1 天晴
喬玄について
はじめまして!
毎回楽しく勉強させてもらっております。
ところで、喬玄という方、誰かご存じでないでしょうか?
若い頃の曹操を認めた方で、あの二喬のパパでは?と言われている方です。
ご存じの方、またはご意見下さいm(__)m
毎回楽しく勉強させてもらっております。
ところで、喬玄という方、誰かご存じでないでしょうか?
若い頃の曹操を認めた方で、あの二喬のパパでは?と言われている方です。
ご存じの方、またはご意見下さいm(__)m
(P504i)
2 闘莉王
天晴さん、はじめまして!私も詳しくは知りませんが、正史では二喬パパの喬公と曹操を評価した喬公は別人物です。
曹操を評価した喬公については大辞典の方に詳しく書いてありますよ♪補足としてですが、一族に反董卓連合に参加した東郡太守・橋瑁がいます。
二喬パパについては私も演義しかわかりません(汗)
曹操を評価した喬公については大辞典の方に詳しく書いてありますよ♪補足としてですが、一族に反董卓連合に参加した東郡太守・橋瑁がいます。
二喬パパについては私も演義しかわかりません(汗)
(F900i/FOMA)
3 天晴
闘莉王さま、ありがとうございます!m(__)m
二喬パパは…喬公なんですよね…「公」が名前だと他人なんですが、三公を務めた喬姓だと可能性はあるらしいんですよ。
皆さんはどう思います?
イロイロご意見下さい♪
二喬パパは…喬公なんですよね…「公」が名前だと他人なんですが、三公を務めた喬姓だと可能性はあるらしいんですよ。
皆さんはどう思います?
イロイロご意見下さい♪
(P504i)
4 赤龍
橋玄と橋公を同一とするのは演義等の創作で、正史にはそれを示唆する記述はありません。また、橋玄は183年75歳で死去。二橋の父としては年が違いすぎる感が。橋玄は梁国の出身、つまり豫州の人。場所も離れてます。橋公は橋玄とは同姓の別人で、皖の有力者と考えるのが妥当と思われます。
(J-SA05)
6 天晴
赤竜さま、ありがとうございます!m(__)m
勉強になります(^^ゞ
も少し教えて欲しいのですが…イイですか?
喬玄の息子、喬載についてなんですが…?
太傅掾になったのは解ったのですが…年齢とか解りませんか?時代的に曹操と絡んでもおかしくないと思うんですが…?
勉強になります(^^ゞ
も少し教えて欲しいのですが…イイですか?
喬玄の息子、喬載についてなんですが…?
太傅掾になったのは解ったのですが…年齢とか解りませんか?時代的に曹操と絡んでもおかしくないと思うんですが…?
(P504i)
7 赤龍
天晴さん、橋玄の息子の橋戴という人、正史三国志にも、『後漢書』橋玄伝でも見つかりませんでした。どういう人なんでしょうか?
後漢書には橋玄の子として、橋羽が任城の相になった、とだけあります。
後漢書には橋玄の子として、橋羽が任城の相になった、とだけあります。
(J-SA05)
8 天草
>>5
実際はどちらが正しいのかな?
橋瑁?それとも喬瑁?
天晴サン>初めまして!以後ヨロシクです!!
さて、二橋の父の方の橋公の方ですが、周瑜伝の裴松之の注に周瑜が
「橋公の二人の娘は故郷を失う事になったが我々の嫁になれたのだから満足だろうよ」
と冗談を言っていたとあります。
この時、周瑜は江夏太守として孫策と共にカン城を攻め落とした所だったことから、謎の父親・橋公はカン城に勤めていた漢の役人か、劉表・黄祖配下の武将ではないか?と推測しますがいかがでしょうか?
実際はどちらが正しいのかな?
橋瑁?それとも喬瑁?
天晴サン>初めまして!以後ヨロシクです!!
さて、二橋の父の方の橋公の方ですが、周瑜伝の裴松之の注に周瑜が
「橋公の二人の娘は故郷を失う事になったが我々の嫁になれたのだから満足だろうよ」
と冗談を言っていたとあります。
この時、周瑜は江夏太守として孫策と共にカン城を攻め落とした所だったことから、謎の父親・橋公はカン城に勤めていた漢の役人か、劉表・黄祖配下の武将ではないか?と推測しますがいかがでしょうか?
(PC)
9 天晴です…
『曹操‐魏の武帝』という本に載ってたんですヨ。(石井仁著/新人物往来社)これにも喬玄の子としか…
正史にも後漢書にも無いなら、ウチもこれ以上のコトは…ι(>д<)
「妻子をヨロシク!」って言われたのに、行方不明なんて…
喬玄と曹操の関係が気になるんです〜。でも詳しいことが判らなくて…子から攻めてみようと思ったら、行き止まりになっちゃいましたね(>_<)
正史にも後漢書にも無いなら、ウチもこれ以上のコトは…ι(>д<)
「妻子をヨロシク!」って言われたのに、行方不明なんて…
喬玄と曹操の関係が気になるんです〜。でも詳しいことが判らなくて…子から攻めてみようと思ったら、行き止まりになっちゃいましたね(>_<)
(P504i)
12 赤龍
ちくまの和訳では「橋公の二人の女は美貌であるとはいえ〜」とありました。原文を確認しますと「橋公二女雖流離」と。「流離」には「故郷を失ってさまよう」という意味に加えて「光りかがやくさま」もあります(瑠璃と同義?)ちくまの訳者はこちらにとったようです。どちらにとるか難しいとこですね。
(J-SA05)