3 天草
そうか…(汗)
字が違うのか…スレタイで間違えるとは…。
彼の功績は政治におけるものが多いのでしょうか?
だとしたら、具体的に挙げられる善政の例があれば、教えて下さい。
また反対に軍事面において、この戦では前線にいたという話があれば、教えて下さい。
字が違うのか…スレタイで間違えるとは…。
彼の功績は政治におけるものが多いのでしょうか?
だとしたら、具体的に挙げられる善政の例があれば、教えて下さい。
また反対に軍事面において、この戦では前線にいたという話があれば、教えて下さい。
(PC)
4 無問題
いいですね〜、瑾兄さん好きなんですよ。彼の役割は孫権と部下にいざこざがおこったときの仲介役みたいなかんじじゃないでしょうか?一番印象に残っているのが孫権の期限を損ねた瑾の同僚(名前忘れました)の命を助ける場面ですかね?あと、孫権が朱治に疑いをかけたときもうまくとりなしていますから。まあ、あまり目立たない人ですがね…(苦笑)
(W21K/au)
5 ストラップ
孫権には、顔回に例えられています。顔回は少なくとも死後、孔子の弟子としては最も評価された人物ですから、高い評価だった事がわかります。>>>235-2も、恪を誉めたと共に、瑾を誉めた言葉ともとれますね。
江陵で曹真と夏侯尚が朱然(だったと思う)を囲んだ時、瑾は大軍を率いて救援に行き、功績があるとされていまが‥‥‥。軍事行動は苦手だったのでは無いでしょうか?
今詳しい資料が手元に無い為、詳細は他に譲ります。
江陵で曹真と夏侯尚が朱然(だったと思う)を囲んだ時、瑾は大軍を率いて救援に行き、功績があるとされていまが‥‥‥。軍事行動は苦手だったのでは無いでしょうか?
今詳しい資料が手元に無い為、詳細は他に譲ります。
(PC)
6 赤龍
この江陵の戦、『呉録』に「諸葛瑾は鷹揚せまらぬ性格から、ものごとの道筋を考え、計画を十分にたてたうえで行動に移し、臨機応変の戦術を取らなかったため、兵役はなかなからちがあかず〜」とあり、孫権に不満を持たれるも、最終的には春の出水の頃に攻撃をかけ、魏軍を追い払い、華々しい勲功は無かったが、兵士を損ねること無く領土を守ったことが評価されたとあります。軍事にも、堅実な瑾の性格が現れているようで面白いですね。
(J-SA05)
7 赤龍
孫権と瑾との信頼関係は、瑾を讒言する者に「孤(=私)と子瑜とは死生不易の誓い有り。子瑜の孤に負かざるは、なお孤の子瑜に負かざりしごときなり」と言わしめる程です。両者の絶大な信頼関係がうかがえますね。
(J-SA05)
8 朱家
夷陵の戦いの時、劉備を諫める書簡により疑われて、赤龍さんの孫権の言葉だったと思います。これだけ信頼されていたのであれば、南群太守だった瑾が総司令官に任命されるのが順当だと思うのですが…古参の武将達が陸遜では従わない事を予測できたと思うし、一種の賭けですよね。賭けをしなければならないほど瑾の軍事的評価は低かったと考えるのが普通かと。しかし大将軍となり、陸遜と共に最前線を任せられてる事を考えると、いつ評価が変わったんでしょうかね?
(A1304T/au)
9 赤龍
必ずしも、瑾が司令官に任命されず=軍事的評価の低さとは言えないかと。孫権自身は信頼してても、諸将の見る目は別問題。瑾の心情・立場を思いやれば、対蜀戦の最前線で戦わせる事は辛いと思うでしょうし。そして、これまで対蜀外交で活躍し、亮とのラインも持つ瑾は、蜀との和平を探るという外交面で動いてもらうに適任であり、軍事に参加させるべきではないと判断したのでは?
(J-SA05)
10 朱家
私は全く逆の考えなんですよね。「徳行はもっとも純なり」と評されてるように、少なくとも陸遜よりは皆が納得したと思われる事。亮の兄という事で、荊州奪回に関わった陸遜より、少しは劉備の抑制材料になったのではと思う事。そもそも南郡太守ってエリートコースですから、呉の危機に出なくてどーする?って感じです。ただ亮の兄って事の瑾の心境とか考えた事はなかったですね。いよいよ危なくなったら、瑾を使って和睦交渉しようとの切り札だったのかも。
(A1304T/au)
12 天草
兄貴スレ盛り上がってますね!!
軍事面ではやっぱり微妙なのか意見が分かれますね。
見てても面白いので、まだまだ色々教えて下さい♪
>>11
無問題サン>どうしました?どのスレですか?私は何も削除してませんよ。
軍事面ではやっぱり微妙なのか意見が分かれますね。
見てても面白いので、まだまだ色々教えて下さい♪
>>11
無問題サン>どうしました?どのスレですか?私は何も削除してませんよ。
(PC)
14 赤龍
>>10
瑾の伝に、劉備が進軍してくると、孫権はむしろ蜀との講和を望み、瑾はその意を受けて劉備に書を送ったとあります。夷陵の戦前より、陸遜に軍事を任せ、蜀軍を防がせつつ、対蜀外交に長じた瑾に呉蜀同盟の復活の道を探らせる方針だったと私は考えています。主戦派と講和派をうまく使い分けた人事だったのかもしれません。
瑾の伝に、劉備が進軍してくると、孫権はむしろ蜀との講和を望み、瑾はその意を受けて劉備に書を送ったとあります。夷陵の戦前より、陸遜に軍事を任せ、蜀軍を防がせつつ、対蜀外交に長じた瑾に呉蜀同盟の復活の道を探らせる方針だったと私は考えています。主戦派と講和派をうまく使い分けた人事だったのかもしれません。
(J-SA05)
15 朱家
結果論ですが、荊州分割に成功してるが、これは蜀側の提案で、一番返して欲しい江陵は蜀の所有という屈辱的な条件で、その他も外交官としての成果はない。人柄と亮の兄という事で期待したのだろうが、孔明のほうが一枚も二枚も上。進言も百年、十年の計はなく堅実で、大きな功績は見られず、大将軍になれたのが不思議だが、この人事に不満を抱く人や不仲の将などの記述はなく、瑾の人柄を証明してるでしょう。一番評価すべき点は、意味合いは違うが、格の言葉「仕えるべき相手を知っていた」だと思いますね。歴史上、これを誤った将は多く、知恵者の一番条件だと思います。
(A1304T/au)
16 えいじ
始めから読ませて頂きましたが、面白いスレですよね。孔明の兄という以外は殆ど知識のなかった自分には、とても興味深い討論です。そして、皆様の知識の深さには感心するばかりです。自分も早くこれだけの議論に参加してみたいものですね。
拝見させてもらった意見から僕自身の考えを述べますと、諸葛瑾という人は、自分の身の丈というものを熟知しており、与えられた仕事においては常に一定の成果を挙げていた。己の分際をわきまえた立ち居振る舞いや、派手さこそないものの堅実な業績が孫権に気に入られた。故に出世を果たすことが出来たのだが、大きな失敗も成功もないのでいざ伝をたてても面白味があるはずもなく、結果、諸葛瑾という人は歴史の中において不透明な存在となってしまった。以上、勝手な私見です、長文失礼しました。
拝見させてもらった意見から僕自身の考えを述べますと、諸葛瑾という人は、自分の身の丈というものを熟知しており、与えられた仕事においては常に一定の成果を挙げていた。己の分際をわきまえた立ち居振る舞いや、派手さこそないものの堅実な業績が孫権に気に入られた。故に出世を果たすことが出来たのだが、大きな失敗も成功もないのでいざ伝をたてても面白味があるはずもなく、結果、諸葛瑾という人は歴史の中において不透明な存在となってしまった。以上、勝手な私見です、長文失礼しました。
(P900iV/FOMA)
17 しす
一つ注目すべきは、豪族の寄合所帯のような呉の中に、地縁もなく、兵もなく、無位無冠といった形で飛び込んでいって、孫権にあそこまで信頼されるまでに至ったその経緯はそれだけで評価に値すると思います。
派手さには欠けるが、温厚にして堅実な人物というのはやはり大きな組織の中にあって必要不可欠な人物ではないかという気がします。
派手さには欠けるが、温厚にして堅実な人物というのはやはり大きな組織の中にあって必要不可欠な人物ではないかという気がします。
(PC)
18 赤龍
しすさんのお考えとは反対に、江南に地盤が無いからこそ、江南豪族との孫呉の江南支配との軋轢や、独立性の主張といった問題も無く、純粋に自分の忠実な側近として信頼できたのではとも考えられます。諸葛氏の当時における名声がどの程度あったのかも気になりますね。
(J-SA05)
19 朱家
亮、瑾の父は県令のちょい下ぐらいの地位(異説多数有り)で、名声があったとは思えないですね。出世してるか分からないが、仕えて一年ぐらいで孫権に直接進言できる位置にいるんですよね。今の感覚だと凄いと思うのですが、当時はどうだったのかな?三国以前で諸葛氏が出てくる事はないですし(祖先は葛氏説が有力)瑾が大将軍、亮が丞相、誕が征東大将軍、違った国でこの地位は凄く、最盛期だろうが異常でしょう。
(A1304T/au)
21 天草
瑾には皆さんご存知の通り、諸葛恪という息子がいましたが、彼の事を嫌っていたという話しがありますよね?
皆さんが諸葛恪という人物をどう評価しているのかにもよりますが、呉の軍事の大権を掌握した人物。
一方、瑾が世継ぎに選んだ諸葛融は派手な格好に贅沢の限りを尽くした…とあります。
もしや、彼には人を見る目がなかった?
ましくは息子を見る目がなかったのでしょうか?
皆さんが諸葛恪という人物をどう評価しているのかにもよりますが、呉の軍事の大権を掌握した人物。
一方、瑾が世継ぎに選んだ諸葛融は派手な格好に贅沢の限りを尽くした…とあります。
もしや、彼には人を見る目がなかった?
ましくは息子を見る目がなかったのでしょうか?
(PC)
22 赤龍
諸葛瑾の世継ですが、恪が嫌いだから融にしたというわけでなく、恪は自身の功績により父の存命中、父とは別に既に都郷侯の爵位を得ていました。なので瑾の死後、瑾の爵位を継ぐ者として、まだ爵位を持ってない弟の融が選ばれた訳です。
(J-SA05)