1 しす

三国志の中の謎(2戦目)

前スレがいっぱいになりましたので、新たに立てます。
引き続き、三国志の謎を追求していきましょう。

参照前スレ
http://m.z-z.jp/thbbs.cgi?id=359kk&p3=&th=114
(PC)
2 無問題
ホウ徳伝より
「ホウ徳は1つの矢も無駄に撃つことはなく関羽の額に矢を命中させた」…。普通人の額に矢が命中すると死にますよね?それとも、兜かなんかに当たって威力がおちたんでしょうか?
(W21K/au)
3 しす
>無問題さん
その話し、先週か先々週辺りの「蒼天航路」でやってましたね。
前線で陣頭指揮を執るような人物が無防備に頭を晒してるとは考えにくいですから、仰る通り兜に当たって威力半減ってことだと思いますよ。
(PC)
4 魏骨
どーでもいいけど関羽運いいよな…
(P505iS)
5 無問題
シスさん・はい、蒼天のあのシーンをみて疑問に思ったもんで(笑)あれだと、直接矢がぶっ刺さってますもんね
(W21K/au)
6 無問題
そういえば、関羽と言えば関羽の子どもの関索の事が気になりますね。あれって演技っぼいですよね?彼って実在したんでしょうか?
(W21K/au)
7 しす
>無問題さん
アレ、もうちょっとで脳に達しますよね。
普通なら死ななくても気絶すると思います。
ただあの頭巾のようなものの下には兜を被ってるはずなので、それで助かったと考えていいのではないでしょうか。
(PC)
8 無問題
はい、その事で曹操は驚愕してましたよね(笑)正史を読み始めた頃は『ふ〜ん…。』で終らせていましたが、後から冷静になって考えてみれば『ちょっとまて!』と突っ込んでしまう記述でした。
(W21K/au)
9 えいじ
ホウ徳の話題が出ているところで、一つ質問させてもらいます。曹操はリョウ州出身のホウ徳を、何故に南の荊州方面に赴任させているんでしょうか?僕なら、張コウの下辺りに置いといた方が土地の地理にも通じているだろうし、武威もそれなりに轟いているだろうし、なにかと有益だったんじゃないかと考えてるんですけど。皆様のお考えはどうでしょうか?
(P900iV/FOMA)
10 しす
>えいじさん
ホウ徳が対劉備戦で使われなかったかについては、やはり信用されてなかったってのが大きいのではないでしょうか。
劉備の許には旧主馬超と実兄のホウ柔がいたから信用されていなかったということは正史にも記述されていますから。
あとここからは私見ですが、曹操は彼を合肥方面で対呉戦線に使うつもりだったのではないかと思っているのですが。
と言うのも合肥と言えば張遼の活躍が有名ですが、これは遼自身の采配もさることながら、騎馬戦術に対する備えが不十分だったのではないか、と私は考えています。
とすれば涼州出身で騎馬戦術に精通していたと思われるホウ徳も対蜀よりも対呉で使った方が有益と考えますがいかがでしょうか?
(PC)
11 えいじ
しす様、丁寧な回答ありがとうございます。なるほど、正史にハッキリと信用されていないという記述があるのですね。それならば納得です。自分の勝手な推測で、あえて旧主馬超と相対させ主従の念を完全に断ち切らせようという、曹操らしい思い切りのいい策戦が出来たんじゃないか?なんて考えていました。信用がなければそれも無理な話ですよね。
それにしても、騎馬戦術云々については、まさに目からウロコな思いです。考えてみれば山岳地帯が多いショクは、騎馬戦が得意な将にとっては攻め込みにくい地でしょうね。曹操としてもホウ徳の能力を考えるならば、張遼のように対呉戦線に使おうと考えていたとしても不思議じゃないですもんね。
ふと思いついたんですが、馬超が入ショク後思ったほど活躍できなかったのは、平地の少ない土地柄で得意の騎馬戦術が生かせなかったためでしょうか?
(P900iV/FOMA)
12 天草
>>11
馬超の行動には謎が多く、まさにこのスレにピッタリの内容ですよね!?

彼には専用スレがありますので、一応上げておきます。えいじサンの入蜀後の馬超についてはそこで詳しく語ってますが、劉備の『懐柔』という策ではないか?と深読みしてます(笑)

私からも新たな疑問を一つ。。。

中国史博物館の元寇を調べていて、日本の武将が名乗りを挙げるのに対し、失礼にも元の兵達は、いきなり攻撃を仕掛けてきた…とありました。
ゲームや漫画などでは一騎打ちが戦の華として描かれますが、もしかすると一騎打ちという風習はなかったのではないでしょうか?
正史の記述にもあまりにも出てきませんよね?

どう思いますか?
(PC)
13 無問題
ホウ徳かっこええですよね〜(>_<)ああいう忠義に熱い漢(おとこ)大好きです。その入蜀後の馬超が活躍できない理由初めてしりました。なるほど、と頷けました。ところでホウ徳が降伏せずに斬られたのに対し、于禁は関羽に降伏してます。彼ほどの人が何故降伏したのでしょうか?まあ、彼の立場は多いに同情できますがね。彼に対する曹否の仕打があまりにも酷かった…。
(W21K/au)
14 たろう
一騎打ちは多少聞いた事はありますが(ほぼエンギ)やはりほとんどないのでは?
あと過去に騎馬戦術に関してでてましたが個人的にはとても興味深いです。完全にifですがドウカンでの戦いで張遼がいたら…とか呂布一門の騎馬戦術、馬騰一門の騎馬戦術などと。
(W21SA/au)
15 えいじ
天草さま、馬超スレ上げて頂きありがとうございました。皆様の鋭い考察、興味深く拝見させてもらいました。
さて、一騎打ちについてですけど、孫子に「善く戦う者は、これを勢に求めて人にもとめず」という言葉があります。戦は特定の人物の力量に頼るのではなく、集団としての軍隊の勢によって勝つのだと説いています。元寇を行なったのは蒙古ですが、すでにその頃のモンゴルには漢人の将校もおり、長きに渡る中国(南宋)との戦争の中、孫子の兵法がある程度は彼らに浸透していたのではないでしょうか。一方、日本は武士道という言葉があるように、名誉や美意識が重んじられたために集団戦法というのは、この時代にはまだ確立されていなかったのでは?故に、お互いの戦争観のすれ違いなのかなって、僕は考えています。もしくは、日本の武士が「一騎打ちを所望!」と言っても、言葉が通じないので一騎打ちに発展しなかっただけかもしれないですね。
三国志以外のことを長々とすいません。不適切なら削除しちゃってください。
(P900iV/FOMA)
16 天草
やはり皆さんもそう思いますか!!

一騎打ちといえば、戦の華ですから、本当はそんなのなかったなんて聞くと、少し凹みますね。。。

>>15
とんでもない。私が自ら出した話題ですし、元寇はあくまでも例ですから。

と、言うことは…
戦場における名将の定義とは、
個々の武力<<<統率力
ということになりますよね。
(PC)
17 天草
スレを立てようか悩みましたが、ここに書き込みます♪

三国志の謎と言えば、『玉璽』に関する問題もありますよね?

孫堅は本当に隠し持っていたのか?
孫策は本当に袁術に渡したのか?
最後に玉璽を手にした者は?
そもそも玉璽にそんなに意味があるのか?

裴松之も破虜伝では、かなり激しく孫堅所持説を否定しているようですし…皆さんはどう思います?
(PC)
18 三三
玉璽といえば演義での程普は傷の位置まで知っていましたね
当時は傷の位置まで知ってるのはどういう人だったんでしょうか?
行き先も演義でしか知りませんが・・・
袁術に玉璽が渡ってなかったとしたら皇帝と称していなかったかな?
前何かで読んだ記憶ですが・・・劉表との戦い中に孫堅が川で落とし行方不明に。月日がたち荊州に移り住んだ少年が拾い隠し持ち、後に劉備に仕え、劉備が皇帝と称する為にそれを出した
という話もありました
何の本だったか・・・部屋探してるけど見つからない
(PC)
19 赤龍
玉璽に関しては、かなり謎が多いですよね。
玉璽の傷についてですが、『漢旧儀』の著者衛宏(後漢初期の人)の著作に見られ、蔡ヨウもその一部を引用。つまり、ある程度の教養がある人ならば、知っていても不思議でない事です。
先主伝に、関羽が樊城を包囲した際、襄陽の男子張嘉と王休が漢水に沈んでた玉璽を見つけ、献上したとあります。ほぼ確実に偽物でしょうが…。後世の蜀贔屓がこれをもとに創作したのが三三の言われる話でしょうね。
(J-SA05)
20 赤龍
裴松之の孫堅玉璽所有の批判、要は漢の忠臣である孫堅がそんなことをするはずもなく、あってはならない事、と感情論に過ぎないですよね。
(J-SA05)
21 天草
玉璽の傷?

その話は初耳です。
良かったら詳しく教えて下さい。
(PC)
22 くわぁまん
うろ覚えだけど十八史略読んでたんで知ってますよ。玉璽の傷のこと。

前漢と後漢の間が関係してるんでゃんすょね。

あちしの知識中途半端だから他の方説明お願いしゃす。角が欠けてるんょ。
(F901iC/FOMA)
23 くわぁまん
あれ?秦から前漢に代わる時だっけヤバマジ忘れΣ( ̄□ ̄)!
(F901iC/FOMA)
24 赤龍
孫堅伝注の『呉書』に玉璽の形について「上が円く下が四角で四寸の大きさ、上の紐をかける所には五匹の龍がわだかまっていて、そのうちの一つは角が欠けていた」とあります。
(J-SA05)
25 赤龍
さて、この傷の由来、先にあげた衛宏の著作の中に(『後漢書』徐キュウ伝注に引かれる)王莽が漢から纂奪の際、元后(元帝の皇后、莽のおば)に伝国璽を要求。元后は激怒したものの、もはや要求を拒めないことを知り、莽を罵って玉璽を地に投げつけました。このとき龍の角の一つが欠けたといわれてます。
(J-SA05)
26 天草
なるほど!良く分かりました。今もその印は残されてるのかな?だったら凄いけど、さすがにそれはないでしょうね?(^o^;

さてでは新たな議題を提出しましょう♪
これは思想や儒教の考え方による部分だと思いますが…当時の中国(今はどうなんだろ?)の武将としての美学は以下のどの要素が重要だったのでしょうか?
@家族
A主従関係
B後の世の名声
三つともそれぞれ、大事にしていたと思われるエピソードは今更説明する必要もないと思われますので、ここでは省きます。
(N900i/FOMA)
27 赤龍
玉璽の話、食い付きが悪いのか終っちゃいましたね。最後に、孫堅玉璽所持の話は呉系の史書に見えるもの。そこには袁術に奪われた記述はなく、呉が所持し続けたと言いたいのかもしれない。つまり、魏の禅譲、蜀の血筋に対抗する名分が伝国璽?一方袁術から漢の朝廷という話は、魏系の史書。そして、陳寿は玉璽の件に全く触れず。と、様々な推測・謎がある問題のようです。
(J-SA05)
28 しす
このスレすっかり冷え切っていたのでageます。
何か新しい謎はないですかね?
既出ながらまだ語られていない話題もありますので、それもいいと思いますけど。
(PC)
29 無問題
え〜、演義とは違って正史では消息不明になってる人が多いですよね?あえて例をあげるとすると蔡瑁、伊籍、などですかね?彼等はいったいどこにいったんですかね?
(EZ)
30 朱家
演義のほうが行方不明多くないですか?蜀以外は突然出てきて、突然消えるってパターンだし…
正史は信頼できる記述がなかったからだと思いますよ。口頭や記憶では伝わってたと思いますが、さすがに載せれないでしょう。親族は記録してたと思いますが、もっとも信頼できない(笑)死因は改竄されるでしょうし、そんな書から、死んだ年だけの抜粋はできないと思いますよ。
(A1304T/au)
31 無問題
朱家さん・確かに、演義でも行方不明の人多いですよね?やっぱり千年以上前の話ですからね、記述が紛失したりするのは当たり前ですね…。
(EZ)
32 無問題
そういえば、孫堅に頭巾を被らされて囮になった事で有名な祖茂ですが、彼が生き延びた後の記述が無いのは何ででしょうか?孫堅の名のある四将の一人ですが、記述が全然少ないですよね?案外、自分を囮にした孫堅にぶちギレて孫堅の元を去ったとか…(笑)彼には悪いですが、そのシーンでおもわず笑ってしまいました(笑)
(EZ)
33 くわぁまん
無問題殿>祖茂って斬られたのでは?(笑)

話は変わりますが、ちょっと思い付いた説が有ります。

劉封が劉備、いや孔明に見放されたのは親族を殺された仇討ちではなかったのか?と言う説。

謎なところが多いのですが、孔明の上の姉がカイ家(カイ祺)に嫁いでおり、そのカイ祺は宜都太守だった孟達の配下に殺されています…。

つまり当時劉封は孟達の配下でしたし、また伝にカイ祺のことが書かれていることから何らかの関係が有ったのではないでしょうか?

荊州敗戦の責任を問われた劉封を何の弁護もしませんでしたし…(汗)

劉封の腕力は蜀にとってまだ十分利用価値はあったろうに…。
(F901iC/FOMA)
34 しす
>>33
孟達が房陵を攻めた時は彼は単独での行動であり、そこからさらに上庸へ侵攻しようとした時に援軍として派遣されたのが劉封ですよ。
しかも劉備は劉封に孟達軍を統率させるべく漢中から沔水を下らせ、上庸で合流させたという記述もあります。
以上の点から劉封はカイ祺殺害には関与してないし、孟達配下でもないと考えられますが。
(PC)
35 しす
連書き失礼。
>>32
祖茂って正史だと孫堅伝のまさにそこにしか出てこない人ですよね…たぶん。
名前そのものが一カ所しか出てこないところをみると他の三将と肩を並べるほどの人物ではなかったのではないでしょうか?
大した人物でもなく、それ以外に特に記述することもないので登場しない。
と言うことでいいのではないでしょうか。

>>33
華雄に斬られるのは演義の話しで、正史の記述では機転を効かせてやりすごしたと思われます。
(PC)
36 朱家
劉封が後の憂いになる事は、劉備もよく分かってたと思いますし、喜んで斬ったかも(冗談です)非情ですが、これぐらい出来ないと話にならない。
劉備が死んだら、劉封を誰も抑えれないと思いますし、益州軍に担がれたら大変ですし、孔明にしたら、権力掌握の第一歩とも考えられます。
(A1304T/au)
37 無問題
くわぁまんさん・劉封ってそんなに凄い奴だったんですか?また初心者掲示板でお世話になるかも知れません(笑)
朱家さん・正史をしってから孔明のイメージが悪くなるばかりです(苦笑)しかし、劉備もなんで劉封を養子にしたんでしょうか?あとから問題がおこる事は分かってたはずなのに…
(EZ)
38 しす
>>37
劉備に跡継ぎが無かったために養子に迎えたという記述がありますから、まだ劉禅が産まれる前だったのでしょう。
武芸、気力、共に人より優れていたといいますから、荒くれ者の率いる劉備にとって魅力的な人物に見えたのかもしれません。
あるいは彼は長沙の劉氏の従子とありますので、あるいは背後に見える劉氏の存在も関係あったのかもしれません。
(PC)
39 朱家
関羽が劉封に援軍を求めたのは、敗走してる時ではありません。
于禁を降し、樊城攻撃時に援軍要請してます。対呉の兵を動員しても足りなかったのです。しかもこの時、呉の兵糧を強奪してます(呉が動くきっかけ)兵も兵糧も足りないのに撤退の選択肢がないのです。廖立伝の関羽評と合致しますね。確かに援軍を送っていれば、樊城は落ち、荊州を守れたかもしれませんが、劉封が正論であり、侵略されての援軍なら無理しても派遣したと思います。荊州西北部は重要地で、漢中が安全になり、漢中王になってます。この地を失った責任はありますが、孟達が裏切り、徐晃らが来ては防げません。つまり劉封が斬られるような罪はないんですけどね。
(A1304T/au)
40 しす
無問題さんが初心者用掲示板に劉封スレを立てられたので、彼の話はそちらへシフトしましょうか。
http://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=28
(PC)
41 ストラップ
曹叡に献上されたとされる燃えない布(火で洗う布)、火浣布は、現在話題の石綿の可能性はありませんか?

理科の時間。アルコールランプとビーカーの間に敷いた金網に付けられていた、例の白いヤツ。白い色も共通していますよね?
(F2102V/FOMA)
42 しす
>>41
曹叡に火浣布が献上されたのは初耳でしたが、江戸時代に平賀源内が幕府に献上した火浣布が石綿だったようですから、可能性は大ではないでしょうか。
ローマやエジプトではかなり古い時代から使われていたようですし。
そういえば「伊賀の影丸」で土蜘蛛五人衆の一人、猿彦の火術を防ぐために使ってました。
…ってあまり関係ないすね(汗)
(PC)
43 くわぁまん
荊州の刺史劉表の息子は劉キと劉ソウが物語上有名になってしまいましたが、実は表にはもう一人息子がいました。名を劉脩と言います。

彼は東安太守まで出世しましたが、彼は他の兄弟より能力は上か下か?

貴方ならどっち?

by関口浩(笑)
(F901iC/FOMA)
44 李◆NIRu
 孫権が、碧眼紫髯とするのは演義だけなのでしょうか?
 「三国志」本文中に眼が輝いていたというのと、「三国志」の注に引かれている「献帝春秋」で、張遼が紫髯と言った記述ぐらいしか、私は知りません。演義では、孫権の容姿容貌についてはいくつか出てきますが。
 紫髯というか、茶系統の毛色は、現代の日本でも稀に見かけますが(ハーフやクォータではなく)、碧眼はさすがに遺伝か色素欠乏症ぐらいしか無いのではないかと思われます。
 孫権って、胡人の血をひいていたのかねえ。
(P900i/FOMA)
45 ピエール
三国志とは関係ないですが西遊記の三蔵法師も紫暗の瞳だったとどっかで聞いたことがありますが、本当ですか?
(W21SA/au)
46 しす
板違いだけど…
西遊記の玄奘って「まるまる太った美男子」以外の記述ってあったっけかなぁ?
実在の玄奘は確か長身で容姿端麗、声も喋りも美しい…とかだったような。
>>45
それ、もしかして…西遊記ではなく最遊記の三蔵では?
(PC)
47 バイン
もしかしたらこの質問のスレあるかもしれませんが…


なぜ馬超と曹操が潼関で戦ってるとき劉備は北上しなかったんでしょうか?
呉はしっかり合肥へ出陣してますし、荊州方面への援軍は途中で潼関方面へ向かってますから攻めるならなかなかのチャンスだったと思うんですが…?
(W21T/au)
48 弥勒
弥勒です。馬超と曹操が戦ってる頃、
確か劉備はまだ荊州を治めたばかりです。故に荊州の国力を蓄える事に専念している為、とても曹操を攻める余力は無かったのではと思います。(かえって馬超と曹操が争ってる時が荊州の国力を蓄えるチャンスで有ったかと)
(PC)
49 しす
ageるよ
(PC)
50 ストラップ
「魏書十五 劉司馬梁張温賈伝第十五 温恢伝」に、
「建安二十四年、孫權攻合肥」
とありますが、この年孫権は関羽を背後から突くと曹操に連絡した年でもありますよね?
孫権の考えている事は謎です。
(PC)
51 寿君
>>50
 確か「蒼天航路」でも、その孫権の侵攻を採用してますよね。
 でも、坂口和澄氏は著書で温恢伝の記述を「単なる勘違いではないか」と否定してます。
 実際、どうなんでしょうね?。
(P901iS/FOMA)
52 ストラップ
>>50-51
あれだけ堂々と書いてあるし、勘違いなのでしょうかねぇ?

ちなみに坂口和澄氏は著作で
「小競り合いを誇大に」
と書いてますね。

しかし、エン州刺史裴潜、予州刺史呂貢が向かい、第二陣として張遼まで出張っていますから、小競り合いではなさそうですが‥‥‥
(PC)
53 寿君
>>52
 あっ、ホントだ。『三国志集解』の廬弼の言葉を引いてありますね。
「内容を偽ってしまった」を勝手に思い込みして放置してました。スンマセン。
 でも、私も実際小競り合いとは思ってません。
 これはもしかすると、荊州侵攻に何らかの繋がりがある作戦ではないでしょうか?。魏が大軍を振り向けてきたので、手薄な荊州に切り替えたか。
 それとも、孫権が親劉備から反劉備に突如路線変更したか…
 なんか「蒼天」じゃ、難しい外交姿勢を孫権は言ってましたが、実際は土壇場で戦略転換したのではないでしょうか?。
(P901iS/FOMA)
54 赤龍
>>52
裴潜、呂貢、張遼が向かったのは荊州方面ですよ。
温恢は、裴潜に「このあたりは賊がいるけれども、心配することはない」といい、合肥よりもむしろ荊州のほうが問題と言っています。
これを見ると、合肥での戦いが小競り合いというのもあながち間違いではないのではと思います。
(PC)
55 ストラップ
>>54
本当だ(汗)
良く読めば樊救出の件みたいですね。

確かにそうでなきゃ、この年の張遼は忙し過ぎますね。
(F2102V/FOMA)
56 しす
ageます
(PC)
57 削除済
58 諏訪
>>>28-86-91
曹真がもともとは秦氏だったかという話ですが、そもそもこのことが載せられている『魏略』という史書は、この史料でしか知りえない貴重な情報を多く提供してくれる一方で、『蜀志後主伝』の注にある劉禅の流離譚のように、明らかに事実と異なる記事も多く含まれており、巨細余さず様々な記載がされているようです。

そこで仮に、『魏略』の記述が根も葉もないことではないとすると、曹操の身代わりとなって死んだ秦氏(秦伯南?)と曹真の父(曹邵?)とを混同したということは考えられないでしょうか。

いずれにしても私は、曹真はもともと秦氏ではないのでは、と考えています。
(W51S/au)
59 巫俊(ふしゅん)
>>58
そうだとしても邵と伯南は対応していたりします。名字(めいじ)の対応関係として。

諸葛亮、字は孔明。
潁川の胡昭、字孔明。

とかと同じで、邵は『詩経』国風の召南の篇を指します。
(PC)
60 巫俊(ふしゅん)
『三国志』魏書胡質伝に武周、字は伯南という人が出てきます。
武周と張遼は不仲で、胡質はそのことで張遼を諌めるのですが、胡質の発言の中で武周を伯南と呼んでいることと裴注の『虞預晉書』から光禄大夫にまで昇ったという武周の字が伯南であることが分かります。

胡 質 字 文 徳 , 楚 國 寿 春 人 也 .
(中略)
将 軍 張 遼 与 其 護 軍 武 周 有 隙 .
(中略)
質 曰 : 「 古 人 之 交 也 (中略)武 伯 南 身 為 雅 士 (後略)」
(中略)
遼 感 言 , 復 与 周 平 .[一]

[一] 虞 預 晋 書 曰 : 周 字 伯 南 , 沛 國 竹 邑 人 . 位 至 光 禄 大 夫 .(後略)

伯南と周も『詩経』国風の周南の篇から嘉名を取っているのです。
(PC)
61 諏訪
>>59-60
曹邵の字が伯南だとすると、曹邵(曹伯南)と秦伯南とを混同したという可能性も出てくるような気がします。
もっとも、これも>>>28-86と同様に根拠の無い推測にすぎず、要は、『魏略』にある秦伯南が曹真の父(すなわち曹真はもともと秦氏)という記述が誤りである可能性は無いか、ということをずっと考えているのですが。
(W51S/au)
62 巫俊(ふしゅん)
>>61
曹真と何か運命的な関係があった秦氏という人があって、そして『三国志』『魏略』などの書物はその周縁をなぞっているに過ぎない、、、
そうしたらどうでしょう。
(PC)
63 削除済
64 削除済