1 無問題

蜜帝 袁術

検索してみたら以外と彼に関するスレがなかったので立てさせていただきます。蜜帝こと袁術について語り合いましょう!
(W21K/au)
2 献帝
袁術公路はただ単に野望多き人だったんでしょうか?帝を称し、民に圧政をしき袁紹と対立しいったい何を求めていたんでしょう?天下を欲していたならとても利口な人物の行動とは思えない
(N900i/FOMA)
3 無問題
献帝さん・はじめまして、よろしくお願いします。確かに、袁術は贅沢しまくってますよね。彼が最初に赴任した南陽は豊かな土地だったのに袁術が重税をかしたので民は貧困状態に陥っています。寿春で帝号を称してからはもっとひどいです。結局、彼はあらゆる面で我慢が足りなかったんだと思いますが。
(W21K/au)
4 天草
改めて袁術の一生を振り返ると、惨めな一生ですよね。
あんな風にはなりたくないなぁ…と思いつつ、議題を提供します!

袁術と袁紹は従兄弟(兄弟説あり)で反目したり、助け合ったりしてますよね?

恐らく彼らが手を組めば、曹操どころか、董卓にも勝てたのではないでしょうか?
なぜ彼はその選択をせずに、寿春などで皇帝を詐称したのでしょうか?

あまりにも愚かな考えに思えてなりません。
(PC)
5 無問題
袁術は袁紹にコンプレックスを持っていたのではないでしょうか?本来ならば、母親の位も袁術の方が上で、袁紹の母はあまり位が高くなく、本来ならば自分が袁家を率いるべき人間であると自負していたのではないでしょうか?しかし、家督を継いだのは袁紹。術はそのことが納得行かず、しかも袁家こそが漢に変わるべきと思っていたので、劉虞擁立の権で完全に紹と決別。一時は紹に対抗する力をつけるも、最後は次号自得のあわれな最後を向かえる。こんなもんでしょうか?
(W21K/au)
6 無問題
あと、彼の戦争の黒星の多さが目につきますね。曹操、呂布、袁紹と色々な相手と戦って全部負けてます。呂布に攻められたときなんか本拠地の寿春まで攻められてます。戦争は苦手だったようですね
(W21K/au)
7 天草
コンプレックスと言うよりも嫉妬心みたいなものに近かったんじゃないのかな?

自分が嫡流であるのに、袁紹の方に皆が期待を寄せていたことが大きいのではないかと。
(PC)
8 無問題
確かにその通りですね。彼は袁紹に勝ちたかったんだと思いますよ。でも、反董卓連合の時の爵位は彼のほうが上ですね
(W21K/au)
9 ストラップ
手順を踏んで無いのは劉備も孫権も同じなのに、この人は偽皇帝ですね。


やはり、まだ漢が実在した事が大きいのでしょうかね。
(F2102V/FOMA)
10 天草
正直袁術が戦で勝ったという記録が見付かりません(笑)

誰か見付けたら教えて下さい。
(W31SA/au)
11 ストラップ
>>10
とりあえず。
「孫策伝」に孫策に命じて陸康を攻撃させ、落城させたとあります。
(PC)
12 無問題
確か、劉備が袁術と戦ったときに呂布が寝返り劉備が敗走した話は勝ちに入らないですかね?呂布がわって入ったからドローかな?
(W32SA/au)
13 飛燕
2回目は呂布が仲介に入ったのでドローだと思います。ただ、1回目の戦いでの呂布の裏切りが袁術の催促によるものだとしたら、袁術の作戦勝ちになるのかもしれませんね。
(F900iC/FOMA)
14 くわぁまん
またまた解らない事が出て来ました…。(笑)

反董卓連合軍の先鋒の孫堅は袁術配下として参戦した訳で、それなのに何故兵糧攻めを仕向けたのでしょう?

仮に、董卓を滅ぼした後、袁紹との対決の為の貴重な戦力と成りうるのに自分の戦力を自分で減らすとは…。

オー○ティンパワーズ並の大○鹿者ですね(爆)
(F901iC/FOMA)
15 くわぁまん
↑文章が変ですね…
仕向ける…×
仕向けられる…○

の誤りです。m(__)m
(F901iC/FOMA)
16 しす
>>14
兵糧攻めって、袁術が孫堅に兵糧を送らなかったことを言っているのでしょうか?
それならば破虜伝に「ある人が孫堅と袁術を離間させようとしたので、袁術は疑惑を抱き、軍糧を供給してやらなかった」とありますよね。
注にも『江表伝』に言う、として「堅がもし洛陽を得たなら、もはや制御することはできなくなります。これこそ狼を取り除いて虎を得ることでしょう。」そのため袁術は彼を疑うようになった」とあります。
袁術の判断が正しかったかどうかはともかくとして、獅子身中の虫になるかもしれない存在に兵糧を送らなかったことがそれほど大馬鹿でしょうか?
(PC)
17 沢庵
確かに当時の孫堅の勢いを考えると危険かもですね。実はある意味先見の明!?
(N700i/FOMA)
18 くわぁまん
皆さん御意見どーもです。(笑)

孫堅は孫子の末裔とは言え名門では有りません。ですから袁術を頼ったわけで、わざわざ自分から配下になりに来た者を邪険に扱う事は無いでしょう…(汗)

董卓は以前、西涼討伐時孫堅に赤っ恥をかかされていますし、実力を知っているので董卓側から懐柔策が来るのも予想が付くと言うもの…

まんまと董卓の仕掛けた策に引っ掛かるかなぁ?
それに堅は洛陽を落とした後も董卓が破壊した皇帝の墓を修復するといった忠義者ですし…。
(F901iC/FOMA)
19 ストラップ
>>18
>>16の内容は、>>16に書かれている様に、ちゃんと三国志に書かれた内容ですよ。一度指摘の箇所を読み直されてはいかがでしょうか?

又、孫堅が董卓の懐柔を突っ撥ねるエピソードも合わせてあります。それに……「董卓の仕掛けた策に」云々の意味が全くわかりません。
(F2102V/FOMA)
20 しす
>>18
こちらは具体的にソースも提示しているのに、その資料すら蔑ろにする発言はなんなんでしょう?
もちろん正史が全てにおいて正しいとは言いませんが、それを無視して話を進めようとする姿勢はおかしいんじゃないですか?
>>19でも指摘されていますが董卓の策略というのも何がソースなのか全く解りません。
http://z-z.jp/thbbs.cgi?id=syosinsya&p3=&th=54
でもそうですが、>>>205-41-44の件を全く無視されている。
人の意見を尊重しないにも程があります。
(PC)
21 くわぁまん
しすサン》嫌に自分に噛み付きますね…。自分の意見は「董卓伝」に有る董卓は娘を孫堅の息子に嫁がせ停戦しようと企てたと言う一文から考えたからです。

別にしすサンの発言を無視して話しを進めるとか悪気はありません。気分を悪くされたなら謝ります。

自分、難しい話しは良く解らないので討論は皆さんにお任せするとして、話題のネタ提供を色々していましたが、どおやらそれが気に入らないようですね…

自分、これを機に引退致します。ご迷惑かけました。
(F901iC/FOMA)
22 ストラップ
>>21
スレッドに関係無い部分は>>>148-54に譲るとして……
今「三国志 巻六」を見ましたが、問題の記述がどこにあるのかわかりませんでした。どなたかご教授願います。
(F2102V/FOMA)
23 胡蝶
ちくま学芸文庫の『正史三国志』から「董卓伝」ついでに「孫堅伝」、索引にある「孫堅」の箇所を調べてみましたが、董卓が娘を孫堅の息子に嫁がせて停戦しようと企てた記述は確認出来ませんでした。
完璧に調べあげたわけではないので見落とした可能性もありますが…(汗)

どなたか見つけた方がいらっしゃいましたら宜しくお願いします。
(W21CA/au)
24 ストラップ
>>23
僕も>>21を見て、二つの正史の「董卓伝」を丁寧に見ているのですよね(汗)>>>107-77>>>158-48>>>289-18を見ていただけたら解る様に、俄か董卓伝マニアです(笑)

>>21はガセネタなんじゃないかと疑っております。
(PC)
25 ストラップ
失礼。
上記>>>289-18は、
>>>287-18の誤りです。
(PC)
26 明烏
はじめまして。
横から、失礼しますm(__)m

>>21に関して
私も確認しましたが、正史「董卓伝」には記述はないと思います。


以下は個人的な見解です。
『呉録』の当時を記した箇所に、董卓は孫堅を恐れて、将軍、李らを派遣した〜というような記述があった気がします。
(正確な文面は現在、手元に無し、すいません)

>>21は上記のような記述から派生した説の一種ではないでしょうか。
こちらにも娘云々の記述はなかった(と思う)ので、あくまで派生したという可能性だけですが……。

説を否定できる証拠という訳ではありませんが、レスさせていただきました。
(P901i/FOMA)
27 明烏
 
>>26の史料ですが、たぶん破慮伝の注ですよね。

記憶で書いた後、『呉録』なんて現存してないよなぁ…と考えてたら思い出しました。
ごめんなさい(汗)

(P901i/FOMA)
28 ストラップ
>>26-27
はじめまして。これからも宜しくお願いしますね。
ちなみにその件に関しては一度軽く>>19で触れましたし、>>>107-77にも引用しています。こちらも把握済ですよ。

問題にしているのは先ず、「「董卓伝」に記述がある」とはっきり書かれている以上、二つの正史のいづれかの「董卓伝」に>>21の記述が存在するか否かという事ですね。
まぁ有ったとしても、>>18の説明には全くなっていないのですが……

今後、ガセネタを無くす為にも、もう一度本人にどこの何を見てそう書いたのか教えて戴きたいものてす☆
(F2102V/FOMA)
29 しす
>>18の件について…
まず>>16の破虜伝の引用ですが、直談判し軍糧を調達してもらったことが記された後に、董卓の懐柔策の記述があるので、これとは切り離して考えるべきだと思います。
それに孫堅が墳墓を修復したのは洛陽に入ってから。
これより未来の話なので袁術が孫堅に対して疑惑を持ったという記述を覆す材料にはならないと思います。
そもそもこれらのエピソードは孫堅の尊王、漢室に対する忠義であり袁術に対する忠義ではないと思われますし、大事なのは孫堅が忠義者であるかどうかではなく、あくまで袁術が孫堅に対してどういう印象を持ったかということだと思います。
と言うか破虜伝を読めば一々説明しなくていいことですよね。

三国志の董卓伝は私も調べましたが、懐柔策はおろか孫堅について記されている個所すら見つけられなかったのですが。
娘云々って演義の話じゃないんですか?

>>26
明烏さんはじめまして。
よろしくお願いします。
やはり私も上記したとおり「李カクらを派遣した云々」という記述しか見つけられませんでした。
董卓の娘となるともはや、さっぱりです。

誰か後漢書の董卓伝の記述見つけられますかね?
(PC)
30 しす
後漢書董卓伝発見。
たぶんPCでないと閲覧できないとは思いますが。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_toutaku.html
破虜伝と似たような記述しかありませんね…。
(PC)
31 ストラップ
>>29-30
>>28に書きました様に、「後漢書」の記述は、>>>107-77に引用していますって(汗)
(F2102V/FOMA)
32 無問題
う〜ん…、袁術スレじゃなくて孫堅スレと化しているような…(苦笑)袁術はどうやらこの孫堅が派手に暴れまわっている期間は孫堅に兵糧を送っている事を除けば何も目立った行動を起こしていないようですね。董卓は孫堅の実力を相当買っていたようですね。同じ戦場で戦っていたから実力をしっていたのでしょうか?
(W32SA/au)
33 しす
>>31
れれれ?
申し訳ないです。
別の引用と勘違いしておりました。
陳謝。

>>32
確かに孫堅スレになてますね(汗)
董卓の孫堅に対する評価は他の方に譲るとして、袁術の話に戻しましょう。
件の破虜伝での孫堅が直談判する箇所ですが、演義と違って孫堅はかなり切実に訴えてますよね。
それに対し袁術は「踧踖とし」と続けたあとにすぐに軍糧を徴発したと記されています。
ここから個人的にイメージされる袁術像というのは演義における小物のイメージと違ってそれなりに分別のある人物に思える気がするのですが。
(PC)
34 無問題
しすさんの仰られるとおり、最近彼に対する再評価が進んでいるようですな。あと一つ袁術に対する以外極まりない記述を一つ…。袁術伝の最初に『男気に溢れる人物で…。』とあったようなきがします。あの袁術が男気に溢れる人物!?てっきり陳寿が嘘を書いたのか!?と思ってしまいました(爆)
(W32SA/au)
35 しす
記念すべき400個目のスレ孫堅スレが出来ましたage

>>>400 孫堅
(PC)
36 しす
意外なところで袁術の名前発見。
韓浩って袁術に仕えていたことがあったんですね。
彼の袁術陣営での記述がないのが残念。
(PC)
37 ストラップ
>>36
「諸夏侯曹伝第九」の注で「魏書」の記述を引いて、袁術は騎都尉にしたと書いてありますね。
(PC)
38 ストラップ
この人と呂布の関係も、良いのか悪いのかわからないところありますよね。

「(呂)布は(李)カクと戦うも敗れ、乃ち数百騎を将い、(董)卓の頭を以て馬の鞍に繁ぎ、走れて武関より出で、南陽にはしる。袁術これを待つこと甚だ厚し」

なんて書いてありますし。
(F2102V/FOMA)
39 袁家熱愛
はじめまして。袁家熱愛です。袁術の参謀達について語らせていただきます。
名前のとおり、袁紹しかり袁術も大好きなので、(笑)彼の配下一覧を作ってみたのですが、
武将…紀霊・兪渉・陳紀・楽就・梁剛・李豊・於夫羅(同盟相手)など、中々優秀な人材が揃っているのですが、
参謀・文官…楊弘・閻象・呂範・陸績と僅か4人しかいません!この、優秀な軍師の欠如が袁術が滅亡した一因だと思うのですが、みなさんの意見は?
(912SH/SB)
40 巫俊(ふしゅん)
袁術、koeiの三國志シリーズでは当初は武力も魅力も高かったが、シリーズ5作目くらいを基点に能力値が急降下していったような気がします。
無双もふくめてkoeiでは、好感度の低い人物にはさも精彩を欠いていたが如く演出するという傾向があります。

従ってというか、確かに魏や呉の人物たちが高く評価されるようになってきた最近においても袁氏については回復したとは言えません。
しかし私は、そういう人物の好き嫌いや評価するしないで歴史を正確に把握することはできないと考えております。
そもそも陳寿が正史『三国志』を書いた時点で、何がしかの袁氏批判的な観念があり、そもそも歴史の記述とは現実的な圧力によって公平ではないのですね。
(PC)
41 しす
>>39
兪渉という人物は演義の創作ですね。
紀霊、陳紀、楽就、梁剛、李豊、楊弘に関しては彼らの才覚を推し量るような記述は皆無。
閻象にいたっては演義ですら一瞬しか登場しません。
陸績なんかは十にも満たぬ幼い頃に袁術のもとにはいたようですが仕えていたと言い難い。
正史についてよく知らないのであれば、まず調べる努力をしましょう。
知らない事は決して恥ではありません。

ところで呂範って袁術に仕えてましたっけ?
(910SH/SB)
42 袁家熱愛
そうなんですか…!!袁家のことまで、書いてられん!ということなんでしょうか?(笑)

しすさん、アドバイスありがとうございます。自分でも承知してます。歴史的観念からの三国志はこれから勉強しようかなぁと。

え〜と、確か元袁術の幕僚で、孫策が袁術に兵馬を借り、自国再建に乗り出そうとしたときに、着いていった、と聞いてます。
(912SH/SB)
43 ストラップ
>>41
>>>11-43にも書きましたが、朱治朱然呂範朱桓伝第十一に、「徐州牧陶謙謂範為袁氏覘候……」と書いてあります。
「覘候」というのは偵伺とほぼ同じ意味で、スパイ行為の意味で使われている様ですね。陶謙に疑われた袁術(若しくは孫策)と何らかの関係があったのでしょう。

ただ、孫策は袁術の配下ですが、呂範が袁術の参謀格というのは、僕も語弊がある様に感じます。
(PC)
44 しす
>>42
ここは歴史としての三国志を学ぶ所です。
あなた自身が歴史と創作を識別できていないと認識していても、特に注意書きもなく当然の如く書き込めば、知らない人はそれを史実だと誤認してしまいますよね。

呂範に関しても袁術の幕僚だったというのは演義の創作のようです。
↑も記憶が曖昧だったので>>41では保留にし、改めて調べた上で書きました。
袁家熱愛さんも性急なカキコは控え、まず自身で調べるということが歴史を学ぶ第一歩じゃないですか。
(910SH/SB)
45 袁家熱愛
よく分かりました!ここは史実を学ぶ場なのですね。すみません…。では、これは本当の事実なのでしょうか?としばらく質問していきたいと思います。ご教授ください。よろしくお願いします。
(912SH/SB)
46 袁家熱愛
陸績が、幼い頃に袁術に目通りしただけだというのは知っておりました。ただ、後に鳳統や周喩と交流を持つ程の知識人となるので、入れてしまっていいかなぁ?と。軽率でした。
ところで、袁術と彼の蜜柑の逸話は本当なのでしょうか?
(912SH/SB)
47 諏訪
>>46
袁家熱愛さん、はじめまして。

その逸話は『陸績伝』に載っていますが、正史に書かれていることが真実だとは限らず、本当にあったことかどうか確かめようがありません。
このテの逸話というのは、その人物像をわかりやすく表すために、後世創作された可能性があります。

それと、陸績が周瑜と交流があったという記録はなかったと思います。
(W51S/au)
48 諏訪
袁術配下の文官で詳しい事跡が伝わっているのは、袁渙くらいでしょうか。
歴史上、敗者というのは記録が残りにくいものですね。
(W51S/au)
49 袁家熱愛
諏訪さん、はじめまして!袁家熱愛です。ご教授ありがたいです。そうですか…。本当かどうかは分からないと(笑)
6歳のとき、袁術に目通りし、陸績が接客用の蜜柑を懐にいれ、袁術にお辞儀をすると、蜜柑が落っこちてしまった。袁術は怒らず、なぜ蜜柑を懐に入れていたのか問うと、母のお土産にしようと思ったと言ったので、袁術は何て親孝行な子だと、たいそう感心した。
というエピソードを聞いて、袁術も良心があったのだと喜んでいたのですが(笑)

すみません。周喩ではなく、虞翻と交流があったそうです。
(912SH/SB)
50 しす
さすがに陸績の話しをこれ以上ここで続けるのは厳しいので、続きは>>>493でよろしくお願いします。
(910SH/SB)
51 袁家熱愛
ここで、陸積談から離れ、袁術についての珍説を。
袁術が兵馬貸与の担保として、孫策から玉璽を奪い、皇帝を自称したのは、周知の事ですが、彼がそんな事をしたのは皇帝に成りたかった訳ではなく、孫策という素晴らしい息子を持った孫堅を疎ましく思ったのではないか?袁術が、「孫策程の息子がいれば、死んでもよい」とまで言ったことが事実であれば、有り得ますよね?妬ましく思って、孫堅の遺物である玉璽を腹いせに奪ってやった…。
凄いくだらないですね
(笑)
(912SH/SB)
52 諏訪
>>51
袁術が玉璽と引き換えに孫策に兵を与えたというのは、演義の話ではないですか?
そもそも、孫堅が玉璽を手に入れたことを疑問視する意見がありますし、私も疑わしく思っています。

玉璽に関しては>>>254-17-27及び>>>400-48-61でも話題になっています。
(W51S/au)
53 袁家熱愛
そうだったんですか?
ですが、この話が演義の創作であったとなると、袁術が皇帝を名乗った理由付けが多少、というより、微々たる物ですが、薄弱になってしまいませんか?
袁術が皇帝を自称した理由は1.とにかく、手元に玉璽があった。2.自身の字「公路」に道を意味する路があり、路の字は古きから皇帝に就きし者達の文化に深く関わっていた。(詳しい説明できず、ごめんなさい)の二つだったと思うのですが、玉璽がないと、擬似皇帝の基盤が少なからずでも欲しいところを欠如してしまうのではないか?と思うのですが、諏訪さんの御意見は?
(912SH/SB)
54 諏訪
>>53
2.は「漢に代わるのは当塗高」という予言のことですね。
私もこれに関しては全然詳しくないのですが、塗は「道(みち)」のことで、袁術の名の術も字の公路も「道(みち)」と関係があることから、袁術が漢に取って代わるという解釈をするわけですね。
一方で、「当塗高」を魏とする解釈もあります。
ここらへんは、申し訳ありませんが本当によくわかりません(汗)

で本題ですが、野心さえあれば皇帝を名乗ることはできます。
孫堅も討伐に参加した許昌や、陶謙と手を組んでいた闕宣など、皇帝を自称する人間は、この時代いくらでもいます。
袁術も、まず帝位に即く野心があり、正当化のために予言などを利用するのでしょう。
(W51S/au)
55 しす
演義における玉璽は、ある意味非常に象徴的アイテムですよね。
孫堅はそれを所持していたために害にあい、は袁術もまた滅亡へとつき進んでいる。
逆に孫策はそれを手放すことで勇躍する力を得ている。
演義のこうした演出こそが人々を引き付ける要因なわけですが、実際の歴史ってそんな解りやすいものではないですよね。
(910SH/SB)
56 寿君
玉璽に関しては、>>>400-61で五さんって方がおっしゃってる意見が、非常に印象的ですね。
(P905i/FOMA)
57 袁家熱愛
五さんのレスを御拝読しました。実に深いですね。感服です。
群雄割拠の一部。孫家と袁術らを翻弄する玉璽は、まるで意志を持っているかのような。
諏訪様 ご教授ありがとうございます。
しす様 史実では玉璽抗争はどうなっているのでしょうか?お教え下さい。
(912SH/SB)
58 袁家熱愛
質問が流れてしまいましたね…(T-T)
では、話を変えましょう! 張勲。袁術配下の大将軍。彼について。
大将軍:張勲とゆう男、呂布攻めで大敗して、後に曹操に降伏しています。こんな奴に記述がほぼ皆無なは当たり前ですが(笑)なぜ張勲は大将軍になんかなれたのでしょうか?それが疑問です。そんな優秀だったですかね?因みに彼、某三国志ア−ケドゲ−ムでは凄いネタキャラとして人気を博しています(笑)
(912SH/SB)
59 袁家熱愛
大将軍;張勲プロフィール
袁術配下の武将。大将軍に位。呂布の娘と袁術の息子との縁談を、呂布側に破談にされたことに激昂した袁術が、呂布攻撃を決定。張勲は何十万もの兵を率い、総大将として出陣するが(謀反や内通?)派兵のかい無く敗れ去ってしまう。
袁術死去後に曹操に帰順した。
(912SH/SB)
60 礼文
孫策と仲がよかったみたいな記述があるのは張勲でしたっけ?
エンジュツ配下の誰かに関してそんな記述があったような。うろ覚えすいません
(W61PT/au)
61 袁家熱愛
!!そうなのですか!?(笑)孫策と張勲が仲良かった!? 初耳です!真実のほどは確かではないですが…。
もしそのような大器であったら、大将軍の器は当然ですね(笑)
(912SH/SB)
62 朱家
記述だと「張勲、橋ズイらを大将軍に任命した」とあり、『ら』とは何って事。この時、袁術は後将軍ですし、漢の大将軍とか、一般的な官職ではないと考えるのが妥当です。

孫策と仲良しだと、器が大きい訳じゃないし、確かに「張勲らは、孫策を尊敬していた」とあるが、所詮、呉書の記述だし、孫策が袁術配下と、仲違いする意味がないですからね。

あと、張勲は袁術死後、孫策に身を寄せようとしたが、劉勲に捕まり、孫策が廬江を落とした時、部下を連れて、曹操に身を寄せています。
(PC)
63 寿君
以前はてっきり、袁術が即位した時に、官位職制を(一応w)定める為に、張勲あたりを大将軍にでも任じた(あくまで袁術の王朝の)のかと思ったら、即位する前に任じてますからね。
しかも、「〜ら」って…(苦笑)。
○○大将軍(即位前だが、なったつもりで)の位でも乱発でもしたのだろうか?(苦笑)
この辺りの袁術はまともに受け取らない方がいいですね。
(P905i/FOMA)