1 李勣

呉の「朋党の禍」について

呉では孫権の太子孫登の死後、次の太子孫和と魯王孫覇で大規模な内訌がありました。これによって呉は著しく衰退したと思いますが、皆さんはどう思われますか?
(N2701/FOMA)
2 天草
呉の滅亡寸前のいざこざについては私はあまり詳しくありませんので、分かりません。
そう言えば、孫魯班のスレ(?)がありましたよね。さっき必死に探しましたが、見つけきれませんでした(汗)

どなたか分かる方がいますか?
(PC)
3 李勣
私も過去ログを調べましたが、孫魯斑スレはありませんでしたよ。
私としては魯王派に責任があると思います。とりわけ全ソウですね。息子が魯王を立太子しようとしたのを黙認したばかりか、陸遜と絶縁し、挙げ句の果てに孫権にザン言し、陸遜らを死なせた。この責任は大変重いと思います。
(N2701/FOMA)
4 李克用
>>>91-62-63
孫魯班は、私の質問に対するレスですよ。
(P900i/FOMA)
5 天草
むむむ…私も全然分かりません。
>>>40-32-43
に全ソウの話題は出てました。

孫魯班については、コチラで数少ない女性人物として辞典にも載せてます。

他の登場人物はどうなんでしょう?
(PC)
6 天草
被った!!
李サン>サンキュ☆
(PC)
7 天草
失礼!
>>>67-32-43(全ソウについて)
の間違いでした。
(PC)
8 削除済
9 朱家
改めて、先入観を持たずに記述を読むと、発端は皇后となるべき孫和の母を、魯班が弾いた事でしょうが、吾粲は「嫡子と庶子を区別し、楊竺を追い出すべき」と言っていて、前半は問題ないけど、後半は記述にある最初の個人攻撃で、才能云々ではないものの、カン沢の後任としては適任ではないのかなと…

陸遜は、孫和、孫覇も宮中の事もよく知らない訳で、吾粲の手紙をもとに上表するという、客観的、もしくは陸遜個人の意見なのか疑わしく、思慮が足りない感じがします。こちらは、ずっと外地にいるから、顧雍の後任としては明らかに…ただし丞相ですから、吾粲が先に、陸遜への諮問を強く訴えていれば、正規ルートだし、問題なかったかもしれない。
吾粲、顧譚、陸遜は仲良しだろうし、以前から、陸遜は楊竺、顧譚は全寄、全緒らと確執があるし、まあ、陸遜らは儒教概念(徳行に欠ける)からの蔑視だろうけど、とりあえずは、才能重視で登用してますからね。

発端にしても、魯班一人の個人的感情なのか疑問だし、孫登育ての母を皇后にしてれば、魯班の影響力は弱かったと思うし、孫権の責任には違いないが、魯王にした事は、大した事ではない気がしています。
(PC)
10 諏訪
孫和の母親の王夫人は、重んぜられるようになると、孫権から寵愛を受けた女性たちを都から追い出しています。
一方、全公主(孫魯班)の母親の歩夫人は、しばしば後宮の他の女性たちの後ろ楯になったといいます。
王夫人と全公主の対立は、個人的感情だけではなく、後宮全体を巻き込んだ対立の可能性があります。

孫登の母親がわりになった徐夫人が皇后に立てられなかったのも、嫉妬深いという理由からでした。
本来ならば、太子の母親が皇后に立てられるべきなのでしょうが、皇后には後宮のまとめ役という役割もあり、徐夫人や王夫人はこの点にそぐわないために、皇后に立てられなかったのではないでしょうか。
(W51S/au)
11 朱家
>>10
私も同じように考えますが、徐夫人は太子指名時、実質的にはすでに後宮を出されており、太子や群臣が推しても無理な話ですが、孫登は心情が強いだろうけど「国家として(育ての)母を皇后にすべき」は、結果的に正しいでしょうね。

徐、歩、袁、王夫人は、存命中に誰も皇后となっておらず、久しぶりに皇后となった孫亮の母は暗殺される始末(苦笑)
孫権の皇后指名に、異を唱えるだけでなく、武力行使を断行する後宮となった原因は孫権であって、政略結婚の多い呉において、親戚が多くいる後宮で、上下の規律が乱れてる。

優柔不断というより、孫権は気いつかいなのかなと…孫策の後を継ぎ、皇帝となるまでは、それが優れた調整力なのでしょうが。
(PC)