招くが、晩年の失敗など、彼だけに限った事ではない」かなり省略したが、こんな感じだと思う。翻訳に間違いがあれば訂正お願いします。
暗愚の代名詞となってたのであれば、削除対象の記述だと思うのですが、この真意は?この頃はまだ低い評価ではなかった?
さすがに、擁護派の私でも過大評価と断言しますけど。
(A1304T/au)
51 赤龍
李密伝ちょっと見ましたけど、彼は蜀の旧臣。そのため、劉禅の事を弁護し、高い評を与えただけでしょう。彼の立場からすれば当然のことですね。
ちなみに、暗愚の代名詞的存在になるのは、もっと後世のことなんじゃないでしょうか?
(PC)
52 朱家
赤龍さんのおっしゃるとおりなんですが、私は高いではなく、高すぎる評価が気になるのです。現在だと高すぎるですが、当時は、まあこれぐらいならって感じだったのでは?と思ったので…苦しい解釈ですかね?
せいぜい2〜3割り増しと考えても、かなり良い評価かなと…
(A1304T/au)
53 しす
age
(PC)
54 朱家
董允伝「孔明が北伐に向かう時、劉禅が年若く、事の是非を判断できないことを心配し…」って、劉禅は20才だよ(笑)なかなか酷い書き方かも。
意地悪く考えると、孔明が判断させないようにしたのかもしれませんが…
(W32K/au)
55 赤龍
20歳というと、現在でも十分若くて思慮に欠ける可能性があると判断される年だと思いますが。まして、その立場は一国の皇帝です。年長の補佐役を置くのは不思議ではありません。
「染められやすい白糸」と評された劉禅の性格を心配してのことかもしれませんが、特に問題とするほどの書き方ではないと思います。
(PC)
56 赤龍
>>54
ひょっとして、「事の是非を判断できないことを心配して」というのを、「劉禅はものごとの判断ができないから」という意味にとってます?
普通は「年若くて、ときに判断を誤ることもあるだろうから」くらいのニュアンスだと思いますが。これは劉禅に限らず、ごく一般的に当たり前のことですね。
(PC)
57 朱家
丞相ですから「後主は若いが優秀」との言動、行動をしてたはずで、「後主が年若く〜」との孔明の考えが後世に残るとは思えないんです。これは、孔明がそういう心配をしてるであろうと思わせる行動、言動を、劉禅がしてたと解釈できませんかね?つまり、蜀の多くの人々の心配事。もしくは陳寿の意見。その後に「成長してくると、黄皓を寵愛し〜」とあります。
まあ、私は黄皓を寵愛したのは別に…後宮を美人で満たすのも、別に悪い事とは…あくまでそれ自体はですが。
陳祗や黄皓は劉禅の意向に従ったから寵愛されたのであって、董允への反発が招いたようにも思います。劉禅も気がねするようになったともありますし、明らかに抑えられてます。黒糸を董允が白く見せてただけかもしれません。
(W32K/au)
58 へろへろ改
面白そうな話題ですね。
皇帝の中でもマシな部類に入るんじゃないかなって思います。
前の方にも書いてありますが、長期に渡って国政を悪いほうに傾けなかった。最後の方は…民を虐殺する皇帝よりいいと思います。
降伏に関しても、国力もかなりの差があるから降伏したのであって、普通の事をしたまでかと。
やっぱり暗愚より平凡が似合う御方です。
(N901iS/FOMA)
59 赤龍
>>57
諸葛亮が劉禅が判断を誤らぬように注意を促す言葉は、出師の表にしっかりのってますよ。董允らに相談しろということまで。
それに、繰り返しますが董允伝の文自体はあくまで「若さのせいで」判断を誤るかもという意味で、劉禅本人の資質自体を問題視しているわけではありません。仮に優秀と褒め称えつつこの処置を行なったとしても、なんら矛盾はありません。
(PC)
60 朱家
『出師の表』は劉禅の資質を疑問視してるように感じます。即位直後の言葉ではなく、少なくとも四年は経ってる訳で、孔明が感じたものだと思います。
「若くて、政の正邪の判断を間違うから、真面目な心を持つ董允に補佐させたい」って成立してますかね?「道徳的な正邪の判断を〜」のほうがしっくりくると思います。20才で道徳的な正邪の判断を間違うのは、若いからでは説明できないと思います。
董允に侍中と虎賁中郎将を兼任させ、かなり強引な出世で宮中の権力者にしてます。補佐以上の事を求めてるように感じます。
(W32K/au)
61 赤龍
>>60
原文「以允秉心公亮」を「真面目な心をもつ董允に」なんて訳せば「道徳的な正邪の判断」の方がすっきりするような印象を与えられますが、ここはちくま訳のように「公明正大を貫く人物であるため」というニュアンスの方が妥当でしょう。すると、単に道徳だけでなく、政を含めた全般的な判断を指すことは問題ないはず。
その直後にも「宮中の事は大小の区別無く彼らに相談するよう」とあることからも明白ですね。
(PC)
62 朱家
正確に翻訳すると「後主は年若く、朱紫の区別がつき難いと心配し、公正亮直な心を持つ董允に宮中の諸事全てを任せたい」こんな感じだと思います。
真面目は「いい加減にごまかしたりしない事」明確かと思ったけど、ちょっと違った(笑)朱紫とは、善人と悪人との意味も含みますので、道徳寄りだと思います。道徳と政治が繋がらない訳ではないので、道徳的見地から、政治の判断だと思います。10才ぐらいなら、判断できないと断定するはずですが、特に問題はないはずです。
董允に任せたいは、出陣するからで、劉禅がどうであれ、孔明の代わりは必要です。董允を三階級?特進させてまで、宮中の権力者にしたのは、董允の政治面を疑う訳ではないですが、人格的な比重が大きいと考えます。
前述で悪く言いましたが、陳寿としては、世間知らずのお坊ちゃま程度だと思ってます。
(W32K/au)
63 ヒロサトル
皆様はじめまして。
面白いので、
参加させていだきます。
「劉禅が暗愚か否か」の
議題ですが、当時の中国
、つまり三国志の中では
、"暗愚"の代表なのでし
ょう。しかし現代の価値
観で見れば、評価出来る
ところも多々あります。
要するに、三国志の討論
道場としては暗愚。
歴史上の人物の生き方と
しては、開明的と言える
のではないでしょうか?

そこで劉禅の幼名「亜斗」が、「アホ」の原語となった由来は、三国志の
時代の象徴の一人である、劉備の生き様を否定する生き方をしているからでしょう。
多様な価値観は受け入れられて然るべきですが、その後の晋の統一と統治は、それ程長くありません。
やはり歴史的に見て、
劉禅は暗愚の
代名詞になるのでは?
(PENCK/au)
64 ヒロサトル
しかしながら
(つづきです)、
あれだけ数多くの英雄や英傑を輩出した時代の
最後を飾る人物が劉禅であることに、一抹の救いを感じるのも事実です。やっぱ
平和が一番でしょ!?
みたいな…
(PENCK/au)
65 ストラップ
>>>279-36
孫盛は「駑臣」と罵倒していますが、姜維と比較すると、劉禅に降伏を説いたショウ周の優れた事はより光ると思います(この人のあだ名「長児」の由来は>>>86-32)。
それを採用し、南で堅く守りたい気持ちを抑えて降伏をした劉禅も、個人的には評価をしております。

>>41にも書かれていますが、結局劉禅を「暗主」としているのは、僕を含めた蜀ファン(特に姜維信者)の「感情」の様な気がします。

>>25の様に確かに董允伝や後主伝の末にそれを裏付ける様な事は書いてありますが、李バクのエピソードや、(赤龍さんは否定的ですが)諸葛亮が「知力は甚だ大」と言ったというエピソード(>>46-48)から考えても、>>3>>5-6及び>>38は訂正したいと思いますね。
(F2102V/FOMA)
66 伍子胥
はじめまして。
諸葛亮について、私個人が思った事を少々。
ちなみに私は諸葛亮ファンなので、諸葛亮びいきになってしまうのは、お許しを。

私は、諸葛亮がなかなかの軍才の持ち主だったと思っております。
かといって、正史をすべて読んだワケではないので、間違ってるかもしれませんが…。
まず、北伐ですが、やむを得なかったと私も思います。
そして何より、軍才がなければ、無事に撤退を成功させる事はできないでしょう。
遂には、晋の礎を築いた司馬懿に【天下の奇才】とまで言わせているので、やはり才があったのだろうと、私は思います。
これは完全に私の勝手な思い込みですが、諸葛亮がいなければ、蜀漢はもっと早く滅亡してたんじゃ…とも思います。
長々失礼しました。
(W31CA/au)
伍子胥さんはじめまして
私も(正史)諸葛亮大好きですよ〜
でも諸葛亮について語りだすときりがないので、おいといて。
劉禅については、「諸葛亮を最後まで信頼した」という点は表彰ものだと思っています。
歴史上、重臣を主君が「自分より有能」「存在感ありすぎ」「今はともかく、いつか害になる」などという理由で首にしたり、
追放したり、挙句の果ては無残に殺してしまったりした例は珍しくないですから。
諸葛亮死後の対応や、彼の息子の優遇振りを見ると、劉禅の諸葛亮に対する信頼はとうとう揺らがなかったのだろうと推測しています。
ただ、諸葛亮死後三十年たっても、民衆や元部下達が「祭らせて下さい」「墓参りしたいんですが、定軍山はあまりにも遠い。
近場に一つ廟を建てて」などと孔明ラブコールが止まらないのを見たときには少々やるせない気持ちになったのかもしれません。
(PC)
68 兀突杯
はじめまして。
まず…劉禅を父親の劉備や曹操・孫権と比べるのは酷でしょう。上記三人は戦乱の中で育ち、劉禅は赤ん坊の災難を除けば温室育ちです(笑)
比較してやるなら、曹叡や孫覇(孫和?呉の二代皇帝)等同じ同じ温室育ちと比較しなきゃ『暗愚』は確定です♪
続く
(SH903i/FOMA)
69 兀突杯
前置きが長くなりましたが蜀皇帝としては重荷すぎましたが、『暗愚』までは…同じ温室育ちの魏・呉皇帝(曹叡は除く)の末路や在位の短さに比べたら随分マシです。(侵攻されにくい土地柄を差し引いても)
また、魏や呉みたいな大規模なクーデターがないです三国の中で土地・人材共に最弱国家だったにもです。魏皇帝だったら随分違ったかも…
平和な世の中+それなりに人材に恵まれていれば機能していたと思います。
現在でいえば『能力はないが温厚な上司』かな?
長文すみませんでしたm(__)m
(SH903i/FOMA)
70
劉禅は暗愚…やはり当時の状況を考えれば妥当だと思います。降伏前、後…どちらも僕としては見込みのない上司としか思えないですね…
(W32S/au)
71 珠樹
劉禅の治世は、明の万暦帝の治世とよく似ています。
明代なら「皇帝が凡庸」ですむ話が、なまじ三国時代だけに「素晴らしい名君」という説が生まれるのかもしれません。

蜀は、諸葛亮が主導し、その他のいわゆる名士・知識人層(特に中原の)によって政治体制が整備されました。
魏の官僚制が名士たちによって運営されていたように、蜀もまた、戦乱を逃れた名士たちの協力によって成立し得たといえます(呉は豪族たちの勢力が強く、政治体制としては三国で最も後進だったようです)。
魏に顕著ですが、こうして成立した官僚主導型の政治システムにおいては、皇帝が凡庸(あるいは飾りや幼君)であろうと、発言力を持つ廷臣がいれば、まがりなりにも政治が行われます。
その廷臣が、魏では司馬氏、蜀では諸葛亮や蒋エン、費イ、姜維ということになるでしょう。
よって、治世が長い、というのも割引いて考える必要があるように思えます。

蜀において、目立って専横する家臣が存在しなかったのは、諸葛亮の功績に帰することができるでしょう(穿ってみれば、彼自身がそうだともできますが)
諸葛亮に政治を任せた劉禅の評価。これは非常に難しいのでは…?信任ならまだしも政治に無関心の可能性があります
(F902i/FOMA)
72 李三
ここのスレッド見てると劉禅は暗愚かどうかはさておき人間としての器は大きいですね。
個人的に司馬昭とのやりとりはどちらにも取れて好きですよ。
そういえばお父さんが箸を落とした話は演戯の創作でしたっけ?
かなりうしろから引っ張ってきてすいません。
(912SH)
73 巫俊(ふしゅん)
『三国志』蜀書、先主備伝に
先 主 方 食 , 失 匕 箸 .
とあります。
「先君はさあ食らわんとされていたが、匕箸(はし)を忘れておられた。」
というような訳でいいと思います。
今の日本語の失は「うしなう」としか読みませんが、辞書を調べてみると漢語の失には「おとす」「たがう」「くるう」「油断してしくじる」「見失う」「忘れる」といった意味があるみたいです。
『華陽國志』には箸の故事に加えて雷の故事もあったらしく、ひょっとしたら劉備が生前に宴会の席なんかで「そのとき曹公がな・・・なんて言ったもんだから俺は・・・」みたいいに語ったことから来るのかもしれませんね。
寸劇っぽく身体の動きで演義しながら自慢したりしたと思っても通じる内容です。
(PC)
74 巫俊(ふしゅん)
演技しながら、ですね。
「失」は「箸をおとした」と訳されていることが多いんじゃないかと思うんですけど、「箸が空をつかんだ」とかでもOKだと思います。
ただ箸が空をつかむよりは、おおげさに「手がブルブルふるえて箸をおっことした」の方が面白いかなと思います。
演技としての面白さを取るか、あるいは箸のような繊細な道具はとっさに我を失うと目的のブツを見失うと冷徹に考えるべきか、
これも思考の分かれるところであると思います。

なお、私は劉禅を馬鹿にしてませんけれど、育てられた環境とかを考えると、劉禅に合理的で過失の無い人生があったかどうかは疑問がありますね。
たぶん、どこかで人の心が汲み取れない人間になったということもあったんじゃないかと考えてみることもできます。
司馬昭とのやりとりからは蜀の理念を投げ出した無責任さが漂っていることは否めず、けろっとしてストレスを溜め込まない性格が人を救ったということもあるかもしれないですが、その性格が忠臣と称する殉国の狂信者たちを悲憤させて死なせたことも違いないと思います。
(PC)
75 巫俊(ふしゅん)
まあ私は宗教的な狂信には同情しないんで、そんな劉禅の性格が君主として情けないとは思いませんが、大義を貫く君主であってもなかっても、君主の責任と判断で人を殺していることには違いないです。
それが「ことなかれ主義」であったとしても「ことなかれ」とばかり事務的に処刑命令書にサインしていることに違いはないので。

そういう訳なんで、私が三国時代に行ったら君主制は擁護しないと思います。
(PC)
76 李三
なかなか厳しい意見ですね。確かに一国の主という立場にある以上その責任は負わねばなりませんからね。ただ、それでも劉禅の存在って微妙なんですよね。
(912SH)
77 たか
個人的な意見ですが、結果が全てだと思います。人格は別にして、亡国時の君主ですから名君ではないでしょう。暗君の部類に入ると思います
(SH903iTV/FOMA)
78 李三
名君ではないです。しかし暗君と断じるのもどうかと。諸葛亮を名臣にしているのも結果として劉禅ですんで。凡庸の域はこえないにしても。
(912SH)
79 たか
実際40年間も蜀を統治してたわけですから、滅亡の責任は劉禅に全てあると思いますよ。結果が全てだと思うんで。ただ魏や呉の君主にも名君はいなかったと思うんで比較してみるといいかもしれません。
(SH903iTV/FOMA)
80 しす
>>79
劉禅に全責任をおしつけるのは乱暴じゃないですか?
もちろん彼に責任がないとは言いませんが、諸葛亮死後三十年政権を繋いだ事実くらいは評価してもいい気がしますが。
(PC)
81 たか
うーん。30年維持した功績もあると思いますが、それよりも国を滅ぼした失点が大きいと思います。あと君主という立場にあったわけですから最終的に全責任を劉禅が負うのが当然じゃないですかね?
(SH903iTV/FOMA)
82 李三
それこそがまさに劉禅の立場の微妙な所なんですよ。
結果論としての亡国の責任は主の彼にありながら、国を存続させる意義や価値がどれだけあったのかなんですね。
(912SH)
83 たか
そのあたりはたしかに微妙といえば微妙ですね。ただ意義や価値というのは後世の人が判断することだとも思うんですよね。彼等は目前の事態にどう対処するかを考えていたはずですし、そこに意義や価値を求めるのは酷な気がします。ですから私は単純に評価した方がいいんじゃないかな?と思います。
(SH903iTV/FOMA)
84 たか
続けて失礼します。もし意義や価値を考えるなら劉禅は今降伏しなくても蜀は長くないと感じて、降伏という嫌な役目を自分で背負ったといえるかもしれません。
(SH903iTV/FOMA)
85 巫俊(ふしゅん)
まあ領土は晋(併合の際はまだ魏)に接収され、官吏の一部は晋の中央官僚になった訳ですけど、やっぱり失業した人が多かったでしょうね。
蜀は人口に比べて官吏の数が異常に多い官製国家でしたから。

兵士には対呉戦が待っているので、交州派兵や三峡下りなど失職する可能性は少ない分野だったと思います。
晋は福祉政策なども掲げていましたので、確かに晋の統治下になってからの弊害というのは『晋書』が信用面において劣る史料であるとはいえ、目立たないです。

晋朝の一番の災禍は、三国鼎立や魏の滅亡の教訓を憂慮した武帝司馬炎が、王族に強大な権力をあたえて地方に分封したことにあるんですけれども。
蜀の滅亡から半世紀くらい後には五胡の乱が起こって再び華北と蜀は乱世にもどってしまいます。
(PC)
86 元歎
>>79
統治と仰いますけど、劉禅に実権あったんでしょうか?
前半は諸葛亮にほぼすべての権力があるし、後半も大半の軍権は常に漢中の方にありましたし…
劉禅にはどうすることもできなかった部分は大きいと思いますよ。
(PC)
87 李三
同感です。
にも関わらず漢朝再興の神輿としては必要だったんですよね。
(912SH)
88 朱家
暗君とは、愚かですから、滅びた云々は、愚かと必ずしも結びつかないです。
曹叡や孫権の晩年は、愚かと言ってもいいけど、劉禅は、黄皓を信頼した事が、愚かだと思わせる記述がないですし、結果的には姜維を止めてますしね。
姜維に全権を託した事は愚かだけど、あくまで結果的であって、それ自体は愚かとは言えない。というより、姜維を全否定する気がないから、そう考えたいってのが本心か?(笑)
陳寿評も「名君でもあり、暗君でもある」と解釈しても間違いではないと思いますし、結論を言えば、よく分からん(笑)
(PC)
89 たか
うーん。仮に神輿だとしても責任は劉禅じゃないですかね?というか全責任が劉禅にあったと考えないと名君か暗君か評価できないと思いますよ。
(SH903iTV/FOMA)
90 李三
>>85
そうですね。確か八王の乱があって、それに乗じて五胡の乱が起きたと記憶しています。
晋は蜀漢や魏を教訓にしながら、既に前漢が犯した過ちと同様以上の過ちを犯した訳ですね。
ここに三国鼎立の意味を見出だす事ができる。
(912SH)
91 巫俊(ふしゅん)
責任についてですが、劉禅がすべてを管轄していた訳ではないですし、劉禅は儒教的な論理に沿った劉備の長子であり太子でありますから、当時の社会通念として劉禅個人の正統性を疑うことは簡単なことではありません。

しいていえば、創業者の劉備が劉禅を後継者にしたことが問題であったと思います。
漢室の再興が政権の前提になっているのですから、禅譲は施策として難しいですし廃嫡も正統性を疑わせます。
凡庸な天子を黙ってむかえるのは漢の宿命のようなものでして、劉禅が皇帝の座にあったからといって非難されることではないです。
悲嘆はされるかもしれないですが、自分の仕える王朝がまいた種ですもんね。

そしてたかさんがおっしゃられる結果責任ですが、これが妥当な判断であるかは置いておいても、私たちの今いる日本の社会では「結果責任」で「神輿の社長」が「すべて私の責任です」と謝罪し「社長が辞めるだけで責任は全うされた」ことになって「会社が再生される」ことは普通に見受けられますよね。

劉禅すべての責任ではないとおっしゃるみなさんは、赤福、御福餅、へんば餅といった和菓子企業の責任について、社会常識とは異なる判断を下していますでしょうか?

劉禅のことは3世紀の昔の話です。
では現代の大きな問題について共同責任だからトップの責任は軽減すべきだと主張なさるでしょうか?
赤福などでは、現状は多くの人がトップの責任を求めているように感じます。
(PC)
92 朱家
例えば、総理大臣は国会で指名する事しかできず、仮に不祥事があっても、任命者は責任を取りません。劉禅も同じような感じだと考えています。あくまで喩えですが…

和菓子企業は、あくまで違法であって、魏にとっては、蜀の存在そのものが違法であり、魏が違法の劉禅を弾劾するのは当然ですが、魏を政府、蜀を違法の企業という、勝者の歴史前提は、とても賛同できるものではありません。
(PC)
93 巫俊(ふしゅん)
>>92
私は赤福を例に出しましたけれども「魏を政府、蜀を違法の企業」と考えている訳ではないですよ。
赤福では適切な例にならないので撤回とさせて頂きます。

歴史を客観的に思考すれば、君主にすべての責任をかぶせるのはおかしい、という考えに至ることは自然なことであると思いますが、私たちの社会は組織の中の一部の人たちに「全責任」を押し付けることで解決を計る「法秩序」を容認していませんか?
と聞いているんですよ。

例えば東条英機に多くの責任を負わせた戦後の体制。
戦前の日本は帝国内の諸勢力の談合によって対米戦争開戦を決定したことは「歴史の事実」ではありますが、戦後の法秩序は指導者に全責任を負わせることが有効な解決策であることを認めています。
一揆の指導者だけを処刑して百姓にはお咎めなし、これは江戸時代の解決策でした。

そして三国西晋時代においても指導者責任として民衆にお咎めなし、という観念は実在していました。

歴史の評価としては責任を問えないとしながら、現実の社会を前にすれば慣例によって責任を問おうとする、これは歴史家の誤りだと私は考えています。
歴史家が今の社会とはまるで無縁であるかのように装って評価を下す、それでいて今の社会を支える理念とは対決しようとしない。豊富な歴史の知識をもっていながら清談に甘んじているのです。個人としてはそんな人生もいいでしょう。でも私の国の歴史が清談として染まっているから、歴史は軽視されて社会の中の地歩をうしなっています。

なお、劉禅は象徴制の天皇よりは裁可権が大きいと思います。
裁可を臣下に委ねていた点では天皇と同じとしても、政治を放棄している訳ではないので、市民主義の理念による象徴制(少なくとも一般の官吏よりは劉禅の方が強い権利を行使しうる)とは比較にならないです。
(PC)
94 李三
「責任をとる」というのは非常に難しい事ですね。
私の知人が以前こんな事をいっていました。「責任をとる事なんて誰にも出来ない。まして責任をとって辞めるということは責任をとりきれず無責任にほうり出す事だ」
と。
つまり「責任をとる」ような事態を引き起こさない事が「責任ある立場の人」のとるべき行動であり、それでも万が一、そのような事態に陥った時にどのようなアフターケアができたかがその人の評価になるんですね。しかし、それも厳密には責任をとったとは言い切れないのですが。
(912SH)
95 巫俊(ふしゅん)
誤訂
×戦後の法秩序は指導者に
○戦後の法秩序は戦争遂行に関与した人たちの中の一部のみに
(PC)
96 李三
連レスで失礼します。
さて、話がこじれてきてしまってますが、劉禅は正史によれば諸葛亮の没後、親政した(仮に内実は別だったとしても)とありますし滅亡の責任自体はあると思います。
しかしそれは暗君であること、まして暗愚であることとは別の話だと思います。
亡国の君主がすべてそうだったという話を聞いた事が無いですから。(名君でもないですよ。念のため)
劉禅が人物として暗愚であったかどうかをろんて
(912SH)
97 李三
すいません。途中で送信してしまいました。
劉禅が人物として暗愚かどうかを論点として考えると別の視点からの切り口があるのでは?と思うのです。
(912SH)
98 巫俊(ふしゅん)
>>96
>>97
『三国志』蜀書、後主禅伝は「劉禅個人の人物像」を語っている伝記というよりは、「蜀国後期の年代記」としての性格を重視して執筆されてるとされ、劉禅個人の資質を描いているものとしてはあまり深く研究されていないと思います。

私の友人は諸葛亮の治政の暗黒面を指摘しているのですが、その説によると諸葛亮とその一派によって蜀書からは反諸葛の歴史観が一掃されており、後主禅伝はその歴史的曲筆のあおりを受けて劉禅個人の反諸葛的な思想の数々を記した史料が、蜀滅亡より以前の時点において消えてなくなったと解釈されています。

考えてみれば、後主禅伝というのは諸葛亮や漢中府の人間の史観によって骨抜きにされているとしか思えない内容で、蜀の中で非主流に転落していった思想や臣下勢力と劉禅個人のかかわりは一切書かれていません。
劉禅が無力な人間で政治を良臣に委ねたという解釈自体が創作されたものだとされています。

従って劉禅個人の暗愚性の可否を検討するには史料が足りない。或いは劉禅自身が諸葛派の権力を憚(はばか)って本心をひた隠しにし、劉禅自身を愚者の如き劣った人物として演出して振る舞うことで、賢者の師に接するが如く臣下(主に政権を握る諸葛派)を扱い、なんとか政治的均衡と自身の生命を永らえていた。。。

実はこのように考えると、
・諸葛亮と一派が次々に政敵を葬っているのに非難されないこと。
・蜀に史官(公式文書の記録係)がいなかったので陳寿が史料を得られなかったこと。
・蜀滅亡後の劉禅のしたたかで生命に危険を及ぼさない振る舞い。
こうした例からは、劉禅と諸葛亮派のあいだで駆け引きがあったことを匂わせます。
表面では互いに協調しているように見えて、そうではない本心がある、そういう構想で考えれば「暗愚」であることの意味も分かります。

「暗愚」を振る舞いにしていたんですから、暗愚(だけど平和ボケのイイ人)と評価されることは本人にとっても都合が良かったんじゃないでしょうか。
「ニヤリ」です。
(PC)
99 李三
>>98
巫俊さんは私の述べたい所を全て理解されてますね。
劉備の性格と照らすと劉禅にもそのくらいのしたたかさがあっていいと思います。
(912SH)
とりあえず、100埋まる前に次スレへの誘導を。
>>>495です。
(PC)