1 削除済
2 天草
習禎サン>初めまして!よろしくお願いします♪

実は私も子供や跡継ぎの話しは非常に興味があり、いつかデータベースで、その一覧表でも作りたいなと思ってるほどなんです。

さて、>>1の件ですが、実は関羽・張飛・趙雲の子供も演義やゲームほどの活躍の場は正史では用意されてないんですよね。
まず関羽の跡取り関興は、才能があったと書かれてますが、20歳過ぎで早世してます。その後2世まで関羽の子孫の名前は残ってますが、『蜀記』によるとホウ徳の子・ホウ会に彼らの血族は皆殺しにされ、亡き父の敵をとられたとあります。

趙雲に至っては跡継ぎ・趙統、次男の趙広の名前は僅か二行程度しか出てきません。これに関しては趙雲スレ(>>>45)に出てたような…(記憶違いかも?)

さて、問題の魏延・馬超ですが…
まず魏延の方は残念ながら、彼の反乱(?)時、三族皆殺しにされた事が書かれてます。仮に従軍するほどの息子がいても、恐らくは父と共に討たれていることでしょう。

馬超の方は、跡取りは馬承という者ですが、彼の活躍は全く残されてません(私が見つけきれないだけかも…)ちなみに彼の娘は劉理(劉禅の腹違いの弟)に嫁いでます。
面白いのは、彼と彼の妾(董氏)の間に出来た馬秋という人物の運命。
実は、馬超が入蜀する前、董氏と馬秋は張魯に預けていたのですが、張魯が曹操に敗れると曹操は董氏を閻ホに与え、馬秋を張魯に渡してしまいます。その後、忠誠を誓うためか、張魯は馬秋を殺害しているのです。

意外なところに意外な人物が絡んでるものですよね。
(PC)
3 赤龍
張飛の子張苞にいたっては、演義で二世コンビとして大活躍するものの、正史では「若死にしたので、次男の張紹が継いだ」とあるのみです。
(J-SA05)
関羽と、趙雲のことはだいたい知ってましたけど、馬承とかは、初めてききました。すごい話ですね。天草さんの話めちゃ勉強になりますよ! 魏延が残念でしたぁ。よかったら、ショクの2世でわかる事あったらまた教えてくださいね!ありがとうございました!
(N900i/FOMA)
5 天草
習禎サン>蜀のファンなんですね?
では少しずつあげますね。
まずは有名どころで諸葛亮の息子達。

諸葛瞻

ちなみに養子の諸葛喬の話しも知っておいた方が良いですね。
(PC)
6 天草
続きまして、ホウ統の息子
ホウ宏
を紹介。

軍師系なら、姜維の事も忘れられませんが、彼の子孫は最後の反乱時に妻子共々殺された事になっています。

ちなみにホウ統の弟のホウ林の話しに家族の美談がありますが、この奥さんの兄は襄陽の習禎である事が書かれてます。
もしや習禎サンのHNの由来はこの人物でしょうか?
もしそうならかなりマニアックですよ?(汗)
(PC)
そうですよ、ショクびいきですね。習鑿歯の漢晋春秋とかみてみたいんですけどね。ところで廖化元倹のことについて聞きたいんですけど、元倹は同性同名の人間はもう一人いたんですかね?2世とかも存在してますか?
(N900i/FOMA)
8 天草
玄人好みの人選ですな(笑)
彼の子供や子孫については残されていないように思います。

魏に降伏した時代まで生き残っていた数少ない名将の一人ですが、優秀な子供に恵まれなかったのですかね?
(PC)
9 赤龍
習禎さんの質問の「同姓同名のもう一人の廖化」というのは、もしかして演義で廖化があまりにも長生きしてることからの、「廖化は二人いた?」という説をさしているのでしょうか?黄巾の残党という設定のため、乱当時15歳としても、蜀滅亡の際は93歳?長生きしすぎでは?ということで、同姓同名の廖化が二人?とか、廖惇、廖化は親子では?といった推測が生まれた有名な件ですね。
(J-SA05)
10 赤龍
さて、正史で廖化が初めて登場するのは荊州の守備をしていた関羽の部下として。つまり黄巾〜関羽千里行の一件は演義の創作。劉備の荊州支配後に登用された荊州人と見るべきでしょう。荊州陥落時三十代としても、蜀滅亡時七十代。261年頃、同年代と思われる宗預に「我々は七十歳を越え」と言われていることからもこの推定は大きく間違って無いと思われます。
(J-SA05)
11 赤龍
つづき
そして、同年代と思われる張翼・宗預も蜀滅亡まで現役。
ということで、演義での創作の設定の為、無理が生じたものの、正史では廖化の年齢は特に問題は無いという結論になります。
人物辞典の廖化の記述も演義準拠になってましたよ。以上長文失礼しました。
(J-SA05)
赤龍さん、ありがとうございました。やっぱし荊州以降の人なんですね。傅トウにもついて夷陵以外の事で教えてもらえないですか?質問しまくりでごめんなさい。
(N900i/FOMA)
13 赤龍
残念ながら、傅トウは正史では夷陵の戦いの件でしか名前が見られません。義陽郡出身ということから、劉備の荊州支配後に臣従と推測できる程度でしょうか。親子二代蜀に殉じた忠義の人。「呉狗、何ぞ漢の将軍に降る者有らんや」
敵である司馬炎も、この親子の忠義を称えてます。
(J-SA05)
14 赤龍
補足として、傅トウの子、傅僉について。
鐘会率いる魏の征蜀軍に対し、ショウ舒と共に関口(で文脈上いいのかな?)の守将を務める。しかし、ショウ舒は出撃し戦うと欺き魏に降る。そして魏軍の急襲にあい、格闘して戦死する。魏の人にもそね義を評価されたという。
(J-SA05)
15 天草
う〜ん。。。
確かにそうですね。

正史での登場は関羽死後のようで…(汗)
赤龍サン>御指摘感謝!近いうちに書き直します。
(PC)
16 ストラップ
王允の甥、王凌。
彼も二世タレントには珍しく光る存在ですよね。
淮南という土地は、王凌以外にもKKKこと毌丘倹、諸葛誕と、三度も乱が起きています。それだけ寿春という拠点が防衛に適していたのでしょうね。
(PC)
17 赤龍
それ以上に、彼等三人、征東将軍(毌丘倹のみ鎮東将軍)都督楊州諸軍事として、魏でも最強の方面軍を掌握していたというのが大きいと思われます。
(PC)
18 ストラップ
>>17
そうか!
最強の方面軍=呉との最前線。
いざとなれば、呉との連携をも視野に入れる事ができましたね。
(PC)
19 無問題
王凌って王允の甥なんですね。はじめて知りました。血縁関係を調べてみるのも面白いですよね。寿春の軍勢ですが、張遼や満寵の活躍をみる限りかなりの精鋭が揃ってたんでしょうね。
(W21K/au)
20 ストラップ
話が変わり始めたので起動修正(笑)

陳群は初代?三代目?皆さんどっちで数えます?

孫権も初代とするか三代目と考えるかは難しいところ(笑)
(F2102V/FOMA)
21 ストラップ
今平話を読んでいます。
その内に、李粛を李広の後継とする記述があるのですが、歴史的事実として、その家系だという記述はどこかにありますか?

ちなみに平話での李粛の武器は、一丈五尺の倒須悟鈎槍という、訳のわからん長過ぎる武器らしいです(汗)
(F2102V/FOMA)
22
 李広の子供は、全員死んでいたような気がするんですが、孫は居たかな? とりあえず、捏造の可能性の方がかなり高いんじゃないですか。
(P900i/FOMA)
23 ストラップ
そうか。
漢に残してきた李陵の親類は皆処刑されていますね。
(F2102V/FOMA)
24 くわぁまん
上ゲッチュウ…(笑)
(F901iC/FOMA)
25 ストラップ
大事な人を忘れていましたよ。

二世タレントと言えば、霍弋。カ萌関という要所を守った霍峻の息子です。
劉禅の安否を確認した後に魏に降伏した事は、司馬昭に感銘を与えたとされていますね。
(PC)
26 ストラップ
孟他の息子、孟達も、父親よりはスケールが落ちますが、三国志の重要人物の一人ですね。
(F2102V/FOMA)
27 ストラップ
赤龍さんの孟他の記事記念age。

孟達を孟他の息子と表現するか、孟他を孟達の父と表現するかは微妙なところかな(笑)
(PC)
28 ストラップ
>>21
これは水滸伝の影響の可能性がある様です。

ttp://taketaturu.blog68.fc2.com/blog-entry-30.html
(PC)