1 クワマン軍曹

中国の碁

コレはあちしが某誌に投稿したネタの一部なんでゃんすが、中国の将棋、碁って日本のとだいぶ違うんでゃんすかねぇ?

中国最古の囲碁の本で「忘憂清楽集」と言うのがあってその巻頭に孫策対呂範の対局が載っているそーな。

あちしはそれを「中国の碁」(安永一著、時事通信社)を見て知ったのでゃんすが碁も日中同じルールなのでゃんすかね?ヽ(´ー`)ノ
(F901iC/FOMA)
2 天草
相変わらずくわぁまんサンは面白いスレを立てますね!

私は碁のルールさえ知りませんが、最近は漫画の影響で子供なんかにもかなり浸透しているみたいですね。

ご存知の方がいれば、是非教えて下さいね♪
(PC)
>>1

注意事項に書かれていますが、マルチハンドルの使用は禁止されています。
今までの中から、一つのHNに絞って投稿してくださいm(__)m
(P900i/FOMA)
4 三三
碁と将棋の違いは将棋は駒一つ一つに格・位があり実際の戦場での作戦盤になり、碁は石を占領した領土とたとえ戦略図となるため、将は覚えさせられたそうです。
演義では関羽は治療しながら碁を打っていますね
唐の時代にどこかの山の洞窟の奥で仙人と化した孔明と徐庶が碁を打っていたという話もありますね。
日本には渡来人から伝わり皇族・貴族では嗜みのひとつだったそうです
遣唐使となって中国で碁を習いたいと言う人もいたそうですし中国の高僧と対局し、そのまま帰国しなかった人の石碑があったそうです
遣唐使廃止からの中国との交流に碁の関係はわかりませんが今現在世界でも交流があるのでルールは同じだと思います
(PC)
5 くわぁまん
天草殿>(^-^)/です

李殿>べつに悪気は無いとです。最近ケ○ロ軍曹にハマっちゃってね。ちょっと使いたかっただけなんよ。(苦笑)

三三殿>ルールは同じなのですかぁ。(゚O゚;)

関羽が対局してたのは確か馬良でしたね。あの場面で関羽の肝っ玉の太さが表現されそれからずーっと関羽のイメージ固まりましたもんね。
(F901iC/FOMA)
6 ストラップ
たはは。
>>>100-20-21
赤龍さんの投稿は、僕のweblogでも参考にさせて戴きました。

ちなみにチェスのビショップ(僧正)は、本来象兵では無かったかなぁ?
(D505iS)
7 くわぁまん
クワ、クワ、クワ、クワ…っと。(o^_^o)

ストラップおつ〜♪

チェスは本当西洋ちゅう感じでアーサー王やランスロットが対局しているのが目に浮かぶでゃんすね。

で、ちょっと話が横にそれるのでゃんすが、確かトランプの絵札の中にアーサーやランスロットが入ってたような…(忘れた)

中国の土産屋に三国志トランプなる物が売ってるそーな。やっぱりスペードのキングは曹操なのでゃんすかねぇ?♪〜( ̄ε ̄)
(F901iC/FOMA)
8 くわぁまん
あ、ストラップ殿呼び捨てごめぇ〜んm(__)m

スト殿って大伴殿だったのネ、知らんかったわょんヽ(´ー`)ノ
(F901iC/FOMA)
9 ストラップ
たはは、大伴です(笑)
現代の囲碁は日本、それも江戸時代に発達したものだったと記憶しています。ですから、ルールの概要は同じでも、定石などは全く違ったでしょうね。第一盤の目の数から違いますし。
(D505iS)
10 郭嘉
くわぁまんさん>三国志トランプですが、私の持っているものでは曹操はハートのAでスペードのKは関羽でした。他にもいくつか種類があるので、そちらは曹操かもしれませんね☆

話を戻しますが、碁の起源はずっと古く、堯や舜(伝説上の聖王ですが)の頃からあったとされているそうです。孔子の「論語」でも囲碁に触れており、「琴(=音楽)、棋(=碁)、書、画」の四芸は古来より士君子のたしなみだったようですね。また孔明は実際に対局する場面はないけれど、劉備が孔明の草ろを訪ねた時に聞いた農民の歌「蒼天ハ円蓋ノ如ク 陸地ハ棋局ニ似タリ 世人ハ黒白ヲ分カチ 往来シテ栄辱ヲ争ウ…」は碁に寄せて人生や世の移り変わりを歌った孔明の作でしたね。と、ある本に書かれていましたf^_^;
(EZ)
11 天草
ようやく記述を見つけましたのでageます。

囲碁は古代から伝わる遊戯の一つで、三国時代にもさかんになされました。士人階級の教養ある遊戯であるとともに、賭博(とばく)としても大いに流行していました。漢代の棋局(碁盤)は、古代から伝わる縦横17道289路のもので、三国時代の英雄たちもその形式の碁盤で打ちました。碁石の数は白黒各々150個ずつであわせて300個であった事が、魏の邯鄲淳(かんたんじゅん)が著した『藝経』に見えます。
(PC)
12 親指傷
ルールと言うか、黒石は先手で白石が後手ですから、必然的に黒石は有利ですよね(^^)vだから、同格同士の戦いの時はハンデで最初に白石が五目半(占領した陣地)を貰う様になりました(^.^)bそのルールは、たしか昭和くらいに決まったと思いますよ(o^o^o)うろ覚えなんですみませんm(__)m今の囲碁のルールは昔の中国より今の日本ルールで世界に広まってます(^^)vでも、日本の棋士は弱いですね(;^_^A
(P900i/FOMA)
13 親指傷
すみませんm(__)mうろ覚えなんで、細かい所で間違ってるかも(;^_^A間違ってたら誰か訂正お願いしますm(__)m
(P900i/FOMA)
14 ストラップ
烏鷺の争いだけにうろ覚えなのね(笑)コミのルールが昭和期からか否かは知りませんが、置き碁を無くしたのは本邦(しかも江戸期と歴史は浅い)で、現在はこれが広まっていますね。
(PC)
15 しす
「五目半コミ出し」が確立したのは昭和初期ですが、コミ碁の記録は最も古いものでは江戸後期のもののようですね。
ちなみにその最も古いコミ碁の棋譜、対戦者の一人はあの棋聖、本因坊秀策とか。
(PC)
16 親指傷
皆さん、さすが博識ですね(・・;)千利休は、中国の茶人、リクウ(又、うろ覚え(^o^;)から名前をモジッたみたいですが秀策も孫策からモジッたのかな?そんな人物、他にいないですかねo(^-^)o?
(P900i/FOMA)
17 親指傷
日本の将棋は西洋のチェスをモデルにしている様ですo(^-^)oやはり桂馬(ナイト)の使い方が命みたいです(;^_^A
(P900i/FOMA)
18 ストラップ
>>1
現在ある「忘憂清楽集-孫策詔呂範弈棋局図-」は、宋代の物で、偽書の可能性は指摘されている所ですよね?僕は今日その棋譜を見ましたが、やはり十九路盤である事が怪しいと思います。ただ、呉で人気のゲームであった事は確かな様で、孫和はィ昭に、「博弈論」という書物を書かせた様です。これは、重臣達が手談に夢中になるあまり、国事を疎かにしないかと心配したが為の、囲碁非難の文書だった様です。

>>14調べたところ、中国で置き碁が廃止されたのは、清代末らしいです。本当に最近ですね。
(PC)
19 ストラップ
>>12
今読み返すと大きな間違いがありますね。現代と違い、白番が先手ですよ。

>>10
「琴棋書画」の出典は、唐代の張彦遠が記した「書法要録 巻三」に最初にでるそうです。たかだか千三百年前。この四字熟語自体は、それほど古くはなさそうですよ。記憶が確かなら、孟子はどこかで莫迦にしていた様な‥‥‥
(PC)
20 しす
微妙にスレ違いですが、碁において「三コウ=不吉の前兆」というのは本能寺の変前夜の信長の前で行われた勝負にて、三コウとなり無勝負になったことが由来だとは知っていたのですが、この時の棋士が後の初代本因坊こと本因坊算砂だと最近知りました。
三国の時代に棋聖と呼ばれるような人がいたとは思えませんが、碁の名手として名を残すような人はいたのでしょうか?
(PC)
21 ストラップ
>>20
少し時代は前ですが、馬融は、「囲棋賦」という囲碁に関する技術書を書いていたと記憶します。劉備は馬融の孫弟子ですから、強かった可能性はあると思いますよ。
又、応ヨウという人が、三国時代の人だったと思います。
(F2102V/FOMA)
22 しす
>>21
情報感謝です。
よくよく考えたら応ヨウに関してはストラップ殿が以前ブログで書いてましたね。

馬融の件は小説のネタとして使えそうですね。
若き日の劉備が簡雍と碁を打ってるシーン(もちろん金を賭けて)なんて面白そう。
(PC)
23 ストラップ
>>20-22
他には以前赤龍さんが数人あげてありますね。これは>>6を参照の事。
又、>>18が実際のものであるとすれば、呂範は現代のプロレベルの棋力がある様です。
(F2102V/FOMA)
24 ストラップ
王粲の記憶力云々の話は、記憶力の問題よりも、やはり棋力だろうなと感じます。
無秩序に並べた石は記憶に頼るしかありませんが、囲碁の勝負であれば、ある程度のセオリーから準える事が出来ますから。
こう考えるならば、打ち手の二人もある程度の棋力があった事になりますね。
対局していた二人がヘボならば、純粋に記憶力抜群ですね(笑)
(PC)
25 ストラップ
コミについての記述を見つけましたので、三国志とは無関係ですが記しておきます。

>>4
一説によると、我が国には遣唐使吉備真備によって中国から伝わったとされるが真偽不明。現在は朝鮮経由説が有力との事。
尚、正倉院には、聖武天皇遺愛の碁盤が残されている。

>>9>>14
置き石を廃止したのは>>20で紹介された十六世紀末の顕本法華宗の僧、日海(本因坊算砂)。
尚本因坊の名は、日海が京都寂光寺の本因坊に住んでいた事に由来。

>>12-15
コミのルールは1938年本因坊秀哉名人の引退試合の相手を選ぶリーグ戦で初採用。尚木谷実との引退試合ではコミ無し。
(PC)
26 ストラップ
ゴメン。
>>25
コミのルールの初採用怪しいです。制度としてらしいので。もう少し調べてみます。
(PC)
27 飛燕
一応、それなりに碁をたしなんでいるので棋譜等を見れば強さはだいたいわかったりします。孫策対呂範の棋譜を見ましたが、現代の定石とかを覚えさせたら、確かに、プロ並みの力はあるでしょう。ホントに大昔の棋譜とは思えなかった(大汗)ただ、あの棋譜は創作の可能性もあるそうです。
曹操も碁の名人らしいですが、曹操の万能ぶりを示すための、これもまた、創作らしいですね。
(F900iC/FOMA)
28 ストラップ
>>27
おぉ>>18の内容がわかるとは、かなりの棋力ですね。僕にはさっぱりです(汗)
呉清源がこの孫策と呂範の対極を解説したものがあるそうで、僕は現在市立図書館で予約中です。
(F2102V/FOMA)
29 飛燕
ストラップさん、僕の棋力はたいして高くないですよ(汗)ただ、碁の内容が現代とたいして変わらないところがあったので驚いたんですヨ。それよりも、あの呉清源が解説!?マジ的なんですか!!?呉清源といったら、本屋で碁の本を探したら必ずその著書があるくらい、超メジャーですよ!!ああ、オレも読みたい…
(F900iC/FOMA)
30 ストラップ
>>28-29
孫策詔呂範エキ棋局図を呉清源が解説した本についての情報を、山本大介からコピペ(笑)


---以下引用(抜粋)----
253 p ; サイズ(cm): 26 x 19
講談社 ; ISBN: 4062125811

出版社/著者からの内容紹介
北京図書館にただ一揃い秘蔵され、堯・舜の時代に起源をもつ囲碁の歴史の上で最古の棋書とされる『忘憂清楽集』。呉清源の解説、宇野精一の翻訳をえて幻の棋書が現代に甦る。
『忘憂清楽集』巻頭には、先ず皇祐の学士張擬が孫子の兵法13篇にならって囲碁の理論を13に分けて論じた『碁経』がおかれている。これらの碁経の理論は『碁経』雑説篇の「辺は角に如かず、角は腹に如かず」の2句に要約されるであろう。北宋以前の碁は辺を重視したが、北宋になって、角つまり四隅の重要性と、腹つまり中原への発展性が認識されたのである。『忘優清楽集』は、これにつゞいて三国時代の呉王孫策と呂範との対局を始めとして北宋末までの合計19譜を載せている。これらの棋戦が行われた道教寺院などについては、北宋の首都ィX京の盛時を回顧した『東京夢華録』にかなり詳しい記事があり、これを参考すると、北宋の有名な棋士である劉仲甫、晋士明、李百祥らが、当時の盛り場であり、一種の文化センターでもあった道教寺院で公開の対局をおこなった情景が彷彿としてくる。貝塚茂樹(本書緒言より)
〔本書の内容〕
緒言 囲碁史上における忘憂清楽集貝塚茂樹
解題 李致忠
解説 忘憂清楽集と中国碁法林裕
忘憂清楽集 上(「棋経」「棋訣」、棋譜19局を収録)
忘憂清楽集 中(古代の定石109図を収録)
忘憂清楽集 下(詰め物(詰め碁)37題を収録)

----引用上記まで-------


文字化けしてる部分は想像ですが、「東京開封府」だと思います。
(PC)
31 飛燕
『忘憂清楽集』というのは初耳です。驚いたのは北宋時代に、隅、そして中央重視という現代の方針が固まった、ということですね。てっきりこれは、日本の江戸時代辺りに固まったことだと思っていたのですが(汗)
でも『忘憂清楽集』読みたいですねぇ…19局分の棋譜・古代の定石・古代の詰碁…どれも非常に興味深いです。詰碁とかは僕でも解けるのかなぁ…。あと、ストラップさん、19局の棋譜には孫策対呂範以外の三国時代の棋譜は載ってませんか?
(F900iC/FOMA)
32 ストラップ
>>31
すいません。
僕もこれ自体は未読のものですので。
孫策詔呂範エキ棋局図も、他の紹介資料で見ただけですので(左興という人が編集した「囲棋故事」という本を引いたものです)。
しかし、孫策と呂範の対局を現存最古と言っていますから、この時代の棋譜とされるものは、残ってないのでしょうね。
調べたら報告します。
(PC)
33 飛燕
お願いしますね、ストラップさん。僕もできる限りで調べてみます。
(F900iC/FOMA)
34 ストラップ
補足しておきますと、孫策と呂範が碁を打つのは、「呂範伝」に書いてあります。
ですからこの四十三子の棋譜は、その記述を元に創作されたのでしょうね。
(F2102V/FOMA)
35 ストラップ
囲碁ライターの中山典之氏(プロ六段らしい)の著作「囲碁の世界」に、氏が四十三手を梶尾武雄九段の前で並べて見せたエピソードが書かれていました。梶尾九段は、「フーム、なかなかのものだと感心しておられた」という事です。この後に「技術上は折紙付き」と書かれています。
(F2102V/FOMA)
36 飛燕
>>34
プロ九段が感心するのですから、確かにすごいのでしょうね。あと、当時の碁打ちの一人に費イの名を発見。その強さを示すものとか無いですかね…
(F900iC/FOMA)
37 ストラップ
>>36
今手元に資料がある訳では無いので空覚えですが……「費イ伝」と、「諸葛カク伝」の注にあったと思います。
仕事も遊びもキッチリこなす人だったみたいですね。
(F2102V/FOMA)
38 ストラップ
>>31
「晋武帝詔王武子エキ棋局」という、司馬炎と王済の対局が
「共に八十三着分局面停」
とありました。
王済と推測される白の明らかな優勢で停めているのですが、白17が二カ所あり、黒70が欠落しているなど、誤りもあるみたいですね。


ほかにも玄宗皇帝の対局などが収録されていました。
(F2102V/FOMA)
39 飛燕
中国で開催された国際棋戦「春蘭杯」で日本勢は2回戦で全員全滅。残ったのは中国5人に韓国2人。相変わらず、強いなぁ、中国。

「絢爛棋堂話」なる本(うろ覚え)に官渡の戦いを模した詰碁がありました。黒石(袁紹軍)が辺に陣取っている白石(官渡城)を囲っている感じで、白先白活、つまりは曹操軍を全滅させるなって事です。ほかにも、高祖が蛇を斬った図や三国志関係の詰碁があったんですが忘れてしまいました(汗)本名も含めて今度はしっかり覚えてきます。

>>38
見たいんですけど、学校にはなさそうなので残念(泣)そういえば、孫策対呂範の棋譜ですが、碁界では結構有名みたいです。日本棋院の携帯サイト「碁バイルセンター」にしっかり囲碁の歴史として紹介されていました。なんか、知らぬところで三国志が有名で嬉しいかぎりです。
(F900iC/FOMA)
40 ストラップ
>>38と同じ二人の対局は、>>>67-20にも少し書いてますね。
(F2102V/FOMA)
41 ストラップ
>>38
以下、呉清源九段の解説


孫策と呂範の対局に次いで、世界で二番目の棋譜が晋の武帝と王武子の対局である。孫策、呂範と同じように、晋武帝が黒、王武子が白というわけである。
晋の武帝は囲碁の熱烈な愛好家であった。呉を討伐する上表が届いたときも、対局の最中であったという。また、王武子は王済の字。王済は才物でその多芸は世に知られていた。
腕前の方は王武子の方がはっきり強い。右上方面43・45・47は手筋である。白83までで打掛けとなっているが、白勝ちの碁形である。白はなかなか強い。
白の打ち回しはなかなか鮮やか、西晋の初代皇帝、武帝が悔しがっている様子が目に浮かぶ。
なお、原本には誤りと欠落がある。白17が二ヵ所ある。白17のところとイであるが、イに打つ必然性は無い。黒70は欠落している。ここに一着必要である。
本局は後代の『適情録』(第十巻正兵部一)に再録されている。『適情録』では、白17、黒70、ともに訂正された図と同じ。ただし、黒74までしか示していない。
(F2102V/FOMA)
42 ストラップ
とりあえず忘憂清楽集から、宋代の囲碁に関する解説をピックアップしておきました。

http://www.mojika.com/flog/archives/2006/04/4_2.html
(PC)
43 飛燕
昔に読んだ本なので不確かな情報ですが、古代の日本か中国では碁石を、線と線との交点ではなく正方形の中に置いていたそうです(オセロみたいな感じ)。また、碁盤の一番外側の線(第一線)には石は置かないのがルールだったそうです。
(F900iC/FOMA)
44 天草
私の地元で「第五回CSK杯囲碁アジア対抗戦」(大分合同新聞後援)が行われるという噂を耳にしました。

こんな大会あったんですね。

日本の緒戦は韓国で、これはビッグカードだと書かれてましたから、両方強いってことなのかな?

そもそもアジア以外でやってる国があるんだろうか?(汗)
(PC)
45 飛燕
>>44
日本は……
対韓国…1勝4敗
対中国…1勝4敗
対台湾…4勝1敗
で、優勝は3勝2敗で韓国を破った中国です。

ちなみに富士通杯という世界大会(サッカーでいうW杯)で予選を通過した日本勢は1人。他6人くらいは全員韓・中勢です。

日対韓がビッグカード、というのは優勝候補同士というより、日本のこれからを占ううえで重要な一戦、という意味だと思います。今の韓国強いですから。何たって、富士通杯9連覇中ですからね。
でも日本は弱くはないんですよ。台湾、タイ、カナダ、ヨーロッパの棋士よりずっと強い。ただ、韓国と中国が強すぎるんですね。
(F900iC/FOMA)
46 ストラップ
http://mignon.ddo.jp/assembly/mignon/go_kiri/rohan.html
に、馬融について述べられています。
(PC)
47 ストラップ
>>>380-2
>>46にあるように、馬融は囲碁の理論を書き記している様ですし、この時代は囲碁が流行していた様です。

遊戯では無く、学問として昇華しつつある時代であり、馬融はそれを学問として扱おうとした人物って事ですよね?
ならば、劉備が理論として囲碁を学んだ可能性はあると想像します。
(F2102V/FOMA)
48 ストラップ
>>47
班固は
「そもそも博はサイの目にかかっていて、必ずしも技量に技量によるものでは無い。優れた者にも不遇があり、劣った者にもぎょうこうがある(中略)(碁は)そうではない」(玄玄碁経集1より)
と考えていたようで、単なる遊戯とは捕らえていなかった様です。

>>>380-4-5
班固は政治、馬融は軍事に例えていた様です。
(F2102V/FOMA)